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「霊言」について

2011.02.03.03:39

 過ぐる二、三日、僕は最近には珍しく集中的な読書をしました。蟻塚みたいにあちこちに積み上げられた本の山が時々雪崩を起こすことがあって、それを直しているうちに『古代インドの神秘思想』(服部正明訳 講談社現代新書)という、四半世紀も前に買った小さな本が目にとまり、それを読み返しているうちにシャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(前田専学訳 岩波文庫)を再読したくなって、どこに隠れているかわからないのでまた苦労してそれを探し出し、読み直したのです。

 シャンカラのこの本は僕の最も好きな本の一つで、何度か読んだことはあったのですが、今度は訳註まで全部細かく読んでみました。するとこの本の訳註は、思想的なすぐれた懇切な解説にもなっていることがわかり、非常に面白かったので、ついでに訳者の前田専学氏の著書も読んでみたくなり、「訳者まえがき」に出てくる『ヴェーダーンタの哲学―シャンカラを中心として』(平楽寺書店)をネットで注文しました。それは明日届くのですが、後で見てみると、たまたま僕が注文したところにだけそれが在庫としてあったらしく、他のサイトでは「入手不可」になっているので、本読みのつねとして、何か非常にトクをしたような気分になって、喜びました。

 たぶん、その本も面白いでしょう。僕はこういう本の買い方をよくする人間なので、以前も岩波文庫の『臨済録』を読んで、これは学生時代、最初読んだのは朝比奈宗源訳だったのですが、それが入矢義高訳になって、格段に明快かつ読みやすくなり、訳者その人にも強い魅力を感じたので、著書を探し求め、『自己と超越』『求道と悦楽』(共に岩波)を買って読み、それは今でも僕の大事な本になっています。残念ながら、今はどちらも絶版になっているようですが、禅関係の本で、僕にはこんなに勉強になったものはないと言えるほどなので、その方面に関心のある方にはこの二冊はお勧めです。古本屋でなら、たぶん見つかるでしょう。今の日本の仏教界や、一部の「悟り」愛好者たちには相当耳に痛いことも書かれているので、そのせいで入矢先生は敬遠された面があったのかなと思いますが。

 それで、シャンカラについて書いてみようと思ったのですが、それはまた『ヴェーダーンタの哲学』を読んでからにするとして、今回は前回に続いて、あまり“高尚”とは言えないことを書かせてもらいます。

 昼間(これをアップする時点ではもう三日ほど前のことになりますが)グーグルのニュースサイトを見ていたら、「ピックアップ」のところに、「大川きょう子氏、文春・新潮で大川隆法総裁の私生活を暴露!」という記事が出ていて、そこをクリックしたら、『やや日刊カルト新聞』という変わったサイトのものでした。Almost Daily Cult News という英語表記も付けられていて、「やや、というのはそういう意味か…」と思わず笑ってしまったのですが、いたって正常な文章だったので安心しました。サブとして「カルト集団・宗教・スピリチュアル産業の社会問題をいじる専門紙」とあって、「いじる」という表現が何とも言えない感じですが、バックナンバーを見てもたんなる悪意に基づく冷やかしではなさそうなので、早速「お気に入り」に登録させてもらいました。今の日本では、暴力団よりカルト信者の方がこわいくらいなので、こういうのはなかなか勇気がいることでしょう。

 僕も書店で立ち読みして週刊誌のその記事のことは知っていましたが、それにしても「お布施だけで年収300億」というのはすごいなと、あらためて驚きます。全員落選が確実視されていた先の衆院選など、国政選挙はたしか一人300万の供託金を納めないと立候補できず、そしてそれは法定得票数に達しないと没収されてしまうので、よくそんなことができるなと余所事ながら心配(?)していたのですが、計11億パーになってもびくともしないというのは、なるほどと思わされます。信者一人平均十万のお布施なら、信者は30万人、百万ずつなら3万人か、とつい算盤をはじいてしまいましたが、ふつうの商売ではなかなかそうかんたんに財布の紐を緩めさせることはできないから、やはり宗教というのは儲かる商売(と言えば叱られるでしょうが)なのです。おまけに宗教法人だと周知の免税特典がある。

 こういう話を読むと、自分も一つ『霊言集』でも出して教団を立ち上げようかな、などと考えてしまいます。前回ここに書いた「トキとカラスの会話」なんかも、あれは見方によっては一種の「霊言」だと言えるので、結構その方面の才能はあるかも知れないのです。古今東西のオカルト、宗教の該博(?)な知識もあるわけだから、「わしはイエスやで、みなよう聞いてや」なんて、関西弁で語るというような初歩的なミスさえしなければ(尤も、古代アラム語のニュアンスを伝えるのに最も適した日本語は関西弁である、などと強弁もできそうですが)、大成功するかも知れない。あるいは、誰か鹿爪らしい、あごひげを長く伸ばした、見た目にいかにも教祖的な人物を表に立てて、たんまり分け前をもらってそのゴーストライターとして暗躍するとか、色々考えられるのです。

 この点、クリシュナムルティなんかは利用しやすそうです。「無益な思考はやめて、私にお布施しなさい」とか、「ロード・マイトレーヤは新たな器を見つけた」とか、つまり自分がその「新たな器」だということにして、大々的に売り出すのです。これは解脱して二度と生まれ変わらないはずのお釈迦様の生まれ変わりだなどと称するよりはずっと不自然ではない、道理にかなった話に思われるのです。

 前に今は亡き高橋重敏さんにお目にかかった際、クリシュナムルティ・センターにも時々おかしな電話がかかってくることがあるという話を伺いました。“クリシュナムルティの霊”が現われて、「おまえがセンターの理事長になれ」というお告げがあったので、自分を理事長にしろ、などと言って寄越す人がいるというのです。あれは高橋さんが全部自腹でやっておられたので、当然無給だったのですが、お金がもらえる地位だと思って、その人はそんなことを言って寄越したのでしょう。高橋さんは可笑しそうにその話をしておられましたが、いわゆる「精神世界」関係の読者にはその手の人もいるのです。

 教祖その人が正気とは思われない場合も、もちろんある。なまじ「精神世界」関連本の翻訳などしたおかげで、僕はその手の人に何度か会った(というか、会わされた)ことがありますが、僕に何より不気味だったのは、ご本人もさることながら、教育もあるはずのふつうの人たちが、その支離滅裂な馬鹿げたたわごと(何の関係もない迷信話を「量子力学」と称する御仁までいるので、多少はその方面のこともかじったことのある僕はすっかりたまげてしまいました)を熱っぽい顔をして大真面目に聴いているということでした。その異常さがどうしてわからないのかが、わからない。これは非常に不気味なことです。僕は宗教家を全否定するものではないので、たとえば天理教の教祖の中山ミキさんなんかは、生きたその人に会ったわけではないので断定はできませんが、伝えられるその行跡から、人格的に非常に立派な人だったと思っています(今の天理教のことは知りませんが)。しかし、大方は精神病か神経症と中途半端でいびつな霊的能力が合体したような、不幸な人たちなのです。最初はそれほどでなくても、だんだんおかしくなってしまうケースもあるのでしょう。あるいは、確信犯的な詐欺師か、です。

 別に“伝統的な”宗教ならまともで、信用できるというわけでもない。その方面で歴史上一番有名なのは、「愛の神」の名において残虐非道のかぎりを尽くしたキリスト教のローマ・カトリックだと思いますが、わが国の仏教界なども、先の大戦の際は、「非殺生」の教えなどどこへやら、軍部に迎合して“戦意高揚に挺身”し、若者を死地に赴かせる後押しをして恥じることがなかったのです。そんなもの、信用できるはずがない。平時においても、まことに卑俗かつ利己的な宗門内の権力闘争に明け暮れて、神も仏もあったものではないというのがしばしばでしょう。体制化された組織宗教は腐敗を宿命づけられているのです(宗門に属していても、すぐれた過去の宗教家たちの多くはアウトサイダーでした)。一方、カウンター・カルチャーとして出てくる新興宗教は、しばしば信者の社会体制へのルサンチマン(怨恨)を燃料とし、最悪の場合にはオウムのような結末を迎える。なまじ「神の正義」というフィクションが与えられているがために、自己内部の社会憎悪や恐怖・不安には目くらましを食わされて、見えなくなっているのです。しかし、本当の動因は後者にある。

 宗教は人間社会の不幸が生み出したものの一つであり、同時に、この社会に新たな争いと不幸を生み出す原因の一つでもあった、と僕は思いますが、そうでない宗教というものはないのでしょうか? 神でも、真理でも、名称は何でもいいとして、それは教わるものでも、信じ込むものでも、崇拝すべきものでもなく、自ら発見すべきものではないかと、僕個人は考えています。一人ひとりがそれをする他ないのです。それは組織・団体や教祖の「仲介」を要しない。それはそこに「在る」ものであって、神学・教学を長年月かけて学ばなければ行き着けないというものではないはずです。大体、そんな知識を得たからと言って、そこに行き着ける保証は何もない。

 しかし、自ら発見したその「神」ないし「真理」がその名に値するものだと、人はどうして知るのでしょう? それはたんなる独りよがりの病的な妄想または幻覚かも知れないのです。それをどうやって弁別するのでしょう?

