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イラク戦争の二の舞か?

2020.01.06.21:16

 新年早々、またアメリカがやらかしてくれたようです。例のイランの司令官殺害です。まずはロイターの記事。

焦点:イラン司令官殺害、米政府の法的根拠に疑問の声

 イランとイラクがごっちゃになっているのでわかりにくいが、イラクのアブドルマハディ首相がアメリカを非難しているのは、イランが影響力を強めつつあるイラク国内で、しかもイラク政府には無断で、イランのソレイマニ司令官殺害が行われたからです。これは明らかに国際法に違反する。この後、イラク議会が米軍の撤退を求める決議を採択したのを受けてトランプは記者団に、「仮にイラクが米軍の撤退を非友好的なやり方で要求してきたら、『いまだかつて見たこともないような制裁を科す。イランへの制裁が比較的大したものではないように見えることだろう』と強調した」(ロイターの別の記事)そうで、傲慢な「大国のエゴ」むき出しですが、元はと言えばトランプが他国の反対を無視して、イラン核合意から勝手にアメリカを離脱させて、イランを尖鋭化させたのがまずかったのです。さらにイランのイラクへの影響力云々に関しても、ブッシュ・ジュニア時代のアメリカが一方的に仕掛けた無法なあのイラク戦争(フセインという「血も涙もない独裁者」から「解放」したはずだったのに、イラクの人たちがアメリカを忌み嫌うようになったのはなぜなのか?)が原因だったと言えるので、トラブルの種を自らせっせと作り出しているのです。「おまえが一番悪いだろうが!」と言いたくなる。

 だから、「ソレイマニ司令官による差し迫った脅威」があったからとするアメリカ政府の「自己防衛」論も眉唾なので、「大量破壊兵器を隠し持っている」(実はなかった)としてイラクを攻撃したときのブッシュ政権のあれと同じではないかと疑われるのです。トランプの最大の動機は、例のウクライナ疑惑から国民の関心を逸らし、今年11月の大統領選に有利なイメージ(マッチョ崇拝の強いあの国では「敵を倒す」強さが好まれる)を作るためのアピールだったのではないかと。

 しかし、これで中東情勢がさらに悪化するのは確実です。

ソレイマニ司令官殺害でトランプ米大統領の中東戦略は支離滅裂に

 中国とロシアは、「それ見たことか!」と言わんばかりに、「アメリカの国際法違反」を非難する声明を出しています。これも「おまえらが言うな」という感じはするものの、予想どおりの展開で、商人のトランプは間違いなく「まずいディール」をしてしまったことになります。これでイランが報復し、アメリカがそれに倍する攻撃(愚かなプライドからそうしないではいられない)をイランに仕掛けることになると、厄介なことになる。イスラム過激派のテロをこれまでアメリカは一方的に非難してきましたが、この司令官殺害はテロではないと、どうやって世界を納得させられるのか? また、これで再びテロが頻発するようになったとき、それがアメリカが呼び寄せたものではないとどうして言えるのか?

 2020年が「大国の横暴」で幕開けとなったことは、幸先のよいことではありません。

主客二元思考の克服

2020.01.01.01:24

 まずは、新年明けましておめでとうございます。

 この原稿は年をまたいで書いています。正月休みに入る前から、前にちょっとここにも書いたことのあるエイリアン本が、まだ確定ではありませんが、版権が取れれば出してもらえそうな雲行きになったので、それならと、何ヶ月かぶりに訳文をいじり直していて、本文は一通り全部終わったのですが、これは読者がちゃんと読んでくれれば、自己観や世界観に根本的な変化(いわゆるパラダイム・シフト)をひき起こしそうな、深みのあるいい本だなとあらためて思うと同時に、題材からして異様で、一般的な見地からすれば「非常識」そのものなのに、大学教授が気張って書いたものだから扱いや記述が学問的すぎて難しく感じる読者が多いだろうから、売れないだろうな(笑)という感じがして、いくらか複雑な心境になりました。

 ある程度は売れてくれないと引き受けてくれた出版社に迷惑をかけてしまうので、ほんとは笑いごとではない。訳す方としても、僕は元々売れるかどうかではなく、紹介しておくべきだと思った本をえらんで訳しているのですが、経済的な余裕があってやっているわけではないので、労力比では毎回大赤字で、こんなしんどいことはそろそろ限界だなという感じです。こんなことを言うと、「それなら初めから、そんな割に合わないことしければいいじゃないか?」と言われるかもしれません。ご尤もですが、世の中にはしておきたいと思ったことが「割に合わないこと」ばかりという人間も存在するので、口幅ったい言い方をするなら、文化というものはそういう酔狂で自己犠牲(?)を厭わぬ人間が一定数いなければ衰退するのです。

 僕の仕事の場合にはジャンルもいくらか特殊で、この前は生まれ変わりの話だったし、その前は大昔、ヨーロッパ中世のキリスト教異端宗派の話で、しかもそれが半分は「霊界通信」と来ていたから、よけい悪条件が重なったのですが、今度の場合にはエイリアンによる誘拐話(大方の人には荒唐無稽に見える)なのだから、それがますますエスカレートした感じです。どれも見た目は特殊だが、人間理解、世界理解の点で普遍的なテーマを扱っていて、ふつうの人にも「関係ないように見えて実は大いに関係がある」のですが、世間の人はそうは思ってくれないから、千部、二千部売るのも大変になってしまうわけです。

 このブログの読者には、僕が別にオカルトおたくでないのは十分おわかりでしょう。政治談議でも、教育の話でも、いくらか思想的な議論でも、そこにオカルト的な要素は入れていない。学生時代から、僕はよく仲間に「おまえの頭の中は一体どうなっているんだ?」と言われました。哲学でも、政治でも、文学でも、科学や心理学、法学部の学生だからたまにはする法律論議でも、僕はふつうに正統とされる文献を読んでいて、だからそこは問題ないのですが、一軒の建物にたとえるなら、この家には「地下室」があって、そこにはオカルト的なものがあれこれ雑然と置かれていたのです。彼らはそこが不可解だと言った。

 面白いのは、上記三冊の本の著者がすべて精神科医で、近代合理主義教育を受け、いわゆる唯物的科学思想の中で育って、その方面でも優秀で、順調なキャリアを築いてきた人たちだったことです。ところが、彼らは途中で不可解なことを言う患者に遭遇する。それで持ち前の誠実さと研究心からそれを調べてゆくうちに、そのリアリティを否定できなくなって、以前の唯物論的合理主義を放棄して、新たなパラダイムを模索しなければならなくなり、その果てに全く違う世界が見えてきたことを報告することになったのです。

 僕の場合も、家の上部構造と地下室の関係がどうなっているのか、その整理統合にはそれなりに苦労しました。今はちゃんと階段がついて、自由に上と下を行き来できるようになったのですが、それはそうかんたんなことではなかった。

 しかし、なぜオカルトが出てくるのか? occult という言葉は、神秘とか超自然と訳されますが、「隠れて見えないもの」を意味し、元々それはそこに存在していたものです。ところが、文明は特定の思考様式や見方によって自然や世界を切り取るようになって、それに適合しないものは頭から否定したり、抑圧したりするようになる。だからそれは地下に潜らざるを得なくなるのですが、文明が強要するその世界観、人間観はありのままの世界や現実とイコールではなく、一面的なものにならざるを得ないので、多かれ少なかれ無理が生じます。そしてその一面的な世界観に基づく人間の活動は全体性に立脚していないがゆえに偏頗な、破壊的なものになってしまう。内面的にも、人は内部に深刻な分裂と葛藤を抱えた存在となり、それが社会に混乱や対立を生み出すのです。

