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トランスジェンダーの2人の天才

2020.08.28(18:06) 748

(「安倍辞任」のニュースが流れていますが、そちらはおいといて、書きかけていた記事をアップしておきます。)

 しばらく前にニューズウイーク日本語版の湯川鶴章氏の記事を経由して、Youtube の次の画面に行き着きました。

ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談

 これは、インタビュアーの発音が明瞭だし、ハラリとタンの言葉も、おそらくそれが彼らの母国語でないことが関係するのでしょうが、聴き取りやすいので、ふつうの高校生や大学生でも頑張れば何とかついていけるでしょう(長いので、休みながらやって下さい)。最初は字幕を見ながら聴いて、二度目は見ずに聞き取るとか、そこは各自工夫する。内容があって面白いので、少々時間はかかってもいい勉強になるはずです。

 ついでに、リスニングの勉強でお薦めは、同じYoutube にたくさん出ているTEDのプレゼンテーションで、日本語の字幕がついているし、英米人も多くの場合、ゆっくり明瞭に語ってくれているので、TEDで検索すると一覧が出てくるから、興味のある人やテーマを選んで、視聴してみるといいと思います。話術のお手本のようなものもたくさんあるので、一石四鳥ぐらいにはなる。今の若い子たちは、無料でこういうのが視聴できるので、ほんとに幸せですが、たぶん活用している人は少ないでしょう。学校の眠たい授業や宿題を相手にしているより百倍はタメになると言えば、学校の先生たちに叱られそうですが、実際、入試にもそれは役立つのです。リスニングだけではない、刺激的な内容のある話が多いので、長文読解にも役立つ。こういうのがあるおかげで、“由緒正しい”「和製英語発音」の僕なども、「リスニングやスピーキング力はそちらで鍛えるように」と責任逃れが言えるのです。

 話を戻して、ユヴァル・ノア・ハラリ(1976年生まれ)はイスラエルのヘブライ大学歴史学部教授で、英語版 Sapiens: A Brief History of Humankind(2014)が好評を博して30近い言語に訳され、世界的ベストセラーになったという歴史家で、日本でもその邦訳『サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳 河出書房新社 2016)は書店に山のように積まれていた。俗っぽい言い方をすれば、「今最も旬な」歴史家なのです。

 オードリー・タン(1981年生まれ)の方は、「台湾の天才デジタル担当大臣」と呼ばれる人で、今回のコロナウイルスへの台湾の見事な対応にも大きな役割を果たしたとされ、ウィキペディアの「唐鳳」の項目には、「台湾のコンピューター界における偉大な10人の中の1人」「IQが180以上」「独学と個人主義的無政府主義の支持者である」等と書かれています。関係記事を読むと、今の台湾は「アジアの民主主義の拠点」と言っていいほど開明的で、だからこういう若い、しかもトランスジェンダーの人が政府の要職に就くなどということも可能になったのでしょう。あの病的なまでに一本調子かつ独善的・管理的・閉鎖的な本土中国の全体主義の政体とはえらい違いで、中国の国際的評判はガタ落ちなのに対して、台湾の株は大いに上がっているのです。

 しかし、こうした二人がどちらも、長く差別の対象となってきたトランスジェンダーだというのは面白い。ついでに、手前味噌ながら、ガーダムがかつて面白いことを言っていたのを思い出しました。たしか「両性具有」についての話が出ていたはずだと思って、『偉大なる異端』(ナチュラルスピリット 2016)を引っ張り出し、この訳書には索引をつけておいたので、確認すると、ちゃんとそれが載っている。P.205~6です(一部、不自然に感じられたところを直しました)。

 この世界で物質による限界づけを超越することを学んだ人たちは、たとえそれが僅かなものであっても、両性具有体、すなわち男女両方の性質を具えた肉体の中に生まれ変わるだろう。この、人の耳目をそばだたせるような話は、別に新奇なものではない。それは古代ギリシャの英雄の彫刻の中に、女性特有の豊満な胸と女性器を具備した男性の像があることによっても示されていた。(女神像は決して男性的特徴を示すことはない。なぜなら、古代人は母なる女神が真に根元的な形姿だと認識していたからである。永遠の女性は徳の母として認識されていた。文明と文化は、女性原理の受容性と直覚的憐れみ〔=慈悲〕に、男性的な攻撃性を注入することで作られたのである。)

 これは地球が破壊されると、人の魂は生まれ変わる場所を失ってしまうから、その後どうなるかという文脈で述べられたことで、これが意味するのは、霊的に進歩した人は「より高度な両性具有体が住まう惑星」に生まれ変わるだろう、という話なのですが、何だかそれを先取りしたような話だな、と思ったのです。

