最近毎日のようにこれを更新していますが、理由は、しばらくこれをお休みにするつもりだからで、その事前穴埋めみたいな気もあるからです。われらがガースー政権は、今頃中止を言い出しても「遅すぎる!」と言われて支持率の回復にはつながらないので、大地震などの大災害でも起きないかぎり東京五輪を強行しそうです。前に友人とした賭けの話を書きましたが、彼の五月予想は外れて、六月中に中止が決まれば僕が勝つわけですが、そうなりそうもないので、「勝者なし」の結果になる。相変わらず何の説明もなくて、民意も道理もへったくれもない恐ろしい政権ですが、その五輪が終わる頃までは、このブログはお休みになるでしょう。その間は、前にも書いたように、そんな気分ではないのでテレビで五輪も見ないので、自分のしたいことにだけ没頭して静かに過ごすことができると思いますが(コメントやメールの類は、ブログ会社からこちらに通知が来るので、その場合だけ対応します)。
前々回の記事で書いた話に合わせて言うと、今の世界はどんどん悪夢の様相を強めて、かつコントロールの利かなさが甚だしいものになりつつあるようです。コロナも、中国の武漢ウイルス研究所流出説が再燃して、前のときはトランプ支持者の妄想的陰謀論とセットになっていたから信用を失ったのですが、次のニューズウィーク誌の記事など読むと、これはネットを駆使した民間人グループの追跡の執念が実ったという話ですが、その信憑性はきわめて高そうです。
・「研究所流出説」を甦らせた素人ネット調査団、新型コロナの始祖ウイルスを「発見」!
実に読み応えのある、面白い記事です。最後まで辿り着くと、後編もクリックしてかんたんに読めるようになっているので、まだの方はそちらもお読みいただきたいのですが、ふつうならこういうのは各国の政府系諜報機関やメディアがやるべきことで、それを仕事は別にもっている、ネットでつながった国も年齢・職業も異なる自発的に連帯した民間人グループが全くのボランティアでやって、真相に肉薄したわけです(これはたぶん後で映画の題材になるでしょう)。それが表に出て、諜報機関やメディアがそれを後追いするというパターンです。逆に言うと、諜報機関員やジャーナリストの側は、それで給料をもらいながら、果たすべき仕事を満足にしていなかったことになるので、何のために彼らが存在するのか、疑わしいことになってしまっているのです。
専門の研究者はと言えば、「自然界の病原体について大規模な国際調査を行う非営利の研究機関、エコヘルス・アライアンスの代表」であるピーター・ダザックは、「他の26人の科学者と連名で2020年2月19日、医学誌ランセットで公開書簡を発表。『新型コロナウイルス感染症が自然な発生源を持たないことを示唆する陰謀論を、私たちは断固として非難する』と宣言した」のです。ランセットは世界的に権威のある医学誌で、そこに専門家たちが連名でそんな書簡体の記事を載せたとなると、僕ら素人は、「やはりあれは根も葉もない陰謀論だったのだろう」と思ってしまう。それをきっかけに「メディアに頻繁に登場するようになったダザックは、研究所流出説を『不合理』『根拠に欠ける』『完全なでたらめ』と一蹴した」のです。ところが、それは彼が自己保身のために画策したことで、その主張は公正でも科学的でも全くなかったことがのちに判明したのです。彼のこうした一連の行為自体が隠蔽工作だった。学者の風上にも置けない男だったのです。
「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOは、一年以上もたってから中国に調査団を派遣し、それで問題が解明されると思った人はおそらく一人もおらず、中国のアリバイ工作に加担するだけが関の山だろうと予想されていましたが、果たして、
中国に派遣した調査団の報告書を公表し、動物から中間宿主を通じて人に感染したとの仮説が最も有力と発表した。一方、武漢の研究所からウイルスが流出したと疑う説は「極めて可能性が低い」とほぼ否定した(時事通信3/31)
ということになったのです。この種の問題で一番重要な役割を果たすべきWHOは終始一貫、ほとんど機能していない。そんな無意味な報告書を作るためにわざわざ大金をかけて調査団を派遣したのかと呆れるので、その信用は完全に地に堕ちたのです。
全体として見たとき、今の世界で起きていることは、僕らが夜間寝て見る夢以上に出鱈目なことになっていることがわかるでしょう。虚偽とナンセンスのオンパレードで、だから人々は政府もメディアも、専門家も信用できないということになって、ネットの怪情報や陰謀論にはまる人が多くなっていると言われるのですが、今見たニューズウィーク誌の記事によれば、自己保身のために武漢研究所流出説を断固否定して自然発生説を唱えた「権威ある専門家」ダザックたちの方が陰謀を企てたに等しかったのです。
