クリシュナムルティと二重人格

2011.06.13.16:30

 今回は久しぶりにクリシュナムルティについて書きます。これはクリシュナムルティに関心のない方にはどうでもいい話でしょうし、クリシュナムルティ読者には不快なものになるのは確実なので、どうしようかな、とちょっと迷いましたが、クリシュナムルティの翻訳に関係したことのある者としてはこれを紹介しておくのは一種の義務みたいなものかなと思ったので、書いておくことにした次第です。
 今月の2日に、“Lives in the Shadow With J. Krishnamurti”by Radha Rajagopal Slossという本が届きました(『クリシュナムルティとの隠された生活』とでも訳しましょうか)。前々からこの本のことは気になっていたのですが、人に聞いた話から「精神にいくらか変調をきたした古い友人の一人である一女性がクリシュナムルティにあらぬ非難を投げかけ、それを真に受けた娘がそれを本にまとめたもの」という程度の認識しかもっていなかったので、ほったらかしにしていたのです。しかし、読みもしないで勝手に決めつけるのも何だと思ったので、夏場の読書用にと和洋取り混ぜて数冊取り寄せることにした本の中に、これも含めておきました。そしたら、予想に反して早く届いて、えらくボリュームのある本なのにびっくりさせられた(大型の版型で、本文だけで323ページもある!)のですが、読み始めてまたびっくり、低レベルのつまらない暴露本ではないことがわかったからです。読みながら、自分でも表情が次第に険しくなっていくのがわかったのですが、途中からアンダーラインまで引き出すことになって、丸一週間かけて、ようやく読み終えました。

 正直、唖然、呆然とはこのことです。同時に、どうもわからないなとひそかに疑問に思っていたところに照明が当てられて腑に落ちたという感じもあって、心境は複雑なのですが、僕がもしもクリシュナムルティの熱烈な崇拝者だったなら、大変な精神的打撃を受けることになっていたでしょう。
 だから、そういう人はこの本を読むべきではないし、今僕が書いているこの文の先も読まない方が賢明かも知れません。「まさかそんな…」という話の連続になるからです。

 この本についての向こうのアマゾンのレビューなどには「バイアスがかかっている」という批判が書かれていますが、ルティエンスの伝記にも、別方向からのバイアスがかかっていたことは、両方を読んだ上で公平に判断するなら、等しく真実だということになるでしょう。
 僕がルティエンスの伝記を読んで釈然としなかった点の一つは、最も古くからの盟友で、クリシュナムルティの活動の実務面の礎石となっていたラージャゴパルとの確執でした。それは長期にわたる裁判沙汰にまで発展したのですが、何でそこまで関係がこじれてしまうことになったのか? ルティエンスの説明には何か不自然で不十分な印象を受けていました。ラージャの側からする、たんなる嫉妬と依存の入り混じった心理の産物だとするにはどこか無理がある。裏に本当は何かあったのではないか、という一抹の疑問が残ったのです。この点、この本の著者の説明の方がはるかに腑に落ちる。
 読みながら、包括的な論点整理をあとで試みようと思っていたのですが、アンダーラインの数が多くなりすぎてしまって、それはもはや不可能です。
 だから、とめどない書き方をすることにならざるをえないのですが、原書を読んでいない人でも、これがクリシュナムルティとロザリンドという女性(最初のあの有名な“プロセス”と呼ばれる現象は彼女がそばにいるときに起きた)の性的関係の暴露を含むものだということぐらいはご存じでしょう。それは言いがかりでも何でもなく、全くの真実であった――それだけはたしかだろうと、僕はこれを読んで確信しました。ロザリンドはラージャゴパルの奥さんだったので、クリシュナムルティは俗に言う「間男」、しかも親友のそれだったということになるのです。

 彼らは長く三人で同じ家を住居とし、のちにはこの本の著者であるラーダが生まれ、四人構成の奇妙な「家庭」を形成していました(子供時代の著者ラーダと子供好きのクリシュナムルティの交流の描写には微笑ましいエピソードが多く含まれていて、著者が一面的なものの見方しかできない人ではないことを示しています)。
 もしもクリシュナムルティの弟ニティヤが生きていれば、ロザリンドと彼とは相思相愛の仲だったので(性的な関係はなかった)、その後の展開は違っていたでしょうが、その後ラージャが彼女にプロポーズして、彼女はそれを受け入れ、結婚したのです(若いときの写真を見ればわかるとおり、彼女は性格がいいだけでなく、気品のある美人だったので、彼ら三人は一様に彼女に惹きつけられたのです)。しかし、ラージャは仕事の虫で、クリシュナムルティの活動が全面的にそのおかげをこうむっていたのは言うまでもありませんが、「君と結婚したら、仕事一途のこういう生活を改める」という約束を守ることができず、すれ違い生活が続いていたのです。
 そして、娘のラーダが生まれると、宗教的で生真面目なラージャゴパルは性的交渉は子供をつくるためのものだから、それはこれで終わりにしようと浮世離れのしたことをロザリンドに言い、それは彼女を驚かせましたが、その通りになってしまったのです。
 それでしばらくして、クリシュナムルティが彼女の性的パートナーを勤めるようになったのですが、クリシュナムルティの奇怪なところは、それがスタートする以前から、ロザリンドのベッドに入って、甘えて幼児みたいに抱かれることを求めたりしていたということです。すでに三十歳を過ぎていたのに、彼にはそうした「幼児返り」の奇癖と、相手にそれを受け入れさせる、女性の母性本能を掻き立てるような何かがあったのです。それがそのうち「大人の関係」に発展し、それは彼が三十七歳のときのことであったと明記されています。それが、この「世界教師」が“童貞”を捨てた年齢なのです(ルティエンスは伝記の中で、彼の教えの中で最も大きく変化したものの一つは性に対する考え方だったと述べていますが、その背後には彼自身のこうした体験があったわけです)。
 これだけでもかなりギョッとさせられる話ですが、問題はこれから先なのです。彼女はやがてクリシュナムルティの子供を宿す。誰の子であるかについては疑問の余地はありませんでした。クリシュナムルティ以外の男関係はなかったからです。しかし、最初の出産のときに、これ以上の出産は母体を危険にさらすことになると医師に警告されていた彼女は堕胎を決心します。真相を知っているクリシュナムルティはまめまめしく彼女を気遣い、今後は避妊に気をつける(コンドームを忘れず着用する?)と約束するのですが、しばらくたってまたしても妊娠、そして中絶を余儀なくされます。
 こうしたことは、不在がちの夫ラージャゴパルは全く知りませんでした。そうして、この秘密の関係は二十年以上にわたって維持されることになったのです。

