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「君が代」起立は民主主義か?

2011.05.20(07:24) 84

 僕がこれを書いているのは深夜なので、もう日付が変わりましたが、仕事に出かける直前、ネットのニュースサイトで、「ツイッターに『これが民主主義だ』 橋下知事、国歌起立条例で攻勢へ」という見出しの新聞記事(産経)を読みました。

【19日開会の大阪府議会。橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」は、府内の公立学校の教員に対し、式典での国歌斉唱時の起立を義務づける条例案を提出する方針だ。過半数を占める維新が提案すれば、可決は確実。
 教職員組合などは「公教育への介入、教職員への思想統制」と反発を強めるが、橋下知事は「公務員が国歌斉唱時に起立するのは当たり前」と、議員提案で一気に可決に持ち込む構えだ。】

 サンケイの保守的な読者層でなくとも、今はこの橋下知事の考えを支持する人は多いのではないかと想像します。「入学・卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱は平成元年の学習指導要領で義務づけられ、(平成)11年には国旗は日章旗、国歌は君が代とする国旗国歌法が施行され」(同記事)ているのであり、「起立は府民感覚として当たり前。国旗、国歌を否定するなら公務員を辞めればいい」という知事の言い分は一応尤もに聞こえるからです。

 これに対して、「教職員組合(日教組のこと?)」の「公教育への介入、教職員への思想統制」という反発は、「典型的な、偏った左翼イデオロギーによるもの」と受け止められることの方が多そうです。

 僕自身はこうした「強制」には明確に反対します。国旗国歌法の制定自体「よけいなお世話」に類したものだと思うのですが、そういうものができたからといって学校の式典で必ず国旗を掲揚し、全員起立して君が代を斉唱しなければならないとする論理が、そもそも気に入らないからです。

 大体、文科省がこの法律の制定より先に、それを「学習指導要領で義務づけ」したというのがおかしい。誰がそんなことをしてくれと頼んだのですか? 「愛国心の喪失」を嘆く自民党のおっさんたちとそのお仲間にすぎないでしょう。「国民の総意」がそうだったなどという話は、僕は聞いたことがないので、それ自体、「民主主義」的ではありません。

 こう言えば、「このサヨクめ!」と決めつける人がいそうですが、僕は若い頃から左翼嫌い、日教組嫌いで周囲にはよく知られていました。高校時代に出会った、ロクでもない日教組の活動家の教師二人がこの「左翼嫌い」の原因をつくってくれたようにも思うのですが(もっと人格的にマシな人に当たればたぶん違っていたでしょう)、当時は大学にもまだマルクス教信者(と僕は呼んでいました)が残っていた時代で、彼らと派手な論争をしたことも何度かあったほどです。むろん、かといって自民党の支持者ではなかったので、何たる腐れ政党かと、いつも腹を立てていました。要するに、政治的な身の置き所がなかったのですが、これは僕らの世代にはかなり共通したものかも知れません。仲間内では「政治的複雑骨折世代」と自嘲的に呼んでいました。政治的な関心は強いが、前の安保闘争世代の竜頭蛇尾ぶりにも大いに失望させられていたし、ニヒリスティックにならざるを得なかったのです。政治的心情としては、だから、僕個人はアナキズム(無政府主義)に一番近かった。これは「信条」ではなく「心情」がです。

 話を戻して、だから、僕のこの反対は政治イデオロギーとは無関係です。むしろ、そうした義務づけが露骨に政治的なものであるがゆえに、反対なのです。

 「日の丸」が国旗で、「君が代」が国歌というのは、それ以前から日本人の共通認識のようなものだったと言えるだろうから、またそれでさして大きな不都合もなく来ていたのだから(オリンピックなどで、明文で国旗と定められていないのに日の丸を掲揚するのはけしからんと、諸外国から抗議があったというような話は聞いたことがありません)、わざわざ「法制化」する必要がどこにあったのだろうかと思いますが、おそらく順序は逆で、学校で国旗掲揚と国歌斉唱をやらせたいというのが先にあって、言うことを聞かない学校や教師がいるので、それを法制化して、「だからそれをやるのは当然なのだ」ということにしたかったのでしょう。

 しかし、ここには論理の飛躍がある。先にも言ったように、僕は別に法制化などされなくても日の丸は国旗で、君が代は国歌だと認めていたでしょう。けれども、それを認めることと、式典の類で国旗を仰ぎ、国歌を歌う(しかも起立して)ということとはイコールではありません。だから、式典でそうしろと命じられて、そういうのは僕の好みではないので断ったら、「おまえは国旗、国歌を否定するのか!」と非難されるというのでは釈然としないので、「勝手な決めつけをするな!」と逆にかみつきたくなってしまうでしょう。

 たとえば僕がプロ野球の、ひいきのヤクルトスワローズ(今年は強い!)の応援に球場まで足を運んだとしましょう。そんなことが実際に行われているかどうかは知りませんが(わが親愛なるスワローズファンにはそんな非常識な人たちはいないと信じますが)、そこに太鼓を叩き、トランペットを吹き鳴らし、応援歌を歌って応援している一団の人たちがいたとして、自分たちがそうするだけでは満足せず、観客全員がそれに調子を合わせて、同じところで叫んだり、歌ったり、同じポーズをとるよういちいち周囲の人に強要していたとします。僕はうるさい奴だと思って、それを断わるでしょう。すると「おまえみたいな奴はファンじゃない、許しがたい!」と非難されたとします。これは明らかに不当なことです。僕は別に騒いで人に迷惑をかけているのでも、相手チームに声援を送って場をシラケさせているわけでもないのですから。そういう押しつけをする人間の方が手前勝手で、傲慢で、迷惑なのです。

