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神は存在するが、私は存在しない

2021.02.06(15:01) 801

 今回は床屋政談とは全然違う話を少し――。タイトルを見て「何?」と思われた方が少なくないでしょうが、これは現代文明人が信じていることとはほとんど正反対です。世間の大方の人は「この自分は確かに存在するが、神が存在するかどうかは大いに疑わしい」と思っているだろうからです。

 ことに日本人の場合、キリスト教やイスラム教のような一神教の文化圏には入らないので、八百万神(やおよろずのかみ)信仰のメンタリティはまだ幾分か残っているとはいえ、唯一にして絶対の創造主という考え方自体、クリスチャンやムスリムになっている人たちは別として、初めからないのだと言う人もいます。

 しかし、そういう神観念が初めからないとは言えない。たとえば、言うことを聞かなくなってきた生意気盛りの男の子に、「誰も見てなくたって、神様はちゃんとあんたのやることを全部見てるんだからね!」と母親が脅すと、不思議に効き目があるなんて話は割とよく耳にするからです。その場合、その子の頭の中にあるのは、八百万神のどれかではなく、何か一神教的な性質の神様でしょう(閻魔大王のようなイメージかもしれませんが)。人間の頭の中には元々そういう観念が内蔵されていると考えてもよさそうです。

 しかし、洋の東西を問わず、現代式の教育を受けると、何てあれそういう神観念は未開で幼稚なものであるとみなされるようになって、「ふふん、神だって?」という態度を取ることが知的であることの証しみたいになってしまうのです。神の存在は証明できません。神はその性質上、かたちをもたず無限定な存在だと考えられるからで、それは証明の対象にはなりえないものだからです。かつて大昔に絶滅したと言われていたシーラカンスが捕獲されたときみたいに、それをつかまえて「これが神だ!」とは言えないのです。またそれは通常の二元主義的な知性(理性)には認識できないので、パスカルのように信じるか信じないかの「賭け」を提案する人も出てくるわけです。パスカル自身は神を信じる方に賭けると言ったのですが、今の物質主義全盛時代の科学者たちの大部分は違うので、「疑わしきは存在せず」ということで、神は存在しないという結論が出されてしまった(不明なことについては判断を保留するのが真に「科学的」な態度と言えるので、こうした決めつけは甚だ「非科学的」なものなのですが)。

 また、今の人間社会を見ているかぎり、神が存在しているとはとうてい思えない。それでなくとも不完全で欠陥の多い制度やルールはしばしば悪用され、権力をもつ人間がそれを使って弱い立場の善良な人たちを搾取または虐げるとか、卑劣な人間がまともな人を陥れるとかいったことは日常茶飯で、政治やビジネスの世界と来た日には、これでもかというほど醜悪な事例で充満しているのです。神などというものは、ここには全く関与していないとしか思えない。悪人が栄え、善人が滅びるのは人間世界のつねと言ってよいので、神はこの人間社会の建設と運営には参加していないのです。尤もらしい綺麗事を並べ立てる人間はたくさんいるとしても、大方の場合、それは自分の醜悪な実態を覆い隠すためで、その言行不一致は甚だしく、そういう虚偽が大手を振ってまかり通るということ自体、この世界が神とは無縁であることを証拠立てています。

 僕自身は「神は存在する」派なのですが、そういうことは認めざるを得ない。前にも書きましたが、僕は遠からずこの文明は崩壊するだろうと思っていて、それに伴う大混乱で人類は絶滅の瀬戸際に追い込まれるかもしれません。そうなったとしても、神は存在するのか? それは存在するので、人間の自業自得でそうなったのを、神のせいにすることはできないだろうと僕は思っています。

 心理学者のユングがかつて、「あなたは神を信じますか?」と問われて、I know と答えたという話は割と有名です。それで質問者は驚いたというのですが、この話のポイントはもちろん、相手が神を信じるか否かと訊いたのに対して、彼が「自分は神が存在することを知っている(だから今さら信じる必要はない)」と答えたところにあります。彼は見えざる心の探究者であり、その著作を読めばわかるように、学者である以前に一種の mystic(神秘主義者)だったので、その神がどんなものであったのかは知りませんが、何か自得するところがあって、確信めいたものをもっていたのでしょう。