 深刻な自然破壊の問題でも、利己主義的な弱肉強食的格差社会の問題でも、機能不全に陥った学校教育の問題でも、全部このことが関係する。僕は今の文明はこのままではあと百年ももたず、いずれ悲惨なことになって、人類は破滅の坂道を転げ落ちることになるだろうという暗い見通しをもっていますが、これは対症療法的な対応では防ぐことはできず、根本の考え方、今の人間の感性のありようそのものが変わらないとどうにもならないだろうと考えています。だからこそ、一面的に否定排除してしまったもの、「隠れて見えなくなっているもの」に目を向け直して、それらを取り込んだとき、どういうふうに世界の見え方が変わるか、観念としてではなく、実感を伴うそれとして、体験する必要があるのです。

 これらの本はそうした方向へ「意識を変える」手助けになる。僕はそう思って紹介しているのですが、それでも、今回のET本など、それと何の関係があるのだと思う人がいるかもしれません。ネットには「古代の宇宙人」なんてサイトもあって、この本にも先祖が宇宙からやってきた存在だったという伝承をもつブラジルの少数民族の話がでてくるのですが、興味深いのは、そういうものとは無縁に育った、物質的科学主義の総本山のようなアメリカの一般市民たちが、エイリアンとの遭遇体験を通じて、それまでの世界観、自己観を粉砕されて、一時的に大混乱に陥るが、そこから脱け出たとき、それまでとは全く違う理解を獲得して、それが古代の神秘主義やシャーマニズム、さらには禅の悟りにも似た「覚醒」を体験することが活写されていることです。ひとくちに言えば、彼らはそれを通じて失われていた自然や宇宙とのつながり・一体感と、自己の全体性を回復する。彼らの多くが環境問題に強い関心を示すようになるのも、そのためなのです。

 先の大戦後十年目に生まれた僕自身は、ものすごい山奥に育って、同じ分校に通っている同級生の中には、まだ電気が引かれていない集落の子たちもいました。そして当時は昔の習俗がまだ色濃く残っていて、明治生まれの僕の祖母などは、旧暦(太陰暦)に基づいて一年を送っていたほどです(おばあちゃんっ子だった僕は、その祖母から昔話や不思議な話をたくさん聞かされた)。当然ながら、周囲には豊かな自然があって、子供の頃の僕の感覚では、自然と自分は別のものではなくて、自分は自然の一部だという感覚がはっきりあった(カレンダーに頼らずとも、風の匂いだけで季節の推移を的確につかむことができた)。自然の中で遊んでいると通常の自意識は消え、だからくつろげて楽しかったのですが、こういうのは少数民族の暮らしと同じで、学校という窓口を通して近代文明的なものへの適応を強いられ、無理してそれに適応して、文明的なものの考え方と合理性を身につけたのですが、違和感はずっと残って、後で考えてみると、それがさっきの「地下室」をつくらなければならない理由になったのです。

 その意味で、都会生まれの人より内面の分裂が自覚されやすかったということですが、この分裂それ自体はたぶん皆に共通するもので、それが妙な息苦しさの原因ともなれば、文明の暴走の原因ともなっているのです。従って、根本にあるその分裂に気づいて、これを修復し、全体性を取り戻さないと、文明の軌道を変えることもできない。

 その手助けになりそうなことを僕はしたいのですが、成功しているとは言いがたいので、たぶん成功しないまま死ぬことになるでしょう。何十人か、あるいは何人かでも、「あれは役に立った」と言ってくれる人がいれば、もって瞑(めい)すべしです。

 ところで、さっきネットのニュースサイトを見ていたら、面白い記事がありました。

京大総長が「ゴリラは人間より偉大」と語るワケ

「21世紀に入り、人間は五感により身体で共鳴する感性と、情報を扱う脳が分かれてしまった。もともとその2つは切り離すことができないものとして人間は機能させていたんです。でも今、身体と脳の分離が始まっています」(p.2)

「人間に残された唯一の能力は、見えないものを見る力。データにないものを考える力と言っていい。人間はその力をもっと働かせるようにならないと、データに動かされる存在になってしまう」(P.3)

「人間は環境を客観視したがゆえに、自らの手で環境をいくらでもつくり変えられると思ってしまった。それゆえに地球環境は破壊され、人間自体もその環境に侵されている。もしかすると主客を分けるという考え方は間違っていたんじゃないか。主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないかと考えているんです」(p.5)

「人間がゴリラやチンパンジーと比べて、脳も大きくなって優秀になったと思うかどうか。僕は人間がそんなに優秀になったとは思わない。ゴリラの方が偉大だと思えることはある。人間はゴリラの住処を遠く離れて、南極や北極にも住めるようになった」
「でもそれで人間は幸福になったのかと言われれば、そんなに幸福になっていないですよ。地球の環境をダメにしてしまって、その責任を今取りきれないでいる。人間自体もそういう人為的な環境にどんどん侵されて、汚染され、いろんな薬が必要になり、どんどん精神的にも病んでいるのは、決して進化とは言えないと思いますね」
「それは、人間の身体を狩猟採集時代に置き去りにしたまま、知能部分だけを発達させてしまった結果だと思うんですね」(p.6)


 かなり適当に抜き出しましたが、これはむろん、オカルトとは関係のない議論で、問題とされているのは「AI社会における人間のありうべき姿」です。しかし、問題意識は僕のそれと多くの共通点をもっていて、AIは近現代文明の当然の帰結として生まれてきたものですが、人間の頭の働き方自体がAIに似てきている。情報化、言語化されていないものは存在を無視され、存在しないことにされ、自身のその基準を疑問視することもない(機械にはそんなことはできません)。人間の言葉というのは元々、そこに含みと奥行きがあって、本を読むのでもそれはその人と付き合うのと同じで、いい本なら「行間を読む」ことができなければ本当の理解はできないのですが、それをたんなる「情報」としてしか受け取らず、さらには独り合点でそこに我意を投影して、とやかく言うのが当然の権利のように思い込むに至ったのです。

 AIと違って人間には感情があるから、よけい始末に負えない。また、言葉や文章をたんなる情報として扱うようになるのと同時に、自然や人間を含めて、他者はすべてモノになってしまった。人間関係がうまく行かなくなったのもそのためで、「主客の分離」というのは、必然的に孤立したエゴイズムを生み出します。自分があって、その外側に自分以外のものがあるという見方、観念は、それ自体が自己の絶対視と、自己中心性を生み出すからです。そこには「感情」はあっても「情緒」はない。先日も、除夜の鐘がうるさいという苦情が増えて、それを取りやめるお寺が続出しているというニュースがありましたが、あの鐘の音というのは、虫の声や蛙の声と同じで、脳細胞を透過してゆくような不思議な心地よさをもつものですが、それは自分が周囲の自然と一体化し、それに溶け込むようなくつろいだ感性がもてる場合の話で、意識と言えば硬直した自意識しか知らないような人にとっては、それはたんなる侵害、騒音でしかないのでしょう(そういう人にかぎって、自分が立てる騒音には無神経なものですが、それも同じ自己中心性の産物です)。

