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少数民族抹殺の歴史と生の意味

2021.04.20(12:40) 822

 先日、ピエール・クラストル著『大いなる語り―グアラニ族インディアの神話と聖歌-』(毬藻充訳 松籟社 1997)という本をネットで取り寄せて、おとといの晩、それを読んでいたら、色々な思いが群がり起こってきて、寝つけなくなりました。昔から、枕元のスタンドをつけて催眠剤代わりに本を読むのは僕の習慣なのですが、時々本の選択に失敗して、徹夜で読んでしまう羽目になるので、今回も同じ愚を犯したわけです(洋書だと早く眠くなるのではとそちらにするときもあるのですが、それだと夢の中で英文の続きが出てきて悩まされることがある)。どうも六十代の老人らしくなくて困ります。

 まず、この本をどうして取り寄せたのかという経緯からお話しすると、しばらく前に本を整理、というか、あまりにもあちこちに本が散らばりすぎているので、それを片づけていて、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(山上浩嗣訳/西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013)が、読みかけて中断したままになっていたことに気づいて、それを読んだのですが、その中に「付論」として、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの関連文章が入っていて、ヴェイヌは若い頃、面白いと思って何冊か読んでいたのですが、ピエール・クラストルという人は知らない。しかし、その文が面白かったので、註を見ると、政治人類学なるものの専門家だという。それでネットで調べると、その筋では有名な人で、1977年に43歳の若さで交通事故で亡くなっている。学者としてはこれからというところで残念です(今度上梓する訳本の著者、ジョン・マックも交通事故で亡くなっていますが、こちらは74歳でした)。

 ついでに、この『自発的隷従論』ですが、訳者がつけた註の充実ぶりにはびっくりで、西谷修氏の解説もいいものだし、まさに「学芸文庫」の名に値するという感じで、僕は割と注釈の類も細かく読むほうなのですが、読みながらこれは凄いなと唸ってしまったほどです。原著者としても、こういう訳本を作ってもらえれば本望でしょう。妙な言い方をするなら、本文よりも訳註や解説の方が面白かったぐらいです。

 話を戻して、それでこのクラストルという人の本を探したら、訳が何冊か出ていて、一番手っ取り早く読めそうなのが冒頭の本だったので、取り寄せてみたのです。新本を注文したのに届いたのは97年1月の初版だったので、24年たってもまだ残っているということはあまり売れなかったということですが、これはインディアンもので題材が一般受けしない上に、研究書なのでそう珍しいことではなく、本の価値とは関係がない(前にイギリスに本を注文したら、40年前に出た初版が届いたので、感動したことがある)。これは同じ話の複数バージョンを紹介していたり、読み物としては退屈なところもありますが(動物が登場する子供向けの昔話の趣もあって、笑える箇所もある)、あちこちに考えさせるところがあって、僕自身は非常に面白く読みました。薄い本だなと思ったのですが、本文は二段組になっているので、全142頁の本にしてはボリュームがある。1500円(税別)という定価は、従って良心的です(ついでに言うと、文化を重視するなら書籍には消費税をかけないようにすべきです)。

 僕がこれを注文したのには他にも理由があって、それはアメリカインディアンの文化に関するものだったからです。訳者の毬藻氏によれば、このグアラニ族とは今のカイオワ族と呼ばれる人たちだという。それだと聞いたことがあると言う人が多いでしょう。これはその神話と聖歌を収録し、それに解説を加えたものなのです。

 僕は文化人類学には疎く、その方面はあまり読んだことがないのですが、ものすごい山奥に育って、遊びと言えば狩猟採集民生活を無意識に模倣するようなものばかりだった上に、祖母の溺愛を受けて育ち、その祖母は明治生まれで、旧暦に従って古来の祭礼を執り行いながら一年を送っているような人で、たいそう信心深かった上に、学校教育とほとんど無縁だった人にはときにあるように、驚異的な記憶力の持主だったので昔話(それは近代合理主義的な見地からすれば、荒唐無稽なものを多数含んでいた)をたくさん聞かされ、幼時環境の影響力は大きいので、そういうのが全部合わさって、シャーマニズム的な感じ方、考え方に親近感を覚える素地ができたのかもしれません。

