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魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』雑感

2015.09.22.00:20

 最近、えらくマメに更新していますが、今回は全然毛色の違う話で、しばらく前に書きかけてそのままになっていたのを、続きを付け足してアップしておきます。

 この手の本を読むのは久しぶりなのですが、先日歯医者に行って、時間があったので寄った書店でたまたまこれ(新潮社刊)を見つけました。帯には末木文美士、佐々木閑、宮崎哲弥の三氏が推薦文を寄せていて、つむじ曲がりの僕は通常そんなものは信用しないので、著者の年齢が若い(35~6歳)ことでもあるし、大したことはないだろうが、定価も税別1600円と安いし、まあささっと読んでみるかということで買ったのですが、一読、「うーん。これは凄いな」と唸ってしまいました。

 これはたとえてみるなら、四百メートル障害物競走のアスリートの見事な走りっぷりを眺めるようなものでした。行く手に立ち塞がる障害を次々鮮やかにクリアしてゆく。ふつうのランナーなら、ここらへんで障害を回避したり、あるいはぶざまに転倒して、しかし、ご本人はクリアしたつもりでそのまま走り続けたりするだろうなというところで、正面からそれに挑んで、楽々それを飛び越えてゆくのです。そうしてめでたくゴールイン。

 わが国の仏教学会は久々の俊英をもったと言うべきでしょう。この分量で、これだけの内容のことを書ける人は、めったにいないのではないかと思われます。学部時代、西洋哲学を学んだという人だけに、論理もきわめて明快です。扱われている論点も、この方面にいくらかでも関心のある人には重要と感じられるものばかりです。その意味でも、これは「かゆいところに手が届く」懇切な本です。

 僕自身はこの本に述べられていることにほとんど全く異論がありません。「お見事!」と言う他ないもので、大乗仏教に関しても、この方面に関する詳細な知識がないから書けないだけで、自分が書いても同じような意見になるだろう(何で偽典を作ってまで、原始仏教との「連続性」を演出しなければならなかったのか?)と思います。「だから大乗仏教は無意味だ」という結論にはならないのも同じで、この点、著者の議論が「テーラワーダ仏教に肩入れしすぎたもの」だという批判は当たらないでしょう。

「仏陀の説いた教えとはそもそもどういうものであったのか?」というところにパーリ語原典をもとに切り込む、というのがこの本の本旨で、それが通常の道徳説や哲学とは根本的に大きく異なっているということも、明確に説明されています。「無我」説についての説明も意味不明の独善に落ち込まず、周到で納得のいくものです。

 この本の優れているところは、著者がたんにこの方面の該博な専門知識をもっているということだけではなく、何らかの自得体験をもっていて、そこからテキストを読み解いていると感じられる点です。でないとこういう説明はできない。むろん、その中身の深浅はあるでしょうが、論理の枠組みそれ自体はその後も訂正を要しないだろうと思うので、著者はその点、自信をもっているように見えます。

 P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。

 この「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」が直覚されないことには、「生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」が本当に認識されることはない。それは夢とは別の現実を知っているから、夢が夢と認識されるというのと同じで、書物で読んで、いくら理屈で自分に言い聞かせても、それではどうにもならないのです。

 僕は座禅や瞑想をやったことがない(短期間、仏教系出版社に勤めたことがあって、そのとき社員研修の一環として二泊三日ぐらいの日程で禅寺で座禅をやらされたことがありますが、足が痛くなっただけでした)ので、そのあたりは想像でしかないのですが、禅僧などの場合だと、「悟る」ためにそれをやって、その「悟ろうとする自我の努力」が崩壊した時に、その地平は初めて開けるのだろうと思います。禅の公案の場合、あれは思考による合理化の努力を破産させる意図で設けられたものなのだろうと思いますが、そのときやっとそれが直覚される条件が整うのです。

 それはむろん、「小我から真我に意識がシフトした」というようなものではないので、そういう思考モデルそれ自体が破産したところに生じる、それは事態なのです(そこらへんをカン違いすると、厄介なことになる。「最終解脱」したつもりのオウムの麻原なんかはその類だったのかもしれません)。

 仏教における「無我の教え」というのは、別に道徳的なお説教ではないので、それは端的に、固定的、実体的な「自分」というものはどこにも存在しない、ということを現実に即して説明したものだと思いますが、ユングなどの心理学では、通常の自我、パーソナリティの背後に、真の自己、大文字のセルフが存在する、なんてことを言うので、話がよけいにややこしいことになってしまうのです。古来の「不滅の霊魂」説も、これに拍車をかける。それは死後も存続するコンプレックス(心的要素の複合体)、流れのようなもの(本書の著者によれば「現象」「プロセス」)で、それは実体的なものではなく、上記の引用文で言われている「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」はそういうものとは無関係(ユングの言う「集合的無意識」なるものをいくら探ってもそこには行き着かない)なのですが、「自己」観念というものに縛られていると、それ自体が妨げとなって、覚知が不可能になってしまうのです。

 しかし、現実問題として、こういう話はなかなか通じません。絶望的なまでにそうだと言ってよい。だから馬鹿らしくなって僕は話すのをやめてしまったのですが、我田引水ながら、輪廻転生の担い手となるものが何であるかということに関しては、それを認めていた西洋中世のキリスト教異端カタリ派(仏教との類似性も指摘されるが、原始キリスト教の再来を自任していた)の歴史と信仰を扱った『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著)という本の訳が、具体的な日程はまだ未定ですが、版権取得も無事済んで近いうちに出せる運びになって、その本の訳者あとがきに自分なりの考えを書き含めておいたので、興味のある方はそちらをご覧ください(出版時にはここでも告知します)。

 それはともかく、僕はこのブログで「この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」ばかりを相手にして、ああだこうだとうるさく言っているので、仮にも「宗教の高遠な真理」に関心を寄せたことがあるのなら、何でそんな馬鹿なことをしているのだ、と言われるかもしれません。

 そう言われると返す言葉もないのですが、僕は「生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離すること」は自分の柄ではないと考えて、とうの昔に「解脱」などというものは諦めてしまった人間です。そちらの道をきわめるのは偉いお坊さんたちにお任せする。ときにゲンナリしながらも、僕は「俗世間の泥」の中で暮らし、その泥を食らって正体不明になりかけながらも、これが下根のわが道であるかと、それなりに「覚悟」しているわけです(ある知人によれば、僕はカタリ派時代の「虚偽と不正に対する怒り」があまりにも強かったために、それを持ち越して今も怒り続けているのだという話です。カルマというのはかくも恐ろしい?)。

 話を戻して、これはそういう人間にとっても十分面白い本だったということです。真面目な仏教研究者、修行者にとってはなおさらでしょう。広く一読をお薦めします。

【付記】これをアップする前にネットを見てみると、小木田順子さんという方(なんとこの前僕が悪口を書いた見城徹氏の幻冬舎の編集者!)が愉快な書評を書いておられます。

  仏教は、「人間として正しく生きる道」を説いていると思われがちだが、それは冒頭できっぱり否定される。
 ゴータマ・ブッダは出家を重視し、弟子には「労働と生殖の放棄」を要求する。「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して、『異性とは目も合わせないニートになれ』と求めている」のだ。
 ゴータマ・ブッダが説くのは「世の流れに逆らう実践」であって、仏教に処世の知恵や癒しを求めた人は、まず出端を挫かれることになる。
 最初で救われないだけでなく、大方の読者はおそらく最後まで救われない。なぜか。
 仏教では「全ての現象は苦である」と言われる。ここでの「苦」とは、痛みや悲しみなどの肉体的・精神的な苦痛だけではない。そのニュアンスを正しく汲み取れば、「不満足」の語が適切で、「欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態」を意味する。(私は、チョコとポテチを一口だけ食べて満足することはなくて、食べれば食べるほど、また食べたくなる感じとか、お洋服を1着買えば、色違いも欲しくなり、それに合う靴も欲しくなり、バッグも欲しくなるときの、とめどない感じとかを反芻しながら読みました)
 このような「生」きている間の苦の先には、「老」「病」「死」という、誰にでも必ず訪れる苦が待ち受けているのだが、それでは終わらない。
 仏教の基盤になっているのは輪廻転生の世界観で、私たちは何度も生まれ、何度も死ぬ。その間「終わりのない不満足」は、ずうっと繰り返されるのだ。
 それを終わらせてくれるのが「解脱」であり、その先にある境地が「涅槃」。そこに到達する道が修行(瞑想)である。
 ゴータマ・ブッダは自らそれを実践し、解脱し涅槃に到達したうえで、弟子たちに対して、「これをやれば、お前たちも苦を終わらせることができる」と、正しい鍛錬の仕方を示した。
 そして弟子たちがそれを実践してみると、たしかに言われたとおりの結果が出た。そのような再現性こそが、仏教は2500年にもわたって存続してきたことの原動力になっている。
 方法があると書けば、救いはある、と思われるかもしれないが、解脱・涅槃に至る道は、ただ一つしかない。すなわち、異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想すること。
 私が、今回の人生において、これから修行者の道を選ぶことはまずないから、私が決して満たされない欲望に苛まれ続け、「苦」のうちに生を終えるのも間違いない。
 そんな己の末路をはっきりと見通せてしまったことの、なんて痛快なこと。そして、縁起とか業とか無常とか無我といった、これまで難しそう・めんどくさそうと遠ざけてきた概念が、どこでどう繋がっているのかがわかり、この世界の成り立ちが鮮やかに説明されることの、なんという快感!


 簡にして要を得たうまい書評だと思いますが、「異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想する」覚悟が「仏弟子」には必要だということになれば、大方の人には「無理」だということになって、敬遠せざるを得なくなるでしょう(その生活も本来「乞食(こつじき)」によるべきなのです!)。しかも、「長年瞑想しても人格はよくならない」なんてことまでこの本には書かれているので、全く救いはなさそうに見えますが、それも「事実」だと思われるので、このあたりが「仏教の教えは人を幸せにする」と説く通常の啓蒙書の類とは大いに異なるところです。

 それでは、仏教は何の役に立つのか? 何の役にも立たないので、ただ、この世界がどういう成り立ち、仕組みになっていて、どういうおかしなことを人間はやり、その結果どういう苦しみ方をする羽目になるのか、そういうことをシビアに認識することに関しては大いに役立つということでしょう。学生時代読んだ小林秀雄のエッセイにこういう箇所がありました。「現代人は無常を知らない。常なるものを見失ったからである。」無常なものを常なるものと思い込むより、無常を無常と知ることの方がいくらかはマシだと、その程度のことだけは言えるかもしれません。仏教の教えもその意味では「ふつうの人の役に立つ」のです。

どんなホラー小説よりもこわい!~堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』雑感

2014.11.29.15:28

「これは、しかし、ホントの話なのかね?」

 読みながら、途中何度も僕はそうひとりごちました。アメリカがひどい状態になっているのはわかっているつもりでしたが、認識が甘すぎたというか、まさかここまで悲惨なことになっているとは知らず、愕然とさせられたのです。

 これは21世紀の先進国に出現した、巨大な奴隷制国家です。そう評する他ない。

 話はオバマ大統領の医療保険制度改革、いわゆるオバマケアを軸に展開されるのですが、それを通して今のアメリカ社会がどういう構造になっていて、どういう不具合が生じているのか、あぶり出されるようになっているのです。

