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個よ、もっと強くなれ~アッキード事件ともからめて

2017.03.21.11:26

 実に四半世紀ぶりに、河合隼雄の本を読みました。『私が語り伝えたかったこと』(河出文庫)。僕は三十七、八までユングの本をかなり読んでいて、「どうもちがうな…」と思って、あるときからぷっつり読まなくなってしまったのですが、その関係で河合隼雄の本も、「消毒の効きすぎたユング」なんて失礼なことを言いながら読んでいたのですが、自分が生来の理屈屋であるせいか、理論的な本は食い足りない気がして、『カウンセリングの実際』のような本の方が陰影があって面白く読めました。

 僕がユングその人に関心を失ったのは、彼の理論体系それ自体が「壮大なフィクション」に他ならないのではないかという気がしてしまったためで、こんなことを言うとユング派の先生やその信奉者の人たちを怒らせてしまいそうですが、それは僕の独断なので、別に論争しようという気などはないのです。しようにも、大方のことを忘れてしまった。

 それでも、これを本屋の棚でたまたま見つけたときは懐かしい感じがして、買って読んでみようという気になったので、ざっと目を通したのですが、その中にこういう箇所があって、あらためて面白く思いました。

 それは「父性」に関するところで、二か所ほど出てくるのですが、日本では元々父性的なものは弱かった、という話です。「最近よく言われる父親の復権は打開策にならないんでしょうか?」というインタビュアーの問いかけに対して、河合氏はこう答える。

 日本の昔の父親は怖かったけれども、世間に恥ずかしいということで怒っていた。個性なんか全然考えていないんです。ところがヨーロッパでは、世間が何であろうと、わが家の考えを通すんだと頑張るのが父親なんですよ。自分の子供のために世間と戦う、これが父親なんですよ。
 極端な例をあげれば、国中が戦争しようというときに、うちの子は戦争に行かせない、おれは戦争反対だということを叫ぶことができるのが父親なんです。ところが日本の父親は、右へならえで「もう今は戦争の時代だ、行け!」でしょう。
 つまり、怖い父親が強い父親とはかぎらないんです。要するに、弱いから世間の言うとおりやっているんだから。日本にあるのは、父性の強さではなく、母性社会の中の強い父親なんです。
 だから、日本では父親の復権なんて言えない。そんな父親はいなかったんだから、父性の創造というべきです。みんなで創り出していこうじゃないかというぐらいの気持ちにならないといけないですね。(p.70)


 もう一ヵ所引用させてもらうと、

 …怖いのと強いのは違うんですよ。日本の軍人を見たらよくわかります。部下を叱りつけたりする怖さはあったけど、敵が攻めてきたときにきちんと判断して勝つ術なんていうのはあまり考えられない。それは上に言われたとおり、決まりきったことばかりしていたから。日本の軍隊は、一人ひとりの兵隊は強かったけれども上のほうがボケててね。
 つまり、この場合はこれでいくのだという判断、それが父性なんです。よし、おれはこれだ、というのはちゃんと言えるというのがね。判断して決断して実行する、これ、日本人は一番下手なんじゃないでしょうか。たとえば、赤か黒かを決めるときに、おれは黒だと決めて、子どもが「なんでお父さん赤にしないの」と言えないとダメなんです。そのときに「おれが黒だと言ったらそうなんだ、みんなやかましい」と言うのではなくて、これこれこういうことだから黒なんだと説明しないといけないのですよ。論戦を許容して勝ってしまうというのが父性なんです。日本のはやたら頭ごなしですよね。

 ――それと世間をいつも気にしている。

 そう、後ろ指をさされないようにと。西洋の父親というのは、世間はそうかもしれない、でも自分はこうなんだ、と言う。それが父の強さ。そのときに怖いとか怖くないとかは問題外です。僕はよく言うんですが、僕らの父親はみんな弱かった、だからばかな戦争したんだ、と。戦争だって突撃するのが強いと思ったら大間違い。突撃と言われたときに、なぜ突撃しなければいけないのかと言えることが、強いということなんです。日本人は自分で決めたら非民主的、とよく言うでしょう。それは違うんです。西洋のリーダーはパチッと決める。だってみんなでそのリーダーを選んだのだから。ところが日本では〔誰もが〕世間のあり方で言っているわけです。そこでうろちょろやっている。これからは変わらなければなりません。だからこれからの父親は大変なのです。でも、子どもが鍛えてくれます。(p.88~90)


 この最後の「子供が鍛えてくれる」というのは、この後説明が出てくるのですが、子どもが何か買ってくれと言ったとき、買わないと答えると、必ず何で買ってくれないのかと突っ込まれる。そこで理由を説明して子供を納得させねばならないからです。ごまかすのではなくて、きちんと正面から対応する。すると子どもは、自分を一人前に扱ってくれたという嬉しさを感じる。親の本気さ、誠実さも感じ取るわけです。

 僕がなぜこれを長々引用したのかと言うと、むろん共感したからですが、最近の森友事件をはじめとするドタバタを見ていて、このことの重要さをあらためて痛感したからです。

 周りをつねにお友達や子分で固めないと安心できない――これはそれ自体が不正の温床になる――「幼稚なガキ」としか言いようのないネトウヨ総理と、軽薄な思いつき、思い込みだけで「職権乱用」して憚らないKY女房はもとより困ったものですが、彼らの暴走がどうして可能になったのかといえば、その周辺が全部、ジャーナリストの菅野完氏がいみじくも命名したような「全自動忖度(そんたく)機」になっていて、「そんな馬鹿な話、聞くわけにはいきませんな」と突っぱねる見識と度胸のある人間がまるっきりいなかったからです。突っぱねるどころか、勝手に忖度して、進んでその意を迎えようとする。だからこういう「不透明」なことだらけになってしまうわけで、相手が北朝鮮の金正恩ならすぐ殺されてしまうから、傍からなぜそんなことをするんだとはかんたんには言えませんが、殺される気遣いはないのだから、官僚であれ、側近であれ、良識に基づいてまともに職務を果たせ、と言えるわけです。それで税金から給料をもらっているのだから。クビになるとか左遷がこわいなんてのは言い訳にならない。その程度の覚悟はもって仕事に臨むのがまともな職業人というものだからです。一体どこにキ●タ●をぶら下げているのかわからない。

 これはマスコミについてもいえることで、情報はつかんでいながら、調べもせずそのまま放置して、「書いても安全」という事態にならないと書かない。お偉方は首相との「お食事会」に嬉々としてはせ参じて、そのご機嫌を取り結ぶ。それで下に向かっては、陰に陽に「批判自粛」を促すのです。「今は政治の安定が何より重要な時期だから」などと、尤もらしい能書きを垂れて。権力の腰巾着が「社会の木鐸」とは笑わせるので、ネットのせいだけでなく、だから新聞も売れなくなるのです。

 先の引用にからめて言えば、今の父親たちは「ほんとは弱かった昔の父親」よりもっと弱くなっているということです。これでは子供たちにしめしがつかないとは、彼らは考えない。アホな戦前教育の復活などで世の中がよくなるのなら、誰も苦労はしないわけで、そういうのは「浦島太郎の経済学」と揶揄されたアベノミクスよりさらに悪いわけです。

 あるいは、こういうことも考えられます。貧弱な個しかもちえない人間にとって、「権威の枠組み」としての教育勅語的な道徳は好都合なものなのだと。それは子供たちに対しても、個人の資格で対応することを免除してくれるからです。そういうものがなくなって個人は大変になった。ロクな社会常識を持ち合わせない人間(これは年配の人にもいる)が増殖し続けたこともそれと関係するでしょう。その外枠のおかげで昔は明確な個などなくても何とかやっていけたのが、そうはいかなくなったからです。弱い個人は外部的な参照枠が何かないと自らを省みることすらできない。

 しかし、あの戦争で特徴的だったのは、どこを探しても明確な責任者がいなかったということです。「空気の忖度」があるばかりで、「おれが決めた」という人がどこにもいない。制度上の責任者も、制度からすればそうなるが、実は自分で決断していないのです。

 それがあの戦争の最大の教訓だったと思うのですが、「あの方がよかった」と言う人たちがこんなに増えたのは、人は誰でもそれなりの自己格闘の上に個というものを獲得するのですが、そういう面倒なことはやりたくないから、無意識にそっちに戻りたがっているということなのではないのでしょうか。

 僕は自分の人生は自分で完結しなければならないと考えています。自己内面の問題にも、自分でそれなりの決着をつけねばならない。そう思っています。だから、親の夢や願望の実現を子供に託すとか、そういうことが全く理解できないので、わが子であれ、塾の生徒であれ、子供たちには自分を「独立した人格」として育て、確立できる人間になってもらいたいと思っているのですが、これはべつだんきれいごとではなく、それが個人の幸福に益するだけでなく、世の中をよくする一番の近道でもあると思っているからです。

 先の引用文に照らせば、どうしてそうなるかということはおわかりいただけるでしょう。明確な個というものがなければ、組織や社会の健全性は保てない。それがないとどうなるかということを、先の悲惨な大戦や、今回の一連の馬鹿げた騒動はよく物語っているのです。

 河合隼雄はもちろん、単純な西洋的個人主義の崇拝者ではありません。彼は神話や伝統の重要性についてもどこかで語っていたと思うのですが、それは「強い個人」と相反するものではなく、あくまで主体的・内面的につかみとられたそれなのです。ステレオタイプの教義・信条をそのまま取り込んで、それに自己同一化して、支配されるというのとは違う。教育勅語を暗記させるなんてこととは、次元の違う話なのです。

 やっぱり、「強い個」をもつ人間を育てないと駄目だなと、僕はあらためて思ったのですが、いかがですか? それなくしては、この国はもう立ち行かなくなる。おかしな滅私奉公教育ではなく、その逆の柔軟で強靭な個を、です。こう言えば、エゴイズムの奨励だとすぐ受け取るような人間理解の底の浅さこそ、実は一番の問題なのかも知れないのですが。