 それはその人の足が地に着いた生活ぶりや、接してわかるその人の意識の平明さによってかなりの程度、判断はつくと思います。無責任な受け売りは並べても、自分が何を言っているか、しているかもわかっていないような混乱した人に、そのようなことがわかる道理がありません。

 尤も、先にちょっと触れた『臨済録』には、普化なんて行状のふつうでない、とんでもなく人を食った坊さんが出てきます。この本の「勘弁」の章は、臨済に僧衣の代わりに棺桶をプレゼントされた普化が、「自分はこれに入って死ぬぞ」と呼ばわって、好奇心に駆られた町の人々をぞろぞろ引き連れて歩き、「今日はやめた、明日にする」と皆を振り回し、誰も信じなくなってついて来なくなった四日目に、町の外に出て、自分が中に入って通りがかりの人に釘を打たせた、という話で終わっています。噂を聞きつけた町の人々が先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、中はもぬけのから、「ただ空中に鈴の響きの隠隠として去るを聞くのみ」という、不可解な言葉で終わっているのです。禅版「樽のディオゲネス」なのか、臨済を補佐すべく送り込まれていた神霊の類だったのか、それは謎ですが、その間然するところのない応接の自由闊達さは、彼が病的な狂人とは異質の存在であったことを裏書しています。世の中にはニセ臨済もニセ普化もいるでしょうが、この硬直した病的な世界にあっては、正気の人間が道化の衣装を着なければならないこともあるでしょう。そこらへんが、いくらかややこしいところです。

 ここでやっと、話を「霊言」に戻します。クリシュナムルティが少年時代、知恵遅れと見まがうほどの薄ぼんやりした子供だったというのは有名な話で、大人になってもその内気で無邪気な、お人好しそのものの頼りなげな風情は残っていました。伝記作者のメアリー・ルティエンスは、率直に、「日常のKとしてのあなたを知っている者としては、あなたが教えthe teachings をつくり出しているとは信じがたい」と彼に言いました。クリシュナムルティはこれに対して、次のように答えました。

 「私が何か書こうとして座るとき、自分にはそれが生み出せるかどうか、覚束なく思うのです。…空っぽの感覚があって、それから何かがやってくるのです。…もしもそれがKだけなら―彼は無教養で、おとなしい人間です― どこから、それはやってくるのでしょう? この人物(K)がその教えを考え出したのではありません。それは―聖書にある言葉でしたか?―“revelation(天啓・神の啓示)”のようなものなのです。それが、私が講話をしている間中、起きるのです」(The Open Door邦訳『開いた扉』)

 気難しいクリシュナムルティ読者や研究者には叱られるかも知れませんが、要するにそれは「霊言」みたいなものだったということです。「空っぽの感覚a sense of vacancy」があるとき、それはどこからともなくやってくるのです。

 しかし、これもそれ自体としては別に特別なことではない。話をしたり、文章を書いたりするとき、予め何を話すか書くか、わからないで始めるというのがむしろふつうだろうからです。げんに僕自身、こうして文章を書くとき、それがどういう展開になるか、知っていたためしはありません。何か書いてみたくなるから書くのですが、それがどういうものになるかは知らないのです。わかっていれば、書く必要はない。わからないから、書く楽しみがあるのです。

 言葉はつねに「降りてくる」ものです。僕は僕なりにその「降ろす」側(と言っても、それを「実体」視しているわけではないのですが)に絶対の信頼を寄せています。自分の側が混乱していたり、おかしな具合にそれを歪めるのでなければ、直観は正しく機能してくれる。そう信じているのです。

 「降ろす」そのものが何であるかは、僕は知りません。根本的にはそれは一つだろうと思いますが、二次的三次的には複数の媒介のようなものがあるのかも知れません。しかし、僕は霊媒の類ではなく、明確な意識をもって書いているので、それが現われた段階でおかしなものはカットします。でなければ自分の書くことに責任はもてないからです。しかし、ときたま洞察めいたことが起き、何か気が利いたことが書けたとしても、それは自分の手柄ではない。それだけははっきりわかるのです。

 このメカニズムは、基本的に誰にとっても同じだろうと思います。多くの人はそれを個人に帰しますが、僕はそのようにはみなさないということです(シャンカラなら、それは「誤った付託」によると言うでしょう)。言葉やインスピレーションは、その人の内面に見合ったものしかやってこない。それはたしかでしょうが…。

 してみれば、事はクリシュナムルティにはかぎらないということです。彼にあのような言葉や教えが「やってきた」のは、彼のvacancyのおかげなので、彼の場合にはその「空っぽ」ぶりが並外れて顕著なものだったので、傍目にはそれが奇異な印象を与えた、というだけの話です。

 世の中にはいわゆる「チャネラー」と呼ばれる人たちがいて、宇宙人だの「高級霊」だのと“交信”していると主張する人たちがいますが、いくらシヴァ神だの、何とか星人だのが「語って」いると称しても、それがつまらない支離滅裂なものなら無意味だし、また、ご本人はそう称していても、潜在意識がこまぎれの知識を元に「作文」しているにすぎないとはっきり分析して指摘できる場合も、少なくはないでしょう。

 要するに、「霊言」なるものは、その中身を吟味すれば、掲げた看板にかかわらず、正体はおのずと知れるということです。いちいちそんなことを指摘して回って、「営業妨害」をしていた日には、恨みを買って命がいくつあっても足りなくなると思うので、僕自身は自重していますが、世の中が不安定になって、人心も不安になると、そういうものは増える傾向にあるので、そうしたことには気をつけられるとよろしいかと思います。

 先に述べたことが正しいとすれば、いちいち「霊言」を外に探し求めなくても、誰しも適切なそれを与えられる。それには自分の余計な問題を片付けて、クリアな意識をもてばいいだけだということになります。むろん、それがどの程度のものであるかは、僕ら個人の資質や心の状態にもよるでしょう。昔、「この程度の国民なら、この程度の政治家」と言って、世の顰蹙を買った法務大臣がいましたが、あれは正しいと思われるので、内面においても、「この程度の人物ならこの程度の理解や洞察」ということにならざるを得ないのだから、自分の分際を超えたものを望むのは初めから無理だということになりそうです。