 これが破局を迎えるのは、中絶事件のためではなく、彼が新たな“愛人”をつくったことによります。五十代になったクリシュナムルティは若い人妻である、絶世の美女に出会って、夢中になる(このとき、その問題についてはまた後で触れますが、不思議なことにまたあの“プロセス”が始まるのです)。それはナンディーニ・メータ(本になったLetters to a Young Friendは元々彼女宛の手紙)でした。
 それがロザリンドにばれたのは、うかつにも彼がロザリンドをナンディーニの名で呼んでしまったからです。本にはそこまで露骨に書かれていませんが、それはベッドでの睦言の合間のことだったのでしょう。男はそういう間抜けなことをしてしまうことがままあるので、それが一度ならず二度も繰り返されたとき、ロザリンドは「新しい女ができた」ことを確信して、「一体それは誰なのよ!」と彼に詰め寄ることになったのです。
 こういうのは、世間には珍しくないお粗末の一つですが、人の鑑たるべき「世界教師」と目される人物の行いとしてはかなり嘆かわしいことです。もっと嘆かわしいのは、彼が「君以外には誰もいない」と苦し紛れの陳腐な言い訳をし、その後もナンディーニ宛に書いたという手紙の写しを見せて、「自分には古くからの愛人がいて、彼女を裏切ることはできないから、空しい希望を抱かないように」と書かれたそれを、確実に相手に届く手立てを講じて出すと言いながら、そんなことは決してしなかったらしいことです(どうしてそれがロザリンドにバレたのかという委細は省略)。
 この後ろの虚偽行為にいたる以前に、しかし、長年の愛人の裏切りに傷ついたロザリンドは、夫に「ロンドンでのクリシュナムルティの愛人の噂」について相談します。肉体関係があるかどうかまでは知らないが、クリシュナが新たな愛人を見つけたのは確実だと。たしかにそれは事実とすれば喜べるような話ではないが、彼はそれまでもクリシュナムルティがしでかしたお粗末の尻拭いをするのも仕事の一つとしていたので、何で彼女がそんなにそのことを気に病むのかと不思議に思います。
 と、突然、彼女は思いあまって、これまでのクリシュナムルティとの自分の関係の一部始終を話してしまう。ラージャが途方もないショックを受けたのは言うまでもありません。いくら何でもそれはないだろう、自分の妻がクリシュナムルティの子を宿して、中絶するなどということを、それも一度ならず、していたとは!
 このことを、翌日パリに来たクリシュナムルティを散歩に誘って、ロザリンドは話します。クリシュナムルティはそれを聞いて震え上がり、怒ったものの、しばらくして彼はロザリンドに、ラージャと直接話をして謝罪し、関係を修復するようにすると約束します。しかし、あれこれ言い訳をして、それをいつまでも引き延ばすのです。
 こういうことがありながらも、彼はロザリンドとの肉体関係はまだ手放そうとしなかったらしく、読み進むと、「五十八歳で、クリシュナは二十年も前に始まったのと同じ肉体関係を求めた」といった記述が出てきます。その夫であり、長年の親友でもあったラージャゴパルに知られてしまった(しかも直接申し開きをすることは避け続けた)後でも、まだそんなことをしているのです。