 これは有名なリンカーンの言葉をもじっていうなら、「一握りの金持ちの、一握りの金持ちのための、一握りの金持ちによる政治」が行われている国家で、大多数の人間はあの手この手で搾取を受けて貧困層へと突き落とされ、そこでさらに「貧困ビジネス」の餌食にされ、最後は家さえなくしてロクな治療も受けられないまま、トレーラーハウスか何かで苦しい息を引き取るのです。

 医療保険制度云々の前に、僕がびっくりしたのは医療費の高さです。何より薬代が「目ン玉が飛び出るほど」高い。だから月々の保険料も馬鹿高いので、ほとんど無意味に近い最低の医療サービスしか受けられないような最低レベルの保険(すべて民間の保険会社が提供する)でさえ、わが国の国民健康保険の平均的な割当額より高いほどなのです。

 これと較べるなら、わが国は医療の天国です。僕はこの前、「必ずしもいいことづくめではない」と書きましたが、あれは“基準”が高すぎたと言うべきで、北朝鮮人民と較べればわが国庶民の生活は「天国」と呼べるのと同じで、アメリカの医療システムと較べるなら、日本のそれは「天国」に近いのです。

 アメリカでは医療費が払えなくて破産する、いわゆる「医療破産」が破産理由のトップになっているそうで、しかもそれは無保険者だからそうなるというのではなくて、支払額を極力低く抑えたい保険会社があれこれ難癖つけて支払いを拒むものだから、結局治療費が全部自分にふりかかってきて、高い保険に加入しているのにそうなってしまう。そういう話はマイケル・ムーア監督の『シッコ』でもやっていましたが、オバマケアでそのあたり改善したのかと思いきや、全然そうはなっていなくて、製薬会社と保険会社はこの法案を使い物にならない穴だらけのものにして、全体としては前より事態は悪化してしまったのです。

「なるほどねえ」と僕はその巧妙さに感心(?)しました。どんな善意の制度でも、骨抜きにして、さらなる搾取の道具にしてしまう。オバマケアに期待した人たちはものの見事に裏切られ、たとえば、この本に登場するある50代の中年夫婦の場合だと、この人たちは以前からちゃんと保険に加入していたのですが、同じサービスを受けるのに前と較べて保険料が2倍になり、かつ、自己負担額が増えるのを知る羽目になった(具体的に言うと、この夫婦の年収は日本円にして約650万で、月々の保険料が6万円だったのが、12万になるという話なのです。医者にかかった時の自己負担分も含めた年間医療費はトータル約130万だった。まだマシだったという“以前でも”ですよ。とくに大きな病気もなく、時々医者にかかる程度で、こんなに医療費を払っている人が日本にいますか?)。

 ともかく「改革後」のそれだと支払い能力を超え、高い薬が必要な病気になれば破産は目に見えているので、それなら保険は買わない(=保険に加入しない)ことにすると言うと、今回の法改正でその場合は罰金を支払わねばならなくなり、この罰金は年々上がることになっているので、2016年段階でおたくの罰金額は16万円になります、と言われる。無保険で病気になれば全額自己負担というリスクを冒す上に、さらにこんな罰金まで課せられてしまうのです!

 実に恐ろしい話ではありませんか? この本には類似の(というより、これよりもっとひどい)残酷話がこれでもかというほど続出するので、だから「どんなホラー小説よりも怖い」と言ったのです。しかもこれは、フィクションではなくて、全部実話なのです。

 アメリカ国民でなくてよかった!と胸をなでおろしていたら、「安心するのはまだ早い」ということで、アメリカのハゲタカ外資は虎視眈々と日本市場を狙っている、という話が最後に出てくるのです。

 2014年1月のダボス会議で安倍総理は、「非営利ホールディングカンパニー型法人制度」について言及し、投資家たちに日本に新たに生まれる新市場をアピールした。名前の頭に「非営利」とついているが、重要なのはその下にある〈ホールディングカンパニー〉という部分だ。

 詳しくは本書を直接お読みいただくとして、「投資家たちにアピール」するのは儲け話に決まっているから、それがロクでもないものなのはこの段階でわかろうというものです。こういうのも、アベノミクスの何番目かの「矢」には含まれているわけです。全体、アベノミクスというのは株価などの経済指標を上げることばかりで、経済の内実を問うものではない。それがわかっていない人が多いようなので、そのあたりをきっちり見ておかないと、何もかもが「アメリカ並」にされてしまいかねないのです。

 話を戻して、今のアメリカでは患者である一般国民が理不尽医療制度の被害者になっているだけでなく、医師も被害者なのです。どうしてそうなってしまうのかということは本書の第2章「アメリカから医師が消える」に詳述されていますが、これまた読んで憤りを禁じ得ない内容で、この現代の巨大奴隷制国家においては、医師も奴隷の一部なのです。本業そっちのけで投資で儲けていれば別として、アメリカの医師はもはやかつての「尊敬を受ける裕福な専門職」などでは全然ない(日本もこうだと、医学部進学希望者は激減して、「最も入りやすい学部の一つ」になってしまうでしょう)。

 他にもオバマケアの導入でどうして短時間パートが激増する羽目になったのかなど、興味深い(というより、これまた恐ろしい)話がたくさん出てくるのですが、そうしたあれこれについては直接お読みください。僕が最後に書いておきたいのは、この本全体から見えてくる今のアメリカ社会の透視図です。

 リーマンショック以後、金融機関の規制は進むどころか、巨額の税金投入で救済されたウォール街の大手金融会社はかえって焼け太りして、さらに支配力を強化したというのは有名な話ですが、今のアメリカはそうした金融機関と、投資家、この本に出てくる製薬会社、保険会社などの巨大企業のトップと幹部たちのためにだけ存在し、一般の労働者はその搾取を受けるためだけに存在しているかのようです。政治家は支配層の使い走りにすぎない。

 かつてアメリカが元気だった頃は、分厚い中間層が存在して、その代弁者としての産業別組合も元気でしたが、今やその組合も風前の灯のようです。労働者はバラバラにされて交渉力を失ってしまった。昔、法学部の不良学生だった頃、民法のテキストで、「民法上、社員とは株主のことを指すのであって、わが国で通常『社員』と呼ばれているものは、法律的にはたんなる労務者にすぎない」という記述を読んで苦笑したことを憶えていますが、今のアメリカはこうした法律用語に忠実に、「社員」たる株主への配当を増やすべく、必死になって利潤を上げ、「労務者」の賃金、福利厚生などは、「経営効率化」のために削れるだけ削って、かぎりなく奴隷の労働に近いものにしてきたのでしょう。そうして経営陣は、経営効率化と利潤増大に努めた見返りとして巨額の給与、ボーナスを懐にして、たんまり配当を得た投資家たちとにっこり笑って握手するのです。彼らは「同志」です。一般従業員は、彼らに奉仕すべく存在する奴隷でしかない。

 今のアメリカでは医療も教育もビジネスです。刑務所ですら民営化されてビジネスになっていて、ビジネス化されると、そこで働く者はすべて自動的にこの新種の奴隷制度に組み込まれることになるのです。サービスを受ける側も当然ただではすまない。それはビジネスに見合った性質のものへと変容するのです。究極的にはそれはサービスを受ける側のためにあるのではない、それを通じて儲ける側のために、投資家の利益に貢献するためにあるのです。つねに利潤が、その仕事本来の目的に優越する。

 製薬会社にとっては薬代は高ければ高いほどよい。原価の何百倍と吹っかけても、そんなことは一向気にしない(とうの昔に良心なんてものはなくなっている)。利潤こそすべてなのです。だから彼らはそれを高く維持できるようにするために、契約相手から価格交渉力を奪い去るために、巨額の資金を使ってロビー活動を行う。そうやってオバマケアも骨抜きにされ、彼らに好都合な内容に変えられたのです。保険会社もその点は同じ。従来から彼らは、加入者の医療費請求をできるだけ多く拒否できるように、従業員に山のようなノウハウを教えてきました。それで拒否件数が多ければ、「よく頑張った」ということでボーナスがもらえるのです。同じ労働者である顧客が電話の向こうでその理不尽に泣き、破産、自殺しても、そうしないと会社から評価されないのです。病院の医師に対しても同じで、煩雑極まりない書式の診療費請求書を押しつけて、かんじんの医療業務に支障が生じるほどの膨大な手間をかけさせ、やっとそのフォームを埋めて提出しても、あれこれ難癖をつけてその支払いを拒もうとする。患者に対してであれ、病院・医師に対してであれ、拒否件数が多ければ多いほど、出費は減って会社の利益は増大するからです。

 弱肉強食の仁義なき資本主義も行き着くところまで行き着いたという感じで、これはもう人間の世界の話ではありません。しかし、それが今のアメリカという国なのです。「自由と民主主義」が聞いて呆れる。

 念のためにお断りしておきますが、僕は別に「アカ」ではありません。問題は巨大資本とその所有者たちがフリーハンドを得て、「最大利潤」を目指し、制度や社会構造をカネと権力で自分たちの都合のいいものに変えてしまったことです。そして各界のエリートたちが、それに仕える走狗と化してしまった現状です。

 かくして古代の奴隷制は復活したのですが、ややこしいのは、見た目にはそれがそうとはわからないことです。オバマケアだって、本書には何度もオバマ自身の誇らしげな言葉が引用され、いかにもそれは「民主的」で「国民に優しい」医療制度改革案に見えるのですが、その法案の成立には資本の意を受けたプロが深く関与していて、細かい規定を見ていくと、それはオバマの説明とは全く違う結果になるよう仕組まれているのです。

 医療や法律の専門知識がないふつうの人には読んでもそれが現実に何を意味するのかわからない。「適用」段階で、それがオバマの説明したものとは、自分たちが期待していたものとは似ても似つかないものであるのを初めて知るのです。

 権力も財力も、専門知識も、それは持てる1%の側にあって、持たざる99%の側にはない。前者は後者に向かって「これはあなた方のためにすることなのですよ」と親切顔で言いつつ、実は自分たちに好都合なように法律、システムを変えてしまう。そうしたペテンの積み重ねの果てに、アメリカは今のような奴隷制国家になってしまったのです。

 メディアの重要な役割は、その欺瞞を暴いて人々に警告を発することですが、今や主要メディアも巨大資本の支配と統制の下に置かれ、御用メディアになり下がった。その御用メディアに、御用学者、御用文化人が登場し、人々を騙すことに一役買うのです。これはわが国の原発問題にもはっきり見られたことです。

 資本・権力が良心と自制を欠き、このまま暴走を続けて、人々が有効な抵抗のすべを失ったまま、奴隷制がさらに強化されるようだと、行き着くところは大規模な暴動とテロでしょう。アメリカはアルカイダや「イスラム国」だけでなく、自国内部に誕生した自前のテロリスト集団をもつことに早晩なるのです。それはむろん、一般国民を幸福にすることにはつながらないでしょう。破壊と殺戮の応酬の中で、社会は崩壊してゆくのです。

 アメリカの巨大資本(一般国民ではなくて)は、TPPでさらなる「規制緩和」をわが国に迫り、「奴隷市場」の開拓にやる気満々だと伝えられています。医療分野もその一つで、それでアメリカの金融・保険会社や製薬会社が大儲けできるようなものにして、実質的に今とは全く違うものに変えてしまおうと目論んでいるのです。

