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菅政権の茶坊主学者・文化人たちの程度の低さについて

2020.10.09(16:55) 760

 安倍応援団の学者や文化人がそのまま菅応援団にスライドしているのは、興味深い現象です。岸博之、 高橋洋一、長谷川幸洋といった面々がそれですが、集約的に言うと、「学術会議には大いに問題がある」というふうに論点をずらして、そこを長々と言い募り、かつ、ロクな理由も示さず、「任命権者は当然選別の権利をもつ」ということで、ただ今回は理由を示さなかったことが落ち度と言えば落ち度、というふうにして6人の任命拒否問題を矮小化し、正当化しようとするのです。吉田茂の言葉を借りれば、これぞまさに「曲学阿世」ですが、彼らが「阿(おもね)る」相手は現政権や日本会議、国民の比率で言えばごく僅かでしかないネトウヨ連中なのです。菅と仲良しの橋下徹なんかも、「説明責任を果たしていない」と言うだけで、拒否自体は「正当」だと強弁しているようです。次のTBSニュースには元文部事務次官の前川喜平氏が登場しますが、橋下に言わせれば、

「前川喜平なんて、安倍政権になるまで政治を舐めきっていた。自分たち役人が文科行政を全部仕切るんだと勘違い。自分たちが一番賢い、あとはバカだという今の多くの学者と同じ感覚。ところが安倍政権に霞ケ関を追い出されて、あとは怨みつらみのルサンチマン」と、菅政権を巡り論争中の元文科省次官の前川喜平氏(65)の名前も出して、厳しく官僚批判を展開していた(スポーツ報知10/8「橋下徹氏、菅政権の省庁改革を支持『キレイごとの政治では霞ヶ関は動かない』」より)

 ということになるのです。しかし、次のような話が「自分たち役人が文科行政を全部仕切るんだと勘違い」したというような証拠になるのかどうか、読者はご覧になって各自ご判断ください。僕には全然違う話に思えるのですが…。

学術会議問題 前川氏が経験した官邸の“人事支配”

 橋下によれば、こういうのも「安倍政権に霞ケ関を追い出されて、あとは怨みつらみのルサンチマン」で語っているにすぎないことだというのです。何とも低級・下世話な論難だと思いますが、例の大阪都構想でも、彼はそれを批判した藤井聡・京大大学院教授を口をきわめて罵倒し、その品性下劣さと幼稚さで多くの人を呆れさせたのですが、彼は強敵を前にするといつもそんなふうになるようなので、実は前川喜平氏をかなり恐れているのでしょう。

 上のスポーツ報知の記事では、その前にこんな言葉も出ています。

「トップの大号令と、いざというときには人事権を行使するぞという迫力が巨大組織を動かす。人事権の行使は抑制的に、なんて言っているキレイごとの政治では霞ケ関は動かない」

 これは、政権側の意向に反対する官僚なんかはバシバシ左遷して、政権の茶坊主みたいな官僚を代わりに取り立てればいい、と言っているのと実質同じですが、学術会議についても、それは「公務員」(ふつうの公務員と違って僅かな手当てが支給されるにすぎないことは無視)なのだから、気に入らない人間を外すのは当然である、というのがホンネなのでしょう。「学問の独立」がどうのと、エラそうなことは言うな、「自分たちが一番賢い、あとはバカだ」と「今の多くの学者」は思い上がっているにすぎない、というわけです。

 どうにもいただけない議論なので、官庁も学術会議も「政府の下部機関」にすぎないのだから、政権に忖度してその意向に沿って動くのは当然、だというわけです。これはネトウヨとも共通することですが、日本は議院内閣制であり、そのトップが内閣総理大臣で、それは選挙によって「民主的に選ばれた」のだから、国民の支持を得ている、他は、官僚組織も学者団体も、選挙で選ばれた存在ではないのだから、総理大臣の命令や意向に従うのは当然、文句を言うのはたんなる官僚や学者の思い上がりにすぎないという、いかにも三百代言的な屁理屈がその根拠とされているのでしょう。

 こういうのは独裁を正当化するにはもってこいの屁理屈です。学者団体が独立性を保つのはもとより、官庁もある程度の独立性を維持していてもらわないと、時の権力の恣意による暴走が止められなくなる、とは彼は思わない。権力者には耳に痛いことを言う人間や反対者を許容する雅量が必要だと僕は思いますが、彼は違うので、人事権を好きに使ってそういうのは任命拒否や左遷で脅せばいいのだ、どうせ連中は「独善的な左翼」や「既得権益にしがみつく愚か者」でしかないのだから、という決めつけが抜き難くあるのです。「自分たちが一番賢い、あとはバカだ」と思い込んでいるのはどっちなのかと言いたくなります。