 何とも情けない…。クリシュナムルティが愛人をもち、肉体関係をもっていたということそれ自体は、僕にとっては別にショッキングなことではありません。彼はしばしば「僧侶的禁欲」を偽善、抑圧として批判しているからです。彼は人がなぜ性行為に執着するのかについて述べています。それは「一時的な自己の完全な忘却」がもつ魅力のためなのだと。僕はそれを読み、訳しながら、これは彼の言う「代理体験」によって得た洞察なのか、それとも自分自身の体験から来たものなのか、どちらなのだろうと思いましたが、「代理体験」ではそこまではわからないだろうという気がしていたのです。
 彼はこうも述べています。ベッドを共にするかどうかは問題ではない、寝るか、やり過ごすかしなさい。問題はそれにまつわるゴタゴタ(人間関係や執着の)をいつまでも引きずることにあるのだと。
 僕はこれに完全に同意します。しかし、執着や葛藤、摩擦を伴わない、後腐れのない男女関係などというものは、現実にはほとんど不可能です。映画の007のジェームズ・ボンドみたいにスマートにはいかないのです。それは自分の感情だけでなく、相手や関係者たちの思いや反応にも十分配慮する必要があるからです。ましてやそれが自分のために長年尽くしてくれている親友の妻ともなれば、なおさらでしょう。人間関係の葛藤はさらに深刻、複雑なものとならざるを得ないからで、それは関係をもつ相手の選択としては最悪のものだと言えます。その程度の察しもつかないようでは、ただの馬鹿にすぎません。
 果たしてそれは露見して、彼は窮地に陥ったのですが、クリシュナムルティのような“人生の達人”ともなると、愛人をもち、それが親友の妻という困難なシチュエーションであっても、そこをうまく切り抜けられたのかといえば、上に見たとおり、嘘と言い逃れの連続で、相手をさらに傷つけ、事態を悪化させてしまうのみだったというのだから、何ともはや…です。それでいて、人間関係や葛藤についてわけ知り顔にあれこれ能書き垂れるとは、そこらの恥知らずのオッサン以下だと言わなければならず、ロザリンドやラージャに偽善者呼ばわりされるのも無理はないのです。

 まさか、そんなことはありえないと、クリシュナムルティ読者の多くは思いたいでしょう。これはとんでもないでっち上げに違いないと、そう考えるのです。僕だってできればそう思いたい。しかし、著者はそれを傍証する自分の母親宛のクリシュナムルティの大量の手紙を所有しているようなので、そう解釈するのは難しいのです。この本に彼の手紙の直接の引用が出てこないのは、著作権法が改正され、私信であっても書いた本人または著作権保持者(彼の場合は財団と思われる)の許可なくしてはそれはできなくなり、その許可が得られなかったので、事前のその計画は放棄せざるを得なかっただけなのです(インターネットで読むことができるこちらの著者インタビューも参照のこと)。

 こういう話は、「世界教師」への一般の信頼を揺るがすのに十分ですが、類似のことは、具合の悪いことに、その解釈は色々可能だとしても、他にもいくつもあったようなのです。読んでいて僕にショックだったことの一つは、彼の学校運営をめぐるひどい不手際です。校長の頭越しに勝手に人事を決めて現場を混乱させ、強い不信を抱いた校長が辞任したり、外から勝手な批判だけして、困難な立場に追い込まれた学校スタッフからの直接の話し合いの要請には応じず、事態をこじらせてしまったりする。こうした中で、古くから彼の活動を支えてきた人たちが、呆れて離れ去るというようなことが起きる。人間関係に対処する上での無能さ、無責任さがいかんなく示されている話で、これは新愛人騒動のときに見せたのと同じ反応です。自ら火種を作っておきながら、事がややこしくなると、現実への直面を避け、言を左右にしてそこから逃れようとする。
 「問題から逃避せず、じかに現実に直面せよ」というのは彼の教えの中で重要なものの一つですが、それはご本人にはまるで守られていなかったということになります。彼はあるべき学校の姿について「美しい理想」を語っています。しかし、現実はきれいごとではすまないので、そこには様々な困難な問題が存在します。僕は“神のごときクリシュナ”はそのへんのことはよく承知していて、その上でそういうことを言っていたのかと思いましたが、実際には面倒なことは全部人に押しつけ、その苦労も十分わきまえずに、勝手な御託を並べていただけなのだということになります。“いいとこどり”だけしたがる虚栄心オヤジ――ここから浮かび上がってくるのは、彼のそんな姿です。

 神智学協会からの離反についても、初期の彼への追随者はほとんどが神智学協会のメンバーだったので、うまくそれを利用したのだと見る著者の観点に殊更な悪意を見ることはできません。彼は女性の母性本能にアピールする自分の魅力をよく承知していたので、会員に絶大な影響力をもつベサント夫人がひどい苦悩と葛藤にさいなまれながらも自分への支持を撤回できないことを見抜いていたのでしょう。一方、リードビーター(レッドビーター)の方は、首尾よく「悪者」に見せることに成功した。クリシュナムルティの神智学的な教義への反発と嫌悪は彼自身から出たものですが、仮に神智学協会による「世界教師の乗物」という認定と、それが周囲に与えた漠とした大きな期待がなかったなら、彼は説教者として一人立ちすること自体できなかったでしょう。母体は切り捨てながらも、そのあたりの“恩恵”はこれをうまく利用したのです。

