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韓国の人たちは『帝国の慰安婦』の何に怒っているのか?

2015.12.10.22:00

 延岡の本屋には見当たらなかったので、日本語版をネットで取り寄せて読みました。

 僕には予想したとおり、よく目配りの利いた良書と感じられましたが、この本を読了するには(斜め読みやつまみ食いなら別として)、けっこうパワーがいります。引用された多くの慰安婦の証言など、心が痛まずにはすまないし、問題の性質上、議論はかなり入り組んだものになっているからです。

 最近になって韓国マスコミは相次いで検察批判を始めたようですが、それは「司法ではなく、学界の批判に委ねるべし」というもので、本の内容に関しては「あまり感心できない」というニュアンスのものが多いようです。

 昨日は同書に批判的な韓国の学者たちが記者会見し、「今回の起訴は学問の自由への弾圧には当たらない」と述べたという、次のような共同通信の記事もありました。

【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」の著者、朴裕河・世宗大教授が名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴されたことをめぐり、同書を批判する学者らが9日、ソウルで記者会見した。学者らは「原則として法的に刑事責任を問うのは適切でない」としつつも、今回の起訴が学問の自由への弾圧だという批判は当たらないという考えを示した。
 金昌禄慶北大教授は、起訴は国家権力が直接特定の人物を狙い撃ちしたのではなく、元慰安婦の告訴に基づくものだと強調。李信※(※=サンズイに徹のツクリ)成均館大教授は「なぜ起訴するに至ったのか十分に理解し、共感している」と語った。
 会見場には告訴した元慰安婦の柳喜男さん(87)が訪れ、「韓国は法治国家なのに、知識(学問)の自由があるからと勝手なことを言っていいのか。公正に法により審判すべきだ」と訴える一幕もあった。(2015/12/09-17:58)


 どうもよくわからないなと、僕はこの本を読んだ上で思うのですが、それは大方の日本人も同じでしょう。「法的に刑事責任を問うのは適切でない」のであれば、それはやるべきではないので、にもかかわらず今回の場合は「学問の自由への弾圧」でないというのはどういう意味なのか、「韓国独特の論理」だと言われても仕方はないように思います。

 要するに、それだけこの本には韓国内での感情的反発が強く、日本では賞讃の声が多い(左右両極端の人たちからは、それぞれの思惑には合致しないというので非難されていますが)からなおさら腹立たしく感じられるということなのでしょう。しかし、真面目な研究書の内容に関して著者を刑事告訴するというのは、「それでも近代国家か!」という海外からの非難を招く恐れがあって、外聞が悪いから「適切でない」と言わざるを得ないが、感情的にはそれを支持したくなるから、こういう摩訶不思議な言い方になるのかもしれません。

 しかし、この本がどうして「慰安婦の名誉を傷つけた」ことになるのか、多くの書評にもあるように、これは「日本の責任を明確に認めた」ものでもあるし、僕らふつうの日本人にはそうした反応は理解しがたいところがあります。この本を読んで朝鮮人慰安婦の人たちに侮蔑心をもったというような人は、少なくともまともな読解力をもつ人であるかぎり、一人もいないでしょう。むしろそれは読む側をして厳粛な気分にさせるものなのです。

 なのに、一体どうして…と僕には不可解そのものでしたが、どういうところが韓国ではそんなにけしからんと思われているのか、それを知りたいと思って、日本語のものしか読めませんが、インターネットであれこれ批判したものを読んでいたら、拒否感情に理屈がついた感じのもの(そういうものほど過度なまでに「論理的」な外観を装っているのは興味深い)が多かったのですが、ある方のブログに次のような韓国学者たちの声明文が紹介されているのを見つけました。これは僕が読んだ中では一番理性的で、落ち着いた、読むに値するものでしたが、日本のマスコミには出ていないようなので、ここに引用させていただきます。「おきく’s第3波フェミニズム」と題された菊地夏野さんという方のブログで、紹介文からして只者とは思えなかったので、調べてみると名古屋市立大学の先生でした。


『帝国の慰安婦』事態に対する立場

 日本軍「慰安婦」問題について深く考えこの問題の正当な解決のために努力してきた私たちは、朴裕河教授の『帝国の慰安婦』に関連する一連の事態に対して実に遺憾に思っています。

 2013年に出版された『帝国の慰安婦』に関連して、2014年6月に日本軍「慰安婦」被害者9 名が朴裕河教授を名誉毀損の疑いで韓国検察に告訴し、去る11月18日に朴裕河教授が在宅起訴されました。これに対し、韓国の一部の学界や言論界から学問と表現の自由に対する抑圧であるという憂慮の声が出ており、日本では11月26日に日本とアメリカの知識人54名が抗議声明を発表しました。

 私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、私たちは学問の自由と表現の自由という観点からのみ『帝国の慰安婦』に関する一連の事態にアプローチする態度については深く憂慮せざるをえません。日本軍「慰安婦」問題が日本の国家機関の関与のもと本人の意思に反して連行された女性たちに「性奴隷」になることを強いた、極めて反人道的かつ醜悪な犯罪行為に関するものであるという事実、その犯罪行為によって実に深刻な人権侵害を受けた被害者たちが今この瞬間にも終わることのない苦痛に耐えながら生きているという事実こそが、何よりも深刻に認識されなければなりません。

 その犯罪行為について日本は今、国家的次元で謝罪と賠償をし歴史教育をしなければならないということが国際社会の法的常識です。しかし、日本政府は1965年にはその存在自体を認めなかったため議論さえ行われなかった問題について1965年に解決されたと強弁する不条理に固執しています。日本軍「慰安婦」被害者たちはその不条理に対し毎週水曜日にすでに1200回以上も「水曜デモ」を開催しており、高齢の身をおして全世界を回りながら「正義の解決」を切実に訴えています。私たちは、これらの重い事実を度外視した研究は決して学問的でありえないと考えます。

 私たちは、『帝国の慰安婦』が事実関係、論点の理解、論拠の提示、叙述の均衡、論理の一貫性などさまざまな面において多くの問題を孕んだ本であると思います。既存の研究成果や国際社会の法的常識によって確認されたように、日本軍「慰安婦」問題の核心は日本という国家の責任です。それにもかかわらず『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいています。法的な争点に対する理解の水準はきわめて低いのに比べて、主張の水位はあまりにも高いものです。充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません。このように、私たちは『帝国の慰安婦』が充分な学問的裏付けのない叙述によって被害者たちに苦痛を与える本であると判断します。ゆえに、私たちは日本の知識社会が「多様性」を全面に押し出して『帝国の慰安婦』を積極的に評価しているという事実に接して、果たしてその評価が厳密な学問的検討を経たものなのかについて実に多くの疑問を持たざるをえません。

 私たちは、この事態を何よりも学問的な議論の中で解決しなければならないと考えます。韓国と日本と世界の研究者たちが問題について議論し、その議論の中で問題の実態を確認し解決方法を見つけるために、ともに知恵を出し合うことが必要であると思います。そこで、私たちは研究者たちが主体になる長期的かつ持続的な議論の場を作ることを提案します。また、その一環として、まず朴裕河教授や『帝国の慰安婦』を支持する研究者たちに、可能な限り近いうちに公開討論を開催することを提案します。

 最後に、私たちは名誉棄損に対する損害賠償請求と告訴という法的な手段に訴えねばならなかった日本軍「慰安婦」被害者らの痛みを深く反芻し、日本軍「慰安婦」被害者たちにさらなる苦痛を与えるこのような事態に陥るまで私たちの思考と努力が果たして十分であったのかどうか深く反省します。また、外交的・政治的・社会的な現実によってではなく、正義の女神の秤が正に水平になるような方法で日本軍「慰安婦」問題が解決されるよう、更なる努力を重ねていくことを誓います。

2015.12.2.

日本軍「慰安婦」被害者たちの痛みに深く共感し
「慰安婦」問題の正当な解決のために活動する研究者・活動家一同

(1次署名者71名)
ユン・ジョンオク(元梨花女子大学)、チョン・ジンソン(ソウル大学)、ヤン・ヒョナ(ソウル大学)、キム・チャンロク(慶北大学校)、イ・ジェスン(建国大学校)、ジョ・シヨン(建国大学校)、イ・ナヨン(中央大学校)、イ・シンチョル(成均館大学校東アジア歴史研究所)、カン・ソクチュ(ソウル大学校)、カン・ソンヒョン(聖公会大学校)、カン・ジョンスク(成均館大学校)、コン・ジュンファン(ソウル大学校)、クァク・キビョン(ソウル大学校)、クォン・ウネ(東国大学校)、キム・キョソン(中央大学校)、キム・ギオク(漢城大学校)、キン・ミョンヒ(聖公会大学校)、キム・ミラン(聖公会大学校)、キム・ミンファン(聖公会大学校)、金富子(東京外国語大学)、キム・ウンギョン(放送通信大学校)、キム・ユンジョン(歴史学研究所)、キム・ジナ(ソウル大学校)、キム・ヘジョン(全北大学校)、ド・ジンスン(昌原大学校)、パク・ノジャ(Vladimir Tikhonov, Oslo University)、パク・ジョンエ(東国大学校)、パク・ジンギョン(仁川大学校)、パク・ヘスン((社)韓国軍事問題)、ペ・ギョンシク(歴史問題研究所)、ペ・ウンギョン(ソウル大学校)、ペク・シジン(中央大学校)、ペク・ジェエ(ソウル大学校)、ペク・ジョヨン(中央大学校)、ソン・チャンソプ(放送通信大学校)、シン・グリナ(ソウル大学校)、シン・ヘス(梨花女子大学校)、シン・ヘスク(ソウル大学校)、オ・ドンソク(亞洲大学校)、オ・スンウン(漢陽大学校)、ユン・ギョンウォン(東アジア社会文化フォーラム)、ユン・テウォン(ソウル大学校奎章閣韓国学研究院)、ユン・ミョンスク(忠南大学校)、イ・キョンス(中央大学校)、イ・キョンジュ(仁荷大学校)、イ・ミナ(中央大学校)、イ・ドンキ(江陵原州大学校)、イ・ミョンウォン(慶熙大学校)、イ・ヨンスク(一橋大学)、イ・ジョンウォン(聖公会大学校)、イ・ジウォン(大林大学校)、イトー・ターリ(パフォーマンス・アーティスト)、板垣竜太(同志社大学)、イ・ハヨン(中央大学校)、イム・ギョンファ(延世大学校)、イム・ジョンミョン(全南大学校)、イム・ジヒョン(西江大学校)、ジョン・ガプセン(ソウル大学校アジア研究所)、ジョン・ミョンヒョク(東国大学校)、ジョン・ミレ(性売買問題解決のための全国連帯)、ジョン・イリョン(西江大学校)、ジョン・スルギ(中央大学校)、ジョン・ヒョンジュ(梨花女子大学校)、ジョン・ヒョンヒ(ソウル大学校)、チ・ナオミ(北海道大学)、チェ・ジョンギル(高麗大学校グローバル日本研究院)、ハン・ボンソク(歴史問題研究所)、ハン・スンミ(延世大学校)、ハン・ヘイン(韓国女性人権振興院)、ホン・スンクォン(東亜大学校)、古橋綾(中央大学校)


 いかがですか? ヒステリックなところは全く感じられない、いい文章だと読んで思いました(訳されたのは菊池さん?)が、韓国版と日本版の違いが相当あるのかもしれませんが、僕はここに述べられているようには『帝国の慰安婦』という本を読まなかったので、彼我の認識の差に、あらためて驚くのです。

 たとえば「『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいてい」ると言いますが、著者は責任の根源は「日本による植民地支配」にあるとはっきり書いているので、そこに「業者(朝鮮人・日本人両方)」が直接の責任者として存在していたことは明確に認めつつも、だからといって「悪いのは業者であって、日本ではない」などとは言っていないのです(そんなアホなこと言ってるのは日本の一部右翼だけです)。