 いわゆる神秘学には、人間は元は(これは単純に「原始時代には」という意味ではなく、こう言うと「意味わからん」と首をひねる人が多いでしょうが、物質それ自体がこれほど鈍重・濃密なものではなく、もっと精妙・稀薄なありようをしていた世界・時代においては、という意味です)両性具有体であったという説があって、シュタイナーなども『アカシャ年代記より』という本でそういうことに触れていたように記憶しています。また、上の引用文中に「古代人は母なる女神が真に根元的な形姿だと認識していた」とありますが、生物学的に言っても基本になっているのは女性の性の方なので、僕が前にテレビで見たのはコブダイの例ですが、いくつかの魚は最初は全部メスとして生まれるが、その群れの中に後天的に性転換してオスに変わるのがいて、それで生殖が成り立つようになっていたりするのです(ギンブナの場合は、そもそも生殖にオスを必要としない)。旧約聖書のアダムとイブの話では、神は最初に男性のアダムを作ったことになっていますが、それは男性優位的なユダヤ教的価値観の反映にすぎず、大体、ユダヤのあの神様、ヤーヴェ(エホバ)それ自体が申し分なく権力的、独善的、攻撃的で、ああいうのは現代文明のルーツと言えますが、宗教の一種の堕落態で、それは真に古代的なものではない。日本の場合、天照大御神は女神だし、古代の王も卑弥呼で、女性だったのです。

 ユヴァル・ノア・ハラリもオードリー・タンも、男の子として生まれたが、感性的に実は女性だったといえば、単純化しすぎですが、「男でもあれば女でもある」両性具有の特徴がはっきり出ているのです。ユング心理学でいえば、男性は内なる女性アニマを必ずもっていて、女性は内なる男性アニムスをもっているということになるので、その意味で人間は元々両性具有的ですが、文明はそれぞれに「男らしさ」「女らしさ」を教え込んで、その間に壁を立ててしまった上に、今のこの文明は「男性優位」に傾きすぎたのです。

 僕なども子供の頃、今やその面影は皆無ですが、見た目が「女児の如し」で、色が白くて目が大きく、むやみとまつ毛が長くて、口は小さくて唇が「紅をさしたように」赤いと言われ、ズボンをはいているのによく女の子と間違われ、そういうのは子供心にも屈辱的に感じられたので、その反動で十代半ばからは「男らしくありたい」というのでむやみと乱暴で攻撃的になってしまったのですが、こういうのは文明による条件づけが強力に作用していたわけで、別に性的不一致に悩んだことはありませんが、そういうことがなければもっと平和な人間になれたのではないかと思うほどです。

 彼ら二人の話を聞いていると、当然思想に違いはあるものの、どちらも「権力的なもの」が嫌いで、「支配・被支配の関係」ではなくて、「共感に基づく自由な個人の連帯」や「マイノリティの擁護」が重要だと考えているようです。根っからの民主主義者と言っていいので、それも政治イデオロギー的なものではない。彼らの両性具有的な感性からそれがまっすぐ出てきているという感じで、従来の男性優位的な差別的・攻撃的な価値観に明確なノーを発している。それが僕には非常に貴重なものと思えるので、天が今の文明を矯正するために送り込んできた人材のように見えます。ガーダム流に言えば、本来もっと「高度な惑星」に生まれるはずが、「あのままではあそこは滅びるので、ちょっと助けに行ってこい」ということで、この「遅れた惑星」に再度生まれ変わることになったのかもしれません。

 しかし、かく言う僕も、昔は「オカマ(ちなみにこの言葉は差別用語に指定されていて、本にするときなどは使えません)は気持ちが悪い」と思っていたので、学生時代、長く家賃一万円の新宿のオンボロ下宿に住んでいて、新宿駅から徒歩8分と、どこに行くにもアクセスは抜群だったのですが、住み始めてからわかったのですが、あのへんはやたらとオカマが多いのです。後で新宿の花園神社は「オカマの神様」だと聞いて、なるほどそれでなのかと妙にナットクしたのですが、ある店で食事をしていて、向こうにえらい美人が入ってきたなと思っていると、注文を取りに来た店員に話す声が野太くて、びっくりして顔を上げてよく見ると、喉ぼとけがしっかり出ているので、あれは男だったのかと、ショックのあまり食欲を失ったことがあります。女装していても一目でわかる場合は大して衝撃はないが、そんなに完全に化けられると恐ろしくなる。