 名門ケンブリッジ大学に学び、大学教授にもなれたであろう、文学的・思想的な豊かな才知と、すぐれた財務・実務能力を併せもつラージャゴパルは、クリシュナムルティの独立段階での組織と運営の柱石となる役割を果たし、その後も頼れる右腕であり続けたのですが、すでに見たように、クリシュナはその後も彼に面倒な仕事は全部押しつけただけでなく、その妻を寝取り、ロザリンドとの約束にもかかわらず、直接話し合って関係を修復することはしないまま、やがては彼相手に裁判を起こして、追い落としにかかることになるのです。
 ルティエンスの伝記では、このあたりのニュアンスは全く逆で、「ラージャゴパルは独裁者になった」と書いていますが、元々組織運営の面倒なことはラージャに丸投げし、自分は理事になることさえ拒否していたのはクリシュナムルティの方だったのだし、ラージャ側の悪感情から、必要経費すら彼に渡さなくなっていたというのは虚偽で、クリシュナムルティの方で周りにそう思わせるように仕向けただけにすぎなかったのだとこの本の著者は主張し、その証拠も示されています。
 クリシュナムルティにとって好都合だったのは、彼の取り巻きはその頃、古くからの関係者が大幅に減り、“世代交代”していたことです。つまり、以前からの詳しい事情を知る者はほとんどいなかったし、ましてやロザリンドとの関係については、誰も知らなかった。これは怪しむに足りません。ロザリンドは誠実な、口の堅い人間だったし、誰も「世界教師」がそんな破廉恥なことをしているとは可能性としてすら思いつかないので、気づかなくても何ら不思議はないからです。
 訴訟沙汰に心を痛めたロザリンドは、何度もクリシュナムルティに、ラージャと直接会って話をするよう哀願します。しかし、そうすると約束しながら、クリシュナムルティは一度もそうしなかった。露見した間男である彼は、当然ながらラージャゴパルと一対一で会うことを極度に恐れていました。だから、代理人を送ったり、取り巻きと一緒の会見を用意したりするのですが、これにはラージャの方で応じませんでした。
 これはあたりまえの話です。別にラージャが意固地すぎるからではない。代理人相手では言いたいことは言えないし、取り巻きと同席の場合でもそれは同じです。もしもロザリンドとクリシュナムルティの二十年にわたる情事や彼女の複数回にわたる妊娠中絶の話が外部に漏れれば、どうなってしまうか、それは火を見るより明らかだからです。彼はロザリンドを心ない中傷と好奇の目から守らねばならなかった。実質的な夫婦関係はとうの昔になくなっていて、また彼は彼女の了解も得て、のちに別の女性と結婚することになるのですが、信頼関係は残っていたし、それとこれとは別問題です。
 周りの人間には、クリシュナムルティとラージャゴパルの関係がどうしてここまでこじれてしまったのか、わかりません。ルティエンスはラージャが憤懣やるかたない顔つきでクリシュナムルティのことを「偽善者だ!」と非難したというエピソードを書いていますが、クリシュナムルティが人の陰口を叩くのはしょっちゅうだったとはいえ、ラージャはめったにそんなことはしない謹厳実直な人物です。しかし、彼がそう言いたくなるのはわかります。けれども、ルティエンスはクリシュナムルティの情事の件と、それにまつわる彼の卑劣な対応の数々については何も知らない。だから、嫉妬と愛憎の入り混じった感情のせいだろうというような曖昧な仮定に頼らざるを得なくなるのです。
 この本の著者ラーダは、クリシュナムルティ側が起こした訴訟の背後には、クリシュナの「自分に不都合な文書を自分の支配下に置きたい」という思いが隠れていたのだろうと推測します。そこまではともかく、なぜ両者の関係がそんなにこじれてしまったのかという理由は、ルティエンスの説明よりも、こちらの説明にはるかに分があるように思われるのです。この本をじかに読んでいない人には、僕のこの説明だけでは不十分に感じられるでしょうが。

 こういう話は、世間的には珍しくないことです。宗教団体だけでなく、風雲児と呼ばれるような会社経営者と忠実なその配下との間の関係などにも、こうしたことはよく見られます。大方の場合、その教祖や経営者には不思議な魅力とカリスマ性がある。しかし同時に、しばしば性格破綻の強い一面をもっていて、彼を助けた幹部や協力者には誠実で能力的にもすぐれた人たちが何人もいて、御大の成功は彼らの働きに大きく依存するのですが、秘密を知られているだけに、自分の名誉名声が何より大事なものになってきた彼にはそのうち彼らが邪魔になってくるのです。そこで、何かの機会を捉えて、巧妙な手口でパージが行われる。多くの場合、世間の人は彼の側からアナウンスされる一方的な説明を信じて、真相は闇に葬られるのです。
 僕にとって、クリシュナムルティは最もそんなことがなさそうな人に思われました。僕は翻訳の仕事を通じて、関係者にウンザリさせられることはいくつもありましたが、クリシュナムルティその人は決してそんな裏表のある人ではなかっただろうと信じていたのです。彼も人間なのだから性格的な欠点はいくらもあっただろうが、誠実さ、正直さにおいては欠けるところのない人だと思っていたのです。しかし、この本を読んで、それもまた幻想にすぎなかったのではないかと思わざるを得ませんでした。著者の見方に全面的に賛成するとまでは行かなくとも、少なくともここに述べられた事実の摘示には大きな説得力があるからです(ルティエンスはこの本に対する反論を書いたそうですが、彼女も知らなかった事実がここには多く含まれているはずなので、そうしたものまで否定することはできなかったでしょう。事柄の性質からして、それを知らなかったのは伝記作者ルティエンスの落ち度ではありませんが)。

