「どうやったら国語力はつくんですか?」
これは僕が塾でよく受ける質問です。一つ難しいなと思うのは、学科としての国語力、とくにセンター改め共通テストの国語のような客観式テストの得点率と、本当の国語力はイコールではないということです。あの試験の場合、僕もたまに解いてみることがありますが、大体8割前後は得点でき、しかも、古文漢文ではほとんどミスをしないで、現国で落としていることが多く、それはいい加減にやってしまうことも関係しますが、古文漢文の場合、あれは教科書によく採用される有名どころは避けられている(見たことがあるのとないのとでは不公平になるという理由で)ので、出題文そのものはかなり難しいが、設問にヒントがあるので、そこを押さえれば解けてしまう。つまり、要領の問題なので、それは国語力というよりは受験テクニックの問題です。現国だと出題文が読んでわからないということはない(評論なんかには何を一生懸命わけのわからないこと言ってるんですか、と言いたくなるものもたまにありますが)ので、ただ設問が、文構成がどうなっているかというような、内容そのものの理解とは無関係な形式に関するものなども入っているので、「そんなもの、どうでもええわ」とテキトーに片づけているうちに失点することになるのです。
この場合、現国の読解力が一番あるはずなので、にもかかわらずその得点が一番低く、大してない古文漢文の得点の方が高いというのは、国語力を正しく反映していないということになるでしょう。一般受験生の場合でも、理系のよくできる生徒などは古文漢文を手堅く取るという話を聞くので、それは同じ理由によるのではないかと思われます。そのあたり、国語力というよりは要領の問題なのです。
これは記述式の方を見ないとわかりませんが、英語の偏差値は70あって、国語は50前後というアンバランスな生徒の場合、国語力がないと文脈を読みとったり、満足な英文和訳、和文英訳もできないので、そういう生徒は国語力がないわけではない。ただ「国語問題の掟」のようなものを知らないだけなので、そこに苦手意識が加わって、そういう結果になってしまうだけなのでしょう。有能な国語の先生ならそのあたり教えられるはずですが、たいていの場合、問題を繰り返し解かせるだけになって、「国語問題の掟」では、ここはこういう考え方になって、この選択肢が正解になるとか、こういう場合はこういう書き方をするといい点がもらえるとか教えることはしないから、改善しないままになってしまうのでしょう。あれはかなり特殊な世界だと僕は思っていますが、国語の先生自身はその中で育っているので、それが特殊なものだとは感じず、相対化した視点でそれを見ることもなく、かえってそういう発想は「国語という教科に対する冒瀆」のように感じられるのかもしれません。
僕自身は昔、「国語だけできる子供」でした。中一のとき、何でそういうことになったのかは忘れましたが、割と思い込みの激しい国語の先生(太めの中年女性)が大げさにそこらじゅうに触れ回って、試験でも絶対に一番を取らないといけないことにされ、一度そこから陥落すると、職員室に呼び出されて、「何ですか、この恐ろしい点数は!」と震える声で叱責され、そのときの僕の点数は88点だったのですが、深刻な罪悪みたいに言われて、子供心にもそれは少々大げさすぎるように思われましたが、とにかくそれで周りも何となく「国語はあいつ」ということになって、暗示の力は恐ろしいものなので、自分でも国語は得意だと思い込んでしまったのです。大学受験の時も、国語を構えて勉強した記憶はない(勉強にせず、楽しく古文漢文もできるようになる方法があるのですが、長くなりすぎるのでそれはカット)ので、「国語問題の掟」もその頃は何となくわかっていたわけです。
皆目わからなかった英語は、僕のそれはほとんど独学なのですが、自分であれこれ考えながらやったおかげで、学校では教えないようなことも教えられるようになり、文法などの説明もその分わかりやすいだろうと思うので、それが商売になったわけです。得意だった国語の方は、説明しろと言われても説明しにくいので、国語も教えたことはあるのですが、どうもこじつけじみていて、自分ではこういう順序で考えてはいないよなという感じなので、教えるのは下手なのです。そして受験が終わって「国語問題の掟」とは無関係になると、自分でもそのあたりカンが鈍って、かつてのようには「正解」できなくなった。
