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「東電処理」についての竹中平蔵教授の見解

2012.03.09.17:36

 小泉政権時代、竹中氏は金融担当大臣で、僕は小泉総理もろとも、この人を罵倒していました。当時はまだこのブログを開設していなかったので、読者はその悪口を何度も読まされる不快を免れたのです。

 しかし、このウォールストリートジャーナルのインタビュー記事に出ている、竹中教授の意見には「まさにそうあるべきだ」と感心させられました。実にスッキリ、明快な解決策です。この前僕は『メルトダウン』(大鹿靖明著 講談社)という本を読んで、東電という独占殿様企業の夜郎自大な太平楽ぶりと、そのKYさに感嘆を新たにしたのですが、こんなもの、絶対に残すべきではありません。きっちり責任を取らせないことには、子供の教育にも深刻な害悪を及ぼすでしょう。これは誇張ではありません。でないと、けじめも何も全くない社会になって、日本社会自体がそのまま「メルトダウン」してしまうでしょう。“道徳不在社会”を子供や若者に強烈に印象づけることになって、それは放射能汚染に劣らぬ深刻な害毒を精神面でも与えることになるからです。志操低下著しい今の経産省のお役人や政治家先生たちは、そういうことがわかっているのでしょうか。わかっていないのなら、あらためてご認識いただきたいと思います。

 最後にURLを付けておくので、後で全文をお読みいただくとして、少し引用させてもらいます。

【「実質的」国有化という言葉がよく使われるが、これはおかしい。名目的に、完全な国有化が必要だ。要はこのような問題を起こしてしまったが、電力を供給するという機能は公的に必要だから、国が一時、それを肩代わりしましょう、ということだ。国有化している間、つまり議決権を100%持っている間に経営者に責任を取らせ、新しい経営者を入れ、必要なリストラを全部行う。その上で、それを民間に売ればいい。ストラクチャーは非常に簡単だと思う。まさに足利銀行の時にそうした。
(現在のプロセスは)東京電力という会社を残すためのものだ。国民からみれば、電力会社は必要だが、それが東京電力という会社である必要はまったくない。別の会社でもいい。その機能を一時国が担って、きちっとした形にして民間に売ればいい。こんな問題を起こしたのに、公的資金で生き残るというのでは国民が納得しない。】

 正論です。そうして「全面的に責任を負っている国が人選をして、(登用した人材が)ダメだったらクビにして、いい人材が出てくるまでそれを続ける」というのもわかりやすくていいし、「売却の際には、発電の部分と送電の部分を分ける必要がある。送電については規模の経済性があるから、これは1社でやる方がいい。これは公的な機能を持った民間会社になる。しかし発電に関しては規模の経済性はない。むしろできるだけ競争してもらう方がいい。それを商社が買っても関西電力が買っても、どこが買ってもいい。実際、足利銀行は野村証券を中心とするグループが買った。そういう形で、きれいにしてできるだけ高く売ればいい」なんてのも、明確かつ具体的で、説得力があります(経産省を“追放”された古賀茂明氏の案も、これとよく似たものだったのではないかと思いますが…)。

 大体において、「『実質的』国有化」なんて言葉そのものが人を馬鹿にしたふざけた話なので、竹中教授の言うように、ここは「名目」からはっきりさせなければなりません。「実質」と「名目」を一致させないのは、かつて孔子も言ったように「世の乱れの元」なのです。そういうことばかりやってきたから、今の日本はこんな腐った社会になった。この期に及んでまだそんなごまかしをやるというのは、経産相のお役人たちは東電を生き延びさせ、恩を売っておいて、後で天下りやら何やらでそれを“回収”しようという魂胆なのでしょう。国民不在の亡国官僚のやることとしか言いようがありません。民主党の面々は東電・銀行・官僚の連合軍と戦って、理非を明確にすべきです。そしたら政権支持率も上がるはずで、国民はそれを見ているのだということをお忘れなく。

 何にせよ、竹中教授のこの簡にして要を得た提言は全国民必読のよいものだと、僕は思いました。また別のことでは悪口を言うかも知れませんが、ここは竹中教授を賞賛したいと思います。
 それでは、記事全文をお読み下さい。 

【インタビュー】東電処理は足利銀行モデルに、完全国有化が必要=竹中平蔵慶大教授

石原慎太郎氏の反・反原発論の愚

2012.02.07.00:43

 宮崎県教委が「宮崎県立高等学校教育基本整備計画」なるものを発表し、「県民の皆様のご意見を募集」しているというので、そちらの原稿を今準備中なのですが、さっきパソコンをつけたら、「原発に関するセンチメントの愚」と題された石原慎太郎氏の文章が目に付いて、一読、こちらについての「意見」の方を先に表明しておきたいと思ったので、そうさせてもらいます(途中で仕事の時間になったので、アップが夜中になって日付が変わってしまいました)。