 実にお楽しみな話ですが、今の安倍政権だと、「外資を呼び込んで経済を活性化させる」などと、たんなるその使い走りにされていることも知らず、胸を張って言いそうです。そうして「善良な国民」はそれを信じる。それで見かけの経済指標は一時的に多少よくなるかも知れないが、その果実は全部外資の懐に入り、国民は保険料の大幅アップとサービス低下に苦しみ、「アメリカ国民の悪夢」を共有する結果となるのです。そのとき「やっとこれでわが国もアメリカ並になった!」と喜ぶのは、経済学者の竹中平蔵ぐらいのものでしょう。

 著者の堤未果さんは、続編の「日本版」を計画しておられるそうなので、周到な現状分析と未来予測を、僕らはそれで読むことができるでしょう。

 何はともあれ、この本は示唆に富む「全国民必読」の本です。まだの方はぜひお読みになって下さい。

堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』(集英社新書 720円+税)

People only see what they are prepared to see

2014.10.01.05:16

 このブログ、しばらくご無沙汰してしまいましたが、一見関係なさそうな二つの本を並べて書評し、そこから連想された話を書こうという「不可能な企て」にとりかかって、挫折してしまったためです。

 諦めてその“簡約版”だけでも何とか書いておきたいと思うのですが、その二つの本とはレザー・アスラン著『イエス・キリストは実在したのか?』(白須英子訳 文藝春秋)と、小島毅著『増補 靖国史観~日本思想を読み直す』(ちくま学芸文庫)です。僕がこれを一緒に論じたくなったのは、キリスト教布教のためのイエスに関するフィクションと、靖国にシンボライズされる日本史に関するフィクションに、共通する人間心理を感じとったからです。

 前者では、福音書記者がイエスを“正統で至高な”救世主にして、キリスト教を広めるため、嘘と承知しつつ数々のつくり話をでっち上げたことが述べられています。たとえばほんとはナザレで生まれたのに、両親をベツレヘムに行かせて、そこの馬小屋で生まれたことにしたのは、彼がダビデ王の子孫で、「ベツレヘムから私(=神)のためにイスラエルを治める者が出る」というミカ書なるものの預言に合わせるためで、その後ヘロデの男児抹殺指令を逃れるためにエジプトに脱出したことになっているのも、ホセア書の預言に適合させ、あわせてイエスがモーゼの生まれ変わりだということにしたかったから(従って、ヘロデがそんな指令を発したなんて史実はない)であり、有名な処女降誕の話も、実際にはイエスには何人もきょうだいがいたのだが、彼が私生児であるという噂を打ち消し、かつ、それ以前からあったメシアに関する神秘的伝承に合わせるためであった、等々。
 他に「政治的・戦略的意図」に基づく露骨な嘘もあり、僕が一番驚いたのは、文学的な含蓄に求むイエス処刑前の総督ピラトの逡巡にまつわる嘘でした。試みに該当箇所をウィキペディアから引くと、

【『ルカによる福音書』(23:4)には「わたしはこの男に何の罪を見いだせない」とピラトが語ったと書かれており、『ヨハネによる福音書』(19:6)には、「十字架につけろ。」と叫ぶ人々に対し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べたとあり、イエスの無実すら明言する。
『マタイによる福音書』(27:19)ではピラトゥスの妻が登場し、死刑を宣告する前の晩に夢の中で苦しい目にあったので「あの正しい人」に関わらないでくださいと訴える。】

 …という有名なくだりです。ところが、これは「真っ赤な嘘」である可能性が高い、というか、あのピラトがそんな対応を示したはずがない、というのです。なぜなら彼は「ユダヤ人に対する冷酷きわまりない無慈悲さ」で有名で、「おそらくそのせいで、彼はユダヤのローマ人総督を最も長く務めた一人になった」というほどの男だったからです。「彼は残忍、冷酷、融通の利かない人物で、臣民の心情への配慮などはほとんどない、誇り高いローマ帝国軍人だった」「ユダヤ人が大嫌いなことで有名で、ユダヤ人の祭儀や慣習を全く無視し、数多くの処刑命令書にうわの空で署名する傾向があったため、今後はせめて一瞬なりともユダヤ人民衆扇動者の運命を思いやってもらいたいと、彼を相手取ってローマに公式に苦情が提出されたほどだった」(同書)というのです。

 従って、「人間味に富む苦悩する良心的官僚」みたいな印象を与えるあの話はほぼ間違いなく創作で、どうしてそんな大嘘を書いたかと言うと、当時記者のマルコはローマに住んでいて(長くなるので割愛しますが、それ以前にイエスの活動がその一部であった「ユダヤの反乱」はローマによって完膚なきまでに打ち砕かれ、制圧されていた)、ローマ人相手に布教する必要があったので、悪いのは皆ユダヤ人のパリサイ(ファリサイ)派で、ローマ人のピラトはイエスに好意をもつ“善人”として描く必要があったからだ、というのです(興味深いのは、この本ではイエスの病気治しの奇蹟などは否定されていないことです。当時はそうした異能をもつ職業祈祷師や霊媒は他にいくらもいたのであり、イエスが同様の、しかも強力なその種の不思議な力をもつことは当時多くの人々が認めていたことなのだという)。

 福音書記者たちは、それでは詐欺師みたいな連中だったのか? 別にそういうわけではないので、要するに当時は、現代のような歴史的事実への客観性に関する顧慮は乏しかったし、何よりそれは「信仰の書」なのだから、嘘であってもかまわない、彼らの意識では信仰に合致する話こそが「真実」だったのです。イエスはメシア(救世主)であり、そうでなければ困るから、自分たちの信仰に合わせて都合のいいストーリーを創る必要が生じた。だから、イエスは紛れもなく洗礼者ヨハネの弟子であったが(ちなみに、有名な「ヨハネの首」の話も事実無根のでっち上げ)、それをそのまま認めるとヨハネの“下手(しもて)”に立つことになってしまうので、「私はかがんでその方(=イエス)の履物の紐を解く値打ちもない」なんて尤もらしいことをヨハネ自身に言わせることにした。要するに福音書のイエス像は、事実らしきものはなかに含まれているにせよ、記者のそれぞれが「こうあってほしい」というイエスを構成するために、多くの作話を混ぜてつくられた「聖人ストーリー」の一つだったのです。

「靖国史観」にも似たところが見受けられる。小島氏の周到な所説を乱暴は承知で僕なりに要約してしまうと、それは江戸時代の水戸学に根ざす「万世一系の天皇支配」説に基づく史観で、事実としてはそんなものがあったのかどうかはすこぶる疑わしいが、とにかくそういうイデオロギーで過去の歴史を解釈し直し、その天皇のために死んだとされるのが「英霊」で、その天皇を日本という国と同一視して、「国の英霊を祀る」と称するのが靖国神社に他ならない、というのです(だから同じく「時の権力」に盾突いても、吉田松陰は「倒幕」派=天皇支持だったから「英霊」認定され、「維新の元勲」であったはずの西郷隆盛はその後西南戦争で明治政府=天皇に逆らったから排除されるといったややこしいことが起きる。幕末「朝敵」であった会津藩士も、その後西南戦争で官軍側の兵として戦って死亡した場合には、一転して「英霊」扱いとなるのです)。

 よく靖国神社に付設された「遊就館」の展示とその説明が時代錯誤なひどいものだと批判されていますが、あれもそうした史観からすれば首尾一貫しているので、元々それは実証的な歴史研究の埒外にあるイデオロギー(小島先生の要約によれば「忠孝一本・祭政一致・天人合一」のそれ)に基づく過去の歴史の合理化(当然無理が伴う)なのです。

「なるほど。そういうものだと解すれば腹も立たなくてすむな」と僕など思ったのですが、問題は、それがあたかも客観的・実証的な歴史理解であるかのように装いたがること(そもそも国家神道それ自体、幕末に作られた宗教イデオロギーにすぎないし、古来連綿と受け継がれてきたとされる皇室儀礼の「大嘗祭」なども、事実はそうした思想に基づき、同時期に「再創造」されたものでしかなく、どちらも「古来の伝統」などではないとのこと)で、そのあたり、キリスト教の福音書と似ている。そこに働いているメンタリティに共通のものがあるのです。

 キリスト教徒にとっては聖書の記述は神聖なもので、そこに書かれた言葉が「真実」であるように、日本が“「万世一系の天皇」が支配する「神の国」”だと信じる人たちにとっては、靖国神社とその史観(かなり強引な過去の歴史解釈)は神聖な、半絶対的なものなのでしょう。そのあたりの理解が僕には全く不十分だったので、この本を読んでなぜ彼らがああも頑ななのか、やっと合点がいったのです。それは「宗教」だからで、僕のように天皇や皇室への思い入れが皆無な人間には、そのあたりの心情がわからない。

 キリスト教福音書と靖国の「史観」には、もう一つ共通点があります。それは、キリスト教徒たちが救世主と崇めるイエスが「神の国」を実現するどころか、あっさり処刑されてしまったこと、靖国のいう「神の国(こちらは言葉は同じでも、むろん別の意味内容をもつ)」が、「神の国」にはあるまじきことに、戦争に負けてしまったことです。

 どちらもこの「ありえない」ことを合理化しなければならず、前者はそれで「イエスが死んだのは全人類の罪をあがなうためだった」というご大層な屁理屈や、「復活」のエピソードが付け足された。後者の場合には、過つはずのない「神の国」が愚かな侵略戦争をしたというのではいかにもまずいので、「非道邪悪な英米のせいでやむなく戦争に追い込まれた」という理屈をこね、「自存自衛ノ為」にしたことに他ならないと強弁する。敗れたのもそうした「他国の謀略」のせいで、いずれわが国は米国の核の傘に依存するのではない「完全な独立」を果たして、「聖戦(義戦)」たるあの大東亜戦争が目指した「東亜新秩序」を実現しなければならない…と今でも「靖国史観」に拠る人たちは考えているのかどうかは知りません(石原のじさまや田母神氏あたりは本気でそんなこと考えていそうです)が、とにかく「誤った侵略戦争で負けた」というのは、断じて否定されなければならないことなのです(余談ながら、石原のじさまこと慎太郎氏は文藝春秋9月特別号に「特別寄稿」と称して「白人の世界支配は終わった」と題したトンデモ論文を載せています。前に僕は反原発に対する彼の批判の杜撰さをここで嗤いものにしたことがありますが、その頭の悪さと知識・論理の出鱈目さ加減には驚くべきものがあって、かくもお粗末な駄文を掲載せざるを得なかった編集部に同情しました。何で潔く引退しないんでしょうか?)。

 これは宗教信仰と同じメンタリティに発するので、いくら議論してもその「信仰」に反する歴史認識を認めさせるのは難しいでしょう。彼らは戦後の歴史研究に基づく通常の歴史教科書を「自虐史観」だと激しく非難しますが、それは彼らのメンタリティ、心情からすれば、自己の信仰――それを抱く自己の人格――を否定されるのに等しいからです。そうでない人にとっては、別に「自虐」でも何でもなくて、「過去にそういうことがありました」ですむ(だから二度とあんな馬鹿はやらないように気をつけることにしましょう)のですが、アメリカのどこかの州で、学校でダーウィンの進化論を教えるのは許しがたいという抗議があって、それを教えるのが禁止されたという話と同じで、感情を悪く刺激するものなのです。キリスト教原理主義者にとってはダーウィン説はたんなる科学説ではなくて、自分が信仰する聖書の記述に挑戦する冒涜的な学説(万物の霊長、神の愛子であり、すべての生物に優越する人間がサルごとき下品な動物から進化したとは何事か!)なので、道徳的にも許しがたい。同様にわが国の軍隊が戦時中ロクでもない悪事をたくさん働き、指導者にも愚劣な精神論を振りかざすだけの無責任な馬鹿が揃っていた、なんてことも、「神の国」信仰からは犯罪に等しいものと映るのです。罰当たりめ! われらが父祖を何と心得る!