 それでも、神(僕はむろん、あごひげをはやした神なんてものを考えているわけではありませんが)はずいぶんと思いやり深くて、気前がよさそうに、思われるのです。

人間を変えるもの/神について

2011.01.07.18:07

 インターネットの便利なところは、膨大な量のtextが無料で閲覧できるところで、場合によっては本が丸ごと一冊収められていたりするので、驚きます。そういうのは本を買った方が読むのには便利ですが、絶版の場合は助かります。
 クリシュナムルティの場合も、今は多くの講話が居ながらにして読めるので、以下にご紹介するものは、J.Krishnamurti ON LINEというサイトで読めるものの抄訳です。グーグルで、krishnamurti on god と打ち込めば、一番上にここに載せたものの原文サイトが出てくるので、原文に当たってみたいという方は、そちらをご参照下さい。
 これは1948年2月8日のボンベイでの四回目のトークだそうです。彼は1895年5月の生まれなので、満52歳のときの講話だということになります。すでに翻訳されている本のどれかに入っているのかも知れませんが、面白いと思ったので、楽しみがてら、正月休みに訳を作ってみました。途中の質疑応答の箇所を、最後のものを除き省いていますが、他はそのままです。適宜意訳をまじえていますが、内容を変えたつもりはないので、上のタイトルに関心のある方はお読み下さい。「存在の状態」という言葉がキー・ワードのように繰り返し出てくるので、その言葉に注意してお読みになるとよろしいでしょう。
 訳の後ろに、少し注釈めいたものをつけておきます。


●思想(ideas観念)は世界に変容をもたらすことはできません。それは賛否両論をひき起こして、別々の集団をつくり出し、必然的に対立と惨めさを生み出します。思想が人を根本的に変えることはないのです。それらは表面的には生活に影響を及ぼし、行動や外的な関係を変えたりはするでしょう。しかし、思想は人のありようを根本的に変えることはありません。人はそれらの思想を敵視したり受け入れたりするだけで、それによって自分自身を孤立させてしまうのです。それは新たな敵対と闘争を生み出すだけに終わります。
 存在の状態(the state of being)だけが、根本的な変化を生み出します。この存在の状態は、思想でも、たんなる説明でもありません。それは観念(思想)としての思考がやむときにのみ、現れるのです。

 精神(the mind)はわれわれ人間の問題を解決することはできません。精神は理論を、システムを、観念を案出することはできます。それは行動の異なったパターンを生み出すことはできます。それは生活を組織立てることはできます。発明し、公式化することはできます。しかし、それは人間の問題を解決することはできません。なぜなら、精神それ自体が問題だからです。真に問題とすべきは、精神が外部に自らを投影してできた問題ではありません。精神それ自体が問題と化しているのであり、それが巧んでつくり出したものが生をややこしくし、葛藤と惨めさを生み出すのです。ある思想を別の思想と置き換えたり、思想を変化させることは、思考者(the thinker)を変容させることにはなりません。

 だから、思考者それ自身が問題になっているのです。思考は修正したり、変えたりできます。しかし、思考者はそれとは別のものとして残っているのです。(本当は)思考者が思考です。それらは別のものではなく、ひとつながりの現象(a joint phenomenon)であって、分離したプロセスではありません。思考者は、状況に応じて思考を操作したり、修正したり、変えたりしますが、この行為によって、自分自身を防護するのです。絵はそのままで、額縁だけが変えられるのです。しかし、問題なのは絵であって、額縁ではありません。思考ではなくて、思考者が問題なのです。自分の思考を修正したり変えたりするこの行為は、思考者の側が行う巧妙なペテン(clever deception)で、それは彼を幻想と終わることのない誤解、葛藤へと導きます。ですから、思考者が終わるときにのみ、存在(being)があり、根源的な変容をもたらすのは、その存在の状態だけなのです。

 このこと、つまり、「思想(ideas)は人を変えることはできない、思考(thought)の修正は根源的な革命をもたらすことはない」ということを理解するのは、重要です。思考者が終わる(=いなくなる)ときにのみ、根源的な革命があるのです。あなたはどんなときに創造的な瞬間を、歓喜や美の感覚をもちますか? 思考者が不在のとき、(それに伴って)思考のプロセスがやむときだけです。そのとき、二つの思考の狭間にある(思考者も思考も存在しない)そのときに、創造的な喜びがあるのです。分離のない全一の存在(being alone)が、変容をもたらすのです。

 どのようにして思考者の終わりをもたらすか、それが私たちの次なる問題です。しかし、その問いかけ自体が間違っているのです。というのも、その問いかけをしているのは依然として思考者だからであり、それによって思考者は自分を存続させようとしているのです。思考者がこの自分の活動を自覚する(それに気づく)とき、そのときにだけ思考者は終わるのです。素晴らしい美に触れたときや、大きな悲しみの瞬間には、思考者は一時的に姿を消し、そのときだけは無限の幸福や祝福の途方もない感覚があります。永続的な革命をもたらすのはこの創造的な瞬間です。それはこの存在の状態で、その中には思考者が不在で、それが新生をもたらしてくれるのです。思考者が不在のこの静寂の中に、リアリティが姿を現します。

【ここから質疑応答になりますが、三つの質問とそれに対する返答はカットして、最後、四つ目の質問と応答だけ訳出】

 質問:あなたは決して神には言及されません。神はあなたの教えの中では場所をもたないのでしょうか?

 クリシュナムルティ:あなた方は神についてたくさん語りますね。あなた方の本はそれでいっぱいだし、教会や寺院を建て、儀式を執り行います。こうした神の追求は、あなた方の探究の浅薄さを示すものです。あなた方は神という言葉を繰り返しますが、あなた方の行いは敬虔なものではないでしょう? 神は崇拝するが、あなた方の生き方は神を恐れぬものです。あなた方は神を口にしながら、他の人々を搾取します。そして金持ちになればなるほど、多くの寺院を建設するのです。ですから、あなた方はただ神という言葉に親しんでいるだけなのです。しかし、言葉は神ではありません。言葉はそれが指す事物ではないのです。

 リアルなもの(the real)を見出すには、精神がするあれこれのおしゃべりをすべてやめねばなりません。リアリティについてのイメージは、リアリティが出現するには消えなければならないのです。未知のものが存在するには、精神はその中身、既知のものを脇にどけねばなりません。神を追求するためには、あなたは神を知らねばなりませんが、あなたが追い求めているものを知ることは、神を知ることではありません。あなたを神の追求へとつき動かしている反応は、記憶から生まれたもので、だからあなたが探し求めるものは、すでに作られたものなのです。作られたものは永遠ではありません。それは精神が作ったものです。

 書物が何もなければ、グルが一人もいなければ、儀式や他の逃避手段が何もなければ、あなた方が知るすべては、悲しみであり、ときたまの僅かな幸福にすぎません。そのときあなたは何が悲しみの原因であるかを知りたいと思うでしょう。そのときは非現実的な幻想を通じて逃避しようとは思わないでしょう。あなたは神その他を発明するかも知れませんが、もしも本当に苦しみのプロセス全体を明らかにしたいと願うなら、あなたは逃避しようとはしないでしょう。そのときあなたは何かに惑溺しようとはせず、現実にあるものに面と向き合うでしょう。そのときにだけ、あなたはリアリティがどんなものであるかを見出すのです。

 悲しみの中にある人はリアリティを見出すことはできません。それを見出すには、悲しみから自由でなければならないのです。未知であるものは、考える対象にはなりえません。あなたが考える対象は、すでに知られたものです。思考は既知のものから既知のものへと動きます。安全なものから安全なものへと、動くのです。しかし、既知のものはリアルなものではありません。

 だから、あなたが神について考えるとき、あなたは既知のものについて考えているのであって、既知のものは時間の罠の中にあるのです。リアルなものは、精神がつくり出すことをやめたときにのみ、精神が静まっているときにのみ、姿を現します。この静けさは強いてつくり出すもの、訓練や自己催眠の結果もたらされるものではありません。あらゆる問題がやんだときにのみ、静寂があります。それはそよ風がやんで静かになったプールのようなものです。ですから、精神は扇動者、思考者が終わったときに静かになるのです。思考者が終わりを迎えるためには、思考者が操る全思考が考え抜かれねばなりません〔思考を操る思考者を含めた思考の全体が徹底的に吟味されねばならないということ〕。思考に対して防壁を立てるのは無益なことです。あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければなりません。(そのようにして)精神が静まったとき、リアリティ、描写しえないものが、姿を現すのです。あなたはそれを招いて得ることはできません。それを招くことは、それを知ることです。そしてすでに知られていることは、リアルなものではないのです。精神はシンプルでなければなりません。理屈をこねたり、信念にこだわったりする重圧から解放されていなければならないのです。リアリティが出現するためには、それを探し求めてはなりません。精神とハートをかき乱す、その原因となるものを理解しなければならないのです。問題をつくり出す者が終わるとき、そのとき、静穏さがあります。その静穏さの中で、リアルなものの祝福がやってくるのです。(1948.2.8)