 石原氏のこの文章、「妄言製造機」の異名を取るお方のいつものアレと言ってしまえばそれまでですが、ある意味、原発擁護論者の最大限に単純化された共通意見と言ってもよさそうなので、反論しておくだけの価値はありそうに思えるのです。
 これは産経新聞のオピニオン欄(2012.2.6)に掲載されたもののようですが、全文はこちらです。

 石原氏はこの中で、「センチメント(情念)ほど厄介なものはない」ので「それは理性をも超えて優に人間を左右してしまう」と書いておられます。「理性」を信奉する人の文章にしては論理的に散漫で、緻密さに欠ける文章なのですが、要点は「私がいいたいことは」で始まる後半にあって、そこを叩けば足りると思われるので、まずその箇所を全文引用してみます。

 長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
 ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
 人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと―」と吉本隆明氏も指摘している。
 人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
 日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
 豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。


 僕の見るところ、石原氏はお世辞にも「ものごとを複合的に捉える」とは言えない人で、彼ほど自分に気に入らない言論を「頭から否定してかかる」頑迷な人も珍しいのではないかと思われるほどですが、皮肉はさておき、ここに見られる論理の粗雑さには驚くべきものがあります。

 氏の議論の要点は、「福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発している」として、「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」と断じるところにあります。

 たしかに原発廃止論の高まりにおいて、「放射線への恐怖というセンチメント」は大きな役割を果たしています。しかしそれは、本来恐怖すべきものを恐怖するようになったというだけの話で、「原発安全神話」に洗脳されて正常な「放射線への恐怖」を国民の多くが忘れていたと言った方が正しいのではないでしょうか。つまり、「恐れていない」前の状態の方が「異常」だったのです。

 氏のご子息の石原伸晃・自民党幹事長が、福島原発後の世界的な脱原発の高まりを「集団ヒステリー」と呼んだのは有名なので、このあたりは父子で「思い込みを共有」なさっているのだろうと察しますが、恐れるべきものを恐れないのは「理性的」に判断しても適切とは言えないでしょう。ヒステリーなんて決めつけこそが、逆にヒステリックすぎる反応なのだと言えませんか?

 それに、石原氏は「一度の事故で」と、たった一回しか事故が起きていないかのように書いていますが、スリーマイル、チェルノブイリの事故だけでなく、あわやという事故が日本の原発でもこれまで幾度となく起きていたことが、その後明らかになっています。電力会社や国の隠蔽工作、カネで抱き込まれたマスコミの“消極的”姿勢、国民の無関心がそうした事実の看過を許してきただけだったのです。こうした態度はどれも「理性的」ではありません。「軽率を超えて危険」なのはむしろそちらの方ではありませんか?

 「そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ」なんてのも、妙な議論です。「それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか」と続くので、あたかも原子力(とそれが出す放射線)は太陽エネルギーの有効活用か、それと同種のものみたいになっているのですが、そんな話、聞いたこともありません。僕が知る範囲では、地球の大気上層には保護膜のようなものがあって、そのおかげで有害な宇宙放射線から地球の生物は守られている。そのおかげで地上には多くの生物が繁茂できるようになったので、石原大先生に学校で理科の授業でもしていただいたら、「原子力開発は太陽エネルギーの有効活用と同じだ」なんて恐ろしい思い込みをする子供たちがどっさり生れるかもしれません。電力会社や原子力村の学者先生たちでも、「そこまではちょっと…」と苦笑するのではないでしょうか。同じ「放射線」とは言っても、それには色々な種類・性質があって、その違いが重要なのですが、石原氏にかかるとそんなものは大した違いではないのです。