 たぶん一番変わっているのは、祖母は通常の神様仏様の他に、妙見様という土俗宗教(それは北斗七星と関係する)を熱心に信仰していたのですが、その関係で、僕は小学校を卒業するまで必ず月に一回、第一日曜だったと記憶しているのですが、温泉町にあるみすぼらしい建物のその妙見様に連れて行かれ、そこの主人である巫女さん(無欲な人でしたが、すぐれた霊能の持主とされていた)のご祈祷を受けさせられていたことです。祖母はよく「おまえは氏神様の申し子だから」と言っていて、その割に泣き虫で体躯が貧弱だったので、特別に霊界からの加護(?)を仰ぐ必要があると考えていたのかもしれません。本人は親の目を逃れてアイスやお菓子を買ってもらえるのが嬉しくてそれに従っていただけで、子供心にもそんな話は信じられなかったし、実際的で合理主義的な両親も害はないだろうということで口出ししなかっただけなのですが、今思えばこういうのはシャーマニズムそのものです。

 ついでに笑い話をすると、そのうち牙のような大きな八重歯が口の両側、しかもかなり上にはえてきて、それに上唇が引っかかって口が開けにくくて困るので、そう母に訴えると、おまえは人間の子供ではないから、そんな動物の牙みたいなのがはえてくるのだと、それを逆手にとって面白半分に言う始末でした。歯医者の先生は「そのうち下に降りてくるから大丈夫」と保証しましたが、全然そうはならず、しまいにはどちらも虫歯になって抜く羽目になり、それでやっと「人間の顔」になったのです。その牙と妙見様が関係あったのかどうかは知りません(息子にも特大の八重歯があるのですが、幸いなことにそれは片方だけです)。

 話を戻して、当然の流れとして、成長すると共に僕はそういう世界から離れて「文明化」されていったのですが、子供時代の環境というのは恐ろしいもので、今のこの物質主義的・合理主義的な文明社会にはどうにもなじめないところがあって、自分の原始性のようなものを強く自覚せざるを得なくなりました。そこから異端的なものや少数民族などに親近感をもつようになって、その中には当然、アメリカインディアンに対する同情と共感のようなものも含まれていたのです(だから、インディアンを悪者にした昔の西部劇なんか見ると、不当だと腹を立ててしまう)。

 もう一つ、今回の『エイリアン・アブダクションの深層』には、南米、北米のシャーマンが出てきます。二人とも西洋白人との混血ですが、その伝記的記述を読んでいて、彼らが今もなおどれほど悲惨な状況に置かれているか、あらためて胸に迫ってきたので、そういうこともあって、これはぜひ読んでみたい本だと思ったのです。

『自発的隷従論』の中に収められたクラストルの「自由、災難、名づけえぬ存在」から少し引用させてもらうと、彼は「あらゆる権力は抑圧的であり、〈区別〉を伴うあらゆる社会には――その社会が自然に反するものであり、自由を否定するものであるかぎりにおいて――〈絶対悪〉が宿っている」というのですが、そこから次のような見解を述べるのです。

…原始社会は、いかにして不平等、〈区別〉、権力関係を生じさせないように機能していたのか、いかにして災難を回避するに至ったのか、いかにしてそれが始まらないようにしたのか…。(中略)…原始社会が国家なき社会であるのは、そうした社会が、そもそも国家の出現によって特徴づけられる成熟した段階に達することができないからではなく、国家という制度を拒否しているからである。原始社会が国家を知らないのは、そんなものを望まないからであり、部族が族長制と権力とを分離したままで維持されているのは、族長が権力の保持者となることを望まないから、つまり、族長が君主となるのを拒否するからである。服従を拒否する社会、これこそが原始社会である。(『自発的隷従論』訳書p.206)

