このところ、土日になると必ず雨が降るみたいで、これは今頃の雨の特徴なのかもしれませんが、一日中しとしと絶え間なく降り続ける。学校は今春休みですが、これでは休日に親子連れで山菜とりに出かけるなんてこともできないでしょう。いや、今の人はそもそもそんなことはしません、と言われそうですが、今はワラビ、ゼンマイ、ウド、イタドリなど、山菜とりの絶好のシーズンなのです。
釣り好きの人にはヤマメ(アマゴ)釣りのシーズンでもあって、僕は高校の頃、ふだんは親元を離れて下宿していましたが、春休みは実家に帰っているので、父親の原付バイクを借りて、川を遡り、「ここの谷はいそうだな」というところを見つけてそこに入ってみると、読みが的中して次々大物がかかり、他の人はほとんど知らなかった(その後人に教えたら皆に知られてしまった)ので、毎年そこに行っていたことがあります。かなり切り立った谷なので、半分登山みたいなもので、糸と釣り針だけ用意して行って、ナイフで竹を切って、竿は現地調達、餌も石をめくって川虫を使っていました。父はニワトリ(雄)の胸の羽毛で毛バリを作って水面スレスレに飛ばしていたという話でしたが、僕にはそんな高等技術はなかったので餌釣り専門で、それでも行くたび20~30センチのものが七、八尾は釣れたのです。帰りにイタドリやウド(こちらは場所が限定される)も採って帰った。
今はその谷も無考えな行政と土建屋が有害無益な砂防ダムなどやたら作って完膚なきまでに破壊され(カネだけ出して何もしてもらわない方が百倍いい)、イタドリなど、植林のし過ぎで鹿が里に下りてきて、かつ数が増えすぎて、あの愚かな動物は山菜などは根こそぎ食ってしまうので、二度とはえなくなってしまい、今は鹿のいない町場近くの河川敷などの方がイタドリがたくさんあるので、一時弟がそれを採って、母がまだ元気な頃は宅急便で送ったりしていたほどです。田舎の良さがすっかり失われてしまったわけで、人間と動物が一緒になって生態系の破壊に精出しているのです。
アメリカあたりでも、トップ・プレデター不在の中で、増えすぎたヘラジカが周辺の生態系を深刻に破壊してしまい、たまらずオオカミのつがいを連れてきて放すと、ヘラジカたちの乱暴狼藉にストップがかかったというような話を読んだことがありますが、前に北海道ではエゾジカが増えすぎて生態系を駄目にしているというテレビ番組を見たことがあるので、僕はあの動物にあまり好意的ではありません。人間も異常繁殖の結果、かかる深刻な環境破壊をもたらしているわけですが、鹿というのは人間のように機械力、テクノロジーで破壊を倍加することはしないまでも、自制力も先を見る知恵もない、言い換えれば「持続可能性」を全く顧慮しない、稀に見るお馬鹿な動物なのです。見た目が可愛い、なんて問題ではない。人間に「おまえらはこれと同レベル」ということを教え諭すために、神がブラックユーモアでつくった生きものなのかもしれませんが。
幸いなことに、延岡はほどよい町場で、そこらを鹿がウロウロしている環境ではないおかげで、河川敷などにはイタドリがまだちゃんと自生していて、僕はこの時期、茶色のカラを目印にそれを探し歩いたりして、先日そうしていたら、自転車に乗った小学生の男の子が何度も遊歩道を行ったり来たりしながら見ていて、「悪いおじさんが何かを折って取っていた」と帰って親に報告するのではないかと苦笑したのですが、食べ頃なのを五本ほど得て、上機嫌で自転車の前カゴにそれを入れて帰宅しました。あれは、そのまま皮をむいて食べても独特の食感があっておいしいので、それで全部食べてしまったのですが、今の子供はあんなものおいしいとは感じないので、わが子が小学生の頃食べさせてみたのですが、反応は今イチでした。昔はあれを湯に通して皮をむいた後、流水に長時間浸してアクを取り、ゼンマイやタケノコ、高野豆腐などと一緒に煮物にもしていて、僕はそれが好きだったのですが、そういう料理を知っているのもおそらく六十代以上の人だけでしょう。ボブ・ディランの曲ではないが、Times have changed(時代は変わった)なのです。