 今の若い人には、「靖国史観」は「日本人としての誇り」を高めてくれるだけでなく、“新鮮”なものと感じられるかもしれません。たとえば、次のような「解説」を聞くのです。

 わが国はかつて「五族協和の王道楽土」という美しい理念に基づき、満州国を建設し、中華民国にもその恩恵を及ぼそうとした。ところが、中華民国政府は愚かにもわが国の崇高な真意を理解せず、みだりに事を構えて「東亜の平和」を乱し、やむをえずわが国(の関東軍)は戦火を交えることになった。そして四年余りたって、一応の安定を見たが、懲りない蒋介石は「米英の庇護」に頼って抗戦を続け、邪悪な帝国主義国家たる米英は、平和の美名の下、「東洋制覇の非望」を実現しようとしてそれに加担し、軍事・経済あらゆる方面でわが国への妨害を企て、ここにわが日本の「生存に重大なる脅威」が生じることになった。かくて「東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し」たのであり、やむを得ず、わが国は「自存自衛」のため決然として起(た)って、「一切の障害を破砕」すべく、アメリカに宣戦布告したのである。
 従って、あの戦争(「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのが正しい!)は、侵略戦争などでは全くなく、純然たる「自衛のための戦争」だったのである、云々。

「なるほど」と今の若い人たちが思うかどうかは知りませんが、これはこの『靖国史観』という本に引用されている「昭和十六年の宣戦詔書」(高校でよく使われる山川の『詳説 日本史資料集』にも出ているものだという)の文面を現代風に“翻訳”したものです。要するに、それがあの戦争を始める際のわが国政府及び軍部の「認識」だったのです。

“斬新”どころか、それは時計の針を戦前に戻してしまう“超”がつくほどの「主観的史観」にすぎないのですが、靖国神社が必死に守ろうとしている「史観」は基本的にそうしたものなのです。それは戦後の「自虐史観教科書」(彼らにはそう見える)しか知らない人には“新鮮”に感じられるかも知れないが、それこそがわが国をかつて無謀な戦争へと導いた独善的きわまりない解釈(と言うか、勝手な思い込み)だったのです。

 靖国神社というのは、だから、たんなる戦没者慰霊のための施設ではない。「万世一系の天皇支配」信仰(だから近代憲法学からすれば当然で、昭和天皇自身がそれを受け入れていた「天皇機関説」なども手厳しく排撃されねばならなかった)に基づき、死者を「天皇のために死んだ者」とそうでないものとに勝手に分け、前者のみを顕彰する明確な偏りをもった特殊な神社なのです。「靖国に祭られる英霊とは、天皇の名のもとに戦った(ことになっている)戦没者や天皇のために政治的に犠牲になった人たちのことである./「天皇のため」であって、「日本国のため」ではない」(本書p.95)。それをよく認識しておけ、というのが小島教授の言われることです。

 先頃安倍政権は“解釈改憲”を企て、「集団的自衛権」なるものを容認することになったのですが、それには「自国に対する直接攻撃でなくとも、他国に対する攻撃により、わが国民の生命や権利が覆される明白な危険がある場合」にかぎるという要件がついているのだから“安心”なのだと言っていますが、先の戦争の場合でも、宣戦詔書で全く同じことが主張されていたのです。そして安倍晋三は明白な「靖国」教信者です(その著書名も『美しい国へ』)。どこが「安心」なんだか、さっぱりわからない。

「極東軍事裁判は“勝者が一方的に敗者を裁いたもの”だから不当である」とかねて右翼は主張していますが、それならあらためて日本人によるあの戦争の裁判をやり直して、左翼用語でいうところの「総括」をやればいいのですが、彼らはおそらく揃ってそれにも反対するでしょう。東條をはじめとするA級戦犯(その罪状の一つは「天皇制と明治憲法の悪用」ですが)も皆「靖国史観」からすれば無罪で、彼ら無責任な指導部連中と、敗北が明白になってのちも過酷きわまりない戦場に武器や食糧補給の目途もなしに追いやられ、「玉砕」や餓死を強いられた多数の無名兵士たちも同じ扱いにするのが正しいと、それは言うのです。それこそが「魂の平等」であるとか何とか、都合のいいときだけ民主主義用語を持ち出したりして…。

 こういうふうに書き進めていると口の悪い僕は悪態が止まらなくなるおそれがあるので、これくらいにしておきますが、この本を読んでいて、「へえー」と思ったもう一つのことは、「近年の歴史学の諸成果」によれば、当時(幕末)の幕府官僚は言われているほど無能ではなかったのだ、という見方もできるという話です。三谷博という歴史学者は、「明治維新を複雑系のシステム論から捉え直し、ほんの些細な偶然が大きな嵐を巻き起こすようにして成就してしまった可能性を指摘している」とのこと。

 要は「これまで歴史の必然として語られてきた『明治維新』史は、すべて結果を知っている者があとから組み立てた物語にすぎ」ず、「幕府の無能ぶりを過度に強調することによって、明治政府は自分たちの正統性を説いたの」であり、「司馬遼太郎の史観なども、その延長線上にあるにすぎない。靖国神社もまた、いまなお明治時代に創られた物語の圏内で、自己の物語を紡いでいるにすぎない」(p.111)――そういう見方も可能なのだ、ということです。

 僕も大学受験浪人の頃、司馬遼太郎はよく読んだもので、あれは「気が大きくなって」受験生などには精神衛生上よかったのですが、同時に「ほんとは話はこう単純なものではないだろうな…」という一抹のアホ臭さのようなものは残ったもので、だからこういう記述を読んでもそう意外とは感じられないのですが、著者小島毅教授の「薩長テロリスト集団による簒奪」などという言い方には、この人も相当性格が悪いなと、笑ってしまうのです。先生、こんなこと書いて、大丈夫なんですか?

 ついでに言うと、この本のp.217~8の「たとえ話」は爆笑ものです。それは「華さん」と「和さん」という二つの家をめぐるゴタゴタ話(「米屋」も登場!)なのですが、僕はここを読んで大声で笑い出し(例のあれは「敷石」にされている)、しばらくそれが止まらなかったので、そのとき周りに人がいなくてよかったなとほんとに思いました。この箇所はだから、絶対に通勤電車の中などで読んではなりません。「不審者」通報されてしまうのが確実だからです。

 この先生、著者紹介文を読むと、「東京大学大学院人文社会系研究科教授」となっているのですが、こんな戯文を書いて遊んでいるなんて、お堅い東大教授にはあるまじきことです。大学の授業でもブラックジョーク満載になっているのではないかと案じられるので、僕自身、訳書のあとがきでいらんことを書きすぎるというので一部の読者からだいぶ非難されました(その後このブログに“聖人”視されているその著者の痛い話を暴露する本を紹介する一文を書いてさらに憎まれるようになった)が、「どうせこんなものはボランティアみたいなもんだから、ちっとは好きに書かせろ」というところがあってしたことで、本職は田舎の零細塾のセンセにすぎないのだから、こちらは許されるが、天下の東大教授ともあろう人がこのようなはみ出しぶりは実に異例なことでしょう。頭はとびきりよさそうですが、性格が少々……で、そのあたりは僕とあんまり変わらないのではないかと疑われるのです。

 最後に、今回のブログのこの英語タイトルですが、実はこれは今年の東大の入試問題に出たもので、設問は、これについてどう思うか、50~70語の英文で自分の考えを書け、というものです(意味は、訳さなくてもおわかりかと思いますが、「人は自分が見たいと思うものしか見ない」です)。

 受験生たちがどんな答案を書いたかは知りませんが、これはなかなかに高級な問題で、これは真実を衝いた言葉と思われますが、問題は、自分がそうしているということに気づいている人はめったにいないということです。それは大部分無意識的なプロセスだからで、この前の朝日の誤報問題などでも背景にあったのはこの人間心理だったろうし、その誤報を激しく非難する「靖国史観」の右翼の皆様がいまだにあの戦争が「正義の戦争」だったと言い張って、不都合な事実は避けて通って、好都合な「歴史パッチワーク」で過去を美化してやまないのも、同じ心理の産物です。

 皆がそれという自覚なしに、この同じ心理に支配されたまま、聞く耳もたず自己の主張を繰り返すだけなら、どうなるか? それを少しは考えてみましょうと、僕は言いたいのです。聖書の方は宗教そのものだから仕方がない(むやみやたらとそれを人に押しつけさえしなければ)として、通常の歴史解釈にまで「宗教」を持ち込んでおきながら、それと自覚せず、その正しさを主張してやまないのは、やはり相当問題があるのではありませんか? いや、日本人全員が「靖国教徒」になれば問題はなくなるのだ、と右翼は言うかも知れませんが、そうなったときはこの日本という国が今度こそ滅亡するときでしょう。それだけは間違いない、と僕は思っています。

 どちらの本も、豊かな含みをもつもので、僕はここでその一部を取り上げて論じたにすぎないので、関心がある方は、元の本をぜひ直接お読みになって下さい。

資本主義の卒業

2014.05.10.14:11

 僕はときどき未開人になったり、宇宙人になったりします。というか、「21世紀文明人」という呼称が僕には一番不快で疎ましいもので、何でこんなものやってなきゃならないんだろうとよくぼやいてしまうのですが、狩猟採集時代(日本でいえば縄文時代)あたり――その後の稲作文化ですら僕には「高度」すぎる――なら、もっとうまく適応して、有能でもいられたのにと、それが残念でならないのです。

 未開人、宇宙人の見地からすれば、今の文明世界は完全な病気で、とりわけ資本主義というのは異常です。なかでも金融資本家という人種くらい奇怪なものはないので、彼らはサイコパスと呼ぶしかないと感じるのですが、そういうとんでもない連中が牛耳っている世界というのは何と呼べばいいのでしょう? 言葉が見つかりません。

 しかし、今は「資本主義の否定」と言えば、すぐにテロリスト、過激派の烙印を捺されてしまいそうです。それというのも、マルクス主義が全くはやらなくなったこんにち、「資本主義の否定」を声高に叫ぶ者は「イスラム国家の樹立」を唱えるイスラム過激派(その代表格がアルカイダ)ぐらいのもので、彼らは不安定な社会情勢を追い風に世界中でものすごい勢いで増殖中のようですが、それ以外にはあまり思い当たらないからです(ブッシュが始めた「テロとの戦い」なるものがかえってテロリストの増大を結果するだけに終わったのは皮肉な話です。尤も、道理から言えばそれはあたりまえの話なので、僕は9.11後のアフガン攻撃のときからそれが逆効果になるだけだと言っていたので、少しは先見の明を自慢させてもらってもいいかも知れません)。

 しかし、先頃、資本主義のど真ん中でそれを言う人がいるのを知り、僕は大いに喜びました。それは元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト、内閣府大臣官房審議官という堂々たる経歴をもつ、日大国際関係学部教授の水野和夫氏で、連休中にその『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を読んで、大いに意を強くしたのです。

 未開人・宇宙人を自称する僕が言っても説得力がないが、こういう人の言うことなら皆さん耳を貸すでしょう。これは示唆に富む、非常に面白い本なので、まだの方には是非一読をお勧めします。この出版社のサイト(←クリック)にはインタビュー、対談記事なども載っていて、これを読むだけでもその趣旨はよくわかるので、そこをまずご覧になるとよいかと思います。

