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安全と安心~国の南海トラフ大地震被害予測に思う

2013.03.19.16:30

 昔は、「地震かみなり火事親父」と言いました。こわいものを並べるとそうなると言うので、僕が子供の頃はまだ「なるほど」と思えるものでしたが、このうち最後の「親父」はもはやちっともこわいものではなくなりました。それは子供たちに聞けばわかることで、「ウザい」存在ではあっても、恐れの対象ではなくなったのです。「家庭の粗大ゴミ」と呼ばれて久しく、CMでイヌにされても怒らない親父。それどころか妻と娘に、「あんたにもあの秋田犬ぐらいの清潔感と稼ぎがあったらねえ」と言われて、でへへと力なく笑っていたりする有様です。「憐れむべきもの」を四つ並べたことわざができたとすれば、「親父」はその中に必ずや含められるものとなるでしょう(それでも妻子に暴力を振るうアホなDV親父よりは百はマシでしょうが)。

 今はこの言葉はだから、「地震かみなり火事原発」とでも言い替えるべきでしょう。福島原発事故から丸二年たちましたが、「全く、どうしてあんな恐ろしいものを…」と、そのようなものをこの地震の巣みたいな列島に50基も建ててしまったノーテンキさに、あらためて震撼せざるを得ないのです。あれだけの惨禍を惹き起して、しかも廃炉まであとたっぷり40年はかかるという。それにかかる費用だけでも途方もない額になるはずで、原発は「経済面」から見ても救いようのない技術です。いずれ全部廃炉にするしかないだろうと思いますが、全体でその費用はどれぐらいかかるか、また、十万年安全に保管しなければならないという溜まりたまった高レベル放射性廃棄物はどこにもって行くのか、「行きはよいよい帰りはこわい」とはまさにこのことです。

 さて、ことわざの最初に来る「地震」ですが、南海トラフ大地震の「最悪被害予測」というのが政府から発表されました。すさまじい数値が並んでいる。それで「防災対策をしっかりやれ」ということのようですが、そんな途方もない巨大地震がこの二、三十年内に起きたら、わが国は一巻の終わりでしょう。「首都圏直下型地震」というのも遠くない将来必ず起きると言うし、そういうのが十年、二十年の間隔で小出しに来られたら、たまったものではありません。

 昔、「ヴァージニアビーチの眠れる予言者」と呼ばれたエドガー・ケイシーという霊能者がアメリカにいました。彼は「日本沈没」(経済的・文化的な「沈没」を言ったものではなく、日本列島そのものが大部分、地震で海中に沈すると言った)の予言をして、小松左京のベストセラー小説『日本沈没』はそれに想を得て書かれたものだと言われています。

 今にいたるもそれは実現していないわけですが、いくつかに分けて大地震が来るよりも、固めて来てくれた方が、ジタバタしなくてすむので、その方が親切です。彼は高度な文明を誇ったアトランティスも、その強力なエネルギーシステムの誤用によって滅び、海中深く沈んでしまったと言うのですが、日本も、「日出ずる国、忽然として海に消ゆ」ということで、なかば伝説と化し、いくらかは美化されて、後世の世界に語り伝えられるかも知れません。「大昔は海のあのあたりに美男美女の住む、優雅な伝説の黄金国ジパングはあったのだ!」というふうに。
 滅びてそう呼ばれるのも、まんざら悪くはないでしょう。「ほんとはかなり馬鹿な人間たちがセコい内輪もめを繰り返しながら、暮らしていた」という“真実”を暴く歴史家が出てこないことを祈ります。

 しかし、地震がいつ、どこに起きるかはほんとにわからない。今からちょうど四十年前の今頃(高校の卒業式の翌日、東京行きの夜行列車に乗ったので、厳密にはもう少し早かったわけですが)、僕は浪人として上京して、新聞販売店の住み込みアルバイトを始めました。右も左もわからない田舎者がいきなり巨大ビルの林立する大都会に出たものだから、配達区域の順路を憶えるのも一苦労で、何せ、途中で道がわからなくなると、店に戻ること自体が困難になってしまうのです。仕事で迷子になったのでは洒落にもならない。しかし、必死に頑張ったので、仕事の覚えが早いとほめられ、三ヶ月の試用期間を一ヶ月に短縮されるほどでした。
 思えば、あの頃は若く、心がけも殊勝だったので、朝夕の新聞配達をしながら自活して、それで目指す大学に入ろうと、いわば「青雲の志」なるものを抱いて、人生に果敢なチャレンジを試みたのです。
 その当時も、しかし、「首都直下型地震」の近接は語られていた。都会暮らしにもようやく慣れた冬場のある日、確信に満ちたある自称霊能者が、何月何日何時何分に東京を直下型大地震が襲うと予言した。彼はもし外れたら腹を切るとまで言っているというので、そこまで言うのならホントかも知れないと、その「予告」時刻は深夜でしたが、僕はその晩は徹夜することにして、オールナイト営業の喫茶店で本を読みながら待機していました。むろん、微震すら起きなかったので、その霊能者氏は切腹しなければならない羽目に陥ったのですが、夜逃げして、行方をくらましたのです。僕の方は徹夜したまま、朝刊の配達に出かけねばなりませんでした。

 そんなふうに「来る来る」と言われながら、もう四十年です。その間、どれほど多くのオオカミ少年(多くはオジサンオバサンでしたが)が出現したことか。しかし、どれが最後のオオカミ少年になるのか、誰にもわからないのです。それに、地震というやつは、大方の専門家も予想しなかったところで、しばしば起こる。後になってから、「ここには地震が起きるだけの必然性があったのだ」と説明されるだけです。今さらそんなこと解説されても困るが、いつもそうなのです。

