FC2ブログ

タイトル画像

大学の危機

2020.09.12(14:02) 753

 先日、毎年恒例のタイムズ・ハイヤー・エデュケーション(英国)による「世界大学ランキング」が発表されました。次はハフポストの記事です。

「中国が歴史的躍進」かたや日本は記述なし。世界大学ランキング「トップ100に日本勢10校」は達成できる?

 タイムズ誌が「歴史的な躍進」と表現したのは中国勢。清華大学が現在の統計方法になってからアジア勢としては初の20位入りを果たしたほか、北京大学が23位にランクイン。100位以内の大学も3校から6校へと倍増させた。

 タイムズ誌は理由として、中国は国家単位で20年以上にわたり高等教育や研究分野への投資を続けてきたと指摘。欧米でのトップクラスの研究機関での人材育成も行なっているとした。

 中国はこれまで、海外の優秀な研究者を招聘したり、海外で研究する中国人を国に呼び戻したりするなどの政策を続けている。


 そういうわけで、研究に惜しみない投資をしている中国は「大躍進」している一方、「2013年に掲げられた『日本再興戦略』に」は、「2023年までのKPI(評価指標)として、タイムズ誌のランキングで『世界トップ100に10校以上を入れる』と明記されている」にもかかわらず、こちらは実現の見込みなし、というのがこの記事の要旨です。「異次元の金融緩和」の継続にもかかわらず、アベノミクスの2%インフレ目標は達成されませんでしたが、教育分野となると、その「再興戦略」なるものはさらに悲惨な結果に終わっているのです。前に下村博文が文科相になっていたとき、国立大学長の集まりに出向いて、入学式などの式典では日の丸掲揚、君が代斉唱を必須にするのが望ましいというような演説をぶって、「この頭の悪い右翼は何しにこんなところへ来たのだ?」と会場は不気味な沈黙に包まれたそうですが、何かズレすぎているのです。

 面白いのは、何でも日本と比較して勝ち負けを論(あげつら)わないと気が済まない韓国メディアの朝鮮日報も、次のような記事を載せていることです。これは少したつと消されてしまうので、URLではなく、記事本文をコピーしておきます。

・「THE世界大学ランキング2021」1位はオックスフォード大、ソウル大60位…東京大は?

 英国の高等教育専門誌「THE(Times Higher Education)」が2日、2021年の「THE世界大学ランキング」を発表した。
 今回の世界大学評価は世界93カ国・地域の大学1527校を対象に実施された。「THE世界大学ランキング」は2004年から毎年発表されている、権威ある大学評価で、教育与件、研究実績、論文の被引用度、国際化、産業体の収入など五つの領域で評価を実施。

 2021年の「THE世界大学ランキング」1位には前年に続き、英国のオックスフォード大学が選ばれた。2位はスタンフォード大学、3位はハーバード大学、4位はカリフォルニア工科大学、5位はマサチューセッツ工科大学、6位はケンブリッジ大学、7位はカリフォルニア大学バークレー校、8位はイェール大学、9位はプリンストン大学、10位はシカゴ大学だった。トップ10入りした大学はすべて英国と米国の大学だった。

 韓国の大学のランキングを見ると、ソウル大学(60位)、 KAIST(96位)、成均館大学(101位)、浦項工科大学(151位)、高麗大学(167位)、蔚山科学技術大学(176位)、延世大学(187位)の順で、200位以内に7校がランクインした。

 一方、日本の大学で200位以内に入ったのは東京大学(36位)、京都大学(54位)の2校だけだった。


「勝った!」という喜びが滲み出ているようで微笑ましいのですが、「日本のその2つの大学より韓国7大学は下位にある」ということは誇りを傷つけるので決して言葉にしてはならないのです。