 端的に言えば、これは資本の自己増殖が限界に達して、資本主義がご臨終に達していると主張する本です。それを認識せず、旧態依然たる経済成長神話にすがる政策(アベノミクスはその典型)は新たなバブルの発生とその崩壊とを結果し、そのとき割を食うのは労働者なので、中間層の消滅と貧困層の増大につながるだけ、と説くのです。

 この本では封建制が崩壊して、近代資本主義に移行するきっかけとなった「長い16世紀」と著者が呼ぶ時代との対比が行なわれているのですが、そうしたことについては直接本をお読みいただくとして、まずは資本主義に与えた著者の定義から見ていきましょう。

 著者によれば、それは「『中心』と『周辺』から構成され、『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」です。ところが、その「周辺」「フロンティア(地理的辺境)」が今はなくなってしまって、資本は思うような利益が上げられなくなったのです。

 その兆しが見えたのは1970年代半ばですが、資本はこの段階で「地理的・物的空間」とは別の空間、「電子・金融空間」をつくり出すことによって「資本主義の延命」をはかった。それが今に続いて、事態はさらに悪化・深刻化しているので、それをはっきり認識せよ、と説くのです。

 なるほど、そういうことか、と僕は思いました。金融資本の暴走に僕は腹を立てていましたが、何で資本家たちがマネーゲームに狂奔するようになったかといえば、伝統的な実物経済への投資では利益がほとんど見込めなくなったから、巨大な電子カジノをつくって、それで荒稼ぎしようという方向に行ってしまったのです。カジノには勝つか負けるかだけで、モラルなどというものはありません。いわば勝つことだけがモラルなのです。

 しかし、ふつうのカジノと違うのは、彼らが人々が生活する実物経済の場を投機の対象にしてしまったことです。その「電子・金融空間」に流れ込むマネーの量は、実物経済を流れるそれの比ではない。だから、彼らが儲けた、損したと言っているそのかげで、実物経済はいいように翻弄され、バブルが起きてそれがはじけるたびに、人々は職を失って路頭に迷う、というようなことが繰り返されるのです。

 ひどいのは、勝手に経済社会を賭場に仕立てて、そこでギャンブルに興じた金持ちと金融機関はバブルがはじけるたびに「公的資金」という名の税金で救済され、一方、それで失業するなどして貧困に落ち込む人々には「自己責任」を説き、ほったらかしにされることです。

 著者がこの本の中で二度にわたって引用しているウルリッヒ・ベックの「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」という言葉は、言い得て妙です。前者は「社会主義的」なことを嫌い、国民皆保険制度にまで反対する始末ですが、「市場に任せよ」と言いながら、自分たちが損をしたときだけは、ちゃっかり「政府の保護(社会主義的対応)」を要求するのです。「自己責任」で「市場で淘汰」されるべきなのは、中間層以下の貧乏人だけなのです(アメリカのサブプライムローン崩壊のとき、マイホーム願望につけ込まれて高い利率のローンを組まされ、デフォルトで家を取り上げられ、借財のみ残った貧しい人たちはその後どうなったのでしょう?)

 こういうのは人間のやることではありません。だからサイコパス(反社会的異常人格)だと僕は言うのですが、著者の説明に基づいて考えると、「無理な延命策」で資本主義を生き永らえさせようとするからこそ、社会はそんな非人間的なことも甘受しなければならなくなるわけです。

 しかし、これだけでは若い人たちや経済方面が苦手な人にはわかりにくいかと思うので、著者の資本主義の定義に戻って、それをもう少しわかりやすく見てみましょう。

 かつては「豊かな国」(中心)が「貧しい国」(周辺)から資源収奪して、富を築きました。貧しい国の貧しい労働者に馬鹿みたいな低賃金で働かせて、そこの資源を貢がせたのです。それで豊かな国はますます富み、資本家だけではなく、そこの市民・労働者もそのおこぼれにあずかって相応に豊かになっていった。

 しかし、それは「南北問題」が盛んに論じられた頃までの話で、今はそうした「帝国主義的収奪」が正当化されうる時代ではありません。貧しい国を植民地扱いし、そこの住民に奴隷に等しい労働を強いて、というようなことはもう許されない。国家内部の「民主化」も時代の流れで、北朝鮮みたいな独裁国家は完全に“過去の遺物”です。王制を敷いてオイルマネーを一握りの王族が独り占めしているアラブの産油国も、共産党一党独裁の中国も、本当の意味での民主化をいずれ迫られるようになるでしょう。

 その意味ではたしかに世界は「進歩」したのです。たとえば日本企業が東南アジアなどの新興国に進出する際でも、そこが日本と較べて低賃金だから工場生産に有利だというだけでなく、今はそこを新たな市場としてはっきり意識するようになっています。その国の経済発展と、それによる市民の購買力の増大を当て込んでいる。つまり、工場として見ているだけでなく、有望な新市場がそこに出現することを期待しているのです。その国の人々が豊かになって新たな消費主体となることを期待している。だからその国が経済成長するよう「援助」するのです。

 これはしかし、国内市場が飽和状態に達して、そこではモノが売れなくなっているからでもあります。1970年代前半までは、モノもサービスも足りていなかったから、所得増大とも相まって国内需要が旺盛で、作れば作るだけ売れた。しかし、今はひととおりモノが行き渡ってしまった。テレビもパソコンも、クーラーも車も、みんなもっている。おまけに少子高齢化で、人口自体が減少に向かっています。市場としては先細り必至で、だから企業は海外に販路を見つけねばならなくなった(=フロンティアを開拓しなければならなくなった)のです。

 要するに、企業は国内市場では利益が出せなくなったから、国外に新市場をつくって儲けようとするのです。血眼になって儲かる投資先を探している金融マネーもそうした新興国に集まる。それでインフラ整備や設備投資が活発になって急速な経済成長を遂げるのですが、そこに集まるマネーは経済成長に必要な資金の数倍にも達し、やがて過剰設備投資の様相を呈して、バブルになる。バブルがはじけそうだと見ると、目ざとい金融マネーは一気に資金の引き上げにかかるので、経済がクラッシュし、その国には大量の失業者が発生したりするのです。それでなくとも、先進国の金融緩和が縮小されるという報道が出ただけで、資金の流入が止まって経済成長が止まったりする。

 著者は今の新興国が先進国並になることはまずないだろうと言います。それではエネルギー消費が今の倍になってしまって、資源価格が高騰するだけでなく、資源枯渇も早まるので、単純にそれは無理だろうという理由もありますが、根本にあるのは「フロンティアの消滅」という問題です。本の冒頭で、「『アフリカのグローバリゼーション』が叫ばれている現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っている」と述べられているのはそういう意味です。もはや有利な条件で資源収奪できるところも、市場として拡大し続ける場所も、残ってはいないのです。それでは資本は利益を上げ続けることはできない。

 それでどうなるかというと、資本主義はそれぞれの国内部に「中心」と「周辺」をつくり出すしかなくなって、一部の富裕層が多数の貧困層をダシにして利益を上げるということしかできなくなる。今後は先進国でも新興国でも内部の貧富の格差は拡大するのです。少なくとも今の資本主義を延命させようとすれば。

 この点でも、アメリカのサブプライムローン問題は象徴的でした。あれはまさに「貧困ビジネス」そのもので、subprimeという言葉にしてからが、「準・最優良」というわけのわからない、いかにも詐欺めいた名称ですが、アメリカ国内の貧困層にターゲットを絞って、大金持ちたちがそこから搾り取ろうとしたのです。しかも、買い手の良心をなだめるためか、その危険性をわからなくさせるためかどうか知りませんが、金融工学なるものが不可解な金融商品なるものを発明し、その債券を中にもぐりこませたものを作って、世界のだぶついた金融マネーに買い取らせたのです。格付会社もグルになって、その「高利回り商品」にAAAをつけた。「安全確実」でかつ「高利回り」なんてあるわけはないのですが、皆でそんなトンデモ話に乗ってしまうほどに儲け話に飢えていたと、これはそういうことなのでしょう。そこまで今の資本主義は「焼きが回って」いるのです。

 このまま放置しておけば、第二第三のサブプライムローン問題が、かつてわが国も経験した不動産バブルが、過剰設備投資による経済崩壊(著者はいずれそれが中国で起こると予想しています)が、あちこちで繰り返されるでしょう。そしてそのたびに信用収縮による雇用の減少などで貧困に転落する人が増え、中間層が減って、貧困層が増大するのです。

 それはわが国でもすでに現実のものとなっています。本書には「日本の実質賃金」のグラフが出ているのですが、1997年のピーク111.3(2010年のそれを100としたもの)から多少の凸凹はあるものの、好況・不況を問わず「右肩下がり」に一貫して下がり続けて、その指標は2013年に97.7まで下がった。企業利益は増えても雇用者報酬は下がる、というかつてならありえなかったことが、今は起きているのです(この間、数値上は「いざなぎ景気越え」の「長期好況期」があったことに注意)。

 その結果としての日本人のビンボー化の速度にはすさまじいものがある。この本のP.197に出ている「金融資産非保有世帯比率」というのを見ると、この場合の「金融資産」というのは預金や株式などをひっくるめたものだと思いますが、2013年にはそれが31%に達しています。つまり、三世帯のうち一世帯は預金ゼロなのです。「87年の時点では金融資産ゼロ世帯は3.3%で…1972年から87年にかけての十六年間の平均が5.1%」だったことを考えると、全体としての日本人の貧窮化のスピードとその度合いには驚かされるのです。「非正規雇用者が雇用者全体の3割を超え、年収200万未満で働く人が給与所得者の23.9%」、「生活保護受給者も200万を越え」るという事態になっているのだから、それはあたりまえと言えるかも知れませんが、「一億総中流」とかつて呼ばれたのは、今は昔の物語なのです。

 中でも一番割を食っているのは若者で、失業率・不安定雇用の度合いは一番高いし、企業の“ブラック化”が進み、20代、30代の過労死や自殺が跡を絶たない(年間自殺者数連続3万人超の不名誉な記録は14年でやっと止まりましたが、それも3万を切ったというだけの話です)。それで「少子化に歯止めを」なんて言うのは、土台無理な話です。

 こういうのは財界が言うような、たんなる「国際競争激化」の要因によるものだけではないので、労働分配率、収益における労働者報酬の比率が下げられているからです。その代わり株主への配当を手厚くしたり、余剰自己資本の比率を高めたりするのは、全部株価対策と言ってよいでしょうが、ここにも「金融空間(投機マネー)の支配」が影を落としているのです。

 僕は時々「東西冷戦」の時代が懐かしくなります。著者は今の「グローバル資本主義とは、国家の内側にある社会の均質性を消滅させ、国家の内側に『中心/周辺』を生み出していくシステム」であり、「そもそも資本主義自体、その誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステム」だったのだと言いますが、かつての東西冷戦の時代には、資本主義国は共産主義国に対抗する必要から、“資本主義根性”を丸出しにすることはできず、社会主義的な施策に力を入れたり、人々への「富の平等な分配」に意を用いざるを得ませんでした。そのあたり、まだしも“慎み”というものがあったのです。