 僕は前にアーサー・ガーダムの『偉大なる異端』を訳しました。それは中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と思想(オカルトに分類されるようなものも含む)を扱ったものですが、こういうのはカタリ派の権力観と驚くほどよく似ているのです。カタリ派にはパルフェと呼ばれる聖職者と平信徒の区別は明確なものとして存在しましたが、それは自由を否定し、組織を階層化させるような性質のものではまるでなかったので、それは基本的に個人の自発性に基づく平等な共同体だったので、当時としては例外的に、男女差別もなかったのです(シモーヌ・ヴェイユがカタリ派に親近感をもったのもこうした理由によります)。それは当時人気を博して西洋世界に燎原の火のように広がり、これを大きな脅威と感じたローマカトリックによる大弾圧を受けて滅んだのですが、カトリックの方は厳格なヒエラルキーをつくり、配下と信者に絶対的な服従を要求し、国家という権力装置も丸ごと肯定して、これを従えようとしたのです。その結果、異様な国際神権政治が出現し、通常の弾圧に加え、幾度も十字軍なるものを編成して組織的殺人に明け暮れ、その規模はナチスを顔色なからしめるほどのものだったのですが、カタリ派がもしも同じような権力構造を志向する宗教団体だったなら、それに対抗しえたかもしれない。しかし、素朴な原始キリスト教徒的な在り方をよしとした彼らは、断固それを拒んだのです。

 アメリカインディアンたちが西洋白人にひどい目に遭わされ、抵抗むなしく敗れ去ったのも、彼らの社会が基本的に権力や階層秩序をもたず、約束や信義に基づく平等な社会を形成していたからです。白人たちの際限もない物欲・権勢欲や、言葉を目的達成のためのたんなる便利な道具としか見なさない(従って平気で嘘をつく)態度は、彼らの知らないものだった。善良な人間が貪欲なサイコパス集団にしてやられたのと同じで、土地(土地所有という厚かましい観念自体が彼らにはなかった)を気前よく貸し与えたら、自分たちが追い出され、殺される羽目になったのです。

『大いなる語り』の訳者、毬藻氏は、訳者あとがきで南北アメリカ大陸のインディオたちがどれほど悲惨な運命を辿らされたか、今もどれほど過酷な状況に置かれているかを1993年の朝日新聞の連載記事を引用しながら簡潔に述べています。

「絶望のインディオ居留地」と題されたその連載記事をさらに読み進んでいくと、数日後にこんな数字に出会う。先住民の血と悲憤で刻まれた野蛮の数字である――白人の入植が始まる以前のインディオの人口は、およそ600万人と推定されるが、今世紀〔註:20世紀〕に入ってからだけでも100以上もの部族が抹殺され、ここ七年間に確認された見接触部族のうち33の部族が消滅した。現在、ブラジルに残されたインディオは、187部族、25万人であり、「白人と接触した400年間でわずか4%」に激減した。そして「過去20年間に、インディオのために戦った運動家が114人も殺されている」…。1500年にブラジルが「発見」されて以後、土地を強奪され、奴隷化され、伝染病をまきちらされ、命と文化と自然を奪われてきた忌まわしい暴力と野蛮の歴史の果てには、申し訳程度に与えられた居留地と、過去仕込まれた居留地での自殺〔前の部分で、インディオ居留地での若者を中心とした自殺率は非インディオ社会の100~150倍にも達することが触れられている〕しか残されていないとでもいうのだろうか。…(中略)…アマゾンのインディオのある酋長は、インディオが滅びることは、地球が滅びることであると言っていた。このままで行くと2075年には、地球上の熱帯林は完全に消滅すると推計されている。(『大いなる語り』訳書p.137~8)

 事情は北米でも同じです。その一端は映画『ウインド・リバー』にも示されている。他にもオーストラリア、南アフリカ、ニューカレドニア、ポリネシア等々の先住民など、全部合わせれば、それはナチスによるユダヤ人虐殺の規模をはるかに超えるのです。あれは第二次大戦中で、かつ短期間に大々的に行われたから見えやすかったのですが、こちらはそうではなかったから忘れられやすいということにすぎません。

クラストルは集団虐殺(génicide)という言葉では表現できない現実が厳然としてあり、この現実は異民族文化抹殺(ethnocide)という言葉によってしか表現されないものだと言う」と、毬藻氏は書いておられますが、今の中国がウイグル人相手にやっていることなども、これと全く同じでしょう。それに関する記事を一つ。