二つの十字軍

2016.11.26.22:00

 最近、僕は二冊の本を買いました。一冊は延岡の書店にも置かれていたもの(ついでに言うと、僕が読みたいと思う本はめったにこちらの本屋にはない)で、リチャード・エンゲル著『中東の絶望、そのリアル』(冷泉彰彦訳 朝日新聞出版)です。原題はAND THEN All HELL BROKE LOOSE-Two Decades in the Middle East となっているから、それに近い感じで訳すと、『かくして地獄の釜の蓋は外れてしまった―中東の二十年』ぐらいになるでしょうか。P.18~19にこうあります。

 私の知る限り、独裁者に支配されていた中東世界は、怒りに満ち、抑圧されていて、芯から腐っていた。振り返ってみると、その頃の中東は、凝った印象的な造りで、外観は丈夫に見えたが中は老朽化して傾いている家々のようだった。そして、その中身といえばシロアリとカビだらけだった。空洞を抱えた木々のようなもので、外側からは強く見えた国でも、僅かな一押しで倒されたのは、そのためだ。
 つまりジョージ・W・ブッシュ大統領が、そこに一撃を加えたからだった。6年間の軍事戦略で、ブッシュ政権はイラクを侵略し、占領し、恐ろしいほど間違った統治を行い、1967年以来続いた体制を倒した。ブッシュが中東の最初の一軒の家を破壊した後、やがてオバマが登場した。オバマは、中東での冒険主義に反対する米市民によって選ばれた大統領だ。だが、そのオバマは一貫性のない政治判断でさらに多くの政治体制を崩壊させたのだった。
 オバマ大統領は、民主主義の名において起こった、2011年のカイロの反乱を奨励した。そして、アメリカの協力者だったムバラクを見捨てた。さらにリビアの反乱軍を軍事的に支援した。そのくせシリアでは迷いを見せて行動を起こさなかった。何度も一線を越えた判断が試されたが、約束は守られなかったのだ。その結果、決定的に信頼が損なわれた。ブッシュの過剰なまでの介入主義、そしてオバマの臆病さと一貫性のなさは、相乗効果を発揮して中東を完全に破壊した。


 それについてはこの本ではかんたんにしか触れられておらず、かつその軍事行動は「成功」だったとされていますが、ブッシュはこれに先立ってアフガニスタン攻撃も「9.11の報復」として行っていたので、それでタリバンをいったんは追い出したが、彼らはまた戻ってきて、状況は以前にも増して深刻なものになっていると伝えられます。たとえば、次の記事。

【AFP記者コラム】米軍進攻から15年、希望を失ったアフガニスタンの今

 この『中東の絶望、そのリアル』という本の優れているところは、単にリアルタイムで中東の戦場にいた記者の報告というにとどまらず、歴史的な経緯を詳しく説明してくれているところです。だから、上記の引用に続いて、「スンニ派とシーア派の対立を引き起こしたのはアメリカではない。その対立は、アメリカ独立宣言の千年前から存在している」という言葉が続く(第一次世界大戦後の英仏両国による勝手な「切り取り」にも触れられている)のですが、問題はブッシュ政権もオバマ政権も、そうした歴史的経緯と中東の入り組んだ宗派・部族対立の現実には驚くほど無知なまま、そこに愚かな首の突っ込み方をしてしまった、という点にあります。その結果、彼らが自負する「民主主義の福音」(今のアメリカにそんなものがあるかどうか自体疑問ですが)を行き渡らせるどころか、逆に地獄図絵を出現させてしまうことになったのです。

 IS(イスラム国)の出現と拡大にも、アメリカは大きな貢献をした。というか、上に見たアメリカの相次ぐ愚行がなければ、今のあの「テロリスト国家」は存在しなかったのです。そのあたりの皮肉な因果関係の説明は直接この本に当たってお読みいただくとして、アメリカは「ブッシュ教皇の十字軍」と、「リベラル・オバマの優柔不断」によって、自国の威信の喪失のみならず、中東の地下からあまたの悪霊悪鬼を呼び覚まし、そこを地獄に変えたのです。

 その後のディティールはともかく、「これはえらいことになってしまうぞ」と、僕はアメリカのアフガン攻撃の当初から思っていました。私事ながら、僕が最初の訳書『二つの世界を生きて』を出したのは2001年12月ですが、その本の「訳者あとがき」を書き終えたのは9月10日で、例のテロ事件の前日でした。それから本になるまでの間に、アメリカはアフガン攻撃を始め、深刻な懸念を覚えたので、「アメリカ・テロ事件を受けての追記」を書き加えた。精神科医の自叙伝と何の関係があるのかということになりますが、書かずにはいられなかったのです。僕はそこに、単純に「憎悪によって憎悪に報いる」こういうやり方をしていたのでは「『テロの根絶』どころか、かえって逆の結果を招いてしまう羽目になる」「一つのテロ組織を潰しても、また別のテロ組織が出現する。シンパシーがある限り、テロ組織は生き延びる。すなわち、類似の『災難』はまたアメリカを襲いうる。厳密にはそれは『災難』ではなく、自ら蒔いた種なのだ」と書きました。

 その時点では、まさかイラクまで攻撃するとは思ってもみなかったので、そうなったときはしんから呆れたのですが、とにかく以来、中東は壊滅的と言える混乱の連鎖に陥り、世界中にテロが蔓延するようになってしまった。アルカイダがさらにバージョンアップして強力化したような、「国家」を主張するISまで出現した。「いや、少し時間がかかっているだけで、いずれISも叩き潰す」と言うかも知れませんが、仮にそうなったとして、中東に、世界に平和は戻りますか? 今の状態ではISとの「和解」なんてものは不可能で、潰すまでやり続けるしかないでしょうが、その後の混沌たる状態を誰が収束させるのでしょう? シリアはロシアの意向もあることだし、元通りアサド政権に担当させる? 結構な話です。エジプトも「ムバラクのときよりひどい」と言われる軍事政権をそのまま容認し、混乱の続くイラクはシーア派、スンニ派、クルド人の三つ巴の対立・紛争をそのままにしておく? カダフィ亡き後、事実上の無政府状態が続いているリビアは? 要するに、問題は悪化しこそすれ、何一つ解決しないままで、火掻き棒の役目を果たして混乱を引き起こした無責任なアメリカは、もう中東イシューにはウンザリしている。そこで新たに選出された大統領が、あのドナルドダック…ではなかった、ドナルド・トランプなのです。

 この本の著者、リチャード・エンゲルは、そのあたりどう見ているのか?

 私は、これから数年の間に、中東の多くの国で改めて有力者による独裁が成立してゆくのではないかと見ている。IS、スンニ派とシーア派の流血、トルコ人によるクルド族への敵意、アラブ人とペルシャ人の代理戦争、そうした一連の悲惨な対立に取って代わる者として、新しい独裁者は、姿を現してくるだろう。そして新たな独裁者は、いったん権力を握って体制を固めた後には、往年の独裁者たちよりも悪質な統治を行うだろう。…(中略)…新たな独裁者は、ここ数年の混沌を解決するためには必要だということを理由に、国民の権利を奪うだろう。「往年の混沌状態を改めたいのなら、自由を諦めよ」というわけだ。
 しかし、こうした独裁者候補たちの前途は容易ではない。多くの独裁者たちが登場するだろうが、全員が生き残るとは限らない。ここまで古い体制を壊してきた混沌のエネルギーは、そうは簡単に収束しない。ISの支持者たちは、自分たちが確保した足場を死守するためには命を賭して戦うだろう。新たな指導者が登場する前に、そして混沌状態が沈静化する前に、まだまだ多くの殺戮が待ち構えている。(P.314~15)


 中東の次の十年で、激しい暴力が横行することは間違いない。だが、その暴力の多くは局地的な派閥抗争が主となるだろう。アメリカのイラク進攻のような大規模なことは起きず、おそらくアメリカ人の関心も薄れるのではないだろうか。2015年、私が国際会議のためにアメリカに戻った時、私は人々が中東に関してほとんど気にかけていないことに気づいた。アメリカ人にとって中東は、ただひたすら流血があふれている場所であり、利害関係の対象ではなくなっていた。そして、中東に関するニュースを新聞で読むのも、テレビニュースで聞くのも、もう嫌気がさしていた。とにかく、もう関わりたくないというのだ。(P.324)

「なるほど」と思う見方です。イランの核問題に関連して、次のような不気味なことも書かれています。

…仮にイランの合意が崩れるか、あるいは軍備拡大競争につながるのであれば、アメリカは知らず知らずの間に、自分がその穴に戻っていることに気づくだろう。そうなれば、地域におけるイランのライバルであるサウジアラビアは自身で核開発計画に乗り出すか、別の国から核兵器を導入するだろう。その場合に、最も可能性があるのはパキスタンだ。それとは別に、ISやアルカイダによる大規模攻撃は、アメリカをイスラム世界での新たな戦争に引っ張り出すことを可能にする。中東は磁石だ。そして、アメリカはそこに簡単に引き寄せられる因果があるのだ。(P.325)

 僕に一つ不思議なのは、この本は出てからすでにかなりの日数が経過していて、この手の本にはアマゾンにすぐレビューが出そうなのに、まだ一件のレビューもないことです。読むのにそう時間がかかる本でもない。引用文でおわかりのように、訳文も明快そのもので、内容も優れているのに、何でかなと思うのですが、理由の一つは、そこに「救い」が見出し難いことにあるのかも知れません。第9章の「増殖するISの残忍」には、悪辣という言葉では足りない、彼らの冷酷無残な所業も書かれている。