 僕も神の問題というのは、信じるか信じないかの問題というより、知るか知らないかの問題ではないかと思います。僕も僕なりに「神を知る」体験はしたことがあるので、だからこの世界がどんなに絶望的なものになっても、自分が悲惨な状況で死ぬことになっても、その確信が揺らぐとは思えないのです。

 僕の知る神はむろん、人格神の類ではありません。それは擬人化を拒絶した一つのエネルギー体のようなもので、完全無比な知性を備え、宇宙の森羅万象に浸透し、生命を育む力です。それはそれ自体、この物質宇宙を超越した存在で、それゆえ永遠不滅です。

 残念なのは、それで僕が日々感謝の思いでいっぱいになり、生きとし生けるものに惜しみない愛情を注ぐ、というようなことにはなっていないことです。むしろこの世界にウンザリしていることの方が多いので、それは心がけが悪くて、自分が神とは無縁のこの人間世界に一部になり果てているからです。宗教世界のひどい腐敗堕落もよく知っている。権力あるところには悪魔が住まうのがつねで、宗教家を仰ぎ見るにはあまりにもその裏側を知りすぎている。歴史的に言っても、宗教団体というのはこの世界に対して善よりも悪の方を多く行ってきたのです。一例を挙げると、キリスト教カトリックはかつて十字軍なるものを組織して、組織的かつ非道な大虐殺を何度も行ってきました。あのイエスの愛の教えからどうしてそういうものが導かれるのか、さっぱりわからないのですが、ローマ法王は世界最大のマフィアのボスみたいなものだったのです。そういう過去の歴史をいくらかでも知っている人間には、現ローマ法王が愛だの平和だのについて鹿爪らしいことをいくら語っても、素直にそれに耳を傾けることは難しくなる。実録映画『スポット・ライト』に描かれたような、おぞましい教会神父による子供たちへの性的虐待やその組織的な隠蔽なども、いまだに続いているのです。そんなところに神がいるはずはない。

 葬式仏教も同じで、ソロバン勘定第一の生臭坊主のお経の功徳が死者の霊に及ぶとはとうてい思えない。だからそんな形式にすぎないものはなしで済まそうという動きが起きてくるのは必然で、坊さんが尊敬されなくなったのは、一般の人々の不信心の拡大のせいという以前に、彼らの行いが悪すぎ、人品骨柄の卑しい坊主が多すぎたことの結果なのです。前に僕は父の法事で、菩提寺の坊さんが「わが臨済宗は浄土宗などの他力と違って自力だから高級なのだ」と自慢するのを聞いて、この坊さんは自力というものを根本から誤解しているなと呆れた(捉え方の違いだけで、自力も他力も本質的には同じなのです)のですが、仏道修行などというものは何ら行われていないことがよくわかるので、彼は福祉サービスの会社を作ったり、ビジネスには熱心でなかなかに有能であるようでしたが、宗教者としての中身はゼロに等しいのです。日本の仏教が衰退するのも道理だと、あらためて思ったものです(「あの世の沙汰もカネ次第」を地で行く、お布施の金額で戒名のランクが変わるシステムもお笑いですが)。

 僕は前に「エイリアン本」を訳しているという話をしました。十日ほど前、編集者との細かいやりとりも全部終わって、やっとのこと僕の手を離れたので、後ひと月ぐらいで出版の運びになるかなと思うのですが、このハーバード大医学部教授(その後交通事故で死去)の本の特徴の一つは、エイリアンとの遭遇や彼らとのやりとりを通じて、体験者たちの大部分が「神を知る」体験に導かれていることを詳述している点です。それはむろん、彼らがエイリアンを神だと思い込んだというような単純な話ではありません。エイリアンとの遭遇をきっかけに、彼らは通常の自己観念や世界観を粉砕され(「木っ端みじんにされる」といった言い方がよく出てくる)、通常の時間や空間の観念も疑わしいものになって、こうしたことはそれ自体が恐ろしい体験なのですが、別の次元へと導かれて、そこに新たな神と世界の見取り図を発見するにいたるのです。

