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コメントへの返信

2011.06.01.02:42

 零時を回ったので、昨日ということになりますが、仕事に出かける前、メールをチェックしたところ、ブログ運営会社から「新着コメントのおしらせ」というのがまた入っていて、見てみたら、場所は「ウイルスと人間」のところになっているが、先日書いた「忙しすぎる子供たち」へのコメントと思えるものでした(不可解ですが、どうもあそこだけコメントが書き込めるようになっているようです)。この前の「ダメ親」さんのは出てきませんが、こちらは出てくるので、読者はこのブログ右側のコメント欄の上、5/30のものをクリックしてごらん下さい。
 それで、responseを、と思ったのですが、そこのやり方がわからず、またしても困ったところで、ご本人にメールで返信が可能になっているのを発見、すぐに返事を書きました。コメントは公開になっているので、僕の返信の方も公開しておきます。以下のとおり――

【コメント、ありがとうございました。先ほどブログ会社から通知があったので、遅まきながらご返事差し上げます。
 頑張ってください、としか僕の方からは申し上げられません。
 僕自身は朝課外は廃止した方がいいし、宿題も考慮すべきだし、ベーシックグラマー一辺倒のやり方も変えるべきだと考えています。
 先日のブログ記事は元原稿を県教委の方にも送付しておいたので、全生徒、父母対象にアンケート調査を行って、対応を考えてくれるのが一番いいことだと考えています。それが一番民主的な、誰にも納得のいくやり方でしょう。
 あなたのような意見が多数派なら、それは継続されるでしょう。あなた方生徒の方から、それを提案されてはいかがですか?
 もう高校生なのだから、主体的なそういうアクションを起こしてみられればどうかと思います。(大野)】

 以上ですが、念のため、僕が提案しているのは「記名」ではなくて「無記名」のアンケートの方です。「記名アンケート」は、延岡高校ではすでに実施されていますが、それに対する明確な学校側からの応答はなく、また記名ではそれ自体がプレッシャーになるので書きにくい。「書いても無駄」だから、書く気もなくなるという生徒の話を聞いているので、そういう形式だけでない、無記名アンケートをということです。
 それで、生徒・父母の意見をきちんと吸収して、その上で学校側は対応をお考えになればよいのではないか、ということです。
 それでも、この生徒のような「従来どおりでいい」という意見の方が多いことはありえます。宮崎県は昔から朝夕課外を続けてきたのであり、親の世代もそれを経験しているのです。生徒の方はといえば、これより他のあり方を知りません。僕のような「よそ者」にとやかく言われたくないという心理の方が強いかも知れません。
 それで、従来どおりのやり方がいいという結論になったのなら、僕はもうとやかく口は差し挟まないでしょう。自分たちがそれを総意で選択したのだから、つべこべ言わず、それに従うしかないでしょうと、生徒や親御さんたちにも言うでしょう。せめてそれを問うことぐらい、してみたらどうかと言っているのです。
 原発問題みたいに、これはややこしい問題ではありません。利権がからんでいるわけではなし、その気になりさえすれば、かんたんに決着がつく問題です。そこにあるのは心理学的な問題が大部分なのです。
 中には「問題自体が存在しない」と言う人もいるでしょう。そういう人たちには、僕は問題があると指摘し続けているのだから、それをよくお読みになった上で「問題がない」とする理由を示していただかねばなりません。原子力ムラの学者先生たちが、「原発は問題だ」と指摘する少数の学者を無視してきたのと同じような対応を取られたのでは困るのです。
 最後に、“善意”について一言しておきます。子供相手にそこまで書くのは酷だと思ったから、コメントへの返信には書きませんでしたが、人間は善意でやっていれば何でもよしとされるというわけではないのです。教師が善意だから、それを信じたいというのは勝手ですが、「地獄への道は善意で埋まっている」という言葉があるくらいで、世の中に自己反省の伴わない善意ぐらい恐ろしいものはないのです。戦前戦中は善意にあふれた皇国主義者たちがたくさんいました。教師の中にもそれはたくさんいて、後で死ななくていい若者を死に追いやってしまったと悔やんだ人も少なくありません。
 善意には健康な自己疑惑が不可欠です。一人の個人として「果たしてこれでいいのか?」という自問自答をやめるとき、善意はしばしば暴走して、深刻な害をもたらすことがあるのです。教師に一番必要なのはそうしたことへの警戒心です。それがない教師を、僕は信用しません。いや、教師だけではない、どんな職業の人でも、それは同じです。
 こんなことを言うと「全然そんなふうには見えない」と笑う人がいるかもしれませんが、僕が一番大事にしているのは自分自身の不安です。神経症的な不安とは違う、健康な不安というものがあるのです。それがないのは狂信者にすぎません。それあればこそ、人は視野を広げることも、生きた感受性を維持することもでき、従って、臨機応変の柔軟な軌道修正を行うことも可能になるのです。
 その不安を大切にできること――それが真の正直さであり、真の自己信頼です。
 正気の心には、それが安全装置としてついている。だから大事にしなければならないのです。無理に何かを信じ込もうとするより、そちらの方がずっと価値のあることなのです。
 神経症的な不安と健康な不安の違いはどこにあるのか? リクエストでもあれば、それはまたそのときに書くことにしましょう。
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