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UFO・エイリアンとフォークロア

2021.06.11(17:50) 840

(『エイリアン・アブダクションの深層』を買ってくれた人向けに、続けてこちらも載せておくことにします。ちなみに、さっきアマゾンのサイトを見てみたら、何と星一つのマークがついていて、その人は何か気に食わないことがあってそうしたのだろうと、そのレビューを見てみようとしたら、それは見当たらない。アマゾンも今は悪質なものを防ぐために最低限の検閲はしているようなので、それに引っかかったのかもしれません。僕は自分の本で人にレビューを書いてくれと頼んだことなどは一度もありませんが、あのままだと全く売れなくなって、社に大損害を与えてしまうことになりかねないので、一筋縄ではいかず、書きにくい本ですが、どなたかまともなレビューを書いてくれる人が出現するのを期待しています。公正に見て、いくら何でもあの本が星一つということはないはずだからです。)


 この問題の否定論者たちが皮肉めかした口調でよく言うのは、「何で彼らは白昼堂々と姿を現わさないんだ? たとえばニューヨークやパリ、東京の上空などで一度10分間ほどでもUFOの航空ショーを見せ、大勢の人がそれをスマホ撮影などすれば、われわれもその存在を認めるだろう」といったものです。

 これは支持派のひそかな願望でもあって、「いるのかいないのかわからないような紛らわしい出現の仕方をするから、証拠が不十分だといってわれわれは笑いものにされて、馬鹿にされるのだ」と思っている人は少なくないはずです。

 僕も時々そう思うことがあります。紛らわしいことこの上ないやり方を彼らはしているように見えるので、なぜそうしないのかと。おそらくこれには人間の側に及ぼす心理的影響に対する懸念もあるのでしょう。とくに政治家や軍関係者たちはそれを「安全保障上のとてつもない脅威」と見なして、映画『インディペンデンス・デイ』みたいに「エイリアン退治」に乗り出しかねない。これは人類全体の危機だとして、軍事費を増額し、非常事態宣言を発するなどの騒ぎになりかねないのです(そういうのは人々の鬱積した不満の好都合なはけ口としても利用できる)。恐怖や猜疑心の強い、攻撃的な動物であるこの地上の生物とはそうかんたんに平和で友好的な関係は築けない…。彼らはそんなふうに思っているのかもしれません。

 このUFO、エイリアン問題には一括りにはできない多様な側面があります。しかし、まずはいたって現実的、世間的な側面から入りましょう。UFOやエイリアンとの遭遇事件には様々なものがあるようですが、南ア、ジンバブエで起きたアリエル・スクール事件(1994年)や、Netflixの「未解決ミスタリー」のシリーズ1の5番目、「バークシャーにUFO出現」というよくできたドキュメンタリーで取り上げられているアメリカ、マサチューセッツ州の事件(1969年)など、これだけ多数の、相互に矛盾の少ない、かつ具体的な目撃・体験証言があれば、ふつうなら誰もその現実性を疑うようなことはないでしょう。しつこく「否定し難い科学的・物理的証拠を見せろ!」と迫ることもない。どう見ても彼らが嘘をついたり、正気を失っているようには思えないからです。にもかかわらずそれが受け入れられないのは、出来事が特殊なため、「そんなことはありえない」とする今の科学的マテリアリズムに支配された文明社会特有の激しい心理的抵抗があるからです。

 僕にはそれは馬鹿馬鹿しいことに思えるのですが、それがSFとして発表されたり、オカルト界隈で、あくまでその内部で盛り上がったりするのはいいが、それがこの社会全体で容認されるべき現実の出来事であると主張したりすると、とたんに猛烈な敵意と侮蔑にさらされるのです。ハーバード大教授ジョン・マックのアブダクション研究が激しい批判というより非難を招いたのも、このあたりのことが関係するでしょう。彼はこの問題をキワモノ扱いせず、学問界、科学界にも真面目に受け取られるべきものだと主張したのです。それが何よりまずかった。それはオカルト愛好者のサークル内部にとどめられるか、さもなければ精神病理学の対象として扱われるか、されなければならなかったのです。