「充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません」という箇所も、この「自発的な売春婦」というところは韓国の人たちを憤激させたようですが、少なくとも日本語版を読むかぎり、そういうニュアンスは感じられない。植民地化された特殊な状況に加え、当時の朝鮮の末端家庭の貧困、家父長制的な女性軽視のあり方、そういった諸々の条件の中でそれを選択せざるを得なかった女性もいれば、業者に騙して連れて行かれた娘もいたというような話なので、日本軍による直接連行によるものではなかった(この声明文では「本人の意思に反して連行された女性たち」とあって、「強制連行」を支持する以上、それはありえないという理屈になるのでしょうが)、という意味での「自発性」にすぎないので、それはそもそも「自発性」ではないのです。

 韓国の人たちがそういう受け止め方をするのは、日本の一部右翼が主張する「自発的な売春婦」という表現をそのままこちらに移し替えて解釈するから、ではないでしょうか。たとえば今の日本で非正規労働者になる若者は、一応「自発的」にコンビニなり、工場なりで働いているわけです。朴さんのいう「自発」はそうしたものの極端なかたちの、「強いられた自発」なのです。

「軍人と『同志』的な関係にあった」という話にしても、それは戦場で生死を共にするところから生まれた自然な感情で、赤紙一枚で戦地へと送られた日本兵は、別に「帝国主義の権化」でも何でもなくて、彼ら自身が「戦争のための国家動員という国家システムの中で動かされた将棋の駒」にすぎなかったのです(同じ箇所に作家・古山高麗雄の「虫けら」「蟻」といった表現も出てきます。これは慰安婦を指しての言葉ではなく、日本軍兵士たる自分が、なのです。日本の観念右翼にはこうした表現を不快に思う人はいるかもしれませんが)。

 慰安婦は性的な「慰安」だけでなく、ときに心情的な「慰安」の対象ともなりえたのだというのは、慰安婦と立場こそちがえ、同じ寄るべなき心情を抱えていた兵士たちの姿を思えば、何の不思議もないように思われます。そうした中で生じた「同志的関係」なのです。妻や恋人代わりに思う兵士もいたことでしょう。その心情に慰安婦の側が応えることがあったとしても、それは人間として自然なことで、何ら非難や嫌悪には値しないはずです。

 いや、そうではない、日本人と「愛国」イデオロギーを共にしたとも書かれている、それがけしからんのだと言われるかもしれませんが、朝鮮は当時日本に併合され、そこの人々は「準国民」とみなされ、たとえ強いられたものであっても日本への「愛国」心をもつことがあったとしても、そんなに不思議ではありません。業者にだって、それは深刻な自己欺瞞を含むものだったとしても、「愛国」ゆえに慰安婦を提供しているつもりの人もいたかもしれません。慰安婦の場合、その屈辱を「愛国の誇り」で埋め合わせようという心理も働いたかもしれない(こういう言い方も「許しがたい」ものと受け取られるおそれがありますが)。

 日本人そのものが当時は「愛国」を強要されていたのであり、ほとんどの日本人はそうした「洗脳」下にいたのです。「非国民」のそしりを受けながら、国家に正面から抵抗した人はごくごく一部にすぎない。しかし、悲惨な戦場にあって、自分が「蟻」であり「虫けら」に等しい存在になっていると感じる兵士は少なくなかった。僕はそう思います。朴さんの言われる「帝国」というのは、そういうものなのです。今のアフガンやイラクに送られているアメリカの兵士にしても、戦死者より帰国後の自殺者の方が多くなったと、もうずいぶん前にニュースになっていましたが、同じ「帝国」の恐ろしさを経験させられているのです。「愛国」によって生きた個人が「虫けら」の地位に落とされる皮肉。戦争にはそうしたことがつきものです。

「法的な争点に対する理解の水準はきわめて低い」云々は、『帝国の慰安婦』第4章の「韓国憲法裁判所の判決を読む」あたりを念頭に置いて書かれているのだと思いますが、朴教授は法律学の専門家ではないので、ここはかなり無理して書いたな、という印象を僕も受けました。この「個人の賠償請求権」が消滅したか否かについては、法理論的には大いに議論の余地があるでしょう。しかし、著者が言おうとしているのは、日本の右翼が「1965年の日韓協定で戦後補償はすんだ」と主張し、従来の自民党政府の公式見解もそれに則るものであった中で、「アジア女性基金」が日本の政治状況の中で政府がやろうとしたせいいっぱいの努力の産物であったことを、韓国側がほとんど評価しようとしないのはおかしいのではないかということを言わんとするためなのです。そこには明確に謝罪の意思が認められた。日本政府は全面的にコミットしていた。にもかかわらず、それは国家としての責任を回避して、民間のかたちをとったものなので評価できないというのでは、日本国内にも対立があるのだから、それを無視した「理想」に偏しすぎた対応ではないか、というのです。

 そもそもの話、本書でも批判されているように、「二十万人の少女・女性が日本軍に強制連行されて慰安婦にされた」という韓国の慰安婦支援団体によって流布された話は、「事実」としての裏付けは乏しいものでしょう。率直に言えば、それは「虚偽」なのです(大体、慰安婦に十代の娘は少なかった)。最初「挺身隊」と「慰安婦」が誤って同一視されたことからそういう誤解が生じたそうですが、いまだに韓国の一般国民の間ではそれが「真実」だと思われているという。日本の右翼も都合のいい話だけ切り取って過去の侵略の歴史を美化しようとするが、韓国もそこは同じで、「被害と蹂躙の過去」を強調するあまり、そうした視点からするなら「売国奴」でしかなかった日本軍への協力者(多数いたはずで、その一つが慰安婦業者)などは存在しなかったごとく、「日本の責任」ばかりを言い立てるのです。

 それでは日本の国民感情は悪化する。韓国挺身隊問題対策協議会(略して「挺対協」)を中心とする慰安婦支援団体は近年、慰安婦像設置と海外でのロビー活動に精力的に乗り出し、「二十万にのぼる無垢でけがれのない十代の少女たちが日本軍に強制連行され、性奴隷にされた」というような話を世界中に広めました。国連やアメリカ議会まで味方につけて、「報告書」や「非難決議」を次々出させ、慰安婦像を2010年以降、アメリカに九か所、韓国内に二か所(一つは日本大使館前)に矢継ぎ早に設立しましたが、朴槿恵大統領の執拗なほどの「反日」言動、「告げ口外交」とも相まって、日本人の「嫌韓」感情はピークに達したのです(僕は愚かにも朴大統領に日韓関係の改善を期待した者の一人でした)。

 前にも書いたことがありますが、こうした韓国による「行き過ぎた日本非難(その主張に虚偽が含まれていることは他国の学者や専門家にも次第に認められるようになってきたそうですが)」は、日本の「右傾化」に大いに貢献しました。左派は弱くなったので、象徴的なのは朝日新聞の例の「誤報」をめぐる謝罪です。一個の虚言症患者、吉田清治の「日本軍による慰安婦の強制徴用」のつくり話を真に受けてしまったこのリベラルの代表紙は、吉田証言が虚偽であることが判明するや、激しいバッシングにさらされ、とうとう謝罪するにいたったのですが、「軍による強制連行はなかった」→「軍の直接関与はなく、業者と慰安婦が金儲け目的でやっただけ」というふうにいわば悪用されて、「日本無罪」の補強証拠のように使われたのです。韓国が日本非難でヒートアップすればするほど、その反動で、逆に「日本は悪くない」という主張が支持を集めるようになった。

 朴裕河さんはこうした状況を何とかしたいとねがって、一連の著作活動を続けておられるのでしょう。この声明文だけからでは、そのあたりはわかりませんが、上に見ただけでも「曲解」と思われる点は少なくないので、やはり冷静さを欠いた批判が韓国では多いのではないかという気がします。どこがどう間違っているのか、それを具体的に明示した批判本でも書いて、日本語版も出してくれるといいと思いますが、その場合は「事実解明」を何より優先すべきで、「自国民に不利な話は許されない」という前提のそれでは、日本の一部右翼と同じになってしまうでしょう。

 思うに、「民族としての誇り」ぐらい有害なものはありません。それで日本人は「穏健な統治をした正義の支配者」だったと言い張り、韓国人は「圧政に苦しんだ純粋な被害者」だったと言うのでは、和解の手立てなど見つかるはずはありません。日本人は「善良な統治者」ではなかったし、朝鮮人慰安婦も「聖女」ではなかった。人間は元々そんなピュアな存在ではないので、それはよほど自己欺瞞の強い人でないかぎり、自分の内面を見れば誰にでもわかることでしょう。それを認めれば自己肯定感が失われるというのはよほど人間的に未熟な人にかぎられます。

 こんなことを言うとまた叱られるかもしれませんが、韓国の人たちは「白か黒か」思考がとくに強い人たちなのではないかという印象を僕は受けています。それで自分たちは真っ白、日本人は真っ黒みたいになるので、この「慰安婦」問題に関してもそうです。日本人は謝罪しない、悪いと思っていないと非難しますが、植民地支配も、慰安婦も、そのディティールはどうあれ、こんにちの基準からすれば悪かったにきまっているのです。日本人でそう思わないのはおかしな「愛国心」「民族としての誇り」とやらに盲いている人たちだけです。しかし、そういう人たちは一定数存在するので、彼ら(困ったことに、それは政治家にも少なくない)の言動を見て、日本人は全然反省していない、悪のかたまりみたいな連中だと言い、全員がこぞって謝罪するまで許さない、というのでは、朴大統領のセリフではないが、「千年たっても変わらない」ということにならざるを得ないでしょう。

 日本の右翼たちは最近よく、在韓米軍のためにかつて韓国政府が設けていた「慰安婦」の問題や、ベトナム戦争当時、韓国軍兵士が現地の人たち相手に行った暴行、強姦、殺人のことを言い立てます。「エラそうに人を非難するが、自分たちがやったことについてはどうなのだ?」というわけです。こういう論理は、泥棒が他の泥棒のことを言い立てて責任逃れをするのと似たような話ですが、「あいつらは一方的に被害者面して、人のことばかり責め立てる」という反発があるからこそ出てくるのです。加えて韓国は1965年の日韓協定に従って行われた戦後補償(名目はどうあれ)や、アジア女性基金による賠償はなかったかのごとく、しつこく謝罪と賠償を要求する。日本の占領地になった他の東南アジア諸国ではそうではないのに、なぜ韓国だけがこうもしつこいのかと、日本人は思うようになったのです。これが韓国ご自慢の「恨(ハン)の文化」というものなのかと。

 かつての帝国主義の時代、西洋列強は植民地の拡大を競いました。第二次世界大戦後、ほとんどは独立を果たしましたが、いつまでも「植民地時代の恨み」を言い立てる国は少ない。例のIS(イスラム国)は第一次大戦中のサイクス・ピコ協定を問題にしていますが、それ以外にはあまり聞かないのです。かつての宗主国がよく謝罪行脚に元植民地に出かけるというような話はない。ひとり韓国だけが、「ひざまずいて赦しを乞え!」と日本に向かって言い続け、それを拒否する日本の右翼を活気づけているのです。

 かつても無神経な差別的暴言を吐いて得意がっている石原慎太郎のような困った右翼老人はいましたが、最近は若い世代がそれに染まり始めた。それには韓国の日本非難があずかって力あったので、逆に「謝罪の気持ち」は薄れるばかりなのです。いっときのテレビドラマや芸能人などの「韓流ブーム」も、今や跡形もない。レンタルビデオ店で「韓流コーナー」をうろついているのは、「純愛もの」が好きな中高年の少数のおばさんだけなのです。