収容所では性暴力や拷問も横行……「中国最大の国際的汚点」ウイグル問題で難民が続出

 中国の「同化政策」なるものは、「異民族文化抹殺」の別名なので、それはかつて侵略したチベット相手にもやってきたことです。それと「集団虐殺」の両方を同時にやっているので、世界から非難されるのは当然ですが、他の国の多くも、実は自分の入植先で同じようなことをやってきたということです。だからといって中国がそれを引き合いに出すのは、強盗殺人犯が「おまえらも似たようなものだから何も言うな」と居直るのと同じなので、そんなもの、まともに相手にする必要はありませんが、自分たちの罪を否定することはできないのです。

 思えば日本にとっての韓国問題も、彼らは並外れてしつこい上に、約束は守らないし、嘘や誇張も平気で並べ立てると僕らは腹を立てるわけですが、かつての日本統治時代、それで彼らの物質次元の生活はおしなべてお粗末な大韓帝国当時よりはマシになったという事実があったとしても、異民族の植民地にされて、その支配に従うことを強要されたということ自体、愚かな自国政権にひどい目に遭わされるのとはまた別の、強い屈辱感を伴うものだったのでしょう。

 古代においては朝鮮半島国家は日本の先輩格で、多くの文化や技術を日本にもたらしました。それは事実で、帰化人も多くいて、当時は関係も良好だったのです。支配・被支配の関係などはなかった。なのに、李氏朝鮮500年の停滞した愚政の果てに、そうした優位性はすっかり失われ、近代化にも大きな後れを取って、かつては教える相手だった日本の植民地にされ、その支配に甘んじる羽目になってしまった。そこに働く強い屈辱感ゆえに、事実認識においても冷静さを欠くことになって、日本人から見れば、明らかな行き過ぎと感じられるようなああいう態度になってしまうのかもしれません。当時の大韓帝国はかなりひどい国でした。それは為政者、支配層が駄目だったからですが、それを言われるとなおさら腹が立つというのは、民族感情としては理解しうることです。駄目な親でも、自分が言うのはいいが、他人から指摘されると腹が立つというのと同じです。植民地支配を受けるということは、民族の自立を奪われるのと同じで、「おかげで君たちは前よりはマシな生活ができるようになったのだ」などと言われると、そこに一面の真理があればなおさら、屈辱感は増すのです。独立を自力で勝ち取ったわけではないということも不快な材料の一つで、中国の場合には、共産党の手柄ではないとしても、正面から抗日戦争を戦ったという自負があるが、韓国にはそれもないのです。だから心情的になおさら屈折してしまう。

 僕はネトウヨ的な、「日本人は常に紳士だった」説には与しませんが、中国が今ウイグルの人たち相手にやっていることと較べれば、まだしも「紳士的」だったかもしれません。しかし、他国を植民地支配するということは、個別具体的な対応以前に、その地の人々にとっては侮辱的であり、人としての尊厳を害するものであるということは否定できません。実際にあったことならともかく、作り話までして非難するのはやめてもらいたいと思うのは人情ですが、やはりそこはよく考えてみなければならないなと、あらためて思った次第です。

 クラストルの場合は、そこにとどまらない。国家の成立を社会進化の必然とする考え方自体に彼は異を唱えて、インディオたちの社会は「未開」だったのではなく、国家というシステムが人間の自由と平等を根底的に侵害する危険な罠だということを見抜いていたがゆえに、意志的にそれを拒んでいたのだとするのです。それがラ・ボエシの言う「自発的隷従」を生み出して、人々はあえて権力による圧政を欲するがごとき習性をつくり出してしまった。「脱自然化」の結果、「自由への意志が隷従への意志へと変化しているような新たな人間」の出現を見たとするのです。

 上下関係を前提とした儒教道徳などはこの国家体制的支配と強い親和性をもっていたわけですが、老荘思想はこれに対する強力なアンチで、しかし、それはそれと正面から戦おうとするものではない。そういうこともまた「もう一つのさかしら」のように見なされて、せいぜいそこからドロップアウトして生きるすべを教えるようなものになって、だから中国の専制国家体制はずっと続いたのです(今のあれも共産主義「王朝」でしかない)。