 僕に不思議なのは、UFOやエイリアンが存在して、それが地球を遠慮がちに訪問していたとして、一体何が不都合なのかということです(彼らが地球の植民地化を目論んでいるなんてのは妄想に類した話でしょう)。科学的に説明不能だといっても、その科学はまだ発達途上のものにすぎず、それが未熟なものであるということは科学者自身に自覚されている(それで何でもわかると思っているのは二流三流の学者だけです)。その程度のことで僕自身の世界観は揺るがないし、不安に陥ることもない。いつもどおり仕事するし、エイリアンに会えば、挨拶ぐらいはするでしょう。自分が誘拐されて宇宙船のベッドに縛りつけられて検査などされるのはできればご免こうむりたいが、そういう話を聞いても、その人が頭のしっかりした正直な人なら、それはたぶんほんとなのだろうと思うでしょう。Youtube でアリエル・スクールの可愛い子供たちがインタビューを受ける映像を見て、彼らが作り話をしているなどとは僕には毛頭思えませんでした。Netflix で正直そうな老婦人が語るのを見たときも、これは嘘なんかつく人ではないだろうと確信がもてた。彼らにはそんな作り話をしなければならない動機や必然性は何もないのです。彼らが遭遇したUFOやエイリアンがどこから来たかは謎ですが、起きたことは起きたのだと彼らは言っているので、それが合理的に説明がつくかどうかはまた別の話です。

 小林秀雄が菊池寛(かなりの霊感体質だったように見える)の幽霊話について、こういう面白い話を書いています。文芸春秋社の講演旅行で、それとは知らず幽霊が出るというので地元では有名な旅館に泊まり(それを買い取った経営者が事業挽回のきっかけにしたいと運動した結果そこに決まったことがのちに判明)、文庫を読みながらうたた寝してしまったとき、菊池は息が苦しくなって目を覚ましたのですが、見ると一人の見知らぬ男が自分の上に馬乗りになって首を絞めている。その異様な姿を見て、これは人間ではないなとすぐ気づいたので、「いつから出ている?」と訊いたというのです。幽霊が存在するか否かと言うような議論はヒマ人のすることで、彼はそんなことには何の興味もなかった。出たものは出たのだから、そうなった以上、必要なのはいつから出ているかと問うことだけだ。こういう人を本当のリアリストという、と書いていましたが、僕も同じ意見です。説明できないから、あるいはそれが自分の世界観に反するから否認するというのは、精神のひ弱さを証明するものでしかない。

 僕がUFOやエイリアンと同じく、幽霊も存在するだろうと思うのは、信じるに値する目撃・遭遇譚がたくさんあるからです。幽霊はその性質からして、前者以上に物質的証明は困難です。何しろそれは基本的に物質とは呼び難い存在なのだから。たしかに「幽霊の正体見たり枯尾花」式の目の錯覚はいくらもあるでしょう。しかし、それで全部が片付くわけではないので、それはUFO遭遇事件も同じなのです。

 昔は幽霊以外にも色々なものが存在するとされていました。たとえば、僕の田舎には集落ごとに氏神様があって、隣の集落の下手(しもて)にある大きなそれのご本尊は黒龍だとされていました。そこの氏神様のお祭りでは、子供には楽しい宝探しなどのイベントがあるので、僕は毎年のように出かけていたのですが、そのとき祖母から聞いた話によれば、それを篤く信仰するおばあさんがいて、それは祖母のよく知っている人でしたが、あるとき氏神様の社に参拝して、どうぞ一度でいいから姿をお見せ下さいと一心に祈ったのです。すると、しばらくたって巨大な黒龍が現われて、その胴体が谷の向こう岸にまで届いて、その重みで木々がみしみしと音を立てた。それでそのおばあさんは仰天すると共に、そこのご本尊が黒龍様だと知ったと言う話で、祖母が付け加えて言うには、他の霊能者が別々に見ても、皆あそこは黒龍だという。だからそれは間違いのない話だというので、小学生の僕はそのアナコンダも逃げ出すほどの巨大な黒蛇を想像して戦慄したのですが、祖母はそれに何の疑いももっていませんでした。他方、僕の実家に隣接する氏神様は白龍で、これも見立てが一致している。前に男女二人組の布団売りが来て、男性の方が商売そっちのけでそちらの方に行ってしまい、戻ってきて、「あれはどえらい神様やから、大事にせんといかん」と母に言ったので、母はむっとして、そんなこと、言われんでもわかっとると答えたそうですが、相方の女性が言うには、この人は“見える”人で、それは出まかせではないと力説したそうです。