シェイクスピアの有名な悲劇『マクベス』の冒頭に、「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女たちのコーラスが出てきます。これは原文では、Fair is foul, and foul is fair だそうで、foul はゲームなどのファール、反則・逸脱にもこれを使うので、逆にルールに則った、公正なものが fair です。公的な機関や権威ある専門家の言うことなら fair で、怪しげなネット情報ならfoul だというのがこれまでの社会的コンセンサスのようなものでしたが、上のニューズウィークの記事によれば、真実を解明しようと調査を続けて真相に迫ったのは素性も知れぬ怪しげな民間ネット調査団で、専門家や公の研究所の方が虚偽を語ったり、不正な隠蔽を重ねていたことが判明したのです。Fair is foul, and foul is fairという魔女の言葉どおりの逆転が生じているので、マクベス劇のあれは不吉な予言のようなものとして出てくるのですが、今僕らの目の前にある現実はこれを地で行っているのです。
もはや何を信じていいのかわからなくなった。Fair is fair, and foul is foul の原則は、fair の側に立つ人間は相変わらずそうだと主張するが、事実上は完全に崩壊してしまっているのです。僕も塾で、生徒たちの話を聞きながら、「君らの学校の先生は頭が完全にイカれているね」と呆れて言うことが少なくないのですが、それは彼らの感受性や意見の方がまともだと感じることが多いからで、教育者としての人間的誠実さがどこにあるのかと疑わしく思うことがしばしばなのです。今は社会のあらゆる領域で同じようなことが進行しているのではないのか? 健康な組織や機関は稀なものになっているのではないかと思うと、背筋が寒くなってくるのです。
言うまでもないことですが、習近平の中国共産党政府がコロナウイルス武漢ウイルス研究所流出説を認めることは決してないでしょう。彼らはそれは「中国を陥れるための悪質な陰謀論」だと、ずっと主張しています。今後も同じはずで、今の状況証拠としてはそれは真っ黒ですが、決定的な証拠がないかぎりシロだと言い続け、そしてその証拠となるものは彼らが握っているので、疑わしきは罰せずで「有罪宣告」は免れるのです。それが人道的な目的で行われていたと信じることもできない。それは中国の生物兵器開発のための研究と確実にリンクしているのです(でなければ何で人に感染しうるものに改変する実験など行なう必要があるのか?)。
不正はただされず、正義は行われない。昔、今はもう八十代も半ばになった年の離れた従兄が僕にはいるのですが、その善良この上ない従兄(継父はいたが、実父は戦死していた)は僕の両親にとっては実の弟のようなものだったので、お盆や正月に帰省すると、必ず遊びに来て、泊まっていくこともよくあったのですが、自分が家庭で父権を発動するのはテレビで時代劇の『水戸黄門』を見るときだけだと言って皆を笑わせたことがあります。そのときだけはチャンネル権を絶対に譲らない。どうしてなのかときくと、あれは必ず正義が勝つという筋書きになっていて、実際の世の中は理不尽に満ちているが、かなり単純な勧善懲悪のあの時代劇では必ず正義の裁きが下されるので、安心して見られて、胸のつかえがおりるからだという話でした。従兄は苦労人で、働きながら夜間高校を卒業して、その当時は大手ガス会社で現場の仕事をしていたのですが、ままならないサラリーマン生活の苦衷と持ち前の強い道徳感がそこには反映されていて、そのとき自分が高校生だったのか大学生だったのかは忘れましたが、話を聞いて笑いながらも、僕にもその気持ちはよくわかる気がしたのです。
しかし今は、時代はさらに悪化して、昔ならとうの昔に倒れていたはずの政権が倒れず、民意に真っ向から逆らう五輪開催の強行なんてことをしているのです。海外からも疑問視する声は日増しに高まり、誰も得はしない(IOCは除いて)のに、何のためにそんなことをしなければならないのか、説明は皆無のまま、「前に決まっていたから」という理由だけでそれは変えられないというのです。正気の沙汰とは思えないが、オリンピックなんか楽しむ気には到底なれない中で、「皆さん、あれで盛り上がって元気になりましょう」と言う。そんなんで元気になんかなるわけあるか、アホ、と思いますが、ひとりガースー自民とその取り巻きだけはそう思わないのです。正しくないとしても、中国が武漢ウイルス研究所流出説をムキになって否定する理由はよくわかるが、こちらはその理由すらわからない。それだけに理不尽さ、不気味さは一層募るのです。