 しかし、実際問題として、200位以内に入っているのは日本では東大と京大だけで、これはたとえていえば、オリンピックで「日本は銀メダル2つだったが、韓国は銅メダル7つを獲得した」というようなもので、こういうランキングは英語圏の大学に不当に有利になっていて、だからそれほど気にするには及ばないと考えることはできますが、中国や韓国も非英語圏の大学なので、日本の大学が見栄えしなくなっているのは確かなのです。これでは日本への留学生が増えることも期待できないわけで、「アジア唯一の先進国」というのは遠い過去の栄光になってしまったのです。げんにGDPは中国にかなり前に抜かれているし、一人当たりGDPではすでに韓国に並ばれている。それが教育にも及び、かつてはアジアトップの大学は東大と見られていたはずですが、今では誰もそんなふうには思わなくなっているのです(上の記事には出ていませんが、小国シンガポールの躍進も著しく、アジア第3位の25位にシンガポール国立大が入っている)。

 次のような記事も出ています。

なぜ東大の予算は2500億円で、スタンフォード大は1兆円超なのか

 残念なことに、これは会員にならないと続きが読めないようになっていますが、最初のページだけでもかなりのことはわかる。

…2004年に国立大学が法人化されて以降、国から支給されていた運営費交付金は毎年1%ずつ削減される状態がしばらく続いた。その代わりに増えているのが、「競争的資金」と呼ばれる、研究課題を公募し優れたテーマに配分する研究資金だ。文部科学省の科学研究費がその代表だろう。

 各大学は外部から資金を調達する必要に迫られている。東京大学も例外ではなく、2000年代初めには年間で約1000億円あった運営費交付金は、18年度には760億円まで落ち込んでいる。その代わりに約620億円を外部から調達している。今や外部資金は、東大の収入の約3割を占める重要な財源だ。資金の出し手は国にとどまらず、財団法人や企業が募る民間のものも多い。また、産学連携などで獲得した委託金などの研究資金も広い意味での競争的資金に含まれる。

 競争的資金に重点を置くようになった背景には、言うまでもなく国の財源が逼迫し、大学の研究や教育にまとまった額の予算が割けないという事情がある。期待される研究に限られた資金を手厚く配分して、最大限のパフォーマンスを上げようという方向に政策の舵(かじ)を切ったわけだが、こうしたやり方が結果的に研究計画ありきの厳しい資金獲得競争を生んだ。その結果、若手研究者に向けた研究環境の整備や、基礎研究の充実に支障をきたしているとの不満は根強い。

 同じ国立大学でも競争的資金を取れる大学と取れない大学の「格差」も生じてしまった。16年に文部科学省が行ったアンケートで、約6割の教員が所属機関から研究者に支給される個人研究費の額を「50万円未満」と答えるなど、地方国立大学の「窮状」も明らかになっている。


 こういうのは研究費さえ多ければいいというものではなく、げんに科学関係のノーベル賞受賞者は研究資金が元からダントツで多かった東大より京大の方が多い(発想力や思考の柔軟性で負ける?)のですが、それも程度問題で、今は減らし過ぎです。だから「日本人のノーベル賞受賞者は近い将来ゼロになるだろう」と言われるのですが、いちいち首相官邸や文科省の顔色(だいたい、連中に研究の良し悪しの判断なんてできるのか?)を見なければならないだけでなく、「科研費がなさすぎて、新たな研究を立ち上げることも、継続することもできない」状態になっているのです。若手研究者のポストも少なくなったり、身分が不安定化しているので、理系の優秀層が研究より就職を選ぶことが多くなったという問題も指摘されています。「貧すりゃ鈍する」の悪循環に陥っているのです。

 こうしたことについては、「文教予算は減っているのに、大学の数をむやみに増やし過ぎたのが悪いので、私立でも補助金名目で万年定員割れの大学にも多額の補助金が支払われている、そういうのを全部潰してしまえば、まともな大学に出せる金も増えて、研究費問題も改善するはずだ」という、いくらか乱暴な議論があります。僕も、乱暴だがそれは正論だと思っています。子供の数は減り続けているのに、大学の総定員数は減らないので、「落ちる方が難しい」大学も相当数あるのです。今は国立ですら、地方の駅弁大ではセンター得点率が5割に届かなくても合格できるケースもある。そういう受験生は基礎学力自体が疑わしいので、大学教育どころではないだろうなと思うのですが、いわゆるFラン大学となると、それはいっそう甚だしく、世間からも大学扱いされないので、進学する意味があるのかなという気がするのです。