 これは「元々そこにあったもの」で、彼らが妄想したものでも発明したものでもありません。今のこの文明世界による十重二十重(とえはたえ)の条件づけが脱落したとき、それが姿を現すのです。その意味で、これは昔の宗教家や神秘主義者たちが発見したものと、非常によく似ている。古代の叡知がエイリアンたちの媒介によって再発見されるというところが面白いので、だからこそ僕はこれを翻訳紹介しておきたいと思ったのですが、元は「ふつう」だった人たちが、それによって大変身を遂げるのです。「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものです。

 常識からするとんでもない話が続出するので、この種の本は心のオープンな人でないと受け入れがたいだろうと思いますが、大学付属の病院に精神科を創設し、臨床現場を大事にする優れた精神科医でもあった著者は辛抱強くそれに付き合って、理論的な考察も加え、十年かけた研究の成果をこの本にまとめたのです(訳書では無用と見た箇所や反復は少し削りましたが、それでも本文554頁、全体で630頁の分量になってしまった)。これはたんなるエイリアン本ではなく、いずれ「スピリチュアリズムの古典」の一つになるだろうと僕は思っていますが、だからただ変わった話を紹介しただけの本ではないのです。

 彼らの多くはそれによって「神を知る」体験をしたと書きましたが、昔の神秘家たちの体験同様、ここでも明確に示されているのは、通常の自我意識が崩壊させられないと、神は認識されないということです。つまり「私が実在する」と思っている間は、神は姿を現さないのです。僕は前に特異なキリスト教観想者、バーナデット・ロバーツさんの本を一冊訳したことがあるのですが、彼女はこのあたりの事情を端的にこう述べています。

「人間はそもそも神によって創られたものであるゆえ、その中心は神の中にあるのですが、私たちは往々にしてこのことを忘れています。それは人間の要であり、それなくしては人間は存在できないでしょう。しかし人間は、この中心を自己に置き換えてしまいました。これは実質的に、自分を神にしようとすることです。それによって、本来的な中心だった神が見えなくなっています。しかし、暗夜での(体験)のように、恩寵によってこの自己が取り払われたとき、人はもう一度、自分の真の中心は神だということを知ります」(『神はいずこに』日本教文社 2008 p.44-45)

 エイリアンとの遭遇体験は、自分のコントロールが全く及ばず、人間よりはるかに高度なテクノロジーをもつ生物に宇宙船に連れ去られたりする様々な体験を含むのですが、それによって「万物の霊長」的なプライドをズタズタにされるだけでなく、その異次元との往還体験を通じて、それまで信じていた「自己」というものが実は甚だ頼りない、非本質的なものであったことに気づかされます。これはそれまで自明視していた地面が崩壊して、奈落に落ち込むような途方もない恐怖を伴うもので、上記の本に出てくる「魂の暗夜(元々は「十字架の聖ヨハネ」と呼ばれる聖人の言葉)」に匹敵するものなのですが、それによって「偽りの自己」への執着を手放したとき、彼らが根源とか、聖なるもの、一者、故郷、存在の根底、神などと呼ぶものが初めて姿を現し、これこそが本当にリアルなものだと自覚するのです。そしてエイリアンたちは、それを自分に教えるメッセンジャーであったと受け止められるようになる。

 むろん、人によってその解釈には違いもあるのですが、最大公約数的に言うと、そういうことが起こるので、通常の自分も、世界も、目の前で崩壊してしまうのです。著者は禅の「大死」という言葉も援用していますが、禅の公案の場合だと、頭でいくら考えても理解できないような難題を吹っかけられます。これはそれを理解し、解決しようとする「自分」それ自体を行き詰まらせ、崩壊させるのが目的(そのとき初めて全く違った世界が視界に現われる)なのですが、エイリアンは現代西洋版公案のような役目を果たすのです。エイリアンとのやりとりにしてからが、禅問答みたいなところがあって、直接的なわかりやすい答え方は決してしてくれないのですが、彼らはトリックスターでもあれば、禅匠でもあるのです。