 もう一つ、重要なことは、原子力発電は危険な放射性廃棄物を生み出すが、それを安全に処理する技術はなく、「理性的・現実的」に考えて、それが開発されるメドは今も全く立っていないということです(そういう捨鉢な技術の安易な実用化が「英知の所産である」とは恐れ入ります)。「トイレのないマンション」というのはこの点、適切かどうか疑わしい比喩です。なぜなら、人間の排泄物は臭いというだけで、べつだん危険なものではなく、運び出してそのまま堆肥に有効利用できるし、埋める場合もそんなに大変なことではないからです。放射性廃棄物はそんな生易しいものではない。原発をやめたとしても、今までに蓄積された放射性廃棄物は何とかして「処理」するしかありません。目下のところ、それは地中深く穴を掘ってそこに「保管」する他ないようですが、その候補地が見つからなくて頭を抱えているというのが実情です。事故が起きない場合でも、そういう問題が元からあるわけで、氏の言われる「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方」によれば、いずれそれも解決するだろうということになるのかも知れませんが、原子力はその破壊性において他の一般的な技術とは違う性質を持っていて、そんな呑気な「希望的観測」にあぐらをかいていられるようなものではないはずです。大体、氏の議論を借用するなら、「人間は進歩する」というのも「センチメント」の一つなので、現実的・理性的に考えて全く解決のめどもつかないような問題まで、「進歩」によって「克服」できるとするのは、新興宗教で教祖を崇拝するとか、呪文の類を一万回唱えれば末期ガンも完全治癒すると信じるのとえらぶところがない「センチメンタルな錯覚」なのではありませんか? 合理的な根拠は何もないのですから。「人間として備えた理性でものごとを判断する必要があ」ると言いながら、どこにそのような「判断」が示されているのか、僕にはさっぱりわからないのです。

 「人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ」とあるので、石原氏はすでに原子力でも「その超克」の道筋が示されていると考えておられるのかも知れませんが、それなら、僕を含めて圧倒的大多数の人はそれを知らないので、ぜひお教えいただきたいものです。

 今の引用文に関して、僕がひとこと付言しておきたいのは、「人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた」と言うのなら、なぜ原発以外の「さまざまな技術の開発改良」に尽力すべきだということにならないのか、ということです。

 こう言えば、「コストなどの面から実用化のメドが立っているものは少ないからだ」ということになるのでしょうが、少なくともそれらは原発の放射性廃棄物の安全処理よりもはるかに「現実的」な希望がもてる技術でしょう。「現実的」に言って、今原発を全部停止しても、他の火力・水力などで電力需要は十分まかなえるそうなので、火力ならむろんそれに燃費はかかるわけですが、当座はそれで行って、その間に他の地熱、太陽光(有害放射線ではない!)、風力などの技術開発を進めればいいわけです(消費至上主義のこれまでの文明に対する反省は必要だと思いますが)。

 こう言えばまた、「今の中東情勢ではいつ石油・天然ガスの供給が止まるやも知れないので、海外依存を高めるそのようなやり方は危険だ!」と言う人がいるでしょう。しかし、これは為にする議論と言う他なく、そうなったら、どのみち日本経済は終わりなのです。大体、そういうことを防ぐために外交官や政治家はいるのでしょう? 彼らにきちんと仕事をしてもらえばいいのです。

 以上ですが、僕に怪訝なのは、石原知事は先の大震災で、「これは日本人の『我欲』に対する天罰だ」と述べ、その場面を弁えない無神経さに批判が殺到したのを受けて「撤回、謝罪」に追い込まれる一幕があったわけですが、あの発言などは明らかに氏の「センチメント」に発するもので、なのに、自分のことはきれいに棚に上げて、今度は何でまたこんなことを書くのか、ということです。

 すでに見てきたとおり、氏の「理性的判断」の重要性を力説するこの文章自体、とうてい「理性的」とは言えないほどお粗末な文章なのですが、こういう混乱した支離滅裂な文章しか書けなくなったら、物書きとしては終わりではないかと思います。政治家としても東京都が何とか回っているのは、幹部や現場職員の働きのおかげなので、自前の銀行を立ち上げてポシャったり、大金をかけてオリンピック誘致を企てて失敗したり、事あるごとに物議をかもす発言(それも大方はレベルが低い)で注目を集めるだけで、実質的に大きな働きをしているようには見えません。この際だから、どちらからも引退されたらいかがですか? 氏の称揚する「日本人の美徳」には「引き際の潔さ」も当然含まれるはずです。今さら新党がどうのこうのと、老人の「センチメント」に引きずられるまま、社会に新たな混乱を付け加えるだけの、傍迷惑なみっともないことはおやめになることです。

 最後にもう一つ、理性、理性と言いますが、人間の理性はそれが背後に深い豊かな感情をもつときにのみ初めてまともに機能するので、浅薄なそれに乗っかった「理性」なるものは、自己正当化の屁理屈をこね回すためのたんなる利己的な道具でしかなくなります。原発自体、目先の利便ばかりを優先して、その致命的な欠陥には目を閉ざして進められてきた技術と言えるので、その背後には石原氏の言われる愚かしい「センチメント」があったのだと言えるでしょう。石原氏の視野にそれが入っていないのは、そうした深い感情に支えられた理性をおもちではないからでしょう。だからこそ見掛け倒しのこんな杜撰な駄文を綴って、世の笑いものになる(だろうと僕は思っています)のです。