だから国語も、元々は苦手だった人が苦労の末、高得点できるようになり、その過程で身につけたノウハウを伝授するというふうだと、効果的な指導ができるのかもしれません。試験問題というものにはそういう性質があるので、前にイギリスに3年間いたという子が塾に英語を教えてほしいと言ってきたので驚いたことがあるのですが、聞けば、日本の大学入試の英文法の問題が解けないのだという。これは文法がわかっていないということではなくて、頭の不自然な使い方を要求される文法問題に対処できないということにすぎなかったのです(その証拠に、英作文を書かせるとちゃんと正しい英文が書けた)。それで3カ月ほどかけて説明しながら問題集を一冊解かせると、コツがわかったようで問題は解消したのですが、この他にも講師を募集したら、東大の大学院に在籍しているインド大使か何かの娘さんが応募してきて、採用試験用の高校入試(但し、私立)の英文法の問題ができなくて、面接していて、同じ理由によるのだなとわかったことがあります。ああいうのは一種のパズルのようなものなので、やはり特殊なのです。
話を戻して、だから国語だけできないという生徒の場合、それは国語力がないのではなく、「国語問題の掟」がわかっていないだけだと思われるので、そのあたりがわかるように解説してくれている問題集でも一冊やれば、そして「国語ができない」という自己暗示を解除できれば、問題は解決するでしょう。
ついでに、近年増えている小論文についても少し書いておきましょう。前に短期間、東京の某資格試験予備校で行政書士試験の時事小論文の講師をしたことがあって、こういう笑える話がありました。サラリーマンらしきある男性がこう質問したのです。その人は前の年、別の予備校に通ったそうですが、そこでは答案のフォーマットのようなものが提示され、書き出し、本論、結論と、使う行数まで細かく指定され、言い回しなども教えてくれて、そこに言葉を当てはめるみたいにして書くすべを習ったが、先生はそういうことを全く言わない、それは問題ではないかと。僕はそのとき出題が予想される問題を五つほどピックアップして、毎回資料を配布し、一通りレクチャーした上で受講者に書いてもらってそれを添削していたのですが、議論が自然に流れ、整合性があって説得力があるかどうかがポイントなので、添削を受けるうちにそのあたり、何となくわかってもらえるだろうと思っていました。しかし、その人にはそれが不満だったわけです。そこで僕は、逆にこう質問しました。もしその別の予備校の指導がよくて、功を奏していたのなら、なぜあなたは今ここにおられるのですかと。駄目だったから、予備校を変えたはずだからです。
幸い、予想問題の一つが的中し、感謝状をたくさんもらって喜んだのですが、その中には「正直言うと、毎回添削で真っ赤にされるので、頭に来てました」なんてのもあって苦笑させられました。その意図はなかったのですが、僕は皆さんのプライドを傷つけていたのです。しかし、文のつながりが不自然すぎたり、無意味なことや、前と後ろが矛盾するようなことを書いて受かるはずはないので、そういうことは自覚してもらわないと困るのです。これは大学入試の小論文でも同じですが、何とか型と命名して、いくつものそのパターンを長々と説明していたりする小論文の参考書などもありますが、大方は有害無益で、文章を書いている人間はそんな型など意識して書いているわけではないので、それを後で誰かが勝手に分類したにすぎないのです。まず問題点を挙げて、それについて論じ、最後にまとめるというふうに、通常は自然に頭が働くから、かんじんなのはそこに盛り込まれる中身です。型だけ守っているが、内容の論理的つながりは不明というのでは何の意味もない。なかには何をきかれているのかを理解せず、違うことを長々と書き並べる人もいますが、こういうのは駅への道順をきかれているのに、徒歩だと何分、タクシーやバスだとそれぞれ何分、なんてことを細かく説明して相手をイライラさせてしまうのと同じです。
そして大事なのは「自分の頭で考える」ということなので、そうしているかぎり、論述は自然に流れるのですが、借り物の情報を入れ込むことにばかり腐心すると、たいていは支離滅裂になってしまう。大学の推薦用の志望理由書なども、そこにその生徒の「真実の思い」がこめられていてこそアピールするので、技術的なことはむしろ枝葉にすぎないのです(文章を直す場合も、オリジナリティが十分あればかんたんな手直しで済む)。
面白いのは、意見作文のようなものの場合、考えながら書いていると、最初自分が正しいと思っていたことがだんだん疑わしくなってくる、というようなことがしばしば起こるので、そういう例を僕は副業で専門学校の社会学講師をしていた頃、学生のレポートで何度も見ましたが、一体何が正しいのか、途中でわからなくなってしまうのです。本人は苦しい状況に追い込まれてしまったわけですが、そういうのは読んでいて面白いので、僕は高い評価を与えました。しかし、日本の学校教育に一番欠けているのはそういう体験と訓練です。ソクラテスではないが、そうやって自分で考えることによって、「わかっていた」ことが実は「わかったつもり」だけだったことに気づいて、無知を自覚するのです。大学入試の小論文のテーマでも、これは一筋縄ではいかないなというものが多いのですが、出題者側は「明確な主張」よりも、それが単純な問題ではないということを受験生が理解しているかどうかを答案から読み取ろうとしているのでしょう。高校の先生には「結論が明確」であるかどうかにやたらこだわる人がいますが、表面的な議論だけしていくら結論が明確でも、それは問題の奥行きを理解していないということなので、いい点数なんかもらえるわけはないのです。