 朴教授のこの本は、少なくとも日本ではそうした風潮に歯止めをかける働きをしてくれるはずですが、当の韓国では刑事罰の対象にまでされたわけで、「もうつきあいきれん」と、リベラルな日本人ですら思うきっかけになりかねません。「今の韓国は異常だよ。話し合いなんてできるわけがない」という言葉を、僕は善良な知り合いの日本人から何度聞かされたことでしょう。今やそれがふつうの日本人の間では「共通認識」になりかけているのです。

 ですから、韓国の学者たちには、この本を日本の右翼の言辞と一緒くたにするのではなく、たんなる片言隻句や一部の表現にこだわるのでもなく、全体の文脈を見た上で、どこがどう間違っているのか、説得的な批判を行っていただきたいと思います。そしてその日本語版を出してくれれば、僕は必ずやそれを読むでしょう。というのも、ふつうの日本の読書人である僕には、これが「慰安婦の人格を傷つけ、冒涜するもの」とはどうしても思えないからです。むしろ敬意と思いやりに満ちたものと見えるので、一面的な「聖女」扱いより、それはずっと人間的な深みをもつものと感じられたのです。

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』雑感

2015.09.22.00:20

 最近、えらくマメに更新していますが、今回は全然毛色の違う話で、しばらく前に書きかけてそのままになっていたのを、続きを付け足してアップしておきます。

 この手の本を読むのは久しぶりなのですが、先日歯医者に行って、時間があったので寄った書店でたまたまこれ(新潮社刊)を見つけました。帯には末木文美士、佐々木閑、宮崎哲弥の三氏が推薦文を寄せていて、つむじ曲がりの僕は通常そんなものは信用しないので、著者の年齢が若い(35~6歳)ことでもあるし、大したことはないだろうが、定価も税別1600円と安いし、まあささっと読んでみるかということで買ったのですが、一読、「うーん。これは凄いな」と唸ってしまいました。

 これはたとえてみるなら、四百メートル障害物競走のアスリートの見事な走りっぷりを眺めるようなものでした。行く手に立ち塞がる障害を次々鮮やかにクリアしてゆく。ふつうのランナーなら、ここらへんで障害を回避したり、あるいはぶざまに転倒して、しかし、ご本人はクリアしたつもりでそのまま走り続けたりするだろうなというところで、正面からそれに挑んで、楽々それを飛び越えてゆくのです。そうしてめでたくゴールイン。

 わが国の仏教学会は久々の俊英をもったと言うべきでしょう。この分量で、これだけの内容のことを書ける人は、めったにいないのではないかと思われます。学部時代、西洋哲学を学んだという人だけに、論理もきわめて明快です。扱われている論点も、この方面にいくらかでも関心のある人には重要と感じられるものばかりです。その意味でも、これは「かゆいところに手が届く」懇切な本です。

 僕自身はこの本に述べられていることにほとんど全く異論がありません。「お見事!」と言う他ないもので、大乗仏教に関しても、この方面に関する詳細な知識がないから書けないだけで、自分が書いても同じような意見になるだろう(何で偽典を作ってまで、原始仏教との「連続性」を演出しなければならなかったのか?)と思います。「だから大乗仏教は無意味だ」という結論にはならないのも同じで、この点、著者の議論が「テーラワーダ仏教に肩入れしすぎたもの」だという批判は当たらないでしょう。

「仏陀の説いた教えとはそもそもどういうものであったのか?」というところにパーリ語原典をもとに切り込む、というのがこの本の本旨で、それが通常の道徳説や哲学とは根本的に大きく異なっているということも、明確に説明されています。「無我」説についての説明も意味不明の独善に落ち込まず、周到で納得のいくものです。

 この本の優れているところは、著者がたんにこの方面の該博な専門知識をもっているということだけではなく、何らかの自得体験をもっていて、そこからテキストを読み解いていると感じられる点です。でないとこういう説明はできない。むろん、その中身の深浅はあるでしょうが、論理の枠組みそれ自体はその後も訂正を要しないだろうと思うので、著者はその点、自信をもっているように見えます。

 P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。

 この「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」が直覚されないことには、「生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」が本当に認識されることはない。それは夢とは別の現実を知っているから、夢が夢と認識されるというのと同じで、書物で読んで、いくら理屈で自分に言い聞かせても、それではどうにもならないのです。

 僕は座禅や瞑想をやったことがない(短期間、仏教系出版社に勤めたことがあって、そのとき社員研修の一環として二泊三日ぐらいの日程で禅寺で座禅をやらされたことがありますが、足が痛くなっただけでした)ので、そのあたりは想像でしかないのですが、禅僧などの場合だと、「悟る」ためにそれをやって、その「悟ろうとする自我の努力」が崩壊した時に、その地平は初めて開けるのだろうと思います。禅の公案の場合、あれは思考による合理化の努力を破産させる意図で設けられたものなのだろうと思いますが、そのときやっとそれが直覚される条件が整うのです。

 それはむろん、「小我から真我に意識がシフトした」というようなものではないので、そういう思考モデルそれ自体が破産したところに生じる、それは事態なのです(そこらへんをカン違いすると、厄介なことになる。「最終解脱」したつもりのオウムの麻原なんかはその類だったのかもしれません)。

 仏教における「無我の教え」というのは、別に道徳的なお説教ではないので、それは端的に、固定的、実体的な「自分」というものはどこにも存在しない、ということを現実に即して説明したものだと思いますが、ユングなどの心理学では、通常の自我、パーソナリティの背後に、真の自己、大文字のセルフが存在する、なんてことを言うので、話がよけいにややこしいことになってしまうのです。古来の「不滅の霊魂」説も、これに拍車をかける。それは死後も存続するコンプレックス(心的要素の複合体)、流れのようなもの(本書の著者によれば「現象」「プロセス」)で、それは実体的なものではなく、上記の引用文で言われている「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」はそういうものとは無関係(ユングの言う「集合的無意識」なるものをいくら探ってもそこには行き着かない)なのですが、「自己」観念というものに縛られていると、それ自体が妨げとなって、覚知が不可能になってしまうのです。

 しかし、現実問題として、こういう話はなかなか通じません。絶望的なまでにそうだと言ってよい。だから馬鹿らしくなって僕は話すのをやめてしまったのですが、我田引水ながら、輪廻転生の担い手となるものが何であるかということに関しては、それを認めていた西洋中世のキリスト教異端カタリ派(仏教との類似性も指摘されるが、原始キリスト教の再来を自任していた)の歴史と信仰を扱った『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著)という本の訳が、具体的な日程はまだ未定ですが、版権取得も無事済んで近いうちに出せる運びになって、その本の訳者あとがきに自分なりの考えを書き含めておいたので、興味のある方はそちらをご覧ください(出版時にはここでも告知します)。

 それはともかく、僕はこのブログで「この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」ばかりを相手にして、ああだこうだとうるさく言っているので、仮にも「宗教の高遠な真理」に関心を寄せたことがあるのなら、何でそんな馬鹿なことをしているのだ、と言われるかもしれません。

 そう言われると返す言葉もないのですが、僕は「生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離すること」は自分の柄ではないと考えて、とうの昔に「解脱」などというものは諦めてしまった人間です。そちらの道をきわめるのは偉いお坊さんたちにお任せする。ときにゲンナリしながらも、僕は「俗世間の泥」の中で暮らし、その泥を食らって正体不明になりかけながらも、これが下根のわが道であるかと、それなりに「覚悟」しているわけです(ある知人によれば、僕はカタリ派時代の「虚偽と不正に対する怒り」があまりにも強かったために、それを持ち越して今も怒り続けているのだという話です。カルマというのはかくも恐ろしい?)。

 話を戻して、これはそういう人間にとっても十分面白い本だったということです。真面目な仏教研究者、修行者にとってはなおさらでしょう。広く一読をお薦めします。

【付記】これをアップする前にネットを見てみると、小木田順子さんという方(なんとこの前僕が悪口を書いた見城徹氏の幻冬舎の編集者!)が愉快な書評を書いておられます。

  仏教は、「人間として正しく生きる道」を説いていると思われがちだが、それは冒頭できっぱり否定される。
 ゴータマ・ブッダは出家を重視し、弟子には「労働と生殖の放棄」を要求する。「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して、『異性とは目も合わせないニートになれ』と求めている」のだ。
 ゴータマ・ブッダが説くのは「世の流れに逆らう実践」であって、仏教に処世の知恵や癒しを求めた人は、まず出端を挫かれることになる。
 最初で救われないだけでなく、大方の読者はおそらく最後まで救われない。なぜか。
 仏教では「全ての現象は苦である」と言われる。ここでの「苦」とは、痛みや悲しみなどの肉体的・精神的な苦痛だけではない。そのニュアンスを正しく汲み取れば、「不満足」の語が適切で、「欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態」を意味する。(私は、チョコとポテチを一口だけ食べて満足することはなくて、食べれば食べるほど、また食べたくなる感じとか、お洋服を1着買えば、色違いも欲しくなり、それに合う靴も欲しくなり、バッグも欲しくなるときの、とめどない感じとかを反芻しながら読みました)
 このような「生」きている間の苦の先には、「老」「病」「死」という、誰にでも必ず訪れる苦が待ち受けているのだが、それでは終わらない。
 仏教の基盤になっているのは輪廻転生の世界観で、私たちは何度も生まれ、何度も死ぬ。その間「終わりのない不満足」は、ずうっと繰り返されるのだ。
 それを終わらせてくれるのが「解脱」であり、その先にある境地が「涅槃」。そこに到達する道が修行(瞑想)である。
 ゴータマ・ブッダは自らそれを実践し、解脱し涅槃に到達したうえで、弟子たちに対して、「これをやれば、お前たちも苦を終わらせることができる」と、正しい鍛錬の仕方を示した。
 そして弟子たちがそれを実践してみると、たしかに言われたとおりの結果が出た。そのような再現性こそが、仏教は2500年にもわたって存続してきたことの原動力になっている。
 方法があると書けば、救いはある、と思われるかもしれないが、解脱・涅槃に至る道は、ただ一つしかない。すなわち、異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想すること。
 私が、今回の人生において、これから修行者の道を選ぶことはまずないから、私が決して満たされない欲望に苛まれ続け、「苦」のうちに生を終えるのも間違いない。
 そんな己の末路をはっきりと見通せてしまったことの、なんて痛快なこと。そして、縁起とか業とか無常とか無我といった、これまで難しそう・めんどくさそうと遠ざけてきた概念が、どこでどう繋がっているのかがわかり、この世界の成り立ちが鮮やかに説明されることの、なんという快感!


