FC2ブログ

タイトル画像

臨死体験時の幻像と現実世界

2021.06.10(17:51) 839

(先日、突然思い立って、文章を書き始めました。これはその第二章に当たるもので、昨日散歩の途中思いついて、半日ほどかけて書き上げたものです。最初の章は「脳が意識を生み出すのではなく、意識が脳をつくり、使っている」と題したもので、それはかつては多重人格、今は解離性同一性障害と呼ばれる患者の脳が興味深い反応を示していることが確かめられたという英文記事をヒントに書き始めたもので、タイトルどおり、常識とは逆の結論になっています。第三章は「UFOとエイリアン」になる予定で、そこでも“非常識”なことを書くことになるだろうから、全体が世間常識に反するものばかりになりそうですが、前後はつながっているとしても、ある程度独立して読めるので、二番目のこれが一番受け入れられやすい議論かなと思ったので、公開して読者の反応を見てみたいと思いました。異論、反論、ご質問等あれば、それがちゃんとしたものであるかぎり誠実にお答えしたいので、お寄せいただければ幸いです。後でそのやりとりも追記として書き加える予定です。)


 臨死体験というのは心肺停止などの、通常は臨終と解される状態となった人たちが蘇生した際に語る不思議な体験ですが、それには色々なヴァリエーションがあって、暗いトンネルを抜けて光あふれる美しい世界に出て、そこで亡くなった人たちや神的、天使的存在に出会うとか、日本式のそれでは三途の川を渡って、お花畑のようなところに出て、やはりそこで亡くなった知り合いに会ったとか、様々に語られます。その結果、あの世の存在を確信して、心穏やかになり、その後の生き方が変わったと言う人も多いとされる。

 これについては科学の側からの反論があって、そういう話は人によっても文化によってもしばしば大きな違いがあるところから、客観的な実在とは考えられず、睡眠時の夢のようなもので、脳が紡ぎ出す幻像のようなものだろうというのです。げんにそれは幻覚誘発剤のようなものを使ったときにも生じるので、両者には多くの類似点がある、云々。

 それよりも僕が面白いと思うのは、意識不明の状態で横たわっていたにもかかわらず、そのとき病室やその周辺でどんなことが起きていたか、意識を回復してからつぶさに説明する人がいて、その描写の正確さが医師や看護師、家族などを驚かせることがあるという話です。そうした現象が、ウィキペディアの「臨死体験」の項では次のようにまとめられています。

 臨死体験中には体外離脱現象が起こることが知られている。全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと天井に浮かび上がっており、ベッドに横たわっている身体を見下ろしたり、ドクターの側で手術中の様子を客観的に眺めている自分に気付く。そうした体験は現実世界以上の強烈なリアリティーが伴うため、幻想ではないと語る者も多い。こうした体外離脱中には幻覚的な体験が起こることもあるが、現実世界で起きた出来事を体験者が後に正確に描写できる事例も珍しくない。

 マイケル・セイボムの研究では、臨死体験者たちが体外離脱中に観察した治療室の蘇生場面を描写した結果、専門医のカルテの記述と一致し、研究者のセイボム自身を驚かせている。彼が調査したある臨死体験者は、治療者が行った施術の詳細や、メーター計器の針の数値、道具の色や形、物理的視野に入らなかった物品までもを描写できている。その描写は臨死体験者ごとに個別的で、専門医であるセイボムから見ても間違いの殆ど無いものであった。

 キンバリー・クラークによる研究にも同様の例がある。心臓麻痺により病院の2階に運ばれたマリアは、体外離脱を起こし病院から抜け出した後、病院の3階の窓の外にあるテニスシューズを確認し、意識回復後に医師に報告した。医師が確認をしに3階に上がったところ、マリアの描写はシューズの色や形・細かな状態にいたるまで正確であることが判明した。この「マリアとテニスシューズの例」は有名な体験例となった(後に立花隆が、テニスシューズはマリアのいる病室などからは全く見えなかったことを確認している)。