 こういうのは、しかし、女装するオカマの側にも無理があるので、あくまでも男と女に截然と区分けされた社会の中で、派手な厚化粧で違う性を外見的にも過剰に演出しようとするから、ああいう不自然なことになってしまうのでしょう。もっとナチュラルにやってくれれば、大きな違和感なくこちらも受け入れられそうに思うのですが、どんなものでしょう? 僕の友達にはオカマバーの愛好者がいて、何がいいのかと聞くと、彼らは元が男だから、男の気持ちがよくわかって、むしろ女性ホステスより話が通じやすく、受容能力が高いからいいのだという話で、彼は別に同性愛者でも何でもなかったのですが、そういう客が多いのだという話でした。してみれば、ふつうのオカマでも、男女両方のことがたんなる男性や女性よりもよくわかるというすぐれた特性をもっているわけです。さっきのユングの説明に則れば、彼らは「内的統合性が高い」人間だということになる。

 そうすると、トランスジェンダーにもむろん色々な人がいるでしょうが、彼らは両性具有的なその性質からして、全般的に共感能力や統合性が一般人より高いというすぐれた特性をもっていると考えられるということです。ふつうの人間よりそのあたりすぐれているので、それに高い知性や教養が加わった場合、「鬼に金棒」的な存在になるのかもしれない。そのよい例が、ハラリやオードリー・タンのような人であるわけです。

 僕はかなり大真面目にそう考えるに至ったのですが、そういうふうに考えると、トランスジェンダーの人たちに対する偏見はかなり和らぐのではありませんか? 僕らが彼らを「気持ち悪い」と感じるのは、たんにそういう人が少ないからにすぎないので、自然がそういう人を生み出したのには理由がちゃんとあるはずです。トラウマ的な要因に基づく病的な性的倒錯というのはあるでしょうが、生まれつきそうだったという人の場合、それを病的なものとみなすのは間違っている。今は発達障害に対する社会の理解も深まって、天才にはASD(自閉症スペクトラム障害――アスペルガーはこれに含まれる)やADHD(注意欠陥多動性障害)、躁うつ病などの人が多いと言われていますが、トランスジェンダーの人たちもその点、同じかもしれないのです。

 そもそもの話、これを読んでいるあなたも、書いている僕も「ふつう」ではない。統計的な平均値のような人は実際には存在しないのです。学生時代、仲間と話をしていて、僕には子供の頃、「強迫性障害」と呼んでいいものがあって、一つのことが気になると、とことんそれが気になって、それであれこれ考えているうちに、「考える自分」そのものが疑わしくなって大変なことになったことがあるのですが、彼らと話をしていると、同じような自己不確実感や神経症的兆候に苦しんだことがあるというのが何人もいて、中には大学病院で脳の検査まで受けさせられたが、異常が発見できず、「心因性」という何の助けにもならない診断を下された、というのまでいたのです(彼は乾いたユーモアのセンスがある、面白い男でした)。それなら、これはそんなに例外的なことではない。僕は別として、彼らは皆秀才の誉れ高かった連中だったので、それは「馬鹿ではない証拠」みたいなものなのです。また、四十歳の頃、たまたまテレビをつけたら、それがNHKの教育で、「オトナのADHD」というのをやっていて、見ているうちにそれがほとんど全部自分に当てはまるのに驚いたことがあります。整理整頓能力が皆無であることや、気が散りやすいこと、一つのことに注意が向くと他がお留守になってしまいやすいこと、機械的な時間の区切りに合わせるのが下手で苦痛なことなどです。こういう「障害」の理解が難しいのは、「注意欠陥」なのでそういう人にはいかにも集中力がなさそうですが、必ずしもそうではなく、自分が関心をもったことには異常な集中力を発揮したりするので、持続力もそういうことに関しては並外れてあったりすることです。但し、それには一人でほうっておいてもらわなければならず(周りに人がいると気が散る)、何も条件をつけずに「丸投げ」されるのが一番よい。そうすると自分で好きにやって、トータルでは人の数倍のスピードでかつ完成度の高い仕事をやってのけたりする。そしてしばらく何もせずぐうたらしたりするのですが、これもそういうタイプの人には必要なことなので、きまったことを同じペースでやり続けるということが苦手なので、ぐうたらと過剰な集中を交互に繰り返してバランスを取っているのです。