 南海トラフ巨大地震もその類かも知れず、それはやっぱり、四十年、五十年たっても起きず、代わりにどこか内陸部に強烈な直下地震が起きるかも知れない。で、「そうだ、そうに違いない」と安心していたら、裏をかいてそのままの連動型巨大トラフ地震が起こったりして、というのが自然現象です。別に自然が意地悪をしているのではない。人間が勝手に予測して、勝手に外れているだけなのです。

 僕はむろん、防災対策や防災訓練には反対しません。しないよりはしていた方がいいでしょう。しかし、地震はいつどこで、どんなふうにして起こるのかはわからない。最後は運で、運は天に任せる他はない、というのが僕の考えです。

 僕は子供の頃、自分の母親が道から転落するのを二度、目の前で見たことがあります。どちらも、十数メートル下まで落ちた。一度は小3くらいの頃の話で、下の弟が母のおなかにいて、もうかなり大きくなっていました。それでも平気で動き回っていたので、二人で山に薪を取りに行き、それを背負って帰っている途中のことでした。僕はすぐ後ろを歩いていましたが、彼女は何かの拍子にバランスを崩して、「あっ」という短い叫びを発すると、草叢に倒れ、そのままマリのように回転しながら柿の木の間の急斜面を猛烈な勢いで下に落ちていったのです。大変なことになった! 僕は荷を背負ったまま、あわてて道を駆けおり、その斜面を横切る小道に飛び移りましたが、そこを走っていくと、その細い道に、母が薪を背負ったまま、ちょこんと正座しているのが見えました。驚いて、何をしているのだと聞くと、転がり落ちて自然にこの体勢になったというので、何と運よくそこにポンと落ちて止まったのです。流産もしませんでした(弟の色が黒いのは、あのときのことが原因で、あちこちぶつけてしまったからそれでこんなに真っ黒になってしまったのではないかと、彼女は冗談を言いました)。

 もう一度は、一輪車に養鶏用の飼料を積んで運んでいるときで、そのときもバランスを崩して、一輪車ごと下に落ちたが、今度は落ちた場所が悪かった。あちこちにとがった岩が突き出た草も何もない垂直に近い崖で、そのとき僕は中学生でしたが、上から見下ろして母は死んだな、と凍りつきました。下におりていくのが恐ろしい。少なくともふつうの怪我ではすんでいないだろうと思ったからです。そのときも、彼女は奇跡的に擦り傷だけですみました。さかさまに落ちて行きながら、スローモーション映像のように下が見え、「今度あの岩にぶつかったら死ぬな」と自分でも何度か思ったそうですが、うまい具合にそれはその都度頭と肩をかすめて、下まで無傷で落ち切ったのです。どちらの場合も、運がよかったとしか言いようがない。人は助かるときには助かり、死ぬときは死ぬのです(今もまだ元気で百姓をしていますが)。

 「備えあれば憂いなし」と言っても、人は地震に対してそこまでの「備え」はできない。だから運次第というところは出てくるので、その運は人間にはコントロールできません。だからそこは天に任せる他ないので、僕は前方不注意の車(免許証を取り上げろ!)にはねられて死ぬなんてのは真っ平なので、その種のことにはそれなりに注意していますが、そういう対応ができないことに対しては、運を天に任せるのみです。

 でないと、この世界には安心などと呼べるようなものはない。僕ぐらいの年齢になると、もう十分生きさせてもらったという感じがあるので、別にいつ死んでもいいという気になりますが、願わくば子供や若者には人生を堪能するだけの時間を与え給え、といったところです。

 ともあれ、そういう考え方でいれば、安全はなくても安心はあるでしょう。

 政府までオオカミ少年の一人になって、「起こりうる巨大地震の最悪被害想定」を出すのは勝手ですが、大方の人はそれで防災意識が高まるというより、「そんなデカいのが来たらもうこの国も完全に終わりだな」と思うだけなので、意図が奈辺にあるのか、はかりかねるのです。

 大体、それは今回の東北大震災でもはっきりしましたが、一番深刻なのはそこに原発事故が重なった場合です。周辺は復旧自体が不可能になってしまう(人が住めない土地になってしまうのだから)。浜岡原発なんか、それでなくても危ないと言われているのに、そんな大地震が来たらイチコロでしょう。ところが「予測が困難」という理由で、それは加味されていない。できるだけ早く原発を再稼働させたい安倍政権としては、「寝た子を起こした」くなかったのでしょうが、一番かんじんなところは外して「こんなに危ない」と言うのは、ご都合主義もいいところで、その「予測」作成に参加した学者先生たちの良心も疑われます。

 結局のところ、「防災補強対策」でカネを使わせて景気を押し上げ、一方、臭いものにはフタをしておきたいというのがホンネなのでしょう。実際に起きてみたら、地震の規模はマグニチュード7.0(想定は9.0)程度のもので、被害も言われているようなものではなくてすんだが、原発がやられてしまって、トータルでは被害想定をはるかに超えるものになってしまった、なんてことにもなりかねないのです。

 そっちの方が僕にはずっと現実味のある「予測」に思えるのですが、「想定が困難」という理由付けで“現実的な”想定をしない政府発表なんて、何の役に立つんですかね? 原発事故はなかば以上「人災」なので、「正しく恐れ」てきちんと手を打っておかなければならないのは、むしろそちらの方でしょう。

 国民を「最悪想定」で脅すより、そっちの方の手立てをちゃんとやっといてくれと言いたくなります。「死ぬときは死ぬ」と思っている僕は、天変地異の類で自分が死ぬのはやむを得ないと思っていますが、生きてまた、原発周辺の人々が苦しむのを見、電力会社と政府が「想定外」の言い訳を重ねるのは聞くのは、勘弁してもらいたいと思うのです。