イタドリは漢字で「虎杖」と書きますが、それは川の模様が虎の毛皮のそれを連想させるからでしょう。あれは薬効もあって、「痛いのを取る」からイタドリだという説もありますが、僕の田舎では「ゴンパチ」と呼びます。由来は不明ですが、先のヤマメ(僕の郷里の川にいるのは赤い点が追加されたアマゴの方ですが、同じ県内でもヤマメになる地域もある)もコサメと呼ぶ。これは「小鮫」ではなくて、たぶんきれいな斑点が「小雨」を連想するからでしょう。そう解するとなかなか洒落た呼称です。ワラビ、ゼンマイ、ウドなどは同じです。面白いのはガマガエルを「とちわら」と呼ぶことです。ふつうのカエルは「ひきんど」と呼ぶ。僕は田舎に帰ると言葉づかいを一気に方言モードに変えるので、うちの母親などは僕が学生の頃、「おまえはほんとに東京にいるのか? そんなことを言って親を騙しているだけなのではないのか?」といつまでも東京弁にならないのを怪しんでいましたが、この「とちわら」などは今では死語に近いようなので、前に同級生に会ってそう言ったら、今どきはこのあたりでもそんな言葉は使わないと笑われてしまったことがあります。以前、自然には詳しいので、子供時代の記憶を元に『熊野動物記』という本を書いてみようかと思ったことがありますが、僕は植物などは現物は知っていても名前を知らないことが多いし、名前を知っていても方言の方しか知らないものが多くあるので、そのあたり面倒すぎるというので諦めたことがあります。早い話が、クワガタなんかでも、ミヤマクワガタはゲンジ、ヒラタクワガタはヘイケ、ノコギリクワガタはホリと呼ばれていたのです。ゲンジ、ヘイケはそれぞれ源氏、平家に相当します。ホリというのはツノの動かし方から「掘り」か「放り」がなまったものでしょう。前に東京の公園でクワガタを探している子供たちと話をしていて、関東ではノコギリクワガタはたくさんいるが、ミヤマクワガタの方は少数らしいのを知って、僕の田舎ではそれは反対だったので、その話をすると、彼らは羨ましがっていました。とにかくそんなふうに名前が違うことが多いので、クワガタという言い方自体をしない。ゲンジガムトみたいになるので、これはカブトのなまりですが、ふつうのカブトムシの方はウジャウジャいすぎて見向きもされなかったので、クワガタにそれが使われていたのです(今はこれも激減して、おそらくかつての数パーセントになっている)。
しかし、そもそもイタドリって何?という人が多そうなので、遅まきながら記事を引用しておきます。
・イタドリ/スカンポ<春の山菜:特徴や産地と旬
この写真にあるようなものが食べ頃です。長く伸びすぎて、色が褪せているようなものはダメ。イタドリにも何種類かあって、細くて葉っぱばかり目立つようなものは、僕の田舎ではヘビゴンパチと呼ばれて、誰も採る人はいませんでした。こういう太くてかたちのいいのがお薦めです。
記事の中に「非常に繁殖力旺盛で、定着すると他の草木を締めだしてしまうほどで『世界の侵略的外来種ワースト100』にも指定されているそうです」とありますが、実際イギリスあたりではずっと昔持ち込まれたイタドリが「公害」扱いされているようです。しかし、日本ではそうではない。生態系の一部として、分を弁え、バランスよく点在しているのです。これの固いカラは僕が子供の頃、刀の鞘にするのにもよく使いました。細い棒や竹を刀身にし、カラの途中の節をくりぬいてそれが入るようにするのです。柄もこれにすると、座頭市の仕込み杖みたいになってカッコよかったので、それを腰に差して嬉々として棚田を飛び回り、忍者になったり、怪傑何とか頭巾になったつもりでいたのです。これは刀としてはあまり実戦向きではありませんでしたが、当時の子供たちはよく薪用の木のかたちのいいものを各自ナイフで刀らしく削って、チャンバラもやったので、冬場などは相手の「剣」がしもやけの手に当たったりして痛かったのですが、そんなことはおかまいなしに夢中になって遊んだものです。正義の味方と斬られ役は代わりばんこにやらねばならなかった。そうでないと不公平になるからです。
さて、漫談の最後は桜吹雪ですが、言葉は知っていましたが、それがどういうものなのかを先日僕はこの年になって初めて体験しました。4月1日、木曜のエイプリルフールの日、仕事に行く途中、市役所前のT字路のところで、自転車にまたがって信号が変わるのを待っていたとき、一陣の突風が吹いて、道路の向かい側の桜の木の花が豪勢に舞い上がり、それがこちらにそのままワッと吹きつけたのです。その瞬間、僕は花に包まれました。これはわが人生、最良の体験の一つと言ってよいので、桜吹雪とはこれのことかと、しばし感慨にひたったのです。
今年はどこも例年より桜の開花が早かったようで、コロナ禍の中、花見も自粛されているのでしょうが、そのときちょうどその木は他より少し遅く満開を迎えていて、それが豪勢な花吹雪を散らしたのです。予想もしなかったことで、思わぬ桜のプレゼントでした。今年は構えて花見はできないが、桜の近くを通っていて美しい桜吹雪に見舞われたという人が、他にもいらっしゃるかもしれません。あれは、ちょっとトクした気分にさせてくれるものです。