 それが共産主義国家の消滅(中国は今でも「共産党独裁」ですが、「社会主義市場経済」とはたんなる形容矛盾で、マルクスが見たらのけぞりそうな非民主的資本主義国家でしかありません)によって、本性が丸出しになって暴走し始めた。「自由な市場」を錦の御旗に、平然と「格差」を是認するようになったのです。構造的な問題(著者も言うように「21世紀の資本と労働の力関係は圧倒的に前者が優位にあ」る)は棚上げして、あたかもそこに公平なチャンスがあるかのように、成功するもしないも「自己責任」だという論理のペテンにふけるようになり、人々はそれを受け入れたのです。

 要するに、かつての資本主義国はアカ(共産主義者)の勢力拡大を恐れて、「資本主義の国の方が豊かで、かつ平等である」というアピールを自国民に対してたえず行なう必要があった。だから労働分配率も上げて、「満足した中間層」を厚くし、貧困層への配慮も忘れないようにしなければならなかったのです。それが「強欲な資本主義」のブレーキ役を果たしていたので、それがなくなったものだから資本主義は本来の露骨なまでの貪欲さを取り戻したのだと、そういう見方もできるでしょう。

 だから、「株価が上がった」なんてことで喜ぶのは愚かなのです。早い話が小泉政権時代、株価は倍に上がり、「戦後最長の経済成長」を記録していたのです。しかし、上に見たとおり、実質賃金は下がり続けた。「実感なき景気回復」と言われたゆえんです。当時金融担当大臣だった竹中平蔵(凝りもせずまた“復活”しているという話ですが)が主張していた投資減税、法人減税、累進税率の見直し、労働市場の規制緩和(その後進みすぎた)などは、全部「富者に優しく、貧乏人に厳しい」施策でした。小泉規制改革の標語、「痛みを分かち合う」は中間層と貧乏人だけがそれを強要されるので、富裕層は(竹中の「理論」によれば、富裕層を優遇すれば、景気がよくなって貧乏人もそのおこぼれにあずかることができるらしいのですが)その「痛みの共有」を免除されるのです。その結果が上に見た日本社会の急速な「ビンボー化」「格差社会化」だったことを、僕らは忘れない方がいいでしょう。

 これは世界的な傾向で、今や完全に「金融帝国」化したアメリカでは、ウォールストリート支配の国家運営が続く中、かつてその力の源泉であった「中間層」の多くは没落して、「1%対99%」という言葉がはやり、「ウォールストリートを占拠しろ!」デモが行われるようになったのは記憶に新しいところです。この本にもそのグラフに出ていますが、アメリカの上位1%の富裕層の所得が国民総所得に占める割合は、1976年に8.9%だったのが、リーマンショック直前の2007年には23.5%にまでなり、今もその比率はほとんど変わっていないのです。

 これは新興国、その代表たる巨大人口を擁する中国やインドでも同じで、その貧富の格差は日本やアメリカよりさらに甚だしい。しかしこれは「資本の論理」からすれば必然で、今やっているような「資本主義の延命策」をとり続ける以上、事態は悪化こそすれ、解消に向かうことは期待できない、というのが著者の見るところです。

 だから資本主義は、少なくとも「飽くなき利潤追求」を事とする従来型の資本主義は、もう終わってもらわなければならない。でなければ世界は政情不安の国ばかりになって、それが具体的にどういうかたちをとるかは知りませんが、大混乱のうちに自滅へと向かう他なくなるでしょう(イスラム過激派が政権をとったとして、彼らにまともな国家運営ができると思う人はほとんどいないでしょう)。

 では、どういう手があるのか? この本の著者にも“ポスト資本主義”の名案はまだないようですが、誰が考えても同じになるだろうと思われるのは、巨大多国籍企業、とりわけ金融資本の「暴走」を止めることです。それはマネーゲームで実物経済をクラッシュさせるのも平気なモンスターになっているのだから、世界的な規制が必要で、ウォールストリートに乗っ取られたアメリカ政府がいくら反対しようとも、それは行なわれねばなりません。「グローバル化した世界経済では、国民国家は資本(金融資本)に振り回され、国民(国家)が資本の使用人のような役割をさせられることになってしまってい」るのですが、これを変えなければならないのです。この点について、著者はこう述べています。

「世界国家、世界政府というものが想定しにくい以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります。具体的には法人税の引き下げ競争に歯止めをかけたり、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入したりする。そこで徴収した税金は、食糧危機や環境危機が起きている地域に還元することで、国境を越えた分配機能をもたせるようにするのがよいと思います。
 G20で世界GDPの86.8%を占めますから、G20で合意ができれば、巨大企業に対抗することも可能です」(p.186~7)

 正論ですが、これは「言うは易し」の典型だと著者自身が思っているようで、冒頭紹介したサイトで見られる日刊ゲンダイのインタビューでは「G20が暴走する資本主義にブレーキをかけるシナリオも、米国が反対するから難しい。となると、中国のバブル崩壊というハードランディングになるのではないでしょうか。その後、世界はグローバル化ではなく、保護主義的にブロック経済化していくと思います」と語っていますが、本当はその気になりさえすればできることです。問題は、著者のような先鋭な認識をもつ人がまだ少ないことで、竹中平蔵のような無責任な市場崇拝論者(著者は同じインタビューで「資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側の利益を増やし…富むものがより富み、貧者はますます貧しくな」り、「格差が広がっていく」と述べています)の方が多いことでしょう。今の資本主義はその“本性”を否定しないかぎりもう立ち行かなくなっているという認識が共有されていないのです。

 国内的にはどうか? これはまず第一に「所得分配の公平性」を回復することです。週刊プレイボーイのインタビューでは、次のように述べられています。

「まずは成長戦略を捨てて、格差の是正を進めなければならない。所得税の累進性を高め、富裕層への最高税率は50%に戻せばいい。もちろん、法人税を下げるなどもってのほかで、むしろ上げるべきでしょう。政治の本来の役割というのは『富の再分配』なのだということを、いま一度、思い起こすことが大切だと思います」

 本の中で言及されているのはワークシェアリングの方です。これは連合などの労働組合も言っていることで、べつだん目新しいものではありませんが、わが国の長時間労働は先進国の中でも飛び抜けていて、実際はサービス残業(これもおかしな言葉で、別に顧客にサービスしているのではなく、雇われている企業に無賃金で使われているだけなのですが)も入れると政府統計の数値をはるかに上回る。こういうのを減らして、もっと人を雇えということです。

 労働分配率を上げれば、それは不可能なことではないでしょう。正社員、特に中高年のそれは既得権益で守られていて、零細自営の僕などは、五〇代のサラリーマン(但し、大手企業や公務員に限る)にその給与額を聞いて、「あんた、大した働きもしてないのに、それはもらいすぎじゃないの?」と言いたくなることが少なくないのですが、一緒にそうした不公平も是正すれば、新たに人(とくに若者)を雇い、一定時間以上のパート・アルバイトには社会保険をつけたり、全体に時給を上げたりすることはできるでしょう(10円単位のアップではなくて)。そうすれば長時間労働は減って、皆がハッピーになるのです。

 今の安倍政権は「ホワイトカラー・エクゼンプション」なるものを導入しようとしているそうで、このexemptionというのは「免除」の意味で、対象者には労働基準法の労働時間規制を「免除」して、労働時間に関係なく、「成果」に応じて賃金を支払うというものです。企業にしてみれば、長時間だらだらやっているだけでロクな成果も上げられない者に残業手当のおまけまで付けるのは馬鹿らしい(短時間で成果を上げる者よりそちらの方が高報酬になるのは不公平でもある)という理屈があるようですが、問題はその「成果」で、無理なノルマを一方的に吹っかけて、それを達成しろということになれば、「24時間働け」の悪名高いワタミみたいになることは必定と思われるので、長時間労働がさらに増えるということになりかねません。そんなことより、もっと先にやることがあるだろうが、ということです。

 余談ながら、僕も三十代の頃、数年間、この「労働時間自己裁量制」は経験したことがあります。仕事に飽きて辞めさせてくれとゴネているうちに、出勤はゼロでもいいから、トラブルが起きたときはその都度対処して解決し、管理・運営の最終責任だけもってくれればいいと経営者に言われたのです。しかし、出勤ゼロでは現場の状況が把握できないから、週20~25時間程度は出勤していましたが、こういうのは人材難の時代の話で、今はそんなおいしい話はほとんどないでしょう。しかも、運営を丸投げされていたのをいいことに、僕はそこでいくつかの「改革」を行なったのですが、それは会社の利益を減らすようなものばかりだったのです。しまいにはその部門単体では赤字を計上する羽目になった。サービスを手厚くしていわゆる「顧客満足度」を高め、増員と時給体系の改訂で人件費を倍増させたのが裏目に出たのです。経営者から「ちょうどあんたの給料分ぐらいの赤が出ている」と言われた僕は、「その程度なら本体の黒字で楽に吸収できるでしょう」なんて澄まして答えたのですが、今ならそんな不埒な中間管理職は即刻クビを言い渡されるでしょう。

 そういうのはやりすぎだとしても、パートを低賃金でこき使い、下請けを泣かせ、正社員には長時間のサービス残業を強いる、なんて企業は、その社会的責任を果たしているとは言えないでしょう。契約打ち切りをチラつかされて単価を値切られた下請けは従業員にロクな賃金も支払えず、やがては倒産の憂き目に遭う。企業本体の利益だけは伸びても、そこで働く人たちや関係者は皆疲弊し、困窮してゆくのです。全体がそれでは購買力が落ち、景気がいっそう冷え込むのはあたりまえです。株主と無能な経営陣だけは安泰かも知れませんが、それも長続きはしないのです。

 ゼロ成長下でも、労働分配率を高めて、ワークシェアリングをうまくやり、時間・形態に応じた相応の賃金を支払えば、今より暮らし向きがよくなる人は増え、社会の安定化につながると、この本の著者は考えているようです。

 僕が資本主義に対してずっともち続けてきた違和感は、「なぜ利益を増大させ続けなければならないのか?」ということです。際限もない不毛な業界内のシェア争いなどもそうで、生物学に「棲み分け理論」(今西錦司が提唱した)というのがありましたが、企業は従業員の雇用を守れるだけの適度な利益さえ上がっていればいいと、なぜ考えないのか、ということです。そうすれば他の会社も圧迫されずにすむ。むやみやたらと増殖して陣地を広げねば気がすまないというのでは癌細胞と同じです。それは病気ではないのか? 十億の資産を二十億に、次は百億に増やさないと気がすまないという資産家も同じです。資産はあっても、精神構造は守銭奴以外の何者でもないのです。そういう奴にかぎって異様なまでにケチで、社会や人のためになることは何もしないのです。

 こう言ったからといって、僕は談合しろとか、競争はすべきでないと言っているのではありません。ほどほどには競争もあった方がいい。その方がいい商品、サービスも提供されるだろうし、関係者の技術技能も上がる。しかし、度の過ぎたパイの奪い合いなどは意味がないだろうと言っているのです。ところが関係者の話を聞いていると、何のためにあなた方はそんな競争に身も心もすり減らしているんですかと疑問に思うようなものが少なくないのです。それでさして消費者が利益を受けるわけでもない。