今は英語の入試でも、英文である問題に関する意見や議論を示して、あなたはこの考えに賛成か反対か(あるいはどちらを支持するか)、理由を挙げて、○○の語数で書きなさい、というような問題がよく出ます。こちらはそんなに微妙な、答えにくい問題は出ないので、比較的書きやすいのですが、それでも生徒の方が一番困るのは、その「理由」の箇所であるようです。今でも地方の高校などは「詰め込み暗記」一辺倒の教育をしていて、その上に課外だの宿題だので手いっぱいで、社会問題化しているような多くのことの基礎知識すらなかったりするので、「急にそんなこと言われても困る」ことになるのです。大体、学校で要求されるのは、教師が用意した「正解」を言い当てることでしかないので、自分の考えや意見ではない。校則その他のことで「これはおかしい」という意見を言っても、反抗的だということで嫌な顔をされるだけで、対等の立場で意見を戦わせるというようなことには決してならない。昔の高校生は平気で教師をやりこめたりしたものですが、今はそんな下剋上は許されない雰囲気になっていて、親も「内申に響く」ことを恐れて、必死に止めるのです。
だから、それ自体典型的な問題についてであっても、十分な知識もないし、意見表明の機会も与えられてこなかったので、何と書いていいかわからず、小学生でももう少しましな理由が挙げられるだろうと思うようなヘンなものしか出てこなくて、軽い突っ込みだけで瓦解するような説得力に著しく乏しいものになったりするのです。これは英語以前の問題で、書かれている理由が意味不明なので、これはどういうことなのと質問すると、本人が思っていることと、表現されたそれとが全然違っていたりして、つまり、「相手がわかるように書く」ということもできないのだなと判明したりするのです。これが劣等生ならともかく、共通テスト(センター)で総合8割前後はある生徒だったりするので、事態はかなり深刻であることがお分かりいただけるでしょう。学校が事実上「自由なコミュニケーション」と各自で「考えること」を禁止するようなおかしな教育をするから、こうなってしまうわけです。こう言っては失礼ながら、そんな学校、ない方がマシではありませんか?
だから、読書は推奨されますが、わかりきったことながら、それも自分で考えながら読まないと駄目なので、仮に高校生が論説文対策で本を読むとしたら、模試に出る評論のような、本人と狭い範囲のギョーカイ人以外は誰も読まないだろうなと思われるような専門用語だらけの、難解な割に内容は乏しい文章ではなく、この人はほんとに頭がいいなという一流の人の書いた面白い文章を読んだ方がいい(一流大の場合、本番の入試のそれはいいものがセレクトされていることが多い)。自分の頭の混乱やもつれがそのまま問題に化けてしまったような人の書いたものや、論理の粗雑な文(最近はこれが目立つ)をいくら読んでも駄目なので、そういう見分けも、本を読んでいるうちについてくるものなので、わからないという人は目利きができる人に聞けばいいと思いますが、知的誠実さをもつ明晰な頭脳の持ち主が書いたものなら、わからないところに遭遇しても、それはこちらの問題なので、よく考えると必ずわかるはずです。そういうことを繰り返しているうちに、考える力もおのずとついてくる。論理的な文章を書く素地も、それで養われるわけです。これは翻訳ものでも訳文がしっかりしていればいいので、興味のあるジャンルを選んで、そこの一流どころを一冊でも二冊でも、読むといいのです。