 例の有名な“プロセス”という現象についても、著者はかなりシニカルな見方をしているので、それにも触れておきましょう。言われて、僕も「たしかに…」と思ったのですが、それはなぜか美しい若い女性が同席しているときにかぎって始まるのです。最初はロザリンド、次はププルとナンディーニの姉妹が居合わせたときです。これはたんなる偶然なのでしょうか?
 そこに出現する“ある力”は、“純粋な乙女”の立会いを必要とする。しかし、心が美しいだけでは駄目なので、見た目も美人でなければならないのです。
 たしかにこれは少し不自然です。クリシュナムルティが美人好みであったことはたしかで(尤も、男はみんなそうですが)、彼が親しくしたのは初恋の女性へレン・ノーデから始まって、メアリー・ジンバリストや神智学協会のラーダ・バーニアにいたるまで、とびきりの美人ぞろいです。
 クリシュナムルティが女性に求めたものは、美貌や無垢さだけでなく、強い母性的資質でした。それはロザリンドとナンディーニの両方に当てはまる。そういう女性を前に、彼は“プロセス”現象を起こし、そのとき彼は全くの無力状態になるので、全面的な女性の看護を受けられるのです。彼はそれによって女性の大きな同情と献身をかちとる。
 著者は、それは一種のてんかん発作のようなものではなかったのかと示唆しています。最初のプロセスについての情報は全面的に弟ニティヤの報告に依拠します。この中でロザリンドが夢うつつで神聖なものを見ているかのように「彼が見えますか?」と言い、ニティヤはそれを崇高な存在が出現した証拠とみなしますが、ロザリンドは実際はそのとき眠ってしまっていたのであり、それは寝言で、ニティヤがそう解釈したに過ぎないのではないかと言うのです。実際、ロザリンドが目覚めたときそれについての何の記憶ももっていなかったというのは、ルティエンスの伝記でも触れられている事実です(ロザリンドその人は、それを特別神聖な出来事とみなしたわけではなかったようです。彼女は別して神秘好みの人間ではなかったのです)。
 そうすると、あのときオカルト的な“外科手術”に携わっていた複数の見えない存在とは何なのか? 彼らはそのとき、神智学教義の大きな影響下にあり、例の“マスターたち”の実在を信じていました。ことにニティヤはそうです。
 著者ラーダはここに、一種の幻覚作用の介在も示唆します。神聖な現象を病的な症状に貶めるのかと叱られるかもしれませんが、古来、てんかんは「神聖な病」とされてきました。マホメットが神のヴィジョンを見たのも、てんかん発作と関係しただろうと言われるし、小説家ドストエフスキーも、てんかん持ちでしたが、その発作のときに体験される深い神秘感覚について語っています。
 僕はこの本を読みながら、「解離性人格障害」のこともついでに思い出してしまったのですが、話がややこしくなりすぎるのでそこまでは広げないことにして、無意識の強い感情がそうした発作の発現に関係することはありそうなことです。

 その後の軽微な“プロセス”現象も、マイルドになったてんかん発作の断続的出現と見ることは可能かも知れません。彼の『ノートブック』のその描写は、専門家に見せれば、受け取り方はずいぶん違ったものになるでしょう(彼が十歳のときに亡くなった母親は、てんかんの持病をもっていたと、この本には書かれています。著者はおそらくそこから推測したのでしょう)。

 ミもフタもない話に思われるかもしれませんが、その可能性はある、と僕は考えるにいたりました。神秘体験においては、その人の思想や観念体系による期待(投影)だけでなく、体質が大きな働きをします。クリシュナムルティの「私にはエゴがない」という言葉を、もはや僕は信じませんが(尤も、それは元から僕にはさして重要なポイントではありませんでした。エゴの根絶ではなく、エゴからの自由を説くものと解さなければ、ふつうの人には意味のあるものとはならないからです)、彼には体質的に、一貫したものとしてパーソナリティが成長し、根をおろすということがなかったのではないかと思われるのです。それは霊媒体質の人には珍しくないことで、統一的な堅固なパーソナリティというものが欠落しているから、「媒体」として働くこともそれだけ容易になるのです。
 その意味で、クリシュナムルティにはたしかに「器・乗り物」としての素質があった。しかし、彼の幼児的なエゴ、パーソナリティは、未熟なものとしてそのままそこに残っていて、私生活であれこれ矛盾、混乱した行為を惹き起す原因となり、それが周囲の人を深刻に悩ませることになったのです。
 変わらぬ深い愛情をもって長く彼の母親役を勤めたエミリー夫人(彼の伝記作者ルティエンスの母親)は、死ぬ前にこう言ったそうです。「クリシュナは天性の嘘つきa congenital liarだが、それでも自分はつねに彼を愛するadore」と。