 以上ですが、先に申し上げたように、前半のポイントは「存在の状態」という言葉です。精神がどういう状態にあるかが問題なので、話の全体に即して理解すれば、それは「思考者のいない状態」だということは明らかです。思想が人を変えることがないと言われるのも、それは思考者(いわゆる「自己」)がそれらをつくり出しているからであり、精神には問題が解決できないというのも、思考者が精神の中心となり、それを主宰しているからです。その「状態」が変わらなければならない。
 これは、後半の「神」についての質問への応答にも、そのままつながっています。クリシュナムルティがここで reality とか、the real(リアルなもの)と言っているものが、つまりは「神」と呼ばれるものですが、それは「神とはこういうものだ」というイメージや期待とは全く別のもので、それは心理学でいう「投影」ですが、そうした投影が完全にやまないかぎり、それが姿を現すことはないということです。そして、その投影を行うものが、思考者=自己なのだから、前半で強調されていることが、そのままここにも当てはまるわけです。「精神とハートをかき乱す、その原因となるもの」とは、この「思考者」に他なりません。
 僕は前に知人(その人はクリシュナムルティとは無関係ですが)を介して、クリシュナムルティの新米読者(?)だという人に面接を求められ、仏教関係の本も読んでいるらしいその人に「思考を止める」というのはどういうことですか、という質問をされて返答に窮したことがあるのですが、無理に何も考えまいとしても、それはできない相談です。僕らの思考習慣では、あたりまえのように精神には「思考主体としての自己」がいて…ということになっています。「心を空っぽにする」と言っても、それが「雑念のない透明な自己をもつ」というイメージだと、その前提は何も変わっていないわけで、その「よい自己」を防衛するために「雑念」とたえず格闘しなければならなくなってしまうでしょう。それでは自意識と緊張をかえって強化してしまうことになるので、必要なのは「自己」対「雑念」という図式の外側に精神が出ることです。この場合も、そこにhigher self(高次の自己)という観念を新たに持ち込んで、「雑念と戦っているのは低い自己、つまり自我で、座をその自我からハイヤー・セルフにシフトしなければならない」と考え、そうできたつもりでも、それはたんなる自己欺瞞にすぎません。精神のもつれがいよいよ複雑になっただけの話で、そのハイヤー・セルフなるものはたんなる自我の“変装”にすぎないからです。
 クリシュナムルティが「idea は変化を起こすことができない」と言うのには、そのあたりのことも含まれていると思いますが、「思考者も思考の産物の一つであり、実体としてのそのようなものはない」ということがじかに感じ取られるという経験が、やはり必要なのではないかと思われるのです。
 それがあって初めて、「思考者も含めた思考の全プロセスを考え抜く(think out)」ということも可能になるわけで、この講話でも述べられているように、彼は「思考に対して防壁を立てるのは無益なこと」で、「あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければな」らないと言っているわけです。これはむろん、通常の「思考者が思考に執着する」という意味ではありません。それでは神経症かうつになってしまう。しかし、思考者ぬきでそうするなら、執着なく、それを眺め、感じ取り、必要な場合は分析する(彼はその種の分析まで否定しているわけではありません)ことはできるはずで、そのとき人はいわば「安心して」それができるのです。そうすれば「正しく考える」こともそれだけ容易になるはずです。
 なぜ「安心」できるのかと言えば、それは彼がここで言うリアリティ、「リアルなもの」への絶対的な信頼が存在するからです。人がそこから切り離されてしまったのは、「思考者」のせいです。それを“実在”視するからです。他に理由はない。
 生真面目で強迫的な人は、「あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければならない」などと言われると、どうでもいいことにまで細かくこだわって吟味しなければならないと考えるかも知れませんが、大方のことは気づくまま、取り合わずほうっておけば、そのまま消えてしまいます。実際、クリシュナムルティはそう教えている場合もあるので、その判断も自然につくようになるということです。
 「思考を止める」必要は、だからありません。いちいち「思考者」をそこに介在させなければいいだけです。そして思考者が不在のその状態が、彼の言う変容に必要な「存在の状態」です。
 エラそうにおまえが説教するなと怒る人がいるかも知れませんが、これは別に高度な悟りがどうのといった話ではないので、それ自体シンプルなことです。それでもこれが難しく感じられるのは、「思考者としての私」は少なくとも数千年の歴史をもち、人間を支配し続けてきたからです。それが文明が進んで物質的な生活条件はずっとよくなったのに、人間が変わらず不幸である、あるいはいよいよ不幸になってしまう、最大の原因です。今の時代ほど、分離的な「自己」の観念が強固なものとなり、それが大事で仕方がなくなった時代はないように思えるからです。見栄もプライドも、過剰な自己防衛心理も、全部そこから出ています。そこでは「神」崇拝も「自己」崇拝の延長として出てきます。「神を知っている」ことが、だから自慢になるのです。“謙譲の美徳”を示すためにはそのようなそぶりを見せてはいけませんが、クリシュナムルティが指摘するように、そうしたそぶりも自慢の一部なのです。あれこれ知識が増えれば増えるほど、理論が複雑になればなるほど、それだけ精神はややこしく、入り組んだものになります。それは蜘蛛が自分の巣の精緻さを競うようなものですが、蜘蛛(思考者である私)とそれが紡ぎ出す糸が増えれば増えるほど、視界は悪くなってしまうのです。しまいには蜘蛛自身が自分の吐き出す糸で混乱に陥り、身動きが取れなくなってしまうでしょう。
 蜘蛛もろとも、その巣を払ってしまえば、そこにリアルなものがあり、期せずしてその祝福(blessing)がやってくるのだ、というのが、この講話の眼目かと思います。それにどんな名前を付けて説明しても、その説明が「観念」として受け取られ、新たな投影の対象になるだけなら、かえって妨げになるだけなので、彼はそれを云々したがらなかったのではないかと思います。

(クリシュナムルティについて直接書くのはおしまい、と前に書いておきながら、しつこいようですが、僕は彼の本の出版をめぐるゴタゴタに食傷したというだけなので、今後も面白いと感じたものはこだわらず載せてゆくことにします。ちなみに、ここでは being alone を「独り在ること」ではなく、「分離のない全一の存在」と訳してみました。alone は all oneのことだとも言われているからです。「思考者」がいなくなったとき、その all one の自然な直接感受がある。ついでに、さらによけいなことを書いておくと、僕は昔、大の勉強嫌いで、ことに暗記が極端なまでに苦手だったので、英語がとりわけできませんでした。模試などでは、かぎりなく零点に近い。それで仕方なく、ふつうのやり方では憶えられそうもないので、語呂合わせの単語集の世話になったのですが、その中に absolute の面白い語呂合わせがあって、それは「虻(アブ)去ると“絶対の”安心」というものでした。「思考者」というアブが去ると「絶対の安心」が得られるかも知れません。この場合も「思考者が思考者を消す」というのはできない相談なので、それの正体を見極めることです。それが実は「ない」ものだということがわかれば、もう思考者は問題ではなくなるだろうと思うのです。)

見ることと考えること

2010.12.24.17:58

 昔、小林秀雄が本居宣長の「考える」という言葉の説明について書いた文章を読んだことがあって、「なるほど」と強く印象に残ったのですが、それがどこだったか忘れてしまいました。有名な『本居宣長』ではなかったように思うので、書棚から小林秀雄関係の本を引っ張り出して探すことにしたら、幸い二冊目でそれに行き当たりました。それは『白鳥・宣長・言葉』(文藝春秋刊)で、亡くなった年の一九八三年の九月に出された遺作集です。その中に収められた「感想」と題された文の中に、それは出てくるのです。
 小林秀雄には「感想」と題した文はいくつもあるので、一体どの「感想」なのだと聞かれるかも知れません。それは一九七八(昭和五十三)年の一月に発表された「感想」です。
 まず、そこから該当箇所を引用してみます。