それ以前のことについては、小さいお子さんがいる家庭では、絵本の読み聞かせなどが国語力育成に効果的であることはよく知られています(これはビデオやDVDでは駄目で、人による直接的な語りかけが大切。脳の反応部位が違うのです)。いわゆる論理的思考力が育ってくるのは比較的遅い段階で、子供は物語的なものが好きで、その中に感情移入して入り込んで、ストーリーを擬似体験するのが楽しいのです。想像力や直観力、共感力も、自由な遊びの他、そういうことで育つ。それから漫画や小説を自分で読むようになって、高校生ぐらいになると背伸びして、比較的読みやすい講演集や、それぞれの興味に応じて科学や哲学、心理学などの入門書もいくらか読みかじるようになり、論理的な文章もわかるようになってくるわけです。僕は高校生の頃、西洋の小説が好きで、その翻訳を日本の小説より多く読みましたが、西洋人の文章は元来ロジカルなので、それだけでも論理に強くなるということはあるでしょう(ついでに言うと、読書について親が「教育的配慮」からあれこれ指図するのは感心しません。うちの息子は小学生の頃、お笑い芸人志望で、漫画家のさくらももこのエッセイやヒロシの著書を愛読して、自分でも駄ジャレをつくり、「もうしませんとは申しません」などという“新作”を自慢げに披露したりしていましたが、そういう好きでやる言葉遊びも国語力を伸ばす助けになるでしょう。彼は大の勉強嫌いで、学校から帰るとすぐに遊びに行きたがり、「家庭学習の限度時間は15分から30分」と母親を嘆かせていましたが、基本的に学校のお勉強が好きな子供なんていないものなので、お受験する子は別として、落ちこぼれてさえいなければ好きにさせていいのです。小学生に英語を習わせるのも、僕自身は大して意味がないだろうと思っています)。
文を読むスピードも、本好きの子とそうでない子では全然違うので、小説なんか、早く先が知りたくて読んでいるうちに、自然に読むのが速くなるのです。だから試験でも、問題文を読むスピードが違うので、設問に答える時間的余裕も読むのが速い生徒にはたっぷりあることになって、よけい得点差がついてしまうことになるわけです。
この前、共通テストの新科目についての新聞記事がネットに出ていましたが、「(試行)問題のページ数は歴史総合が17ページ、情報と地理総合が各18ページ、公共が26ページに上り、限られた時間内に多くの資料や文章を読みこなす必要がある」(朝日新聞)とあって、読むのが遅いと今後は他教科の成績にも致命的な影響を及ぼすことになるのです。
今は学校でも「読書の時間」なるものが設けられ、前に生徒に本を貸してあげたら、学校でその時間に少しずつ読んでいるという話でしたが、僕なら二晩か、遅くとも一週間では読み切ってしまうだろうと思ったので、本というのは元来そういう読み方をするものではないのです。しかし、超多忙な今の子供たちには二、三時間ぶっ通しで本を読むなんてぜいたくはできないので、毎日十分間決められた時間に学校で少しずつ読むなんてことになって、それでは次に読むときは前の箇所は忘れているし、不効率かつ人間の生理にも反したやり方なのですが、それで学校は「読書の習慣」を身につけさせられると思っているのです。何だかねえ…。そもそも読書というのは勝手にやるからこその読書なので、時間的ゆとりを奪いすぎるからそんな妙なことになってしまうわけです。
このあたり、学校授業に課外と部活と大量の宿題がプラスされて、睡眠時間も削られる(最悪なのはあの朝課外ですが)ような学校では、ゆとりがなさすぎて国語力も「考える力」も育たないわけです。将来ブラック企業に勤務したときでも耐えられるようにという親切心から出ているのかもしれませんが、誰もそんなことは学校に頼んでいない。この前も春休みで大学生になった元塾生たちが遊びに来てくれて、「悪夢のようなあの生活は思い出したくない」と笑っていましたが、合理性ゼロのそういう学校に通う生徒たちはうまく手抜きしないと、大切なそういう能力を奪われてしまうのです。入試自体が詰め込み暗記から脱却する方向に向かっているというのに、これでは受験の妨害をしているのと同じなので、その種の学校に通う生徒やその保護者は、それに対する防衛策を練らねばならなくなるのです(実際僕は、わが子が高校に入学したとき、睡眠時間7時間確保を厳命した上、「下手すると疲れて病気になるし、あんな“指導”に従っていたのでは行きたい大学なんか受かるわけはないから、うまく手抜きしろ」とアドバイスしたほどです)。
国語力のつけ方から脱線しましたが、実際今の子供たちの「国語力低下」の原因は、スマホの普及よりも、学校の詰め込み暗記教育と過剰管理の悪影響によるところの方が大きいので、それに触れないでは済まされないのです。長くなったのでこれくらいにしますが、不幸にしてそういう学校に入ってしまったという人は、主体性をもち、距離を置いて学校とは付き合い、「手抜き」と言って悪ければ、宿題なども取捨選択して、よけいなものに時間を取られないようにして、自分でものを考えたり、本や雑誌を読んだりするゆとりを確保することが大切でしょう。子供が低学年の親御さんたちも、多すぎる習い事や塾などで子供のゆとりを奪いすぎないように気をつけた方がいいと思います。自分で工夫したり、主体的に考え、自問自答したりする能力は、それが「見えない学力」というものですが、自由のないところでは育たないからです。