 そのあたりはその訳本が出たら直接お読みいただくとして、「私は存在するが、神は存在しない」という感性は、だからごく自然なものだということです。私が木っ端みじんにされるか、それをすっかり忘れ去っているとき、突然の「神の顕現」が生じる。そうなったとき初めて、「神は存在するが、私は存在しない」ということがわかるようになるので、「私は存在する」と思っていて、それが実質上その人の「神」になっているかぎり、真の神は認識できないのです。こういうのはどこかあの「だまし絵」に似ているかもしれません。視点のシフトによって、見えてくるものが変わるのです。

 こう言うと、「何を未熟なことを言っているか。私もなければ神もない。あるのは無だけじゃ」と悟ったと称する禅宗のお坊さんには叱られるかもしれませんが、そういうのは言葉の表面にとらわれて、本質が見えていない(従って、悟ったどころではない)人の言うことにすぎないので、この訳書でも、巻末註にその議論が出てきて(p.599)、「実際、現代の物理学者と天文学者は、『無』がある意味では万物の根源だということを証明する発見を報告し始めている」として、その興味深い学説を要約しているのですが、洞察体験を経た、たんなる理屈だけの神学者でないキリスト教の宗教家たちは、それを「神」と呼んでいたのです。聖書の字面に拘泥して神を擬人化するアメリカあたりの幼稚なキリスト教原理主義者たちとはそのあたり理解の次元が違うので、気をつけて物は言わないと自分が恥をかくだけに終わるでしょう。

 先の『神はいずこに』(ちなみに原題は、The Path to No Self で、直訳すれば『無自己への道』です)からの引用にもあったように、現代の文明人は「この中心を自己に置き換えてしまい、「実質的に、自分を神に」してしまったので、かつてはあった自分が自然の一部だという正常な感覚も失われ、それはたんなる搾取の対象と化して、際限もない破壊をひき起こし、人間世界内部でも、これほどひどいエゴイズムと混乱、対立、差別を蔓延させる原因となったのは、少し反省してみれば誰にでもわかることでしょう。17世紀の思想家ホッブズは「人は人にとっての狼である」と述べ、「自然状態においては、万人の万人に対する闘争は避けられない」と主張したのですが、この「自然状態」というのは、「私は存在するが、神は存在しない」という意識の地平で捉えられた「自然状態」で、空虚な観念としての「神」しかもちえなくなった人間の「ありのまま」の姿を指すものです。

 それで彼は「社会契約説」なるものを唱え、主権を国家に委ねて国民を服従させるべしと説いたのですが、こういうのはどう転んでも成功しないので、その後民主主権、法治国家と進んでも、昔よりはいくらかマシになったというだけで、問題の根本的解決にはつながらなかったのです。元がジコチューの集まりになりかけたところに、節度のない商業主義が「あんたが大将」と顧客をおだてて、それを商売に利用しようとばかりしてきたのだから、世間一般にも「私は神」感覚は募るばかりで、僕は子供と話をするのは好きでも、大人を相手にするときはウンザリさせられることが多いのですが、それはつまらないヨイショ合戦をすることが必要不可欠なマナーみたいにされてしまっているからです。ホンネで話ができない。お互いのエゴを持ち上げ合うことが「人を尊重」することだと勘違いしているのです。つまらない見栄やプライドなど犬も食わないと思いますが、酒でも飲まないとそういう余分な虚飾や防衛が外れないとは、何と不便なことでしょう。コミュニケーションというのは相手をおだてることとは違うのです。それはかえって心の通じ合いの妨げになる。