「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ(著者はこれを「定常状態」と呼んでいます)」をベースとした経済運営を考えるべし、というこの本の著者の考えは、僕のそうした思いとつながる面があります。無意味な膨張、拡大は自己規制して、製品・サービスの質を維持・向上させ、雇用を守れるだけの利益はきっちり上げても、拡張は必要最小限に抑えるのです。利潤をたえず増大させ続けねばならず、支店を、フランチャイズ店を年間100店舗ずつ増やさなければならない、なんてのはただの病気ではありませんか。それで低賃金で人をこき使うだけとなると、なおさらです。セブンイレブンなんか、今はそこらじゅうにありますが、詐欺と似たやり方でオーナーを募集し、店主にはロクな取り分が与えられないというので裁判になっていますが、そういうあこぎなことをやって人を泣かせておいて、いずれ天罰が下るとは思わないのでしょうか。

 それが「資本主義の必然」だと言うのなら、そんなものは早めに「卒業」した方が世のため人のためなので、別の行き方を模索するときに来ているということです。

 物事がうまく行かないとき、システムの内部にいて、そのシステムの構造それ自体は疑うことなしに解決策を探しても、うまく行かないことが少なくありません。その外側に出て考えてみれば、全く違う発想が生まれてそれが解決につながるということがあるものです。今の資本主義の問題もその一つではないかと、僕はこの本を読みながらあらためて思ったのです。

 皆さんもこの本を読んで、そのあたりよくお考え下さい。著者が重要な問題だと考える「財政均衡」の問題などについてはここでは触れませんでしたが、それもその通りだと思われるので、全体として著者の議論は説得力に富むのです。

 今の資本主義はそれ自体が病気ではないのか? それは考えてみるだけの価値があります。まず“病識”をもたないことには、治療は始まらないのです。

日本社会の一番「こわい」ところ~瀬木比呂志著『絶望の裁判所』雑感

2014.04.30.18:35

 僕がこの本(講談社現代新書 2月20日刊)を買ったのは偶然です。その前に『週刊金曜日(4月25日号)』で「映画『ゼウスの法廷』に見る『裁判官という人間のつくられ方』」という記事(映画監督・高橋玄氏と裁判官・寺西和史との対談)を読んでいて、これがかなり笑えた(ほんとは笑ってはいけない?)のですが、翌日本屋に行ったらこの本が棚に見えたので、少し立ち読みして、面白そうだと思って買ったのです。

 先に『週刊金曜日』の記事について二、三触れておくと、警察の腐敗を描いた映画『ポチの告白』は僕も前にDVDで見ましたが、寺西判事はこの映画には一つだけ惜しいところがあると言います。それは裁判官が「弱みを握られ脅されて警察当局の意に沿う訴訟指揮をしてしまうところ」で、ほんとは「裁判官の多くは、脅しなどかけられなくてもすすんで秩序維持的な仕事をするのが現実」だというのです。

 他にもこういう箇所があります。「判検交流(裁判官と検事の人事交流)」で検察庁から戻った判事は検察に同情的になり、被疑者の勾留延長請求に要件を満たしていなくてもOKを出しやすくなるという寺西氏の話に、「なんかわかりやすいですね。同じ釜のメシを食った相手に心情的に寄り添っていく。市民的にはフツーの感覚ですけど」と高橋監督は合いの手を入れますが、その続きが笑えるのです。

寺西 そこがまさに問題の核心なのです。裁判官の多くがフツーの人以上にフツーだということが…。卑近な例ですが、最近、大阪高裁管内裁判所職員の、過度の飲酒による不祥事が続いたんです。駅員に暴行したとか、女性にわいせつ行為を働いたとか。それを受けて昨年末、神戸地・家裁所長の連名で通達が出されました。「深夜に及ぶ飲酒をせず、遅くとも午後10時頃までには帰路につくことを本日以降徹底して下さい」という。
高橋 子どもの門限か(苦笑)。
寺西 そう、注意喚起ならともかく、まさしく子ども扱いです。それで、抗議の意味で所長との定例昼食会を欠席したところ、彼は別の機会に「訓告は組織防衛のため」といった話をしました。しかも大阪管内すべてに出されたそうですから、おおもとの出所は大阪高裁でしょう。

 やれやれ…ですが、何で「裁判官の多くがフツーの人以上にフツー」だとまずいのでしょう?(これは鋭い指摘だと僕は思うのですが)。まず、検察(警察)からの被疑者の勾留延長請求に関しては、それは人権保護と法的公正の見地からして、努めて厳正に対処しなければならないのに、そんなところに「同じ法曹のよしみ」など持ち込んで甘くなっては困るということです(この場合、被疑者への「同情」は何もないことに注意)。また、後者の「子ども扱いの通達」に関しては、「裁判所の一番重要な仕事は、個人の権利や自由を守ること」で、「それによってこそ裁判所への信頼も築かれるのに、裁判官が率先して自由を制限するとはなにごとか」(寺西判事)ということになるからです。

 こういうのは法律学のイロハで、僕みたいな元不良法学部生でも知っています。ましてやプロの裁判官が知らないはずはないのですが、「日本的な、あまりに日本的な」今の裁判所というところは、そういう自己否定に等しいことですら「組織防衛のため」と称してためらいもなくやってしまうのだというのだから、終わっているということです。

 僕はかねて、今どきの高校(とくに延岡の県立高校のような)の生徒に対する過剰管理(ときにそれは人権無視の域にまで達する)を批判しています。「何で高校生なのに、幼稚園の子供みたいに扱うのだ!」と腹を立てているのですが、こういうことは昔はなかったことで、僕は自分の親にも、下宿のおばさんにも、学校の先生にも、ガキ扱いはされませんでした。たまに生徒を馬鹿にしきったような無礼きわまりない教師に当たることはありましたが、そういうときはその場できっちり相手をやりこめたので、そのクソ教師が職員室に戻ってから当り散らしたとかで、クラス担任の先生に、「おまえ、あんまり無茶苦茶言うなよ」と言われたことはありましたが、その先生も生徒である僕らの方に分があることはわかっていたのです(重要なことは、それで僕がまともな先生たちからにらまれたり、クラスで孤立するというようなことは全くなかったということです)。

 しかし、大人であり、かつ「法の番人」である裁判所においてすらそのようなお粗末な「通達」が出されるというのだから、ほんとにこれはもう終わっているな、と思うのです。

 まあ、タバコのパッケージに「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります」とか、「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります」なんていちいち書かれている(下に詳しい説明つき!)時代なので、昔、駅のホームの「白線の内側までお下がりください」のアナウンスがよけいなお世話だと言われたことがありましたが、そのうち交差点では「今は信号は赤です。車にひかれて死亡する恐れがあるので渡ってはいけません」というアナウンスが繰り返し流れ、飲み屋では一時間おきに「過度の飲酒は家庭崩壊や早死の原因になります」といった警告メッセージを流すのが義務付けられるようになるのかも知れません。裁判所もそうした「時代の変化」に応じているだけだとも解釈できるわけです。

 前置きが長くなりましたが、『絶望の裁判所』の話です。こちらは真面目そのものの記述なので、同じ調子で書くわけにはいかないのですが、著者の瀬木氏は元裁判官で、現在は明治大学法科大学院教授という肩書の人です。表紙に「最高裁中枢の暗部を知る元エリート裁判官 衝撃の告発!」とあって、「内部告発本」の一種と見ていい本ですが、僕に興味深く思われたのは、そこに描かれた裁判所の裏面がやはり「日本的な、あまりに日本的な」もので、これは何も裁判所にかぎったことではなくて、今の日本の多くの組織に通底する病弊を衝いたものではないかと感じられたことです。

 その意味では別に「衝撃」的なものではなくて、「やっぱりなあ…」という感じのものなのですが、われらが日本国憲法の「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という輝かしい理想は完全に空文化して、「日本の裁判官の実態は、『すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される』ことになって」(p114,5)いるのだという著者の説明は、かなりゲンナリさせられるものではあるのです。

 ただ、僕が法学部の学生だった当時から、下級審の判決の方が上級審の判決よりリベラルで、まともだというのはなかば“常識”でした(中には裁判官の無能ゆえのお粗末な判決も混じっているとしても)。上に行けば行くほど「体制寄り」になって、よくても「それは高度な政治的判断に関わることなので、裁判にはなじまない」とか何とか言って、政府や行政側の行為・施策を違憲と判断した下級審の判決を破棄する、なんてことをするのがつねで、また、そういう判決を下した下級審の判事は出世は望めず、“見せしめ”として地方の地裁・家裁で冷や飯を食わされ続けて終わる(たいていは途中で辞めて弁護士に転身するなどする)とか、そういう話は聞いていました。「三権分立」とは言うものの、最高裁と政府・行政権力は「仲良し」で、ナアナアの関係がそこにはあることが強く疑われたのです。

 この本にも、先の『週刊金曜日』にも、有名な砂川判決のことが出ています。『週刊金曜日』から引用すると、

【「日本政府が米軍駐留を許したことは憲法第9条が禁じた戦力の保持に当たり違憲」として、砂川事件の被告7人全員に無罪を言い渡した戦後裁判史上画期的な「伊達判決」(1959年)…(中略)…伊達判決は同年暮れの最高裁判所判決によって「破棄・差し戻し」とされ、後に改めて罰金2千円の有罪が確定した。しかし、2008年から13年にかけて、国際問題研究家・新原昭二、フリージャーナリスト・末浪靖司、元山梨学院大学教授・布川玲子の三氏が相次いで米国公文書館開示による米国国務省文書コピーを入手。それによって当時の田中耕太郎・最高裁長官が、伊達判決を覆すために米国のマッカーサー二世大使やレンハート公使と密談を重ね、審理方針や判決の見通しを通報していたことが明らかになった。】

 安倍政権はこの「最高裁砂川判決」が「集団的自衛権」を肯定したものだと「解釈改憲」の口実に使おうとしているのですが、「司法の独立」もへったくれもない「初めに結論ありき」の馴れ合い違法判決だったわけで、彼ら米国高官に対し「田中長官は①伊達判決は覆す方針だ。②9月頃3週間ばかりで口頭弁論を終え、12月頃判決を出す。③判決時に各判事が意見を述べて論議が長引かないように全員一致の判決を目指す――などきわめて明確に裁判方針を伝え…この密約どおり、最高裁は12月、全裁判官一致で『破棄・差し戻し』判決を下した」(同記事)のです(そのくせ田中長官は当時の記者会見で「判決に政治的な意図はない」と大嘘をついた)。

 『絶望の裁判所』の著者はこれについて、「『元東大法学部長』で『商法・法哲学の学者』であった人間が、最高裁長官となると、こういうことをやっているのだ。この学者にとって、『法哲学』とは、『学問』とは、一体何だったのだろうか? しかし、これが、日本の司法の現実、実像なのである」(p.25)と憤ります。

 元からわが国の裁判所には他のお役所組織と同じく、上は他の権力(政府や検察)との“調和”に腐心し、下は率先して上の意向を汲み取り、迎合して昇進の見返りを得ようとする「ヒラメ裁判官」(瀬木氏の言葉)は少なくなかったのでしょうが、要は今はそれが増えすぎ、先の『週刊金曜日』の記事の寺西判事みたいな人(出世する気などは毛頭なさそう)は“絶滅危惧種”になってしまって、全体として裁判官の質の劣化が著しい、ということなのでしょう。

 この本には最高裁判事たちの驚くべき低レベルの生態も活写されていて、どう見てもそれは“選良”たちの発言や行為とは思われないので、権力ゆえに堕落したのか、堕落しているから出世の階段をのぼることができただけなのか、両方が重なってそうなったのか、そのあたりはわかりませんが、「人格・識見のすぐれた者のみが最高裁判事になる」という世間の漠然とした思い込みが全くの幻想にすぎないことだけはわかるのです。