 人格、パーソナリティというものは、元々一貫したものではなく、通常の人の場合でも多面的なものです。それが相互の連絡のないバラバラなものになってしまうと、いわゆる「多重人格」となる。そうなると、A人格の記憶をB人格は知らない、というような奇妙なことが起きます。それぞれが独立したものとして出現するのです。
 この本の著者はクリシュナムルティに「交代人格」をいくらか疑っているようです。言うことも、様子も全く違ってびっくりさせられた、という経験をロザリンドは何度かしていたようだからです(それは彼女に限ったことではなさそうですが)。
 これに関連して、僕に想起されたのは、彼の子供時代の記憶の欠落(この本の著者はそれも彼お得意の自己演出の一つではないかと疑っているようですが)のことです。彼の子供時代はお世辞にも幸福なものとは言えませんでした。最愛の母親も十歳のときになくしている。そして彼には、先にも見たように成人してのちも「幼児返り」の奇妙なふるまいがあったのです。
 これを彼は「自我の欠落」によるものと説明していますが、むしろ真相は、そうした不幸な環境と彼自身の特異な体質のために、通常の健康な自我形成が阻害されて、幼児(十代になっても彼は幼児的だった)が彼の心のどこかに記憶もろとも分離したものとして置き去りにされてしまった、ということなのかも知れません。彼が子供時代の記憶をほとんど思い出せなかったのは、通常の順調な人格形成が行われずに、幼児人格がその記憶を抱えたまま、中心的なパーソナリティとは分離したかたちで存在し続けたからかも知れないのです。
 これは彼の“プロセス”からオカルト的な解釈をはぎとって見直すなら、必ずしも荒唐無稽な考えではありません。そこには幼児のそれを含む、別々の複数人格の出現を確認することができるからです。

 彼が「自我の終焉」「時間の終焉」を説きえたのも、こうした素質と関係するかも知れません。なぜなら、そのような人は強い自己同一性というものをもたず、換言すればパーソナリティとのゆるいつながりしかもたないので、その背後の地平に、たやすく出られるという特性をもっているからです。無時間的な、無自我的な体験は、そのような人にとってはかなり容易なことです。それがてんかんの発作であったのか、それとも何か他のものであったのかはわかりませんが、“プロセス”はこれに促進的に作用した。
 ある意味でそれは原始心性のリバイバルです。鉱物などの無機物まで含め、すべては躍動する一つの生命のうねりと感じられる。心は自分の外に出て、遍在する一つのものとして感得されるのです。そのとき、真にリアルなものは通常の、自他分離的、二元的な世界理解に基づくこの世界ではなく、分離のない、主客のないその世界そのものなのです。
 だから、クリシュナムルティのそのあたりの描写に嘘はない。彼は見られたもの、感じ取られたものをそのまま言葉にしようとしたのです。そして、そこにこそ絶対的な自由と幸福があると感じた。そこに偽りはなかったのです。

 しかし、一方で彼の人格は心理学的には「パーソナリティ障害」と呼んで差し支えのないような病的な分裂を残していた。この本の中には時々、関係者の言葉の引用として、dual personality(二重人格)とかtwo Krishnas(二人のクリシュナ)という表現が出てきますが、それは不気味なものとして、周囲の人たちには感じられることがあったのです。
 そして、パーソナリティレベルでのその病的な分裂は、おそらくご本人には真に気づかれることはなかったのでしょう。子供時代の記憶がないというのは、上に見たように分裂したかたちで存在する「子供人格」の存在が意識化されなかった、ということだったかも知れないからです。だから、未熟なパーソナリティが仕出かすことに、彼のコントロールは及ばず、それに対して真の責任感情をもつこともできなかったのです。しかし、未熟な彼のその人格または心的要素が仕出かしたことの結果は、否応なくはね返ってくる。そこで彼は狼狽して、またもや無責任な愚かしいふるまいをするが、瞑想や講話の際に働く、彼の言うintelligenceは奇妙にもそれと関わりをもたないのです。
 むろん、これはあくまで単純化した一つの作業仮説にすぎませんが、だとすれば、思慮深く愛情に富むクリシュナとは違う、利己的で軽薄な、幼児的自己中心性を核とするクリシュナがいた、ということも了解可能になるのです。

 しかし、仮にも“悟った”人間にそんなことがありうるだろうか? それはありうると僕は思います。いわゆる「悟り」や「根源的洞察」なるものは、パーソナリティの地平を超えたところに生じるので、それは必ずしも人格的な成熟や統合を保証してくれるものではないからです。両者はイコールではなく、パーソナリティの次元には病的な問題を抱えながら、そうした体験が生じるということは、あっても不思議ではないのです。クリシュナムルティ自身の言明にもかかわらず、子供時代の彼の不幸な経験が、パーソナリティ形成に何らかの病的な痕跡を残した。彼の女性への接し方――「幼児返り」の奇癖やマザコン的な愛着の仕方――からも、そういう推定は可能になるのです。
 もう一つの可能性――それは、彼が本当に人知を超えた何らかの叡知的存在のvehicle(乗物)であったということです。但し、それは彼の未熟なパーソナリティが私生活でしでかすことには介入せず、その責任は満足な問題解決能力をもたない生身のクリシュナの手に委ねられた。当然、彼は責任あるまともな対応は取れず、困ると嘘やごまかしを重ねる羽目になって、周囲の人間が苦しめられたのです。

