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お盆にプラトンの『パイドン』を読む~霊魂不滅論について

2020.08.11(12:35) 745

 僕は山の上の方にあるアパートに住んでいるのですが、旧市街に出るのに一番近いルートを自転車で行く場合、U字状にいったん少し下って、山のてっぺんまでのぼり、そこから坂を一気に下ることになるのですが、下にお寺がある関係で、途中の坂の片側がお墓になっています。先日そこを通ると、色とりどりの献花で華やかになっていました。お盆が近いからでしょう。車が何台か停まって、お墓参りやお墓の手入れをする人たちの姿も見えた。

 今年はコロナ禍で帰省客が各地で激減しているようですが、帰省したときお墓参りをしない人は今でも稀でしょう。そういう行事は僕の親の代ぐらいで大方終わりかなという気もするのですが、お盆が来ると仏さんを迎え、最終日に送る習慣もまだ残っている。お盆になると、都会に出ていった子供たちが里帰りするだけでなく、霊たちもあの世から戻ってくるのです。そこで一族の死者と生者が一堂に会する。思えば、これは不思議な観念です。僕が子供の頃は、しかし、それは一定のリアリティをもっていた。とくに信心深いお年寄りたちにはそれはたんなる行事ではなく、リアルなものだったのです。お盆に殺生は忌むべきこととされたのも、そこに「聖なる空間」が成立することと関係したのでしょう。僕が子供の頃は地域の盆踊りなども盛大に行われましたが、それは宗教的な祝祭の雰囲気をまだたしかにもっていた。生きている者だけでなく、戻ってきた死者の霊たちもまた、それを楽しんでいたのです。

 洋の東西を問わず、霊魂不滅や生まれ変わりの思想が普遍的と言っていいほど広く見られたのは不思議なことです。それはほとんどすべての民族に共通すると言ってよい(伝統的なアフリカ文化にもそれが明確なかたちで存在することを、僕は今度の訳書に出てくる南アのシャーマン、クレド・ムトワの話を通じて知りました)。キリスト教神学はこれを否定し、仏教も、無我思想というかたちでこれを否定したが、上に見た習俗からもわかるように、民間のそれは仏教以後も消えなかった。中国でも日本でも、それは祖霊信仰を取り込むかたちで発展したのです。西洋でも、ピュタゴラスのそれが一番有名ですが、魂は生まれ変わりを通じて純化、成長するという思想はプラトンに受け継がれた。キリスト教でも、原始キリスト教の時代にはそれは否定されていなかったと見られるし、その復興を意図した中世の異端カタリ派はそれを主要な教義の柱としていたのです。

 先日僕は実に四十年ぶりぐらいにプラトンの『パイドン』を読み返しました(今もっている文庫は出たとき買っただけのもので、最初は全集の一冊で読んだ)。本屋に行って文庫の棚で新しい訳本が出ているのを見かけて、細かい訳の異同などにはとくに興味がなかったので、それを買うことはしなかったのですが、「魂の不死について」というサブタイトルが付けられているこの有名な対話篇のことを思い出して、読み返してみる気になったのです。

 古典というのは概して退屈なものです。それは多忙な現代人(何のために多忙になっているのかは疑問ですが)には冗長すぎると見える描写が続いたり、現代の視点から見るとあまり説得的とは言えないような論理展開がところどころ見られたりするからです。中にはドストエフスキーの小説や、ゲーテの『ファウスト』みたいにそういう冗漫さを全く感じさせないものもありますが、ゲーテなども他はかなり退屈なのです。こういうのは年齢的なものもあります。たとえば僕は二十代初め、デカルトの『方法序説』や『省察』(それぞれ野田又夫、三木清訳で読んだ)に熱中して、感嘆久しかったのですが、今はもうその世界に入っていくことができません。そういう本はたくさんあって、記憶があやふやになってきたので、それを補っておこうと、昔読んだ本を再読しようとしても、かつての情熱はすでになく、どうにもその中に入っていけない自分に気づくことが少なくありません。だから忘却あるのみで、こういうのが進んだその先に認知症が待ち構えているのかなという気がしないでもないのですが、ぶ厚い本を読み通す気力なども薄れてきた気がするのです。

