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オリンピックと共通テスト

2021.04.11(16:47) 818

 今の日本の特徴は、合理性でも国民の声でもなく、「内輪の関係者」だけで物事が決められることと、その経緯には大いに疑問があっても、いったん決まったことは決して変えられないことです。これは先の大戦のときにも見られたことなので、先祖返りしているだけだと見ることもできそうですが、三流国家の特性であることは間違いないので、こういうことを続けていたのでは、社会が腐った水たまりのようになって、活力が失われて、どんどん駄目になるだけでしょう。「流れる水は腐らない」の逆を行っているわけです。

 今回の東京オリンピックに関しては、国民の7割から8割が中止または延期を望んでいるというのが世論調査の結果で、今は感染力の強い変異株が増えているという報告も相次いでいることからして、「まだやるなんて言ってるの?」と呆れている人が多いと思われますが、頑固で粘着性の強い菅総理の性格からして、内心まずいことになったと思っていても、今さらやめるとは言えなくなっているのでしょう。彼の特徴は、学術会議問題でも、ゴーツーでも全部そうですが、批判や反対があるとよけい意固地になってしまうことです。

 選手たちは複雑な気分だと思いますが、関係者やスポンサー企業などは「ふつうなら無理だが、総理の性格からしてやらざるを得なくなるだろう」とほくそ笑んでいるのかもしれません。水泳の池江璃花子選手が白血病から「奇蹟の復活」を遂げたことは、それ自体としては日本人を元気にしてくれる、喜ばしいことですが、彼らはそれを利用して、「オリンピックを盛り上げる」のにつなげたいと思っているようです。

 今の状況で「盛り上がる」わけはなく、北朝鮮が不参加を表明して、それを政治利用したいと思っていた北べったりの韓国文政権がショックを受けたというのはわかりますが、何で日本政府まであわてたのかと思ったら、あの国は特殊だとはいえ、それがきっかけで不参加を表明する国が相次ぐのではないかと、それを恐れているという話です。僕が馬鹿だなと思うのは、総理や関係者のメンツだけで強行開催しようとすると、外交も自立性を失って、オリンピックに参加してほしいがために、無用な媚びを売らねばならなくなることがそれだけ多くなってしまうだろうことです。自分から進んで弱みをつくり出すなど、政治としては愚の骨頂です。ガースーの個人的なプライドのために、わが国は自分の立場を弱くしたようなもので、今後も「あのときは無理を聞いてやったのだから」と言われかねない。

 合理的に判断するなら、東京オリンピックは中止すべきです。また、中止を表明して、それがけしからんと言う国は存在しない。そんなことを言う政府首脳がいたとすれば、選手の安全やコロナに歯止めをかけることをおまえは何と考えているのだと、逆にバッシングを受ける羽目になるでしょう。だから中止を表明しても、何の問題もなかったわけです。

 逆に開催するリスクは高い。ふつうのオリンピックと違って、検査体制や隔離など、手間もカネもずっと多くかかる。観光客を呼び込んで、観光立国化を推進するなんて話は、海外からの観客はなしにすると決めた時点ですでにどこかに消えている。日本人観客だけにしたとして、それが全国各地にコロナを拡大するきっかけになるという危険は、ゴーツーだけでもそういうデータがあったというのに、新種の変異株が海外選手団や関係者から持ち込まれたりして、一層高くなるでしょう。自民党は、「そのときはもう菅は総理ではなくなって、新総裁に代わっているから、責任は前総理たるガースーに負わせればいいのだ」と考えているのかもしれませんが、それはカラスの勝手ならぬ自民の勝手で、無責任そのものです。

 逆に、外国の選手団が変異株を自国に持ち帰ってしまったことが判明した場合、「不十分な管理体制の下でオリンピックを強行するからだ!」という日本に対する非難の材料にもなるでしょう。どう転んでもいいことはない。「コロナを克服した証」にしたいと、勢い込んで菅総理は語っていましたが、ウイルス相手に勝ったの負けたのと言うのは幼稚というもので、そもそもの話、そういう人間中心的な思い上がりが自然へのリスペクトを失わせ、生態系の深刻な破壊をもたらし、ひいてはウイルスの人間界への進出を促しているのです。