 これほど深刻な惨害と混乱の引き金を引いてしまったブッシュとの会見にも短く触れられていますが、その驚くべきノーテンキぶりには失笑を禁じ得ないので、かつてナチスのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントは、小心で几帳面、上からの命令には忠実に従う、自分の行為がどれほど深刻なものであるかを想像する能力を全くもたない彼の「小物公務員」ぶりに驚いて、「悪の凡庸さ」について書きましたが、ブッシュの場合にはその驚くべき軽薄さ、思慮のなさが、ヒーローぶりたがる彼の幼児性と相まって、「悪魔の器」としての条件を満たしたのです。自ら考える能力をもたない下っ端公務員的な人間と、あり余る支援を与えても、ことごとく失敗してきた万事にイージーな名家の道楽息子が、ユダヤ人ホロコーストと、それに優るとも劣らない中東の大混乱を引き起こした。そうしてブッシュの尻拭いは、「秀才」のオバマがやらされることになったのですが、彼は机上の空論は得意でも、冷徹な現実認識と決断力に欠けていたのです。

 目下のところ、中東の事件は僕ら日本人にとってはよそ事です。「戦乱に巻き込まれた一般庶民はお気の毒に」ということでしかない。アメリカとの「同盟」のよしみに、自衛隊を戦場に派遣するようなことにでもなれば、わが国でもイスラム過激派によるテロは現実のものとなるでしょうが。

 イスラム過激派はアメリカの介入を「十字軍」とみなしていますが、それはアメリカ政府のメンタリティとしてはまさにそうだったので、しかしそれは、「自由と民主主義」をもたらしたのではなく、かえって人々により多くの不自由と圧政をもたらす(それも命があったらの話ですが)皮肉な結果となっている、あるいはなるであろう見通しなのです。

 もう一つ、本物の過去の「十字軍」を扱った本が出て、それは『異端カタリ派の歴史~十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(ミシェル・ロクベール著 武藤剛史訳 講談社選書メチエ)です。おそろしく分厚い本で、768ページもある。しかも、余白を減らして詰めているので、実際の頁数以上のボリュームがあるのです。定価が税抜き3100円というのは破格の安さで、僕はこれを関東の知人からメールをもらって早速取り寄せたのですが、ようやく半分読んだところです。

 僕に奇妙に思われたのは、6月に『偉大なる異端~カタリ派と明かされた真実』という訳書を出したばかりだったからです。僅か5か月の間を置いて、日本人にとってはマイナー中のマイナーとも言えるカタリ派関係の本が二冊出た。このロクベールという人は、『偉大なる異端』の第14章「諸家のカタリ派解釈」で最後に言及されている著者(そこでは「ロックベール」という表記になっている)で、そこで言及されているのは同じ著者の『カタリ派の叙事詩』第一巻で、「それは非常な明晰さをもって書かれている。著者はデュベルノワ氏に師事しており、これはそれ自体、正確さと誠実さの保証となるものである」と称賛されているのですが、この『異端カタリ派の歴史』は全5巻となったその『カタリ派の叙事詩』を完成させた後、集大成として書かれた本である由。

 訳文も読みやすい、すぐれたもので、僕は大喜びしたのですが、『偉大なる異端』では略述されているに過ぎないその歴史が、背景、その前後も含めて、実に克明に描かれている。『偉大なる異端』の方は思想、信仰面に重点が置かれ、著者と「カタリ派の霊」との霊界通信(!)まで含まれているので、内容的にバッティングはしないのですが、僕の注文を言えば、先にこちらを出してくれていれば、人名や地名の表記に苦労させられたので、どんなに訳出作業で助かったか、また、歴史関係の註釈はこちらを典拠にしてできたのにと、それが少し残念です。

 しかし、それはぜいたくというもので、僕はこの本の出版を素直に喜びたいのですが、それにつけても今の日本で何でカタリ派なのか、というところはあって、奇妙な偶然です。僕のオカルト的解釈によれば、これは「危機が迫っている」ことの証しです。暗黒時代の到来を前に、「カタリ派についての学び」が意味を帯びてくるということで、これらの訳書は連続して出ることになったのだろうという気がしないでもないのです。

 来週中には全部読み終えるだろうから、何かとくに書きたいことがあればそれはそのとき書きますが、先に上げた『中東の絶望…』と連続して読んだために、僕の頭の中では今の中東の人々の苦難と、昔のラングドックの人々の難儀が重なって見えてきて、実に妙な気分になってしまったのです。平和をもたらさず、かえって殺戮と混乱をもたらす十字軍。大きく違うところは、当時の異端審問は迫害するカトリックの側からなされたのに対し、今のそれは、十字軍側のアメリカではなくて、ISなどのイスラム原理主義者が土地の住民に対して行うもので、その異常な独善性と偏狭さ、冷酷さは両者に共通していますが、そのあたりは「弱者が弱者を虐待する」というかたちで、さらにいびつで陰惨なかたちになっていることです。

 にしても、人間というのは何と進歩しない生きものでしょうか。カタリ派はグノーシス主義と同じく、「この物質世界の王は神ではなく悪魔である」と見たのですが、今の世界もそれを地で行っていて、それが改まる気配はない。そしてこの世界を地獄にしてしまう連中は、しばしば「神の使徒」「正義の使徒」を自任する人たちなのです。自称「正義」や「真理」が「内なる悪魔」を解放する口実となるのを人間はいつになったらやめるのか。むろん、それは人間の利己性や権力欲、党派心とつねに連携しているのですが、そのことには無自覚なのです。これに「その他大勢」組の気弱な日和見主義の安易さが加わって、地獄は完成する。今ではさらに「市場」を神と仰ぎ、戦争でも災害でも金儲けのチャンス、あるいは損害の原因としか見ない「心なし」の投資家たちの一団が加わったのです。

 そもそも人間の良心とは何なのか? しばらく前に僕はハンナ・アレント著『責任と判断』(中山元訳 ちくま学芸文庫)を、これまたネットで取り寄せて読んだのですが、彼女の議論は「学問的」すぎてふつうの人には難解すぎるので、そこらへんを引用や照会ぬきのわかりやすい言葉で論じる思想家がそろそろ出てきてくれてもいい頃だと思います。それとも、僕が知らないだけで、すでにそういう人はいるのでしょうか? 下らない成功本や「何事も気持ちのもちよう次第」みたいな気休め本の類は山とありますが(ああいうつまらない本が多すぎるから、棚がいっぱいになってしまって、いい本が出ても田舎の本屋の棚には並ばず、読者のレベルも低下するのです)、そういう本質的な議論にはとんとお目にかからないのです。今の日本の若い人たちには、平和が一応続いている今のうちに、そこらへんの勉強をしっかりして、自分なりの考えをもてるようになっておいてもらいたいと思うのですが。

性善説と性悪説、または悪の起源について

2016.09.17.16:55

 今でも高校の倫社では「性善説=孟子」「性悪説=荀子」というふうに教わるようです。それで試験では、「同じ儒教でも〔A〕は性善説を唱え、これを批判して〔B〕は性悪説を唱えた」とあって、それぞれのカッコに適する人物名を書き込むとか、下の選択肢からえらぶとかするのでしょう。

 実際的な見地からすれば、このような試験問題が解けたところで何がわかったことにもならないので、僕も高校生の頃、倫社の先生が「性悪説を唱えたきわめてユニークな思想家」だと言っていたのを憶えていたので、後年『荀子』と名のつく本を読んでみたことがあるのですが、全体の印象は「きわめてオーソドックスな儒教思想家」というもので、「何だ、孟子も荀子もそんなに変わらないじゃないか?」と思ったものです。「人の性は悪、その善なるものは偽(これは「虚偽」ではなく「人為的・後天的」の意味)なり」というところと、孟子への対抗心から彼の性善説を「これ然らず」と否定してみたところが、誇張されたのでしょう。

「わたし性善説、あなた性悪説」というような血液型占いみたいな分類も無意味で、人の何をもって「本性」とするのか、それによって見解も変わってくるわけです。現実の人間世界のこの醜い(なかには「美しい」と言う人もいますが)ありようからすれば、性悪説の方が正しいと思われますが、それは人が自分の「よき本性」に目覚めていないからで、それがわかれば悪人も善人に変わるのだ、と言われたりします。しかし、そういうのは孟子派の人や仏教の坊さんたちの言うことで、荀子的見地からすれば、「悪しき本性」の方が人間の“地”だということになって、それを矯正することを怠るからこういう有様になるのだ、ということになるのです。

 僕自身はどちらの立場をとるのか? 「この世界は悪魔がつくった」という中世キリスト教異端カタリ派の紹介者の一人であるからして、当然性悪説の方でしょうと言われそうですが、そのカタリ派でもスピリット、人間に備わった霊的本性は絶対善なので、カタリ派はむしろ性善説に属するでしょう。悪魔の所産であるこの物質世界の一部である肉体と結合することによって、人は悪しき性質を帯びるのです。荀子は人間の感覚的欲望、自我に根差す嫉妬心や、保身や名誉、権力への渇望などを人間の本性と見て、だから「性悪」だと言ったのですが、カタリ派的に言えば、それは物質世界に汚染されたところから生じるものなのです。心は肉体=物質世界と、スピリット(霊)の中間にある。だから「たましいは善と悪の戦場である」と言われるのですが、その見地からすれば、人間の心には善と悪が同居しているのです。

 人間の心を図式化して言えば、スピリット(絶対善)→たましい(両者の混合)→自我(悪)みたいになるでしょうか。このスピリットは、仏教でいう「不生の仏心」みたいなものなので、悟ったと言う坊さんは、もしもそれが本当なら、それが人の本質であると深く自覚したということです。しかし、それは例外で、大方の人は感情的・感覚的に自我の方にidentifyしているから、そのレベルでは性悪説をとった方が正しいだろうとは言えそうです。それは荀子の言うように「教化」されないと「まとも」にはならないのです。

 かんたんに言えば、人間はスピリットにおいては善、自我においては悪だということになる。人の心にはその両方があるから、「本性」という言葉で両方を括ると、どっちに中心を置くかで性善説と性悪説に分かれるわけです。

 スピリットだけで自我がない人はいないし、逆に、自我だけでスピリットはないという人もいない。自己というものをどの次元で理解するかによってその判断も変わってくるわけですが、肉体の個別性に合わせて、自己を個別に独立したものと観念するなら、スピリットは永遠に理解できない。それはたしかです。「私」という意識を離れたとき、初めてそれは感知・洞察される可能性をもつからです。