こういうのは全体、悪夢を見ているのと同じです。「そんなの、ありかよ」と思うようなことがそこらじゅうで頻発していて、何か何やらわからなくなり、意識が混濁してくるような気がする。ひょっとしたら自分は夢の中でそれとは知らずこんなものを書いていて、これを読んでいるあなたも、たんなる僕の個人的な夢の登場人物でしかないのではないか? だんだんそんな気がしてくるのです。あのガースーも、僕の無意識の中の「不条理」が夢に投影されてああいう人物として造形されたにすぎないので、本当はあんなもの(失礼!)は全然実在していないのかもしれないのです。おかしなものを食べ過ぎて胃腸が不調になったまま寝ると、ときに僕はおかしな夢を見ることがあるのですが、これはその一つなのではないかと。
最後に、話はかなり変わりますが、ヤフーのニュースサイトでこういう記事を見ました。
・「タバコを吸う人は悪人」コロナ後の世界では健康管理はモラルに変わる
喫煙者の僕はこれを面白く読んだのですが、下にコメントがかなり出ているので、ついでにそれも見ていたら、???という感じがしてきて、こういうのもヤバいなと不気味になったのです。上の記事をクリックしてお読みになればわかりますが、最後の、
さあ、これを読み終わったら、今日から1時間ほどのジョギングをはじめよう。あなたが健康になることは、あなたにとってだけでなく、みんなにとって喜ばしいことなのだから。
というのはむろん皮肉なのですが、それをそうと解せず、全体の趣旨を180度取り違えて「批判」しているコメントがいくつもあって、そういうのに「いいね」を押している人もたくさんいるのです。また、文の趣旨とは関係なしに、自分の勝手な「意見」を書いているだけだったりして、全体に見当はずれのものが多く、読んで書いているとは思えない。
この文章は今の日本社会に対して感じている筆者の「不気味さ」を、そういう言葉は全く使わず表現している点でうまい文章だなと僕は思ったのですが、そこを「正解」した上でのコメントは僅かしかない。要するに、多くは自分の誤読に基づいて批判したり、「賛成」(それは全然賛成にはなっていないからカッコに入れたのですが)したりしているので、そのリテラシーの低さを自覚するということはないのです。文章は自分の好きなように読めばいいのだと思っている。それで誤読に基づいて勝手な「批判」をするのも自由だと思っているのです(この種の人たちは同じ「仲間」がいるとわかると勢いづくらしく、しばしばその誤読に基づく「批判」もヒートアップする)。
なるほど、これは考えさせられる文章だなとそこで立ち止まって考えるならそれは実りのある結果につながるのですが、この種の人たちはそういうことは全くしないので、それでは賢くなることもないでしょう。こう書くと、「おまえは利口ぶって人を馬鹿呼ばわりするのか!」と食ってかかられそうですが、それでは人の話も聞けないから、無用な人間関係のトラブルをつくり出したり、本や雑誌の文章を読んでも正しく読解することができないから、思慮深い人間になることもないでしょう。そのくせ、誤読に基づいて相手を「短絡思考」だの「価値観の押しつけ」だのと決めつけたりはするわけですが。
思うに、この文章を書いた筆者(御田寺さん)は、こうしたコメント群を見ると脱力感に見舞われるのではないでしょうか。理解した上での批判なら学ぶことができるし、理解した上での賛同なら心強く感じるかもしれませんが、たんなる無理解に基づくものなら、反対も賛成も困惑や苦笑をひき起こすものでしかないからです。何より、書いた甲斐がない。これはプレジデントオンラインの記事なので、原稿料はもらえているのだと思いますが。
今の社会の薄気味悪さには、こういうのも付け加わっているのです。上も下も、あっちもこっちも、同じように出鱈目で、わけがわからなくなっている。こういうのを見ていると、僕のこのブログなんかも、どんな読まれ方をしているのかわかったものではないなという気がしてくるのです。日本国内だから日本語は通じていると思ってはいけない。実際は全然通じていないのかもしれないのです。
それでは、また今度。この最後のくだりが災いして、ここが「炎上」などしていないことを祈っています。
前々回の記事で書いた話に合わせて言うと、今の世界はどんどん悪夢の様相を強めて、かつコントロールの利かなさが甚だしいものになりつつあるようです。コロナも、中国の武漢ウイルス研究所流出説が再燃して、前のときはトランプ支持者の妄想的陰謀論とセットになっていたから信用を失ったのですが、次のニューズウィーク誌の記事など読むと、これはネットを駆使した民間人グループの追跡の執念が実ったという話ですが、その信憑性はきわめて高そうです。
・「研究所流出説」を甦らせた素人ネット調査団、新型コロナの始祖ウイルスを「発見」!