釣り好きの人にはヤマメ(アマゴ)釣りのシーズンでもあって、僕は高校の頃、ふだんは親元を離れて下宿していましたが、春休みは実家に帰っているので、父親の原付バイクを借りて、川を遡り、「ここの谷はいそうだな」というところを見つけてそこに入ってみると、読みが的中して次々大物がかかり、他の人はほとんど知らなかった(その後人に教えたら皆に知られてしまった)ので、毎年そこに行っていたことがあります。かなり切り立った谷なので、半分登山みたいなもので、糸と釣り針だけ用意して行って、ナイフで竹を切って、竿は現地調達、餌も石をめくって川虫を使っていました。父はニワトリ(雄)の胸の羽毛で毛バリを作って水面スレスレに飛ばしていたという話でしたが、僕にはそんな高等技術はなかったので餌釣り専門で、それでも行くたび20~30センチのものが七、八尾は釣れたのです。帰りにイタドリやウド(こちらは場所が限定される)も採って帰った。
今はその谷も無考えな行政と土建屋が有害無益な砂防ダムなどやたら作って完膚なきまでに破壊され(カネだけ出して何もしてもらわない方が百倍いい)、イタドリなど、植林のし過ぎで鹿が里に下りてきて、かつ数が増えすぎて、あの愚かな動物は山菜などは根こそぎ食ってしまうので、二度とはえなくなってしまい、今は鹿のいない町場近くの河川敷などの方がイタドリがたくさんあるので、一時弟がそれを採って、母がまだ元気な頃は宅急便で送ったりしていたほどです。田舎の良さがすっかり失われてしまったわけで、人間と動物が一緒になって生態系の破壊に精出しているのです。
アメリカあたりでも、トップ・プレデター不在の中で、増えすぎたヘラジカが周辺の生態系を深刻に破壊してしまい、たまらずオオカミのつがいを連れてきて放すと、ヘラジカたちの乱暴狼藉にストップがかかったというような話を読んだことがありますが、前に北海道ではエゾジカが増えすぎて生態系を駄目にしているというテレビ番組を見たことがあるので、僕はあの動物にあまり好意的ではありません。人間も異常繁殖の結果、かかる深刻な環境破壊をもたらしているわけですが、鹿というのは人間のように機械力、テクノロジーで破壊を倍加することはしないまでも、自制力も先を見る知恵もない、言い換えれば「持続可能性」を全く顧慮しない、稀に見るお馬鹿な動物なのです。見た目が可愛い、なんて問題ではない。人間に「おまえらはこれと同レベル」ということを教え諭すために、神がブラックユーモアでつくった生きものなのかもしれませんが。
幸いなことに、延岡はほどよい町場で、そこらを鹿がウロウロしている環境ではないおかげで、河川敷などにはイタドリがまだちゃんと自生していて、僕はこの時期、茶色のカラを目印にそれを探し歩いたりして、先日そうしていたら、自転車に乗った小学生の男の子が何度も遊歩道を行ったり来たりしながら見ていて、「悪いおじさんが何かを折って取っていた」と帰って親に報告するのではないかと苦笑したのですが、食べ頃なのを五本ほど得て、上機嫌で自転車の前カゴにそれを入れて帰宅しました。あれは、そのまま皮をむいて食べても独特の食感があっておいしいので、それで全部食べてしまったのですが、今の子供はあんなものおいしいとは感じないので、わが子が小学生の頃食べさせてみたのですが、反応は今イチでした。昔はあれを湯に通して皮をむいた後、流水に長時間浸してアクを取り、ゼンマイやタケノコ、高野豆腐などと一緒に煮物にもしていて、僕はそれが好きだったのですが、そういう料理を知っているのもおそらく六十代以上の人だけでしょう。ボブ・ディランの曲ではないが、Times have changed(時代は変わった)なのです。
イタドリは漢字で「虎杖」と書きますが、それは川の模様が虎の毛皮のそれを連想させるからでしょう。あれは薬効もあって、「痛いのを取る」からイタドリだという説もありますが、僕の田舎では「ゴンパチ」と呼びます。由来は不明ですが、先のヤマメ(僕の郷里の川にいるのは赤い点が追加されたアマゴの方ですが、同じ県内でもヤマメになる地域もある)もコサメと呼ぶ。これは「小鮫」ではなくて、たぶんきれいな斑点が「小雨」を連想するからでしょう。そう解するとなかなか洒落た呼称です。ワラビ、ゼンマイ、ウドなどは同じです。面白いのはガマガエルを「とちわら」と呼ぶことです。ふつうのカエルは「ひきんど」と呼ぶ。