 しばらく前に、僕は近くのスーパーでこういう経験をしました。夜の七時ぐらいだったのですが、まず入り口近くで好物の袋詰めみかんを買って、さらに進むと、ある一角に弁当が並んでいて、「半額」の札が貼ってある。ふつうのから揚げ弁当と、その隣によく似た山賊揚げ弁当というのがあって、から揚げが三つ、山賊揚げの方は四つぐらいあったのですが、買ってみようかと思ったものの、違いがわからない。から揚げなら無難だろうと、それを手に取ったら、横から「あっちの(山賊揚げの)方がいいですよ」という声が聞えた。顔を上げると、傍らに五十代と思しき女性(今だから当然マスク姿)が立っていて、もちろん知らない人ですが、僕に教えてくれているようだったので、「味が違うんですか?」ときくと、「違います。あれはレンジでチンすると、外はカリカリ、中はジューシーで、とってもおいしいんです」とお答えになる。「でも、それなら何でこんなに売れ残ってるんですかね?」とさらに訊ねると、「みんな、知らないんですよ」といわくありげな顔でおっしゃる。「だまされたと思って買ってみてください」というので、「じゃあ、そうします」とそれに替えたのですが、店員でないのは明らかだし、一体あの人はどういう人なんだろうと、後で考えると可笑しくてならなかったのですが、そのやりとりは僕には愉快なものだったので、ちゃんと人間的なコミュニケーションが成立していたのです。それがまずくても、僕は腹は立てなかっただろうと思いますが、その人の言ったとおり、それはほんとにおいしかったので、たいへん親切なアドバイスをしてくれたことになります。その場でそういうやりとりをした後、その人は風のように消え去ったので、その後顔を合わすこともなかったのですが、それは愉快な記憶として残ったのです。

 昔、こういうこともありました。息子が小学校高学年ぐらいのときだったと思いますが、二人でとんかつ屋に行って、食事を済ませ、レジで支払いをしていたとき、相手の店員の女性が、僕の傍らに立っている息子の顔を見て、「あっ、ボクのおかわり忘れてた!」と叫んだのです。そこはご飯のおかわりが自由で、大食いの彼はいつも三回ぐらいおかわりしていた(親としてはいくらかバツが悪かった)のですが、一度そのままになってしまって、別の店員に頼み直したことがあったのですが、その忘れた人がその店員さんだったわけです。彼女は息子の顔を見た瞬間、そのことを思い出した。「いや、あのあと頼み直したから大丈夫です」と笑ったのですが、その正直な反応が印象的で、父子はそれに好感をもったのです。そのときも人間的なコミュニケーションが成立しているというたしかな感覚があった。マニュアル化されたロボットみたいな対応ばかりだと人間を相手にしているという感じがしないので、僕にはそれは不愉快なのですが、こういう人に会うとほっとするのです。

 こういう脱線話がその前の議論と何の関係があるのかと不可解に思われる人がいるでしょうが、関係はあるのです。というのも、こういうやりとりにはおかしな自意識は全く絡んでいないからです。「私」と「私」が向き合って、互いのそれを意識し合って会話しているのではない。そんな面倒なものは抜きにやりとりが行われ、だから自然な心の通じ合いというものが成立するのです。こちらにそんな気は少しもなくとも、ただちに相手の「私」が顔を出して、その後も言葉の表面的なやりとりは続いても、コミュニケーションはすでに終わってしまっているということは少なくありませんが、そういうやりとりは人を消耗させるだけなのです。「私」は吸血鬼に似ている。従って、つねに意識が「私」を離れられないような人は、そのことによって自分も相手も疲れさせるだけなのです。商談は成立するかもしれないが、それはコミュニケーションではない。

 人を尊重するのとその人の「私」を尊重する(持ち上げる)のとは全く違ったことなのですが、「私は存在するが、神は存在しない」時代の人間にはそのことがわからない。人の本質とは他でもない、その「私」だと思い込んでいるからです。それがたんなる吸血鬼にすぎないことを理解していない。

 思うに、高度な洞察や自覚はなくても、人が「私」を離れ去って、人や動物や自然と交流するとき、真の交流はそれでなければ不可能ですが、人は神的な息吹に触れていて、愛や自由といったものの体験が可能になるのです。「私」という吸血鬼はそれを殺してしまう。知恵や洞察力といったものも、意識がその吸血鬼にはりついているかぎり、決してその人の元にはやってこない。だから、「私は存在する、存在するのはこの私だけだ」的メンタリティの持主は、その人のIQとは無関係に、つねに利己的で愚かになるのです(それが行くところまで行ったのがあの「自己愛性パーソナリティ障害」という病気です)。