 こういう一種の霊獣もしくは半神的存在の場合、異界の存在で、ふつうの人には見えず、通常の物質的なからだはもたないように見えますが、そのおばあさんの「木々がみしみし音を立てた」という話からして、そのときは物質化していたのだろうと思われるのです。祖母は明治生まれの人でしたが、昭和生まれの僕の父(婿養子で、その黒龍様の集落の出身だった)も、ふだんは可愛げがないくらい実際的な人間でしたが、知らない土地で車を走らせていても近くに神社があるとすぐにわかるという人で、あるとき助手席の僕に、それは高校生の頃だったと思いますが、ああいうものは昔の人がきちんとそれとわかって建てたのだから、人間の都合で勝手に動かしたりするものではないと言いました。父にそういう面があるのを知って僕は驚いたのですが、一万くれるというのなら、一晩お墓で寝てくるぐらいはいつでもするが、神社だけはご免こうむると言ったこともありました。小柄な体に似ず肝の据わった人でしたが、あれだけはこわいと言うのです。

 こういう話は、現代人には馬鹿馬鹿しく思われるかもしれませんが、ついこないだまで、人々はそれを何の屈託もなく受け入れていたので、それで過度に迷信的になるなどのことはなく、僕の祖母も父も、安定感があって、現実的判断力にすぐれた人でした。ところが今の偏頗な科学主義は、異様なほどそういうことに非寛容になっているのです。それがかえっておかしなカルトにはまる人を増やしてしまったのではないかとさえ思える。何でもないことを異常視し、消毒を利かせすぎるから、本能的直観力も鈍り、ミソとクソの区別もつかない人を増やしてしまったのです。

 そろそろ話を戻しましょう。そういうわけで僕はUFOの目撃談などを日常現実の中にときおり割り込んでくる説明不能の事象の一つとして受け入れているのですが、それは幽霊や精霊、各種の風変わりな霊的存在(西洋の牧神パンや日本の天狗など)の目撃話と基本的に変わらない。UFOの違う点は、それがメカニックな外観をもつ乗り物で、エイリアンも防護服か体にぴったりしたスーツのようなものを着ていたりして著しく“現代的”になっているらしいことです。これの中間にあるものは有名な「ファティマの奇蹟」の「踊る太陽」(「1917年10月13日、集まった約七万人の群衆は雨に濡れていたが、太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返し猛烈な熱で彼らの服は乾いてしまった」とウィキペディアにはある)のようなもので、当時は空飛ぶ円盤という観念はまだなかったからそれは「太陽」とされたわけで、今ならUFOと解されるのがふつうでしょう。そこにカメラクルーがいて(当時だと無理な話ですが)、一部始終が録画されていれば重大証拠とされたでしょうが、それでも保守的な科学者たちはそれは大群衆によって引き起こされたヒステリー的な集団幻想で、その思い込みがあまりにも激しかったために、それが映像としても捉えられたのだ、というような、それ自体迷信的なこじつけをするかもしれません。そういう頑なな態度の方がよっほど病的ですが、彼らはそうは思わず、かえって正常な人の判断の方を病的なものと決めつけて嘲るのです。そこにあるのは感情的反発だけで、何の合理性もない。

 エイリアンにも色々あるようで、その中には昔の牧神(それは人をぎょっとさせる蹄のついた脚や悪魔的な外観をもつが、治癒的な力も示した)のような異界からやってきたものと解釈する方が妥当なものもあるように見えます。心理学者ユングの言うような、集合的無意識の中にある元型の外部世界への投影として説明できそうなものもある。しかし、先に見たアリエル・スクールの子供たちや、バークシャーのUFO遭遇事件などの場合、それは明らかに物質的、この世的な性質のもので、それはこの宇宙のどこかからやってきた異星人に違いなさそうに見える。言えることは、マックもその説明には苦慮したようで、パトリック・ハーパーの「ダイモン的リアリティ」なんて言葉を援用しているのですが、こうした現象は多面的で、一義的な説明を拒んでいるということです。