 昔、「十五の春を泣かせない」というスローガンの下、高校全入運動が行われましたが、今は大学も全入時代で、それどころか、余っているから定員割れ大学がこんなに多くなるので、文科省は苦肉の策として私大の定員厳格化を推し進め、人気大に落ちた受験生が不人気大へと流れるように仕向けて、これ自体姑息きわまりないやり方ですが、その数を減らそうとしてきたものの、それでも2019年度段階でまだ33%(短大も含めると比率はもっと高くなる)もあり、全体の3分の1が定員割れを起こしているのです。たまたまならまだしも、こうした大学のほとんどは慢性的で、ひどいところになると定員充足率は3割台で、7割に満たない大学だけでも30校あるのです。今後それが大きく改善する見込みもない。それでも毎年一校当たり億単位(平均では5億円)の私学助成金が出ているわけで、税金の無駄遣い以外の何ものでもないように見えます。文科省も、一度認可してしまった手前、よほどの不祥事がないと潰せないと思っているのかもしれませんが、慢性的に充足率が低い大学は潰すべきでしょう。それだけでもかなりの巨額が浮くので、それを他に回せばいい。うまくすれば、それで定員割れ大学もゼロになるかもしれない。それらの大学に入学していた受験生が他に振り分けられるからです。

 高校以下の学校は統廃合が進みました。げんに僕の母校など、残っているものは一つもないほどです。まず小3まで通った分校(絵に描いたような「山の分校」だった)が児童数の激減で廃校になったのは僕がまだ大学生の頃で、本校の小中学校もその後統廃合の対象になった。お次は高校で、ウィキペディアを見ると、「…にあった県立高等学校である」と過去形で語られ、統合された後しばらく「分校」として残ったものの、三年ほど前生徒募集が停止され、消滅した。これは少子高齢化と人口流出がダブルで進んだ田舎では珍しくもない話です。時代の流れでそうなったので、別に誰が悪いわけでもないのですが。

 だから母校の中でまだ存続しているのは大学だけなのですが、そういうふうに高校以下の学校では容赦なく統廃合が進められたのに、補助金額がとくに大きな大学は潰せないというのは道理に合わない。それは文教予算の無駄遣いというものなので、それを有効活用するためにも、慢性定員割れ私大は潰すべきなのです。それで教職員が失業するとか、それに寄生している関係業者が打撃を受けるとかいったことは、言い訳にはならない。それはいかなる変化も拒否するということなので、そういうことばかりやっているからソンビ組織が生き永らえて、望ましい社会構造の変化も、経済の活性化も起きないのです。

 問題は、しかし、そういうことだけではない。この手のランキングでは「教育力」というのも重視されていますが、大学教員も今はやたらと事務仕事を多くさせられる(いちいちそんなことにも書類を提出しなければならないのかと呆れるものまである)上に、懇切丁寧な学生指導に多くの時間とエネルギーを割かねばならないのです。まず詳細なシラバスなるものを作って提出するというところから始まり、それに従ったわかりやすく“楽しい”授業を心がけねばならず、休講した場合は必ず補講を行なう。そして成績不良学生や引きこもり学生にも愛の手を差し伸べて、大学の評価を下げる原因となる退学率を減らすよう努めねばならない。各種会議もたくさんあり、理系なら、研究予算獲得のために申請書類書きに追われるほか、企業にも愛想よくしなければならない。

 これはしばらく前に院生の息子に聞いた話ですが、ある関西の有名私大の教授に会ったとき、大学教員になったが最後、自分の研究などというものはほとんどできなくなる、という嘆きを聞かされたとのこと。だから時間のある今のうちにしっかり研究しておきなさいというのがアドバイスだというのは笑えない話ですが、どうしてそうなるのかといえば、他のことで多忙を極めるからです。研究を進めるために大学教員になるのではなく、そうなったらかんじんの研究の方は引退したも同然になってしまうのです。だから、研究発表にしても、著書を出すにしても、それは若い頃の研究の“貯金”を取り崩しながらそうしているだけなので、研究の進展どころではない。これは文系の話ですが、それなら出版社の学術書の編集者にでもなった方がまだ自分の勉強のゆとりがもてていいくらいです。あるいは、自分で塾でもやって、それで食い扶持だけ稼いで、残りの時間を研究に使った方がマシです。彼にはそれぞれ専門の違う学部時代から仲のいい優秀な研究者の卵友達が二人いて、三人で会って話すと、きまってそういう「お粗末な研究環境」の話になるそうですが、「乞食と大学教授は三日やったらやめられない」というのは昔の話で、「大学教員になったら他のことで忙しくて、もう研究なんてできない」という本末転倒も甚だしい事態になっているのです。名門大教授でさえそうなら、低偏差値大の教員となるとどうなるのか、授業中の私語に耐え続けねばならないだけでなく、問題学生へのかなり低次元な手取り足取り“指導”に忙殺され、これにどうでもいいような大量の事務仕事、会議などの雑用が加わるのです。