 簡にして要を得たうまい書評だと思いますが、「異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想する」覚悟が「仏弟子」には必要だということになれば、大方の人には「無理」だということになって、敬遠せざるを得なくなるでしょう(その生活も本来「乞食(こつじき)」によるべきなのです!)。しかも、「長年瞑想しても人格はよくならない」なんてことまでこの本には書かれているので、全く救いはなさそうに見えますが、それも「事実」だと思われるので、このあたりが「仏教の教えは人を幸せにする」と説く通常の啓蒙書の類とは大いに異なるところです。

 それでは、仏教は何の役に立つのか? 何の役にも立たないので、ただ、この世界がどういう成り立ち、仕組みになっていて、どういうおかしなことを人間はやり、その結果どういう苦しみ方をする羽目になるのか、そういうことをシビアに認識することに関しては大いに役立つということでしょう。学生時代読んだ小林秀雄のエッセイにこういう箇所がありました。「現代人は無常を知らない。常なるものを見失ったからである。」無常なものを常なるものと思い込むより、無常を無常と知ることの方がいくらかはマシだと、その程度のことだけは言えるかもしれません。仏教の教えもその意味では「ふつうの人の役に立つ」のです。

どんなホラー小説よりもこわい!~堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』雑感

2014.11.29.15:28

「これは、しかし、ホントの話なのかね?」

 読みながら、途中何度も僕はそうひとりごちました。アメリカがひどい状態になっているのはわかっているつもりでしたが、認識が甘すぎたというか、まさかここまで悲惨なことになっているとは知らず、愕然とさせられたのです。

 これは21世紀の先進国に出現した、巨大な奴隷制国家です。そう評する他ない。

 話はオバマ大統領の医療保険制度改革、いわゆるオバマケアを軸に展開されるのですが、それを通して今のアメリカ社会がどういう構造になっていて、どういう不具合が生じているのか、あぶり出されるようになっているのです。

 これは有名なリンカーンの言葉をもじっていうなら、「一握りの金持ちの、一握りの金持ちのための、一握りの金持ちによる政治」が行われている国家で、大多数の人間はあの手この手で搾取を受けて貧困層へと突き落とされ、そこでさらに「貧困ビジネス」の餌食にされ、最後は家さえなくしてロクな治療も受けられないまま、トレーラーハウスか何かで苦しい息を引き取るのです。

 医療保険制度云々の前に、僕がびっくりしたのは医療費の高さです。何より薬代が「目ン玉が飛び出るほど」高い。だから月々の保険料も馬鹿高いので、ほとんど無意味に近い最低の医療サービスしか受けられないような最低レベルの保険(すべて民間の保険会社が提供する)でさえ、わが国の国民健康保険の平均的な割当額より高いほどなのです。

 これと較べるなら、わが国は医療の天国です。僕はこの前、「必ずしもいいことづくめではない」と書きましたが、あれは“基準”が高すぎたと言うべきで、北朝鮮人民と較べればわが国庶民の生活は「天国」と呼べるのと同じで、アメリカの医療システムと較べるなら、日本のそれは「天国」に近いのです。

 アメリカでは医療費が払えなくて破産する、いわゆる「医療破産」が破産理由のトップになっているそうで、しかもそれは無保険者だからそうなるというのではなくて、支払額を極力低く抑えたい保険会社があれこれ難癖つけて支払いを拒むものだから、結局治療費が全部自分にふりかかってきて、高い保険に加入しているのにそうなってしまう。そういう話はマイケル・ムーア監督の『シッコ』でもやっていましたが、オバマケアでそのあたり改善したのかと思いきや、全然そうはなっていなくて、製薬会社と保険会社はこの法案を使い物にならない穴だらけのものにして、全体としては前より事態は悪化してしまったのです。

「なるほどねえ」と僕はその巧妙さに感心(?)しました。どんな善意の制度でも、骨抜きにして、さらなる搾取の道具にしてしまう。オバマケアに期待した人たちはものの見事に裏切られ、たとえば、この本に登場するある50代の中年夫婦の場合だと、この人たちは以前からちゃんと保険に加入していたのですが、同じサービスを受けるのに前と較べて保険料が2倍になり、かつ、自己負担額が増えるのを知る羽目になった(具体的に言うと、この夫婦の年収は日本円にして約650万で、月々の保険料が6万円だったのが、12万になるという話なのです。医者にかかった時の自己負担分も含めた年間医療費はトータル約130万だった。まだマシだったという“以前でも”ですよ。とくに大きな病気もなく、時々医者にかかる程度で、こんなに医療費を払っている人が日本にいますか?)。

 ともかく「改革後」のそれだと支払い能力を超え、高い薬が必要な病気になれば破産は目に見えているので、それなら保険は買わない(=保険に加入しない)ことにすると言うと、今回の法改正でその場合は罰金を支払わねばならなくなり、この罰金は年々上がることになっているので、2016年段階でおたくの罰金額は16万円になります、と言われる。無保険で病気になれば全額自己負担というリスクを冒す上に、さらにこんな罰金まで課せられてしまうのです!

 実に恐ろしい話ではありませんか? この本には類似の(というより、これよりもっとひどい)残酷話がこれでもかというほど続出するので、だから「どんなホラー小説よりも怖い」と言ったのです。しかもこれは、フィクションではなくて、全部実話なのです。

 アメリカ国民でなくてよかった!と胸をなでおろしていたら、「安心するのはまだ早い」ということで、アメリカのハゲタカ外資は虎視眈々と日本市場を狙っている、という話が最後に出てくるのです。

 2014年1月のダボス会議で安倍総理は、「非営利ホールディングカンパニー型法人制度」について言及し、投資家たちに日本に新たに生まれる新市場をアピールした。名前の頭に「非営利」とついているが、重要なのはその下にある〈ホールディングカンパニー〉という部分だ。

 詳しくは本書を直接お読みいただくとして、「投資家たちにアピール」するのは儲け話に決まっているから、それがロクでもないものなのはこの段階でわかろうというものです。こういうのも、アベノミクスの何番目かの「矢」には含まれているわけです。全体、アベノミクスというのは株価などの経済指標を上げることばかりで、経済の内実を問うものではない。それがわかっていない人が多いようなので、そのあたりをきっちり見ておかないと、何もかもが「アメリカ並」にされてしまいかねないのです。

 話を戻して、今のアメリカでは患者である一般国民が理不尽医療制度の被害者になっているだけでなく、医師も被害者なのです。どうしてそうなってしまうのかということは本書の第2章「アメリカから医師が消える」に詳述されていますが、これまた読んで憤りを禁じ得ない内容で、この現代の巨大奴隷制国家においては、医師も奴隷の一部なのです。本業そっちのけで投資で儲けていれば別として、アメリカの医師はもはやかつての「尊敬を受ける裕福な専門職」などでは全然ない(日本もこうだと、医学部進学希望者は激減して、「最も入りやすい学部の一つ」になってしまうでしょう)。

 他にもオバマケアの導入でどうして短時間パートが激増する羽目になったのかなど、興味深い(というより、これまた恐ろしい)話がたくさん出てくるのですが、そうしたあれこれについては直接お読みください。僕が最後に書いておきたいのは、この本全体から見えてくる今のアメリカ社会の透視図です。

 リーマンショック以後、金融機関の規制は進むどころか、巨額の税金投入で救済されたウォール街の大手金融会社はかえって焼け太りして、さらに支配力を強化したというのは有名な話ですが、今のアメリカはそうした金融機関と、投資家、この本に出てくる製薬会社、保険会社などの巨大企業のトップと幹部たちのためにだけ存在し、一般の労働者はその搾取を受けるためだけに存在しているかのようです。政治家は支配層の使い走りにすぎない。

 かつてアメリカが元気だった頃は、分厚い中間層が存在して、その代弁者としての産業別組合も元気でしたが、今やその組合も風前の灯のようです。労働者はバラバラにされて交渉力を失ってしまった。昔、法学部の不良学生だった頃、民法のテキストで、「民法上、社員とは株主のことを指すのであって、わが国で通常『社員』と呼ばれているものは、法律的にはたんなる労務者にすぎない」という記述を読んで苦笑したことを憶えていますが、今のアメリカはこうした法律用語に忠実に、「社員」たる株主への配当を増やすべく、必死になって利潤を上げ、「労務者」の賃金、福利厚生などは、「経営効率化」のために削れるだけ削って、かぎりなく奴隷の労働に近いものにしてきたのでしょう。そうして経営陣は、経営効率化と利潤増大に努めた見返りとして巨額の給与、ボーナスを懐にして、たんまり配当を得た投資家たちとにっこり笑って握手するのです。彼らは「同志」です。一般従業員は、彼らに奉仕すべく存在する奴隷でしかない。

 今のアメリカでは医療も教育もビジネスです。刑務所ですら民営化されてビジネスになっていて、ビジネス化されると、そこで働く者はすべて自動的にこの新種の奴隷制度に組み込まれることになるのです。サービスを受ける側も当然ただではすまない。それはビジネスに見合った性質のものへと変容するのです。究極的にはそれはサービスを受ける側のためにあるのではない、それを通じて儲ける側のために、投資家の利益に貢献するためにあるのです。つねに利潤が、その仕事本来の目的に優越する。

 製薬会社にとっては薬代は高ければ高いほどよい。原価の何百倍と吹っかけても、そんなことは一向気にしない(とうの昔に良心なんてものはなくなっている)。利潤こそすべてなのです。だから彼らはそれを高く維持できるようにするために、契約相手から価格交渉力を奪い去るために、巨額の資金を使ってロビー活動を行う。そうやってオバマケアも骨抜きにされ、彼らに好都合な内容に変えられたのです。保険会社もその点は同じ。従来から彼らは、加入者の医療費請求をできるだけ多く拒否できるように、従業員に山のようなノウハウを教えてきました。それで拒否件数が多ければ、「よく頑張った」ということでボーナスがもらえるのです。同じ労働者である顧客が電話の向こうでその理不尽に泣き、破産、自殺しても、そうしないと会社から評価されないのです。病院の医師に対しても同じで、煩雑極まりない書式の診療費請求書を押しつけて、かんじんの医療業務に支障が生じるほどの膨大な手間をかけさせ、やっとそのフォームを埋めて提出しても、あれこれ難癖をつけてその支払いを拒もうとする。患者に対してであれ、病院・医師に対してであれ、拒否件数が多ければ多いほど、出費は減って会社の利益は増大するからです。

 弱肉強食の仁義なき資本主義も行き着くところまで行き着いたという感じで、これはもう人間の世界の話ではありません。しかし、それが今のアメリカという国なのです。「自由と民主主義」が聞いて呆れる。

 念のためにお断りしておきますが、僕は別に「アカ」ではありません。問題は巨大資本とその所有者たちがフリーハンドを得て、「最大利潤」を目指し、制度や社会構造をカネと権力で自分たちの都合のいいものに変えてしまったことです。そして各界のエリートたちが、それに仕える走狗と化してしまった現状です。

 かくして古代の奴隷制は復活したのですが、ややこしいのは、見た目にはそれがそうとはわからないことです。オバマケアだって、本書には何度もオバマ自身の誇らしげな言葉が引用され、いかにもそれは「民主的」で「国民に優しい」医療制度改革案に見えるのですが、その法案の成立には資本の意を受けたプロが深く関与していて、細かい規定を見ていくと、それはオバマの説明とは全く違う結果になるよう仕組まれているのです。

 医療や法律の専門知識がないふつうの人には読んでもそれが現実に何を意味するのかわからない。「適用」段階で、それがオバマの説明したものとは、自分たちが期待していたものとは似ても似つかないものであるのを初めて知るのです。

 権力も財力も、専門知識も、それは持てる1%の側にあって、持たざる99%の側にはない。前者は後者に向かって「これはあなた方のためにすることなのですよ」と親切顔で言いつつ、実は自分たちに好都合なように法律、システムを変えてしまう。そうしたペテンの積み重ねの果てに、アメリカは今のような奴隷制国家になってしまったのです。

 メディアの重要な役割は、その欺瞞を暴いて人々に警告を発することですが、今や主要メディアも巨大資本の支配と統制の下に置かれ、御用メディアになり下がった。その御用メディアに、御用学者、御用文化人が登場し、人々を騙すことに一役買うのです。これはわが国の原発問題にもはっきり見られたことです。

 資本・権力が良心と自制を欠き、このまま暴走を続けて、人々が有効な抵抗のすべを失ったまま、奴隷制がさらに強化されるようだと、行き着くところは大規模な暴動とテロでしょう。アメリカはアルカイダや「イスラム国」だけでなく、自国内部に誕生した自前のテロリスト集団をもつことに早晩なるのです。それはむろん、一般国民を幸福にすることにはつながらないでしょう。破壊と殺戮の応酬の中で、社会は崩壊してゆくのです。

 アメリカの巨大資本(一般国民ではなくて)は、TPPでさらなる「規制緩和」をわが国に迫り、「奴隷市場」の開拓にやる気満々だと伝えられています。医療分野もその一つで、それでアメリカの金融・保険会社や製薬会社が大儲けできるようなものにして、実質的に今とは全く違うものに変えてしまおうと目論んでいるのです。