 体外離脱中には「天的な世界に入った」後に「何らかの境界線を感じ引き返した」とする証言も多い。また、知覚や感覚の拡大が起こる事も多く「一度に周りの風景を360度見ることが出来た」「生前に手足を切断された者が体験中は四肢を取り戻していた」といった報告をする者もいる。


 こうした対外離脱と解される現象それ自体、前章で述べたように意識が脳から独立した存在であることを示唆していますが、こちらの場合は、現実に起きたことと一致しているという裏付けがあることから、たんなる「幻視」として説明し去ることはできないわけです。

 むろん、だからといってその人が見た「あの世」の光景も全部客観的な実在だと主張することはできないでしょう。そちらに関しては今のところ検証のすべがないからです。しかし、そもそもこの「客観的実在」というのは何なのでしょう?

 僕自身は臨死体験はしていませんが、次のような奇妙な夢を見て、「この世界も実は一個の夢のようなものなのではないか?」と思ったことがあります。

 もう二十何年も前の話ですが、冬のある日、コタツに足を突っ込んだまま寝てしまったことがあります。しばらくして目を覚ますと、同じ体勢でいたのですが、どうもおかしいなと思うところがありました。部屋は同じに見えたが、カーテンの色や模様が異なっているのです。寝たままの姿勢でふと横を向くと、そこに目覚まし時計がある。四角い形で、蓋の一面に中の時計がくっついていて、開けてそれを立てることができるようになっている、そうすると横から見ると三角形になる、昔よくあったあの時計です。学生時代、たしかに僕はそれを所持していました。しかし、それはこわれてとうの昔に捨ててしまっていて、今の部屋にあるはずがない。何だかこれはおかしい、これは夢なのだと気づいたので、何か文字の書いてある紙片も散らばっていたので、それも手に取って見てみました。文字はたいそう美しくエレガントであるものの、読んでみると内容は支離滅裂です。僕はそのとき、カーテンといいその紙片の文字といい、人間の無意識というのは美的センスは十分で洗練されているが、知的な合理性とは無縁、またはそういうことに無頓着なのかもしれないと考えました。

 夢の中でこれは夢だと気づき、そう考えたので、これはいわゆる明晰夢の一つだということになりますが、次に僕はこれが夢であることを証明してやろうと思いました。夢なのだから、そう見えても実体はないはずだから、その時計を握ってみれば、それはぐにゃりと潰れるか消えるかしてしまうだろう。そんなふうに思って、意志力をふりしぼり、その時計に手を伸ばし、思いきり握ってみたのです。すると、驚いたことに輪郭どおりの硬質の感覚が手のひらにはっきりあった。僕は強いショックを受けて、そのまま意識を失いました。そしてしばらくたって目覚めると、今度はカーテンも元に戻っていて、今度はほんとに目が覚めたのがわかったのですが、手のひらにあの感触ははっきり残っていました。むろん、その時計はすでにそこにはなく、周囲に似たかたちのものもない。

 飛び抜けて嬉しいことがあったときなど、よく「自分の頬をつねる」と言います。つねって痛みがあれば、それは夢ではなく現実だという証明になると思ってそうするわけですが、僕は夢が夢であることを証明しようと同じ伝で時計をつかんだら、物理的な明確な感触があって逆に驚いてしまったのです。どうもそういうことでは「客観的実在」の証拠にはならないらしい。

 そもそもの話、客観的実在なるものがあるかどうかが疑わしいので、僕らのこの世界というのは五感を通じて伝えられた神経信号が脳によって処理された結果、それとして感知されるものです。歯医者さんに行って虫歯を抜いてもらったことがある人は、麻酔がまだ効いているのを忘れて、帰りに缶ジュースなど買って、飲もうとしてこぼしてしまった経験があるでしょう。顎の神経がマヒしているから勝手が全然違ったのです。