 僕は人生後半の人間の最も重要な仕事の一つは、感情面でのそのような深みに達すること、心理学のいわゆる無意識とは別次元の、統一的な生命感の感得にあると考えています。すでに晩年に達した石原氏は、これまで世俗のあれこれにまぎれてそういうことを怠ってきたのではないかと思われるので、失礼ながら、もう少し心の深みを探られてはいかがかと思います。芥川賞だか何だかの選考委員をおやめになったそうですが、それは正しい決断です。こういう人に文学なんてわかるはずがないのではないかと思われるからです。ついでに政治からも、床屋政談以下の浅薄な社会評論からも引退なさって、静かに自己の内面を見つめられてはいかがかと、僭越ながらお勧めする次第です。


【追記】以下の記事をさっき読みました。
〈東京都で原子力発電所稼働の是非を問う住民投票を目指す市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」の集めている署名が、都条例制定の直接請求に必要な法定数を上回る見通しになったことについて、石原慎太郎知事は10日の定例記者会見で「そんな条例を作れるわけもないし、作るつもりもない」と否定的な見解を示した。
 石原知事は「人間で一番やっかいなのはセンチメントだ。原爆のトラウマがあるから恐怖感で(原発反対を)言う」と反原発運動を批判、そのうえで「人間の進歩は自分の手で技術を開発し、挫折や失敗を克服することで今日まで来た」と述べた。
 市民グループから住民投票条例制定の直接請求が出された場合、石原知事は意見を添えて都議会に条例案を提出する。都議会で条例案を審議し可否を判断する。〉
(2012年2月10日21時18分 読売新聞)

 相変わらずですが、石原老人の頑迷なsentimentに発するこうした横柄な態度は、心ある都民のresentment(憤慨)を招くだけに終わるでしょう。

これなら安心! 原発存続のための一提言

2011.09.22.07:03

 先日19日に、北九州市で原子力学会の秋の大会というのが行われたとのこと。そこでは色々な「反省」が語られたそうですが、集(つど)われた学者先生たちは原発推進という点では揺るぎないようで、一般世間との温度差がかなりあるようですが、僕は一つ「これなら一般市民も安心できるだろう(原発がそこにあっても)」という案を思いついたので、謹んでここに“発表”させていただきます。

 自分で言うのも何ですが、これはかなり「画期的」なものです。原子力村の学者先生たちにも一般市民にも、どちらにもプラスが大きいものなので、野田総理にはぜひ実現のためにご尽力いただければと思います。

 それは、原発の半径二キロ以内に、本物の“原子力村”を作ることです。大体、原発は地方の風光明媚なところに建設されています。周囲の自然も豊かで、子育てには絶好の環境です。ですから、そこに原子力研究者たちが家族と一緒に暮らせるように、庭付きのマイホームを建設してお迎えするのです。年配の研究者のことも考えれば、三世帯住宅も必要でしょう。

 “職住接近”というのは、働く者、研究者にとっては願ってもない条件です。僕なんかも、自転車で15分(信号無視をして飛ばせば8分)のところに職場があるので、日頃便利さを実感しているのですが、その恩恵を原発研究者にも及ぼすのです。

 自宅や研究所が原発と至近距離にあるというのはたいへんなメリットです。現場で働く人たちもすぐ連絡がついて、何か困ったことがあったら偉い先生に助けに飛んできてもらえるし、研究者はしばしば現場に出かけて、自分の研究を現実の裏づけたっぷりなものにできるからです。理論や図面だけだとよくわからないことも、実際の原発施設と照らし合わせれば、「なるほど、ここはこうなっているのか。ならば、ここをこうすればいっそう安全性が高まるだろう」などと、研究の能率も上がるのです。ケチなおもちゃの原子炉みたいなものではなく、本物の、巨大な原子炉の様子をモニタールームから刻々観察することもできます。

 「しかし、われわれは学生の指導も行わなければなりませんから…」
 心配ご無用! 大学院の研究室も併設するのです。学部の授業なんかは、ひよっこに任せておけばいい。大学院レベルになると、こちらに引越しさせて、“本格的な”勉強をさせるのです。「いいか、諸君はまだ本物の原発がどういうものか知らんのだ。ここで研究してこそ一人前と言えるようになる!」云々。

 家族も安心です。日頃「原発は安全だ」と自信たっぷり語る頼もしい夫または父、あるいは祖父がそこにいて、原発の“守護神”となっていてくれるのですから。各種の機械トラブル、人為ミスが起きても、彼は必ずや大事に至る前に処置してくれるでしょう。

 むろん、基本的に原発は安全なのです。この前の福島第一原発の事故などは例外中の例外であって、地震や津波に対する評価が少し甘すぎただけで、そこをちょこっと考えて措置すれば、事故なんて起きる方が不思議なのです。自民党の石原幹事長も言われたように、こういう事故がたまたま起こると、無知な一般人は「集団ヒステリー」状態に陥って冷静な評価ができなくなるから困るのです。

 住民はもちろん、大いに安心します。今までは口先だけに思えたが、家族やお弟子さんまで引き連れて、近くにやってきてくれた。それ自体が「安全の証(あかし)」です。その安全性に対する確信の深さが、行動によって示されたのです。でなければ、原発がすぐそこに見える浜辺や小川で、可愛いわが子や孫を遊ばせるなんてことができるでしょうか?

