原子力ムラ科学者に見る「神の国」信仰

2011.05.26.18:17

 これをお読みになる方の大半は先刻ご承知でしょうが、5月23日に参議院の行政監視委員会というところで参考人を呼んでの原発事故に関する公聴会が開かれました。それはインターネットで生中継されたらしいのですが、僕は知らずに、Youtubeで5月24日分の「たねまきジャーナル」(「たまねぎジャーナル」だと思い込んでいる人が少なくないそうで、実は僕もその一人でした)恒例の、小出裕章先生への電話インタビューを聴いていて、「そうか、そういうのがあったんだ…」と思い出し、「行政監視委員会 小出裕章」と入力するとすぐ出てきたので、そのまま続けてそちらも視聴してみました。
 それは「原発事故と行政監視システムの在り方」と題されたものらしく、メンバーは、

・小出裕章(参考人 京都大学原子炉実験所助教)
・後藤政志(参考人 芝浦工業大学非常勤講師)
・石橋克彦(参考人 神戸大学名誉教授)
・孫正義(参考人 ソフトバンク株式会社代表取締役社長)

 です。孫社長のは、今後のエネルギー政策についてのものらしかったので、僕はとりあえず上のお三方のものだけ視聴しました。それで計一時間弱なので、まだの方はぜひごらんになって下さい。僕はYoutubeの画面で、次々クリックして見たのですが、グーグルで検索すると「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」というブログがあって、ここは全部まとめて見られるようにしてくれていて親切なので、そちらをご紹介しておきます。

 いずれの先生のお話も人柄の誠実さと危機感がにじみ出たもの(明確な学問的知見に裏打ちされたものであるのは言うまでもありません)で、僕には感銘深かったのですが、「それにしても…」とあらためて考えさせられました。こういう先生たちの声が今回の事故が起きるまで僕ら一般人の耳にほとんど全く届かなかったのは残念ですが、それにもまして、どうしてこうした正論を他の学者先生たちは無視し続けることができたのか、そのことが非常に不思議に感じられたのです。

 むろん、それは彼らに不都合だったからでしょう。だから、そんな話は聞きたくもない。しかし、こと学問や科学に関しては、正しいかどうかが最終的な判断基準となるべきではないのか? 僕が聴いて判断したかぎりでは、今回の原発事故が起きていなくても、この三人の先生たちの陳述に、「原発推進派」と呼ばれる学者先生たちは有効な反論はできないのではないかと思われるのです。

 ロクな反論もできないのに、なぜ無視できたのか? それはこれらの先生たちが学会では圧倒的な少数派で、一方、それに反論できない、学問的・科学的には不利なはずの学者先生たちの方は多数派だったからです。

 それでも、やっぱりおかしい。古いところではガリレオ裁判なんてのがありましたが、あれは地動説が当時の宗教ドグマに反しているというので、そのあたりどういう関係になっていたのかよくは知りませんが、キリスト教神学とプトレマイオスの天動説が密接に結びついていて、だから信仰を揺るがしかねないとして、あれは弾劾されたのでしょう。時代が下るともうそういうことはなくなった。アインシュタインの相対性理論は、それが当時の物理学の“常識”に反しているというので、すぐには受け入れられなかったという話も読んだことがありますが、それはパラダイム転換を迫るもので、単純に理解が難しかったからで、少しして検証が行われ、彼の理論が正しいとわかるや、皆に受け入れられたのです。

 僕は科学というのはそういうものだと理解しています。民主主義的多数決は、政治上の方法であって、学問や科学の方法ではない。どちらの理論や論理がより適切、整合的で、対象となる現象なり事実なりをよりよく説明してくれるものであるか、それで雌雄は決するはずなのです。頭数の問題ではない。

 ところが、わが国における科学や学問は、全然そうではないらしい。昔から、人文・社会科学系の学問では、それぞれの分野に妙な権力・政治力をもつボスがいて、それに睨まれると優秀な人でも干されてしまうという話はよく耳にしましたが、文系の場合には、科学的検証というのが難しいので、そういう紛らわしさが伴うのです。しかし、理系ではそんなことはないのだろうと、僕は思っていました。

 他の多くの人たちも、そういう科学信仰というより「科学者信仰」のようなものをもっていたのではないでしょうか。別に科学者を聖人君子とは思わなくても、最低限、そういう「真理によって決する」公正さは守られているのだろうと。自然科学の場合には心理学や哲学、宗教みたいなものとは違って、検証可能な物理的事実というのがそこにあって、それに照らして真偽の判断を下すことができるのですから。

 原発推進のロジックの背景には、それに関与する学者たちのそうした「科学的」議論の裏づけがちゃんとあって、でなければ行政と電力会社のゴリ押しだけでそうそう勝手なことはできるはずがない――漠然と、人々はそんなふうに思っていたのです。

 それがまさか、科学者自身が悪徳ブローカーか弁護士みたいな詭弁を用い、地位や名誉、金銭のために平気で嘘をつき、真実を語る良心的な人たちを数の力で隅に追いやり、恥じることがないなどと、誰が思うでしょう。上記公聴会の席上、石橋克彦先生は、次のような話を披露されていました。

 地震学者の先生はかつて毎日新聞に、一般読者向けに、柏崎刈羽原発の、東電・原子力安全委員会・保安院がグルになった「原発耐震偽装」と呼びうる無責任きわまりない対応の問題点についてお書きになった文を投稿なさったそうですが、このとき原子力安全委員会は毎日新聞に対し、「あの記事はおかしい」と言って、記事の訂正または取消しを求めたというのです。直接筆者の石橋先生には何も言わなかったということは、まともに太刀打ちできる自信はなかったからなのでしょうが、原子力安全委員会というのは学者・専門家の集まりで、科学的検証に基づいて「原発の安全性を守る」ために存在しているわけでしょう? それが反対に、原発の安全性ではなく、安全性の偽装の方を守るために活動していたのです。その三流政治家そっくりの下劣なやり口といい、学者にあるまじき「曲学」ぶりといい、全くもってお粗末すぎるのです。