9月28日「たね蒔きジャーナル消滅記念日」

2012.09.28.04:47

 そういうことになったようです。今の日本はさっさと廃止すべきものほどしつこく残り、残すべきものにかぎって消される。そういうのの対比一覧表でもつくってやろうかなと思いましたが、疲れるのでやめました(どなたか代わりにつくって下さい)。

 文明や国家が崩壊するときは、こういうふうに内部から腐っていって、何かの拍子にぐしゃっといくものなのでしょう。芯から腐ってきたリンゴが、表面はまだつややかな色を保っているように見えても、とうの昔に駄目になっていて、皮に破れが見えたときはもうどうしようもなくなっているようなものです。

 たかがラジオの一番組が定時改編でなくなるだけなので、大げさなことを言うなと言うなかれ。一事が万事ということがあって、この件は僕には象徴的に感じられるので、こういうことばかりやっている国は早晩滅びるのです。

 悲観的になりなさんなって? なってませんよ、別に。根がひどいつむじ曲がりなので、それなら自分なりにとことん逆らってやるかと、かえってファイトがわいてくるほどです。

 別にテロや爆弾事件を妄想しているわけではないので、その点はご心配なく。いい加減こんな騒がしいブログは畳んで、日々仏典を昧読し、瞑想や写経に勤しみ、朝晩は欠かさず般若心経でも唱えて、円満そのものの好々爺になる準備をした方がいいかな…なんて思ったりもしていたのですが、そんな殊勝なことは僕みたいな人間にはおよそ不似合いな話なのだなと、あらためて痛感させられた次第です。

 僕は今後、この9月28日を勝手に記念日にして、よきジャーナリズムが潰えた日として、ひとり黙祷を捧げることでしょう。皆さんもいかがですか?

 Remember Seeding Journal!

「たね蒔きジャーナル」が存続の危機?

2012.08.15.18:46

 このところ、夏休みで毎日川ばかり行っていて、パソコンをいじっていなかったので、久しぶりに「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」というサイトを見て、驚きました。そこに小出先生の「たね蒔きジャーナルへの感謝と存続の呼びかけ(8月13日)」という意外なビデオメッセージが載っていたからです。

 周知のとおり、昨年3月11日の福島原発事故以来、毎日放送(大阪)のこの「たね蒔きジャーナル」という番組は小出先生への電話インタビューをずっと流してきました(他にも色々な社会問題を鋭い切り口で取り上げている由)。そして僕は上記の「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」という親切なサイトを通じて、それをずっとフォローしてきました。この番組は聴取率もいいという話ですが、直接ではなく、Youtubeやこうしたサイトを通じてそれを聴いてきた僕みたいなファンは膨大な数に上るでしょう。そんな貴重な番組が、「電波の無駄づかい」と評していいような内容空疎な番組ならわかるとして、何で「打ち切り検討」の対象になるのか、さっぱりわかりません。

 「人手と手間が必要なニュース番組は経費がかかる。中立性の観点からラジオショッピングが入れられないという決まりもあり、収支を考えると仕方のない面もある」という関係者のコメントが東京新聞の記事(8.4)には出ていて、なるほどそれも理由の一つなのでしょうが、ラジオでもテレビでも出版でも、トータルで採算が取れればいいのであり、今では「毎日放送にたね蒔きジャーナルあり」と評判になっているほどなのだから、そのあたり何とかならないものかと思います(小出先生は出演料の辞退を表明されています)。途中でコマーシャルが入れられないのなら、冒頭で、「この番組は○○と△△の提供でお送りします」という文句だけ流せばいい。しかし、カネは出しても内容には口を挟まないということで、そうすれば、企業は下らないCMを何度も流すより、ずっと社会的信用が上がって人々の好感度も上がるはずです(ちなみに、僕はテレビCMが大嫌いなので、民放はほとんどニュース番組しか見ませんが、CMが始まるとすぐチャンネルを変えて、終わった頃に戻ることにしています。わが国のそれはイメージを売り込むだけの宣伝で、それで製品のよしあしがわかるものではまるでないので何の参考にもならないと思うからですが、企業はどうしてあんなアホらしいCMの制作に大金をかけるのでしょう?)。

 あるいは、こういうことかも知れません。「たね蒔きジャーナル」は人気があって、影響力が大きいからこそなのだと。「原子力ムラ」はそれがお気に召さない。とりわけあの小出裕章が出てきて、的確な解説・コメントで好評を博すのが面白くないのです。だから、あんな目障り、いや耳障りな番組を擁しているような放送局のスポンサーにはなってやらないと、社に圧力をかけたのです。

「いやー、おたくのあのたまねぎジャーナルですか、あれが何というか、玉にキズといいますか、おたくの社内に巣食うガン細胞みたいなものではないかと、この前財界の集まりでもちょっと話題になりましてね。少しばかり偏りすぎてませんかね、と。それで私らも、この分ではスポンサー契約を再考しなければならんなと、そういう話も出たくらいでして…。ガッハッハ」