 こういうのは控えめに言っても病気ですが、それがそろそろ臨界点に達しているのです。これは近代西洋文明がもたらした必然的な帰結と言えるので、「主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないか」という山極学長の意見に僕は完全に同意します。そもそもの話、「主客合一」的な理解の中にしか、真の自己理解も、世界理解もありえない(デカルト先生のあれは、前にも一度書いたことがあるような気がするのですが、哲学的天才には似合わぬたんなる「推論のミス」でしかありません)。僕がさっき言った「全体性の回復」というのは、それを観念のレベルではなくて、感性のレベル(山極学長の言葉で言えば「身体」レベル)で取り戻すことです。これは考え方の違いというより、それが自然の中に生まれた人間の本来のありようなので、そちらが“正しい”のです。

 うまくゆけば、半年後ぐらいには出せると思うのですが、僕が今出そうとしている「エイリアン本」の結論も、まさにそういうことなのです。これを読まれて興味をお持ちになった方は、出るときにはここでも告知しますので、ぜひお買い求めになって、出版社に損をさせてしまうのではないかという僕の懸念の払拭にご協力ください。

【付記】関係ないことですが、笑えたので一言。保釈中の日産の元会長ゴーン氏が違法にレバノンに出国していて、保釈を取り消されたというニュースがありました。何でも、木箱の中に隠れて監視の目をかいくぐったのだとか。トロイの木馬ならぬ、ゴーンの木箱です。大晦日にこのニュースとは面白いので、除夜の鐘代わりに、ゴーン、と鳴ってくれたわけです。彼のやってることを見ると煩悩それ自体なので、裁判所は罰として、彼を鐘の中に入れて、108回ゴーンと鳴らしてやるといくらかそれが浄化されて、行いが改まるかもしれません。

※ 前に「拍手ボタンもないのでは読む張り合いがない」というメールをいただいたことがあったので、年が改まったところで付けることにしました。よろしくどうぞ。

あの植村隆が韓国ジャーナリズムから「真実」ゆえに表彰された?

2019.12.24.10:52

 ネットに次のような記事が出ていました。

朝日「慰安婦誤報」で韓国から賞金100万円…植村隆記者は「光栄です」

 同じデイリー新潮のサイトには、別の「植村記事」もあり、順序としてはこちらを先に読んだ方がよさそうです。

「慰安婦誤報」の植村隆氏が韓国紙に登場 バッシングも裁判敗訴も日本の右傾化のせい

 それで後ろから見ていくと、これは有名な話ですが、発端は朝日新聞の記者時代、彼が書いた記事に明白な「誤り」があったことでした。

 そもそも、1991年8月11日に朝日新聞大阪版に掲載された植村氏の“スクープ”は、「思い出すと今も涙」という記事で、慰安婦の支援団体から入手した元慰安婦の金学順さんの証言テープをもとに執筆されたものだ。

 記事は〈日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され……〉と始まって、韓国に先駆け、韓国人元慰安婦の証言を紹介した。その後の同国の反日・慰安婦活動に火をつけたきっかけとなった。

 ところが、金さんの記事が出た後、「養父によって慰安所に売られた」と〔金さん本人が〕発言。軍によって連行されたわけではなかったことが判明し、すでに朝日新聞(2014年12月23日付)は〈この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません〉と訂正した。


 朝日新聞は、「1983年(昭和58年)以降、吉田証言を16回にわたって記事にしてきた」が、「2014年8月5日に吉田証言を虚偽と判断して、すべての記事を取り消した」とウィキペディア「吉田清治」の項にもあるように、一人の目立ちたがりの虚言症患者に振り回されて、80年代から虚偽の日本軍による「慰安婦強制連行」話を広め、韓国の反日左翼団体(とくに挺対協)の勢力拡大とその後の日韓関係の悪化に大きく“貢献”したのですが、植村氏のこの記事は、その流れに乗った「誤報」でした。

 植村氏は、「2015年(平成27年)に西岡力、櫻井よしこの両氏と関連する出版社に対して名誉棄損の裁判」を起こした(ウィキペディア「植村隆」の項)のですが、それは「捏造」だとする批判に対してであって、「23年前に自分が書いた2本の記事が『捏造』と批判され続け、その結果、家族や周辺まで攻撃が及」び、「私の人権、家族の人権、勤務先の安全を守る」ことが困難になっているということを理由としたものでした。

 要するに、ややこしいが、彼は「意図的な捏造」は行なっていないと主張したのであって、大弁護団を結成して訴えた一連の裁判(他にもある)ではそこが争われたのです。一方、客観的に見て彼の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」云々が間違いだったことは、朝日新聞自身が認めている通り明白なので、「慰安婦のことを韓国ではそういうふうに(=挺身隊と)言われている」から、「報道した内容に誤りはないと主張」(同上)するのは筋が通らないわけです。挺対協が勝手にそう誤認して、国内のみならず、世界にもその虚偽話を広め、彼らは頑固にそれを訂正しようとはしなかったのですが、だからといってそれが「誤報」ではなかったと言うのは無責任すぎる(朝日に掲載された一連の「吉田証言」関連記事が、韓国反日市民団体とメディアによってその虚偽の“補強証拠”として悪用されたのは言うまでもありません)。

 誤りはそれだけではない。ウィキペディアにはその朝日の植村記事の問題箇所も出ているので、それも見ておくと、

 日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
 尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。


 要するにこれは「挺対協」の完全な提灯記事なのですが、よく見ると、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」という箇所と、「十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」という箇所が矛盾しているわけです。だから「朝日新聞社は上記の植村の記事について、『記事の本文はこの女性の話として「だまされて慰安婦にされた」と書いています。この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。前文の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分は誤りとして、おわびして訂正します。』と謝罪記事を掲載」する羽目になったわけです。書いている本人がこのおかしさに気づかないわけはない。さらに、

 記事の元になった証言を行った金学順はアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の原告の一人であったが、裁判の訴状の中には「女子挺身隊」の名で戦場に連行されたといった記述はなく、「そこへ行けば金儲けができる」と養父に説得され、養父に連れられて中国に渡った。と記述されている。

 とあるので、註に出ている訴状に直接当たってみると、たしかにこう書かれています。

 原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。

 この訴訟が東京地裁に初めて提訴されたのが植村氏の記事と同じ年の1991年12月で、彼はこの訴状の内容を知っていたのではないかと疑われたわけですが、仮にそうでなかったとしても、記載を知った後も自分の記事の訂正は行わなかった。訴状の文面を読めばわかるとおり、彼女を「だました」のは日本軍ではなく、彼女の「養父」であったことは明らかですが、朝日の彼が書いた記事からはどう見てもそうは解釈できない。「日本軍の意図的な偽計」によってそうなったかのように書いたのです。「強制連行」とは言えないまでも、日本軍に騙されて慰安婦にされたのだと。事実は養父(当然、韓国人)が娘を売り飛ばしたのです(言うまでもなく、だから気の毒な金さんの運命への同情は不要だということにはならない)。

 確かにこれは「捏造」と言われても仕方のないような書きぶりなので、だから裁判でも敗訴したわけです。「裁判所の右傾化」のせいにはできない。要するに、植村氏は独立したジャーナリストとしての誇りをもたない、慰安婦問題を政治利用した挺対協のたんなる使い走りでしかなかったわけです。

 ところが、冒頭の記事によれば、韓国ジャーナリズムは「年に1度、真実の追求に努めたジャーナリストに与えている」名誉ある賞と賞金を植村氏に与え、その“貢献”をたたえたというのです。記事によれば、植村氏はそれを断るどころか、次のように述べてそれを有難く拝受した。