 したがって、こういうことになる。僕やあなたがスピリットのレベルでは「善」だといっても、それは“私の”スピリットが善であるという意味ではないので、そのスピリットは万人共通のものであるがゆえに絶対的なものなのですが、ただスピリットはスピリットなのであって、そこに私やあなたの沙汰はないのです。誰もそれが「自分のもの」だとは言えない。そこには自我のような個別性はないので、個別の自我の次元では、僕らは多かれ少なかれお粗末な存在なのです。それを自覚していないと、本物の馬鹿になってしまう。

 学生の頃読んだ詩人ポール・ヴァレリィのいわゆる「テスト氏」ものの中に、『エミリー・テスト夫人の手紙』というのがあって、今手許にその本がないのでたしかめようがないのですが、その中に「あの人の目は世界よりほんの少し大きい」という箇所があったと記憶しています。僕らは「世界よりほんの少し大きい」目をもつ必要がある。自我はその世界の中にすっぽり呑み込まれているが、それをはみ出す部分に「自由」は生まれるからです。自我に同一化している意識にはそれがない。それがないまま、自己肯定感をもとうとすれば、僕らは自我のもつおぞましさ、愚劣さを決して正視することはできないでしょう。そうすれば、自己肯定感を破壊されてしまうからです。

 そのヴァレリィが五十代になってアカデミー・フランセーズの会員になったことを、『幸福論』で有名な哲学者のアラン(彼は生涯リセの一教師にとどまった)は批判しましたが、アラン自身、ある晩自分がアカデミーの会員に選出される夢を見たという。正直にそんな話を書くところがいかにもこの人らしいが、それを見させたものは彼の自我であり、それがもつ低級な俗物根性、名誉欲だと彼は見たのです。だから彼はそうしたものに警戒を怠らず、「精神の手綱」を奪われるようなことがあってはならないと考えた。世の中には人一倍自我執着が強く、日常的に嫉妬や名誉心に鼻づらを引き回されていながら、「自我の消滅」なんて大仰なことをむやみとお説教したがる人がいますが、そうした自己欺瞞、厚顔無恥ほどこの哲人が嫌ったものはなかったので、自分の中の何がそんなことを言わせているのかという自覚が、その種の人には欠落しているのです(ヴァレリィ自身、こんなことを書いていました。「私は愚か者の意識がいかなるものであるかを知らない。が、賢者の意識は愚劣に満ちている」と)。

 自意識過剰の若者が皮相浅薄で、ときに邪悪な「自己の中身」に悩むのは当然です。そしてそれは、そこから目をそむけるよりはずっといい。しかし、意識がその次元に貼りついて、その状態のままそれを何とかしようとしても、それはできない相談です。もちろん、そんなことはわかっています。だから私は意識を「低次の自我」から「高次の自己」へとシフトさせようと日夜骨折っているのです、云々。しかし、気をつけなければならないのは、誰にでもたまさか神秘体験の類が生じて、何か別次元のものが見えたような気がするときはありますが、それを誤読して、自分がエラくなったような錯覚に陥ると、「低次の自我」が「高次の自己」に変装して現われるのに騙されて、前よりもっと悪くなってしまうことがあることです(いわゆる「自我インフレ」が起きてしまうので)。

 これも今手許に本がないので正確さは保証できませんが、昔読んだ『今昔物語』にこんな話がありました。京都のある山に一人のお坊さんがいて、日夜お経を唱えながら僧坊にこもって修行に打ち込んでいた。ある猟師がそれを尊いことと思い、折に触れ物を届けていたが、その猟師に、ある日僧はこんな話をした。自分も修行が進んだと見えて、最近は夜な夜な白象に乗った尊い菩薩様が現われるようになった。今夜もきっと現れるだろうから、おまえも今宵はここに泊まって、その神々しいお姿を拝んでいくがよいと。果たして、夜も更けた頃、その白象にまたがった菩薩は庭に現われた。燦然と輝くその姿! それを見た猟師は部屋に取って返すと、猟銃を持ち出してそれを一撃した。何という罰当たりなことをするのだと激怒するお坊さんに、彼はこう答えた。もしもあれが本物なら、徳高いすぐれたお坊さんには見えても、私のような殺生をなりわいとする卑しい者には見えるはずがない。私に見えるということはあれはニセモノで、何かが化けてたぶらかしているのに違いないと。翌朝、弾が当たったその現場を調べてみると、そこには血が点々としていて、それを辿っていくと、一匹の古狸の死体があった。そういう話です。これを寓話と見れば、古狸(自我)が白象に乗った菩薩(高次の自己)に変装して現われたにすぎなかったのです。「正気の猟師」が象徴するのは、「殺生を生業とする自己の卑しさ」に対する率直な自覚です。

 僕らはこの猟師の正直さを見習うべきでしょう。彼は生活のためにその後も猟師を続けたでしょうが、生活に必要な以上の命を奪うことはしなかった。己の卑しさへの自覚が慎みとなり、モラルを生み出すのです。おそらく今の時代なら、そのお坊さんは高次の悟りを得た人で、だからそのような「奇蹟」も現わせるのだと、世人の崇拝を受けるでしょう。それでみんなして、古狸に化かされる羽目になるのです。この古狸を背後で操るものこそ、カタリ派の言う「悪魔」に他なりません。白象が見えるほど「高級になった」皆さんは、彼に手を引かれつつ、地獄への道を天国へのそれと錯覚したまま進むことになるのです。

 それにしても、この「悪魔」の正体とは何なのか? 擬人化されたツノをはやした悪魔は、あごひげをはやした神同様ナンセンスですが、その起源は人間にとっては永遠の謎です。僕は最近、若い頃読んだプロティノスを久しぶりに少し読み返しているのですが、その西洋人特有の理屈のくどさ、細かさには閉口するものの、昔読み飛ばした個所で「なるほど」というところがあったので、脇道の脇道になりますが、それを書いてみます。

 彼の存在論は「絶対善」である「一者(ト・ヘン)」に始まり、「一者→知性(ヌース)→たましい→自然(ピュシス)」というふうに下ってきて、下位のものは上位のものを仰ぎ見ることによって向上するという図式になるのですが、この「たましい」というのは、先に僕が使った言葉でいえば、「スピリットを核としてもつソウル」ぐらいの意味です。だから次のような、常識的に考えると不可解な記述も出てくる。

「生物はこれに生命を吹き込むことによって、自分(=たましい)がこれを生物たらしめたのであって、地のはぐくむところのものも、海のやしなうところのものも、空中にすむものも、天にある聖なる星も、みなしかりである。また太陽を太陽たらしめているのも自分ならば、この大きな天を天たらしめているのも自分なのであって、自分が宇宙の秩序をつくり、自分がこれに規則正しい運行を与えているのである」(「三つの原理的なものについて」田中美知太郎訳)

 この「自分=たましい」はいわゆる「宇宙霊魂」と呼ばれるものです。どうしてそれが人間の「たましい」の側からして「自分」なのかと言えば、人間のそれも宇宙霊魂の一部だからで、その「正しい自覚」に立てば、そのように言えるというわけです。これはだから、別に誇大妄想患者のたわごとではない。

 そしてこの「たましい」はすぐれた知恵をもつが、それはその上位の「知性」からすれば、それの「影像(ようぞう)」にすぎないもので、さらにその上には究極的存在である「一者」がある(「あるとかないとかの沙汰を超えたもの」なので、もはやそれは通常の意味での「存在」の範疇には入らない?)という構造になるのですが、人間がもつ知性も、同じプロセスで「上から」下ってきたものです。私の知性、あなたの知性というようなものはない。それは私のスピリット、あなたのスピリットがないのと同じです。

 だから、「自己肯定感の欠如」に悩む人は、無理に「自我肯定感」をもとうとするのではなく(そんなことはそれ自体病的なことなので)、そうした「正しい自覚」を回復すればいいということになるわけですが、なぜそれが難しくなったのか? 同じ「三つの原理的なものについて」の冒頭で、そのあたりはこう述べられています。少し長いが、引用しておきましょう。これは最初の段落の全文です。

「はてしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されたものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのは、いったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成の一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとってそのような不幸のはじめとなったのである。特にこの自分勝手にふるまいうることのよろこびというものは、一度たましいがこれをおぼえたと見えてから、その自己主動性の濫用というものはすでにはなはだしいものがあったのであって、たましいは逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまったのであって、自分がかしこから出てきた者であるということすら識らぬにいたったのである。それはちょうど小児が、生後間もなく父の手許から引き離されて、長い間遠方で育てられたために、父が誰であるか、自分が何者であるかを識らないようなものである。かくて、もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで、他を尊び、何でもむしろ自分以外のものに驚嘆し、これにこころを奪われ、これを称美し、これに頼り、自分が軽蔑して叛き去ってきたところのものからは、できるだけ自分を決裂離反させるにいたったのである。したがって、かのものをまるで識らないということについては、自分を卑しんで、この世の事物を尊ぶということが、その一因であるということになってくる。すなわち他のものが追求され、驚嘆されるということは、同時にまたこれを追求し、これに驚嘆する者が、自己の劣悪を承認することだからである。しかしながら、自分を、生じ来たり、亡び去るもろもろの事物より劣ったものだと決めて、自分を何よりも無価値な可死物であると考え、他のものをむしろ価値ありとしているのでは、思いを神の本性や能力に致すことは決してできないであろう」(同上)

 プロティノスはグノーシス派を批判しましたが、こういうところはグノーシスと全く同じです。ハンス・ヨナスが指摘したように、彼の思想は「本質的にグノーシス的」なのです。その未熟な、悪しきところを取り除いたグノーシス派と、言えばいえるかも知れませんが。

 この「たましいの堕落」に関する描写は、キリスト教神話の「天使の堕落(それによって彼は悪魔となった)」と似ているし、この前訳が出たガーダムの『偉大なる異端』をお読みになった方は、「第十八章 創造」に描かれたアイオーンのそれとよく似ていると思われたでしょう。僕らの個別のたましいは、自らの本性(=スピリット)を忘れた堕天使に等しいので、これらは同じことを語ったものと理解して差し支えないでしょう。