●「玉勝間」に、「かむがへといふ詞」といふ一文がある。「考へる」は「むかへる」の意味だと解されてゐる。「かはいかならむ、いまだ思ひえざれども、むかへは、かれとこれとを比校(アヒムカ)へて、思ひめぐらす意」であると説かれてゐる。「か」を発語と見ていいなら、「むかふ」の「む」は「身(ミ)」の古い形だし、「かふ」は「交ふ」である。従つて、物を考へるとは、宣長によれば、「我」と「物」とが深い交はりを結ぶといふ事である。知らうとする「物」が、「人の心ばへ」とか「世の有様」とかいふ「物」であれば、人生は生きて知らねばならぬ事で充満してゐる以上、自分の言ふ「考へる」といふ働きによつて、人生と結合する道を行く他はない、と宣長は言ふわけです。(漢字は現代のものに改めた)

 要するに、「考える」は「か・むかえる」で、その「むかえる」は「身を交(まじ)える」意味だというのです。それはたんに対象を外から観察するというのとは違う。これに続けて(改行の上)、「今日の学問は、宣長の解した意味での『考へ方』から離れてゐる。いや、正しく考へる為に、対象との交はりを断つてゐる」と書かれていますが、いかにも小林秀雄の文章らしいのは、これが別に「対象の客観的観察を軽んじた」ものではないことが念押しされていることです。

 ここからは自分の解釈をまじえて勝手に書かせてもらいますが(「自由に考へる事」の大切さも強調されているので)、主観的、感傷的になるのは、「身を交える」ことではありません。それが可能になるには、小林秀雄の愛用語を使わせてもらうなら、一種の「無私」を要する。「私」がそこにいたのでは、本当に「交わる」ことはできないからです。真剣に、全身全霊をあげて「交わる」なら、「私」は逆に消えてしまう。これは真剣に何かに取り組むときのことを考えてみるなら、容易にわかることです。
 そのときには、もちろん、彼の言う「情(ココロ)」がこめられている。知情意が分裂なく、一つのものとしてそこに働いているはずだからです。そのことが「理」を厚みのある、生きたものにする。頭の先で理屈をこね回すだけで事足れりとするような安易さはなくなっている。
 この場合、「理」を放棄して「没論理」に落ち込むのも、たんなる知的怠惰または精神の弛緩にすぎないので、この先に荻生徂徠の文を引用して、「『理』を頼んで『理』を運ぶ易きにつかず、『実』を思つて、『理を精しくする難きにつくべし』」という言葉が出てきますが、「人生に於いて、豊かな『実』が『理』を凌駕するのは常だから、この、理を精しくせんとする努力の道は、極まるところがない」ということになるのです。そこに「考えること」のダイナミズムが生まれる。小林秀雄の文章の魅力は挙げてそこにあると言っていいので、そこにはたんなるレトリックにとどまらない厚みと力があるのです。

 こうした論述に従って「考えること」を再定義するなら、それは「対象と直接身を交わらせることを通じて言葉を紡ぎ出すこと」ということになるでしょう。そこにはつねに「豊かな『実』」があって、それは一面的、公式的な「理」では掬い取れないものをもっている。その困難を直接じかに感じ取りながら、なおかつ言葉にし、論理を形成して表現しようとするとき、そこに生きた言葉、論理が生まれる。
 このとき、「見る」こと、「観察」することと、「感じる」こと、「考える」ことは分離しがたい一つながりのものになっている。「見る」ことは自然に感動(センセーショナルなものではなく)をひき起こし、それが言葉を生み出すことを、表現を要請する。言葉をもつ動物である人間にとって、それは自然なことであり、そうしないと「経験」のプロセスは完了しないのです。
 しかし、僕ら現代人は、この「経験(体験)」そのものをそもそもしているのか、それが疑わしい。「『我(自己の全体)』と『物』とが深い交はりを結ぶといふ事」をせず、万事にお座なりな対応をして、「考える」と称して行うことは、空虚な現実逃避の観念論であったり、アリバイ工作に類したことであったり、卑怯な自分を防衛、合理化するための辻褄合わせの屁理屈にすぎなかったりするからです。「見る」「感じる」ことなしに、思考を機械的に操るだけだから、そうなってしまう。
 問題は、むろん、そういうことでは解決しない。そこにどうしようもない「空虚さ」があるのは、「『物』と深い交はりを結ぶといふ事」をしていないからです。理由はそれ以外にない。

 僕が小林秀雄のこの文章を思い出したのは、クリシュナムルティの「観察者のいない観察」について書いてみようとして、通常の「観察(“私”がする観察)」ではどうしてそこにある「あるがままの物の姿」が見えないのか、実際それではそれは見えないのですが、それはどうしてなのかということを考えているうちに、どういうわけだかそれが記憶の底から浮かび上がってきたのです。結論だけを言うなら、クリシュナムルティのこの言葉と、小林秀雄、宣長の言う「考へる事」について述べられたことは、別のことではありません。クリシュナムルティの語る言葉はいつも「『物』と深い交はりを結ぶ」ところから、何とかしてそれを言語化しようとするところから生まれている。彼の言葉が独特の緊張を孕み、空虚さを免れ、生きた力をもっているのはそのためです。
 「『我(自己の全体)』と『物』とが深い交はりを結ぶといふ事」をしているとき、期せずして「観察者のいない観察」は成立している。それが本当の「考えること」でもある。この二つは分離できないと、そう思ったのです。これがたんなるこじつけにすぎないかどうかは、読まれた人各自でよくお考え下さい。

お困りネットレビュアーの精神分析

2010.11.13.02:11

※ この御仁はその後しばらくおとなしくなりましたが、しばらくして「ドラゴン・ボルト」と“改名”して、またのさばり始めました。正体はここの「エヴァンジル」なので、皆さんそれはよく承知して彼のレビューは見られるとよいでしょう。

 年末に大掃除をして、新たな気分で新年を迎えるというのは、わが国の“淳風美俗”の一つです。塾商売などしていると、年明け三週目の土日にセンター試験があって、そこから大学入試戦線が本格的に始まることになるので、正月気分などというものとは無縁に近い感じで、かえってせわしないのですが、今年は秋に自分なりに“大掃除”をしといて、片付けられるものはみんな片付けてしまおうと思い立ち、ここにもそのつもりで書いた原稿が何本かあります。しかし、まだ後一つ、“ドブ掃除”が残っていて、十二月は忙しくなりそうなので、今のうちにそれも済ませておこうと思います。

 それは「『クリシュナムルティ病』について」で予告しておいた、アマゾンという電脳ジャングルに棲息する“エヴァンジル”と名乗るグロテスクな変態動物のことです。“珍獣ハンター”のイモト(僕は彼女のファンの一人ですが)でもこういうのには顔をそむけてしまうだろうと思われるので、“妖怪ハンター”の僕が代わって“退治”しておくことにします。聞けば、アマゾンのハンドルネームというのは、その気になればいくつでも取得できるそうなので、また別の名前で出てくるかも知れませんが、読者は下記に示すこの気持ちの悪い文章の特徴をよく把握しておけば、すぐに「これは奴だな」と正体が見抜けるでしょう(一番望ましいのは“改心”して善良な生物に脱皮変身を遂げることですが、僕はそれほど甘い人間ではないので、こういう性根の腐った奴はどうかな…と懐疑的です)。

 クリシュナムルティ関係の読者の間では、このエヴァンジルというのは割と有名人物で、僕はこれまで複数回、「新刊が出て、レビューが出ているなと思って見ると、『またこいつか…』とウンザリさせられるので、何とかしてもらえませんか?」と人に言われたことがあります(こういうヘンな依頼が来るというのも、『人生をどう生きますか?』という本の訳者あとがきが災いしているのです)。それは同一の人ではなく、違った人からです。彼のレビューの特徴は、それ自体ほとんど内容のないコメントか、そうでなければ中傷・悪口の類で、何のために書いているのかというその心情を忖度すると、自己顕示欲と個人的な欲求不満の暴露以外には何もなさそうだということです。それに付き合わされる方は迷惑でしかない。そういう意味での“有名さ”なのですが、ご本人にはその自覚がとんとないようで、得意満面のご様子です。この前も書いたように、事実無根の嘘を平気で書いたりもしているので、今はしかるべき手順を踏めば法廷に引っ張り出すこともでき、また僕は法学部の出身なので、弁護士に相談しなくてもそのやり方は心得ていますが、そんなまだるっこいことをするより、こちらの方が手っ取り早いので、そうした“読者の声”にもお応えして、これを書くことにしたのです。