 こういうふうになると、大阪の熊取くんだりで、おもちゃの原子炉みたいなもの相手に「研究」して、「安全な原発などない」などと腹立たしいことを繰り返し言っている某大学のK助教なんかをすっかり黙らせることもできるわけです。これまでは「あれはあくまでも未曾有の地震による例外的なケースで…」とか「とにかく心配はいらないんです」とか、意味不明のことしか言えなかったのが、「安全だからこそ、私は原発のすぐそばでこうして心安らかに暮らしていられるのだ」とキッパリ言えるのです。「原発がないと電力需要はまかなえない」などというほころびの出た嘘で苦しい反論を試みる不自由さからも解放される。別に、だからといって「絶対安全だ」という科学的根拠にはなりませんが、「絶対的な自信があるからこそ、家族と一緒にそのすぐそばに暮らすことができるのだろう」と、一般人は説得されるのです。

 また、こんなことを言う元技術者もいます。ふつうの技術と違って、原発にはシビア・アクシデント(過酷事故というのはヘンな日本語なので、重大事故としておきますが)が起きた場合、安全に収束させる方法がない。ふつうは、幾重にも事故防止策を講じて、それがすべて失敗した場合でも、「この範囲で収まる」という見通しがつけられるが、原発にはそれがない。だから、そんな技術は技術として成り立たない(元某メーカー原子炉設計技術者G氏)。

 これに対しても、よほどの構造上及び人為ミスが重なっても、必ずや一定レベルで食い止められる、だからこそ自分はそこで暮らしているのだ、と胸を張って言うことができるでしょう。

 この前の事故の場合、たしかに見通しが甘く、かつ非常用電源を別々のところではなく、同じ地下に置いておいたなんてのはお粗末すぎる(そもそも法令違反)が、逆に言うと、だからこそあんなことになったので、そのあたりに気をつけさえすれば、シビア・アクシデントなんて超新星爆発が近くの星雲で起きるような天文学的な頻度の出来事でしかないので、そのようなことが起きる確率はかぎりなくゼロに近い。

 何? もうじき実際にその超新星爆発が起きるって? 地球から640光年離れたオリオン座の巨星ベテルギウスが爆発して、地球からもそれはよく見え、しばらくは「太陽が二つ」状態になる?(幸いその地軸が地球に対して垂直になっていないので、ガンマ線に直撃されて保護膜のオゾン層が破壊される心配はないとのこと)。わかった。例を変えましょう(よりによってそんなもの、違うときに起こればいいものを…)。地球人口約70億人に1人にしか起きないようなことが起きる。その程度の確率でしか、今後シビア・アクシデントは起きない。少なくともそうなる前に必ず阻止できる。これでどうだ。

 とにかくふつうに注意を怠りさえしなければ、あのような事故はレアのレア、そのまたレアのケースでしかないので、だからこそ私はここに暮らしていられるのだ、と反論できるのです。いくら安全だと言ったって、ふつうの人は、それはおまえらがメシのタネを失うのを恐れてそんな無責任なこと言ってるだけだろうとしか今は思わないので、日々原発のそばに暮らしている研究者の言うこととなれば、説得力はいや増すのです。

 それでこそ、われわれ一般市民も安んじて原発と同居できるというものです。素人の悲しさで、危険だと言われれば危険なのかと思ってしまうし、安全だと言われれば、専門家がそう言うのだから安全なのだろうと思ってしまうのですが、こういう恐ろしい事故が実際に起きると、とても安全だとは思えなくなってしまう。むしろ「いつ起きても不思議ではない」と思ってしまうのです。

 そこで、このような“本物”の原子力村が原発施設のすぐそばにできて、ついでに電力会社も社宅をそこに建設するようになれば、僕みたいな人間は、「そうまでするからには本当に安全なのだろう」と、原子力関係者と認識を共にできるようになるのです。

 今後も原発を続けるという場合には、ぜひそのようになさって下さい。でないと、明確な科学的根拠を示して説明してくれるのなら話はまた別として、僕は原子力村の先生たちの言うことは信じないでしょう。素人にもあやしいとわかる、とても科学者の言葉とは思えないような没論理な話ばかりだからです。