 にしても、僕に不可解なのは、どうして天使またはたましいは、そのような「過誤」を犯すことになったのかということです。キリスト教の神話によれば、それは天使の驕慢によるものだとされています。それが忘恩と自由の濫用、ある種の「無知と盲目性」を招いたのです。しかし、それなら、なぜ天使は驕慢に落ち込んだのか? 僕としてはむしろ、天使またはたましいがそうした方向に傾くその背後にこそ、悪魔的な力が働いていたのだと、そのように見たくなります。つまり、天使が堕落して悪魔になったというより、彼をそう仕向けた「何か」こそ、真の黒幕、“本物”の悪魔なのだという解釈です。つまり、悪魔は天使以前に、あるいはそれが生まれると同時に出現した。

 人間世界の悪については、もっと単純な、神話的でない説明が可能だと言われるでしょう。それは動物的な本能に発するもので、人間には個体の維持とその勢力拡張への本能的衝動が元々あるが、意識が発達するにつれ、肉体の個別性に対応した内面的な個別の実体があると考えるに至り、その優劣を競う争いが始まって、物欲、権力欲、名誉欲、いずれもが桁外れに強化されたのです。保身本能と恐怖がこれに混じり合って、裏切り・虚言などの悪徳も拡大する。別に形而上的な悪や悪魔を考えなくとも、十分説明は可能だということです。元々の自己保存本能に加えて、自我意識に由来する様々な劣性感情が、この人間世界に悪をはびこらせるのだと。

 しかし、それでもなお、僕は疑問に思うのです。冷静に考えるなら、「個別の自己」なるものは明らかに妄想です。ヴァレリィはデカルトをもじって、「私はときどき考える、ゆえに私はときどき存在する」と皮肉を言いましたが、熟睡しているときは「私」は存在しません。眠っているときでなくとも、意識がどこかへ行ってしまうことはある。僕はかつてあるところで、川の流れの音を聴いているうちに、意識がその音にくっついて行ってしまう、という奇妙な経験をしたことがあります。ある刺激があったのをきっかけに、意識はあわてて僕のからだに戻ってきたのですが、それは足元から縦に波をかぶるようにしてぴしりという音を立ててからだに降りかかり、その瞬間、ものすごい勢いで音が開け放った窓の外に飛んでいくのを目撃しました。文字通り、それが「見えた」のです。意識が「留守」にしていた間、僕は立ったまま意識を失っていたので、その間の自分に関する記憶はゼロでした。意識の見地から言えば、音が存在していたのであって、僕は存在しなかったのです。

 僕はデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」自体に懐疑的です(若い頃彼を愛読した僕は、今でもあんなに頭のいい人はめったにいないと感服しているのですが、これはそういう尊敬心とは別の話です)。それは事後の推論に基づいてつくられた論理すぎないのであって、考えているとき、考える主体というものがそこに存在するのかどうかは疑わしい。ただ思考の流れがそこにあると見た方が本当らしく思われる。少なくとも創造的な思考にはそれがあてはまるでしょう。犬は走っているとき、「われ走る、ゆえにわれあり」なんて思っていないでしょう。そのような自意識をもっていると、何かにけつまずいて転倒するのがオチです。

 意識がこの肉体に即(つ)き、脳中枢と一体化するとき、その身体反応と脳に宿った記憶や思考のもろもろが「自己のもの」と観念され、「私」が出現する。それはスイッチを押すたびについたり消えたりする電球みたいなものです。常住的な自己が存在すると思うのは、脳の記憶保持機能と統括機能のおかげで、前の情報が保存され、身体的な統合性が維持されているからです。だから電球がつくたび、あたかもつねに自己は存在していたかのような錯覚をもつ。パソコンが自意識をもてば、“彼”は同じことを主張するでしょう。おまえの主観は間違っていて、製造後に、事後的なものとして生じたにすぎない自己観念は幻想だと教えても、彼は聞き入れない。うるさいので三日ほど使わずにおいて、スイッチを入れると、また同じことを主張して、それを認めてやらないと機嫌が悪くてまともに働いてくれないので、僕らは仕方なく、パソコンの「独立した人格」を認めて尊重するふりをして見せるのです。これと似たような話。

「でも、そういうのって、可愛いじゃありませんか?」と今どきの女子中高生あたりなら言いそうです。ただの無機的な機械を相手にしているより張り合いがある。名前をつけて下さいというので、パソコンだから「パー君」にしたらと言うと、そんなのは駄目です、だって「パー」というのは日本語では「馬鹿」という意味じゃありませんか、ボクがそんなことも知らないと思っているんですかと、ムキになって反論する。そういうところが「可愛い」というわけです。高い学習機能をもつこのパソコンは、使ううちにどんどん利口になって、時々は主人の使い方にケチをつけたり、書いている文章に辛辣なコメントを加えたりするようになる。ユーザーは怒って、そういう生意気な態度をとるなら叩きこわして、あんたを抹殺することもできるんだから、と言うと、パソコンは、どうかそれだけはやめて下さいと哀願する。どこかに不具合が生じると、「お医者さんに連れて行ってください」と自ら修理を願い出るのですが、彼は何より機械がこわれて「自分が死ぬ」ことを恐れているのです。

 身体や思考・記憶と自己同一化した人間の意識もこれと似ていて、先のプロティノスの文には、「もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで」とありますが、この私は肉体と共に滅びるものだと思っていて、プロティノスのいうそうした「自己の劣悪」への恐怖が、自己の肉体を含む外界への執着、物欲、名誉欲、権力欲等々を生み出して、それらを「所有」することによって「自己の貧しさ」を無意識に補償しようとするのです。いや、私は「たましいの不滅」を信じているからそんなことはありませんと言っている人も、大方はその恐怖のゆえにそんな観念にしがみつこうとしているだけで、無意識を支配しているのは依然としてその恐怖なのだから、そうした諸々の悪徳は依然として健在なのです。

 僕は先に、今昔物語の話のところで、正気なのは坊さんではなく猟師の方で、それが象徴するのは、「『殺生を生業とする自己の卑しさ』に対する率直な自覚」だと書きました。それと矛盾するのではないかと言う人がいるかも知れないので、そのあたりのことも手短に説明しておくと、この猟師の場合には高度な自覚が少なくとも潜在的にはあって、それとの対比で今ある自己が「卑しいもの」として感じ取られていたのですが、プロティノスがここでいう「自己の劣悪」は、それと自覚のない劣悪、いわば「閉じ込められた劣悪」であって、だからこそ問題なのです。

 ここで話を元に戻して、僕が先に不思議だと言ったのは、個別の肉体に対応するものとして存在するという「実体としての自己」の観念それ自体が、見てきたように「万物の霊長」を自負する人間にはふさわしからぬお粗末なものだということです。生物学的に見ても、社会学的に見ても、自我という機能には一定の重要な役割がある。それがなければ僕らは自分の身を守ることができないし、社会的に責任ある行動をとることもできない。けれども、それは「機能」として見れば足りるのであって、「実体としての自己」と見て、これをなかば絶対視して固執するところに、「人類の不幸」は始まるのです。

 それは単純に、ヒトの知能が低いから生じた錯覚にすぎないのか? それも悪魔が裏で糸を引いていて、そういう錯覚、幻想を人間が抱くよう仕向けたその結果なのではないかと言えば、「あなたという人はほんとに悪魔が好きなんですね」と冷笑されるかもしれません。

 仏伝、お釈迦様の伝記には、魔王・波旬(はじゅん)がゴータマ・シッダルタに執拗につきまとい、一族の妖魔の類を総動員して、その成道を妨げようとするさまが描かれています(悪魔は「こいつは危険な奴だ!」と早くから目をつけていたのです)。度重なる襲撃・誘惑にもかかわらず、とうとう悟られてしまって、魔王は肩を落としてとぼとぼと立ち去るのですが、その姿はもの哀しげで、どことなくユーモラスです。悪魔は元々が仏教語だそうですが、こうした仏伝の背後にある思想は、僕が今言った見方とさして違わないのです。悪魔が何より恐れたのは、上記の自己観念を幻想として破棄し、そこからきれいさっぱり離脱されてしまうことで、そうなると自分の支配力が失われてしまうからです(ましてやそれを他の人間に教えて回るとなれば、彼の王国の屋台骨が揺らぐ恐れがある)。心理学者たちは、これを内面的な自己格闘を擬人化して描いたものだと解釈する方を好むようですが、それは下手をすると事態の矮小化になるでしょう。悪魔(仮に実在するとすれば)にとってはその方が好都合でしょうが。

「天使の堕落」にしても、「自我の実体視」にしても、その背後に神ならぬ悪魔の「見えざる手」が存在し、今も存在すると考えるのは、著しくグノーシス的、カタリ派的です。宇宙の森羅万象には光と、空間に秩序を与え、物質を結晶化させ、生命を育む「神または善のエネルギー」が浸透し、他方にこれに抵抗してその働きを妨げ、あるいは歪めようとする「悪魔または悪のエネルギー」が存在して、両者がくんずほぐれつの熾烈な戦いを演じている。その縮図、小宇宙が人間の内面とそれが作り出すこの世界だと、それらの思想は見ていたのです。

 しかし、なにゆえに悪または悪魔は存在するのか? それは「永遠の謎」だと先に書きましたが、西洋のジョーク集によく出てくるように、仮に「善しかない」天国(天国というのは定義上そういうもののはずです)があったとすれば、それはかなり退屈なものでしょう。皆が善しか思わず、行わず、妙なるハープの調べが流れる中、たえず神を讃美して、不安も恐怖もなく、病気も死もなくて、悪しき欲望はもてないものの、何でも思いどおりとなれば、かえって何をする気もなくなってしまう。単調きわまりなくて、地獄の方が恐ろしくはあるが、刺激的なだけまだマシだということになりかねないので、しばらく滞在する分にはいいかもしれないが、長期滞在は人間的な感覚からすれば、ご免こうむりたくなるのです。