実に読み応えのある、面白い記事です。最後まで辿り着くと、後編もクリックしてかんたんに読めるようになっているので、まだの方はそちらもお読みいただきたいのですが、ふつうならこういうのは各国の政府系諜報機関やメディアがやるべきことで、それを仕事は別にもっている、ネットでつながった国も年齢・職業も異なる自発的に連帯した民間人グループが全くのボランティアでやって、真相に肉薄したわけです(これはたぶん後で映画の題材になるでしょう)。それが表に出て、諜報機関やメディアがそれを後追いするというパターンです。逆に言うと、諜報機関員やジャーナリストの側は、それで給料をもらいながら、果たすべき仕事を満足にしていなかったことになるので、何のために彼らが存在するのか、疑わしいことになってしまっているのです。
専門の研究者はと言えば、「自然界の病原体について大規模な国際調査を行う非営利の研究機関、エコヘルス・アライアンスの代表」であるピーター・ダザックは、「他の26人の科学者と連名で2020年2月19日、医学誌ランセットで公開書簡を発表。『新型コロナウイルス感染症が自然な発生源を持たないことを示唆する陰謀論を、私たちは断固として非難する』と宣言した」のです。ランセットは世界的に権威のある医学誌で、そこに専門家たちが連名でそんな書簡体の記事を載せたとなると、僕ら素人は、「やはりあれは根も葉もない陰謀論だったのだろう」と思ってしまう。それをきっかけに「メディアに頻繁に登場するようになったダザックは、研究所流出説を『不合理』『根拠に欠ける』『完全なでたらめ』と一蹴した」のです。ところが、それは彼が自己保身のために画策したことで、その主張は公正でも科学的でも全くなかったことがのちに判明したのです。彼のこうした一連の行為自体が隠蔽工作だった。学者の風上にも置けない男だったのです。
「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOは、一年以上もたってから中国に調査団を派遣し、それで問題が解明されると思った人はおそらく一人もおらず、中国のアリバイ工作に加担するだけが関の山だろうと予想されていましたが、果たして、
中国に派遣した調査団の報告書を公表し、動物から中間宿主を通じて人に感染したとの仮説が最も有力と発表した。一方、武漢の研究所からウイルスが流出したと疑う説は「極めて可能性が低い」とほぼ否定した(時事通信3/31)
ということになったのです。この種の問題で一番重要な役割を果たすべきWHOは終始一貫、ほとんど機能していない。そんな無意味な報告書を作るためにわざわざ大金をかけて調査団を派遣したのかと呆れるので、その信用は完全に地に堕ちたのです。
全体として見たとき、今の世界で起きていることは、僕らが夜間寝て見る夢以上に出鱈目なことになっていることがわかるでしょう。虚偽とナンセンスのオンパレードで、だから人々は政府もメディアも、専門家も信用できないということになって、ネットの怪情報や陰謀論にはまる人が多くなっていると言われるのですが、今見たニューズウィーク誌の記事によれば、自己保身のために武漢研究所流出説を断固否定して自然発生説を唱えた「権威ある専門家」ダザックたちの方が陰謀を企てたに等しかったのです。
シェイクスピアの有名な悲劇『マクベス』の冒頭に、「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女たちのコーラスが出てきます。これは原文では、Fair is foul, and foul is fair だそうで、foul はゲームなどのファール、反則・逸脱にもこれを使うので、逆にルールに則った、公正なものが fair です。公的な機関や権威ある専門家の言うことなら fair で、怪しげなネット情報ならfoul だというのがこれまでの社会的コンセンサスのようなものでしたが、上のニューズウィークの記事によれば、真実を解明しようと調査を続けて真相に迫ったのは素性も知れぬ怪しげな民間ネット調査団で、専門家や公の研究所の方が虚偽を語ったり、不正な隠蔽を重ねていたことが判明したのです。Fair is foul, and foul is fairという魔女の言葉どおりの逆転が生じているので、マクベス劇のあれは不吉な予言のようなものとして出てくるのですが、今僕らの目の前にある現実はこれを地で行っているのです。