 この手のタイプには、毎朝定時に会社に出勤して、夕方定時に退出するなんてことを続けるのは至難の業なので、大体、必然性の感じられないことにはまるで意欲が湧かないので、差し迫った用がなければ会社に行く気にもなれないのです。それである朝起きたらとうに出勤時間を過ぎているので、念のため電話を入れて遅刻する旨伝え、急ぐほどの仕事もないからと午すぎ出勤すると、折り合いの悪い形式主義者の上司に「エラそうに重役出勤するとは何事か! 今すぐ始末書を書け!」と怒鳴られたりする。それで書いたら、今度は庶務の女性が飛んできて、書き直すよう言われるのです。言われた通りちゃんと用紙を埋めたつもりなので、「どこがまずいんですか?」とたずねると、それは「理由」の欄で、そこに「朝寝坊のため」とそのまま事実を書いたのがよろしくなかったというのです。「こういう場合、『体調不良のため』と書くものなんですよ」と小学生に諭すように教えて下さる。「でも、僕はごらんのとおりピンピンしているので、全然体調不良なんかじゃないんですけど…」何でそういう嘘をつかねばならないのか、発達障害らしく理解できないのです。「それはわかってますけど」と相手は無理に笑いをかみ殺したような顔で続ける。「とにかく、こういうときはそう書いてもらわないと困るんです!」

 これはわが人生においては貴重な、短期に終わった「ふつうの正社員サラリーマン」時代に実際経験した話なのですが、その頃はまだ自分がADHDに該当するか、またはその「境界例」であることには気づいていなかったので、不似合いな職業に就くという「誤った選択」をしてしまったのです(後で、やはり上に立つ人は偉いものだなと思ったのは、そこの老社長は面接段階でそれを見抜いていて、「今どきの青年は金太郎飴みたいなのが多い中、君みたいなのは珍しいが、君は自由人であって組織の人間ではない。私としてはその点を一番危惧している」と言われたことで、そんな大げさなと僕は思いましたが、その「危惧」は正しかったことがのちに証明されたのです)。この手のタイプの人にはいわゆる「自由業」が多いでしょうが、それはサラリーマンには不向きだから、初めは勤め人になっても長続きせず、必然的にそうなってしまうのです。

 あなたの周りにもそういう人はいるでしょう? ひょっとしたら、自分の子供がこれで、親が日本人的な勤勉サラリーマンの鑑みたいな人である場合、むやみと愚図で、まるきりお勉強はしないし、毎日ぐうたらしているとしか見えないので、自分にどうしてこんな怠惰な子ができてしまったのかと、絶望的な気分になるかもしれません。場合によっては、「おまえの育て方が悪い」とか、「あんたの一族に問題のある人がいるので、そっちの遺伝のせいだ」とか、夫婦喧嘩に発展することもあるかもしれません。僕なども子供の頃、中3の受験学年になってもまるで勉強しないというので、業を煮やした母親に、「おまえには努力という、人間として一番大事な才能が欠けている!」と非難叱責されたことがあるのですが、わかってないなと歯ぎしりしたので、僕はその当時、机の前に座っても眠くなるだけで、勉強しなければならないという気持ちは働くのですが、全く集中できなかったのです。「勉強ができない」というのにも二種あって、長いこと机の前にかじりついているが、全然学習能率が上がっていないというのと、そもそも勉強すること自体ができないというのがあって、僕は後者だったのです。

 そんなのは怠惰の言い訳だと大方の人は言うでしょうが、そういう子供はげんに存在するので、それが理解されにくいのは、そういう子にかぎって遊んでいるとき、好きな本や漫画を読んでいるときは声をかけられても気づかないほど没頭していたりするからです。だから怠けているとしか傍目には見えないのですが、それとこれとは違うので、非難しても問題の解決にはならない。げんに僕は母親にそう言われても「勉強ができない」ままだったので、神のはからいによるのか、自分の志望校だけその年1.0倍の入試倍率になったおかげで、ビリケツで入学を許可されたにすぎなかったのです(これは誇張だと思う人が多いでしょうが、弟に聞けばわかるので、彼は僕がもっていた問題集の類をそのまま譲り受けたのですが、どの教科も最初の二、三ページに鉛筆の書き込みがいくらか見つかっただけで、新品同様だったので、「兄貴は受験のとき、毎晩何してたの?」と母親に訊いたのです)。