 また、量子物理学の知見によれば、少なくともミクロの領域では主観と客観は明確に区別できない。観察者と観察されるものは未分離で、観察が観察されるものに影響を及ぼしたり、現象が現象として確定するのは観察という意識による行為があってのことだなどと言われる(詳しくはその方面の本をお読み下さい)。僕らは自分の存在とは無関係に、自分の意識や心からは独立したものとしてこの周辺世界が存在すると思い、げんに朝起きたときは、寝る前と同じ世界が周囲にあるのだから、それは間違いないと思うのですが、この世界全体が集合的な夢の産物ではないと、どうして言えるのでしょう?

 夢の話をもう一つすると、夢ではしばしば予測不能のストーリーが展開されます。僕はしばらく前、夢の中である人物が言うことを聞いて驚き、憤慨したのですが、それは僕には決して考えつくこともできないような話で、僕の夢は僕の無意識の産物であるはずですが、少なくともユングの言う個人的無意識の領域からはそんなものは出てくるはずがないと思えるようなものでした。それはこの現実世界で起こること以上に、僕には意外なことで、一体あれはどこから出てきたのだろうと、目覚めてしばらく考え込んでしまったほどです。それは現実のこの世界で遭遇する見知らぬ人間の言うことと同じくらい、またはそれ以上に不可解で、「他者的」なものに思えたのです。その夢の世界そのものが僕の心からは独立したもので、そこに自分がたまたまいたという感じしかしなかった。つまり、この世界と同じかそれ以上に、それは「外在的」なものと感じられたのです。

 夢と現実との一番大きな違いは、明晰夢の場合には「これは夢」だという意識が働いているとはいえ、意識の明確さという点で全然違うことです。明晰夢の場合、一定程度のコントロールが夢にも及ぶことが知られていますが、この現実世界ではそのコントロールはもっと大きい。「この世はままならない」と言われるくらいで、それも高が知れているものだとはいえ、自由意志を人はもっていると考えられ、また感じられているのです。

 そして夢よりずっと、この現実世界は安定している。物質世界にはいまだ発見されていないものも含めて各種の科学的法則があり、それに従って生成していると考えられているのです。それは僕らの意識には明確に外在的なものと感じられる。だからそれは夢や幻覚などとは全く違う「客観的」な世界だとみなされるのです。

 しかし、前の章で僕らの通常の意識は解離性同一性障害の多数の人格がそれぞれ固有の意識や記憶、感情をもっているのと同じで、一つの宇宙的意識からすれば無数の乖離人格がもつ限定された意識のかけらのようなものにすぎないのではないかという考えがあることを紹介しましたが、この世界、宇宙全体がその根源的な一つの意識が紡ぎ出す巨大な夢に他ならないのではないかという見方も成立しうるのです。

 それは乖離した僕らの意識からすれば、外在的で、先の僕の夢体験のように、自分の意識や内面とは関わりのない自立した存在であるように思える。しかし、意識の座が自分の側からその宇宙意識の側にシフトすれば、様相はガラリと変わる。そのときこの世界はヒンズー教に言うリーラ、神の遊戯のようなものとして捉えられるかもしれません。この宇宙全体が「ブラフマンの夢」なのです。

 今の理論物理学には多元宇宙論というものがあって、それは僕の手に負えるようなものではありませんが、無数の宇宙が同時存在して、それは微妙に次元が異なるとか、またはそれぞれが気泡のようなもので隔てられていて、互いの存在を知らない可能性があるなどというのは面白い考えです。宇宙意識、ブラフマンの夢にも多様なヴァリエーションがあるということになり、それは僕らが夜見る夢が多種多様なのと似ています。