 今の文明社会の致命的な欠陥は、この「私=吸血鬼人格」を人間存在の中核と見なして、それに基づいてすべてが運営されていることです。そしてそれによって不可避的に生じる度の過ぎたエゴイズムを、法や世間道徳によって規制しようとする。そんなことがうまくいくはずがない。合法的な悪と偽善がはびこるだけで、根本の利己性は少しも変わらないからです。そもそもそれは虚偽の人間理解です。虚偽を土台とすれば、すべては虚偽になるしかない。ホッブズの言葉をもじれば、そういう社会では人は万人に対する吸血鬼になるほかなくなるのです。それで愛の欠乏に悩んだ挙句、利己的な自己愛とナルシシズムをさらに強化するだけに終わるというのでは、この人間世界は地獄になるしかなくなるのです。

 今の人間世界は、すでにそうなっているのではありませんか? それなら、そういうものが滅びるのは必然です。それこそ「神の摂理」と言うべきで、つまらない「私」を神の地位にのぼらせて、真の神が認識できなくなったことの、それは自然な結末なのです。神が存在しないがゆえにそうなるのではない。根本的な人間性、自己のありようを誤解して、巨大な妄想体系をつくり上げてしまったことが原因なのです。

 しかし、「神は存在するが、私は存在しない」ということを人はどうすれば理解するようになるのでしょう? 今の時代だと、エイリアンに誘拐されるショッキングな体験でもしないと、そんなことは起きないのでしょうか? 現代人は寝ても覚めてもその「私」と一緒で、僕はこれまであの手この手で、自明視されているそうした「私」が実は虚偽でしかないということを説いたり示唆したりする本の翻訳紹介に努めてきたのですが、成果が上がったようには全く思えないので、徒労感は募るのみです。

 これは一つには、大事な「私」が否定されれば途方に暮れてしまうと思うからでしょう。実際のところは、そのときは途方に暮れる主体は存在しないので、何も困らないのですが、それがどういう事態なのか想像できないのです。むろん、社会に暮らす個体の認識票のようなものとしての私、一個の生命体として機能するための主体としての自己はその場合も残るので、そうでなければ困る(私は存在しないのだから、自分のやったことには何の責任もないという屁理屈になりかねない)のですが、その場合、意識がそれに日常的に自己同一化することはなくなるので、余分な自意識なしに考え、感じ、行動することが可能になって、それはずっと快適なあり方なのですが、それがどういうものなのか、わからないのです(「私は考える、ゆえに私は存在する」とデカルト先生は言いましたが、それは後付けの理屈なので、「考える」ことは「私」以前に成立しているのです。有名な川端康成の『雪国』の冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ですが、そう認識する主体は意識にはなく、しかし、それは明晰この上ない記述なのです)。

 ふつうの人に一番わかりやすいのは、さっき挙げた二つの幾分こっけいなエピソードのような例かもしれません。そこには自意識は何ら関与していないと言いましたが、そういう何でもないやりとりの場合、人は「私」抜きでコミュニケーションを取り合っているのです。そしてそれは珍しくとも何ともないことなので、「私」のない意識を人々は実際に体験していて、そのとき存在するのは一つのフィールド(場)なのです。その中で心の交流が行われて、それが人を賦活する働きをもつのはなぜなのかと問うなら、人は神の認識に一歩近づくことになるかもしれません。それは「私」が意識に不在であるとき、何か暖かなものが心に流れ込んでくるということを示すものだからです。その源泉となっているものは何なのか? それはエゴとエゴが激しく「共感」し合っているときの騒々しいものとは全く違うので、もっと穏やかで落ち着いた、しかし心の栄養が補給されているような感じのものなのです。「私」がいないとき、そこに顔を出すものがあって、「私」がそれをつかまえようとしても、それは無理な話なのですが、意識が「私」に焦点化するのをやめて、何かの拍子に向こう側に完全にシフトしたときに、瞭然として見えてくるものがある。それはユングの言う「集合的無意識」の類ではないので、もっとはるかに大きくてクリアなものです。