もはや何を信じていいのかわからなくなった。Fair is fair, and foul is foul の原則は、fair の側に立つ人間は相変わらずそうだと主張するが、事実上は完全に崩壊してしまっているのです。僕も塾で、生徒たちの話を聞きながら、「君らの学校の先生は頭が完全にイカれているね」と呆れて言うことが少なくないのですが、それは彼らの感受性や意見の方がまともだと感じることが多いからで、教育者としての人間的誠実さがどこにあるのかと疑わしく思うことがしばしばなのです。今は社会のあらゆる領域で同じようなことが進行しているのではないのか? 健康な組織や機関は稀なものになっているのではないかと思うと、背筋が寒くなってくるのです。
言うまでもないことですが、習近平の中国共産党政府がコロナウイルス武漢ウイルス研究所流出説を認めることは決してないでしょう。彼らはそれは「中国を陥れるための悪質な陰謀論」だと、ずっと主張しています。今後も同じはずで、今の状況証拠としてはそれは真っ黒ですが、決定的な証拠がないかぎりシロだと言い続け、そしてその証拠となるものは彼らが握っているので、疑わしきは罰せずで「有罪宣告」は免れるのです。それが人道的な目的で行われていたと信じることもできない。それは中国の生物兵器開発のための研究と確実にリンクしているのです(でなければ何で人に感染しうるものに改変する実験など行なう必要があるのか?)。
不正はただされず、正義は行われない。昔、今はもう八十代も半ばになった年の離れた従兄が僕にはいるのですが、その善良この上ない従兄(継父はいたが、実父は戦死していた)は僕の両親にとっては実の弟のようなものだったので、お盆や正月に帰省すると、必ず遊びに来て、泊まっていくこともよくあったのですが、自分が家庭で父権を発動するのはテレビで時代劇の『水戸黄門』を見るときだけだと言って皆を笑わせたことがあります。そのときだけはチャンネル権を絶対に譲らない。どうしてなのかときくと、あれは必ず正義が勝つという筋書きになっていて、実際の世の中は理不尽に満ちているが、かなり単純な勧善懲悪のあの時代劇では必ず正義の裁きが下されるので、安心して見られて、胸のつかえがおりるからだという話でした。従兄は苦労人で、働きながら夜間高校を卒業して、その当時は大手ガス会社で現場の仕事をしていたのですが、ままならないサラリーマン生活の苦衷と持ち前の強い道徳感がそこには反映されていて、そのとき自分が高校生だったのか大学生だったのかは忘れましたが、話を聞いて笑いながらも、僕にもその気持ちはよくわかる気がしたのです。
しかし今は、時代はさらに悪化して、昔ならとうの昔に倒れていたはずの政権が倒れず、民意に真っ向から逆らう五輪開催の強行なんてことをしているのです。海外からも疑問視する声は日増しに高まり、誰も得はしない(IOCは除いて)のに、何のためにそんなことをしなければならないのか、説明は皆無のまま、「前に決まっていたから」という理由だけでそれは変えられないというのです。正気の沙汰とは思えないが、オリンピックなんか楽しむ気には到底なれない中で、「皆さん、あれで盛り上がって元気になりましょう」と言う。そんなんで元気になんかなるわけあるか、アホ、と思いますが、ひとりガースー自民とその取り巻きだけはそう思わないのです。正しくないとしても、中国が武漢ウイルス研究所流出説をムキになって否定する理由はよくわかるが、こちらはその理由すらわからない。それだけに理不尽さ、不気味さは一層募るのです。