 プラトンの対話篇なども、こう言うと専門の先生たちには叱られるかもしれませんが、概してかなり退屈なものです。そこで行われている「論証」なるものも、冗長すぎたり、あまり説得的ではない場合があるように思われるのです。古典で、権威あるものとされていて、有名な大学の先生なんかが訳すからほどほどには売れても、新刊で無名人が同じような内容のものを出せば、どの程度売れるかは疑問です。

 あらためて読むと、この『パイドン』にも退屈な部分が多い。しかし、これはやっぱり昔のギリシャ人でプラトンだな、と思うところはあちこちにあって、その全く現代風でないところが面白い。たとえば、次のような箇所です。

「人間にとって生きることより死ぬことの方がより善いということだけが、他のすべてのこととは違って、例外なしに無条件的であり、他のものごとの場合のように、ある時ある人には、という条件がけっして付かない。…」(岩田靖夫訳 岩波文庫 p.23)

 誰の言葉だったか忘れましたが、「存在しないことは存在することに優る」という言葉を、僕はあらためて思い出したのですが、それも古代ギリシャかローマの誰かの言葉で、こういうのは現代人の感覚とは全く違って、むしろ正反対なのです。しかし、ソクラテスとその周辺の知的な人々にとって、「生きることより死ぬことの方がより善い」というのは議論の余地のない真実とされていたのだとわかるのです。

 その上で、「自殺はなぜよくないか」ということが語られる。人の運命はこの世界を宰領する神々(この場合はゼウスを主神とするギリシャの神々)の意思によるので、人は神々の所有物のようなものであるから、神々の意図に反して勝手に自殺したりするのは許されないことだ、という説明になるのです。

 しかし、死が生より望ましいというのはなぜなのか? それは「第一に、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々のもとにこれから行くだろうということ、第二に、この世の人々よりはより優れた死んだ人々のもとにも行くだろうということ」(p.26)が、理由として挙げられるのです。

『パイドン』は「霊魂不滅の論証」を主眼としているので、こういうのは前置きにすぎませんが、「死は恐ろしいもので、生の方がいいに決まっている」と思う現代人には、このあたりの感性の違いに驚かされるでしょう。また、この世界が「神々」が支配しているところとは思えないし、死んだらそれより善い神々が歓待してくれる、とはなおさら思えない。「より優れた死んだ人々」がそこにいるというのも疑わしい話で、死ねば人間はそれっきりだと、唯物論科学の影響で、多くの人々はそう考えるように慣らされているのです。

 近代以降の科学は物質現象を扱うものなので、物質ではない魂や霊はその研究対象には入らない。だから「科学では魂や霊が存在するのかしないのかはわからないし、肉体の死後存続するものがあるのかないのかもわからない」というのが真に科学的な考えと言うべきですが、科学者の多くはたぶんそれが「非科学的」だという自覚はないのでしょうが、「心は脳の電気的・化学的反応の産物にすぎず、当然それは肉体に依存しているのだから、肉体の死後残るものなど何もない」という断定に傾きがちです。つまり、魂だの霊だのは、「脳内幻想」の一つにすぎない、というわけです。昔は科学がなかったから、それが実在すると思い込んでいたにすぎないのだと。

 しかし、かなり詳細な前世記憶をもつ人がいる(とくに子供に多い)のはなぜなのか? 調べてみるとそれに詳細な点まで合致する人物の記録が残っていて、その子供がその情報を事前に知り得た可能性はかぎりなくゼロに近い、というケースがいくつもあって、その前世人格は有名人でも何でもなかったし、そんなことを言って子供が得をするということも全くありそうもなかったりするのです。「ボクが前に大きかったとき…」なんて幼児が突然話し出したりすると、親は気が狂ったのではないかと心配するのがふつうです。こういう場合、一番合理的な説明は、魂でも霊でも、その呼称はどうあれ、記憶を担うある実体があって、それは肉体の死後も消滅せず、いったんあの世、プラトンの用語では「ハデス(冥府)」に行った後、再び戻って別に肉体の中に入るというものですが、大方の人は「そんな馬鹿な話があるはずはない」と薄笑いを浮かべて言うのです。