 てな調子で、それとなく経営陣に圧力をかけるのです。これは、必ずしもありえない話ではないでしょう。かつて同じ毎日放送は、テレビの方で小出先生もその一人である「熊取六人組」を扱ったドキュメンタリーを放映して、関西電力の憤激を買い、CMを引き上げられる憂き目に遭いました(脅しに屈しなかったのだから、エラかったわけですが)。
 電力会社だけではない、東電の肩ばかりもちたがる経済連の何とかという親玉のじさまをはじめ、財界の主流は原発維持派です。電力会社は言い値で資材やら何やらを買ってくれる気前のいい大旦那で、それはこれまで原発を推進してきたことの困った結果にすぎませんが、原発停止で万が一電力不足になれば(ほんとはならなくても、電力会社はそのフリを装う)、「生産にも支障が出る」からです。それで原子力ムラに連なる企業群は一丸となってこの“不快”な番組を潰すべく、「スポンサーをみんなして降りよう!」と裏で呼びかけあって、オリンピックでも示された“日本的団結”をいかんなく発揮して潰そうとはかっているのかも知れないわけです(僕がそうした「団結」を必ずしも美徳と見ないのは、わが国ではこういうことがしばしばあるからです。内輪の“絆”や仲間意識が社会の迷惑でしかないこともあるのです)。

 「たね蒔きジャーナル」は聴取率が悪くないだけでなく、じっくり聴かせる内容をもつ、質の高い番組です。そういう番組をもつことこそ放送局本来の使命であり、心臓であるはずなので、あってもなくてもいいような(あるいはない方がマシな)番組は残して、そちらを削ってしまうというのは本末転倒もいいとこではありませんか。

 この問題を最初に報じたマスコミは朝日新聞だったようですが、各メディアが小出先生にコメントを仰ぎ、著書がたくさん出るようになったのも、元はこの「たね蒔きジャーナル」への連日の電話出演と、そこでの先生のいい加減なところが少しもない、明快な解説が元になっていると言っても過言ではないはずで、この問題は同じメディアとして座視できるものではないはずです。
 だから、舞台裏も取材した詳しい続報が待たれるところですが、仮にこの件がさしたるニュースにもならず、そのまま番組が打ち切られてしまうことになったとすれば、わが国のマスコミは、自分たちが十分な報道をしなかったことから来るおかしなやっかみの類もあって報道を避けたのだろうと勘繰られても仕方がないでしょう。

 原子力ムラは目下、反原発感情が下火になるのを待っています。原発事故現場は今も大変な状況にあるようですが(被曝量が上限に達する作業員が増え続ける中で、どうやって人手を確保するかだけでも大問題です)、それについての報道は激減しています。「熱しやすく冷めやすい」日本人の国民性からして、もう少し時間がたてば、国民の関心はなきがごときものになって、コトを進めやすくなると見ているのでしょう。それが、邪魔な小出にいつまでも問題点を指摘されたり、危険だと言われたりしたのでは、言ってることが正しいだけになおさら大きな妨げになる。番組の改編期であり、ラジオでもあるので、目立たずに出番を消せると、そう原子力ムラは算段したのかも知れません。

 以上は僕の推測にすぎませんが、情報隠蔽をはじめとするこの種の姑息なやり方は日本の権力集団が最も得意とするところなので、大いにありそうなことに思われるのです。

 こういうこと対しては、僕ら一般庶民にあまりできることはありません。スポンサーにはなれないし、せいぜい自分のブログにこんな記事を書くぐらいのものですが、影響は高が知れたものでしょう。
 しかし、放送局は直接のリスナーでない人もあの番組には大きな関心と愛着をもっていて、それはものすごい数に達するのだということを忘れないでいてもらいたいのです。あれで毎日放送の知名度と社会的評価も格段に上がったはずです。

 「反原発に偏りすぎている」という一部の意見に関しては(局の幹部にもそういう人がいるという話です)、小出先生は筋金入りの「反原発」だということは百も承知で、リスナーは聴いているわけです。問題はそのこと自体より、そこで語られていることが真実かどうかということで、放射能の影響などに関しては、まだ科学的に十分解明されていない部分が少なくないので、誰にも断定的なことは言えませんが、原発事故が起きるとどういう経過を辿るかとか、原発のそもそもの仕組み、周囲への影響の破壊性などについて、小出先生の説明は非常に明快です。こんな無責任で物騒な技術を実用化するという根本的な部分に間違いがあったのだと、僕はあらためて思い知らされました。多くの人がそうだったでしょう。「初めに原発推進ありき」の御用学者たちの混乱した説明とは、そこがまるで違うわけです(あらためて言うまでもなく、小出先生は原発が未来のエネルギー源になるだろう、だからその研究に携わって社会貢献の一翼を担いたい、という動機で大学の原子力工学科に入学された方です。「反原発」はその後の勉強の結果、原発の深刻な危険性を認識したことから導かれた結論でしかありません)。

 原発に反対すれば「中立的」でないとか、そういうのは政治的な議論にすぎません。とりわけわが国におけるいわゆる「中立」とは中途半端の別名でしかない。「原発はたしかに少し危険だから、今後は少し減らし気味にしよう」なんてのはこの上なくいい加減な話でしかありませんが、そういうのが「中立的」だと、頭で考えればおかしな話がまかり通ってしまうというのが、この「不思議の国ニッポン」なのです。

 僕自身は、「原発は必要である」という議論にも、それが道理にかなったものなら耳を傾ける用意はあります。これまでもそうしてきたつもりですが、大方はおかしな具合に政治的、感情的で、説得力が乏しく感じられました。そこにあるのは、「いったん出来上がったシステムを変えるのは難しい。そうするとこれこれこういう多くの支障が出る」という話に集約される議論が大部分で、中には「反原発は反国家主義的心情の表われだ」というような、うがったつもりのおよそナンセンスなこじつけまであります(そうすると、福島原発の事故を受けて逸早く脱原発に舵を切ったドイツなどは「反国家主義者」の集まりでしかないということになるでしょう)。要するに、大方の原発擁護派は、「事故が起きたらエラいことになるが、それはめったに起こらないだろうし、起きてもその周辺の住民に『お国のための犠牲』と泣いてもらうしかないのだ」という安易さを隠し持っているのです。ご本人が自覚しているかどうかは別として。