 実にお楽しみな話ですが、今の安倍政権だと、「外資を呼び込んで経済を活性化させる」などと、たんなるその使い走りにされていることも知らず、胸を張って言いそうです。そうして「善良な国民」はそれを信じる。それで見かけの経済指標は一時的に多少よくなるかも知れないが、その果実は全部外資の懐に入り、国民は保険料の大幅アップとサービス低下に苦しみ、「アメリカ国民の悪夢」を共有する結果となるのです。そのとき「やっとこれでわが国もアメリカ並になった!」と喜ぶのは、経済学者の竹中平蔵ぐらいのものでしょう。

 著者の堤未果さんは、続編の「日本版」を計画しておられるそうなので、周到な現状分析と未来予測を、僕らはそれで読むことができるでしょう。

 何はともあれ、この本は示唆に富む「全国民必読」の本です。まだの方はぜひお読みになって下さい。

堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』(集英社新書 720円+税)

People only see what they are prepared to see

2014.10.01.05:16

 このブログ、しばらくご無沙汰してしまいましたが、一見関係なさそうな二つの本を並べて書評し、そこから連想された話を書こうという「不可能な企て」にとりかかって、挫折してしまったためです。

 諦めてその“簡約版”だけでも何とか書いておきたいと思うのですが、その二つの本とはレザー・アスラン著『イエス・キリストは実在したのか?』(白須英子訳 文藝春秋)と、小島毅著『増補 靖国史観~日本思想を読み直す』(ちくま学芸文庫)です。僕がこれを一緒に論じたくなったのは、キリスト教布教のためのイエスに関するフィクションと、靖国にシンボライズされる日本史に関するフィクションに、共通する人間心理を感じとったからです。

 前者では、福音書記者がイエスを“正統で至高な”救世主にして、キリスト教を広めるため、嘘と承知しつつ数々のつくり話をでっち上げたことが述べられています。たとえばほんとはナザレで生まれたのに、両親をベツレヘムに行かせて、そこの馬小屋で生まれたことにしたのは、彼がダビデ王の子孫で、「ベツレヘムから私(=神)のためにイスラエルを治める者が出る」というミカ書なるものの預言に合わせるためで、その後ヘロデの男児抹殺指令を逃れるためにエジプトに脱出したことになっているのも、ホセア書の預言に適合させ、あわせてイエスがモーゼの生まれ変わりだということにしたかったから(従って、ヘロデがそんな指令を発したなんて史実はない)であり、有名な処女降誕の話も、実際にはイエスには何人もきょうだいがいたのだが、彼が私生児であるという噂を打ち消し、かつ、それ以前からあったメシアに関する神秘的伝承に合わせるためであった、等々。
 他に「政治的・戦略的意図」に基づく露骨な嘘もあり、僕が一番驚いたのは、文学的な含蓄に求むイエス処刑前の総督ピラトの逡巡にまつわる嘘でした。試みに該当箇所をウィキペディアから引くと、

【『ルカによる福音書』(23:4)には「わたしはこの男に何の罪を見いだせない」とピラトが語ったと書かれており、『ヨハネによる福音書』(19:6)には、「十字架につけろ。」と叫ぶ人々に対し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べたとあり、イエスの無実すら明言する。
『マタイによる福音書』(27:19)ではピラトゥスの妻が登場し、死刑を宣告する前の晩に夢の中で苦しい目にあったので「あの正しい人」に関わらないでくださいと訴える。】

 …という有名なくだりです。ところが、これは「真っ赤な嘘」である可能性が高い、というか、あのピラトがそんな対応を示したはずがない、というのです。なぜなら彼は「ユダヤ人に対する冷酷きわまりない無慈悲さ」で有名で、「おそらくそのせいで、彼はユダヤのローマ人総督を最も長く務めた一人になった」というほどの男だったからです。「彼は残忍、冷酷、融通の利かない人物で、臣民の心情への配慮などはほとんどない、誇り高いローマ帝国軍人だった」「ユダヤ人が大嫌いなことで有名で、ユダヤ人の祭儀や慣習を全く無視し、数多くの処刑命令書にうわの空で署名する傾向があったため、今後はせめて一瞬なりともユダヤ人民衆扇動者の運命を思いやってもらいたいと、彼を相手取ってローマに公式に苦情が提出されたほどだった」(同書)というのです。

 従って、「人間味に富む苦悩する良心的官僚」みたいな印象を与えるあの話はほぼ間違いなく創作で、どうしてそんな大嘘を書いたかと言うと、当時記者のマルコはローマに住んでいて(長くなるので割愛しますが、それ以前にイエスの活動がその一部であった「ユダヤの反乱」はローマによって完膚なきまでに打ち砕かれ、制圧されていた)、ローマ人相手に布教する必要があったので、悪いのは皆ユダヤ人のパリサイ(ファリサイ)派で、ローマ人のピラトはイエスに好意をもつ“善人”として描く必要があったからだ、というのです(興味深いのは、この本ではイエスの病気治しの奇蹟などは否定されていないことです。当時はそうした異能をもつ職業祈祷師や霊媒は他にいくらもいたのであり、イエスが同様の、しかも強力なその種の不思議な力をもつことは当時多くの人々が認めていたことなのだという)。

 福音書記者たちは、それでは詐欺師みたいな連中だったのか? 別にそういうわけではないので、要するに当時は、現代のような歴史的事実への客観性に関する顧慮は乏しかったし、何よりそれは「信仰の書」なのだから、嘘であってもかまわない、彼らの意識では信仰に合致する話こそが「真実」だったのです。イエスはメシア(救世主)であり、そうでなければ困るから、自分たちの信仰に合わせて都合のいいストーリーを創る必要が生じた。だから、イエスは紛れもなく洗礼者ヨハネの弟子であったが(ちなみに、有名な「ヨハネの首」の話も事実無根のでっち上げ)、それをそのまま認めるとヨハネの“下手(しもて)”に立つことになってしまうので、「私はかがんでその方(=イエス)の履物の紐を解く値打ちもない」なんて尤もらしいことをヨハネ自身に言わせることにした。要するに福音書のイエス像は、事実らしきものはなかに含まれているにせよ、記者のそれぞれが「こうあってほしい」というイエスを構成するために、多くの作話を混ぜてつくられた「聖人ストーリー」の一つだったのです。

「靖国史観」にも似たところが見受けられる。小島氏の周到な所説を乱暴は承知で僕なりに要約してしまうと、それは江戸時代の水戸学に根ざす「万世一系の天皇支配」説に基づく史観で、事実としてはそんなものがあったのかどうかはすこぶる疑わしいが、とにかくそういうイデオロギーで過去の歴史を解釈し直し、その天皇のために死んだとされるのが「英霊」で、その天皇を日本という国と同一視して、「国の英霊を祀る」と称するのが靖国神社に他ならない、というのです(だから同じく「時の権力」に盾突いても、吉田松陰は「倒幕」派=天皇支持だったから「英霊」認定され、「維新の元勲」であったはずの西郷隆盛はその後西南戦争で明治政府=天皇に逆らったから排除されるといったややこしいことが起きる。幕末「朝敵」であった会津藩士も、その後西南戦争で官軍側の兵として戦って死亡した場合には、一転して「英霊」扱いとなるのです)。

 よく靖国神社に付設された「遊就館」の展示とその説明が時代錯誤なひどいものだと批判されていますが、あれもそうした史観からすれば首尾一貫しているので、元々それは実証的な歴史研究の埒外にあるイデオロギー(小島先生の要約によれば「忠孝一本・祭政一致・天人合一」のそれ)に基づく過去の歴史の合理化(当然無理が伴う)なのです。

「なるほど。そういうものだと解すれば腹も立たなくてすむな」と僕など思ったのですが、問題は、それがあたかも客観的・実証的な歴史理解であるかのように装いたがること(そもそも国家神道それ自体、幕末に作られた宗教イデオロギーにすぎないし、古来連綿と受け継がれてきたとされる皇室儀礼の「大嘗祭」なども、事実はそうした思想に基づき、同時期に「再創造」されたものでしかなく、どちらも「古来の伝統」などではないとのこと)で、そのあたり、キリスト教の福音書と似ている。そこに働いているメンタリティに共通のものがあるのです。

 キリスト教徒にとっては聖書の記述は神聖なもので、そこに書かれた言葉が「真実」であるように、日本が“「万世一系の天皇」が支配する「神の国」”だと信じる人たちにとっては、靖国神社とその史観(かなり強引な過去の歴史解釈)は神聖な、半絶対的なものなのでしょう。そのあたりの理解が僕には全く不十分だったので、この本を読んでなぜ彼らがああも頑ななのか、やっと合点がいったのです。それは「宗教」だからで、僕のように天皇や皇室への思い入れが皆無な人間には、そのあたりの心情がわからない。

 キリスト教福音書と靖国の「史観」には、もう一つ共通点があります。それは、キリスト教徒たちが救世主と崇めるイエスが「神の国」を実現するどころか、あっさり処刑されてしまったこと、靖国のいう「神の国(こちらは言葉は同じでも、むろん別の意味内容をもつ)」が、「神の国」にはあるまじきことに、戦争に負けてしまったことです。

 どちらもこの「ありえない」ことを合理化しなければならず、前者はそれで「イエスが死んだのは全人類の罪をあがなうためだった」というご大層な屁理屈や、「復活」のエピソードが付け足された。後者の場合には、過つはずのない「神の国」が愚かな侵略戦争をしたというのではいかにもまずいので、「非道邪悪な英米のせいでやむなく戦争に追い込まれた」という理屈をこね、「自存自衛ノ為」にしたことに他ならないと強弁する。敗れたのもそうした「他国の謀略」のせいで、いずれわが国は米国の核の傘に依存するのではない「完全な独立」を果たして、「聖戦(義戦)」たるあの大東亜戦争が目指した「東亜新秩序」を実現しなければならない…と今でも「靖国史観」に拠る人たちは考えているのかどうかは知りません(石原のじさまや田母神氏あたりは本気でそんなこと考えていそうです)が、とにかく「誤った侵略戦争で負けた」というのは、断じて否定されなければならないことなのです(余談ながら、石原のじさまこと慎太郎氏は文藝春秋9月特別号に「特別寄稿」と称して「白人の世界支配は終わった」と題したトンデモ論文を載せています。前に僕は反原発に対する彼の批判の杜撰さをここで嗤いものにしたことがありますが、その頭の悪さと知識・論理の出鱈目さ加減には驚くべきものがあって、かくもお粗末な駄文を掲載せざるを得なかった編集部に同情しました。何で潔く引退しないんでしょうか?)。

 これは宗教信仰と同じメンタリティに発するので、いくら議論してもその「信仰」に反する歴史認識を認めさせるのは難しいでしょう。彼らは戦後の歴史研究に基づく通常の歴史教科書を「自虐史観」だと激しく非難しますが、それは彼らのメンタリティ、心情からすれば、自己の信仰――それを抱く自己の人格――を否定されるのに等しいからです。そうでない人にとっては、別に「自虐」でも何でもなくて、「過去にそういうことがありました」ですむ(だから二度とあんな馬鹿はやらないように気をつけることにしましょう)のですが、アメリカのどこかの州で、学校でダーウィンの進化論を教えるのは許しがたいという抗議があって、それを教えるのが禁止されたという話と同じで、感情を悪く刺激するものなのです。キリスト教原理主義者にとってはダーウィン説はたんなる科学説ではなくて、自分が信仰する聖書の記述に挑戦する冒涜的な学説(万物の霊長、神の愛子であり、すべての生物に優越する人間がサルごとき下品な動物から進化したとは何事か!)なので、道徳的にも許しがたい。同様にわが国の軍隊が戦時中ロクでもない悪事をたくさん働き、指導者にも愚劣な精神論を振りかざすだけの無責任な馬鹿が揃っていた、なんてことも、「神の国」信仰からは犯罪に等しいものと映るのです。罰当たりめ! われらが父祖を何と心得る!