 僕が前に、「こいつ、いっぺんボコボコにしたろか…」と思ったのは、実はクリシュナムルティではなく、グルジェフの本についての次のようなレビューを見たときです。僕はそのとき、自分の名前で表示されるアマゾンの広告サイトを見ていました。訳本の売れ行きを見ようとしてです。すると、同じコスモス・ライブラリーから出たばかりの『グルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチ』(セリム・エセル著/小林真行訳)という本が一緒に出てきました。レビューの星の数は何とたったの一つ! 誰がどういうことを書いているのだろうと思って見たら、それが例のエヴァンジルのしわざで、内容はこうだったのです。

●「本書の主張は、タイプ論からはいっていき、独自の世界観を述べていきます。しかし、本書で、実際に何かよい方向に、変化を起こすための実践的な何かがあるかというと疑問に思わざるを得ません。単に読書の楽しみとしてとらえるのが無難でしょう。/グルジェフの思想、ワーク、エクササイズについては直接の著作、講話の記録で知ることができます。「実際」とはかけ離れた記述に満ちています。/特に危険なテクニックが書いてあることもきにかかります。グルジェフはけっして教えなかったテクニックです。なぜそのようなものが書いてあるのでしょうか。なにかあったら、どのように対処すればいいのでしょうか。/どこか相談窓口でもあるのでしょうか。疑問に感じざるを得ません。/著者名が「セリム・エセル」と表記されていますが、「エセル」の元のつづりからするとフランス語の発音はアイセルです。(iのうえにトレマがあります。)フランスで活動している人の名をあえて英語発音にする必要は無いでしょう。本書はフランス語版を英語に訳したものを元にして、日本語に翻訳しているという重訳の背景がありそうです。/また漢字にカタカナのルビが振ってあるのですが、日本語の読みではなく、英語のような言葉です。たとえば「必要」に「ニーズ」とか。特にそういった専門用語があるわけではないし、必要も無いはずですし、しかも原語は英語ではないでしょう。こういったところは再考してほしいです」

 これを読むと、何か“犯罪的”な本であるかのようです。「特に危険なテクニックが書いてあるのもきにかかる」(木に掛かるのではないのでしょうから、この程度のことぐらい漢字を使いましょうね)そうで、「なにかあったら、どのように対処すればいいのでしょうか」「どこか相談窓口でもあるのでしょうか」とまで言い重ねているので、危険きわまりない本であるようです。エヴァンジル様はそれを案じて下さる!(しかし、その前に「単に読書の楽しみとしてとらえるのが無難でしょう」と書いているのは、あれは何なのですか?)
 そうして、彼はそのレビューをざっと見ても、語学書や辞書についての無内容なコメントも多く、相当な“語学おたく”のようですが、これが英語からの「重訳」であることに小躍りしたらしく、フランス語の発音を親切に教えて下さり、「あえて英語発音にする必要はない」のだと責め立てます。エヴァンジルの得意や思うべし、です。見たか! ボクだからこそ、こんなことも指摘できるんだい!
 そうして、「必要」に「ニーズ」のルビを振っているのがけしからんと息巻き、よくも下らん難癖を重ねるもんだと感心していると、急転直下「こういったところは再考してほしいです」と来る。おまえなあ…。全体として言ってることは、「こんな下らん本、オレは気に食わんから出すな!」ということだけだろ。何を「再考」するわけ? 「再考」が必要なのは、おまえの下劣な心性と頭の構造、この糞レビューそのものだろうが。
 僕はグルジェフも過去にはかなり読んだものの、この本は読んでいないので内容はわかりませんが、どこがどう悪いのかという具体的な記述がゼロなのは注目に値します。だから、これは悪意に満ちたエヴァンジルの勝手な決めつけにすぎないということも大いにありそうな話なのです。この前も書いたように、この男は僕の『既知からの自由』のレビューに「翻訳はまだ途中段階のようで、英語の単語のままになっているところが、あちこちに見受けられます」などと、とんでもない大嘘を平気で書いているのです。日本語すらロクに読めなくて、原語を付加しているのをそう思い込むほど頭が悪いのでないとすれば(別の意味で頭が悪いのははっきりしていますが)、こいつはどんな出鱈目でも恥じることなく並べ立てる奴なのです。
 だから、これは逆にいい本で、彼は自分もクリシュナムルティかグルジェフかを翻訳したくてならないのに、全くお呼びがかからないのを憎んで、その腹いせにこんなことを書いているだけなのかも知れません。しかし、そうは思われたくないので、「自分は親切で言ってやっているのだ」というところを示そうと、突然「こういったところは再考してほしいです」と付け足すのです。
 もう一本、やはり同じグルジェフ、同じコスモス・ライブラリーの本についての彼の“難癖”をご紹介しておきましょう。それは『回想のグルジェフ―ある弟子の手記』(C・S・ノット著/古川順弘訳)についてのレビューで、こうなっています。

●「内容の評価以前に、気になるところがいくつもあります。/ひとつ指摘すると、本書は翻訳権についてのパーミッションの表示がなにもありません。まだまだ著者の権利は守られなければならないのはあきらかです。/出版するという行為の、基本的なところを、しっかりしなければならないのではないでしょうか」

 「内容の評価以前に」という言い方からして、「内容」も取るに足りないと言いたげですが、「気になることがいくつもあ」るそうなので、「いくつ」あるのかと聞きたいところですが、お偉いエヴァンジル様は「ひとつ指摘する」にとどめるのです。それが「パーミッションの表示がなにも」ないということなので、この訳書はつまり、版権を無視した“違法な海賊版”であると言いたいのです。“良心の鑑”“ご意見番”であるエヴァンジル様は、「出版するという行為の、基本的なところを、しっかりしなければならないのではないでしょうか」と、グサリと痛いところをついた…つもりなのです。
 しかし、「クリシュナムルティの翻訳をやめたわけ」でもちょっと触れましたが、これは例のベルヌ条約によって版権取得なしで訳書が出せる本の一つだったのでしょう。つまり、「基本的なところ」をわきまえず、あらぬ中傷を加えているのは、エヴァンジルの方なのだということです。素人が知らないのは仕方がないが、人にエラそうなお説教を垂れるなら、それぐらい調べてから言ったらどうですかね。何も知らない読者は、こういうレビューを読まされると、「全く信用の置けない」本だと受け取ってしまうでしょう。最近は読者も賢くなって、アマゾンのレビューにはいい加減なものが少なくないことを知っているので、そのレビュアーがどんな人間なのかを確認して「参考」にするかどうかを判断するようになっているようですが、この種の虚偽は事実であるかのような印象を与えるので、非常に悪質なものだと言えます。読者はむろん、安心して買っていいのです。僕はこの本は持っていますが、訳も読みやすい、ちゃんとしたものだからです。