これは僕が塾でよく受ける質問です。一つ難しいなと思うのは、学科としての国語力、とくにセンター改め共通テストの国語のような客観式テストの得点率と、本当の国語力はイコールではないということです。あの試験の場合、僕もたまに解いてみることがありますが、大体8割前後は得点でき、しかも、古文漢文ではほとんどミスをしないで、現国で落としていることが多く、それはいい加減にやってしまうことも関係しますが、古文漢文の場合、あれは教科書によく採用される有名どころは避けられている(見たことがあるのとないのとでは不公平になるという理由で)ので、出題文そのものはかなり難しいが、設問にヒントがあるので、そこを押さえれば解けてしまう。つまり、要領の問題なので、それは国語力というよりは受験テクニックの問題です。現国だと出題文が読んでわからないということはない(評論なんかには何を一生懸命わけのわからないこと言ってるんですか、と言いたくなるものもたまにありますが)ので、ただ設問が、文構成がどうなっているかというような、内容そのものの理解とは無関係な形式に関するものなども入っているので、「そんなもの、どうでもええわ」とテキトーに片づけているうちに失点することになるのです。
この場合、現国の読解力が一番あるはずなので、にもかかわらずその得点が一番低く、大してない古文漢文の得点の方が高いというのは、国語力を正しく反映していないということになるでしょう。一般受験生の場合でも、理系のよくできる生徒などは古文漢文を手堅く取るという話を聞くので、それは同じ理由によるのではないかと思われます。そのあたり、国語力というよりは要領の問題なのです。
これは記述式の方を見ないとわかりませんが、英語の偏差値は70あって、国語は50前後というアンバランスな生徒の場合、国語力がないと文脈を読みとったり、満足な英文和訳、和文英訳もできないので、そういう生徒は国語力がないわけではない。ただ「国語問題の掟」のようなものを知らないだけなので、そこに苦手意識が加わって、そういう結果になってしまうだけなのでしょう。有能な国語の先生ならそのあたり教えられるはずですが、たいていの場合、問題を繰り返し解かせるだけになって、「国語問題の掟」では、ここはこういう考え方になって、この選択肢が正解になるとか、こういう場合はこういう書き方をするといい点がもらえるとか教えることはしないから、改善しないままになってしまうのでしょう。あれはかなり特殊な世界だと僕は思っていますが、国語の先生自身はその中で育っているので、それが特殊なものだとは感じず、相対化した視点でそれを見ることもなく、かえってそういう発想は「国語という教科に対する冒瀆」のように感じられるのかもしれません。
僕自身は昔、「国語だけできる子供」でした。中一のとき、何でそういうことになったのかは忘れましたが、割と思い込みの激しい国語の先生(太めの中年女性)が大げさにそこらじゅうに触れ回って、試験でも絶対に一番を取らないといけないことにされ、一度そこから陥落すると、職員室に呼び出されて、「何ですか、この恐ろしい点数は!」と震える声で叱責され、そのときの僕の点数は88点だったのですが、深刻な罪悪みたいに言われて、子供心にもそれは少々大げさすぎるように思われましたが、とにかくそれで周りも何となく「国語はあいつ」ということになって、暗示の力は恐ろしいものなので、自分でも国語は得意だと思い込んでしまったのです。大学受験の時も、国語を構えて勉強した記憶はない(勉強にせず、楽しく古文漢文もできるようになる方法があるのですが、長くなりすぎるのでそれはカット)ので、「国語問題の掟」もその頃は何となくわかっていたわけです。
皆目わからなかった英語は、僕のそれはほとんど独学なのですが、自分であれこれ考えながらやったおかげで、学校では教えないようなことも教えられるようになり、文法などの説明もその分わかりやすいだろうと思うので、それが商売になったわけです。得意だった国語の方は、説明しろと言われても説明しにくいので、国語も教えたことはあるのですが、どうもこじつけじみていて、自分ではこういう順序で考えてはいないよなという感じなので、教えるのは下手なのです。そして受験が終わって「国語問題の掟」とは無関係になると、自分でもそのあたりカンが鈍って、かつてのようには「正解」できなくなった。