 それは無責任な人間心理の表われとしては普遍的なものなので、僕はそれをことさら咎め立てしているのではありません。これを書いている今も世界のどこかで飢え死にしている人はいるだろうし、銃弾を浴びて殺されている人もいるだろうに、僕は平気で「今日の晩飯は何にしよう?」などとノー天気なことを考えているのです。他人の不幸は僕の不幸ではなく、僕にとっては僕自身と家族、親しい友人の不幸だけが“実質的”な不幸なのです。国内でも毎年三万人以上もの人が自殺し、それは十四年も続いているのに、僕は一向平気なのです。

 だからといって、激しい自責の念に駆られているわけでもない。人間というのは浅ましく、いやな生きものだなと、心の中でちよっぴり顔をしかめるだけです。ただ、「人間はいやな生きものだな」という、その苦い感覚だけは失いたくない。だから、「原発事故が仮にまたどこかで起きても、その周辺の人が塗炭の苦しみをなめるだけで、自分はその中には入らずにすむだろう」というような身勝手な思考を自分に許す気にはなれないのです。それを許せば、僕はもはや人間ではなくなってしまう。ときおり感じるこの「いやな感じ」は、自分の利己性と良心が接触する際、生じます。だからその感覚を僕は大事にしたいので、「ネガティブ恐怖症」の人たちはそういうことには耐えられないのかも知れませんが、この種の「いやな感じ」こそわが灯台であり、師匠なのです(自分がつねにその師匠の忠実な弟子であるとは、僕は言いません。それは嘘だからです)。

 脱線したので、話を戻します。要するに、何が「偏向」なのか、それはどういう基準・尺度で判断するかにもよる、ということです。僕の見るところ、小出先生は正直な、真実を愛する方です。党派根性からものを言う人でもない。そして今どきのインテリには珍しい、自分の言動に責任をもとうとする方です。きょうび、こんなに美徳を備えている人は一万人に一人ぐらいしかいないでしょう。テレビ文化人や肩書だけご立派な学者先生には絶無と言っていいかも知れません(いつもひとこと多くてごめんなさいね)。

 もう一つ、きちんとした情報を提供するのがメディアの仕事です。最終判断は視聴者、読者自身がそれぞれやればいい。その点でもあの番組のあのコーナーは欠けるところがない。「たね蒔きジャーナル」はその都度その都度得られた新情報(それは一般のリスナーには未知のものであることが多い)を小出先生に直接ぶつけ、それに先生がよく考えながらコメントなり解説なりを加えるという、聴いていて非常に勉強になるものだからです。その語り口は冷静で、やりとりを聴いているうちに、自然に問題への理解が広まり、深まってゆくという性質のものです。こんな番組、今どきめったにありません。

 ついでに、よけいなことも書かせてもらうと、僕はお茶目な水野さんのファンでもあります。たぶんあれは京都弁だろうと思うのですが、耳に心地よいあの丸みのあるきれいな声で、「ちゃいますの?」なんて独特のイントネーションで言われると、思わずにっこりしてしまうのです。“東京の近藤さん”のだみ声もすっかりおなじみになりました。自分の声と言葉をもつ三人の個性的で正直な人たち(ときどき水野さんの代わりを控えめな口調の男性が務めますが)が交わす会話としても、あのパートは出色のものです。

 だから、あの素晴らしい番組は残してほしい。やりくりが厳しいのなら、企業の中にも、ああいうよい番組は是非残すべきだと思う人はおられるでしょう。ソフトバンクとかユニクロとか、楽天なんかどうですか? 他に脱原発後の新技術を開発している会社なんかも、あれを残すために一肌ぬいでもらえませんかね? むろん、おかしなひも付きスポンサーとしてではなく、あくまで「企業の社会貢献」の一環としてです。

 最後に、この問題に関してはすでに多くのブログで取り上げられていますが(マスコミ報道はごく僅か)、その中から経緯をわかりやすくまとめてくれているものを一つ、ご紹介しておきます。

 ・「薔薇、または陽だまりの猫」


※追記 存続を求める署名運動が始まったようです。こちらです。ご協力下さい。

Gone with the Nuke

2012.06.20.17:21

 これはむろん、有名なGone with the Wind(「風と共に去りぬ」)のもじりです。「原発と共に去りぬ」ということにならないかどうか、僕はそれを心配する者の一人です。

 何が「去る」のか? それは日本民族であり、悪くすれば人類全体です。それは去って、二度と帰ってこない。そのような最悪のシナリオもありうるのだと心配している人は、国内よりもむしろ海外に多いのかも知れません。

 先日、延岡で開かれた小出裕章先生の講演会でも、最後の質問の時間に、福島第一原発4号機の使用済核燃料プールが倒壊したらどうなるんですか、と質問した人がいました。先生の答は、あそこにある放射性物質はセシウム137にして、広島原発5,000発分に相当する、というものでした。仮にそれが全部“放出”されたとすれば、汚染地域は本州の全面積にほぼ等しい範囲になる…。

 もちろんそれは必ずそうなるという意味ではないでしょう。しかし、4号機の燃料プールだけでそれほどの“潜在的破壊力”を秘めているというのは、驚くべきことです。福島第一原発にある放射性物質を全部合わせたら、どういうことになるか? さらに、他の原発もそれに加わったら…。日本消滅どころの話ではないので、世界が終わってしまいかねません。

 こういうことを言うと、「そのような荒唐無稽な仮想話をあたかも現実的な可能性をもつ話であるかのように吹聴するのはけしからん!」と叱られてしまうでしょう。たしかに、日本全体を巨大地震が襲って、一度に全原発が事故を起して爆発するなどということはまずないでしょう。しかし、東電は「補強工事をしているから、あの4号機燃料プールは安心」などと言っても、十分な科学的根拠があるわけでは毛頭なさそうなので(これまでもつねにそうでした)、誰も信用はしないのです。あそこにある燃料棒を安全に取り出すことさえ至難の業だという。「大丈夫です。心配しないように」と言われても、誰が「大丈夫」だなんて思えますか?