「賞の受賞は、“負けずに頑張れ”という韓国ジャーナリズム界の大きな励ましだと思います。私を応援してくれる韓国の皆さんに感謝します。この受賞をきっかけに日本と韓国のリベラル勢力の交流が一層深まることを願っております」

 僕は日本国内で植村氏に加えられたプライバシーもへちまもない激しいバッシングを見て、いくら何でも度が過ぎると思っていた人間の一人ですが、彼がジャーナリストとしてロクな裏取りもしないまま、「まとも」とは言えない記事を書き、その後も非を認めようとしなかったのは上にも見た通りたしかなので、「真実の追求に努めたジャーナリストに与えられる賞」を受賞するなどというのは、ブラックジョークとしか思えません。こういうのは、韓国ジャーナリズムが自らの偏向・虚偽報道の正当化に日本人ジャーナリストを利用しようとするいつもの動機から出たものであることは明白ですが、日本でのあのバッシングがトラウマになっていたとしても、ジャーナリストの良心に照らしてそれは受けられないと考えるのがふつうでしょう。

 しかし、彼の感覚はふつうではない。後ろの新潮記事にもこんな箇所があります。

植村:1991年8月11日、私の書いた記事は、韓国挺身隊問題対策協議会が金学順おばあさんの証言を調査しているという内容だった。争点は慰安婦に対する強制性だ。「強制的に連れていった」というおばあさんの証言だけで証拠の文書はない。だから私は報道で「強制」という言葉は使わなかった。それでも、こうした判決が出たのは、日本の裁判所が右傾化したためだ。(これ自体、支離滅裂で何を言いたいのかわかりませんが、そのまま)

「強制的」どころか「養父に連れて行かれた」のだが……。それにしても「裁判所が右傾化したから負けた」というのだから恐れ入る。たしかに親日が罪になるような韓国の裁判所であれば、植村氏に軍配が上がるかもしれない。なにしろ、慰安婦問題を客観的に論じた「帝国の慰安婦」の執筆者である朴裕河・世宗大学校日本文学科教授を、検察が虚偽だと起訴するような国である。その日本語版書き下ろし版を出版したのは、ほかならぬ朝日新聞出版なのである。

 これについて、京郷新聞の記者はこう問うのだ。〈『帝国の慰安婦』という本は、慰安婦は自発的であり、日本軍と同志的という観点の本である。そのような本を出すのは朝日が保守化したという証拠ではないか?〉

植村:朝日新聞出版の判断だろう。系列社ではあるが、金儲けのためには何でも出版するところだから。日本には朴裕河のような人を信じたい知識人もいるが、大抵はその分野には関心がない。


 これに怒った朴裕河教授はフェイスブックで反論したという話なのですが、ろくすっぽ読みもしないでこういう愚劣なことを言っているわけで、「『帝国の慰安婦』という本は、慰安婦は自発的であり、日本軍と同志的という観点の本である」と断じる京郷新聞の記者自体が悪意の曲解を行なっているのです。しかし、無責任にそれに歩調を合わせて、自分が受けた「捏造」批判以上に心ない中傷を朴教授に対して行なっているのだから呆れてしまう。こういうのを見ると、彼へのバッシングに同情していた人たちも、「おまえがやってることはそれに劣らず悪質ではないのか?」と白けてしまうでしょう。こうしてまた叩かれる原因を自ら作り出しているのです。

「この受賞をきっかけに日本と韓国のリベラル勢力の交流が一層深まることを願っております」という彼の受賞の弁は何を意味するのか? ハンギョレに再々登場する、和田春樹や山口二郎といった面々と共に、韓国側報道や歴史教育の虚偽性には一つも触れることなく、日本が安倍政権の下、「過去の歴史を反省」せず、「危険な右傾化」を続け、嫌韓と軍国化への道をひた走りしているというようなことばかり言って、いっそう日韓の対立を煽りますといった“誓い”の言葉なのでしょうか? これまでの経緯を見ると、「日本と韓国のリベラル勢力」の共闘が日韓対立深刻化の大きな原因になっていたことはたしかで、それが逆にネトウヨの勢力を拡大させ、一般日本人の「嫌韓」も強化されてしまったのですが、そういう因果関係は彼らには全く認識されていないようで、いい加減にしてくれと言っても、馬耳東風なのが悲しいところです。

 おそらくネトウヨからは、「売国奴の植村は二度と日本に戻ってくるな。韓国に帰化しろ!」といった暴言がすでに発せられているでしょう。再婚した奥さんも「太平洋戦争犠牲者遺族会で働いていた女性」で韓国人だし、現職も「韓国のカトリック大学校招聘教授」(いずれもウィキペディア)なので、実際にそうなってしまいそうですが、韓国に帰化して無茶苦茶言っているあの保坂祐二教授みたいに、韓国反日派に忠誠を誓うあまり、「反日種族主義」の権化みたいになってしまわないよう気をつけていただきたいものです。

大学入試新テスト「記述」推進者に見る“東大話法”

2019.12.21.16:15

 新しい「大学入学共通テスト」なるものは“挫折”が続いていて、英語の民間試験導入の見送りに続いて、国語と数学の記述式も見送られ、「ゼロから見直す」方針が萩生田文科相から示されたそうです。まずはよかった、受験生、という感じですが、文科省やこれを推進してきた学者先生たちの面目は丸潰れで、マスコミ報道が間違っていたからこうなったというような責任転嫁発言をしている先生もいます。以下は、「この大学入試改革を構想し、陣頭指揮を執ってきた…東京大と慶應大SFC(湘南藤沢キャンパス)の教授を務める鈴木寛氏」へのインタビュー記事です。

大学入試のマークシート偏重に識者「将来の失業者量産」危惧

 突っ込みどころ満載の記事で、ふつうの「読解力」と「リテラシー」さえあれば、高校生でもこの先生が論理の詐術にふけっているだけなのはわかるのではないかと思います。「考える力」がなくても、詐欺的なロジックを操る力さえあれば、今の東大や慶応の教授(ほんとに両方を兼務しているらしい)は務まるのかと、皮肉の一つも言いたくなります。学生がかわいそうなので、もっとマシな学者を雇った方がいいのではありませんか?(東大はこの前も、特任教授だか何だかが「不適切発言」をして騒ぎになったばかりです。)

 引用しつつ、順にコメントしていきましょう。

 マークシート試験というのは、「人から与えられた選択肢の中から、一つ一つ重箱の隅をつつくように間違いを探して、消去法で正解を選ぶ」という試験です。だから、マークシート試験の訓練をしていると、ミスや欠陥を見つけるのが速くなる。解答が1段ズレたら0点になるから正確さも求められる。これまでの工業社会では、マークシートで測れるような能力が必要とされていました。工場の生産ラインでは機械が製造をしても、製品の欠陥を見つけるのは人間の仕事だったのです。今まではそういった仕事が他にもたくさんありましたが、シンギュラリティの時代にはAIに取って代わられるのです。

 ややこじつけ気味ながら、一般論としてはそうも言えるかなという感じで、このあたりはまあいいとして、問題はここからです。

 だから、新しい学習指導要領や大学入試改革は、AIを使いこなし、AIにはできない、人間にしかできない能力をいかに身につけさせるかを主眼に置いています。また、学習指導要領でも「言語活動の充実」を掲げ、「書くこと」「読むこと」を重視してきました。にもかかわらず、“入試に関係ない”多くの高校の現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした。もちろん、東大や京大、一橋大など国立のトップ校の二次試験や、私立でも慶應大の入試では以前から記述式を導入しています。こうした大学を狙う受験生は“入試に関係ある”ので、思考力や判断力、表現力などを伸ばす勉強を熱心にしてきました。しかし、これまで国立大の約半分と慶應大以外の私大はマークシート試験のみだったのです。