だから国語も、元々は苦手だった人が苦労の末、高得点できるようになり、その過程で身につけたノウハウを伝授するというふうだと、効果的な指導ができるのかもしれません。試験問題というものにはそういう性質があるので、前にイギリスに3年間いたという子が塾に英語を教えてほしいと言ってきたので驚いたことがあるのですが、聞けば、日本の大学入試の英文法の問題が解けないのだという。これは文法がわかっていないということではなくて、頭の不自然な使い方を要求される文法問題に対処できないということにすぎなかったのです(その証拠に、英作文を書かせるとちゃんと正しい英文が書けた)。それで3カ月ほどかけて説明しながら問題集を一冊解かせると、コツがわかったようで問題は解消したのですが、この他にも講師を募集したら、東大の大学院に在籍しているインド大使か何かの娘さんが応募してきて、採用試験用の高校入試(但し、私立)の英文法の問題ができなくて、面接していて、同じ理由によるのだなとわかったことがあります。ああいうのは一種のパズルのようなものなので、やはり特殊なのです。
話を戻して、だから国語だけできないという生徒の場合、それは国語力がないのではなく、「国語問題の掟」がわかっていないだけだと思われるので、そのあたりがわかるように解説してくれている問題集でも一冊やれば、そして「国語ができない」という自己暗示を解除できれば、問題は解決するでしょう。
ついでに、近年増えている小論文についても少し書いておきましょう。前に短期間、東京の某資格試験予備校で行政書士試験の時事小論文の講師をしたことがあって、こういう笑える話がありました。サラリーマンらしきある男性がこう質問したのです。その人は前の年、別の予備校に通ったそうですが、そこでは答案のフォーマットのようなものが提示され、書き出し、本論、結論と、使う行数まで細かく指定され、言い回しなども教えてくれて、そこに言葉を当てはめるみたいにして書くすべを習ったが、先生はそういうことを全く言わない、それは問題ではないかと。僕はそのとき出題が予想される問題を五つほどピックアップして、毎回資料を配布し、一通りレクチャーした上で受講者に書いてもらってそれを添削していたのですが、議論が自然に流れ、整合性があって説得力があるかどうかがポイントなので、添削を受けるうちにそのあたり、何となくわかってもらえるだろうと思っていました。しかし、その人にはそれが不満だったわけです。そこで僕は、逆にこう質問しました。もしその別の予備校の指導がよくて、功を奏していたのなら、なぜあなたは今ここにおられるのですかと。駄目だったから、予備校を変えたはずだからです。
幸い、予想問題の一つが的中し、感謝状をたくさんもらって喜んだのですが、その中には「正直言うと、毎回添削で真っ赤にされるので、頭に来てました」なんてのもあって苦笑させられました。その意図はなかったのですが、僕は皆さんのプライドを傷つけていたのです。しかし、文のつながりが不自然すぎたり、無意味なことや、前と後ろが矛盾するようなことを書いて受かるはずはないので、そういうことは自覚してもらわないと困るのです。これは大学入試の小論文でも同じですが、何とか型と命名して、いくつものそのパターンを長々と説明していたりする小論文の参考書などもありますが、大方は有害無益で、文章を書いている人間はそんな型など意識して書いているわけではないので、それを後で誰かが勝手に分類したにすぎないのです。まず問題点を挙げて、それについて論じ、最後にまとめるというふうに、通常は自然に頭が働くから、かんじんなのはそこに盛り込まれる中身です。型だけ守っているが、内容の論理的つながりは不明というのでは何の意味もない。なかには何をきかれているのかを理解せず、違うことを長々と書き並べる人もいますが、こういうのは駅への道順をきかれているのに、徒歩だと何分、タクシーやバスだとそれぞれ何分、なんてことを細かく説明して相手をイライラさせてしまうのと同じです。
そして大事なのは「自分の頭で考える」ということなので、そうしているかぎり、論述は自然に流れるのですが、借り物の情報を入れ込むことにばかり腐心すると、たいていは支離滅裂になってしまう。大学の推薦用の志望理由書なども、そこにその生徒の「真実の思い」がこめられていてこそアピールするので、技術的なことはむしろ枝葉にすぎないのです(文章を直す場合も、オリジナリティが十分あればかんたんな手直しで済む)。
面白いのは、意見作文のようなものの場合、考えながら書いていると、最初自分が正しいと思っていたことがだんだん疑わしくなってくる、というようなことがしばしば起こるので、そういう例を僕は副業で専門学校の社会学講師をしていた頃、学生のレポートで何度も見ましたが、一体何が正しいのか、途中でわからなくなってしまうのです。本人は苦しい状況に追い込まれてしまったわけですが、そういうのは読んでいて面白いので、僕は高い評価を与えました。しかし、日本の学校教育に一番欠けているのはそういう体験と訓練です。ソクラテスではないが、そうやって自分で考えることによって、「わかっていた」ことが実は「わかったつもり」だけだったことに気づいて、無知を自覚するのです。大学入試の小論文のテーマでも、これは一筋縄ではいかないなというものが多いのですが、出題者側は「明確な主張」よりも、それが単純な問題ではないということを受験生が理解しているかどうかを答案から読み取ろうとしているのでしょう。高校の先生には「結論が明確」であるかどうかにやたらこだわる人がいますが、表面的な議論だけしていくら結論が明確でも、それは問題の奥行きを理解していないということなので、いい点数なんかもらえるわけはないのです。