 この前も金冠日食に事寄せてちょっと書きましたが、正確な予測はできないまでも、東南海地震は遠くない将来にいずれ必ず来るそうです。ペキペキと割れたプレート境界のそのひび割れは、日向灘にまで達する可能性が高いのだという(そういう巨大地震が300年前後の周期で過去に起きていて、前回からすでに305年が経過し、かつ明らかに地震の活動期に入っている)。それだけでも大惨事ですが、各地にある原発がそのとき無事にすむとは思えないわけで、少なくともそのうちの二つ、三つはやられてしまうだろうと、僕は予想します。そうなれば、ほぼ間違いなくわが国はジ・エンドになってしまうでしょう。累は当然、世界中に及びます。

 そういうことを考えると、原発の再稼動がどうのと大平楽なことを言っている場合ではないので、原発は全部停止したとしても、それだけで安全になるわけではないのは福島第一の4号機の例を見てもわかることなので、止めた上で、安全対策をさらに講じる必要があるのは明白です(原発の稼動によってこれまで大量に蓄積された高レベル核廃棄物の処理については白紙のままですが、それはひとまず措くとして)。

 この前の福島原発の事故は、大地動乱の時代が始まることに対する“最後の警告”だと、僕らは受け取らなければならないのではないでしょうか。あんなアホな装置(どういうふうに“アホ”なのかということに関しては、もはや説明は不要でしょう)をたくさん作ってしまったことは、今となっては仕方がない。それは仕方ないとして、全部止めた上で安全策をさらに講じ、電力供給の方は原発に頼らずにすむように手当てをして、乗り切るしかないのです。それを行なう能力は、日本人はもっているだろうと僕は思います。

 政府の試算によれば、関西地区のこの夏の電力は15%不足する。だから大飯原発を再稼動せざるを得ないのだということでそれが“決定”されたわけですが、何で原発抜きで何とかする、という方向に行かないのでしょうか? 病院が停電すれば、患者さんの命に関わる? だったら、病院は停電しないように、健康な人間がクーラーを我慢するとか、すればいいのではありませんか? 企業の生産活動に支障が出ると言ったって、命あってのものだねでしょう?

 原発の危険性に目覚めた多くの人が恐れているのは、今回の大飯原発の再稼動をきっかけに、一つまた一つと、停止中の原発が再稼動され、「やはり原発は必要だ」という声と、「気をつければ事故なんか起きないのだ」という声が再び支配的になってしまうことでしょう。
 「必要悪」という言葉は、広辞苑の定義によれば、「悪ではあるが、社会の現状からいって、それが(やむを得ず)必要とされるような事柄」のことなのだそうですが、原発はまさにそれなのだということにされてしまうのです。

 しかしその「社会の現状」なるものは、政府(長く続きすぎた自民党政府!)と電力会社(そして“洗脳”された僕ら国民)によって作り出されたもので、それがまことによろしくないものであるということが、今や誰の目にも明らかになったのです。それはべつだん変えられない人間性のようなものではなく、人為的なシステム、しかも社会全体からすればごく一部のシステムにすぎないのです。それが明白に不都合なものであるとわかったなら、そのシステムを変えるのがまずやるべきことでしょう。

 原発に依存しすぎた原発立地自治体の問題も、そのシステムの、「社会の現状」の一部ですが、それもまた改められなければならない。昨年の福島原発事故の例を見てもわかるように、いったん事故が起こると、それで他の産業も壊滅的な打撃を受けてしまうのです。それ以前に、生活の場が、健康そのものが奪われてしまう。過疎対策、地域経済振興政策として原発をもってきたことは、それ自体が間違いだったのです。今はまだ事故が起きていないからいいのだと言うのは、投げやりすぎる態度でしょう。

 原発がないと立ち行かないような自治体を作ってしまったのは政府と電力会社の罪です。しかし、原発自治体が「背に腹は代えられない」とその現状によりかかろうとするのは、控えめに言っても賢明なことではないでしょう。政府と電力会社は責任があるので、そうした自治体が原発抜きでやってゆけるように、しばらく経済援助をするのは義務だと僕は思います。むろん、それが生活保護に安住して、自立をはかる努力をしない人たちのようになってしまってはよろしくないと思いますが(ついでに申し添えれば、僕は生活保護自体が悪いなどと言っているのではありません)。

 要するに、あんな大地震や津波はめったにあるものではない、だから深刻な原発事故も起きないだろうから大丈夫だろう、というのが実際のところなのでしょう。早く稼動させないと地域の雇用や経済に深刻な影響が出てしまう。交付金等の問題もある。しかし、万が一事故が起きると、責任を問われる。事故が起きないまでも、反原発の世論の中では原発を再稼動させるだけで悪者にされてしまう。だから自治体の長としては、自分たちが決めたのではなく、政府の決定に従ったのだということにしたい。責任は第一義的に政府にある。そういうところで駆け引きがあって、政府の要請に基づいて、ということになったのだろうと思います。

 僕はそのこと自体をとやかく言う気はありません。しかし、いずれにせよそういうところで責任問題を云々すること自体が無責任です。なぜかといえば、事故が起きたときの責任が誰にあるかを明確にしておいたところで責任は取りようがないので(首相が謝ればすむというものではない)、危険があるのはわかっているのだから、その危険を回避するのが真の責任というものだからです。原発事故の危険は他の事故のそれとは性質も規模も違うのです。そのことを昨年の福島原発の事故で僕らは「学習」したのではないのですか?

