FC2ブログ

タイトル画像

なぜ世界はこれほど悲惨な場所となったのか?~プロティノス哲学からの照射

2020.11.23(07:13) 780

 今のこの世界は申し分なく悲惨で、この後もその悲惨の度は強まり、遠くない未来に人類のかなりの部分が大混乱の中で死滅に追いやられることになるだろう。要するに、人類レベルでの「大量絶滅(mass extinction)」が起きるだろう。――僕にはそのように思われるのですが、僕に何より奇怪に思われるのは、そのような危機感が大部分の人に欠けているように見えることで、この鈍感さがどこから生まれるのか、それが不思議でならないのですが、よく考えてみれば、実はその鈍感さこそがこの深刻な事態をもたらした最大の要因であると言えるのではないか――そのように感じられるのです。

 そしてその鈍感さが何に由来するのかといえば、人間が〈価値の倒錯〉と言える状態に陥っているからで、それこそがキェルケゴール流に言えば「死に至る病」であることを認識できなくなっているからではないのか? 要するに、世界が終わりかねない状況を生み出している原因と、それに対する異様な鈍感さは、一つのことであって別々の問題ではない――そのように思えるのです。

 僕はお説教ほど無駄なものはないと考える人間の一人です。だからそんなことをする気はないし、そんなことをするほど偉くも堕落してもいない。また、人間の死について言えば、僕はそれ自体はそんなに大したことではないと思っていて、自分自身の死に関しては、それがこの先いつやってこようと全く問題ではありません。すでにこの世界に十分な期間滞在したし、去るのが惜しいほどここは素晴らしい場所とは感じられないからです。唯一気がかりなことは、わが子や未来の世代が自分に倍する(数倍する)苦難を強いられることで、それに対しては先に生きた世代として応分の責任があるので、それを思うと忍び難いものがあって、だから言っても全く聞かれないことだとしても、それは僕自身の責任ではないので、「何が問題なのか?」ということに関して思うことについては、書いておかねばならないと考える次第です。

 先日、僕はあることがきっかけで本棚の奥からプロティノスを引っ張り出して読み返しました。読み返したと言ってもパラパラと必要に応じてそうしたというにすぎないのですが、視点を変えて読み返すのは新鮮に感じられる体験で、「なるほど」と納得が行ったことが一つあって、根本の問題はやはりそこにあるのだなと思ったのです。

 そのきっかけは、ある日自転車に乗って林の中を通り抜けていたときに、「生産的なのは自然だけである」という言葉が突然頭に浮かんだことです。この「生産的」というのは「創造的」というのと同義ですが、僕には真実と思われました。そのとき「自然は、しかし、どうやってそれを可能にしているのか?」と以前からもっていた疑問を思い出したのです。それで、何でそれがプロティノスと結びついたのか自分でもよくわからないのですが、家に帰ってから彼の『エネアデス(抄)』のⅠ・Ⅱ(中公クラシックス)を引っ張り出した。

 そうすると関係個所が見つかった。Ⅱの方に「自然、観照、一者について」という文があって、そこに一見すると奇妙なことが書かれていたのです。要約すると、

 自然(ピュシス)は、観照(テオリア)を通じて自らの製作物を生み出す

 というのです。これは一体どういうことか? それを考える前に、ここでプロティノス哲学のかんたんな見取り図を示しておく必要があるでしょう。彼はその最上位に「一者(ト・ヘン)」を置きます。そこから知性(ヌース)が流出または発出して、今度はその知性から霊魂(これは「多にして一」で、本質的には同じですが宇宙霊から僕らの個別の魂まで、多種多様のものがある)が生み出される。最下位にあるのが「素材」と呼ばれるものですが、これは一応物質と簡単に解釈しておきましょう。通常の物質は「素材」によって構成されたもので、そこには霊魂による「加工」がすでに加わっていると解釈できるのですが、あんまり細かくし過ぎるとかえってわかりにくくなるので。