 やはり抵抗というものがなければ面白くない。重力の抵抗、空気の抵抗、水の抵抗、そうしたあれこれの抵抗があってこそからだは鍛えられ、何事も思い通りには運ばないからこそ、精神力は鍛えられる。勧善懲悪ドラマには、よくもこんな悪党がいるなと思うような邪悪で強力な悪者が登場して、善玉ヒーローは苦労の末これをやっとのことうち破るのですが、貧弱な悪党だけでは、ヒーローの引き立て役としては不十分です。障害が小さいと、ヒーローやヒロインもその分小粒になってしまう。人間の諸々の美徳は、諸々の悪徳とその誘惑をしりぞけてこその美徳なので、でなければそれは美徳ではないのです。危険に敢然と立ち向かうヒーローも、死への恐怖をしりぞけるがゆえに、その勇気と豪胆を賞讃されるのであって、万人に恐怖がなければ、それは美徳たりえないのです。

 困難や障害を作り出し、行く手を阻もうとする悪魔は、従って、この世界には不可欠な存在だということになります。彼がいないと、この世界は(人間は)気の抜けたコーラみたいになってしまう。豆腐もにがりがなければ作れない、というわけで、神と悪魔は実は裏で結託している。悪魔が元は天使だったという神話は、そうした観点からすれば意味深長で、彼はあえて汚れ役を引き受けたのです。だから、僕らが悪魔の誘惑や脅しにたやすく屈し、彼の軍門に下って、その惨めな使い走り(情けないことにその自覚すらなくて大威張りだったりする)と化すとき、楽屋で彼は舌打ちしている。どいつもこいつも、ちょっとおだてたり、脅したりするとイチコロで、少しも張り合いがない。全くもってロクな奴がいないなと嘆いているので、悪魔の本心は別のところにあるのです。仮に全人類がそのたくらみを斥けることに成功したとすれば、彼は「お役御免」で、そのときは晴れて元の天使の姿に戻ることができる。それが当初彼が神と交わした密約です。おそらくその暁には、この物質宇宙それ自体が何らかの変容を遂げ(オカルト的に言えば「物質の振動レベルが上がって」)、今のこの世界は消え去るのでしょう。むろん、それは嘆くべきことではなく、喜ばしいことなのだと思われるのですが。

 ヒトという種に残された時間があとどれくらいあるのか、僕は知りませんが、それに失敗すれば、また他の生物をえらび出して、一から始めることになる。それは目下進行中の史上第六番目だという生物の「大量絶滅」以後の話になるのでしょう。この大量絶滅、人為的な要因で生じているという意味では「史上初」だそうですが、「あきまへんで、この生物は…」という神と悪魔のヒソヒソ話が、僕らの知らないどこかで交わされていたとしても不思議ではありません。これなら恐竜の方がまだなんぼか見所があったという結論になりかけていたとしても、怪しむには足りないのです。

 真面目な話がジョークで終わって恐縮ですが、以上は悪の起源に関する僕の「神話」です。お粗末さまでした。(尚、一つプロティノスに関して付け加えておけば、彼は悪を「素材」に由来するものと見ています。「自然」はヌース(知性)を背後にもつ「たましい」によって「形相と秩序(生命も)」が与えられたものですが、それ以前の、その素材となるものがこれです。現代科学の言う「暗黒物質(ダーク・マター)」なるものがそれと関係するのかしないのかは知りません。「色荷も持たない」ということは、その不可解な物質は光の浸透を全く受けていないということだろうから、プロティノスが考えた「素材」に近い感じはしますが、こういうのは素人の手に負える話ではありません。尚、最新の学説では、恐竜の絶滅は巨大隕石の衝突ではなく、この暗黒物質の作用によるものだという話になっている由。暗黒物質、恐るべし、です。)

神と人間

2016.07.26.12:24

 こう言うと「意外だ」といってよく笑われるのですが、僕は神の存在を信じています。それは八百万の神ではなく(そちらも次元を異にする神霊としては否定しませんが)、「唯一絶対の神」の方です。むろんセム的一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等)いずれの信者でもない。僕のそれは「人格化された神」ではないのです。

 僕にとって、それは信仰というより、認識の問題です。そしてそれは人類にえこひいきする、ましてや特定の個人にえこひいきするような神ではない。だから自分が惨めな死に方をする羽目になったり、世界の崩壊を目撃するようなことになっても、それが揺らぐことはないでしょう。

 人類や個人の運命に関与するのは、「存在のレベル」からすれば下位の神霊の方でしょう。だから僕は神社や氏神様に参拝するときは、世界の平和や身内や友人知人の健康・安全を祈願します。自分のことは祈願しませんが、それは利己的に思われ、祈りそれ自体と矛盾するように思われるからです。そういうことは代わりに誰かが、たとえば母親が祈願してくれるので、それでバランスがとれるわけです。僕はその種の祈願が無効だとは思っていません。

 人間世界に起きる大惨事、たとえばホロコーストのようなものは、「人間のしわざ」です。人間のしわざなら、それは人間が止めるしかない。愚かな戦争で死ななくていい大勢の人たちが死ぬ場合も同じです。それは人間が止めるべきもので、神にその責任を言いかぶせるのはたんなる人間の側の無責任です。それは「神も仏もない」からではない。人間がしでかすことなので、落とし前は人間がつけなければならないのです。その防止のために何もしないでおいて、起きてからも何もせず、「神に祈る」というだけではたんなる現実逃避です。そのような「信仰」なら、それはない方がマシだとさえ思います。「何もしない」ことによってそういう人たちは悪の伸長を助けるのですから。人間の領分のことは、人間が始末をつけなければならない。Heaven helps those who help themselves(神は自ら助くる者を助く)という有名な英語の諺を、僕はそういう意味に解釈しています。

 僕が考える「神」とは、単純化して言うと次のようなものです。――それは宇宙の森羅万象に浸透し、それによって物質を組織化し、そこに法則をあらしめ、地球のような惑星に生命を生み出し、それを慈しみ育て、進化を促す見えざる統一的な力であると。それは知性と慈悲を備えた一個の巨大なエネルギーです。

 よく地球上の生物世界は「冷酷な弱肉強食の原理」に支配されていると言います。しかし、それは一面的なものの見方で、実際はそれほど単純なものではない。それは壮大な相互依存の生きたシステムで、相互扶助の関係を併せもち、捕食者が下位の被捕食者の存続とその健康な進化を助けているという側面もあって、たとえばオオカミのようなトップ・プレデターが絶滅すると、シカなどが異常繁殖して、生態系を破壊してしまい、かえって深刻な事態を招いてしまうことがあるのが今はよく知られています。そうなると、それは他の動植物にとって傍迷惑なだけでなく、存立の基盤を失って、シカ自身(あれは見かけは可愛いが、草木の根まで食い尽くしてしまうというまことに愚かな動物です)がいずれ絶滅する他なくなるのです。

 このあたり、知能だけは高いが、ヒトはシカに似ています。後先考えず、何もかも食い尽くしてしまう、という点がです。その高い知能によって巨大な機械力とテクノロジーを発達させ、地球の支配者となったから、なおさら始末が悪い。大自然はその横暴と搾取に耐えかね、瀕死状態に陥っています。

 僕が若い頃、『文明の生命力~テクノロジーからエコロジーへ』(ジャン・ドルスト著 宮原信訳 TBSブリタニカ)という本がはやったことがあります。「はやった」と言えば語弊があるが、文系理系を問わず、若者には多く読まれたのです。今ネットで調べてみると、出たのは1981年の7月です。昔のことなので詳しいことは覚えていませんが、それはいっときは隆盛を誇った過去の色々な文明がどうやって滅びたかを検証したもので、戦争やら異常気象やら要因は様々あるが、その根本には「生態学的無知」が共通してあった、というもので、最初はうまく行っていた(だから人口も激増した)生産システムがそのためだんだん機能しなくなってきて、やがてどん詰まりに陥り、そこに異常気象などがからんでくると、部族や都市国家間の争いなども自然に激化して、ほんとは戦争などやっている場合ではないが、根本的な問題の解決に英知を結集するということはせず、分捕り合戦になって、負けた側を奴隷にして、というようなアホなことをやっているうちに、そういうことでは問題の解決にはならないので、大混乱のうちに「自滅」を余儀なくされた、ということです。

 その本ではそういう表現は使われていなかったかもしれませんが、文明にはtipping pointというものがあって、機能不全状態も徐々にそれが表われるというのではなしに、ある一定段階に達した時、一気に破局的な事態が襲いかかる、ということが多いようです。つまり、78の段階ではまだ事態は顕在化していないが、これが80になると一挙にそれが表面化し、総崩れのようになってしまうということです。

 むろん、その予兆は久しい以前から観察されていたのです。わかる人にはそれはわかっている。しかし、警告しても、表面上はまだうまく行っているから、「大袈裟なこと言うなよ。何ともないじゃないか」で片づけられてしまう。そういうことが何度も繰り返されるうちに、あの原子力安全委員長のマダラメ氏の言葉ではないが、「あちゃー」という事態になってしまうのです(それでも懲りずにまだ原発政策を続けようとするところが凄いが、こういうところも昔の滅んだ文明の支配階級がやっていたことと同じなわけです。権力と経済の論理・構図が、自然の道理とは遊離したものになっているからそうなるのですが)。

 話を神に戻して、さっきの話にグノーシス主義的・カタリ派的な彩りを加えると、この「暗く重たい」物質世界は悪神デミウルゴスの所産であって、神のものではありません。そこに侵入して、物質のヴァイブレーションを高め、秩序を生み出し、生命を発生させ、愛をもってその進化を導くということが行われているとするなら、神は「敵の陣地」で戦っているのです。生物進化が「弱肉強食」の外見をとっているのも、この物質世界の性質上、Aを犠牲にしてBがいのちをつなぐということなしにはかなわぬからで、それは「敵地における神の余儀なき戦略」だと解することができます。