「私」が一個の虚構、幻想にすぎないことを哲学的に論証することはできますが、僕がこの頃思うのは、いくらそんなものを示してみても、それは観念でしかなく、大方の場合無用な誤解を招くだけに終わるということです。体験を前提としないと、理解は成立しない。そしてその体験は、今言った日常的な体験と地続きのところにあるが、それを反省的に捉えようとするとき、それは自意識的なものになってしまう、つまり、「私」がそれを認識しようとする構えにどうしてもなってしまうので、うまく行かないのです。

 ロバーツさんは「恩寵」という言葉を使っていますが、僕もこれはそう呼ぶしかないものだと思います。それを捉え、理解しようとして完全に行き詰まった「私」を神が憐れんで、意識をそこから引き離し、神が自らを顕示するというようなかたちで、それは起きるだけなのです。たまさかそういうことが起こっても、往々にして人間はその意味するところを誤解してしまう(だから生悟りで愚かな増上慢に陥る人はいくらでもいる)のですが、その体験そのものは失われないので、自らその解釈の誤りを修正する機会は与えられる。いずれにせよ、その「体験」は万人に開かれていて、神はそれを辛抱強く待ち続けていると言えるかもしれません。神の愛はいつも僕らを取り囲んでいるが、無意識に深く根付いた「偽りの神(「私」)」の信奉ゆえに、僕らはそれに気づかないだけかもしれないのです。

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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コメント
松久様

コメント、ありがとうございました。
ご見解に深く同意します。
人間はたんに物質的に自然の一部なのではなく、はるかに深い意味でそれと同体です。
その感性が失われれば、人は正気を失うしかなくなることを、多くの人は忘れているのではないかと思います。
環境破壊と人間社会の様々な病理の根は同じなので、その感性・認識の復活なくしては、
今の文明人が直面している問題の本当の解決はありえないだろうと、僕も思っています。
【2021/02/07 18:41】 | 大野龍一 #- | [edit]
場違いな話を持ち出すなと怒られてしまうかもしれませんが、私は青年期を抜けて大人になるにつれ男性器の大きさとその人物の格・器というものを考えざるを得なくなりました。いわゆる巨根信仰ですが、人並み外れたサイズの持ち主に会うと「ヌシ」と言いますか、神に選ばれた特別な存在なのではと思ってしまうのです。ごく自然に畏怖の感情が湧くように感じるということです。まぁ別に大きい人間に支配されたいとも思わないのですが、男性器の大きさと精神面の強さには相関があるように思えます。日本が近代に入って人間はみな平等であるという建前の上に社会をつくり始めた。おかげで社会的弱者として生まれてもある程度安心して生活できるようになった。が、視点を変えてみると社会が豊かに便利になるにつれ自然が破壊されるようになったとも言える。そんな現代社会の中で大変タブー視されているように思えるのが男性器の大きさ問題なのですが、それは人間の中の前近代的、動物的、自然的な部分を非常に象徴しているから、と私には思えるのです。つまり人間にとって核心的な部分、性の問題を隠蔽し社会の表側から排除することで今の表面的なことばかりに気を取られがちな社会になっている。どこから、何から手をつければいいのか分からなくなっている、そんな気もするのですが。
【2021/03/29 23:28】 | 道化無念 #Yo.GmV86 | [edit]
なるほど。
でもそれなら、AV男優などは皆大人物だということになりませんか(笑)。
昔、ナポレオンの検死に立ち会った医師は「一物は小児に如かず」と言ったという話を何かで読んだ記憶がありますが、
科学的な天才の脳の大きさと同じで、それはあまり関係がないような気もしますが。
英雄色を好むとも言いますが、あれも大きさの問題ではないようですよ。
【2021/03/30 18:09】 | 大野龍一 #- | [edit]
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