 これは、大方の人にはそんな記憶が何もないのも関係します。昔はこの世に戻ってくるとき、「忘れ川」の水を飲んでくるから思い出せないのだ、と説明されましたが、おそらく脳の中にはそういうものが出てこないようにする抑止機能が備わっているのでしょう(どうして脳にそういう機能があるのかについては、『リターン・トゥ・ライフ』の訳者あとがきで、ベルクソンを援用しながらかんたんに説明しました)。修行や瞑想でそのストッパーが外れることもあって、そうするとこの能力を獲得する。仏教にはいわゆる「宿命通」と呼ばれるものがあって、デジタル大辞林には「自他の過去の出来事や生活をすべて知ることのできる超人的能力」とありますが、この「過去の出来事や生活」というのは生まれて以後のことではなく、前世や中間生のそれを指すのです。前世記憶をもつ子供の場合には、それが通常の自然死ではなかったことが多く、死亡時のインパクトが強烈だった場合、その脳の抑止機能では十分な排除ができないから出てくるのではないかと思いますが、一部に霊能者的素質をもつ子もいることから、そういう子の場合はその種の記憶の想起も容易なのかもしれません(ちなみに悪霊も通常では知り得ない相手の秘密を見通す力を示すことがあるので、その種の能力だけでそれを優れたものと思い込むのは危険だと付け加えておくべきでしょう)。

 ややこしいのはインチキな前世話もたくさんあることで、詐欺師と合体した自称霊能者の中にはそういうのを信者支配の道具の一つとして悪用する人もいるようですが、信憑性の高い話もあるので、そうすると「魂の死後存続」はその最も合理的な説明になるのです。

 これよりもっと不可解な話は、「魂の星間飛行」の話で、イギリスの精神科医アーサー・ガーダムは Obsession(強迫観念)という本で、「宇宙空間を通って下降し、物質の中に入ったプシュケ(魂)の記憶」をもつ子供の話に言及しています。それがその子の場合、六歳から十一歳までの間、夢のかたちで繰り返し蘇ったのです。

 彼の夢というのは、星々や諸惑星の間を通って、宇宙を落下しているというものだった。彼は周辺に環をもつ土星を通りすぎて下降した。私は優しい口調で、六歳のときに君が土星とその環を知っていたとはちょっと信じがたいね、と言った。私は彼が本当のことを言っていると確信していたが、疑っているとほのめかしてみることは必要だと感じたのである。少年はかなり憤然とした口調でこう答えた。「もちろん、ぼくは六歳のときはそれが土星とその環だとは知りませんでした。一週間か二週間前、学校から帰ったとき、たまたまテレビにそれが映っていたのです。それは天文学の番組で、ぼくにはその星に見覚えがあって、テレビの講師の先生がそれは土星とその環だと言ったんです。そのかたちは、僕が夢で見ていたものと全く同じでした」(原書p.44)

 この話が不思議なのは、魂はむろん通常の物体ではなく、肉体がもつ感覚器官ももっていないはずなのに、身体的なものとして捉えられていることです。だから下降している際に星や惑星も見える。僕がこの話を思い出したのは、自分の息子にも同じような記憶があるらしいことを発見して驚いたときです。それはガーダムの『偉大なる異端』の訳者あとがきにも書き含めましたが、彼は幼児の頃、星空を見上げて「きれいなお星さまねえ」と感傷に耽っている母親に向かって、あれは「ほんとは大きくて丸い」のだと言ったのです。驚いた母親が「何であんたはそんなこと知ってるの?」と聞くと、そっけない口調で「来るとき見たから」と答えた。「来るとき」というのは、「この世界に来るとき」で、彼は宇宙空間を通り抜けて猛スピードで降下し、「気がついたら、お母さんのおなかの中にポーンと入っていた」と説明したのです。僕は後でその話を聞いたとき、興味を覚えて、「おなかの中にいるときはどんな感じだった?」とたずねました。「うすぐらい」というのが彼の答でした(この話で注意すべきことは、母親はガーダムのことなど何も知らなかったということです)。