 揚げ足を取るようですが、「国立大の約半分と慶應大以外の私大はマークシート試験のみ」というのは嘘で、国立で二次の学科試験があるところはふつう記述式が入っているでしょう(昔から)。私立も、今は英作文だけ記述式にしたり、下線部訳を書かせる問題を含めるなど、可能な範囲で対処している。

「“入試に関係ない”多くの高校の現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした」というのも意味が不明確で、入試に「記述式を導入して」いる「東大や京大、一橋大など国立のトップ校」や「私立でも慶應大」などを受ける生徒は、「“入試に関係ある”ので、思考力や判断力、表現力などを伸ばす勉強を熱心にしてきました」ということになっているので、文脈から判断して、それ以外のいわゆるフツーの大学を受験する生徒は「“入試に関係ない”」方にカウントされているようです。

 意地が悪いと言われるかもしれませんが、こういうふうに、東大と慶大の両方の教授を務めるというこの大先生の仰ることには、何となく論理の体裁は取っているものの、何を言っているのかをあらためて考えると、著しく明確さに欠けるところがあるのです。

 それで、“非名門”大学への進学者が多いフツーの地方の県立高校などは「“入試に関係ない”多くの高校」に入り、そうした高校の教育「現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした」という意味なのだと解釈してみましょう。この「記述・論述に力が入れられて」こなかったという言葉も、それは具体的にどういう意味なのかは不明で、どこの高校でも、教材はマーク式問題集ばかりで、定期試験もマーク式だけ、というような話は聞いたことがありません。げんに僕が塾で相手にしている高校生たちが通う学校では、ふつうに定期試験は記述式です。授業でも、マーク式の問題ばかり解いているわけではない。

 問題点は別のところにあって、試験の形式は「記述式」でも、しばしばそれが「暗記したことを書く」だけになっているのが問題なのです。塾の生徒に、英語の定期試験の範囲で疑問点があったら質問していいよと言うと、彼らは「ただの暗記ですから」と笑って言います。応用力を問うのではなく、ただ暗記したことを書かせる。そういうつまらない試験を作るのは大学入試とは無関係で、多忙なせいかどうか知りませんが、今の先生たちにはそういう工夫がないのです。

 僕の塾の授業は長文読解がメインですが、英文法や語法が弱い生徒相手に、市販テキストを教材に使って教えることがあります。それで単元ごとに確認テストを作ったから復習しておいでと言うと、彼らは学校の定期テストのときと同じ要領で丸暗記だけしてくるのです。ところが、そのテストプリントを見ると、同じ問題ではない。前にそれを見て「エグい!」と叫んだ生徒がいて、笑ったのですが、僕が見ようとしているのはやったことをただ暗記しているかどうかではなく、それを理解しているかどうかなのです。同じ問題でなくても、説明をちゃんと聞いて、それを理解し、応用できるようになっていれば解ける、そういう問題を作っているのです。そういうふうにするのが勉強というものなので、理解なしの機械的な丸暗記なんて、何の役にも立ちません。そういう勉強の仕方では駄目なのだということを、頭を使うとはどういうことなのかをおわかりいただくために試験はあるのです。今の学校は、名門高校などでは違うのでしょうが、そうはなっていないことが多い。それは大学入試のありようとは無関係です。また、記述になっていればいいというものではないので、僕が作るそれにはむろん四択問題も、並べ替えも、空所補充もあります。暗記したことを書くだけなら、記述には記述の意味がなく、逆にマークだからといって考える力が問われないということもない。形式だけ見てとやかく言うのはナンセンスに近いのです。

 とりあえず、次に進みましょう。

 そこで、記述式導入について大学入試改革では3本の柱を立てました。1本目は、国立大はすべて二次試験を記述式にする。これで国立大学はこれまで4割だった記述式試験の割合が9割にまで上がった。2本目は、私学の雄である早稲田大学が記述式に変える。そういう改革を強くお願いし、早稲田は自発的な判断で、記述式導入に留まらず、文系でも数学を必須にし、英語も4技能(読む、書く、聞く、話す)を問う試験に変えるなど、入試の大改革をしました。予備校の私大受験指導は早慶受験が基準になるので、早稲田も記述式になると予備校の指導はガラリと変わります。最後の3本目が、共通テストでの記述式導入です。

 この3本柱の内、国立大と早稲田大学の2つについてはほぼ達成できました。都市圏では早慶、地方では国立大の影響が大きいので、そうした大学に生徒を送り出す高校の学びは大きく変わるでしょう。しかし、問題はやはり早慶以外の私大です。早慶は独自に記述式試験を実施する体制も能力もありますが、他は難しい。このままだと他の私大を受ける受験生は、相変わらずマークシート向けの受験勉強をすることになる。だから、3本目の柱として、私大も利用する共通テストに記述式を導入しようとしたのです。


 おやおや。今度は自分の働きかけのおかげで、「国立大学はこれまで4割だった記述式試験の割合が9割にまで上がった」とのたまうのです(ほんまかいな)。それなら、センターに記述式を導入する必要はもうなくなったわけです。違いますか? 次も笑えます。

「2本目は、私学の雄である早稲田大学が記述式に変える。そういう改革を強くお願いし、早稲田は自発的な判断で、記述式導入に留まらず、文系でも数学を必須にし、英語も4技能(読む、書く、聞く、話す)を問う試験に変えるなど、入試の大改革をしました」

 今年の段階ではまだそうはなっていませんが、早稲田は政経で2021年度から数学を必須にすると発表しています。それのことなのでしょう。しかし、それはこれからの話だし、今のところそれは政経だけで、数学能力が必要な商学部あたりならまだしも、たとえば文学部が数学を必須にするなんてことはまずないでしょう。また、早稲田が入試を全面的に記述式にするなんて話、聞いたこともありません。受験人数の多さからして、それはまず不可能でしょう。言うことがいくらか出鱈目すぎるのではありませんか?

 ついでだから訊きますが、早稲田は条件英作文など、ごく一部に書かせる問題はあったものの、昔から記号選択方式です。低級知能パズルじみたそれを、僕の時代もウンザリしながら解かされたのです。僕は法学部でしたが、難解として悪名高かった国語の問題など、予備校によって記号問題なのに、正解とされるものがマチマチになっているケースも珍しくなくて、しばらく前の入試問題にも問題文に面白いのがあったので、ついでだから難関国立文系志望の生徒に解かせたのですが、三つの大手予備校の答が全部違う設問があって、「そんなことってあるんですか?」と生徒は驚いていましたが、どれが大学側によって正解とされているのかは謎なので、最低点スレスレの受験生だと、純然たる運が合否を分けることになるわけです(大方の設問は正解の判断も一致するので、実力のある生徒ならその程度で合否が左右されることはないでしょう。僕がやらせた生徒もよくできていました)。

 話を戻して、何を言いたいのかと言うと、僕らの世代も記述式の試験を受けていないわけですが、だからといって当時は記述能力に乏しくて、文章を書くのが苦手だなんて学生はめったにいなかったので、早稲田のOB、OGは物書きやジャーナリストがやたらと多いことからしても、「マーク式の試験で入ったから、記述能力が低い」なんて因果関係は成立していなかったわけです。いや、早稲田の学生は昔は東大落ちが多かったから、そのおかげで記述力があったのだ、なんてのは嘘で、そうでない学生も試験とは無関係に記述能力はもっていた。げんに僕は文章能力がないなんて、子供の頃から一度も言われたことがありません(だから英語や国語の場合、東大京大の記述問題にも対応できた。マーク式だからではなく、数学が苦手だからとか、科目が少なくて済むから私立にしたという学生が、今は知りませんが、昔は多かったのです)。今の受験生の記述能力が低下しているとすれば、それは別の要因によるのです。