 要するに、文系理系を問わず、学者の研究環境は最悪のものになりつつあるということです。それでは大学者なんか出てくるはずがない(ノーベル賞とは関係なくても、文系のすぐれた学者は必要です)。成果も当然出ない。昔は、実験などが不可欠な理系はともかく、文系の学生はほったらかしでした。学生の方もほったらかしにしてもらえるのを期待して入学したので、休校が少ない講義にはむしろ文句が出た。そもそも、大部分の講義は出席を取らなかったので、それをいいことに出席しない学生が多かったのです。専攻関係なしに、当時の学生は本だけはたくさん読んでいたので、それで仲間と議論を戦わせるのが楽しみだった。これは当時の「標準」ではありませんが、生活費稼ぎのバイトに追われていたこともあって稀にしか講義には出なかった僕など、「今日は出てみようか」と殊勝な気持ちになって大学に向かうものの、途中の古本屋街で引っかかってしまって、着いたときは最後の授業が終わる頃になっているということがよくありました。それで一階のラウンジで自動販売機のコーヒーを飲んでいると、授業が終わった連中が降りてきて、「ああ、いた、いた。そろそろ来る頃だと思っていた」と言いながら仲間が寄ってきて、それから学食か近くの食堂で夕食を取り、そのまま話をしながら五、六人、ぞろぞろ駅の方に歩いて、暗黙の了解のごとく行きつけのビル地下の喫茶店に入り、コーヒー一杯で二、三時間粘りながら議論に花を咲かせる、というのがいつものパターンでした(ウエイトレスのお姉さんも常連なので親切だった)。そういうのが楽しくて学生をやっているようなものだったので、授業なんてものはおまけみたいなものだったのです。

 こういう時代は、先生たちも楽だったわけです(詳細なシラバスなんてものも、むろんなかった)。授業に二、三十分遅れてくるのはふつうのことだったし、研究に没頭して授業があるのを忘れてしまい、そのまま休講になっても、「この分では今日は休みだな」と学生の方は思って、どこかに行ってしまい、文句を言われることもない。今なら「高い授業料を払っているのに何だ!」と抗議が殺到して、大問題になってしまうでしょう(ついでに言うと、アメリカよりはずっとマシだとはいえ、大学の学費の上昇は物価上昇分をはるかに超えている。国立の場合なおさらそうで、僕の記憶では、当時の国立大の授業料は年間3万6千円だったのです。私大文系で20万前後)。そういう牧歌的な雰囲気はとうに失われ、電子機器の発達で、入室の際学生証をセンサーにかざす、なんてシステムになっているので、出欠は自動的にカウントされ、「単位認定厳格化」の指示が文科省から来ている手前、出席日数不足の学生に気安く単位を与えることもできない。今でも思い出すたび笑ってしまうのですが、学生の頃、試験を受けに行くと、空いている席が最前列にしかなく、仕方なくそこに座っていると教授が「試験問題のことで何か質問はないか」と言いながら入ってきて、思わず目と目が合って、「おまえの顔なんか、いっぺんも見たことないぞ」と大声で言われてしまい、クスクス笑いが起きて弱ったことがありました。「いや、二回ぐらい(半期ではなく通年で、です)は出たことがあります」とも言えない。幸い、それは出席を取らないものだったので、「いっぺんも見たことがない」その学生が誰なのかは先生も把握できなかったわけで、単位はめでたく取得できた。今なら出席率一割以下なのがすぐバレてしまい、問答無用で落とされてしまうわけです。