 彼には「来る前の世界」についての記憶もあったらしく、母親には何度かそういう話をしたようですが、それがこの世界とはいくつかの点で「全然違う」ことを不思議に思ったようです(重力が稀薄だったことや、「からだの大きさがみんなマチマチで全く違っていた」ことなど)。彼が他のことはともかく、僕の息子で幸いだったのは、父親がそういう方面に理解があったために、母親もそれが病的な妄想の類かもしれないと心配することはなくてすんだことです。それで医者に連れて行かれて、その医者が近代唯物論医学の信奉者で、「これは統合失調症の初期症状である」などと診断し、強い薬など処方されると、自己肯定感をズタズタにされた上に、有害無益な薬理作用で、本物の病人にされてしまったことでしょう。

 こういう話が示唆するのは、プラトンの『パイドン』には、終わりの方に、ハデスにある「大地」についてのかなり詳細な言い伝えの話が出てくるのですが、それが事実そのとおりかどうかは大いに疑わしいとしても、そこに何かリアルな世界があるのは確からしく思われるので、上の「魂の星間飛行」の話からすると、それはこの同じ宇宙空間のどこかにあるか、または次元の違うところにあって、誕生の際、魂は遠くから、または次元をまたいで飛んでくるので、宇宙を通ってやってくる記憶が残るのではないかということです。

 そんな話は全く信じられないと言う人が多いでしょうが、僕はリアリストなので、こういうのは信じるとか信じないとかいう話ではなく、現実にそういうことがあるかないかで、UFOやエイリアンに関しても、「こういう体験をしたという人がいるのですが、どんなものでしょう?」というかたちで紹介しているだけなのです。それが病的な妄想かどうかは、僕は人を見て判断します。それは一種の直観(直観というのはつねに全体的なものです)によるのですが、妄想ではないと思えば、それが既成の信念や知識の体系にうまくはまらなくても虚偽と決めつけることはしない。それは幼稚なことだと思われるからです。世界観や人間観はつねに修正されるべきものとしてそこにある。プラトンが言うように、「思考がもっとも見事に働くときは…魂が、肉体に別れを告げて、できるだけ自分自身になり、可能なかぎり肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するとき」、つまり死んでからあの世の、それもより高い領域に達したときに限られるのではないかと思われるからです。

 この点で僕はプラトン主義者なのですが、にもかかわらず、『パイドン』の「霊魂不滅の論証」は不十分なように思われるので、とくに最後の「イデア論による証明」なるものは釈然としないものを残します。順序として、まずケベスの反論というものを見てみましょう。それはソクラテス(プラトン)によってこう整理されています。

「また、魂がなにか強くて神的なものであり、われわれが人間になる以前にも存在していた、ということを証明しても、そういうことはすべて魂の不死を証明しているのではなく、ただ、魂が非常に長命であり、測り知れないほどの時間かつてどこかに存在していたのであり、なにか多くのことを認識したり、行為したりしたのだ、ということを証明しているにすぎない、と君は言うのだ。…」(p.113)

 これは十分リーズナブルな疑いです。ここで述べてきた議論でも、前世やあの世の記憶をもつ人がいるということは、魂が今の肉体に宿る以前にも存在していて、肉体を超えて生き延びるという証拠にはなり得ても、それが永遠に存在するとはかぎらない、ということになるでしょう。魂が何度も生まれ変わりを重ねるうちに疲れてくるというのはありそうな話で、僕もよく自分の魂はこの肉体に宿ることにいい加減ウンザリしているのではないかと思うことがあります。

 しかし、プラトンによれば、決してそうではないのです。それはこんな具合です。「三」のイデアがある事物を占拠すると、その事物は必然的に三であるばかりでなく、奇数でもある。そうするとこの「奇数性」ゆえに、偶数のイデアは決して近づかない。