こういうのは全体、悪夢を見ているのと同じです。「そんなの、ありかよ」と思うようなことがそこらじゅうで頻発していて、何か何やらわからなくなり、意識が混濁してくるような気がする。ひょっとしたら自分は夢の中でそれとは知らずこんなものを書いていて、これを読んでいるあなたも、たんなる僕の個人的な夢の登場人物でしかないのではないか? だんだんそんな気がしてくるのです。あのガースーも、僕の無意識の中の「不条理」が夢に投影されてああいう人物として造形されたにすぎないので、本当はあんなもの(失礼!)は全然実在していないのかもしれないのです。おかしなものを食べ過ぎて胃腸が不調になったまま寝ると、ときに僕はおかしな夢を見ることがあるのですが、これはその一つなのではないかと。
最後に、話はかなり変わりますが、ヤフーのニュースサイトでこういう記事を見ました。
・「タバコを吸う人は悪人」コロナ後の世界では健康管理はモラルに変わる
喫煙者の僕はこれを面白く読んだのですが、下にコメントがかなり出ているので、ついでにそれも見ていたら、???という感じがしてきて、こういうのもヤバいなと不気味になったのです。上の記事をクリックしてお読みになればわかりますが、最後の、
さあ、これを読み終わったら、今日から1時間ほどのジョギングをはじめよう。あなたが健康になることは、あなたにとってだけでなく、みんなにとって喜ばしいことなのだから。
というのはむろん皮肉なのですが、それをそうと解せず、全体の趣旨を180度取り違えて「批判」しているコメントがいくつもあって、そういうのに「いいね」を押している人もたくさんいるのです。また、文の趣旨とは関係なしに、自分の勝手な「意見」を書いているだけだったりして、全体に見当はずれのものが多く、読んで書いているとは思えない。
この文章は今の日本社会に対して感じている筆者の「不気味さ」を、そういう言葉は全く使わず表現している点でうまい文章だなと僕は思ったのですが、そこを「正解」した上でのコメントは僅かしかない。要するに、多くは自分の誤読に基づいて批判したり、「賛成」(それは全然賛成にはなっていないからカッコに入れたのですが)したりしているので、そのリテラシーの低さを自覚するということはないのです。文章は自分の好きなように読めばいいのだと思っている。それで誤読に基づいて勝手な「批判」をするのも自由だと思っているのです(この種の人たちは同じ「仲間」がいるとわかると勢いづくらしく、しばしばその誤読に基づく「批判」もヒートアップする)。
なるほど、これは考えさせられる文章だなとそこで立ち止まって考えるならそれは実りのある結果につながるのですが、この種の人たちはそういうことは全くしないので、それでは賢くなることもないでしょう。こう書くと、「おまえは利口ぶって人を馬鹿呼ばわりするのか!」と食ってかかられそうですが、それでは人の話も聞けないから、無用な人間関係のトラブルをつくり出したり、本や雑誌の文章を読んでも正しく読解することができないから、思慮深い人間になることもないでしょう。そのくせ、誤読に基づいて相手を「短絡思考」だの「価値観の押しつけ」だのと決めつけたりはするわけですが。
思うに、この文章を書いた筆者(御田寺さん)は、こうしたコメント群を見ると脱力感に見舞われるのではないでしょうか。理解した上での批判なら学ぶことができるし、理解した上での賛同なら心強く感じるかもしれませんが、たんなる無理解に基づくものなら、反対も賛成も困惑や苦笑をひき起こすものでしかないからです。何より、書いた甲斐がない。これはプレジデントオンラインの記事なので、原稿料はもらえているのだと思いますが。
今の社会の薄気味悪さには、こういうのも付け加わっているのです。上も下も、あっちもこっちも、同じように出鱈目で、わけがわからなくなっている。こういうのを見ていると、僕のこのブログなんかも、どんな読まれ方をしているのかわかったものではないなという気がしてくるのです。日本国内だから日本語は通じていると思ってはいけない。実際は全然通じていないのかもしれないのです。
それでは、また今度。この最後のくだりが災いして、ここが「炎上」などしていないことを祈っています。
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