 こういうのが果たしていいことなのか、どうか。学生も教員もその方が自分の好きなことができてよかったのではないかと思うので、今の大学生が真面目に授業には出るからそれだけ優秀になっているとは必ずしも言えないでしょう。真面目に授業には出て、課題をきちんとこなしているとしても、その分、好き勝手なことをやる時間は減っていて、人間は好き勝手やったことの方がよく身につくものなので、厚みに乏しくなっているかもしれないのです。息子が行った大学は「放し飼い教育」を旨としていて、自由度が高いようなので、割と昔の大学に近い感じで、学部の同期には就職もせず院にも行かず、そのまま「消息不明」になっているのが何人もいるという話で、そういう怪しげなのがかなりの数いるというあたりも、昔の大学と似ている。それでもだんだん管理的になってきているのはたしかだという話で、わが母校など、昔は卒論がない上に面倒なゼミ(少人数なのでサボれない)も他科目で代替できた、最も卒業が容易だった法学部が、今は最も単位認定のシビアな学部になっているという話で、全体に大学教育は様変わりしたのです。

 今の大学生は、ああしなさい、こうしなさいと指示されないとどうしていいかわからないのが増えているから、こうなるのでしょうか? だから大学も高校の延長みたいになってしまい、それに文科省のアメリカ猿真似政策が重なってこうなるのだと思いますが、これは今の若者が動物として駄目になりかけているということなのではないかと思います。いちいちあてがいぶちの餌を与えられないと生きていけないみたいな感じで、野生というものを失っているのです。試験前のテキスト一夜漬けで、一通りの筋が通った答案が書けるという知的瞬発力も落ちていて、ちゃんと授業に出ている割にはお粗末な答案が多いとも聞きます。子供時代の野遊びも足りていないから、それが災いして、入試段階で知的にピークアウトしてしまい、それ以上伸びない学生も多いのかもしれない。

 こんなことを書くと“炎上”してしまうかもしれませんが、コロナによってキャンパス・ライフを奪われる以前に、そういう問題が起きていたわけです。生徒と教師両方が不必要に細かい管理システムでがんじがらめにされ、どちらもそれで疲弊する(日本の子供の精神的幸福度は先進38か国中37位)という現象は小中高段階で問題になっていますが、それが大学教育にも及んでいるということです。教員は多忙すぎて自分の研究ができず、学生は単位認定厳格化で眠たい授業もサボれず、アメリカ式に課題をたくさん出しましょうということで多忙になり、こちらも自分の好きなことができない。余暇時間はつまらないSNSに大方奪われるというのでは、クリエイティブで突破力のある人材が続出するということにはならないでしょう。社会を挙げて「日本沈没」に精出しているようなものです。

 英語の school が「余暇」を意味するギリシャ語の skholē(スコレー)に由来するというのは有名な話ですが、余暇どころか、今の学校は上から下まで、最も多忙な場所の一つとなってしまっているのです。その多忙さは好きで勝手に何かに没頭しているのとは違うので、昔はたしかに十年講義内容が全く同じで、学者としてはとうの昔に終わっていて、何の新味もないという無能教授たちもいましたが、余暇が保障されていたために大きな研究業績を挙げるすぐれた学者もいたわけです。今はおしなべて多忙で自分の研究どころではないというのでは、そういう大学者もいなくなってしまう。理系の研究者はこれに加えて、必要な研究資金も確保できないから、「したくてもできない」事情が付け加わるのです。

 こういうのは冒頭のランキングに見られる数字以上に深刻な問題ではありませんかね(研究力の低下などはそちらにもダイレクトに反映される結果になるはずですが)。だから、他にも色々方策はあるでしょうが、まずもって大学の名に値しないような慢性定員割れ大学を整理して、それで浮いたお金は残った大学に回し、大学教育のあり方も、アメリカの猿真似ばかりしないで、昔の放任主義の大学にはいいところもあったのだから、再考した方がいいのではないかということです。