今は英語の入試でも、英文である問題に関する意見や議論を示して、あなたはこの考えに賛成か反対か(あるいはどちらを支持するか)、理由を挙げて、○○の語数で書きなさい、というような問題がよく出ます。こちらはそんなに微妙な、答えにくい問題は出ないので、比較的書きやすいのですが、それでも生徒の方が一番困るのは、その「理由」の箇所であるようです。今でも地方の高校などは「詰め込み暗記」一辺倒の教育をしていて、その上に課外だの宿題だので手いっぱいで、社会問題化しているような多くのことの基礎知識すらなかったりするので、「急にそんなこと言われても困る」ことになるのです。大体、学校で要求されるのは、教師が用意した「正解」を言い当てることでしかないので、自分の考えや意見ではない。校則その他のことで「これはおかしい」という意見を言っても、反抗的だということで嫌な顔をされるだけで、対等の立場で意見を戦わせるというようなことには決してならない。昔の高校生は平気で教師をやりこめたりしたものですが、今はそんな下剋上は許されない雰囲気になっていて、親も「内申に響く」ことを恐れて、必死に止めるのです。
だから、それ自体典型的な問題についてであっても、十分な知識もないし、意見表明の機会も与えられてこなかったので、何と書いていいかわからず、小学生でももう少しましな理由が挙げられるだろうと思うようなヘンなものしか出てこなくて、軽い突っ込みだけで瓦解するような説得力に著しく乏しいものになったりするのです。これは英語以前の問題で、書かれている理由が意味不明なので、これはどういうことなのと質問すると、本人が思っていることと、表現されたそれとが全然違っていたりして、つまり、「相手がわかるように書く」ということもできないのだなと判明したりするのです。これが劣等生ならともかく、共通テスト(センター)で総合8割前後はある生徒だったりするので、事態はかなり深刻であることがお分かりいただけるでしょう。学校が事実上「自由なコミュニケーション」と各自で「考えること」を禁止するようなおかしな教育をするから、こうなってしまうわけです。こう言っては失礼ながら、そんな学校、ない方がマシではありませんか?
だから、読書は推奨されますが、わかりきったことながら、それも自分で考えながら読まないと駄目なので、仮に高校生が論説文対策で本を読むとしたら、模試に出る評論のような、本人と狭い範囲のギョーカイ人以外は誰も読まないだろうなと思われるような専門用語だらけの、難解な割に内容は乏しい文章ではなく、この人はほんとに頭がいいなという一流の人の書いた面白い文章を読んだ方がいい(一流大の場合、本番の入試のそれはいいものがセレクトされていることが多い)。自分の頭の混乱やもつれがそのまま問題に化けてしまったような人の書いたものや、論理の粗雑な文(最近はこれが目立つ)をいくら読んでも駄目なので、そういう見分けも、本を読んでいるうちについてくるものなので、わからないという人は目利きができる人に聞けばいいと思いますが、知的誠実さをもつ明晰な頭脳の持ち主が書いたものなら、わからないところに遭遇しても、それはこちらの問題なので、よく考えると必ずわかるはずです。そういうことを繰り返しているうちに、考える力もおのずとついてくる。論理的な文章を書く素地も、それで養われるわけです。これは翻訳ものでも訳文がしっかりしていればいいので、興味のあるジャンルを選んで、そこの一流どころを一冊でも二冊でも、読むといいのです。
それ以前のことについては、小さいお子さんがいる家庭では、絵本の読み聞かせなどが国語力育成に効果的であることはよく知られています(これはビデオやDVDでは駄目で、人による直接的な語りかけが大切。脳の反応部位が違うのです)。いわゆる論理的思考力が育ってくるのは比較的遅い段階で、子供は物語的なものが好きで、その中に感情移入して入り込んで、ストーリーを擬似体験するのが楽しいのです。想像力や直観力、共感力も、自由な遊びの他、そういうことで育つ。それから漫画や小説を自分で読むようになって、高校生ぐらいになると背伸びして、比較的読みやすい講演集や、それぞれの興味に応じて科学や哲学、心理学などの入門書もいくらか読みかじるようになり、論理的な文章もわかるようになってくるわけです。