 臨死体験者が見る「あの世」の光景も、これと似た理由で多種多様なのかもしれない。それはその人の個人的な無意識と集合的無意識、さらには人間的なそれよりさらに根源的な意識が重なり合うところから紡ぎ出された「もう一つの現実」なのかもしれないのです。臨死体験者にはそれはこの現実世界と同じほどリアルに感じられる。それはこの世界が「客観的現実」だと考える人からすれば幻覚にすぎないと思えたとしても、実は「客観的現実」なるものは存在せず、この世界それ自体が宇宙的無意識が紡ぎ出す一つの夢に他ならないとすれば、これと較べてそちらはリアリティの度合いが低いとは言えなくなるのです。

 こういう見方が受け入れ難いのは、僕らの中の実体思考というものが非常に根強いものだからです。この世界は、周囲の事物や人は、明らかに僕らの意識とは独立して存在しているように見える。前に失くしたと思ったものが部屋のどこかから出てきて大喜びしたなどという経験は誰にでもあるでしょう。そのとき自分がそこにしまい忘れていたことを初めて思い出すので、それはあれからずっとそこに「客観的に」存在していたに違いないのです。僕らの意識にその存在が依存しているわけではない。これは自明に思われます。

 それは、しかし、あくまでも僕らの表層意識にとっては、です。無意識にはその記憶は保持されていて、それはそこになければならないものとされているから、そこを見たときそれは再発見されなければならないのです。そうでなければ意識の秩序は崩壊する。同様にこの宇宙の神羅万象は、僕らの意識、理解からすればその大部分が未知のものですが、それもまた僕らの限定された、先の言葉で言えば「乖離人格的意識」からすればそうだというだけで、根源的な意識からすればそうではない。仮に意識がa,b,c,d…というふうに層になって展開されているのだとすれば、dのレベルの意識にはcの意識の層にあるものは未知であり、cの意識にはbの層にあるものは未知なのです。しかし、それぞれの層にあるものはいわば「そうでなければならない」ものとして意識に保持されているのであり、それは静的、固定的なものではないとしても、必然的なものとして下位意識に“発見”、受容されるのです。その場合、dレベルの意識にはcの意識の層にあるものが「客観的実在」に、cの意識にはbの層にあるものが「客観的実在」のように見える。そしてaに辿り着いたときに初めて、それが自らが紡ぎ出している「夢」であることが自覚されるのです。

 日常現実でも、僕らが見ているものは異なります。いわゆる思い込みの激しい主観的な人の場合、狭い個人的な価値観や感情に支配されずに意識の明晰さと柔軟性を保持している人には受け入れがたいような偏った主張をすることが珍しくありません。上の伝でいえば、彼らはdの世界からさらに後退してしまって、eの世界にいるのです。それよりさらに悪化すれば、fの世界となり、いわゆる妄想患者のそれになってしまう。

 それらが同価値で、等しく尊重されねばならないとは僕は思いません。見ているものが人それぞれに違うと言っても、人間的意識の見地からして、eやfの人のそれは明らかに歪んだものであることはたしかでしょう。それは感情的混迷によって意識の明澄さが奪われた結果生じた歪んだ認識でしかないと解されるからです。この世界が一種の夢だと言うときでも、こうした理解は排除されない。寝ているときの夢と違って、この世界の夢は明瞭な意識(より次元の高い意識からすれば不明瞭なものかもしれないが)に映じたもので、通常の病的妄想とは違うからです。妄想に支配される人が大部分になれば、この世界は一個の悪夢と化してしまうでしょうが(それについては後に章を改めて論じることになるでしょう)。

 ここで述べてきた考えは、哲学では idealism、観念論と呼ばれるものの一つで、何ら目新しいものではありません。しかし、これはそうした書物に基づいて発想されたものではなく、自分で考えていったらそちらの方が理解の枠組みとしては道理にかなっているように思えるようになったということなのですが、いかがなものでしょう?

スポンサーサイト





祝子川通信 Hourigawa Tsushin


<<UFO・エイリアンとフォークロア | ホームへ | 興味深い世論調査結果>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://koledewa.blog57.fc2.com/tb.php/839-e68787ba
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)