 こういうのはほんの一例で、この種のデタラメさを、僕らは今回胸が悪くなるほどたくさん見聞させられました。まさか政府と電力会社の嘘と隠蔽に、学者先生たちがこれほどまでに深く加担しているとは、一般国民は誰も思わなかったはずです(長く反原発運動に携わってきた人たちは別として)。「仮にも高い地位にある、有名な科学者先生たちなのだから」という思い込みがあったのです。政治家や官僚とは、そのあたり違うはずだと。

 その学問分野も、原子力だけでなく、放射線医学や地震学、海洋生物学等々まで、幅広い領域にわたっているそうで、これにマスコミや文化人まで加わるのだから、そうした人たちが打って一丸となればそれはほとんど“鉄壁”で、不都合な事故情報などは、表面的に軽く伝えられるだけか、または揉み消されてそもそもニュースにならなかったわけです。

 上記の三先生は、揃って「原発事故の危険性の軽視」に言及されていましたが、おそらくそれらの学者先生たちも原子力の並外れた危険性・破壊性はよく承知していたのでしょう。それでも、ひどい事故など起きないはずだと高を括っていた。あるいは、そのような不都合なことは起きえないと信じたかったのでしょう。過去を見ても、大きいのはチェルノブイリとスリーマイルだけで、それも外国のことです。だから、超がつく少数派の良心的な僅かな学者が「こんな地震の巣みたいなところに原発を作るのは危険すぎる」といくら警告しても、「うるせえなあ、そんなことは起きてから言えよ」と嘲笑できたのです。

 「みんなで信じればこわくない」みたいな心理が働いたのか、深刻な事故は「起きえない」のだから、それについては論じる必要はない、ということになったのです。原発作業員の人たちの日常的な被曝については、それはめったにマスコミ沙汰になることはないし、ごくごく一部の人間の話にすぎず、他のどんな産業分野でも事故による犠牲者は出るのだから、取り立てて気にするには及ばない。そう考えることができる。これは「国策」なのだから、それに乗っかる自分に罪はない。安定した地位と名誉、財産を保証してくれるそれに、どうして乗らずにいられよう。そうしなければ、「熊取六人組」みたいに、ずっと冷や飯を食わされることになるので、そんな割に合わないことをするのはただの馬鹿なのだ、云々。

 しかし、そこにあるのはたんなる「打算」だけではない。おもうに、彼らもまたいつぞやの総理大臣のように、「日本は神の国」だと信じるようになっていたのではないでしょうか。科学的には大事故が起きないという根拠は何もないのに、「起きない」と信じ込めたのですから、そうとしか解釈できない。それは宗教による思考停止と同じで、批判や反論を全く受け付けようとしないところまでそっくりなのです。

 そう考えれば、説明はつく。「神の見えざる手」によって守られているのだから、地震が起きようが、竜巻に襲われようが、わが国の原発はいつもきわどいところで大事故は免れるのです。その証拠に、これまでもずいぶんお粗末なことはあったが、奇蹟のように助かっているではないか!

 それはよくある現世利益宗教の類です。「起きない」と信じていれば、断じてそれは起きず、出世もできてハッピーになれる――彼らはそう考えたのです(この種の思考は破綻した精神の最も明確な指標なのですが、それを「プラス思考」などと言う人がいるのにはいつも驚かされます)。

 僕ら一般の人間はそこをカン違いしていた。初めからいかがわしい宗教の信者なのだと思えば、それなりに警戒するが、「客観的な科学者」だと思ってしまったのです。三流の現世利益宗教の信者ならどんな迷信的なとんでもないことでも言いかねないし、驚くような強引なこじつけもためらわないが、決してそんなことをするはずがない、彼らは科学者なのだから、と思ってしまったのです。

 問題はそこだったんだな、と僕は思うようになりました。科学者なら、現実に目を閉ざし、科学的合理性を無視し、真実を曲げたり、情報の隠蔽に走ったりするのは許しがたいが、「事故は起きないと信じ込んでいればそれは決して起きず、私はハッピーになれる」と信じ込んでいる宗教信者に類したものなら、「起きる」と言う人は憎むべき“信仰の敵”であり、迫害したくなる心理もわかろうというものだからです。「原子力ムラ」というのは、利害共同体であるだけでなく、そういう一種のカルトでもあったのです。

 そのように考えると、多くの疑問が氷解する。だから深い罪悪感をもつこともなかったのです。原子力安全委員会のマダラメ委員長など、使徒タイプの典型というべきで、「安全」という中核教義にあくまでも忠実だから、つねにあんなふうなのでしょう。心理的に言えば、この手の人は自分の信仰を害されるがゆえに、それに反することについてはまともに考えることさえできないのです(だから、今でも斑目氏には事態の深刻さは実感としてわかっていないのだろうと思います)。

 それならいっそのこと、名称を「原子力安全教・普及友の会」とでも改めていただくと、誤解がなくてよろしいように思うのですが、この「信者を科学者と誤解していた」という自分の側の錯覚についての新たな“気づき”は、僕の苛立ちをだいぶ鎮めてくれました。

 今後はそのような目で眺めたいと思います。「政教分離」の原則から言っても、そのような人たちを政府の重要機関の委員にしたりするのは好ましくないので、今後は真に科学者の名に値する人たち(この公聴会に参考人として出られた先生たちのような)を登用していただくよう、政府にはお願いしたいと思いますが。
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