 だから何なんですかと言いたくなりますが、かなり退屈しながら先を読み進むと、「身体のうちに何が生じるとそれは生きたものになるのか?」という問いかけに、「魂が生じると、です」と答えさせ、「では、魂はなんであれ何かを占拠すると、そのものに常に生をもたらすものとしてやってくるのだね」と念押しし、相手がそれに同意すると、「生と反対のものが何かあるだろうか?」と問いかけて、「死です」と答えさせる。すると、「先の議論から同意されたように、魂は、自分が常にもたらすもの(=生)とは反対のもの(=死)を決して受け入れないのではないか?」と問い重ねて、「そうです」と言わせる。

 つまり、三は奇数で、決して偶数にはならないのと同じで、常に「生をもたらすもの」である魂も、その性質とは合致しない「死」を受け入れることは決してない、従ってそれは不死不滅である、という結論になるのです。これで「証明は完了した」とされる。

 ナットクされましたか? わかったような、わからないような…。大体、「数のイデア」なんてものが何で持ち出されるのか、他にもっと適切な例はなかったのかと注文をつけたくなりますが、この論法で行くと、あらゆる生物は、アメーバ―でも、アザミでも、すべては魂をもつことになり、通常魂として観念されているものとはだいぶ性質の違うものになってしまいそうです。

 もう一つ、これは別に僕のオリジナルではないのですが、その魂自身が何かに生かされていると考えれば、話はまた違ってきます。個別の魂は全的、根源的なあるものから派生したもので、その根源的なものから自分が宿るものに生を付与する力を貸し与えられていると解釈することも可能だからです。この場合、魂は二次的な存在で、根源的なものではないから、いずれはその根源的なものに吸収されて消滅する。それならそれは不滅ではないことになります。

 プラトンは教育者でもあったので、死後魂はハデスで生前の行いに見合った待遇を受けるという話をして、それを道徳的教訓につなげたかったのかもしれません。次の文などにはその配慮がよく見てとれる気がします。

「もしも魂が不死であるなら、われわれが生と呼んでいるこの時間のためばかりでなく、未来永劫のために、魂の世話をしなければならないのである。そして、もしもわれわれが魂をないがしろにするならば、その危険が恐るべきものであることに、今や思い至るであろう。なぜなら、もしも死がすべてのものからの解放であったならば、悪人たちにとっては、死ねば肉体から解放されると同時に、魂もろとも自分自身の悪からも解放されるのだから、それは幸運な儲けものであっただろう。しかし、今や魂が不死であることが明らかな以上、魂にとっては、できるだけ善く、また賢くなる以外には、悪からの他のいかなる逃亡の道も、また自分自身の救済もありえないだろう。というのは、魂がハデスに赴くにあたってたずさえて行くものは、ただ教養と自分で養った性格だけであり、これらのものこそが、死出の旅路の始めからすぐに死者をもっとも益し、あるいは害すると言われているものなのである」(p.153)

 そう述べた後、ソクラテスはある「言い伝え」について語ります。

「人が死ぬと、生きている間から各人の運命を司るべく割り当てられていたダイモンが各人をある場所へ連れてゆこうとする。そこに集められた者たちは裁きを受けてから、かれらをこの世からあの世へと連れて行くべき使命を与えられたかの導き手とともに、ハデスへと旅しなければならない。かれらはハデスで蒙るべきことを蒙り、定められた期間留まると、別の導き手が再びかれらをこの世に連れ戻すのだ。その期間は何度も繰り返される永い周期をなしている」(p.154)

 要するに、この世の法や道徳は欺けても、死後その魂はしかるべき報いを受けるということなので、「逃げ切り」はできないのだというのが、この話の趣旨です。逆に、ソクラテスのように一心に「魂の世話」に勤しんだ人間は――「アテナイという鈍牛にたかった虻」と自己規定していた彼は、裁判の弁論の際、アテナイの人々を「愚かな物欲や権力欲、名声にかまけて魂をないがしろにしている」と逆批判して、怒りを買ったために死刑判決を受けたのですが――それに見合ったよい世界、エリアに行ける。いかにも明快で、教訓的ですが、もしもそのとおりなら、相当恐ろしい話です。いや、自分は人に後ろ指を指されるような真似は一度もしたことがないという人も、その隠れた利己性や愛のない底意地の悪さによってハデスの一番ひどいところに追いやられるかもしれないので、そこらへんはうわべの「この世基準」には拠らないのです。