 今の若い人には、「靖国史観」は「日本人としての誇り」を高めてくれるだけでなく、“新鮮”なものと感じられるかもしれません。たとえば、次のような「解説」を聞くのです。

 わが国はかつて「五族協和の王道楽土」という美しい理念に基づき、満州国を建設し、中華民国にもその恩恵を及ぼそうとした。ところが、中華民国政府は愚かにもわが国の崇高な真意を理解せず、みだりに事を構えて「東亜の平和」を乱し、やむをえずわが国(の関東軍)は戦火を交えることになった。そして四年余りたって、一応の安定を見たが、懲りない蒋介石は「米英の庇護」に頼って抗戦を続け、邪悪な帝国主義国家たる米英は、平和の美名の下、「東洋制覇の非望」を実現しようとしてそれに加担し、軍事・経済あらゆる方面でわが国への妨害を企て、ここにわが日本の「生存に重大なる脅威」が生じることになった。かくて「東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し」たのであり、やむを得ず、わが国は「自存自衛」のため決然として起(た)って、「一切の障害を破砕」すべく、アメリカに宣戦布告したのである。
 従って、あの戦争(「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのが正しい!)は、侵略戦争などでは全くなく、純然たる「自衛のための戦争」だったのである、云々。

「なるほど」と今の若い人たちが思うかどうかは知りませんが、これはこの『靖国史観』という本に引用されている「昭和十六年の宣戦詔書」(高校でよく使われる山川の『詳説 日本史資料集』にも出ているものだという)の文面を現代風に“翻訳”したものです。要するに、それがあの戦争を始める際のわが国政府及び軍部の「認識」だったのです。

“斬新”どころか、それは時計の針を戦前に戻してしまう“超”がつくほどの「主観的史観」にすぎないのですが、靖国神社が必死に守ろうとしている「史観」は基本的にそうしたものなのです。それは戦後の「自虐史観教科書」(彼らにはそう見える)しか知らない人には“新鮮”に感じられるかも知れないが、それこそがわが国をかつて無謀な戦争へと導いた独善的きわまりない解釈(と言うか、勝手な思い込み)だったのです。

 靖国神社というのは、だから、たんなる戦没者慰霊のための施設ではない。「万世一系の天皇支配」信仰(だから近代憲法学からすれば当然で、昭和天皇自身がそれを受け入れていた「天皇機関説」なども手厳しく排撃されねばならなかった)に基づき、死者を「天皇のために死んだ者」とそうでないものとに勝手に分け、前者のみを顕彰する明確な偏りをもった特殊な神社なのです。「靖国に祭られる英霊とは、天皇の名のもとに戦った(ことになっている)戦没者や天皇のために政治的に犠牲になった人たちのことである./「天皇のため」であって、「日本国のため」ではない」(本書p.95)。それをよく認識しておけ、というのが小島教授の言われることです。

 先頃安倍政権は“解釈改憲”を企て、「集団的自衛権」なるものを容認することになったのですが、それには「自国に対する直接攻撃でなくとも、他国に対する攻撃により、わが国民の生命や権利が覆される明白な危険がある場合」にかぎるという要件がついているのだから“安心”なのだと言っていますが、先の戦争の場合でも、宣戦詔書で全く同じことが主張されていたのです。そして安倍晋三は明白な「靖国」教信者です(その著書名も『美しい国へ』)。どこが「安心」なんだか、さっぱりわからない。

「極東軍事裁判は“勝者が一方的に敗者を裁いたもの”だから不当である」とかねて右翼は主張していますが、それならあらためて日本人によるあの戦争の裁判をやり直して、左翼用語でいうところの「総括」をやればいいのですが、彼らはおそらく揃ってそれにも反対するでしょう。東條をはじめとするA級戦犯(その罪状の一つは「天皇制と明治憲法の悪用」ですが)も皆「靖国史観」からすれば無罪で、彼ら無責任な指導部連中と、敗北が明白になってのちも過酷きわまりない戦場に武器や食糧補給の目途もなしに追いやられ、「玉砕」や餓死を強いられた多数の無名兵士たちも同じ扱いにするのが正しいと、それは言うのです。それこそが「魂の平等」であるとか何とか、都合のいいときだけ民主主義用語を持ち出したりして…。

 こういうふうに書き進めていると口の悪い僕は悪態が止まらなくなるおそれがあるので、これくらいにしておきますが、この本を読んでいて、「へえー」と思ったもう一つのことは、「近年の歴史学の諸成果」によれば、当時(幕末)の幕府官僚は言われているほど無能ではなかったのだ、という見方もできるという話です。三谷博という歴史学者は、「明治維新を複雑系のシステム論から捉え直し、ほんの些細な偶然が大きな嵐を巻き起こすようにして成就してしまった可能性を指摘している」とのこと。

 要は「これまで歴史の必然として語られてきた『明治維新』史は、すべて結果を知っている者があとから組み立てた物語にすぎ」ず、「幕府の無能ぶりを過度に強調することによって、明治政府は自分たちの正統性を説いたの」であり、「司馬遼太郎の史観なども、その延長線上にあるにすぎない。靖国神社もまた、いまなお明治時代に創られた物語の圏内で、自己の物語を紡いでいるにすぎない」(p.111)――そういう見方も可能なのだ、ということです。

 僕も大学受験浪人の頃、司馬遼太郎はよく読んだもので、あれは「気が大きくなって」受験生などには精神衛生上よかったのですが、同時に「ほんとは話はこう単純なものではないだろうな…」という一抹のアホ臭さのようなものは残ったもので、だからこういう記述を読んでもそう意外とは感じられないのですが、著者小島毅教授の「薩長テロリスト集団による簒奪」などという言い方には、この人も相当性格が悪いなと、笑ってしまうのです。先生、こんなこと書いて、大丈夫なんですか?

 ついでに言うと、この本のp.217~8の「たとえ話」は爆笑ものです。それは「華さん」と「和さん」という二つの家をめぐるゴタゴタ話(「米屋」も登場!)なのですが、僕はここを読んで大声で笑い出し(例のあれは「敷石」にされている)、しばらくそれが止まらなかったので、そのとき周りに人がいなくてよかったなとほんとに思いました。この箇所はだから、絶対に通勤電車の中などで読んではなりません。「不審者」通報されてしまうのが確実だからです。

 この先生、著者紹介文を読むと、「東京大学大学院人文社会系研究科教授」となっているのですが、こんな戯文を書いて遊んでいるなんて、お堅い東大教授にはあるまじきことです。大学の授業でもブラックジョーク満載になっているのではないかと案じられるので、僕自身、訳書のあとがきでいらんことを書きすぎるというので一部の読者からだいぶ非難されました(その後このブログに“聖人”視されているその著者の痛い話を暴露する本を紹介する一文を書いてさらに憎まれるようになった)が、「どうせこんなものはボランティアみたいなもんだから、ちっとは好きに書かせろ」というところがあってしたことで、本職は田舎の零細塾のセンセにすぎないのだから、こちらは許されるが、天下の東大教授ともあろう人がこのようなはみ出しぶりは実に異例なことでしょう。頭はとびきりよさそうですが、性格が少々……で、そのあたりは僕とあんまり変わらないのではないかと疑われるのです。

 最後に、今回のブログのこの英語タイトルですが、実はこれは今年の東大の入試問題に出たもので、設問は、これについてどう思うか、50~70語の英文で自分の考えを書け、というものです(意味は、訳さなくてもおわかりかと思いますが、「人は自分が見たいと思うものしか見ない」です)。

 受験生たちがどんな答案を書いたかは知りませんが、これはなかなかに高級な問題で、これは真実を衝いた言葉と思われますが、問題は、自分がそうしているということに気づいている人はめったにいないということです。それは大部分無意識的なプロセスだからで、この前の朝日の誤報問題などでも背景にあったのはこの人間心理だったろうし、その誤報を激しく非難する「靖国史観」の右翼の皆様がいまだにあの戦争が「正義の戦争」だったと言い張って、不都合な事実は避けて通って、好都合な「歴史パッチワーク」で過去を美化してやまないのも、同じ心理の産物です。

 皆がそれという自覚なしに、この同じ心理に支配されたまま、聞く耳もたず自己の主張を繰り返すだけなら、どうなるか? それを少しは考えてみましょうと、僕は言いたいのです。聖書の方は宗教そのものだから仕方がない(むやみやたらとそれを人に押しつけさえしなければ)として、通常の歴史解釈にまで「宗教」を持ち込んでおきながら、それと自覚せず、その正しさを主張してやまないのは、やはり相当問題があるのではありませんか? いや、日本人全員が「靖国教徒」になれば問題はなくなるのだ、と右翼は言うかも知れませんが、そうなったときはこの日本という国が今度こそ滅亡するときでしょう。それだけは間違いない、と僕は思っています。

 どちらの本も、豊かな含みをもつもので、僕はここでその一部を取り上げて論じたにすぎないので、関心がある方は、元の本をぜひ直接お読みになって下さい。

資本主義の卒業

2014.05.10.14:11

 僕はときどき未開人になったり、宇宙人になったりします。というか、「21世紀文明人」という呼称が僕には一番不快で疎ましいもので、何でこんなものやってなきゃならないんだろうとよくぼやいてしまうのですが、狩猟採集時代(日本でいえば縄文時代)あたり――その後の稲作文化ですら僕には「高度」すぎる――なら、もっとうまく適応して、有能でもいられたのにと、それが残念でならないのです。

 未開人、宇宙人の見地からすれば、今の文明世界は完全な病気で、とりわけ資本主義というのは異常です。なかでも金融資本家という人種くらい奇怪なものはないので、彼らはサイコパスと呼ぶしかないと感じるのですが、そういうとんでもない連中が牛耳っている世界というのは何と呼べばいいのでしょう? 言葉が見つかりません。

 しかし、今は「資本主義の否定」と言えば、すぐにテロリスト、過激派の烙印を捺されてしまいそうです。それというのも、マルクス主義が全くはやらなくなったこんにち、「資本主義の否定」を声高に叫ぶ者は「イスラム国家の樹立」を唱えるイスラム過激派(その代表格がアルカイダ)ぐらいのもので、彼らは不安定な社会情勢を追い風に世界中でものすごい勢いで増殖中のようですが、それ以外にはあまり思い当たらないからです(ブッシュが始めた「テロとの戦い」なるものがかえってテロリストの増大を結果するだけに終わったのは皮肉な話です。尤も、道理から言えばそれはあたりまえの話なので、僕は9.11後のアフガン攻撃のときからそれが逆効果になるだけだと言っていたので、少しは先見の明を自慢させてもらってもいいかも知れません)。

 しかし、先頃、資本主義のど真ん中でそれを言う人がいるのを知り、僕は大いに喜びました。それは元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト、内閣府大臣官房審議官という堂々たる経歴をもつ、日大国際関係学部教授の水野和夫氏で、連休中にその『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を読んで、大いに意を強くしたのです。

 未開人・宇宙人を自称する僕が言っても説得力がないが、こういう人の言うことなら皆さん耳を貸すでしょう。これは示唆に富む、非常に面白い本なので、まだの方には是非一読をお勧めします。この出版社のサイト(←クリック)にはインタビュー、対談記事なども載っていて、これを読むだけでもその趣旨はよくわかるので、そこをまずご覧になるとよいかと思います。

 端的に言えば、これは資本の自己増殖が限界に達して、資本主義がご臨終に達していると主張する本です。それを認識せず、旧態依然たる経済成長神話にすがる政策(アベノミクスはその典型)は新たなバブルの発生とその崩壊とを結果し、そのとき割を食うのは労働者なので、中間層の消滅と貧困層の増大につながるだけ、と説くのです。