 これはいくらか極端なたとえであるとしても、個人としては弱々しいくせに、集団になるとやたらと元気に、押しつけがましく、厚顔になる傾向が日本人にはあって、僕はそれを好みませんが、それがしばしば病的な“統制好き”となって表われるのです。

 学校の入学式や卒業式は晴れのお祝いの場です。それはそこに出る人たちがあれこれ工夫して、自分たちに一番望ましいと感じられるようなものに、相談し合ってすればいいと思います。国家がとやかく口出しすべき筋合いのものではない。少なくとも僕はそう考えます。地域色、学校色、豊かなものであっていいはずです。それでこそ「民主的」です。

 ところがこれに、日の丸は正面に飾れ、国歌は必ず全員起立で斉唱せよ、という指令が上から届く。よけいなお世話ですが、こうなると、世の中にはとくに統制好きの形式主義者、権威主義者というのがいて、彼らは北朝鮮のマスゲームみたいなのがお気に入りなので、「国からの指示だから」というので妙に張り切って、必要以上に窮屈なものにしたがるのです。これに先の日本人の本能的な集団的傾向が加わると、それから外れるのは許しがたい、みたいな雰囲気に、いつのまにかなってしまう。

 こういうの、僕にはヒジョーに気持ち悪いのです。「思想統制」がどうのというより、美学に反する。もっとナチュラルにやってくれと言いたくなる。今どきの成人式みたいに無茶苦茶やれと言うのではありません。二十歳にもなって、最低限の人間的礼儀もわきまえないのはただの馬鹿です。北朝鮮みたいなことをしてくれるなということなのです。

 これ、要は「愛国心」というやつを子供たちに植え込みたいからなのでしょう? 要するに、“洗脳”したいのです。戦前の夢よ、もう一度! それ以外に、何があるのですか?

 「最近の若者や子供は」と保守派の政治家や論客は言います。「自分のことばかりで、公徳心、道徳心というものがない。昔は教育勅語があってよかった! そういうものがなくなったのが今の若い世代の堕落の原因だ。まずは国旗を仰ぎ、君が代を斉唱させるところから始めなければならない」云々。

 しかし、戦前戦中のあの軍部のお偉方の傍迷惑な独善性と腐敗ぶりは、どこから出てきたのですか? へタレ政治家たちの無責任さは? それに今のあなた方の、一体どこが「公徳心」に満ち満ちているのですか? 権力欲と虚栄心を剥ぎ取ったら、そこには何が残るのでしょう?

 だから、道徳がどうのこうのという議論に、説得力はまるでないわけです。要するに、自分たちが号令をかけたいだけ、子供や若者をそれに従わせたいだけなのです。それが彼らにとっての「理想の政治」であるわけです。

 僕自身は、いまだに君が代の歌詞すらロクに知りません。60~70年代のフォークやロックが好きだった僕には、あれはどうにも波長が合わないので、憶えようという気にもなれない。ボブ・ディランの歌詞なんかは、昔必死で憶えようとしたものですが(音痴なので、人がいないところで歌っていたのです)。

 入学式で君が代を歌わされた記憶もありません。こういうのは「誤った日教組教育」の不幸な結果だと、保守派の人たちは憂えるかも知れませんが、先にも言ったように、日教組的な政治イデオロギーには全く感染することがなかったのです。ただ、式典の類でそのようなものを強要されなくてすんだのは有難かったと、そのことには感謝しています。おかげで窮屈な思いをさせられなくてすんだのですから。中学の卒業式のときのこと、卒業証書を授与された後、順々に退場していく際、「蛍の光」が流れたのですが、当時はまだレコードの時代で、それを担当した先生が回転数を間違えて早回しになってしまい、「しめやかな厳粛さ」が台無しになってしまったことがありました。おかげで皆「泣けなかった」のですが、それが懐かしい、笑える思い出として今も記憶に残っているのです。

 幸いなことに(と僕は思います)、国旗や国歌の強制で、今の子供たちが洗脳されてしまうことはないでしょう。オトナたちがあれこれと無責任なことを重ねていてくれるおかげで、今や大人の権威も、国家の信用も台無しになっているからです。今回の福島の原発事故をめぐるドタバタなどは、それにとどめを刺したものと言うべく、僕も塾の生徒たちに、「見てごらん。これで今の大人がどんなに無責任でお粗末かわかっただろ。君らは大人を頼りにすることはできないので、これからは自分がよほどしっかりしないと、この国は潰れてしまって、大変なことになってしまうからね」と言っているのですが、彼らは皆神妙な顔をして聞いています。「道徳教育」だの「愛国心」だのと、どのツラ下げてそんなエラそうなこと言えるのかと、僕には不思議なのです。
 
 結局、子供たちの側に立ってみるなら、国旗が掲揚されようが、君が代が斉唱されようが、それで何がよくなるわけでもないのです。そもそもの話、本来なくていい、おかしな法律や「義務」をつくって学校現場に押しつけるから、「従え」「従わない」という争いが起きるので、政治家や役人たちは、他にいくらでもしなければならないことがあるだろうに、何を下らないことをやってるのだろうと呆れるのです。

 よけいな、押しつける側の自己満足でしかないようなことは、さっさとやめるがいい。そんなことより、子供は大人の背中を見て育つので、見せられないような背中しかもちあわせない不甲斐なさをこそ、僕ら大人は恥じるべきではないでしょうか。

 こうしたナンセンスな国旗国歌の一律強制は、民主主義ではなく、全体主義でしかないと、僕は思います。お好きな人は、自分で国旗を掲げたり、君が代を歌ったり、人に強制せず、おやりになればいいでしょう。それが人間的魅力に富む素晴らしい人なら、真似する若者や子供も出てくるかもしれません。それが「民主主義」的なやり方というものです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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