 それでもやるというのは理解し難いことです。巨費を使って誘致運動を行ない、すでに一年延びているからそれだけでもまた余分に多額の税金が費やされたわけですが、コロナは想定外で、別に一般国民はその責任を取れと言っているわけではないにもかかわらず、自分たちのメンツがかかっているので今さら後には引けないということなのでしょう。ようやるわ、という感じしかしないので、先のやめ時を知らなかった戦争の時と同じです。

 思えば、1964年の東京オリンピックは、その当時僕は小学生でしたが、年率10%を超える経済成長のさなかに行われたもので、それから十年ぐらいは高度経済成長なるものが続き、人々の暮らし向きは年々よくなり、池田内閣の国民所得倍増計画は大成功を収めたのでした。イケイケドンドンの時代にふさわしい祭典で、海外への宣伝効果も大いにあったと思われますが、今回のオリンピックは別にコロナがなくとも、全く逆ベクトルの社会状況下で開催されるもので、日本経済は世界における地位を下げ続けていて、少子高齢化で医療費や社会保障費が暴騰する中、労働者の平均賃金は下がり続け、税負担は重くなる一方で、たとえていうなら、前のオリンピックが「日の出」を象徴するものだったとするなら、今回のオリンピックは「日没」を記念するかのごときものになっていたのです。オリンピックの経済効果なんて一時的で高が知れたものなので、やったからといって基本の流れが変わるものでは全然ない。前にも書きましたが、IOCで安倍総理が臆面もない「アンダーコントロール」演説をぶった頃、必要なのはオリンピック誘致ではなく、東北大震災からの復興に真剣に取り組み、原発問題を再考し、かつ労働生産性を上げ、年金や医療制度の抜本的改革を進めることだったのです。

 初めから、今回のオリンピック誘致は国民への「目くらまし」でしかなかった。そこに、開催年を狙い撃ちしたかのごとくコロナ禍が襲った。それに投下した巨額の費用は税金の無駄遣い以外の何ものでもなくなった。こういうの、昔の人なら「天罰覿面(てきめん)」と言ったのではないでしょうか。困窮する人がたくさんいて、他にも問題が山積しているのに、「こういうときこそ景気づけのお祭りが必要だ!」と、何もしないことの言い訳にオリンピック開催を利用しようとしたのです。間が悪いことに、そこにコロナさんがやって来た。

 いったん決めたことは変えられず、いったん作ったものはこわせない。理由の如何を問わずそうなので、そういう事例は今の日本社会にはたくさんあります。例の共通一次→センター試験→共通テストと推移してきた、あのおかしな大学入試制度もその一つです。僕は前からあれは廃止した方がいいとずっと言っているのですが、その気配は全くなく、何としても維持しなければならないと、その前提でのみ考えているようです。

【独自】共通テスト「このままでは実施困難」入試センター赤字13億…24年度試算

「少子化による共通テストの志願者減が原因で、『このままでは実施が困難になる』」というのですが、検定料(3教科以上1万8000円)は決して安くありません。国立の場合、二次の受験料がこれに加えて1万7000円かかるので、計3万5000円。私立の一般受験も一回平均3万5000円なので、同額なわけです。「安くない」というより、むしろ「高すぎる」ほどです。「有識者会議は、国に公的支援を求めることや、検定料が適切か検討することが必要としている」そうですが、値上げすればいいという安易な結論になりそうです。

 上は読売ですが、これには朝日も続報を出していて、

 大学入学共通テストの実務を担う独立行政法人大学入試センターが、大学から徴収する「成績提供手数料」を2年かけて値上げし、2年後の第3回共通テスト以降は現行の2倍にすることが10日、入試関係者への取材で分かった。

 という話で、

 センターは3月29日、国公私立大に値上げを通知した。関係者によると、まず来年1月の第2回共通テストで1200円に引き上げ、第3回以降は1500円にする。今年の750円も、初の共通テスト実施という理由で、大学入試センター試験だった2020年から180円値上げしていたが、今回の値上げ理由は「大幅赤字が予想され、共通テストを安定的・継続的に実施するため」と各大学に説明した。(以上、「共通テスト、大学からの手数料倍増へ 受験生の負担増も懸念」という見出しの4/11付記事)