 かつてナチスは1933年(奇しくも瀧川事件と同じ年)、国会放火事件(真相は不明ながら、自作自演の疑いが濃い)を共産党のせいにして、「国民の敵」呼ばわりし、世論を誘導してそれを解散に追い込み、存在を消し去るのに成功しました。一番邪魔になるのが共産党だったからです。そののち授権法で当時最も先進的と言われたワイマール憲法を骨抜きにして、独裁を完成させた。後がどうなったかは皆さんご存じのとおりです。

 僕は学者や文化人には公正な議論をする義務があると思っています。それは政治的中立を維持しろと言うのではなく、論点をずらして別のことを言い立てたり、相手の言論を封殺したりすることなく、批判するなら正面からその言論に対してやるべきだということです。しかし、安倍=菅政権の茶坊主たちは、初めに結論ありきで、擁護するためにはどういう理屈をこねればいいかというところから発想して、どうして任命拒否権があるのかということはまともに説明せず、「日本学術会議のいかがわしさ」や「左翼メディア・学者の独善性」をむやみと言い立てたりする。しかもそれが、甚だご都合主義的な詭弁を含むものだったりするのです。

 彼らにしても、「菅政権は任命しなかった理由への説明責任はある」ということは渋々認めているようです。しかし、それが深刻な問題であるという認識は彼らにはないように見える。あるいは故意にそんなふりをしている。岸博之は「菅政権発足3週間で見えてきた『良い兆候』と『悪い兆候』」(ダイヤモンドオンライン10/9)と題した記事で、次のような珍論を述べています。

 それと対照的に、菅政権の今後にとって悪い兆候となりかねないのが日本学術会議をめぐる騒ぎです。
 この騒ぎについては、メディアはもちろんネット上でも様々な論考が展開されていますが、個人的には、政府が特定の候補について任命拒否できるのは当然と思います。
 日本学術会議がいくら独立性を主張しようと、政府の組織の一部である以上、そしてその会員は特別職公務員である以上、政権の監視が及ばないというのはあり得ないからです。1983年の国会での政府答弁との齟齬については、むしろその答弁が間違っていたのですから、早く修正すべきだっただけです。
 ただ、そうした中身の問題よりも個人的に気になっているのは、なぜ官邸は今回のような応をしてしまったのかということです。
 というのは、おそらく任命拒否の判断は内閣官房副長官補のところで実務的に行なったと思うのですが、それが騒ぎになった初期の段階で、もっと詳しく説得的な答弁を総理・官房長官用に用意すべきだったはずです。政権のダメージコントロールの観点からは、問題や不祥事が起きた時は、先手を打ってできるだけ詳しい情報を開示することが不可欠だからです。
 ところが実際は、最初の段階での官房長官や総理の説明は、木で鼻を括ったような役人答弁に終始し、その後メディアや野党の追及で、2018年に内閣府が作成した文書(任命拒否について整理したペーパー)などの追加の情報が出てきてしまっています。
 このように、最初は最低限の情報・説明だけを出して、追及されて新たなファクトがボロボロ出てくると、それだけで世の多くの人は“政府はいかがわしい”という印象を持つようになるのが常です。
 今回の任命拒否が学問の自由の侵害という野党やメディアの主張など、個人的にはとんでもない暴論だと思うのですが、“政府がいかがわしい”という疑心暗鬼が生まれると、多くの人がそうした暴論も信じてしまうのではないでしょうか。


「おまえなあ…」と言いたくなるような愚論で、「日本学術会議がいくら独立性を主張しようと、政府の組織の一部である以上、そしてその会員は特別職公務員である以上、政権の監視が及ばないというのはあり得ないからです」というのは、なぜ従来の政府見解では「任命権は形式的なもの」とされていたのか、その趣旨についての理解を完全に没却したものです。政府がその独立性を尊重せず、政府の眼鏡にかなう者しか会員に任命しないということになれば、それは御用団体でしかなくなる。現代版「大政翼賛会」の学者バージョンにそれをしてしまうことは健全な社会維持の観点からして好ましくない、という理解がそこにはあったわけです。少なくともかつての自民党政府はそう考えていたのですが、この慶大教授はそれは間違ったことで、御用団体にするのは当然だと言っているのです。