 続けましょう。「早慶は独自に記述式試験を実施する体制も能力もありますが」と持ち上げておいた後で、「このままだと他の私大を受ける受験生は、相変わらずマークシート向けの受験勉強をすることになる。だから、3本目の柱として、私大も利用する共通テストに記述式を導入しようとしたのです」というのも論理のペテンで、それは国立受験生がスベリ止め用に受ける「センター利用」のことを言っているのでしょうが、それで入る生徒はごく僅かで、主力は大学別の個別試験(センター利用はハードルが高いので、国立の併願組でもこちらを受けることが多い)なので、新テストに記述式を入れたからといって、私立第一志望の受験生には関係がないのです。

 ここまでで、すでにして彼の論理はすべて破綻している。国立は二次に記述があるから、共通テストに記述式を入れる必要はない。私大だけ受ける生徒は、共通テストは関係ないから、それに記述を入れようがいれまいが、影響はないわけです。

 大体、前に筑駒生の記述式批判の記事を引用しておきましたが、新テストご自慢の記述式自体が、体裁が記述式になっているだけで、機械的な「当てはめ」能力を問うものでしかないのです。まさにそれこそが「AIにとって代わられる能力」なので、意味はない。記述式=考える力が問われるという図式自体が、安直かつ機械的すぎるのです。

 僕が問題だと思うのは、この程度のオツムの先生たちが入試制度いじりに暗躍しているということです。この人、東大法学部を出ているそうですが、中学レベルの数学もおぼつかないらしいのは、次の文を見てもわかります。

 大学への進学率は現在5割ですが、2割がトップとして、トップ校だけでいいとなれば(AI時代は)8割が失業することになる。しかし、共通テストに記述式を導入すれば、高校の校長たちが強くその重要性を意識し、大学受験生が学ぶすべての高校の教育が変わり、進学せずに高卒で就職する人たちも含めて恩恵を受けられる。すべてとは言いませんが、全体の8割くらいに影響が及ぶはずです。

 これ、どういう計算になっているのでしょうか? 5割のうちの2割(そう解釈しないとトップが多すぎることになる)ということは、残り5割は大学進学しないのだから、全体から見れば1割でしょう。そうすると9割は失業するということになります。次の、「大学受験生が学ぶすべての高校の教育が変わり、進学せずに高卒で就職する人たちも含めて恩恵を受けられる」というのも意味不明です。商業、工業など、大学進学者が少なく、大学受験を前提にした指導をしていない学校が、どうして大学進学共通テストの記述式の恩恵を受けるのでしょう? 公立の場合は、普通科、職業科の学校を教師が行き来するから、校長や教員の側の「意識改革」が起きて、それが全体に波及するとでも言いたいのでしょうか?

 大体、あの程度の「記述式」が何かを大きく変えることはないわけで、よくもこんな誇大妄想的なことが言えるなと感心します。その後、「採点のブレ」批判に反論を試みた箇所で、フランスのバカロレアの話が出てきますが、新テストのつまらない添え物の「記述式」と、あれは全然異質のものです(説明はネットにも出ているでしょうから、各自お調べください)。こういう緻密さゼロのお粗末な議論を得意げにしている鈴木教授があれを受験すれば、悲惨な点数になってしまうのではないでしょうか。フランスのリセには授業に哲学があって、バカロレアにも含まれているようですが、とくにそれで目も当てられないことになってしまうでしょう。

 次のこれも、感心しかねる議論です。

 それと、面白い話を聞きました。私も、最初、「バイト?」と思ったときがありました。担当者に聞いてみると、民間の模擬試験会社は何十年も模試をやってきて、様々なノウハウを持っています。これまでも、教員OBや現役の教員、大学院生、大学生のバイトを雇って長年にわたり採点をしてきたわけですが、実は、もっとも採点のブレが小さいのは、「優秀な大学の大学生」だそうです。高校の時から記述式試験のための勉強をしっかりやって難易度の高い入試を突破してきた学生ですし、教員と違って指導経験がない分、採点基準を忠実に守るそうです。高校教師は、自分が教えてきた生徒のレベルに引っ張られてしまい、採点基準で示しても、独自の基準で採点してしまう人も多いそうです。なので、バイト云々よりも選抜と研修が重要だそうです。なるほどな、と思いました。

 僕はかねて生徒たちに、「模試の採点と二次本番の採点はかなり違うよ」と言っています。記述式模試の採点基準なるものはかなり機械的です。バイトを使うとなるとマニュアル化しないといけないからで、要素としてこれとこれとこれが入っているか、とか、部分をチェックして、文章が全体としては成立していないようなものでも、そういうのが入っていればかなりの高得点がもらえるようですが、本番ではそうはいかないだろうと見ているからです。そのあたりはよくわかりませんが、「予備校の解答と全然違うんですけど」と入試後生徒が言ってくるとき、どんなふうに書いたのときいて、「君ので大丈夫だよ」とか、「それはちょっとズレすぎだね」「日本語として成立していないからまずいね」と答えたりするのですが、後で得点開示で知らせてもらった点数を聞いて、自分の見積もりに近かったということが多いので、ある程度読みは正しいかなと思っています(難易度がそう高くない大学だと、採点が甘くなって、僕の採点より得点が高く出ることが多い)。そういう意味で、僕は模試の採点を全面的には信用していないので、「この子はいい日本語書くなあ」とか、「頭が緻密で、まとめるのがうまい」とか思う生徒は、たいてい二次の成績もいいので、本番の採点の方が全体をよく見ている印象を受けるのです。

 二次の記述式の場合は、その大学の先生たちがそれぞれ心血を注いで採点業務に当たり、いわゆる「筋のいい答案」とそうでないものとを見分けて、それにふさわしい点数を与えるようかなりきめ細かく対応しているでしょう。僕自身はそういうマニュアル化が難しい点に記述問題採点の命が宿っているように思うので、マニュアル化された模試の採点を基準にしてどうのこうの言うのは説得力に乏しいと感じられるのです(50万人分の答案を相手に、高度なことは初めからできない)。

 要するに、自分の保身のために無責任な思いつきを並べ立てているだけ、というのがこの先生の言い分を読んだ僕の印象です。僕自身は、前からここでも言っているように、よけいな代わりの新テストを作るのではなく、センター試験そのものを廃止してしまえばいいと思っています。国公立も共通一次以前の大学別の個別試験だけにすればいいのです(当時は東大だけ独自の一次試験をやっていて、それは今のセンターよりずっとマシなものだった)。そうすれば、センター対策、二次対策と分けて、受験生が無駄に多忙になることも少なくて済むわけで、そちらの方がよほど合理的です。その場合、国立でも文系は理科なし、理系は社会なしという大学があってもいい。あるいはICUみたいな教科横断的な総合基礎学力テストに、重要教科だけ本格的な試験を課す、というのでもいいわけです。大学院の試験のような英語と目方のある小論文による入試も可。そこらへんは大学に大幅な裁量権を与えるのです。