 この本では封建制が崩壊して、近代資本主義に移行するきっかけとなった「長い16世紀」と著者が呼ぶ時代との対比が行なわれているのですが、そうしたことについては直接本をお読みいただくとして、まずは資本主義に与えた著者の定義から見ていきましょう。

 著者によれば、それは「『中心』と『周辺』から構成され、『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」です。ところが、その「周辺」「フロンティア(地理的辺境)」が今はなくなってしまって、資本は思うような利益が上げられなくなったのです。

 その兆しが見えたのは1970年代半ばですが、資本はこの段階で「地理的・物的空間」とは別の空間、「電子・金融空間」をつくり出すことによって「資本主義の延命」をはかった。それが今に続いて、事態はさらに悪化・深刻化しているので、それをはっきり認識せよ、と説くのです。

 なるほど、そういうことか、と僕は思いました。金融資本の暴走に僕は腹を立てていましたが、何で資本家たちがマネーゲームに狂奔するようになったかといえば、伝統的な実物経済への投資では利益がほとんど見込めなくなったから、巨大な電子カジノをつくって、それで荒稼ぎしようという方向に行ってしまったのです。カジノには勝つか負けるかだけで、モラルなどというものはありません。いわば勝つことだけがモラルなのです。

 しかし、ふつうのカジノと違うのは、彼らが人々が生活する実物経済の場を投機の対象にしてしまったことです。その「電子・金融空間」に流れ込むマネーの量は、実物経済を流れるそれの比ではない。だから、彼らが儲けた、損したと言っているそのかげで、実物経済はいいように翻弄され、バブルが起きてそれがはじけるたびに、人々は職を失って路頭に迷う、というようなことが繰り返されるのです。

 ひどいのは、勝手に経済社会を賭場に仕立てて、そこでギャンブルに興じた金持ちと金融機関はバブルがはじけるたびに「公的資金」という名の税金で救済され、一方、それで失業するなどして貧困に落ち込む人々には「自己責任」を説き、ほったらかしにされることです。

 著者がこの本の中で二度にわたって引用しているウルリッヒ・ベックの「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」という言葉は、言い得て妙です。前者は「社会主義的」なことを嫌い、国民皆保険制度にまで反対する始末ですが、「市場に任せよ」と言いながら、自分たちが損をしたときだけは、ちゃっかり「政府の保護(社会主義的対応)」を要求するのです。「自己責任」で「市場で淘汰」されるべきなのは、中間層以下の貧乏人だけなのです(アメリカのサブプライムローン崩壊のとき、マイホーム願望につけ込まれて高い利率のローンを組まされ、デフォルトで家を取り上げられ、借財のみ残った貧しい人たちはその後どうなったのでしょう?)

 こういうのは人間のやることではありません。だからサイコパス(反社会的異常人格)だと僕は言うのですが、著者の説明に基づいて考えると、「無理な延命策」で資本主義を生き永らえさせようとするからこそ、社会はそんな非人間的なことも甘受しなければならなくなるわけです。

 しかし、これだけでは若い人たちや経済方面が苦手な人にはわかりにくいかと思うので、著者の資本主義の定義に戻って、それをもう少しわかりやすく見てみましょう。

 かつては「豊かな国」(中心)が「貧しい国」(周辺)から資源収奪して、富を築きました。貧しい国の貧しい労働者に馬鹿みたいな低賃金で働かせて、そこの資源を貢がせたのです。それで豊かな国はますます富み、資本家だけではなく、そこの市民・労働者もそのおこぼれにあずかって相応に豊かになっていった。

 しかし、それは「南北問題」が盛んに論じられた頃までの話で、今はそうした「帝国主義的収奪」が正当化されうる時代ではありません。貧しい国を植民地扱いし、そこの住民に奴隷に等しい労働を強いて、というようなことはもう許されない。国家内部の「民主化」も時代の流れで、北朝鮮みたいな独裁国家は完全に“過去の遺物”です。王制を敷いてオイルマネーを一握りの王族が独り占めしているアラブの産油国も、共産党一党独裁の中国も、本当の意味での民主化をいずれ迫られるようになるでしょう。

 その意味ではたしかに世界は「進歩」したのです。たとえば日本企業が東南アジアなどの新興国に進出する際でも、そこが日本と較べて低賃金だから工場生産に有利だというだけでなく、今はそこを新たな市場としてはっきり意識するようになっています。その国の経済発展と、それによる市民の購買力の増大を当て込んでいる。つまり、工場として見ているだけでなく、有望な新市場がそこに出現することを期待しているのです。その国の人々が豊かになって新たな消費主体となることを期待している。だからその国が経済成長するよう「援助」するのです。

 これはしかし、国内市場が飽和状態に達して、そこではモノが売れなくなっているからでもあります。1970年代前半までは、モノもサービスも足りていなかったから、所得増大とも相まって国内需要が旺盛で、作れば作るだけ売れた。しかし、今はひととおりモノが行き渡ってしまった。テレビもパソコンも、クーラーも車も、みんなもっている。おまけに少子高齢化で、人口自体が減少に向かっています。市場としては先細り必至で、だから企業は海外に販路を見つけねばならなくなった(=フロンティアを開拓しなければならなくなった)のです。

 要するに、企業は国内市場では利益が出せなくなったから、国外に新市場をつくって儲けようとするのです。血眼になって儲かる投資先を探している金融マネーもそうした新興国に集まる。それでインフラ整備や設備投資が活発になって急速な経済成長を遂げるのですが、そこに集まるマネーは経済成長に必要な資金の数倍にも達し、やがて過剰設備投資の様相を呈して、バブルになる。バブルがはじけそうだと見ると、目ざとい金融マネーは一気に資金の引き上げにかかるので、経済がクラッシュし、その国には大量の失業者が発生したりするのです。それでなくとも、先進国の金融緩和が縮小されるという報道が出ただけで、資金の流入が止まって経済成長が止まったりする。

 著者は今の新興国が先進国並になることはまずないだろうと言います。それではエネルギー消費が今の倍になってしまって、資源価格が高騰するだけでなく、資源枯渇も早まるので、単純にそれは無理だろうという理由もありますが、根本にあるのは「フロンティアの消滅」という問題です。本の冒頭で、「『アフリカのグローバリゼーション』が叫ばれている現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っている」と述べられているのはそういう意味です。もはや有利な条件で資源収奪できるところも、市場として拡大し続ける場所も、残ってはいないのです。それでは資本は利益を上げ続けることはできない。

 それでどうなるかというと、資本主義はそれぞれの国内部に「中心」と「周辺」をつくり出すしかなくなって、一部の富裕層が多数の貧困層をダシにして利益を上げるということしかできなくなる。今後は先進国でも新興国でも内部の貧富の格差は拡大するのです。少なくとも今の資本主義を延命させようとすれば。

 この点でも、アメリカのサブプライムローン問題は象徴的でした。あれはまさに「貧困ビジネス」そのもので、subprimeという言葉にしてからが、「準・最優良」というわけのわからない、いかにも詐欺めいた名称ですが、アメリカ国内の貧困層にターゲットを絞って、大金持ちたちがそこから搾り取ろうとしたのです。しかも、買い手の良心をなだめるためか、その危険性をわからなくさせるためかどうか知りませんが、金融工学なるものが不可解な金融商品なるものを発明し、その債券を中にもぐりこませたものを作って、世界のだぶついた金融マネーに買い取らせたのです。格付会社もグルになって、その「高利回り商品」にAAAをつけた。「安全確実」でかつ「高利回り」なんてあるわけはないのですが、皆でそんなトンデモ話に乗ってしまうほどに儲け話に飢えていたと、これはそういうことなのでしょう。そこまで今の資本主義は「焼きが回って」いるのです。

 このまま放置しておけば、第二第三のサブプライムローン問題が、かつてわが国も経験した不動産バブルが、過剰設備投資による経済崩壊(著者はいずれそれが中国で起こると予想しています)が、あちこちで繰り返されるでしょう。そしてそのたびに信用収縮による雇用の減少などで貧困に転落する人が増え、中間層が減って、貧困層が増大するのです。

 それはわが国でもすでに現実のものとなっています。本書には「日本の実質賃金」のグラフが出ているのですが、1997年のピーク111.3(2010年のそれを100としたもの)から多少の凸凹はあるものの、好況・不況を問わず「右肩下がり」に一貫して下がり続けて、その指標は2013年に97.7まで下がった。企業利益は増えても雇用者報酬は下がる、というかつてならありえなかったことが、今は起きているのです(この間、数値上は「いざなぎ景気越え」の「長期好況期」があったことに注意)。

 その結果としての日本人のビンボー化の速度にはすさまじいものがある。この本のP.197に出ている「金融資産非保有世帯比率」というのを見ると、この場合の「金融資産」というのは預金や株式などをひっくるめたものだと思いますが、2013年にはそれが31%に達しています。つまり、三世帯のうち一世帯は預金ゼロなのです。「87年の時点では金融資産ゼロ世帯は3.3%で…1972年から87年にかけての十六年間の平均が5.1%」だったことを考えると、全体としての日本人の貧窮化のスピードとその度合いには驚かされるのです。「非正規雇用者が雇用者全体の3割を超え、年収200万未満で働く人が給与所得者の23.9%」、「生活保護受給者も200万を越え」るという事態になっているのだから、それはあたりまえと言えるかも知れませんが、「一億総中流」とかつて呼ばれたのは、今は昔の物語なのです。

 中でも一番割を食っているのは若者で、失業率・不安定雇用の度合いは一番高いし、企業の“ブラック化”が進み、20代、30代の過労死や自殺が跡を絶たない(年間自殺者数連続3万人超の不名誉な記録は14年でやっと止まりましたが、それも3万を切ったというだけの話です)。それで「少子化に歯止めを」なんて言うのは、土台無理な話です。

 こういうのは財界が言うような、たんなる「国際競争激化」の要因によるものだけではないので、労働分配率、収益における労働者報酬の比率が下げられているからです。その代わり株主への配当を手厚くしたり、余剰自己資本の比率を高めたりするのは、全部株価対策と言ってよいでしょうが、ここにも「金融空間(投機マネー)の支配」が影を落としているのです。

 僕は時々「東西冷戦」の時代が懐かしくなります。著者は今の「グローバル資本主義とは、国家の内側にある社会の均質性を消滅させ、国家の内側に『中心/周辺』を生み出していくシステム」であり、「そもそも資本主義自体、その誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステム」だったのだと言いますが、かつての東西冷戦の時代には、資本主義国は共産主義国に対抗する必要から、“資本主義根性”を丸出しにすることはできず、社会主義的な施策に力を入れたり、人々への「富の平等な分配」に意を用いざるを得ませんでした。そのあたり、まだしも“慎み”というものがあったのです。

 それが共産主義国家の消滅(中国は今でも「共産党独裁」ですが、「社会主義市場経済」とはたんなる形容矛盾で、マルクスが見たらのけぞりそうな非民主的資本主義国家でしかありません)によって、本性が丸出しになって暴走し始めた。「自由な市場」を錦の御旗に、平然と「格差」を是認するようになったのです。構造的な問題(著者も言うように「21世紀の資本と労働の力関係は圧倒的に前者が優位にあ」る)は棚上げして、あたかもそこに公平なチャンスがあるかのように、成功するもしないも「自己責任」だという論理のペテンにふけるようになり、人々はそれを受け入れたのです。

 要するに、かつての資本主義国はアカ(共産主義者)の勢力拡大を恐れて、「資本主義の国の方が豊かで、かつ平等である」というアピールを自国民に対してたえず行なう必要があった。だから労働分配率も上げて、「満足した中間層」を厚くし、貧困層への配慮も忘れないようにしなければならなかったのです。それが「強欲な資本主義」のブレーキ役を果たしていたので、それがなくなったものだから資本主義は本来の露骨なまでの貪欲さを取り戻したのだと、そういう見方もできるでしょう。