 だからそういう子供をおもちの親御さんは、「ダメな子」だと決めつける前に、よい精神科医や良心的な医療機関を探して、一度相談してみることです。そうするとそこにはちゃんと理由があって、わが子には他に隠れた長所があることがわかったりする。そしたらそこを起点に才能を伸ばすことができる。昔はそういう理解はなかった代わり、世の中全体にいい意味でテキトーなところがあって、それが助けになって追い込まれずに済んだのですが、今は全体に管理的で妙に不寛容になってしまっているので、親がまずそれを理解してあげないと、子供にとってはきつすぎることになりかねない。上のお勉強のことにしても、僕のケースのように、大の勉強嫌いだったのが、後になってから、ほんとは学校の教科書勉強が嫌いなだけで、勉強それ自体は好きな人間だということに自分で気づくこともあるのです。わが子も学校のお勉強が大嫌いな子供でしたが、親に似たのだろうから仕方ないと思って、僕は何も言わず、心配もしませんでした。「中学生になっても小学校のときと家庭学習の時間が同じ(30分が家庭学習における彼の「集中限度時間」だという話は前に聞いていた)」だと呆れていた母親にも、逆効果になるだけなので、イライラしてとやかく言ったりしないように言ったのです。小学生の頃は心理的に不安定になると強迫的な確認癖が出現したようでしたが、これは親の両方が経験したことだったので、べつだん深刻に考える必要はないことを教えた。そうすると次第にそれは薄らいだようで、中学の頃は部活一途だったのが、高校の途中から勉強にも身を入れ出し、人の助言を聞いておかないからそんな羽目にもなったのですが、受験間近になったときはいくら何でもそれは無理だろうというようなことにまで手をつけて、ちゃんと結果を出したので、子供は自然な自己肯定感さえ損なわないようにしてあげれば、少々の無理は利く、ストレスにも強い人間に育つことがわかるのです。

 幸いなのは、今は発達障害であれ、トランスジェンダーであれ、社会的な認知度が上がってきたので、「異常」「病気」扱いされることは減ってきたことです。発達障害など、名称からして「障害」なので、その意味ではいまだに病気扱いですが、それはタイプの違いだと理解されるべきでしょう。サイコパスとか自己愛性人格障害となると明らかな病気で、社会にとっても有害なので捉え方は異なってしかるべきですが、通常の発達障害やトランスジェンダーは価値中立的なもので、それ自体としては何ら悪ではない。そこをはっきり認識することで、おそらく自然は何らかの必要性があってそういう人たちを生み出したので、それは人間社会の多様性とダイナミズム維持の観点からしても必要なのです。あの有名な「環境少女」のグレタ・トゥーンベリさんは、アスペルガーであることを公表していて、彼女はそれを「自分の個性であり才能」とみなしているようですが、じっさいそう見えるので、僕は彼女のファン(冒頭触れたTEDにも彼女の個性豊かなトークがある)ですが、ひねりの利いたユーモアのセンスもあって、実に賢く面白い子だなと思っています。しかし、彼女も、親や周囲の理解がなければ自然な自己肯定感をもつことは困難になって、持ち前の知性や才能を伸ばせなくなっていたでしょう(愚劣なまでに同調圧力の強い韓国や日本のような社会では、「空気に合わせない」彼女のようなタイプはことに迫害されやすい。グレタさんの素晴らしいところは、からかいや冷笑、悪意のこもった難癖にも敢然と、ときに巧みなユーモアも混じえて立ち向かえることです)。

 とまあ、ADHDらしく話が飛び回りましたが、それも小林秀雄流に言えば、「道草を食わず、まっすぐにしか歩けないのは鼻が利かないからだ」ということになるので、べつだん悪いことではないでしょう。僕が言いたいのは、今後はトランスジェンダーや発達障害と呼ばれる人たちの中から異能が続出し、彼らが「世界を救う」こともあるかもしれないということです。だから彼らを潰してはいけない(そういう人たちの側から言えば、潰されてはいけない)。アンデルセンの童話に「醜いアヒルの子」の話がありますが、実はアヒルではなく高貴な白鳥だったから、アヒルの群れではヘンに見えて、白眼視されただけだったのです。

 ユヴァル・ノア・ハラリやオードリー・タンのような人の出現は、それがたんなるたとえ話ではなく、リアルな現実であることをよく物語っています。僕らアヒル社会も、彼らのような人のおかげで大いに助けられるのです。狭苦しい「アヒル的価値観」からの意識的離脱を、そろそろ現代人は本気で心がけるべきときでしょう。

 最後に、これは「ハフポストLIVE」というのがあって、そこでオードリー・タンが語ったことだそうで、僕がこれを書いておこうと思った直接のきっかけはこれなのですが、興味深いのでお読み下さい。①③④も、URLが付いているので、クリックすれば、全部見られるようになっています。Youtube にも飛べる。

・オードリー・タン「台湾の大臣は、35歳以下の若手にアドバイスをもらう」→政治を変える方法がすごい【インタビュー全文:その②】
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