 ほんとに安全なら、僕はそれぐらいのことはできるはずだと思うのですが…。冒頭にも述べたように、これはメリット満載の方策だと僕には思われるので、むしろそうしない理由の方がわからないくらいです。

 尚、原発の「死の灰」についても、その自宅敷地の周辺あたりに“無害化”して“安全に”置ける方法を考えて下されば、さらによいと思います。ほんとにそばに置かねばならないとなったら、例のプルサーマルみたいな「机上の空論」(膨大な予算を無駄にしているけれど)を振り回すことはできないから、そのあたりも真剣に考えられるようになると思います。

 でなければ、僕は小出裕章先生(先ほどの「K助教」とは、言わずと知れた先生のことです)と違って、“運頼み”の甘いところがあるせいで、「連続してまたあんなひどい事故は起きないだろう」という希望的観測に基づいて、すぐには無理でも、順次廃炉にして10年内外で原発をゼロにするのがいいと思っていますが、その考えは改めないでしょう。喉元過ぎれば…で、そのうち時間がたてば一般国民は忘れるだろうなんて思ったら、大間違いですよ、原子力関係の学者先生たち。

(書いているうちに夜が明けてしまったので、これをアップして、寝ることにします。)

「ありえない」テレビ

2011.08.09.03:00

 A男「ありえんやろ!」
 B子「うん、ありえんよね…」

 時々塾の生徒たちがそういう会話をしていることがあって、僕くらいの年配の人間には、その表現自体が可笑しく、加えて延岡弁のイントネーションには何とも言えないユーモラスな味わいがあるので、つい笑って「何が『ありえん』わけ?」と聞いてしまうのですが、それは学校の途方もない量の宿題だったり、休みが少なすぎることだったりするわけです。これ、英訳すると“That(or It)can't be!”か、そのまま“Impossible!”とでもなるのでしょうか。

 それはともかく、「ありえない」ことが頻発する今の病める社会においても、この前の東海テレビの“不適切なテロップ”事件などは明らかに「最もありえない」ものの一つでしょう。それは同局の某番組で視聴者プレゼントの「岩手県産『ひとめぼれ』10kgの当選者が『怪しいお米 セシウムさん』『汚染されたお米 セシウムさん』と表示されて」しまったという問題です。
 一体それは何なんだと、Youtubeで検索してみたら、ありました(こちら)。

 これを見ると、30秒ほどそれが画面に大写しになっているわけで、視聴者が唖然とさせられたのは無理もありません。局側は後でそれについて「リハーサル用に遊び心でスタッフが作成したものが誤って出てしまいました」と平身低頭、謝罪したそうですが、リハーサル用だと何だろうと、そういうものを平気で作ってしまうという感覚がそもそも異常なので、ふつうならそんなのは“遊び心”の対象そのものになりえないということが、感性のレベルでわかるはずです。僕が同じ仕事のメンバーなら、それを見たとたんに、「おまえ、これはどういうつもりだ!」と怒鳴りつけてしまうでしょう。何考えて生きてやがるんだと、腹が立つからです。軽いおふざけ、ですむ話ではない。

 おそらく、作った本人には悪意はなかったのでしょう。むしろそのことが恐ろしいので、僕が遊び心で作るのなら、「とにかく辞めない菅直人さん」とか「水素があっても爆発しないマダラメさん」とか、「水がなくても冷却されているので安全な関村直人さん」とか、この場合は大いに悪意はありますが、そういうのを作るでしょう。それが“誤って”出てしまったのなら、その意味がわかった視聴者は黒い笑いを笑うでしょう。それで局側は「不届き千万なスタッフがいて、総理と原子力安全委員長、関村東大教授にはたいへん不快な思いをさせてしまいました。誠に遺憾です」と“深く謝罪”するのです。僕は当事者として、「すみません。ついテレビではご法度のホントのことを言ってしまいました」と、記者会見で神妙にうなだれて見せます。どうせなら、その程度のブラックユーモアのレベルは保っていてくれ。

 前に、どこでだったかジャーナリストの大谷昭宏さんが「日本人の劣化」についてお書きになった文章を読んで、大いに共感したことがあったのですが、こういうのはそれの最たるものです。幼稚で、社会性ゼロ。一体どういう育ち方をしたのでしょう。「教育の普及は浮薄の普及なり」と言ったのは明治の文人、斎藤緑雨ですが、高学歴社会になって、かえって無教養な馬鹿が増えてしまったのかも知れません。