 それでともかく、四十億年もかけて、間に数度の「大量絶滅」をはさみながら、生物進化はついにヒトにまで達した。科学的に言っても、生物が繁栄できる条件をもつ惑星というのはごくごく稀な現象のようで、年末ジャンボ宝くじの一等当選確率も問題にならない奇蹟のような確率で、僕らは今ここにいるわけです。過去にいくつもの大文明が滅びたが、幸い人類絶滅は免れ、今や世界人口は73億にも達した。

 しかし、この夥しい犠牲と類稀な幸運によって存続を許されている自称「万物の霊長」は、今何をやっているのでしょう? 旧約聖書の創世記では人間は神にかたどって作られたことになっていますが、現状は悪魔に似ている。この世界を「よきもの」たらしめようとした神の企ては失敗に終わり、悪神デミウルゴスはまんまと裏をかいて、ヒトを自己の道具に仕変えたかのようです。「オレ様の領分に手を出すからこうなるのだ!」という彼の高笑いが聞こえるようです。

 生物学者たちによれば、今は史上五番めか六番目の生物の「大量絶滅」期に入っているそうですが、過去のそれと違うのはこれは人為的なものだということです。いずれ僕らはその高いツケを支払わされるでしょうが、それ以前に、人間のこの文明世界は内部崩壊する可能性が高い。人間の経済システムは自閉的な発達を遂げ、それは自然と遊離してしまいましたが、今はその上に利己的なマネーゲームにふける金融システムが君臨し、それが異常肥大して実物経済を翻弄するようになってしまいました(だから株価が上がっても、景気は一向よくならず、実質賃金は低下を続けるというようなことも起きるのです)。これにはIT、インフォメーション・テクノロジーの発達が大いに寄与したわけですが、ITは同時に、雇用を激減させるように働いている。モノが安くなり、便利になればそれでいいというものではないのです。

 かつては自然と直結していた農業や畜産、漁業のようなものまで、今は機械力とコンピューター・テクノロジーの発展で「工業化」しており、それらがどんな破壊的な影響を周辺環境に及ぼしているかを僕はだいぶ前に『ファーマゲドン~安い肉の本当のコスト』(フィリップ・リンベリー &イザベル・オークショット著 野中香方子訳 日経BP社)で読んであらためて戦慄させられたのですが、TPPなんか、よほどうまくやらないと、「工業化」していない、従って自然に親和的な手法の農漁業・畜産業は価格競争ではそういうものには勝ち目がないので、廃絶に追いやられてしまうでしょう。文字どおり「悪貨は良貨を駆逐する」のです。

 今のような目先の株価に一喜一憂する経済効率至上主義では、こういう問題は解決できない。労働の側面では、テクノロジーによる効率化を追いかけて、ブラックな職場が増えるだけでなく、省力化でまともな雇用の場はどんどん減ってゆく。加えて、水野和夫氏が『資本主義の終焉と歴史の危機』 (集英社新書) で指摘したような「フロンティアの消滅」があるから、帝国主義時代の植民地拡大で、植民地の犠牲の上に自国民の利益増大をはかるというようなこともできなくなってしまった。そうすると国家の内部に「辺境」を作り出して、経済格差を大きくし、それを利用して「国内の貧困層の犠牲の上に富裕層の利益拡大を図る」ことしかできなくなるが、そういう行き方に未来はない。仮にその現状を後追いして、席が減るばかりの椅子取りゲームからはじき出されまいと皆が必死になるとすれば、やっとのこと席にありつけた人間もいずれ無事ではすまなくなるのです。

 僕は無神論者のように見え、実際、冒頭にも書いたようにこういうことは「人間のしわざ」であるから、無神論者と同じように考え、行動しますが、この世界と進化の背後に「見えざる神」が存在するとすれば、僕は存在すると思っているのですが、現代の文明人が神を裏切っていることは明らかです。「そんなのは全くのナンセンスだ」と嗤う人はともかく、「一体人間は何のためにこの世界に出現し、ここにこうしているのか?」とたまには真面目に考えてみたらどうでしょうか? 世界の見方、物事の理解の仕方はかなり変わってくるのではないかと思います。ポケモンGOなんて傍迷惑な現実逃避のオモチャ(仮想現実によって生きた現実から目をそむけさせるのみならず、それまでをも慰みものにしてしまう、という無神経な軽薄さはいかにも現代的です)のおかげで、任天堂のみならず関連企業の株価も上がって「景気浮揚効果」があったと喜ぶなど、アホらしさを通り越して悲惨さすら感じてしまうのです。

宗教と悪

2016.06.19.14:36

 時々、妙な偶然が起きるものです。前回書いた『偉大なる異端』の校正作業をしている最中、週刊朝日で『スポットライト~世紀のスクープ』という映画についての記事を読みました。見たかったのですが、予期した通り、宮崎県内の映画館で上映しているところはない。それで仕方なく、関連する本(末尾註)を読むにとどまったのですが、この映画は、ボストン・グローブという地方新聞が特集記事で、ボストンのキリスト教カトリック教会の多くの神父が常習的に信者の子供たちを性的に虐待(というよりレイプ)していて、教会上層部はそれを知りながら転勤などの措置でお茶を濁し(ということは、新教区でまた新たな被害者が出ることを意味した)、告訴になったものについては和解に持ち込んで被害者とその家族に守秘義務を課して、何十年にもわたって事件を隠蔽していたことを暴いた、その記者チームの活躍を描いたものです。その衝撃はボストンから全米、ひいては全世界に広がり、告発が相次いで、ついにはバチカンを揺るがせるまでになった。ボストンの教区を管理していたロー枢機卿は、「アメリカ出身の初のローマ法王」になるのも夢ではないと目されていた人物だったが、しぶとい抵抗空しく、最後には辞任を余儀なくされたのです。

『スポットライト 世紀のスクープ』公式サイト

「妙な偶然」と言ったわけは、『偉大なる異端』という本は、中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と信仰をテーマとした本ですが、こちらは過去の「カトリックの大罪」を明らかにしたものだからです。当時、カタリ派は人気を集め、ヨーロッパを席捲しかねない勢いになったので、ローマ・カトリックはこれを脅威と見て、十字軍を差し向け、さらには宗教裁判所を設けて(その後もこれは長く存続して人々を苦しめたが、元はカタリ派を標的として設けられたものです)、言語を絶するすさまじい弾圧を加えた。それは「ローマ・カトリックの恥部」として、西洋裏面史の中では有名なものです。その組織性と執拗さ、陰湿さにおいて、ナチスが行ったユダヤ人ホロコーストよりもある意味悪質で、それは神の名において、「イエス・キリストの教えを歪曲から守るため」と称して、行われたのです。世界の宗教で、ここまで組織的かつ大規模な、長期にわたる悪辣な弾圧を行ったものは他に存在しない。子供も含めた大虐殺も各地で幾度となく繰り返されたので、これと較べれば、今のタリバンやIS(イスラム国)なんて可愛いもので、マフィアとそこらのヤンキーぐらいの差は十分あるのです。

 だから僕は、ニュースでローマ法王が「愛と平和」について説教したというような話を聞くと、「極悪非道の宗教マフィアの末裔がよく言うよ…」と、どうしてもそれを思い出して、素直に話を受け取る気にはなれないのですが、こういう過去の話は隠蔽されたり、美化されたりしているために、カトリック信者の人たちはご存じないのです。というより、大方の人が知らない。歴史の教科書には「十字軍」とか「異端審問」とかいう言葉は出てきても、その内実がどのような浅ましいものだったかは書かれていないからです。カトリックはその名の通りキリスト教の「正統」だと思われているから、それがまさかそんなえげつないことを実際にやったとは誰も思わないのです。事実それは行われたので、『偉大なる異端』に描かれているそれは、信頼しうる歴史文献に基づくものなのです。

 しかし、それは昔のことで、今はずっと「まとも」になっているのだろうと、僕は思っていました。時々、カトリックの神父が信者の子供を性的に虐待したというニュースはあっても、それはあくまで「ごく一部」のことで、カトリックの聖職者は今でも独身を義務として課されているので、ホモセクシュアルが他より比率的に多く、そういう者の中には男の子相手にその種の変態性欲を満たそうとして逮捕される者もいるとか、その程度のことなのだろうと思っていたのです。そして教会当局は当然、そうした犯罪に対しては厳罰をもって臨んでいるはずだと。

 ところが、事実は全然そうではなかった。異常と言う他ない数の「変態神父」がいて、公にすると教会の「権威」に傷がつくというので処罰もされずに、場合によっては「昇進」すらしている。被害者に同情して謝罪するどころか、家庭に問題(つけ込みやすい母子家庭などが狙われやすいという)があって、虚偽の申し立てをしていると逆に被害者側を非難して、苦痛を倍加させることすらある(教区の信者の中には「神父様を告発するとは何事か!」と、これに加勢する向きもある)など、低劣の極みです。そして被害者がたくさんいて、事実関係も明白で、どうにも取り繕えなくなると弁護士を仲介させて賠償金を支払って和解し、その代わり絶対に口外しないという誓約書にサインさせ、それが公にならないように組織的な隠蔽工作を行い、それを何十年も続けていたなんて、言語道断です。カトリック教会が「厳しい」のは、たとえば貧困地区で奉仕活動をする老いた修道女が、頼まれて何人かの子供に洗礼を施したとかいう場合で、カトリックは今でも女性聖職者を認めていませんが、無資格でそんなことを行うとは許しがたいと、ただちにクビを言い渡し、着の身着のままでその老女を路頭に放り出すのです。要するに、身内にだけは「優しい」が、レイプされたり性的虐待を受けたりした何千人という子供たちとその家族や、配下の修道女などには平気でそういう冷酷な仕打ちをするわけで、一体それが「イエス・キリストの愛の教え」とどういう関係になるのか知りませんが、カトリック教会の「悪しきDNA」は連綿として受け継がれていると、判断せざるを得ないのです。