 それで、宇宙霊魂がこの物質宇宙を素材から作り、それに秩序を与え、人間の場合には、魂を通じて肉体とこの世界に働きかけ、そこに秩序を生み出す。自然も、それは霊魂の末端に位置するものと言えますが、素材に働きかけてこの自然世界をつくり出すのです。

 そうすると、一者→知性→霊魂(分類によっては霊魂→自然)→素材、という順序で上のものが下のものを生み出すことによってこの世界は形成されるのですが、知性は一者を仰ぎ見、霊魂はその知性を仰ぎ見る、という関係になっていて、この「仰ぎ見ること」が「観照」であり、その観照によって、下位のものが(半自動的に)生み出される、あるいは秩序づけられるのです。

 僕らがふだん目にしている「自然による創造」は、だから自然が自分の上位にある知性、ヌースを「観照」することによってその叡知を取り込み、行われているということになるわけです。その意味で、プロティノスによれば、この自然の豊かで美しい姿は、より高次の世界の模像または影のようなものでしかない。

 このあたりはアーサー・ガーダムも同じようなことを言っていて、この世界にある美は一時的な、儚いものでしかないが、色彩にしてもフォルムにしても、それは高次元の世界にある美の貧弱な模写にすぎないのだと言っています。しかし、彼はどうしてそうなのかということは説明していない。プロティノスはそれを上のように説明するのです。

 さて、こういう話が冒頭の人類大量絶滅の話とどう関係するのか? それはプロティノス流に言えば、人間の魂が「劣悪」なものになってしまったからで、何が善であり、何が悪であるかを正しく見極められず、際限もなく堕落してしまったからです。だから自分がどの方向に向かっているのかも、どんな危険の中に自分たちがいるのかも認識できなくなってしまった。有名な「三つの原理的なものについて」という論文の冒頭で、彼は次のように述べています。

 はたしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されてものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのはいったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成への一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとって不幸のはじめとなったのである。特にこの自分勝手にふるまいうることのよろこびというものは、一度たましいがこれをおぼえたと見えてから、その自己主動性の濫用というものはすでにはなはだしいものがあったのであって、たましいは逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまったので、自分がかしこから出て来た者であるということすら識らぬにいたったのである。それはちょうど小児が、生後間もなく父の手許から引き離されて、長い間遠方で育てられたために、父が誰であるか、自分が何者であるかを識らないようなものである。かくて、もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで、他を尊び、何でもむしろ自分以外のものに驚嘆し、これにこころを奪われ、これを称美し、これに頼り、自分が軽蔑して叛(そむ)き去って来たところのものからは、できるだけ自分を決裂離反させるにいたったのである。(後略)【Ⅰ p.125~6】

 いかにも田中美知太郎らしい、悠揚迫らざる訳文で、プロティノスその人がゆったりとした口調で語るのが伝わってくるような印象ですが、久しい以前から人類は「父なる神」を忘却し、「自分勝手にふるまいうることのよろこび」にかまけて、進むべき方向とは「逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまっ」ていたのですが、この三百年余りで「魂の自己喪失」が極限に達しただけでなく、科学技術だけは長足の進歩を遂げたので、恐るべき破壊力を手にすることになって、自己の存続すら危ぶまれるような窮状に陥ったのです。

「悪とは何か」という論文で、彼はその「堕落のメカニズム」とでも言うべきプロセスについて、次のように述べています。

 まず第一に、劣悪な魂は、素材の外にあるのでも、ただ自分だけで存在しているのでもない。その魂は(素材の特性である)〈適度のなさ〉と混じり合い、秩序を与えて適切さへと導いていく形相(エイドス)に縁のないものとなっているのである。というのも、その魂は素材をもっている肉体と混じり合ってしまっているからだ。次に、(魂がそのような状態になって)その思慮を司る部分が害されると、(真の実在を)観ることができなくなる。つまり、その魂は、色々な情念をもったり、素材で暗くされたり、その素材の方に傾いたり、また一般的に言えば、真の実在の方ではなく、〈生成〉の方に目を向けるので、魂のその部分の観る働きが妨げられるのである。〔Ⅰ p.240~1 田之頭安彦訳 引用の際、読みやすくなるように省略等、少し手を加えさせてもらいました〕