 結局のところ、昨年のあの巨大地震は稀なもので、当分そんなものは起きない、だから大丈夫だろうから、電力不足の“現状”に鑑みて、原発を再稼動させましょう――そういう希望的観測に基づく対応でしかないのです(「安全対策」がさかんにアピールされていますが、机上でシュミレーションして、震度6、7でも大丈夫、津波対策もオッケー、などと言っても、災害の方がそれに合わせてくれるとはかぎらないので、「見落とし」がつねにあるのが災害というものなのです)。

 「日本人は困ったものですな。たった一度の事故でこんなに大騒ぎになって、センチメンタル、ヒステリックになってしまう。冷静な現実的判断力を失ってしまうんですから…」

 したり顔にそんなことを言う人(オトナの現実主義者を自認しているつもり?)がいますが、彼らは放射能で深刻に汚染された地域の人たちがどんな目に遭っているかは考えていないし、福島第一原発の廃炉作業がどれほど困難を極めるものであるかも都合よく忘れているのです(二、三十年ではとうてい足りない、それが専門家たちのほぼ共通した見解です)。まともな感性の持主なら、そういう事故は絶対に二度と起こしてはならない、可能性が僅かでもあれば、それは避けるべきだ、と思うでしょう。もう一箇所、別のところで類似の事故が起きたらどうなるか? 完全にアウトです。「経済活動を維持するためには“現状”では原発は必要だ」と言っている人たちは、なぜその可能性を真剣に考慮しないのでしょう? そうなったら、そのお大事な「経済」も根本から崩壊してしまうのです。

 「トイレのないマンション(核廃棄物の始末のことはomitしたままだから、そう呼ばれる)」原発は、元々目先のことしか考えない刹那主義的な思考の産物だったと言えるでしょう。赤字国債や年金の問題でも同じでした。未来の世代のことは考えず、目先の利害と安楽だけを追求する。個人に置き換えるなら、それは見境のない放蕩生活を送ってきた人間と同じです。それはいずれ破綻に追い込まれる。そのとき、この人が立ち直ることができるのは、その生活をきっぱり改めることによってのみです。それは楽なことではない。払いきれない借財は残っているし、信用も失われている。それでもその気になって一心に努めれば、返済の道も開けてくるし、失われた信用もいずれ回復されるでしょう。「仕方なかったのだ」と言い訳して、中途半端なまま自己正当化の手立てをあれこれ考えるような人に未来はありません。今の日本もそれと同じではないでしょうか。正直に自分の愚行と現実の深刻さを認めて、“体質”を根本から改めるしか出直しの道はないのです。

 今回の台風4号でも、僕がひそかに心配したのはあれが勢力を保ったまま福島を直撃することでした。風速30mもの突風があの崩れかけた原子炉建屋に吹きつけたら何が起こるか知れたものではない…そう案じられたのですが、ニュースを見ていても、原発周辺からのリポートはまるでない。意図的にそれを外しているのではないかと思ったほどですが、幸い、台風は手前で急に進路を変え、太平洋側に向かいました。それは何らかの見えない力が働いたかのようでした。

 運頼みで安全を期するようなことは、しかし、今後あってはなりません。大飯原発の再稼動で「再稼動の連鎖」が始まるようなことは許すべきではありません。「原子力村」がひそかにそれを画策しているようなら、マスコミはその動きを暴かねばなりません。それが彼らの仕事です。

 そして秋になったら大飯原発は再び停止して、政府と電力会社は代替電力の確保に全力をあげるべきでしょう。小出先生の延岡の講演でも、「原発は“海あたため装置”である」というおなじみの話が出ていました。要するに、そこから生み出される熱の僅か三分の一しか発電には使われておらず、残り三分の二は海に捨てられて海温を上昇させ、深刻な生態系の破壊を惹き起しているということですが、原発はエネルギー効率の観点からも劣悪な発電システムなので、他の発電装置の方がずっとよい。火力発電などは、最近では非常にエネルギー効率のよいものがすでにできているという話を、以前広瀬隆さんの文章で読みました。他にも地熱、潮力、風力などで、技術的に大きな可能性があるものはいくらもあるでしょう。核燃料サイクルなどという馬鹿げたものに莫大な資金を投じるなら、なぜそちらにお金を使わないのか、そう思っている人たちはたくさんいるでしょう(それが新技術、新規雇用を生み出すのは確実です)。

 僕は消費税を上げることには反対しません。上げてもいいが、その税金をいいことに、実質的に意味のあることに使ってもらいたいと思うのです。それなら払い甲斐があるというもので、下らないことに使われるから腹が立つのです(原発の場合も、停止後の保守管理の万全を期すことにお金――電気料金には税金が上乗せされている――が使われることには反対しない。それは放蕩の後始末が避けられないのと同じです)。

 新しい原子力規制庁がどうのこうのという話も、今後も原発を使い続けることを前提にした話であるなら、それで「安全」が担保されるということにはなりえないと、僕は思います。原発はもうやめるべきです。「続ける」というのなら、どうしてそうしなければならないのか、政府と電力会社はその理由を列挙した文書を国民に示すべきでしょう。そうすれば、国民自らがその可否を判断することができる。それをやらないのは、その理由が十分なものではないからなのでしょう。姑息なことをいつまで続けるつもりなのですか?