 というのです。要するに、再来年からは今年の倍額の手数料を各大学から取る。僕に奇怪に思われるのは、これらの記事は共通テスト自体を廃止するという選択肢はない前提で書かれていることです。それを廃止して、各大学が独自の入試を行ない、受験料を3万にしたとすれば、無用の長物たる「独立行政法人大学入試センター」に支払う1500円は消え、それを織り込んで計算すると、国立大は受験生一人当たり1万4500円の増収になるのです。作成科目が増えても元が取れるだけでなく、大いに潤うでしょう。そして受験生はトータル受験料が5000円少なくて済む(科目が増える関係で、どこも東大・京大のように二日がかりの入試になるかもしれませんが、これまではセンターにも別に二日取られていたのです)。それで困るのは潰れる「独立行政法人大学入試センター」だけでしょう。

 現時点でも、東工大などはセンター改め共通テストは足切りに使われるだけで、二次試験の配点が100%です。つまり、共通テストの成績は無関係。東大は440点(二次)対110点(共通テスト)で四分の一。京大は学部によって様々ですが、こちらも高くても三分の一。他の旧帝大も大学・学部によってまちまちですが、二次の比重が6割を超えていることが多く、他の難関大も大方は似たようなものです。

 要するに、センター=共通テストの成績は軽んじられることが多いということで、二次の記述を重視しているのです。理由はかんたんで、あんな試験では本当の学力はわからないと大学側が思っているからです。

 僕は英語塾の教師なので、英語に関して言わせてもらえば、あれが「役に立たない」試験であるのは、今回の共通テストでなおさらはっきりしました。「実用性重視」に舵を切ったと言われますが、全く実用的ではない。出てくる英文がすべて、基本的な単語とイディオムしか使わないように限定されているからで、とくにイディオムは「超」がつく基本的なものしか出てこないように配慮されています。その意味で“不自然”すぎるので、あれではふつうの易しめの英文でも読むのに苦労することになるでしょう。二次試験に出てくる英文との落差がさらに拡大したという印象で、設問も低級知能パズルみたいなものが多く、通常の読解力とは関係のない頭の使い方を強いられる。取り上げられている題材も人畜無害すぎて知的刺激をもたらすようなものは何もなく、非常に退屈する(これは僕だけが言っていることではなく、受験生がそう言っているのです。前は物語文など、意外性があって、内容的に面白く読めるものもいくらかはあったのですが、それも消滅した)。受験生は退屈を我慢しながら、スピードだけは要求されるので、「クソみたいな問題だな」と思いつつも、集中力を切らせないようにしながら、ダダーッとやらねばならないのです。全体にこれは、高校生用ではなく、英語のよくできる小学生向けの試験だな、という感じです。それほど歯応えがない。大学の頃、ドイツ語の授業で、初心者向けだから仕方ないとはいえ、子供用のテキストを読まされて退屈で閉口した記憶があるのですが、あれと似た感じを受験生はもったでしょう。試験問題作成に関与しているガイジンは、あれが「役に立つ、実用的な」ものだとほんとに思っているのでしょうか?

 ああいうつまらない試験ならやらない方がいいと僕は思っているので、今は二次でもリスニングを課すところは増えているし、英作文なども、従来の和文英訳に加えて表現力・発信力を見る意見作文なども加わっている。そして長文読解問題は内容的に面白いものが多く、それは英文読解力だけではなく、頭の柔軟さや考える力も見るようになっている。要するに、あんな試験を一次で課す必要は何もないので、地方のいわゆる駅弁国立の場合、理系などは二次に英語がないところもありますが、低レベルすぎる共通テストだけで英語力を判定していると、入学後困ることになるのではありませんか?