 プロティノスによれば、本来「魂は世界の完成のためにさし向けられた(プラトン『ティマイオス』)のであって、「魂の任務は、単に思考することのみではなく、下位のものの世話をすること」(Ⅱ巻末「エネアデス要約」p.318)なのですが、上の魂の堕落の必然的結果として、その逆になってしまい、自然に宿った魂による(素材を原資とする)生命の建設的な形成作用を破壊し、「暗黒」を作り出す羽目になってしまったわけです。つまり、本来の「任務」とは全く逆のことをする存在になってしまい、そのことに対する自覚すら完全に忘却したのです。

「反知性主義」という言葉がありますが、今の人類、ことに文明人は、それとは知らずにこれに陥っているわけです。より次元の低い、たとえばトランプみたいなのだけが「反知性主義」なのではなく、今の文明はベースが「反知性主義」なのです。知性(プロティノスの言う「ヌース」)がどういうものなのか、まるでわかっていない。機械的な計算や暗記の能力(いずれもコンピューターに遠く及ばない)をそれだと誤認している人も少なくないので、元がそれなら、人間が賢くなる道理はないのです。白痴化あるのみ。

 現代のこの「反知性主義」の根底にあるのは「自己の素性」を忘却して独善的なものになるところから生まれた「人間中心主義」です。それは自然を搾取して当然のもの、人間に奉仕するためにだけ存在するものとみなす。それは人間が好き勝手に使ってよいただのモノ、素材にすぎないのです。昔の人のようにそこに神々や神の作用を見るのは、たんなる「遅れた人たちの迷信」にすぎない。プロティノス的に考えると、それこそが人をより高次の知的認識、洞察へと導く端緒になりうるものなのですが。

 環境保護への関心も、人間が自然の再生産能力を深刻に害したり、温暖化によって気候変動や自然災害が激増していて、それが自分たちの生存を脅かすようになったからで、あくまで「人間中心主義」の観点から見られたものでしかありません。要するに、それは損得の問題でしかないのです。これは奴隷の所有者が、奴隷たちが病気になって死なれたりすると損をするので、その健康にいくらか配慮するようになったというのと同じです。根本にあるその非人道性に疑いをもつようになったからではない。

 だから、その程度の動機に発する自然保護には、大したことは期待できないと言えるでしょう。そこには根本的な自己反省はないからで、自然と自分は同根であり、この世界を意味あらしめるために遣わされた同じ魂の働きなのだという自覚は欠落したままだからです。

 また、自然の搾取から同胞間、人間による人間への搾取へと進むのも自然の勢いです。強度の利己性から自然をモノ扱いするようになれば、人同士でも互いをモノ扱いするようになるのは避けられないからです。そういう低劣な魂にとっては利用する側になるか、利用される側になるかは死活的に重要な問題なので、権力闘争が起き、勝った側が負けた側を支配するのは当然だという理屈になる。とりわけ劣悪な人間は必死に権力を得ようとして戦い、そこまでするのはためらわれるという中途半端な人間は権力者に取り入り、甘い汁を吸える側に入れるよう腐心するのです。

 かんたんに言うと、そういう世界になってしまうわけです。かつての社会的エリートにはまだ「弱きを助け、強きを挫く」のが社会的付託を受けた自分の使命であるという自負心が残っていて、それはエリート教育の一部として組み込まれてさえいたのですが、今は完全に反対になっていて、「強きを助け、弱きを挫く」のが階級利益の代弁者である彼らの仕事になってしまい、それこそが人間の本性に合った自然かつ正直な在りようであるとして、賞讃を受けるまでになってしまったのです(これに思想の左右は関係ない)。だからエスタブリッシュメントに富の大半が集中するようになっても、なかばそれは当然視されて、その一部になることか、せめてそのおこぼれにあずかれる地位に就けることが多くの若者の「理想」となったのです。それは卑しいことではない、「勝ち組」になれないことこそが恥なのです。