 なし崩しに再稼動を認め、見せかけだけの「改革」をやるだけでは何も変わらない。そしてまたいつか(遠くない将来)悲惨な原発事故は起こるでしょう。
 そうして、“Gone with the Nuke”ということになる。それは火を見るより明らかです。

 わが国は目下、年間自殺者3万人超という不名誉な記録を14年も更新中ですが、最後に“集団自殺”がやってくるわけです。それほど愚かな国民だとは、僕は思いたくありません。これを読まれた皆さんも同様でしょう。

全原発停止で困るのは原子力ムラだけ

2012.05.06.11:41

 前から「たぶんそうなるだろう」と言われていたとおり、昨日北海道の泊原発3号機が定期検査のために停止し(午後11時頃出力ゼロになった)、これで日本で稼働中の原発は一機もなくなったそうです。
 奇しくも昨日は「こどもの日」で、その日の終わり頃ギリギリで原発が止まったのは、何か暗合めいた出来事のような印象を受けます。きわどいところで未来が救われるかのようなシンボリックな意味をもつものと、少なくとも僕には感じられました。

 何度もニュースで繰り返し報じられていたように、「国内で原発の稼働がゼロになるのは1970年以来、42年ぶり」だそうです。42年ぶりに愚行が改められるのかと思うと、実にめでたい。

 そう言えば、何を馬鹿なこと言っているのだ、これで夏場の電力需給は逼迫して、せっかく持ち直しかけた景気が冷水を浴びせられるかっこうになり、企業の生産活動は収縮、このままでは工場の海外移転はさらに加速化するおそれがあるし、一般家庭でもクーラーが使えず、熱中症で亡くなる人が続出するかも知れない。病院などでも停電になると大変困ったことになるだろう、と言う人がいるでしょう(先走ってそんなことを並べ立てる人にかぎって、「放射能の影響を過大に吹聴するのは悪質な煽りだ」なんて言うのは興味深いことですが)。げんに、そんなことを書いている新聞もあるようです。

 よく言うよ、とそういうのを見ると逆に思ってしまいます。今は企業の自家発電能力も高くなっているそうですが、そういうのは不利な条件でしか売れなくして、他の代替発電の開発・普及も必死に妨害してきた(だから間に合うようになっていない)のが独占企業体であるわが国の電力会社でしょう。原発が止まれば困るようなシチュエーションをせっせと作っておいて、よくもそんな勝手なことが言えるものです。

 原発のコストには、原発事故による被害の損害賠償費用はもとより、立地自治体への様々な名目の交付金や、廃炉の費用、使用済み核燃料の処理費、等々は含まれていないので、トータルだとこんなに高くつくものはないので、経済原則から言っても到底ペイするものではないということは、今回の福島原発の事故をきっかけに多くの人が認識するようになりました。事故が起きれば、カネなんかでは解決のつかない悲惨な事態になるし、そもそもの話が、使用済み核廃棄物は(処理後も)行き場のない危険極まりないお荷物として蓄積され続けるのです(ウラン鉱山での深刻な環境汚染や人体被害もここに含めなければなりません)。人類がこれまで作ってきたものの中で、これほどまでに無責任で投げやりな技術は他に存在しない。そうとわかったからには、やめるのがベストです。

 歪んだ異常なシステムを作ると、社会システム全体もそれに順応しておかしくなるので、改める際に一時的に困難が生じるのはあたりまえです。それは困るというのでその病的なシステムを維持し続けようとすれば、いずれもっと深刻な事態、破局的な事態が避けられなくなるでしょう。おかしな脅迫はやめてもらいたいものです。

 よく「ピンチはチャンス」だと言われますが、脱原発が省エネ技術にしても代替発電システムにしても、新しい技術開発に結びつき、それが長い目で見れば新たな仕事と雇用の創出につながることは確実でしょう(スマートグリッド構想などは、社会の性質、人間関係などまでよい方向に変えそうです)。個人の人生の場合でも、その人にとってのチャンスや潜在能力の発揮の機会はピンチのかたちをとって現われるものです。人間は怠惰な生きものなので、そういうことでもないと必死にならないからです。面倒だの、自信がないだのとは言っていられない、全力を挙げて何とかするしかないとなったとき、人はそれまで自分でも思ってもみなかった力を発揮し、そういうことがあって初めて本当の自信がもてるようになるものです。人材はそうして育つ。危機の時代や乱世と呼ばれる時代相に大人物が多く出てくるのは、そういうことがあるからでしょう。

 だから、僕はそんなに心配していません。かつての技術立国ニッポンが再び蘇るきっかけにこれがなることも、大いにありそうなことです。既得権益をひたすら守ろうとする原子力ムラの住民たちがあれこれ妨害にこれ努めるのを厳しく監視し、連中の妨害を排除しさえすれば、危機は乗り越えられるだろうと、その点は楽観しているのです。

 むろん、技術的能力ゼロの僕などは何も貢献できませんが、おかしな嘘を平気でつく奴や、論理のペテンが目につけば、それを嘲笑罵倒して、「妨害の妨害」を行なうぐらいのことはある程度できるかも知れないので、本来の「円満な人格」(誰も信じてくれませんが、ほんとはそうなのです)を隠して、そうしたことに微力を尽くしたいと思います。

 今回の福島原発の事故をきっかけに、「飼い犬」然としたマスコミもすっかり信用を失いましたが、それを回復したければ、そうした監視を怠らず、国民にしっかり情報を伝えることです。馬鹿の一つ覚えみたいに、「電力の逼迫」がどうのと下らんことばかり言っていないで。新しい試みについての報道も重要で、そういうことの中に、何が阻害要因になっているか、国民が一番知りたいと思っている情報も自然含まれることになるでしょう。
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