 今回の任命拒否が学問の自由の侵害という野党やメディアの主張など、個人的にはとんでもない暴論だと思うのですが、“政府がいかがわしい”という疑心暗鬼が生まれると、多くの人がそうした暴論も信じてしまうのではないでしょうか。

 ネトウヨ丸出しで、どこが「とんでもない暴論」なのか、その説明は全くない。日本学術会議は公的な学者団体ですが、税金が使われているのだから、そこに左翼や政権批判を行なう学者が名を連ねることは不都合なので、そういう連中は排除すべきだということになれば、それは「学問の自由」の侵害になると理解されるのは当然の話でしょう。そのうち大学教員の人事になども、「多額の税金が使われているのだから当然だ」という理屈で政府が介入するのも許されるというような話に、それは発展するでしょう。岸博之説からすれば、国立大教員などは“きわめて公務員に近い”「みなし公務員」なので、政府がその人事に口をはさめないというのは道理に合わない、ということになって、昔の瀧川事件のときみたいに、政府が大学に「あいつをクビにしろ」と指示するのも許されるということになりかねないのです。それで日本の大学には、岸みたいにちぎれるほど政権に尻尾を振る学者先生しかいなくなる。

「それが騒ぎになった初期の段階で、もっと詳しく説得的な答弁を総理・官房長官用に用意すべきだったはずです」とこの先生はのたまうのですが、それなら自分が代わって「もっと詳しく説得的な答弁」をしてあげればいいのです。まさにそこが焦点になっているのだから。ところが、どうやればそれができるのか、この大先生にもそれは全くわからないのでしょう。「そんなことはない!」と言い張るなら、やってみるがいい。それはできずに「“政府がいかがわしい”という疑心暗鬼が生まれると、多くの人がそうした暴論も信じてしまうのではないでしょうか」などと上から目線でエラそうな御託を並べるだけなのです。僕は前にもこの男の愚論をここで批判したことがありますが、慶応はどうしてこの程度の官僚上がりの詭弁家に教授の地位を与えているのか、別に人事介入をする気はありませんが、立ち入っておたずねしたいほどです。

 尚、菅政権が売りにしている「携帯料金の値下げ」についても、次のような記事が出ています。実に周到な議論で、その分長いのですが、実情をよく知らない政治家のゴリ押しはうまくいかないということを説得力豊かに説明してくれたものです。

どうすれば、携帯電話料金値下げが実現できるのか?

 この中の、「間違った根拠に基づいた官製値下げ」という小見出しのついた箇所はとくに興味深いものです。

 筆者は長らく国内の通信業界を取材して来たが、総務省が何かを発言し、それに対して、どの通信事業者も関係者もほとんど反論を述べることがなく、「ははっ、仰せのままに」とばかりに従ってきたことに対し、大きな疑問を持ってきた。もちろん、携帯電話料金は当然のことながら、下げていくべきだが、本稿で指摘したような理不尽な指導や間違った根拠に基づいた方針などに対し、誰も何も言えないまま、強引な『官製値下げ』をくり返すことは、民主主義としても大きな問題がある。まるで「御上(おかみ)から周波数帯域を拝領して、携帯電話サービスを献呈させていただいている」ような体制を強いる通信行政で、世界で戦う企業が育つはずがない。

 携帯電話料金を本当に下げたいのであれば、きちんとした根拠や明確な指針に基づき、状況を正しく理解している人たちによって、議論が進められるべきだ。10月6日、武田総務大臣は今回の携帯電話料金値下げに対し、各携帯電話会社に加え、利用者の代表とも面談をすることが報じられたが、こうした団体の人たちを否定するつもりはないものの、本当にそれが適切なのかどうかを本誌読者のみなさんにもよく考えていただきたい。


 要するにこの問題でも、上から「ああしろ、こうしろ」と一方的な命令を下し、「それに対して、どの通信事業者も関係者もほとんど反論を述べることがなく、『ははっ、仰せのままに』とばかりに従ってきたこと」が最大の災いになっているのだということです。「状況を正しく理解している人たち」がおかしいと思うことに正面から反論を述べることもできない環境では、実効性のある改革は期待できない。しかし、学術会議任命拒否の問題からしても、菅政権には反対も含め、広く多様な意見を吸収して、それを柔軟に政策決定過程に取り込むというような雅量はないように見える。失敗する度にますます態度を硬直化させ、イエスマンばかり周辺に配置して、異様に風通しが悪くなる中で袋小路に入ってしまう危険性がこの政権はとくに高いのではないかと、僕は懸念しています。

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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