 というより、それはいったん作ってしまうとどうにもならなくなってしまうような性質のものなのかもしれません。たとえそれが民主主義政体に移行しても、権力の基本構造は変わらず(同じ隷従心理に支えられているがゆえに)、忖度と追従が幅を利かせて、内部の人々は自由への恐怖と敵意をもち続けたままになる。またその民主主義なるものも、国家の異分子と見なされた人たちには適用されず、民主主義国家を自任するアメリカにおいてさえ、インディオたちへの暴虐は見過ごされるままになったのです。日本でも、アイヌや沖縄の人たちに対する差別(それは米軍基地問題を見てもわかる)は歴然として存在する。その存在自体が目に入らない、あるいは目に入れようとしない無意識のメンタリティが存在するのです。それが「自発的隷従」とセットになっている。

 これは難問です。いまさら〈国家以前〉には戻れないし、かといってこのまま何もしないのでは、社会に満ちる閉塞感と呪詛は募るままになって、いずれ自壊する。今の環境危機は内部のそれの合わせ鏡みたいなもので、今現在でもすでに崩壊寸前なのです。

『エイリアン・アブダクションの深層』第三部の終わりのところで、「なぜアブダクティたちはセラピストといる時よりもシャーマンと一緒にいる時の方が快適に感じるのか」という問題に関して、「シャーマニズムでは、あらゆる人の道が独自なのです」という、アーティストでシャーマニズムの研究家でもあるアンドレア・プリチャードの言葉が引用されているのですが、今の文明社会の中では大多数の人が自由と共に本来はもっていたはずの「独自性」を奪われ、その結果「なくて七癖」程度の、それ自体型にはまりすぎた表面的な個性を主張し、競い合うという不毛な状態に陥っているのです。インディオたちにはその種の「個性」の主張などはない。それはそんなことを必要としない各自の独自性があらかじめ認められ、感得されているからで、そこにある「個の尊重」の意味合いは全く違うのです。

 一つだけ、関連個所を引用すると、それは子供の命名の際の態度にも表れます。今の日本ではキラキラネームなるものが大はやりだそうですが、そうでなくても親個人が思いついた名前をつけ、字画の吉数で漢字を決めるのがふつうで、そこにはそれ以上の意味はありません。それは「個人の嗜好」のレベルを出ず、何か大きな宇宙的なものから与えられた存在論的意味合いなどというものはないのです。しかし、グアラニ族にとってはそうではない。

 未開社会のあらゆる部族と同じように、グアラニ族にとっても、子供の誕生は、その生物学的な意味や社会学的な含意から大きくはみ出るものである。それは、徹頭徹尾、超自然的なもの、メタ社会的なものの管轄に属している。生殖、つまり子供の身体を生産する行為は別にして、その他残りのすべてのこと、すなわちこの身体にその人格的な規定を割り当てることは、神々の自由な活動に依存しているのである。たとえば、この身体に住みつきにやってくる魂――〈住みつく言葉〉――の出生地の探求、子供が持つことになる正確な名前の探求は、賢者=シャーマンによって行われる。子供は、いわば生気のない空間――身体――として存在しており、この空間がアイブ――言語――の小片によって住みつかれ、生気を与えられるのだ。この小片が、この子供にとっては彼のフィエエンを、つまり彼の〈住みつく言葉〉、彼の魂を構成しているのである。どのような名前が与えられるかは神々によって選ばれるのであり、名前が与えられることによって生者は個人に姿を変えるのである。名前を読み取り、それを言うのはシャーマンの仕事であるが、彼はこの子供の正体を探求する上で間違いを犯すことはできない。なぜなら名前――テリ・モアン――とは「〈言葉〉の流れが・高まる・ように・させる・もの」であるからである。名前は、身体に残された神の徴であり、刻印であり、神の生である。(『大いなる語り』訳書p.104)

 何たる厳粛さ! 生のスタート時点で、個々の子供はそれほどまでに注意深い扱いを受け、その名前に与えられる意味合いも深いのです。物質環境的にはどれほど今の文明人が恵まれていようと、そこに聖性が認められることはない。言葉は魂の等価物であるがゆえに、彼らは言葉を大切に扱うのですが、ここでは名前とはその子の魂の呼称なのです。それは聖なる神の、全的な霊性の一片であり、それによってその子は聖なる全体と――当然自然とも――つながっている。それは現代文明人のいわゆる「個性」などというものではない。存在論的な深い意味合いと共に、彼らは部族、共同体に受け入れられるのです。それが空虚なものであるはずがない。