 これではサル山のサル以下ですが、そういう自覚はない。かつて東大の学長が卒業式の式辞か何かで、「太ったブタより、やせたソクラテスになれ」と言ったという話があります(ちなみに、ソクラテスその人は清貧を旨としていましたが、驚くべき頑丈な体躯の持主でした)が、1960年代当時の日本ですらそれはKYな、あるいは偽善的すぎる訓示であるとして、失笑を誘ったのです。

 話を戻して、ここでさっき引用した「三つの原理的なもの」の箇所をもう一度思い出していただきたいのですが、こういうのは全部その結果――魂が自分の素性を忘れた結果――なのです。プロティノスという人は、当時の基準からしても晩学の人で、28歳でアンモニオスに入門して、そこで11年間学んだとされますが、哲学者である以前に mystic(神秘主義者)で、たぶんアンモニオス入門以前に何らかの洞察体験、神秘体験をしていて、その説明となるような、またその認識を深めてくれそうな師を探し求めていて、それがアンモニオスだったのではないかと僕は想像しています。彼はオリジナリティを主張せず、プラトンの承継者の一人と称していたようですが、先に自分の体験があって、その上で先行する哲学者の教説を吸収し、それを理論化したのではないかと思われるので、だからそれはたんなる観念の体系ではなかったのです。彼の目の前には真善美揃った「ヌース」と、最上位の通常の言語的形容を超えた一者の世界があり、それを見ながら――「観照」しながら――先行する哲学者の著作を援用しつつ説明を加えているというふうで、当時の他の哲学者並に思弁的すぎて退屈させられるところはありますが、その叙述に生き生きとしたところがあるのは、そのためなのでしょう。

 要するに、彼は観念を弄んでいたのではなく、リアルなものを見ながら語っていたので、有名なプラトンの「洞窟の比喩」を用いて言うなら、ほとんどの人々が影の世界を実在として見て、それでとやかく言っているのに対して、彼は背後を振り返って、その「光源」そのものを見ることを哲学の中心に据えたのです。そしてその光源との関係から、すべてを説明しようとした。彼の思想体系はそこから生まれているのです。

 プラトンと多くの点で対立するアリストテレスも、哲学的営みの最上位に「観照」を置いていたと記憶するのですが、僕ら現代人に致命的に欠けているのはこの背後への振り返りと観照なので、だから何もかもが無秩序で乱雑なものとなり、情報のガラクタの中で「魂の自己喪失」を深刻化させ、やることなすこと見当外れで、事態を悪化させるばかりということになっているのではないでしょうか。

 根本的な自己認識、世界認識というものが狂っているわけです。だから上に見た現代文明人の利己主義も、道徳の問題というより、自己理解の喪失、認識の過誤の問題から発生したもので、自然との正しい関係が見失われたのもそのせいです。

 問題の根はそこにある。今の世界の政治状況はこの点からすると地獄の一丁目で笛を吹き鳴らしているようなもので、地獄の亡者の中でも最も低劣な者が権力を握り、魂の自己忘失を競い合って、人々をさらなる低みへと導いているようにさえ見えます。妙な言い方をするなら、それに「正しく絶望する」ことなくして、そこから離脱することは不可能なので、今の僕らにはその「絶望」が足りていないのではないでしょうか。それが、プロティノスを久しぶりに読み返して、僕があらためて思ったことです。本当に前に進みたいと思うのなら、急がば回れ、この影の世界だけ見るのではなく、自己を深く顧み、背後の光源を振り返らなければならない。導きの糸はそこにしかないように思われるのです。



スポンサーサイト





祝子川通信 Hourigawa Tsushin


<<韓国は検察の反乱、日本は Go To トラブル | ホームへ | 「静かなマスク会食」とは…>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://koledewa.blog57.fc2.com/tb.php/780-806a0098
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)