 しかし、そこまでは今の状況を見るとなかなか踏み込めないでしょう。だったら、これまでのセンター試験で何が悪いのかということになるので、中途半端なおかしなことをやるより、そのままにした方がずっとマシなわけです。

 私大はマークだから駄目(私立のみ受験する生徒は将来AIにとって代わられて確実に職なしになる?)という議論についても、ものは考えようなので、彼らは受験科目が少ないから、国立受験組が多科目の勉強に追われる中、好き勝手本を読んだり、考えごとをしたり、ネットで調べ物をしたりといったこともできやすいわけです。それをすれば問題ないので、他科目の受験勉強で手いっぱいの国立受験生より、そうした活動を通じて読解力、記述力をつける機会はむしろ多くなると言えるかもしれない。

 全般に、今の高校生の読書量の少なさにはかなり驚くべきものがあるので、だから大学生も本を読まなくなっているわけです。こういう傾向はすでに90年代には歴然としていましたが、今はそれがもっとひどくなっている。それで記述力、文章力がつくわけはないので、原因は試験がマーク式だからではなく、本を読まないからです。昔の受験生は、少なくとも一定レベル以上の大学を受験する生徒は、受験とは別個にかなりの量の本を読んでいた。背伸びをして、かなり難しいものも読んでいたのです。だから試験がマークであろうと何だろうと、そんなこととは関係なく、読解力、記述力があった。

 英語に関しても、ある程度基礎ができれば、興味のある分野のペーパーバックを読んだり、対訳本を読んだりしていたので、そういうことが学力の底上げにつながった。今の時代だと、洋書は安くなっているし、インターネットで外国の新聞も読めるし、ニュース映像も見られる。Youtube で英語字幕、日本語字幕付きの良質なドキュメンタリーを視聴することもできるし、DVDでもネット配信の映画・ドラマのサイトでも、自在に字幕の切り替えが可能で、どこかのサイトに英文でメールを書けば、返事が返ってくるのです。その気になれば、スカイプ(無料)で外国人と直接会話もできる。そういうのとうまく付き合うことができれば、いわゆる「四技能」も自然に向上するでしょう。非常に恵まれた環境の中に今の子供たちはいるのに、それがほとんど活用できていないのです。

 大きな原因の一つは、今の過剰管理の学校にあります。最近は廃止するところが増えていますが、九州地区の公立普通科高校には、朝課外なんて傍迷惑なものまであって、生徒を寝不足にして学習効果を下げるだけだからやめろと言っても、まだしつこくやっているところがあるのです(九大はこれを問題視しているらしく、2009年、2018年と、二度にわたって「睡眠不足の深刻な害」を説く英文を出題した)。これに「君らはオリンピックの強化選手か?」と言いたくなるような長時間部活が加わり、宿題もどっさりということになると、他に何をする時間もなくなってしまう。夏休みなんかも、夏課外なんて有難くないものがあって、半分か、ひどい場合は三分の一に削られるのです。

 それで、学校の授業が退屈極まりないものだということになれば、生徒を無駄に疲弊させ、学力の伸長を妨げているだけということになる。最近は減っているようですが、これに教師のパワハラまで加わると最悪で、そんな学校ならない方がマシだということになってしまうのです。こういうの、センターに記述があるかないかとは何の関係もない。

 だから、鈴木教授のような、学校が大学受験指導を丸抱えするのが当然みたいな前提の議論は、それ自体が問題含みと僕には思えるのです。生徒たちにもっと自由な時間を与えるべきで、そうすれば彼らはもっと自分で工夫して勉強するすべを身につけるでしょう。今の子供たちは自由な野遊びが足りなかったことや早い時期からの塾や習い事が災いしているのか、自分で工夫するすべを知らず、何でもすぐに「どうすればいいですか?」とききます。これに加えて、学校の方は聞かれてもいないのに、ああしろ、これをやれと先走って指図するのです。しかも、しばしばそれが一貫性のない、混乱したものでしかない。それでは「自分で考える力」などつくはずがない。むしろひたすら低下するのです。今の学校は「AIにとって代わられる人材」の量産に一路邁進しているわけです。これはその下の中学、小学校も基本的に同じです。僕はわが子が小学校低学年の頃に、母親がうるさく言うので仕方なく参観授業というのに出たことがあって、そのとき見た光景から、これは「悪しき家畜化教育」以外の何物でもないなと思い、危機感を覚えたので、その影響力を殺いでわが子の「家畜化」を防ぐことにひそかに意を用いてきました。学校も親も権威視せず、野生動物らしい自由に感じ、考える能力を維持し、育てるようにしたつもりですが、概してそれは成功したように思われるのです(その結果、ものおじせず単身どこにでも出かけていく人間になったのはいいが、西洋古代史なんて、「AIにとって代わられる」以前に、この実用重視の時代にはそれ自体が消滅しかねない分野を研究する“絶滅危惧種”になってしまったのですが)。

 昔も学校は退屈なところでしたが、今ほど余計なお世話はしなかったので、そこに大きな取柄があった。「学校教員のブラック職場化」が話題になる昨今、むしろ活動を縮小するのが望ましいと言えるでしょう。学校に子供を長時間縛りつけることをやめ、基礎だけしっかり教えることに注力し、あとは聞かれた時には適切なアドバイスができるだけの情報と教養をもち、生徒に勝手に勉強させた方がいいのです。とくに英語の勉強など、先に述べたように、今のネット環境では豊富な教材があるのです。学校の刺激に乏しい下手クソな授業(失礼!)と長時間拘束のせいで、そういうことが何もできなくなってしまうというのでは本末転倒で、生徒の足を引っ張っているのと同じなのです。

 生徒や保護者も、学校に過度な期待をもちすぎるのが悪いので、勉強も自分で工夫してやるすべを学ばなければならない。それこそが「将来AIにとって代わられない」人間になる方法なのです。むやみと権威に弱くて、鈴木教授のような人の議論のインチキ性も見抜けないようでは、見通しは暗いでしょう。

 そろそろ終わりにしようかと思ったら、上のインタビューの第二弾が出ていて、これもかなり笑えたので、それに触れて終わりにします。

大学入試改革が頓挫か キーマンが明かす「抵抗勢力の正体」

 詐術的な論理がここでも全開ですが、次の箇所を見て、僕は思わず失笑しました。

 だからもう、全国規模の改革は諦めて、全国一律のセンター試験を廃止し、各大学が独自に入試を実施する方式にすればいいのではないかと思います。学習指導要領を大括り化し、センター試験をやめるという案はありました。これにも、全高長は反対。大学ごとの入試になれば生徒の個別指導をどうしていいかわからず不安だからではないでしょうか。とにかく現状からビタ一文変えさせないのです。

 前の部分は、僕がかねて言っていることと一致します。新テストの添え物「記述」に意味がないことはすでに述べたので繰り返しませんが、それなら初めから廃止に舵を切って、愚劣な折衷案など出さなければよかったわけです。適当な思いつきをベラベラしゃべる御仁(ついでですが、「ビタ一文負けない」という表現はあっても、「ビタ一文変えさせない」なんて日本語はありませんよ)なので、こういうのも「都合が悪くなったからこう言う」みたいな感じで、信用はしかねますが、彼の語り口は福島原発事故のとき安冨歩・東大教授(出身は京大ですが)が指摘された「東大話法」を改めて思い起こさせます。次のウィキペディアの記事の「東大話法規則一覧」をご覧になって、この鈴木大先生の論法がいかにそれによく一致するかをご確認ください。知的誠実さも頭脳の緻密さも持ち合わせない、この程度のセンセイたちを入試改革や教育問題に関与させるのは、もういい加減にしなければなりません。かかる無責任な制度改悪は、原発事故に劣らないほどの「教育大惨事」かもしれないのです。

東大話法

アメリカ帝国と中華帝国、どちらがマシか?