 他の科目も、たとえば国語などはああいう試験では国語力は測れないし(だから理系でも二次に配点は低いが、国語を課すところが増えている)、難関大では文系でも二次に数学の試験はあるし、意味はあまりないのです。大学の個別試験しかなかった共通一次以前の時代は、各大学が必要な科目の問題を全部自前で作っていたのだから、共通テストは廃止して、元の形に戻せばいいだけです。当時は東大だけが独自の一次試験をやっていましたが、あれは知識に頼らなくても思考力と国語力で何とかなるものが多かったので、今のセンター改め共通テストの暗記に頼らざるを得ない試験よりはずっとマシだったのです。

 そしたら受験生は、センター対策、二次対策と分けて勉強する手間が省けて、負担も軽減する。今でもその二次の科目は大学・学部によってまちまちなのだから、三年前ぐらいに試験科目を予告しておけば、何の問題もないわけです。重要科目は大方の大学の試験に共通して入っているだろうから。やれ、考える力がどうのと言いますが、前から二次では「考える力」は問われていた。センターが暗記マシーンみたいになることを受験生を要求するから、話がおかしくなってしまっただけなのです。

 うちは科目横断的な独自の総合学力テストと英語または数学の試験を課すとか、学科試験は課さず、小論文と面接だけにするとか、今のAOや推薦みたいなやり方で全部の学生を取るという国立大大学もあってよい。国立だから科目を多くしなければならないということもないわけで、たとえば文系なら、数学を課さない国立大もあっていいわけです。哲学者ニーチェや作家フローベルのような、数学はまるでダメの天才もいるのだから。そういうふうにバラバラになると、従来の偏差値ランキングみたいなものも無意味になってきて、もっと個性的な大学が増えるかもしれない。そしたら多様な人材が輩出されて、めでたしめでたしではありませんか?

 ついでに言うと、今の日本は大学の数が無駄に多すぎるので、慢性定員割れのいわゆるFラン私大などは潰して、整理した方がいい。それが補助金のばらまきになっていて、文教予算が不足し、科研費なども削られるようになっているわけです。こういうのは漏電だらけの古い家に住んで、それはそのまま放置して家族に電気の節約を呼びかけているようなものなので、問題の解決にはならない。これも「いったん作ったものは潰せない」思考で、見通しもないままいつまでも延命させるからで、そこに合理性はないのです。建物を老人ホームに転用などすれば、使い道はいくらもあるので、少子化で学生数も減るばかりなのだから、一体いつまでこういう状態を放置しているのかと思います。

 これは「母校がなくなるのはさみしい」というようなセンチメンタルな問題ではない。僕の母校なんか、小学、中学、高校と、その主な原因は過疎ですが、全部“消滅”してしまいました。しかし、それは時の流れというもので、大学までなくなっても、別に気にしないでしょう。諸行無常はこの世のつねなので、自分も後十年か、長くても二十年後にはあの世に行くのです。嘆くべきことは、栄枯盛衰があることではなく、変わるべきものが変わらないことです。そこらが腐った水たまりだらけになってしまうことです。それでは社会はまともに機能しなくなる。

 今の日本の組織は老害が目立つので、とくに二階や麻生が支配する自民党などは最悪ですが、こういうふうに「変えられない」のも、変えたくない連中が変えようとする側を妨害していて、それで変える機運がすっかり衰退してしまったからなのかもしれません。「何を言っても駄目」みたいな諦め心理に支配されるようになったのです。彼らは発想自体が固定化していて古いので、今回の共通テストみたいに、「有識者」なる連中がわけのわからないことをワアワア言って、前よりももっと悪いものに変えて、事態を悪化させるだけになったりするのです。それでは全然「変えた」ことにはならないのですが、それがわかっていない。東京オリンピックも大阪万博(こちらは2025年予定)も、昔と発想が同じで、老人たちの「過去の成功体験」から出てきたものにすぎないでしょう。場所まで同じ東京と大阪で、時間間隔も、前回が1964年と1970年で、今回と似通っている。

 こういうのは何なのかなと思いますが、いかに今の日本は発想力が乏しく、型にはまった考え方しかできないかということを示しています。今の日本の若者は保守化していると言われますが、若い世代に活躍の場を与えようとしないからそうなってしまうわけで、そのあたり根本から考え直した方がいいのではありませんか? 僕は塾の生徒に言われて何度か高校の文化祭を見に行ったことがあって、今の若い子は表現力があってセンスもいいなあと感心したので、その力を活用しないのが悪いのです。

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