 若者のいわゆる「自分探し」なども、そんなことはナンセンスだと嘲る人は少なくありませんが、「自分の魂の名前がわからない」から起きることで、「自分が何者なのかわからない」という不安は生涯ずっとつきまとうのです。そこで多くの人はその心理的補償として成功を追い求め、権力や地位、名声、あるいは財力が何より重要なものになってしまうのですが、そのためには通常、追従や迎合、忖度が不可欠になるので、悲しいかな、自由でも、独自性をもつ存在でもなくなってしまうのです。今の文明世界では権力それ自体、「自発的隷従」の末に辿り着くポストなのです。僕はいわゆる成功本の類は読んだことがありませんが、そこには必ず、むろんもっと見栄えのいい言葉に置き換えられているでしょうが、その重要性が説かれているはずです。権力を手にして堕落するというより、そこに至るプロセス自体が堕落への道なのです。そして頂点に立ってわがもの顔にふるまっても、その内面の虚しさは癒されない。この文明機構そのものがその意味で、人間のスポイルシステムなのです。そこでは「自由」という言葉も、「個性」という言葉も深刻な歪曲をこうむっている。だからそれが本当は何であるかを、僕らは知らないのです。

 何という空虚な、馬鹿げた世界に自分は暮らしているのだろうと、あなたは思ったことがありませんか? これは自分を高しとして他を見下すというようないい気なものではない、もっと魂の底冷えを感じさせるようなものとしてです。ここには何か生のエッセンスというものが欠けている。生きているうちに魂との親しい結びつきを失ってしまった、あるいはそれなしの存在になってしまったような感覚です。

「なぜわれわれは、美しく身を飾った者であり、神々に選ばれたものであるのに、欠陥、未完成、不完全性に病んだ生活に委ねられているのか?」グアラニ族の思想家たちが、いやがうえにも認めねばならない苦く明白な事実、それは次のことである。われわれは、自分たちが天上にいる人びとの生を生きるに値する存在であると知っているのに、いまここで病んだ動物の生を生きる羽目に陥っているのだ。われわれは神々であることを望んでいるのに、われわれは人間でしかない。われわれの欲望が目指すもの、それはイウイ・マラ・エイン――〈悪なき大地〉――である。われわれがそこから逃れられないように定められている空間、それはイウイ・ムバエメグア――〈悪しき大地〉――である。いったいどうしてこんなことがありうるのか? どうしたらわれわれは、われわれの真の本性を再び取り戻し、空気のように軽やかな身体の健康を回復し、われわれの失われた国を取り戻すことができるのか? われらの父ナマンドゥが支配している七つの天空まで声が届くように、われわれの声に力が浸み込まんことを! われわれの言葉に美が浸み込まんことを!(同書p.14)

 これはラディカルだが、力強い思考、叫びです。しかし、一番そのひどい空間、〈悪しき大地〉に深くはまり込んでいるのは、僕ら今の文明人ではないのか? そういう自覚すらないとしたら、それは一層悲惨なことではないのか? 僕がこの「未開部族」の思想に関する本を読みながら強く思ったのは、そのことです。未開なのは一体どっちなのだ?

 長くなったのでこれでおしまいにしますと言えば、結論がどうなるか知りたかったのに無責任だと言われるかもしれませんが、かんたんな結論なんてあるはずがありません。重要なのは問題の所在を突き止めることで、僕個人は心情的には若い頃からアナキズム(無政府主義)に一番親近感を抱いていたのですが、それが現実的な解決策とは思えなかった。端的に言えば、人間はそこまで成熟していないのです。しかし、このラ・ボエシが言う「自発的隷従」社会を何とかしないことにはどうしようもないので、まず〈病識〉を獲得することから、僕らは始めるべきでしょう。

 まだお読みになっていない方で、興味のある人は、以下にアマゾンのURLをつけておきますので、機会があれば読んでお考えになってはどうかと思います。

『自発的隷従論

『大いなる語り』

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