2019.12.11.17:00

 先進国であれ、発展途上国であれ、国家運営がうまく行っているところは今はほとんどないように思われますが、今後は気候変動による異常気象の多発や自然破壊の末の食糧難、フロンティア喪失による資本主義の行き詰まりなど、ネガティブな要因の重なりが予想されるので、事態が大きく好転することは望み薄です。「貧すりゃ鈍する」で、今後は経済的な行き詰まりから国家間紛争が多くなり、戦争に発展する危険も高まるでしょう。弱り目に祟り目で、大地震や火山噴火なども起き、大混乱の中でついに核戦争に突入、なんてことももはや杞憂ではない。

 二十世紀、ことにその半ば以降は、アメリカの時代でした。米ソの冷戦は、ソ連の崩壊によってあっさり片がつきましたが、これは資本主義側にもマイナス面が多かったようで、それまでは共産主義の浸透を恐れて社会主義的な施策も多く行なわれていたのが、資本主義丸出しになって、金融資本と多国籍企業のやりたい放題になり、グローバリズムを錦の御旗として、政府がその使い走りと化したアメリカでは貧富の差の拡大と同時に、産業空洞化を招いて、国力は低下しました。そこに、make America great again!を叫ぶトランプが登場し、彼はそのあたりの因果関係は全く理解していないようなので没落白人層を救うことには少しもならないと思いますが、ともかくカン違いした彼らの不満を集めて大統領に当選したわけです。

「自由と民主主義」を掲げるアメリカが、自国の世界支配の拡大のために、裏でCIAなどの諜報機関を使って他国の民主政権の転覆を図り、軍事傀儡政権を作るなどのことを平然とやっていたというのは、ノーム・チョムスキーの著作などでおなじみですが、21世紀になった今、その力に大きな陰りが見えているのは歴然としているので、代わって台頭してきたのが広大な国土と14億の人口をもつ共産党一党独裁下の中国です。もはやあの国は共産主義国家ではありませんが、「自由と民主主義」を否定する(西側諸国を見てもわかるようにそんなものは腐敗と堕落しかもたらさないのだ!)中央集権独裁国家の強みと、国民の物質的欲望には応える資本主義的なシステムをもつという点で、旧ソ連とは違う強みをもつ。

 この新・中華帝国は世界制覇の目論見をもはや隠さなくなりました。習近平の時代になってそれが顕著になってきたので、まずカネ(AIIB、アジアインフラ投資銀行なるものを作った)で手なずけて衛星国を増やし、昔の日本の「大東亜共栄圏」の拡大バージョンみたいな「一帯一路」構想を出して、自分がその盟主になり、支配権を広げて、アメリカに代わって自分が覇権を取ろうという態度を公然と示すほど自信をつけたのです。領土的野心も隠さなくなった。

 その下心が露骨に見えるようになったので、他の国々は警戒するようになりましたが、9.11以後目に余るようになったアメリカの暴走(ブッシュ・ジュニア政権下でのアフガン、イラク攻撃はいずれも国際法違反で、まともな人たちを唖然とさせた)を斟酌したとしても、中国がそれと較べて「良心的」であるかどうかには疑問符が付くので、最近のウイグル自治区問題、香港騒乱は、習近平の「中華帝国」の“体質”を見る試金石になっています。

 次のニューズウイークの記事などはかなり笑えるものです。

・ウイグル人権法案可決に激怒、「アメリカも先住民を虐殺した」と言い始めた中国

「おまえが言うな!」と中国は怒っているという話ですが、確かにアメリカは先住民に対してひどいことをした。残された先住民も相変わらずひどい仕打ちを受けているのは、昨年公開された映画『ウインド・リバー』にも描かれている通りですが、中国のこの論理は、「たしかにオレは強盗殺人をしているが、同じ前科をもつおまえに言われる筋合いはない」と言っているのと同じで、あまり説得力はない。強権によるチベット支配(そもそもそれ以前の侵略が押し込み強盗に等しかった)も同じですが、無茶苦茶なことを今現在やっていて、それを批判されると、「他にも似たようなことをやっている奴はいるのだから、オレだけ非難するな!」と真面目に言い募るのです。

 アメリカの場合にはまだしも、国内に政府を批判する自由はある。中国にはそれはないので、ネットに書いただけで、監視者に密告されて逮捕されるのです。ウイグル問題でも、国内の情報統制は徹底しているから、大方の国民は自国政府がやっていることを知らないままでしょう。香港問題も、「政府発表」しか知らされていない。歴史教育にしてからが、韓国とどっこいどっこいの「洗脳自画自賛教科書」を使って行われているのです。そこには学問の自由も、言論の自由もない。北朝鮮みたいに経済的に無能ではないというだけの話です。

 中国、韓国、北朝鮮と、思えば日本は厄介な国々ばかりを最も近い隣人としているわけですが、わが国はかつて中国を侵略して日中戦争を戦い、朝鮮半島を植民地として支配下に置いていたのだから、今のこれらの国々のありようと無関係と言うことはできない。いずれもその後にできた国家であり、体制だからです。そうでなければもっと良い国々になっていたという保証はないが、関係はあるのであって、それで恨みも残してしまったので、これは一種のカルマのようなものです。

 話を戻して、アメリカをはじめ西側先進国には、「中国はいずれ一党独裁をやめて、政治も民主化の方向に舵を切るだろう。かんたんには行かないことなので、時期を見計らっているだけだ」と楽観視する見方があったようですが、それは完全に裏切られました。ウイグル問題でも、香港問題でも、逆の統制を強めようと強引な手法を取ったことから、事態は悪化したのです。むしろ先祖返りして、昔の王朝時代の中華帝国に戻ろうとしている。

 それは時代錯誤の間違ったことだと言っても聞かないなら、世界としてはその企てが潰れるようノーと言い続けるしかない。おぞましい国と見られて、国際的に信用を失うだけだということになれば、世界制覇もクソもなくなってしまうので、行いを慎まざるを得なくなるでしょう。中国人は実利感覚には秀でた民族なので、そのあたりバランスを取ることはできるだろうと思います。今の米中経済戦争も、覇権争いの側面が濃厚ですが、分の悪い中国は落としどころを模索しているところだろうと思います。

 両者の覇権争いは今後も続くのでしょうが、アメリカも中国も猛獣です。猛獣に通常の「良心」を期待することはお門違いなので、彼らがあまり勝手なことができないように、賢く仕向けるしかない。猛獣使いとしての自覚と能力を僕らはもつように努めなければならないということですが、さしあたってはこのウイグル問題と香港問題に世界の注目が集まっていることを、中国政府にアピールし続けることでしょう。「あーっ、あんなことしてる!」と騒がれるのが、習近平政権としては一番イヤなはずです。アメリカ議会の非難決議に対するヒステリックな反応も、それをよく示している。

 ちなみに、「再教育(re-education)」という名の洗脳と拷問は、毛沢東以来の中国共産党のお家芸です。僕が高校生のとき読んだ毛沢東の伝記(著者が誰か忘れましたが、西洋人の書いたもの)は高潔善良な人柄が強調されていて、「聖人伝」のようでしたが、彼の実像はサイコパスに近かった。習近平はそれを「お手本」にしているのかもしれません。

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