 ちょうど二十年ほど前のことですが、気まぐれを起こして心理学系の大学院というところに籍を置いていたとき、クリニックを経営する精神科の先生から、「しばらく前から以前には存在しなかったような種類の患者にお目にかかるようになった」という話を聞いたことがあります。それは、人間関係や仕事でうまく行かないのでやってくるのですが、「困ってはいるが、悩んでいるというのとは性質が違う」人たちだというのです。何か知らんがうまくいかなくて困っているので、どうすればいいか、手っ取り早い対処法を教えてくれ、とそのような人たちは言うのです。マーク方式の試験みたいに、「正解」というのがあって、それさえ教えてもらえば即問題解決、みたいに思っているようだというのです。

 どういう経緯でそういう話になったのかと言うと、そのときは僕がレポートの作成と報告の番に当たっていて、かねてから僕が問題に思っていたのは、「社会が異常になると、その異常な社会に葛藤なく適応する人間は必然的に異常になるが、従来の心理学は、社会適応の失敗者のみを主として扱い、“適応した異常者”の問題は十分検討してこなかったのではないか?」ということでした。それで、自分が書いたレポートの中身の方はすっかり忘れてしまいましたが、「表面上適応した、気づかれない異常者」のことを取り上げたのです。それでその話をしているとき、「そういえば、私にも思い当たるフシがある…」ということで、「困ってはいるが、悩んではいない」そういう奇怪な患者の話になったのです。

 この場合、と教授は言いました。困るのは、悩んでいる人には病識(病気の自覚)があって、それがあるということは芯に健康な部分があるからこそなので、そこに働きかけてゆけば心の葛藤やひずみを解消する方向にもってゆけるが、こういう人たちの場合、自分の異常性についての自覚がまるでない。たんにうまく行かなくなったので「困っている」だけで、何かハウツーめいた便利な答があれば、それで問題は解決すると、いとも安易に考えているところであると。正直、私はこういう患者にどう対応すればいいのかわからないので困っている、そういうお話でした。

 “遊び心”で「セシウムさん」のテロップを作成した若者(でしょう)も、こうした部類に入るのかも知れません。異常性の自覚そのものがなく、「人の感性は様々で、オレの感性はオレの個性なんで、人にとやかく言われる筋合いはない。だからこういう仕事ではまずかったのかも知れんが、少し騒ぎすぎなんだよな。良識ぶりやがって!」なんてひそかに思っている可能性はある。それでふだんから割と陽気で、人付き合いもよかったりして…。要はちょっと場面が悪かっただけなので、今後は状況判断に気をつければいい、と考えるだけで終わるのです。そういう言葉が平気で出てくる自分の内面の情景にギョッとさせられることはない。周りがギョッとさせられるだけなのです。

 僕が何を言わんとしているのか、わかる人には詳しい説明を要せずおわかりになるでしょう。最近はこの手の人が増えていて、とんでもないことを言ったりしたりしたから注意したら、“逆ギレ”されて大変なことになった、なんてのはよくある話のようです。精神病院にではなく、“ふつうのところ”にそういう人がいる。

 まあ、考えてみれば、今の民放はアホバカ番組のオンパレードだそうで、とにかく視聴率を取れさえすればいいということで、タテマエはともかく、モラルもへったくれもない、という世界に、事実上はなっているのかも知れません。先に述べた「社会が異常になると、その異常な社会に葛藤なく適応する人間は必然的に異常になる」という状況が出来上がっているのかも知れず、いつものノリでやったらこういうことになりました、というのが正直なところなのかも知れません。その問題の画面をごらんになった方は、上の方に「夏休みプレゼント主義る祭り」という意味不明の文字が書かれているのに気づかれたでしょう。知性もユーモアもあったものではないので、これ自体アホとしか言いようがない。
 最近の若い人がテレビを見なくなったというのは、その意味では幸いなことです。程度の低すぎる番組でテレビ局が自滅するのは自業自得で、社会向上の観点からは慶賀すべきことと言えるでしょう。テレビ離れを一層加速させたという意味ではこうした「不祥事」にも大きな意味があったと、後世の歴史家は“評価”してくれるかも知れません。

 それにしても、こんな幼稚で病的で、アホな社会に、一体誰がしたのでしょう? テレビ局がその“戦犯”の一人であることは、論をまたないと思われますが…。


【追記】その後、この「セシウムさん」の作者は50代のおっさんだったということが判明しました。同世代として恥ずかしく思うと共に、「若者」と見立ててしまった筆者の不明を深くお詫びします。

中也の詩と原発

2011.08.04.16:53

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる

 有名な中原中也の詩にそういうのがありましたが(今調べてみると『山羊の歌』という詩集に収められています)、「汚された大地に今日も放射能が降り注ぐ」状態になってしまった3.11以後のニッポン(だけではありませんが)では、この詩の最後のフレーズ、