 最後に、以上見てきたことを、もっと常識的な、別の角度から考えてみましょう。どんな人の人生もきれいごとではすまず、そこには色々な過ちや蹉跌がつきものです。すぐれた人物も、元からそうだったわけではないし、その人がその人“らしく”なった後でも、失敗はつきものです。
 クリシュナムルティはいわば“スピリチュアル愛好者たちのスーパースター”でした。このあたりは映画スターやテレビのアイドルと変わらない。早い時期から24時間好奇の目にさらされ続けるというのは想像を絶するほどつらいことでしょう。彼はスピリチュアルの分野におけるマイケル・ジャクソンみたいなものだったのです(彼は表向きの言葉とは違って、有名人や映画スターが好きだった、とも著者は述べています)。
 ロザリンドとの関係については、彼は元から彼女が好きだったのでしょう。しかし、ロザリンドは弟のニティヤに関心があって、クリシュナムルティにはなかった。彼は二人の思いを知っていたので、心中は複雑で、あの最初の“プロセス”がてんかんの発作だったとすれば、葛藤と緊張状態の中で無意識がその引き金を引いた、と見ることもできるかも知れません。当時の彼は、神智学の教義には強く反発していたとはいえ、“純潔”主義は彼の心に強く根をおろしていたようで、しかも“未来の世界教師”という立場ともなればなおさら、恋で弟と張り合うわけにもいかず、身動きが取れない状態にあったのです。フロイトの言う“リビドーの圧力が高まる”条件を、すべて満たしていたのです。
 ところが、「トンビに油揚げ」みたいな感じで、弟が亡くなった後、今度は伏兵ラージャゴパルにロザリンドをさらわれてしまった。その後しばらくたって“チャンス”はめぐってきたのです。露見するおそれも少ない。その誘惑に抗し切れなかったというのは、人情の自然として無理からぬことです。
 ところが、五十代になったある日、不幸な結婚に苦悩し、自分を尊敬のまなざしで見つめる内気な若い美人(ナンディーニはperfectly beautifulであったと、直接顔を合わせたことのある著者は評しています)が出現し、彼の心は千々に乱れてしまう。これまた十分理解しうる話ですが、“糟糠の妻”ならぬ糟糠の愛人にそれを見抜かれ、激しい嫉妬を買って、あとはおきまりの修羅場に落ち込んでしまうのです。
 この本に出てくるクリシュナムルティの醜態は、浮気がバレて周章狼狽し、何とか妻のご機嫌を取り結ぼうと焦って、「変わらぬ愛」を誓ったり、次から次へと矛盾した言い訳を並べ立てたりする、そこらの男と全く同じです。万事に超然とした“覚者”の姿など、どこにもない。このあたり、彼はふつうの男だったわけです。超がつくほど、その方面で「おくて」だったとは言えるとしても(心理学者ユングとその取り巻きの女性たちとの情事の話も有名ですが、プレイボーイのユングの場合はそこらへん、“女あしらい”が非常に巧みでした)。
 これがサラリーマンだったり、デザイナー、実業家、政治家等々だったりした場合には、別にさして問題ではないわけです(週刊誌の類は騒ぎ立てるとしても)。問題は、彼が高度な宗教的教えを体現する“世界教師”とみなされていたことにあって、「私には葛藤が全くありません」などと澄まして言いながら、日常においては恐怖や不安、葛藤にしばしばさいなまれていたという、その甚だしい言行不一致、偽善にあるわけです(何であなたはそんなに嘘をつくのかとロザリンドに問われて、「恐怖から」と彼は答えています)。言っていることと、やっていることの落差があまりに大きすぎる。自分の思い込みに支配されて人の感情が全く読み取れなかったり、他人のことは手厳しく批判するが、自分のおかしなふるまいを批判されるとすぐ感情的になって怒り出す彼のあられもない姿も本書のあちこちに出てきますが、こういうのは全部、そういうことは自分にはないと彼が言っていることばかりです(こういう話を著者があえてでっち上げる必要があったとは、僕には思えません)。
 本の終わりの方に、著者ラーダとのこんなやりとりが出てきます。その箇所をそのまま引用すると――

 「ある日、タネッグ山荘の上の丘をクリシュナと散歩していたとき、なぜあなたは四十年近くも全く同じ話をしてきたのに、まだ話し続けるのですか、と私は突然彼にたずねた。
 『もしも皆があなた[の言葉]を文字どおりに受け取り、注意深く耳を傾け、あなたが言っていることを吸収するなら、彼らは、追随者になりたいと思うのでないかぎり、戻ってくる必要はないでしょう。そして、あなたは追随者はいらないと言っているのです。あなたの聴衆が、本当にあなたの話を聴くことによって消えてしまったら、どうなるんでしょう?』
 『それはパラドックスです』と彼は率直にすぐ答えた。『私は生きるために話しているのであって、話すために生きているのではありません。もしもそれ以上講話がなくなれば、私は死ぬでしょう』
 それなら、と私は思った。彼がより少ない聴衆ではなく、ますます多くの聴衆を必要とするようになることには何の不思議もないと。年老いて弱くなればなるほど、彼はますます多くの聴衆に支えられる必要があると感じるようになるだろう。彼は世界を何度となく回り、使われるのと同じほど早く、力とエネルギーが回復されるよう、全力を尽くすだろう。…」 

 多少の意訳はまじえましたが、「私は生きるために話しているので、話すために生きているのではない。もしもそれ以上講話がなくなれば、私は死ぬだろう」という箇所は、完全に原文どおりです。
 そしてこれは、公式の伝記に現れる彼の言葉とは全く逆です。そこでは、自分の生命は講話をするために維持されている、つまり「講話をするために生きている」のだと語られているからです。
 真実はどちらだったのか? それともどちらも真実で、ここでも「二人のクリシュナ」が別々に語っていたのでしょうか?
 僕には謎です。言いうることは、もしもこの本に語られているクリシュナムルティが彼の真実の姿、少なくともその一面を正しく伝えているのなら、彼の講話の全体は、そうした彼のありようを真っ向から批判するもの(聴衆を自分のつっかえ棒にする話者についての皮肉めいた言葉も、彼にはあります)なので、彼は聴衆にはそうと悟られないまま、手厳しい自己批判――あるいは、自分ができないことへのたえまない願望の表明――を続けていたのだということになります。 
 彼に宿った“何者か”が本当にいたとして、僕はその可能性はあると思いますが、それはその「乗物」とした肉体、“生身のクリシュナ”に対しても容赦がなかったのです。
 だとすれば、クリシュナムルティとは真に謎めいた、不思議な存在です。