 だから、「株価が上がった」なんてことで喜ぶのは愚かなのです。早い話が小泉政権時代、株価は倍に上がり、「戦後最長の経済成長」を記録していたのです。しかし、上に見たとおり、実質賃金は下がり続けた。「実感なき景気回復」と言われたゆえんです。当時金融担当大臣だった竹中平蔵(凝りもせずまた“復活”しているという話ですが)が主張していた投資減税、法人減税、累進税率の見直し、労働市場の規制緩和(その後進みすぎた)などは、全部「富者に優しく、貧乏人に厳しい」施策でした。小泉規制改革の標語、「痛みを分かち合う」は中間層と貧乏人だけがそれを強要されるので、富裕層は(竹中の「理論」によれば、富裕層を優遇すれば、景気がよくなって貧乏人もそのおこぼれにあずかることができるらしいのですが)その「痛みの共有」を免除されるのです。その結果が上に見た日本社会の急速な「ビンボー化」「格差社会化」だったことを、僕らは忘れない方がいいでしょう。

 これは世界的な傾向で、今や完全に「金融帝国」化したアメリカでは、ウォールストリート支配の国家運営が続く中、かつてその力の源泉であった「中間層」の多くは没落して、「1%対99%」という言葉がはやり、「ウォールストリートを占拠しろ!」デモが行われるようになったのは記憶に新しいところです。この本にもそのグラフに出ていますが、アメリカの上位1%の富裕層の所得が国民総所得に占める割合は、1976年に8.9%だったのが、リーマンショック直前の2007年には23.5%にまでなり、今もその比率はほとんど変わっていないのです。

 これは新興国、その代表たる巨大人口を擁する中国やインドでも同じで、その貧富の格差は日本やアメリカよりさらに甚だしい。しかしこれは「資本の論理」からすれば必然で、今やっているような「資本主義の延命策」をとり続ける以上、事態は悪化こそすれ、解消に向かうことは期待できない、というのが著者の見るところです。

 だから資本主義は、少なくとも「飽くなき利潤追求」を事とする従来型の資本主義は、もう終わってもらわなければならない。でなければ世界は政情不安の国ばかりになって、それが具体的にどういうかたちをとるかは知りませんが、大混乱のうちに自滅へと向かう他なくなるでしょう(イスラム過激派が政権をとったとして、彼らにまともな国家運営ができると思う人はほとんどいないでしょう)。

 では、どういう手があるのか? この本の著者にも“ポスト資本主義”の名案はまだないようですが、誰が考えても同じになるだろうと思われるのは、巨大多国籍企業、とりわけ金融資本の「暴走」を止めることです。それはマネーゲームで実物経済をクラッシュさせるのも平気なモンスターになっているのだから、世界的な規制が必要で、ウォールストリートに乗っ取られたアメリカ政府がいくら反対しようとも、それは行なわれねばなりません。「グローバル化した世界経済では、国民国家は資本(金融資本)に振り回され、国民(国家)が資本の使用人のような役割をさせられることになってしまってい」るのですが、これを変えなければならないのです。この点について、著者はこう述べています。

「世界国家、世界政府というものが想定しにくい以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります。具体的には法人税の引き下げ競争に歯止めをかけたり、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入したりする。そこで徴収した税金は、食糧危機や環境危機が起きている地域に還元することで、国境を越えた分配機能をもたせるようにするのがよいと思います。
 G20で世界GDPの86.8%を占めますから、G20で合意ができれば、巨大企業に対抗することも可能です」(p.186~7)

 正論ですが、これは「言うは易し」の典型だと著者自身が思っているようで、冒頭紹介したサイトで見られる日刊ゲンダイのインタビューでは「G20が暴走する資本主義にブレーキをかけるシナリオも、米国が反対するから難しい。となると、中国のバブル崩壊というハードランディングになるのではないでしょうか。その後、世界はグローバル化ではなく、保護主義的にブロック経済化していくと思います」と語っていますが、本当はその気になりさえすればできることです。問題は、著者のような先鋭な認識をもつ人がまだ少ないことで、竹中平蔵のような無責任な市場崇拝論者(著者は同じインタビューで「資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側の利益を増やし…富むものがより富み、貧者はますます貧しくな」り、「格差が広がっていく」と述べています)の方が多いことでしょう。今の資本主義はその“本性”を否定しないかぎりもう立ち行かなくなっているという認識が共有されていないのです。

 国内的にはどうか? これはまず第一に「所得分配の公平性」を回復することです。週刊プレイボーイのインタビューでは、次のように述べられています。

「まずは成長戦略を捨てて、格差の是正を進めなければならない。所得税の累進性を高め、富裕層への最高税率は50%に戻せばいい。もちろん、法人税を下げるなどもってのほかで、むしろ上げるべきでしょう。政治の本来の役割というのは『富の再分配』なのだということを、いま一度、思い起こすことが大切だと思います」

 本の中で言及されているのはワークシェアリングの方です。これは連合などの労働組合も言っていることで、べつだん目新しいものではありませんが、わが国の長時間労働は先進国の中でも飛び抜けていて、実際はサービス残業(これもおかしな言葉で、別に顧客にサービスしているのではなく、雇われている企業に無賃金で使われているだけなのですが)も入れると政府統計の数値をはるかに上回る。こういうのを減らして、もっと人を雇えということです。

 労働分配率を上げれば、それは不可能なことではないでしょう。正社員、特に中高年のそれは既得権益で守られていて、零細自営の僕などは、五〇代のサラリーマン(但し、大手企業や公務員に限る)にその給与額を聞いて、「あんた、大した働きもしてないのに、それはもらいすぎじゃないの?」と言いたくなることが少なくないのですが、一緒にそうした不公平も是正すれば、新たに人(とくに若者)を雇い、一定時間以上のパート・アルバイトには社会保険をつけたり、全体に時給を上げたりすることはできるでしょう(10円単位のアップではなくて)。そうすれば長時間労働は減って、皆がハッピーになるのです。

 今の安倍政権は「ホワイトカラー・エクゼンプション」なるものを導入しようとしているそうで、このexemptionというのは「免除」の意味で、対象者には労働基準法の労働時間規制を「免除」して、労働時間に関係なく、「成果」に応じて賃金を支払うというものです。企業にしてみれば、長時間だらだらやっているだけでロクな成果も上げられない者に残業手当のおまけまで付けるのは馬鹿らしい(短時間で成果を上げる者よりそちらの方が高報酬になるのは不公平でもある)という理屈があるようですが、問題はその「成果」で、無理なノルマを一方的に吹っかけて、それを達成しろということになれば、「24時間働け」の悪名高いワタミみたいになることは必定と思われるので、長時間労働がさらに増えるということになりかねません。そんなことより、もっと先にやることがあるだろうが、ということです。

 余談ながら、僕も三十代の頃、数年間、この「労働時間自己裁量制」は経験したことがあります。仕事に飽きて辞めさせてくれとゴネているうちに、出勤はゼロでもいいから、トラブルが起きたときはその都度対処して解決し、管理・運営の最終責任だけもってくれればいいと経営者に言われたのです。しかし、出勤ゼロでは現場の状況が把握できないから、週20~25時間程度は出勤していましたが、こういうのは人材難の時代の話で、今はそんなおいしい話はほとんどないでしょう。しかも、運営を丸投げされていたのをいいことに、僕はそこでいくつかの「改革」を行なったのですが、それは会社の利益を減らすようなものばかりだったのです。しまいにはその部門単体では赤字を計上する羽目になった。サービスを手厚くしていわゆる「顧客満足度」を高め、増員と時給体系の改訂で人件費を倍増させたのが裏目に出たのです。経営者から「ちょうどあんたの給料分ぐらいの赤が出ている」と言われた僕は、「その程度なら本体の黒字で楽に吸収できるでしょう」なんて澄まして答えたのですが、今ならそんな不埒な中間管理職は即刻クビを言い渡されるでしょう。

 そういうのはやりすぎだとしても、パートを低賃金でこき使い、下請けを泣かせ、正社員には長時間のサービス残業を強いる、なんて企業は、その社会的責任を果たしているとは言えないでしょう。契約打ち切りをチラつかされて単価を値切られた下請けは従業員にロクな賃金も支払えず、やがては倒産の憂き目に遭う。企業本体の利益だけは伸びても、そこで働く人たちや関係者は皆疲弊し、困窮してゆくのです。全体がそれでは購買力が落ち、景気がいっそう冷え込むのはあたりまえです。株主と無能な経営陣だけは安泰かも知れませんが、それも長続きはしないのです。

 ゼロ成長下でも、労働分配率を高めて、ワークシェアリングをうまくやり、時間・形態に応じた相応の賃金を支払えば、今より暮らし向きがよくなる人は増え、社会の安定化につながると、この本の著者は考えているようです。

 僕が資本主義に対してずっともち続けてきた違和感は、「なぜ利益を増大させ続けなければならないのか?」ということです。際限もない不毛な業界内のシェア争いなどもそうで、生物学に「棲み分け理論」(今西錦司が提唱した)というのがありましたが、企業は従業員の雇用を守れるだけの適度な利益さえ上がっていればいいと、なぜ考えないのか、ということです。そうすれば他の会社も圧迫されずにすむ。むやみやたらと増殖して陣地を広げねば気がすまないというのでは癌細胞と同じです。それは病気ではないのか? 十億の資産を二十億に、次は百億に増やさないと気がすまないという資産家も同じです。資産はあっても、精神構造は守銭奴以外の何者でもないのです。そういう奴にかぎって異様なまでにケチで、社会や人のためになることは何もしないのです。

 こう言ったからといって、僕は談合しろとか、競争はすべきでないと言っているのではありません。ほどほどには競争もあった方がいい。その方がいい商品、サービスも提供されるだろうし、関係者の技術技能も上がる。しかし、度の過ぎたパイの奪い合いなどは意味がないだろうと言っているのです。ところが関係者の話を聞いていると、何のためにあなた方はそんな競争に身も心もすり減らしているんですかと疑問に思うようなものが少なくないのです。それでさして消費者が利益を受けるわけでもない。

「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ(著者はこれを「定常状態」と呼んでいます)」をベースとした経済運営を考えるべし、というこの本の著者の考えは、僕のそうした思いとつながる面があります。無意味な膨張、拡大は自己規制して、製品・サービスの質を維持・向上させ、雇用を守れるだけの利益はきっちり上げても、拡張は必要最小限に抑えるのです。利潤をたえず増大させ続けねばならず、支店を、フランチャイズ店を年間100店舗ずつ増やさなければならない、なんてのはただの病気ではありませんか。それで低賃金で人をこき使うだけとなると、なおさらです。セブンイレブンなんか、今はそこらじゅうにありますが、詐欺と似たやり方でオーナーを募集し、店主にはロクな取り分が与えられないというので裁判になっていますが、そういうあこぎなことをやって人を泣かせておいて、いずれ天罰が下るとは思わないのでしょうか。

 それが「資本主義の必然」だと言うのなら、そんなものは早めに「卒業」した方が世のため人のためなので、別の行き方を模索するときに来ているということです。

 物事がうまく行かないとき、システムの内部にいて、そのシステムの構造それ自体は疑うことなしに解決策を探しても、うまく行かないことが少なくありません。その外側に出て考えてみれば、全く違う発想が生まれてそれが解決につながるということがあるものです。今の資本主義の問題もその一つではないかと、僕はこの本を読みながらあらためて思ったのです。

 皆さんもこの本を読んで、そのあたりよくお考え下さい。著者が重要な問題だと考える「財政均衡」の問題などについてはここでは触れませんでしたが、それもその通りだと思われるので、全体として著者の議論は説得力に富むのです。

 今の資本主義はそれ自体が病気ではないのか? それは考えてみるだけの価値があります。まず“病識”をもたないことには、治療は始まらないのです。
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