 先に話に出たガーダムには、最晩年の作品の一つに Paradise Found という著作があって、それは原書でも絶版になって久しいのですが、それには彼が霊たちから直接聞いた話として、もっと恐ろしい話が語られています。彼もあの世をハデスと呼んでいますが、そこでは善と悪との熾烈な戦いが行われていて、その中のとくに邪悪な霊はこの世界に強く執着し、影響を及ぼし続けているというのです。彼は「悪のトランスミッター」という表現を使っていますが、この世にいるハートのない邪悪な人間は無自覚なままその悪のエネルギーの通路となって、善良な人間を弱らせ、攻撃したり、この世界の「悪による汚染」を激化させたりする。ハデスにいる善霊もむろん、この世界に影響を及ぼし、その悪へのディフェンスを提供しようとするが、今の世界では悪が優勢で、いずれ暗黒時代がやってくるだろうと警告していました。これは1980年に出た本なので、それからちょうど40年たっているわけです。プラトンの説明では、ハデスはこの世とは別の領域に存在し、管理される世界のような描写になっていますが、ガーダムによればそれはどのようにしてかつながり、ハデスのありようはこの世界のありように影響を及ぼしているのです。逆にこの世界のありようがハデスでの闘争にも影響するとも読めるので、こちらの話は一段とこわいのです。

 いずれにせよ、プラトンもガーダムも、ハデスが実在するということ自体には何の疑いも示していないので、それが実際にどういうものであるかはともかく、僕もそれはあるのだろうなと思っています。つまり、人間は死ねばそれでおしまいというような、そういう単純な話ではないということです。

 個別の魂が不滅かどうかは、先にも書いたように疑わしいと僕は思っていますが、その大本にある根源的なものは不滅で、西洋のスピリチュアリズムではこれを大文字の Spirit で表わすことが多い(ガーダムが非個人的な「不可分の意識」と呼び、盤珪禅師が「不生の仏心」と呼んだものも僕の理解では同じ)のですが、魂だのプシュケだのは、そこから伸びたニューロンのようなものだと僕は理解しています。それは死後も存続するし、最終的にはそのSpirit の中に帰融するとしても、果たすべき役割があって、それが済むまではあの世とこの世の行き来を繰り返すのでしょう。むろん、それは通常のパーソナリティではない。自我人格は肉体への意識の自己同一化が作り出すものなので、肉体の死と共に消え去る。それが重要性をもつとすれば、それが魂に刻印を残すという意味ででしょう。『リターン・トゥ・ライフ』にオリビアという少女が5歳9か月のとき使ったという面白い表現が出てきます。彼女は自分が前世でデイジー・ロビンソンという名の女性で、30歳で死んだのだと語っていたのですが、母親がオリビアに、あなたはデイジーがもっていたのと同じ人格をもっているのかもしれないと言うと、彼女はそれを否定して、人格(パーソナリティ)は消えてしまったが、人(パーソン)は残っているのだと答えた。おそらくこの幼い少女はまだ語彙に乏しく、人格とは別の実体を言い表わそうとして、パーソンという言葉しか思いつかなかったのでしょう。しかし、「人格(パーソナリティ)」というものを明確に否定したのは興味深いことです。

 長くなったのでこれくらいにしますが、僕のこの文は『パイドン』の要所と自分が思った部分について感じたことを書いただけのものなので、色々な読み方ができる面白い本だと思います。一度も読んだことがないという人はお盆休みにでもお読みになったらいかがでしょう。ハデスへの門が開かれるとされる今は、時期的にもふさわしい。細かい理屈が面倒になってきた僕のような人間には煩わしく感じられる箇所も、若い人には面白く読めるかもしれません。「哲学の歴史はプラトンのフット・ノート(脚注)である」と言ったのはイギリスの哲学者ホワイトヘッドですが、西洋思想の理解にはプラトンは不可欠です。冒頭見たような彼の顕著な「反時代性」も、現代人にはいい薬になるかもしれません。

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