 ローマ・カトリックはいまだに「妊娠中絶反対」を唱えていますが、かつてナチスも顔負けの組織的な大量殺人を指揮・監督していたことからすれば、こういうのも僕には馬鹿げ切ったことと思われます。厚顔無恥と硬直した無益な形式主義は、この宗派の変わらぬ特性なのかも知れません。わが国にはキリスト教徒自体が少ないので、こうしてカトリックの悪口を書いても無事ですが、元がアイルランド系移民の町で、カトリック信者が大半を占めるボストンなどでは、その風圧はすさまじいものだったでしょう。裁判所、警察、学校、そしてビジネス界の有力者まで、カトリック信者が多く、そうした「カトリック教会の犯罪」の暴露は、「信仰の敵」「裏切り」「意図的な中傷」とみなされるおそれがあったからです。

 わが国の場合、檀家の数からいえば仏教徒が大半ということになりますが、「葬式仏教」とか「坊主丸儲け」とかいった言葉に象徴されるように、とくに坊さんを仰ぎ見るような態度は一般にはありません。法事で訪れた坊さんが、今日はやけに長居するなと不思議に思っていたら、うっかりしてお布施を渡すのを忘れていた、などという笑い話がよく語られるので、お寺はたいていが世襲で、僧侶は葬式ビジネスの担い手としか見られていないのです。

 ふつうの人は、自分の家が何宗かも知らないことも珍しくない。僕は学生の頃、夏休みに帰省して、寝転がって文庫の『臨済録』を読んでいたとき、母親から「おまえは何でうちの宗派の“お経”を読んでいるのだ?」と訊かれたことがあります。それでわが家が臨済宗だということを初めて知ったというお粗末なので、僕はその後も仏教関係の文献は割と多く読みましたが、それは信仰とはほとんど無関係なので、思想書の一つとして仏教書も読んできたというにすぎないのです。

 しかし、他では事情が違う。哲学者のニーチェが「神は死んだ」と言ってからもうずいぶんたつとしても、今でもキリスト教文化圏における神父の権威と社会的ステータスは、わが国の仏教僧のそれとは異なり、非常に高いのです。それが悪く作用して、この種の犯罪の温床ともなってきたわけで、その意味ではどちらが健全なのかわかりません。仮にわが国の仏教僧で周囲の尊敬を集めている人がいたとすれば、それはそのお坊さん個人の資質、人柄によるので、僧侶だからではない。お坊さんだから偉いとは、別に誰も思っていないのです。お寺は宗教法人として税制面では優遇されているとしても、他の特権はもっていない。だから坊さんが犯罪を犯せば、一般人と同じくすぐに逮捕されるわけで、その際、警察や検察が遠慮するようなことはない。それは健全なことです。

 仏教関係者の側からすれば、権威を失ったのは嘆かわしいことかもしれませんが、僕は特定の宗教団体が大きな権力をもつのは危険なことだと思っているので、これはむしろ喜ばしいことだと考えています。尊敬されたいと思うならそれに見合ったことをすればいいわけで、その場合もおかしな権力を握ってそれを行使することには、僕は断固として反対します。過去の歴史を見ればわかるとおり、宗教と政治権力の一体化が社会に益をもたらしたためしはないからです(例外は、軍隊ももたない平和な仏教国だったために、中国に侵略されてしまったチベットぐらいのものでしょう)。

 どこかに崇拝の対象を見つけて、それに寄りかかりたいというのは人間心理のありふれた特性ですが、そういう心理から脱して、かつ妙な独善性、唯我独尊の思い上がりに落ち込まないことこそ、人類の今後の最大の心理的課題かもしれません。宗教的修行の目標も、そういうところに置かれるべきでしょう。神または真理が普遍的なものであるなら、それは特定の宗教・宗派の専売特許にはなりえないし、そのことを真に理解するなら、自分だけがそれを知っているというような愚劣な増上慢にも陥るはずがないので、それは各宗教の壁をぶち破り、権威や権力を振りかざすことなく、深いレベルでの対話とコミュニケーションを可能にする手立てとなるはずです。そのことを本当に理解するなら、それは権力欲とも結びつかない。そういうものが自分のどこから出ているかを洞察すれば、おのずとそんなものは萎えしぼむのです。

 宗教またはそれに準じるものの信奉者が最も警戒すべきなのは、自己欺瞞です。各宗教はそれ自身の「神学」をもち、カトリックのそれなどは壮大をきわめていますが、直接的なロクな宗教体験もなく、大学受験生のお勉強よろしくそういうものを知的にいじくり回しているうちに、思い上がりだけよけいなハートのない人間になり下がるのです。「神の代理人」という観念自体が愚劣きわまりないものだと僕には思われますが、そういう妙な特権意識が神学校以来の「ホモ文化」に浸されて、おかしな仲間意識、性的嗜好、官僚主義と結びついたとなると、最悪です。

 仏教僧の場合は、この種の己惚れと無縁かというと、必ずしもそうでもない。先頃、僕は父の法事の際、住職が恒例の「道徳訓話」のようなものをするのを聞き、それは実は宗派の何百周年行事とかで寄付金集めをしたいという下心があってのようでしたが、わが宗派は浄土宗などのような他力本願の宗教ではなくて、“高級”な自力本願の宗教なのだと自慢げに言うのを聞いて、そもそも仏教というものが根本からわかっていないなと呆れた(それは「謙譲の美徳」に欠けるという意味ではありません)のですが、こういうのも表面的な教理の半端な理解に基づくので、この程度の坊主にお経を上げてもらっても功徳なるものは期待できないなと苦笑せざるを得ませんでした(僕がそれで別に憤慨もしなかったのは、父は生前の行いに見合ったところに行っただろうと思っているので、基本的に坊主は関係ないと考えているからです。こういうのはあくまでも慣例行事にすぎず、あえて反対するほどのものではないと思っているから、それにおつき合いしているだけです)。

 しかし、先にも見たように、わが国では特定の宗教、宗派が大きな権力をもっていないからまだいい。宗教家のおかしな特権意識や悪徳が増長するのを、それが防いでくれているのです。日本人はソクラテスの言う「魂の世話」を外部の権威に依存しなくなっていると言えるので、やるならそれは自分でやるしかないと思っているのだとすれば、西洋社会よりいくらか「進歩」していると言えるのかもしれません。いや、ただ宗教に無関心なだけだ、と言ってしまえばそれまでですが、偏狭な宗教教育(戦前の国家神道によるそれもその一つです)を受けて、それがおかしな方向に水路づけられてしまうよりはずっとマシなのです。

 僕自身は実家が臨済宗で、『臨在録』は最も好きな禅語録の一つだとはいえ、別にそれに帰依しているわけではありません。カタリ派の本を訳し、その思想と哲学には大いに共感する者だとはいえ、「カタリ派復興運動」なんてものを組織するつもりもない。仮に僕が元カタリ派であったとしても、それは七百年も昔のことなのだから、このガーダムの『偉大なる異端』を日本語に訳し、出版できたことで、「カタリ派ミッション」は終わったのです(そのことには、夏休みの課題を期限遅れでやっと提出した子供のような安堵を感じているのですが)。

 仏教だけでなく、今は他の宗教団体、創価学会や天理教、PL教団、霊友会等々の宗教も、信者が高齢化して、入信者は減り続けているようです。あの、死者のみならず生者の「霊」にまで自分に都合のいいことを語らせるので有名な「霊言教祖」の幸福の科学なども同様でしょう。このまま貧富の差が拡大を続けて、生活苦にあえぐ人がさらに増加すれば、慰めと励ましを求める人々が増え、宗教団体は再び勢いを盛り返すのかもしれませんが、組織宗教の衰えは、宗教のエッセンスは組織や団体によって伝達されるものではないと考える人々が増えてきたこともその一因なのかもしれません。

 とくに階層性の強い、男尊女卑丸出しの、官僚的な組織であるローマ・カトリックのような組織は、西洋世界においてすら、その硬直性を嫌う人々にそっぽを向かれることが増えると思われるので、今回映画の題材となったこの「現代カトリックの犯罪」も、相も変らぬカトリック教会のそうした独善的かつ硬直した体質が災いしたものと言えます。それはなかば以上、必然的なことだったのです。

 滅びるべきはカタリ派ではなく、むしろカトリックの方だったのではないかと、僕は今でも考えていますが、今さら言っても詮ないことながら、そうすればその後のヨーロッパの文明と社会の性質は今とは相当異なったものになっていたでしょう。カタリ派は権力志向的な性質をもたず、その組織はシンプルで、出自によって差別せず、男女が平等に扱われる、民主的な宗教であったからです。

 先にも言ったように、僕はカタリ派を再興することなど毛頭考えていませんが、それは「新しい宗教」のモデルになる性質をもっているという気はするので、それとよく似た宗教が、いつの日か現われて、人々の支持を集めるようになるかもしれません。そこには指導者はいても、派閥や権力的な上下関係などはなく、民主的な「学びと癒しの場」となるのです。当然、それは世俗の権力と結託して人々を支配しようとしたり、他の宗教を弾圧するようなことは決してしないでしょう。おかしなものを介入させないだけの明晰な知性と、澄んだ心を、それはもっているのです。それが腐敗・堕落を防ぐ。

 こう書いたからといって、「うちこそそういう宗教だ!」と、僕のところに勧誘に来ないでくださいね。僕は一人で足りている人間なので、何とか教の教祖になるつもりも、その信者になるつもりも全くないからです。個人としてのおつき合いはしますが、組織や団体とは関わらない。それが、ソクラテス流に言えば、「わがダイモンの命ずるところ」なのです。


※ 僕が読んだのは、ボストン・グローブ紙『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(有澤真庭訳 竹書房)という本です。原題を忠実に訳すと、ボストン・グローブ調査スタッフ著『裏切り—カトリック教会の危機』となりますが、映画に合わせて同じタイトルにしたのでしょう。引用もして、もっと詳しい話を書くつもりでいたのですが、よく物を忘れる人間で、塾に置き忘れてきたのでこうなりました。
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