僕は田舎に帰ると言葉づかいを一気に方言モードに変えるので、うちの母親などは僕が学生の頃、「おまえはほんとに東京にいるのか? そんなことを言って親を騙しているだけなのではないのか?」といつまでも東京弁にならないのを怪しんでいましたが、この「とちわら」などは今では死語に近いようなので、前に同級生に会ってそう言ったら、今どきはこのあたりでもそんな言葉は使わないと笑われてしまったことがあります。以前、自然には詳しいので、子供時代の記憶を元に『熊野動物記』という本を書いてみようかと思ったことがありますが、僕は植物などは現物は知っていても名前を知らないことが多いし、名前を知っていても方言の方しか知らないものが多くあるので、そのあたり面倒すぎるというので諦めたことがあります。早い話が、クワガタなんかでも、ミヤマクワガタはゲンジ、ヒラタクワガタはヘイケ、ノコギリクワガタはホリと呼ばれていたのです。ゲンジ、ヘイケはそれぞれ源氏、平家に相当します。ホリというのはツノの動かし方から「掘り」か「放り」がなまったものでしょう。前に東京の公園でクワガタを探している子供たちと話をしていて、関東ではノコギリクワガタはたくさんいるが、ミヤマクワガタの方は少数らしいのを知って、僕の田舎ではそれは反対だったので、その話をすると、彼らは羨ましがっていました。とにかくそんなふうに名前が違うことが多いので、クワガタという言い方自体をしない。ゲンジガムトみたいになるので、これはカブトのなまりですが、ふつうのカブトムシの方はウジャウジャいすぎて見向きもされなかったので、クワガタにそれが使われていたのです(今はこれも激減して、おそらくかつての数パーセントになっている)。
しかし、そもそもイタドリって何?という人が多そうなので、遅まきながら記事を引用しておきます。
・イタドリ/スカンポ<春の山菜:特徴や産地と旬
この写真にあるようなものが食べ頃です。長く伸びすぎて、色が褪せているようなものはダメ。イタドリにも何種類かあって、細くて葉っぱばかり目立つようなものは、僕の田舎ではヘビゴンパチと呼ばれて、誰も採る人はいませんでした。こういう太くてかたちのいいのがお薦めです。
記事の中に「非常に繁殖力旺盛で、定着すると他の草木を締めだしてしまうほどで『世界の侵略的外来種ワースト100』にも指定されているそうです」とありますが、実際イギリスあたりではずっと昔持ち込まれたイタドリが「公害」扱いされているようです。しかし、日本ではそうではない。生態系の一部として、分を弁え、バランスよく点在しているのです。これの固いカラは僕が子供の頃、刀の鞘にするのにもよく使いました。細い棒や竹を刀身にし、カラの途中の節をくりぬいてそれが入るようにするのです。柄もこれにすると、座頭市の仕込み杖みたいになってカッコよかったので、それを腰に差して嬉々として棚田を飛び回り、忍者になったり、怪傑何とか頭巾になったつもりでいたのです。これは刀としてはあまり実戦向きではありませんでしたが、当時の子供たちはよく薪用の木のかたちのいいものを各自ナイフで刀らしく削って、チャンバラもやったので、冬場などは相手の「剣」がしもやけの手に当たったりして痛かったのですが、そんなことはおかまいなしに夢中になって遊んだものです。正義の味方と斬られ役は代わりばんこにやらねばならなかった。そうでないと不公平になるからです。
さて、漫談の最後は桜吹雪ですが、言葉は知っていましたが、それがどういうものなのかを先日僕はこの年になって初めて体験しました。4月1日、木曜のエイプリルフールの日、仕事に行く途中、市役所前のT字路のところで、自転車にまたがって信号が変わるのを待っていたとき、一陣の突風が吹いて、道路の向かい側の桜の木の花が豪勢に舞い上がり、それがこちらにそのままワッと吹きつけたのです。その瞬間、僕は花に包まれました。これはわが人生、最良の体験の一つと言ってよいので、桜吹雪とはこれのことかと、しばし感慨にひたったのです。
今年はどこも例年より桜の開花が早かったようで、コロナ禍の中、花見も自粛されているのでしょうが、そのときちょうどその木は他より少し遅く満開を迎えていて、それが豪勢な花吹雪を散らしたのです。予想もしなかったことで、思わぬ桜のプレゼントでした。今年は構えて花見はできないが、桜の近くを通っていて美しい桜吹雪に見舞われたという人が、他にもいらっしゃるかもしれません。あれは、ちょっとトクした気分にさせてくれるものです。
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