 以上、本の中のスキャンダラスな部分ばかり取り上げることになってしまったのでなおさらですが、ここまで我慢してお読みになったクリシュナムルティ読者は、公式の伝記とあまりにもかけ離れた彼の姿に愕然とされたでしょう。
 それは僕も同じなのですが、よくよく考えてみれば、彼の肉体を使っていたとされるあの“超越的な存在”の話にしても、それは物理的に確認可能なものではないので、基本的には彼自身の話に基づくのです(ルティエンスは彼女自身がした「途方もないパワー」の体験について触れていますが)。“プロセス”の際の彼が語る「脳の浄化」についても同じ。本人がそう解釈していたにすぎないという見方は可能です。人間には誰しも「自己神話化」の傾向があるので、それが周囲の人々の共同幻想(歴史上何度も繰り返されてきた、「メシア再臨」を待望する心理から出たもの)と協力して、“クリシュナムルティ神話”を作ったと見ることもあながち不自然ではありません。幻想の特徴は、その中にいる人たちには疑うことが難しいということです。

 たとえば、こういう話はいかがでしょう。僕の額には“第三の目”の痕跡があります。眉間の真上、3センチほど上に、目にも見える、指で触ればそれとはっきりわかるちょっとした窪みがあるのです。仮に僕がオカルト教団の教祖なら、これを利用するでしょう。ある時期、深い瞑想に入ったことがあって、気づいたらこういう変化が生じていた。以来、自分は見ようと思えば人の心の中が見えるが、それは私信を読むのと同じようなはしたないことなので、あえてそんなことはしないのだと(クリシュナムルティも自分にはそういう能力があるが、同じ理由でそれを行使することは差し控えているのだと言っていました)。
 信じやすい人は信じてしまうでしょう。げんに“第三の目の痕跡”らしきものは、そこに存在するのですから。この人は“スピリチュアルな本”を訳したこともある人なのだから、そんなことがあっても不思議ではないと思うのです(実際、知人の中には僕と話をしていると心の中の秘密を暴かれてしまうかも知れないと恐れるこっけな人もいるのです)。
 しかし、事実はこうなのです。自転車の練習をしていた小学生の頃、当時の田舎には子供用の自転車などというものはなかったので、大人用の足が届かない自転車に乗って未舗装の凸凹道を下っていたとき、前輪が突き出た石に激突して、僕はそのまま前に放り出され、頭から落ちたのです。ちょうどそこに、とがった石があって、頭を突き刺した。当然、僕は血だらけになってちょっとした騒ぎになりましたが、髪の生え際のその部分がそのまま小さなハゲとなって残ったのです。
 ところが、中年になって、おきまりの髪の後退が始まって、額の上方のそれは独立した窪みに見えるようになった。僕自身、それに気づいたときは何でここにこんなものがあるのだろうと不思議に思いました。それがあるとき、そうか、これはあのときの跡なのだなと思い当たって、ひとり笑ったのです。
 種明かしをすればかんたんですが、こんなことでもいわくありげなものに仕立てることはできるのです。僕自身が気づかず、誇大妄想的になってそう信じてしまうこともありうる。“スピリチュアルな進歩”の産物だと思い込むのです。

 おまえごときとクリシュナムルティ大先生を一緒くたにするのは無礼であり、冒涜だと怒り出す人もいるでしょうが、僕の言わんとするところは、なかば神話化したクリシュナムルティの超人的なそうした話も、一度疑って洗い直してみる必要がありそうだ、ということなのです。「だまし絵」の原理と同じで、特定の見方をしていると、別の見方をすれば全く別の図柄が見えてくるのに気づかない、そういうことはあるのです。両方見た上で、どちらが妥当かを判断すればいい。
 この本の著者は「彼自身が自分の言っていることを実行できなかったのなら、誰ができるのか?」と問いかけていますが、彼の教えについても同様です。「批判的吟味」は彼の推奨するところでもあるので、僕はその作業をやってみようと思っています。
 それは揚げ足取りや粗探しではない。僕は今でも彼の教えには価値があると思っています。しかし、「本当にすべてわかって言っているのか?」疑わしく感じたので、それを自分なりに調べ直してみる必要はあると、この本を読んで思ったのです。
 若い純粋な読者なら、人物に対する幻滅はそのままその人の思想や教えの全面否定につながるかも知れませんが、幸い僕は自分自身のそれを含む、人間のお粗末さをこれでもかというほど見てきたヒネたオヤジなので、もう少し「中道」的な対応ができるということです(“何者か”が彼を使っていたという可能性も、依然あるにはあるのです)。
 不幸(?)にしてここまで読んでしまったという方も、そのようになさってはいかがでしょうか? この本に書かれたことの多くが作り話だという証拠があれば、僕はむろん喜んでそれを教わりたいのですが…。
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