 高校時代、真面目なのか不真面目なのかよくわからない、脱線話が面白い物理の若い先生がいました。パイロットになりたかったが、なりそこねたので仕方なく高校の教員になったという人で、最初の中間テストの第一問にいきなり鉄腕アトムが出てきて、教室がざわついたのですが、ちゃんと物理の問題になっていて、他もかなり変わったオリジナルの問題でした。中に、風船に何かのガスを入れて放したら、その後どうなるか考えて書け、という問題があって、教師を怒らせる名人だった僕はしめしめと、およそ思いつくかぎりの出鱈目を書き並べて提出したのですが、返ってきた答案を見ると全部にマルがついていたので、不審に思って「何でこんなものに点をくれたんですか?」ときくと、「ああ、おまえのそれね。どれも可能性としてはありうることだからねえ」と澄まして答えました。相手の方が役者が一枚上だったのですが、卒業前に珍しく真面目な顔つきになって、「大学生バカという言葉がある。これは入ったときより出るときの方が馬鹿になっている学生のことを指していう言葉で、君らの中には大学に行く人もかなりいるだろうが、入ってから何をしてもいいが、この『大学生バカ』にだけは絶対なってくれるなよ」と言ったのです。

 悪ガキどももかなり神妙にその話は聞いていたので、それは心に届いたのです。単位認定を厳しくして学生を勉強させるというのは、他律的なやり方ですが、こういうふうに言って自覚を促す方法もあるわけです。前に九州地区の某有名私大に行った生徒が遊びに来て、試験でのカンニングの横行(その大部分が昔はなかった指定校推薦で入った連中だというのだから呆れた話です)に憤っていましたが、そういう下劣なことをするのは昔の不良の見地からすれば名折れもいいとこで、最低限の勉強だけして実力で単位をかすめ取るところに不良たるものの芸とプライドがあったので、他に大学の単位とは無関係なことをたくさん勉強しているから、ふつうの学生より学びの幅は広いと自惚れることもできたのです。

 そう考えれば、「入るのは大変だが、卒業は容易」な従来の日本の大学が悪かったとはいちがいに言えない。彼らには試験で測定されなかった「見えない学力」が豊かにあったのだと言えば、自己正当化も甚だしいと叱られるかもしれませんが、それだと学生は勝手にやるから、大学の先生たちも手間がかからず、自分の研究に使う時間的、エネルギー的ゆとりももてるようになるわけです。「休講したら必ず補講は行わなければならない」なんて、他律の最たるものである受験勉強(公務員試験もその一つです)しか能がなかった文科省の官僚たちが言って、管理教育に慣れ過ぎた学生がそれに追随しているだけの話でしょう。

 理系でも、アインシュタインなどは、教授に渡された実験の指示メモを丸めてゴミ箱に捨て、喫茶店に行って「思考実験」と称してひとり思索にふけっていたりしたのです。それで、先生たちの受けが悪かったので就職も世話してもらえない羽目に陥ったのですが、上からの指示に忠実に従うだけの真面目な秀才なら、当時の物理学常識をひっくり返すような発見はできなかったでしょう。

 学問や教育というのはそういうものです。管理が行き過ぎるのはマイナスにしかならない。形式的なことにばかりこだわって、生きた人間がどういうものであるかを、今の教育関係者は忘れてしまっているのではないでしょうか。それではすぐれた研究者も、有用な社会的人材も育たず、「日本のたそがれ」は深まるばかりになりかねないのです。当然、日本の大学の世界的地位も上がることはない。これは隠れた問題点の一つかもしれません。

 尚、最後に一点付け加えておくと、中国や韓国は受験競争の激化と低年齢化が日本より甚だしく、そのあたり今の日本の子供は…という論調も一部に見られますが、僕はそういうのは馬鹿げた話だと思っています。皆が横並びで一斉に競争するのは東アジア的稲作文化の特徴で、それは不毛な消耗戦になりがちだからです。そうした詰め込み暗記競争を勝ち抜いただけの受験秀才がクリエイティブな人材になるとは思えないので、そういうつまらないことで張り合っても意味がないということだけは、ちゃんと認識しておいた方がいいのではありませんか。
スポンサーサイト





祝子川通信 Hourigawa Tsushin


<<新内閣=新時代の到来となるのか? | ホームへ | 蓮は泥の上に咲くと言うけれど…>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://koledewa.blog57.fc2.com/tb.php/753-ecd5b01e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)