 気楽だがつねに餓死の危険と背中合わせの僕みたいな零細自営の場合にはそうしたこととは無縁ですが、ふつう世間の人は、組織の中での出世は能力や人望と密接に関連すると、漠然と思っています。逆に言えば、出世できないのは無能で人望にも乏しいからだということになるので、そういう周囲の目があるがゆえに、組織人は出世できなくなるのを恐れるのです。それはたんに給料の問題ではなく、むしろ無能で取るに足りない人間だから出世できないのだという世間の冷笑的な視線を恐れる気持ちの方が大きいのです。

 しかし、そうした見方が一応の妥当性をもつのはその組織が公正でまともな組織である場合にかぎるので、企業の不祥事などでもよくわかるのは、多くの場合上が腐っていることで、一体この人たちはどんな「資質」ゆえに上にのぼることができたのだろうと疑問に思うことが少なくありません。病的な組織の場合には、それに合わせて病的になるのでなければ出世も困難になるでしょう。

 こう言ったからといって、僕は「今どき出世する奴はロクでもない人間ばかりだ」と決めつけているのではありません。たとえば、僕の学生時代の親しかった友人たちはそれぞれの分野・職場で出世していて、僕は昔の友としてそれを無邪気に喜んでいます。あいつは人間としての幅もあったし、骨のある奴だったからな、と思うのです。堕落してヒラメになったからエラくなったのだろうとは思わない。

 僕が言っているのは、社会の全体的な傾向として組織がおかしくなってきているのではないかということなのですが、もしもそうなら、そういう組織の中で仕事をする人は「まとも」であろうとするなら出世願望の類から自由でなければならないでしょう。「自己の良心」に基づき、かつ周囲の視線を無視できるだけの強さをもたねばならないということです(そのためには「あんたが出世できないから、私は肩身が狭い」なんて言う俗物根性丸出しの女性と結婚したりしてはなりません。それでは元気が出なくなるだろうからです)。

 話は割とかんたんなので、そういう人が増えれば組織の自己浄化機能が働くようになって、組織全体が健全化し、ひいては社会もまともになるでしょう。裁判所だって、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という原則に忠実に職務遂行をする人が増えれば、腐った上から何を言って来ようがそんなものは無視できるので、まともな審理が行なわれ、まともな判決が下されて、裁判所は市民の信頼を回復することができるのです。「何としても出世しなければ世間的な体面が悪い」というようなケチな下心があるから、足元を見られ、葛藤が起きて、良心を犠牲にする羽目に陥るのです。

 僕が何より問題だと思うのは、今の日本人は個人として弱くなって、「組織や集団(あるいはそのボス)には抗えない」という“気分”がかつてないほど強まっているように見えることです。何で抗(あらが)えないのか、僕にはよくわからないのですが、要するにそれは自分自身が強い風圧にさらされたり、他から非難されるのが無条件にこわい、ということなのでしょう。これこそが「平和ボケ」の最悪の症状です。今は子供の世界ですら、いじめを止めようとした子が新たないじめのターゲットにされ、それに周囲は見て見ぬふりをするという時代です。これはオトナ社会を子供が無意識に模倣しているからで、たとえばある人が傍若無人が目に余るというので下劣なチンピラをボコボコにしたとして、それで連中がおとなしくなって街に平和が戻ったから感謝されるのかと思えば、「あれはやりすぎだ」とか「手段に問題はなかったか?」とか、「暴力的な人はキライ」などと逆に非難される始末なのです。別に相手を殺したとか、後遺症が残るような大怪我をさせたとかいうのでなくても、です。それならおまえらに問題を解決する気があるのかといえば、そんなものはないのです。当事者意識というものがカケラもなく、何もかもひとごとで、自分は何もしないくせに「公平」ぶってエラそうな能書きだけは垂れたがる。今の組織人も、何か不当なことに抗議したり、それを内部告発したりするときは同じ周囲の反応を覚悟しなければならない(出世できないことへの意趣返しだとか、個人的な怨恨によるのだろうとかあれこれ下種の勘繰りめいた中傷まで受けて)ので、昔は、少なくとも僕が若い頃はここまではひどくなかったのではないかと思います。

 最近の「右傾化」もこれと無関係とは思われないので、「強い国家」とやらに自己同一化し、そこに“誇り”を見出そうとするのは、個人では喧嘩一つできない己の弱々しさをそれで補償したいという心理が働いているのでしょう。過去の歴史の強引な美化も同じで、僕はよく若い子に言うのですが、過去の日本人が立派だったからといって、今の自分が立派だという保証には少しもならないし、逆に、日本人が過去の戦争でひどいことをやらかした(戦争時にはどのみち人は正気でいられなくなる)からといって、今の自分の人格を否定しなければならなくなるというわけではないので、冷静客観的な事実認識をこそ尊ぶべきなのですが、そこによけいなものを投影する人は、乏しい自己肯定感の補いにそれを利用しようとするがゆえにそれができなくなるのです(左派の歴史解釈を「自虐史観」だと嘲る保守派は、自分たちのそれが「自己愛史観」に堕していないか、反省してみる必要があるでしょう)。

 そもそもの話、「戦争ができるふつうの国」にしたい安倍や石破にしたところで、実際に自分が戦闘に参加するとはハナから思っていないわけで、阿鼻叫喚の地獄を経験するのは戦場に送られる自衛隊の若い将兵なので、ここでもそれは「他人事」なのです。勇ましいことを言っている右翼の先生方やネトウヨの類も同じ(ちなみにブッシュの馬鹿が始めた対アフガン、イラク戦争でのアメリカ兵の戦死者は約7千人だそうですが、「昨夏、帰還兵の自殺者数がそれを超えた」と『週刊金曜日の』同じ号にはあります。イラクで米兵が“誤って”殺してしまった民間人だけでも12万にのぼると言われているので、それと較べればまだ少ないが、自殺者が戦死者を上回るというのは驚くべきことです。仕方なく「テロとの戦い」を引き継いだオバマは、アフガンやパキスタンで「テロリスト掃討」のために無人機を飛ばし、多数の罪もない民間人を“誤爆”して殺し、人々の恨みを買っているというのは有名な話ですが、かえってテロリストの勢力は増し、世界がさらに不安定化していることは周知のとおりです)。

 話を戻して、権力をカサに着たり、集団に自己同一化して強がるのは、決まって「弱い個人」です。たんなる個人として行動するときは、他に責任が転嫁できないから、集団に埋没するときより「良心的」になるものが、そういうときは個人だとできないようなひどいことを平気でやらかすのです(匿名でネットに中傷の書き込みなどする個人もいるではないかと言われるかも知れませんが、あれは匿名を隠れ蓑にしているからです)。

 『絶望の裁判所』も同じことを指摘しています。言葉が難しいのでわかりにくいが、そこ(p.28)をちょっと引用すると、

【こうした事態の背景には、おそらく「集団に対するバウンダリー(境界の認識)の欠如、集団や規範の物神化(人間の作ったモノが呪物化され、それに人間が支配される現象)という心理学的機制があると思う。カウンセリングにおいては、問題含みの人間関係について、「バウンダリーの欠如」と「バウンダリーの確立の必要性」がいわれることがある。こうした「バウンダリーの欠如」は、日本では、親密な関係の中でも、集団と個人の関係においても生じやすい。よくいわれる「集団に対する帰属意識のかたまりのような日本人」ということの原因がこれである。そして、これは、日本の裁判官集団にも非常によく当てはまる事柄であり、彼らは…「集団や規範の物神化」機制がきわめて強い人々なのである。】

 平たく言えば、この場合の「バウンダリー(boundaryと綴る)」というのは「個の輪郭」のことで、日本人は全般に明確な個をもたないことが多いから、集団の中に入ればたやすく個の境界線は溶解して、その集団に自己同一化してしまい、内部の掟のようなものに、個人としてその是非は問うことなく、盲従してしまうことになりやすい、ということです。

 そして「明確な個」をもつ人間は嫌われる。なぜならそれは集団の中に安住の場を見つけてそこにまどろむ人たちを脅かす存在と感じられるからです。かつて哲学者のソクラテスは自らを「アテナイという鈍牛にたかったアブ」と規定しました。安易な自己満足と馴れ合いにふけるアテナイ市民たちをその心地よい眠りから絶えず揺り起こすことが自分の使命であると心得たのです。彼の場合はその問答法によって権威あるものとみなされた人たちに恥をかかせることが多かったので、名士たちに憎まれ、それがあの言いがかりめいた裁判の容認につながり、法廷でも「恭順の意」を示すどころか市民たちを手厳しく批判したので死刑宣告が下されることになったのですが、わが国の場合には、そこまでしなくても「個」であること自体が不協和音、一種の罪悪であるとみなされるのです。

 70年近く平和が続いて、対立や摩擦を恐れる国民の気風はさらに強まったので、個はさらに貧弱になり、そうした集団支配、「空気」支配の傾向も強化されたのです。自民党のセンセたちが「個性尊重の誤った教育がモラルを低下させた」と言うたびに、僕は笑わずにはいられません。今の学校の管理教育では少しも「個の尊重」など行なわれていないし、それが行なわれていないがゆえに自立的な個人に成長しそこねた幼稚・身勝手な人間が増えすぎて、モラルの退廃も甚だしいものになったと見るのが正しいからです。自分にはモラルがあると思い込んでいる彼ら保守派のオヤジ、オバハンのそうした臆面もない自己欺瞞そのものが、幼稚化の産物なのです。その意味で安倍晋三のような男が総理になったというのは、今の日本社会に見合ったことなのかも知れません。

 いっとき「西洋的な個人主義の限界」がよく言われましたが、それは自他二元的な見方しかもちえない「個としての自覚の浅薄さ」の問題なので、今の日本人に対しては「明確な個をもて」という忠告が一番当を得たものでしょう。高尚な哲学論以前の問題なので、今の日本社会の機能不全と退廃の背景には、全部同じ問題があるように僕には見えます。それは「貧弱すぎる個がもたらす弊害」ということです。

 個は創造性の源泉であるだけでなく、「人間らしさ」の源泉でもあります。自分が本当は何を感じ、何を思っているのかすら自分で感じ取れないようなできそこないのロボットみたいな人間が今は多すぎる印象なので、話をしていても少しも面白くない。弱々しい事なかれ主義者たちが手もなく組織や集団に呑み込まれて、内輪の出世競争や権力闘争に明け暮れながらその圧力に怯え、責任の所在がはっきりしないまま、一部の軍人の暴発も抑えられず、流れに流されてやがては滝壺に落ち込む、というのが戦前戦中の日本社会で起きたこと(それが「素晴らしかった」と強弁する人もいる)ですが、今進行していることも当時と性質は同じでしょう。

 集団の一員としてではなく、個人として強くあれ、それが問題解決の鍵だと、あらためて強調しておきたいと思います。組織にとっても本当はそういう人こそが「宝」なのです。

 最後に、この本に二度にわたって引用されている「ある学者のコメント」を孫引きしておきましょう。

「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について、数年のうちにリベラルな人が何となく姿を消していき、全体としてみるみるうちに腐っていったという話を聞きます。国レヴェルでもそうなのですから、裁判所という組織が全体として腐っていくのは、よりありうることだろうと思います」

 この「裁判所という組織」は「○○という組織」といつでも言い換えられる汎用性をもつものと、僕には思われた、ということです。
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