  汚れつちまつた悲しみに
  なすところなく日は暮れる

 …は、リアルそのもので、政府の大本営発表にもかかわらず、今も福島原発事故収束のめどは全く立っていないことを、国民は皆承知しています(先日は原子炉建屋周辺に毎時一万ミリシーベルト超の“特濃”スポットがあることが新たに判明したという報道もありました。これは、素人には数値だけ聞いても意味はよくわかりませんが、京大原子炉実験所の小出裕章先生によれば、「一時間そこにいれば、二週間以内に必ず死ぬ」レベルのものだそうです)。

 しかし、悲しいかな、人間は長く緊張にもちこたえられるようにはできていないので、関連情報から受けるインパクトもだんだん弱くなってきて(それは政府・東電の望むところではないかと思われますが)、そのうち重大情報も報道されなかったり、「またか…」という反応と共に軽くやり過されるようになってしまいそうです。

 これは人間が悪いというよりも、原子力利用そのものが自然の摂理と人間の生理に反しているからだと見た方がいいので、いったん原子力施設が事故を起こすと、ふつうの火事や爆発事故の場合のように惨事がそのときだけではすまず、放射性核種(というのか?)の中には半減期が何万年、中には百万年などというものもあって、いつまでたってもその災禍から解放されることがないからです。大体、今の原発事故処理の様子を見てもわかるように、「危険すぎて近づけない」ので、作業の進展が異常なまでに遅くなる。一応の決着を見るだけでも最低数年はかかるのです。さらに、事故は起きなくても、そこから出る放射性核廃棄物の安全な処理の方法はなく、ドクロマークの標識をぶら下げた鉄条網か何かで周辺をぐるりと囲って保管するとか、地中深く埋め込むしか手はないというのだから、無責任、投げやりこの上ない。悪魔に魂を売って、富や権力を手にするという話と同じで、当座はいいかも知れないが、後でそのツケをこれでもかというほど払わされるのです。

 後先考えない科学技術の利用というのは、それ自体道徳的な自殺に等しいので、そういうことに手を染めた時点で、人間はなかば破滅したも同然です。

 米ソの冷戦時代には、地球上には世界を十数回破滅させるだけの核弾頭があると言われていましたが、「平和利用」の原発が核爆弾に劣らず危険なものであることを、今や僕らは思い知らされたのです。平和利用も軍事利用もない、これまで蓄積されてきた核廃棄物はともかく何とかして害の少ないかたちで「保管」するしかないとして、世界を挙げて脱「原子力」の方向に転換できるかどうか、そのことに人類の存続は大きく依存していると言ってよいかも知れません。「そんな子供みたいなことを言って、実現するわけないだろ!」と嘲笑されるのは必至と思われますが、でなければこの世界は後百年ももたないだろうと、僕には感じられるのです。

 そのときは奇跡的にどこかで未開部族のごく一部でも生き残って、人類はまたゼロからスタートすることになるのでしょうか? 先の中也の同じ詩の一節には、

  汚れつちまつた悲しみは
  なにのぞむなくねがふなく
  汚れつちまつた悲しみは
  倦怠のうちに死を夢む

 という箇所もありますが、何をどう言ったところで変わりはしないさと諦めて、「倦怠のうちに死を夢む」状態になると、それは必ずやってくるでしょう。この世の中には人間の力ではどうにもならないことと、人間の努力次第で変えられることとがあります。原子力の問題は後者に属しますが、自分たちが作った文明とシステムに逆に支配されるようになってしまった人間は、昔の人たちよりずっと少ない自由感しかもてなくなってしまって、その分無気力に、自己信頼感に乏しくなってしまったように見えます。

 原子力にかぎらない、昨日書いた延岡の高校の問題だって、「仕方がないさ」とそれに慣れてやり過ごすようになれば、何も変わらず、何のためなのかわからない“忍従”が続くだけになるのです。それでいいのかと、あらためて問いかけておきたいと思います。

【追記】グーグルニュースのピックアップのところに「どうなる放射能汚染物の処理【4】“原発並み”の放射能抱える東京の下水道施設」と題されたECO JAPANの驚くべき記事が紹介されています(こちら)。いまだに「不安を煽るのはけしからん!」と、ミソもクソもごっちゃにしてまっとうな指摘でも嘲笑罵倒したり、無視を決め込むする向きが少なくありませんが、こういうのはその深刻さを直視して、きちんとした調査に基づいた対応を取る必要があるでしょう。そうしないと二次被害をさらに拡大することになってしまう。ダチョウはパニックになると何も見えないように砂の中に頭を突っ込んで「安心」だと思い込もうとするそうですが、それで問題が解決するわけではないのは、わかりきったことです。
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