 先を続けましょう。この御仁、どういうわけだか「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりの熱狂的なファンでもあるらしく、彼の本に対する“絶賛レビュー”がいくつもあるのですが(クリシュナムルティと小林よしのりの関係がどうなっているのかはご本人に聞いて下さい)、とにかく「よい」「悪い」の決めつけ方が激しくて、神智学や自己啓発本(成功本)の類でも、独自の、たぶん当人にしかわからない“エヴァンジル基準”というものがあるらしく、絶賛と陰湿な悪口・冷笑の間を忙しく揺れ動いているのです。禅などでも、彼は“大家”をもって任じているらしく、お勧め本(その割には入門書的なものが多いが)をしばしば教示してくれます。比較的新しいレビューから一例を挙げると、『禅に生きる―行雲流水のごとくに』(原田雪渓著 ペンハウス)という本について、「平常是道(無門関第十九則)の話が興味深いです。他の本にも、よく書かれている『平常心是道」ですが、禅の要諦をわかりやすく言葉でしめしてくれています。よく勘違いされる単なる平常心という意味ではなく、時々刻々のその心そのものが道であることを南泉禅師と趙州禅師の話から、原田老師が解説しています。収録されている対談も、仏教の要の悟りについて、非常に明快に書かれています。禅を知るための良書です」などと書き、“悟った”エヴァンジル様から見れば、「仏教の要の悟りについて、非常に明快に書かれてい」る(例によってその部分の説明は皆無)ことが明らかなので、「おまえたち未熟な者は心して読むがよい」と親切に教えて下さっているのです。
 かと思えば、『真我の実現―「信心銘」の秘境的解釈』(真屋晶著 ブイツーソリューション)という本などは、「世界教師は私という迷妄からの離脱、覚醒を説きました。まったく逆の操作をするテクニックをおしえるなど言語道断です。そして禅の至宝『信心銘』を汚さないでいただきたい。自分で認識できていないで、未消化のまま、言葉のみをつづるということは、一体いかなる行為でしょうか。使われる言葉、文法はおなじでも伝わるものはまったく別物です。よろしく頼みます」などと、激しい弾劾を受けているのです(「文法はおなじでも」のあたり意味不明だし、最後の「よろしく頼みます」というのは、誰に何を頼んでいるのか、よくわからないのですが…)。
 さながら、“エヴァンジル、怒りの鉄拳”といったところですが、彼の素晴らしいところは、絶版になって入手不可能なものまで鵜の目鷹の目で探し出して罵倒し、「読者が危険な道に落ち込まないよう」配慮して下さるところです。実に、“慈悲のかたまり”と評すべきです。次のものなどはその例の一つでしょう。対象とされているのは、ベンジャミン・クレーム著『人類の目覚め』(石川道子訳 シェア・ジャパン出版部 尚、この本、さっき見たら再刊されているようです。エヴァンジル氏の“憂慮”にもかかわらず、しっかり再販されてしまったわけです)。

●「目覚めについては目覚めた人でなければ語れません。自分を認めてもらいたいという気持ちはわかりますが、別の霊的な『権威』に頼らないで、もっとしっかりとした地に足がついた自分自身の思想を述べるべきだと思います。認めてもらえなければ、姿も見せれないような、いじけた姿勢ではいけません。しっかりこの世界を実際的に生きて、自信をはぐくんでください」

 うーむ。エヴァンジル様は、「自分を認めてもらいたいという気持ちで」下らないレビューをあれこれ書き散らし、クリシュナムルティをはじめとする「霊的な『権威』に頼」って血の通わないエラそうな能書きを垂れ、まずいことを書きすぎているので本名は隠して、「姿も見せれないような、いじけた姿勢」に終始しているのではないかと思っていましたが、ひょっとして、違うつもりでいたのですか? やはり、“悟った”人はそのあたり、常人には窺い知れない神経をおもちのようです。
 悪いことは言わないから、一度精神科を受診しなさい。「参考資料」として、自分が書き散らした大量のレビューを持参して。鋭い精神科医なら、次のような一見何の変哲もないレビューにも、目を止めるでしょう。

●「日本では20世紀後半から、思想、理念から発想することがなくなっているのが現状ではないでしょうか。本書は、物事の本質を今一度、見直す心を刺激してくれます。でも、いまの日本で本書が良く売れているのは心強いですね。日本人全体の心が貧困になってしまう前に、この本を読んで問題意識が目覚めさせることが必要ではないでしょうか。/いかにあるべきかを突き詰めるなかから、現在の状況をどう変えていくかを考える原動力になると思います。」

 これは最近ベストセラーになっている『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学 』(マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳 早川書房)についてのレビューです。何が問題なのかって? 無意味に言葉が並んでいるだけで、内容が全くないでしょう。たぶん彼はこの本を読んでいないのです(他にもそうだろうと思われる彼のレビューはいくつもあります)。しかし、ベストセラーのところにレビューを載せれば、読者にはどんな人もいるから、「参考になった」をクリックしてくれる人もいる。それでポイントが稼げると考えたのです(しかし、哀れと言うべきか、内容のある評価の高いレビューは500もポイントを与えられているのに、われらがエヴァンジル様はまだたったの3ポイント〔「参考にならなかった」も同数〕で、増える気配もないのです)。
 彼は自分のプロフィールのところに「オヤジ」と書いています。職場では上司にも部下にも疎んじられるオヤジ、気取った無用なお説教屋として若者には毛嫌いされるタイプのオヤジであることは、こうした胸糞の悪い文章の性質からしても疑いありませんが、いい年したオヤジが、夜な夜なこういう無内容なレビューを書いて、それを自尊心の拠りどころとしようとしているというのはそれ自体異常だと、まともな精神科医ならすぐに見抜くはずです。たぶん、複数の病名と処方薬がもらえるでしょう。

 こういう“エヴァンジル様”なのですが、何と言っても彼の本領はクリシュナムルティの本に関するレビューで、最近の新刊についてのレビューは彼のものばかりです。こういうレビュアーだとわかっている人には、ほめ言葉だろうと中傷だろうと、書かれて有難いことは一つもなく、読者にしても、冒頭にも触れたように、「またこいつか…」と腹を立てる人がたくさんいるわけなので、傍迷惑以外の何ものでもないのですが、そのあたり、“気づき”というものは絶無のようです。
 しかし、そうした中でも最近の次のようなレビューは“力作”と評すべきです。

●「クリシュナムルティの最晩年の講話集です。/講話集として集大成となる本といえるのではないでしょうか。/本書は高い志を持った訳者による素晴らしい翻訳です。クリシュナムルティの言っている真意を見出すことにかけている翻訳者の姿勢が素晴らしいです。/ラディカ・ハーツバーガーによる前書きは晩年のクリシュナムルティの活動、そして色々な機会にクリシュナムルティが語ったことについての貴重な記録になっています。/仏教徒との対話のなかでは、時間の中にない正覚、完全な洞察についてなどの話は、仏教の枠を超えた普遍的な真理の追究になっています。/世界で今起きている問題、人間の思考、記憶、いかに制限された思考で人間は生きているか、それをクリシュナムルティは講話を聴いている人とともに、友人として、グルではなくて、探究していきます。/ロスアラモスでおこなわれた講話の記録は小さなパンフレットとして出されていましたが、そこで提起された問題は今につながる内容であり、この形で、本書に収録されたのはとてもよろこばしいです。/訳注、索引あとがきも充実していて、とても参考になる内容です。/あとがきにもありますが、今回の翻訳、出版には多くの人の協力あったそうです。同じ志の人々は協力し合えるということの現われですね」(『明日が変わるとき―クリシュナムルティ最後の講話』 (小早川詔・藤仲孝司訳 UNIO)

 実は、これをいち早く僕に教えてくれたのは知人のクリシュナムルティ読者です。「この最後の一文、大野さんへのあてこすりのつもりではありませんか?(笑)」という文面にくっつけて、これがメールで送られてきたのです。「大野さんはこのエヴァンジルに相当憎まれているから、この先も何が書かれるかわかりませんよ」と、彼は楽しげ(?)でした。
 たしかに、そう読めなくもない。それでは何があったのか、そろそろ全部バラしてやることにするか…と僕が思って、あの二つの文(『「クリシュナムルティ病』について」と「僕がクリシュナムルティの翻訳をやめたわけ」)を書いたとすれば、あれで困った人が出たとしても、僕の責任ではなく、“エヴァンジルがまいた種”で、エヴァンジル自身がここでこうしてまな板にのせられているのも、彼自身が仕向けたことだということになるでしょう。
 財団におかしなことを吹き込んだのも、エヴァンジル、おまえではあるまいね? いや、彼にそんな語学の実力はないと僕は見ているので、たぶんそれは別にいたのでしょう。
 それにしても、このレビューの絶賛ぶりはどうでしょう。エヴァンジル様はクリシュナムルティの訳書について書くとき、「原文の参照」を同時に読者に求めるのをつねとしていますが、どういうわけだか、この藤仲グループの訳書についてだけはそうではないようです。それほど訳が「素晴らしい」のでしょう。