 ところが、現代人はこうした曖昧さを許容できない。何でも物質的な観点からきれいに説明できないと、「そんなこと、あるはずがない」と頭ごなし決めつけるのです。人間も、この世界も、それほど単純なものではない。こういう反応は今の科学的物質主義と、それによってつくられた世界観が偏頗かつ一面的なもので、それゆえ人が大きな不安をもつようになったことと関係するでしょう。先に小林秀雄の言葉を引用しましたが、彼はあれとは別のところで、民族学者・柳田国男の学者の域を超えた神秘家的な豊かな感性について触れた後で、最近はお化け(妖怪)の話なんかすると、そもそもお化けなんてものは存在するのでしょうかと言ってみたり、にやりと笑って見せるなど、自分はそんな迷信深い人間ではないということを示したがる人がやたらと増えた。こういうのは「自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けている」結果だと柳田は書いていると紹介した後で、「懐中にあるものとは、私たちの天与の情(こころ)」のことなので、それを否定するような偏頗な教育は不安を募らせ、人を狂わせるだけだと述べています。そこで槍玉に挙げられているのは戦後の唯物史観に基づく教育ですが、今の唯物的科学もそこは全く同じなのです。

 だから、僕がこの問題について言いたいことはこういうことです。今の物質科学でそれが説明可能かどうかを真偽判断の基準にすること自体が問題なので、それはたんなる科学の側の思い上がりにすぎないと。通常僕らは総合的な見地から真偽を判断します。常識を弁えた精神的に健康な人や、嘘などおよそつきそうもない正直な子供たちが間違いのない実体験として語ることなら、それが日常現実的にはありえないことに思われても、本当に起きたことなのだろうと受け入れるのが良識ある人のすることでしょう。この世は元来不思議に満ちていて、死者の霊が危険を知らせに生者の許を訪問することもある。そういうことは昔からよく知られていることです。UFOやエイリアンの出現もそれと似た非日常的な現実で、その種のことでは実験室での再現などはもとより不可能なのだから、あらゆることにそれを求めるのでは、僕らがこの人生で体験する貴重な出来事の大半は虚偽として否定されてしまうことになる。そういう物質科学の専横を人々は許す気でいるのか? 僕自身は拒否するので、説明がつかなければ、説明のないままで、それが説明可能になるまで待てばいいのです。あるいは、それが可能になるように自分の世界観の方を修正する努力をすればいい。それが知的誠実さをもつ人間のやるべきことです。

 僕らは今でも日常的にはニュートン物理学の世界に暮らしています。学校でも相変わらずそれを教え、たいがいのことはそれで足りるが、それはアインシュタインの相対性理論によって根本的な理論的修正を迫られた。絶対空間、絶対時間の観念は今は虚偽のものとされているのです。そしてアインシュタインの相対性理論は、量子物理学の挑戦を受け、量子の不思議な動きは変数理論などでは説明がつかず、これも理論的な屋台骨を揺るがされている。科学の領域ではすでにそうなっているのに、各種の超常現象やUFOはいまだにニュートン物理学的な平板な世界観から裁かれ、否定されているのです。これは実にふざけた話なので、およそ徹底性を欠いている。何の権利あってそんなエラそうなことをしているのか。

 僕は現代人の心がやせ細って彩りを失い、たえず不安にさいなまれ、一面的・機械的な屁理屈を際限もなくこね回して利口ぶる以外に能がなくなったのは、狭い物質科学の尺度によって多くの人間的に重要なものが否定、抑圧の憂き目にあっていることと大いに関係があると思っています。それで虚ろな心を抱えたまま、このUFO問題などでも、自分たちを虐待している当の科学の専制の方に与して、体験談を語る人たちを嘲るのです。それは自分がいじめに遭うことを恐れて、いじめっ子に追従し、たえずそのご機嫌をとって、一緒にいじめ行為に加担する子供たちの心理とよく似ています。自分の胸に手を当ててよく考えるなら、その不毛な心のメカニズムは理解されるようになるのではありませんか? 真に科学的な態度というのは未知に心を開いたもので、そういうものではないはずです。

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