僕は高校生の頃、西洋の小説が好きで、その翻訳を日本の小説より多く読みましたが、西洋人の文章は元来ロジカルなので、それだけでも論理に強くなるということはあるでしょう(ついでに言うと、読書について親が「教育的配慮」からあれこれ指図するのは感心しません。うちの息子は小学生の頃、お笑い芸人志望で、漫画家のさくらももこのエッセイやヒロシの著書を愛読して、自分でも駄ジャレをつくり、「もうしませんとは申しません」などという“新作”を自慢げに披露したりしていましたが、そういう好きでやる言葉遊びも国語力を伸ばす助けになるでしょう。彼は大の勉強嫌いで、学校から帰るとすぐに遊びに行きたがり、「家庭学習の限度時間は15分から30分」と母親を嘆かせていましたが、基本的に学校のお勉強が好きな子供なんていないものなので、お受験する子は別として、落ちこぼれてさえいなければ好きにさせていいのです。小学生に英語を習わせるのも、僕自身は大して意味がないだろうと思っています)。
文を読むスピードも、本好きの子とそうでない子では全然違うので、小説なんか、早く先が知りたくて読んでいるうちに、自然に読むのが速くなるのです。だから試験でも、問題文を読むスピードが違うので、設問に答える時間的余裕も読むのが速い生徒にはたっぷりあることになって、よけい得点差がついてしまうことになるわけです。
この前、共通テストの新科目についての新聞記事がネットに出ていましたが、「(試行)問題のページ数は歴史総合が17ページ、情報と地理総合が各18ページ、公共が26ページに上り、限られた時間内に多くの資料や文章を読みこなす必要がある」(朝日新聞)とあって、読むのが遅いと今後は他教科の成績にも致命的な影響を及ぼすことになるのです。
今は学校でも「読書の時間」なるものが設けられ、前に生徒に本を貸してあげたら、学校でその時間に少しずつ読んでいるという話でしたが、僕なら二晩か、遅くとも一週間では読み切ってしまうだろうと思ったので、本というのは元来そういう読み方をするものではないのです。しかし、超多忙な今の子供たちには二、三時間ぶっ通しで本を読むなんてぜいたくはできないので、毎日十分間決められた時間に学校で少しずつ読むなんてことになって、それでは次に読むときは前の箇所は忘れているし、不効率かつ人間の生理にも反したやり方なのですが、それで学校は「読書の習慣」を身につけさせられると思っているのです。何だかねえ…。そもそも読書というのは勝手にやるからこその読書なので、時間的ゆとりを奪いすぎるからそんな妙なことになってしまうわけです。
このあたり、学校授業に課外と部活と大量の宿題がプラスされて、睡眠時間も削られる(最悪なのはあの朝課外ですが)ような学校では、ゆとりがなさすぎて国語力も「考える力」も育たないわけです。将来ブラック企業に勤務したときでも耐えられるようにという親切心から出ているのかもしれませんが、誰もそんなことは学校に頼んでいない。この前も春休みで大学生になった元塾生たちが遊びに来てくれて、「悪夢のようなあの生活は思い出したくない」と笑っていましたが、合理性ゼロのそういう学校に通う生徒たちはうまく手抜きしないと、大切なそういう能力を奪われてしまうのです。入試自体が詰め込み暗記から脱却する方向に向かっているというのに、これでは受験の妨害をしているのと同じなので、その種の学校に通う生徒やその保護者は、それに対する防衛策を練らねばならなくなるのです(実際僕は、わが子が高校に入学したとき、睡眠時間7時間確保を厳命した上、「下手すると疲れて病気になるし、あんな“指導”に従っていたのでは行きたい大学なんか受かるわけはないから、うまく手抜きしろ」とアドバイスしたほどです)。
国語力のつけ方から脱線しましたが、実際今の子供たちの「国語力低下」の原因は、スマホの普及よりも、学校の詰め込み暗記教育と過剰管理の悪影響によるところの方が大きいので、それに触れないでは済まされないのです。長くなったのでこれくらいにしますが、不幸にしてそういう学校に入ってしまったという人は、主体性をもち、距離を置いて学校とは付き合い、「手抜き」と言って悪ければ、宿題なども取捨選択して、よけいなものに時間を取られないようにして、自分でものを考えたり、本や雑誌を読んだりするゆとりを確保することが大切でしょう。子供が低学年の親御さんたちも、多すぎる習い事や塾などで子供のゆとりを奪いすぎないように気をつけた方がいいと思います。自分で工夫したり、主体的に考え、自問自答したりする能力は、それが「見えない学力」というものですが、自由のないところでは育たないからです。
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