 しかし、この際だから書いておきますが、僕は前に『花のように生きる―生の完全性』(横山・藤仲訳 UNIO)を買って読んだとき、著作集の第一巻が出たというので、何も知らずに大喜びで取り寄せたのですが、その訳文とおかしな「訳註」には閉口させられたのです。
 訳は冒頭の二行目で、早くもつまづいてしまった。

 「たとえば、誰かがあなたにここの景色について話していたとするなら、あなたはその叙述により、精神を用意してやってくるでしょう。そのときおそらく、真実によって失望するでしょう。」

 何とまあ…。これでも日本語のつもりなのかと呆れて、僕はそれ以上読む気が失せてしまったのです。こういうおかしな文章を読まされるくらいなら、僕は原書を読みます。訳註も、「そんなこといちいち…」と思わされるものが少なくなくて、他者の訳語を嫌味な感じであげつらいながらするその妙にネチこい細かさには、偏執狂的な不気味ささえ感じたほどでした(これが誇張だと思う人は、たとえばp.509のactuallyについての註や、p.511~2のnothingnessについての註をご覧になるといいのです)。笑ったのは、Lord Maitreyaを高橋重敏さんの伝記の訳等では「ロード・マイトレーヤ」とそのままカタカナ表記にしてあるのは「日本語読者にとっては本来的な意味は何も無い上に、『道路road』などとの誤解さえありうるから、『主マイトレーヤ』とすべきである」などと大真面目に書かれていることで、ここまで来れば病気みたいなものだなと思わざるを得なかったのです。どうでもいいだろうが、そんなことは…。人気ファンタジー映画の『ロード・オブ・ザ・リング』を『指輪の道路』とカン違いしたとすれば、それは笑い話で終わるでしょう。そんなことをネチネチ書いているヒマがあったら、「その叙述により、精神を用意してやってくるでしょう」なんて、意味不明の日本語の方を先に何とかしてもらいたいんだけど。
 実は、高橋さんが「彼は頑固でねえ…」と苦笑しておられたのは、この藤仲氏のことなので、あれはこういうことだったのかと、そのとき初めて思い当たった僕は、以後藤仲その他訳はご免こうむることにしたのです。当然この本も買っていないのですが、エヴァンジル様とはそのあたり、気質的に波長が合うところがあって、それでこういう絶賛を浴びることになるのかなとも思われるのです(藤仲氏の名誉のために付け加えておけば、彼は虚偽をそれと知りつつ言い立てるエヴァンジルみたいな卑劣な真似はしないでしょうが)。
 そのあたり、今回の訳ではどうなっているのか。「訳注、索引あとがきも充実していて、とても参考になる内容です」というのは、そうした偏執狂的なネチネチぶりがまた発揮されているのではないかと、僕などは逆に心配になるのです。エヴァンジルではなくて、他のもっとまともな読者に書いてもらいたいものです。それを見て、ほんとによさそうだと思ったら、僕も買うことにするでしょう。

 エヴァンジル様のレビューには、この他にも面白い特徴が色々あって、大野純一氏などは、あるところでは「この翻訳にはニュアンスというよりも意味のレベルで、同様のぶれがあるように感じます。かなり恣意的な訳が多いという指摘は、以前からさまざまなひとから、されています。そういったことを認識した上で、本当に書かれていることに興味がある人、理解したい人は、この翻訳書を購入したうえでさらに、原本を取り寄せて、原文をもとに要点をはあくしながら読むのがお勧めです」(『生と覚醒のコメンタリー』のレビュー)と、「他の人たちもそう言ってるんだから」と「さまざまなひと」を味方につけながら非難されているかと思えば、別のところでは「日本のクリシュナムルティ解説の第一人者、大野純一先生」と“先生”付で言及されているという始末(織田淳太郎著『ルポ 現代のスピリチュアリズム』宝島社新書)で、一体おまえは何を言いたいのだと、両方読まされた読者は思うでしょうが、「訳は問題があるが、解説はよいのだ」と言いたいのかも知れません。
 ほんとにそうかも知れないので、絶版になっている『真理の種子』のレビューなどでは「よくまとまった訳者あとがきが参考になります。クリシュナムルティと本書の背景について真剣な論述がされています」と賞賛されているのです。
 ところが、皮肉なのは、この「参考になる」と言われている訳者あとがきの中に、この前僕が「有害無益なたわごと」でしかないとして『「クリシュナムルティ病』について」で酷評した、あのウッドハウスの引用が全体の約三分の一を占めるものとして入っていることです(その本では「ウォードハウス」と表記されていますが)。大野純一氏はまさかこのエヴァンジルのレビューを見て喜び、それを“復活”させたのではないでしょうが、こんな奴の言うことを真に受けるとロクなことにはならないという証明みたいなものです。

 ついでだから、いずれもエヴァンジルがレビューを書いている最近の二つの訳書、『英知へのターニングポイント―思考のネットワークを超えて』(渡辺充訳 彩雲出版)と、『クリシュナムルティのノートブック』(中野多一郎訳 たま出版)についても言及しておくと、前者は『思考のネットワーク』の再刊らしいので、僕は前のをもっているから、これが明快な読みやすい訳文なのは、請け合えます。訳者の渡辺さんはボームとの対談集、The Ending of Timeを読み込んでいて、その翻訳を計画しておられると、ずいぶん前に噂で聞いたことがあるので、僕はずっとそれが出るのを楽しみにしているのです。この本は「訳書が出ていない重要著作」の一つなので、ぜひおやり下さい。渡辺さんの訳なら読みやすいものになるはずだと期待しています。
 『クリシュナムルティのノートブック』については、エヴァンジルはいつもの鬼の首でも取ったような勢いで“誤訳”を指摘していますが、僕はこれを買ったという知人の一人から、「文体がちょっと…」というメールをもらいました。あれは翻訳の難しい本の一つであるのは間違いないので、訳者に同情して、これだけにとどめます。

 さて、すでに長くなりすぎたので、今回の“エヴァンジル叩き”はこれまでにします。余った材料はストックしておいて、彼がまた懲りずにあることないこと、有害無益なレビューを書き散らし続けるときに第二弾、第三弾として書くことにしましょう(あっと驚く“隠し玉”も、僕はまだもっているのだということをエヴァンジルは覚えておくとよいでしょう)。何にせよ、彼のレビューは、僕がここにこうして書くまでもなく、その反応の悪さからして「もうおまえは書くなよ」と言われているのと同じことになっているのだから、それを自覚して、さっさと引っ込めばいいのです。無益な時間潰しにうつつを抜かさず、「しっかりこの世界を実際的に生きて、自信をはぐく」むよう、努めることです。クリシュナムルティを読んで、このような腐った人間になるとは、何たることかと、Kもあの世で憂い顔をしているでしょう。その程度の“気づき”はもつがいいのです。

 これで、僕のクリシュナムルティ関係の“年末大掃除”は終わりです。ずいぶんスッキリしたので、たぶん僕は何かの外的必要性にでも迫られないかぎり、彼について直接書くことはもうないでしょう。後は皆さんでよろしくおやり下さい。一連の文で問題提起はいくつかさせてもらったつもりなので、それが活かされることを、僕は希望しています。全然そうならなくても、それは僕の与り知らないことなので、とやかく言う気はありませんが、多少はクリシュナムルティ紹介の環境改善に役立つことも書かれているだろうと、自分では思っているので、それを活かしていただきたいのです。

 それでは(ちょっと早めですが)、クリシュナムルティ読者・研究者の皆さん、よい新年をお迎え下さい。

※ 後註 このエヴァンジル様は、この記事のせいで悪評が立ったせいか、その後「ドラゴン・ボルト」と改名なさったようです。♪ 違う名前で出ています(今の人は知らないでしょうが、これは大昔ヒットした小林旭の歌の歌詞のもじりです)。
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