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新型コロナをきっかけに考えたこと

2020.04.05(18:08) 708

 前回のブラックジョークは全然受けなかったようで、日本ではこういうのはやっぱり駄目だなとあらためて思ったのですが、今回は真面目に書きます。途中から議論がどこに行くのかわからなくなりますが、僕にはいろんな話を混ぜてしまう悪癖があるので、そこはまあ我慢して下さい。

 言うまでもなく、今回の新型コロナで一番困るのは、「いつまで続くかわからないこと」です。調べてみると、SARS(重症急性呼吸器症候群)のときは7~8カ月(2002年11月に流行が始まって、2003年7月に終息)と比較的短かったが、あれは潜伏期間や発症初期の患者の感染力は低かったと言われ、だから発症して肺炎の症状が本格化した患者を隔離すれば大体感染の拡大は食い止められたのが、今回のコロナはさしたる自覚症状がないレベルでも感染力をもつとされ、症状が重くなった患者を隔離すればいいということにはならないので厄介です。どこに感染者がいるかわからない不安な状況の中で地域や社会全体が「活動自粛」を強いられる。

 非常事態宣言を出すかどうかで日本政府は苦悩しているようですが、医療関係者には「早く出してほしい」と言う人が多いようです。仮にイタリアのような「感染爆発」の事態になると、医療体制が崩壊してしまうと、それを危惧しているようだからです。今のように軽症者まで入院させていたのではベッドが足りなくなるのはあたりまえで、それには、コロナの影響でガラガラになっているホテルを借り上げて、そこに一時隔離するというような対応を取ればいいのだという意見があって、僕もそう思います(それでも人手不足は否めないでしょうが)。

 政府がそれを出し渋っているのは、何より「経済の落ち込み」を心配しているからでしょう。しかし、今のような状態がずっと続くと、ヘビの生殺しのようなもので、ダメージを受けている業種はずっとそのままで、終息の見通しも全く立っていないので、動きようがないまま「コロナ死」する羽目になるのです。中途半端な「自粛」の呼びかけそれ自体が経済への深刻な打撃になっている。全然、「打撃を緩和」することにはなっていないのです。

 そもそも、経済はその前からはっきり落ち込みの兆しを見せていた。次の記事は「コロナショックで金融パニックより不動産市況の暴落を危惧すべき理由」と題された、ダイヤモンド・オンラインの小宮一慶氏の文章からの引用ですが、

 日本経済の現況を表す数字はどれも「コロナショック」により急速に悪化しています。しかし、この影響を見る際は注意しなければなりません。先ほど見た日銀短観でも分かりますが、正しくは、日本経済はコロナ禍以前の2019年から徐々に下降気味であり、10月1日の消費増税により一気に減速したところを、「コロナショック」が直撃したと認識すべきです。

 とあるように、「弱り目に祟り目」のコロナ騒動だったのです。他に、アメリカの株式バブルも、コロナがはじけるきっかけを与えたので、「コロナ本家」の中国もそれ以前から経済減速が確実視されていた。だから世界全体にとって同じようなことが言えそうなので、これは僕には西洋中世のペスト禍を思い起こさせます。それはたんに膨大な死者を出したにとどまらず、行き詰まりに達していた中世社会システムにとどめを刺す結果をもたらしたのです。

 むろん、今回の新型コロナはペストほど致死率の高いものではありません。しかし、それは経済のグルーバル化と移動手段の発達によってあっという間に全世界に広がり、それでなくても焼きが回っていた今の資本主義システムに深刻な機能不全をもたらしているのです。見た目にも衰弱した感染者が感染源になるというのなら、SARSのときのように隔離して治療すれば足りるが、「元気な感染者」がどこにいるかわからないというような状況では封じ込めは難しいから、なおさら影響は大きいし、長引く。

 折しも、地球温暖化による様々な災害が顕在化しているところです(この前のオーストラリアの大規模な山火事や、アフリカ、インド、パキスタン、そして次は中国への襲来が予測されているサバクトビバッタの異常繁殖なんかも、それが直接関係する。日本でも、異常気象は頻発して「常態」化しつつあるので、異常気象の定義自体が怪しいものになってしまった)。極地の氷山の崩落、氷河の消失、アマゾン密林の消滅、砂漠化の拡大、海洋汚染の深刻化とあれこれ重なれば、食糧生産そのものが落ち込んで、いずれ億単位の餓死者が出て、これに気候変動による大規模な自然災害が重なって、世界経済が壊滅的な状態になってしまう可能性もある。これまで密林の奥深くや、氷で閉ざされたツンドラの中に眠っていた未知のウイルスが、他の動物を介してヒトに感染し、パニックをひき起こすことも十分あると考えられている。海面上昇で多くの都市が水没するなんて話も、これに追加されるわけです。

 後で振り返ると、あの新型コロナウイルス騒ぎは「序章」に過ぎなかったということになるかもしれません。これは「終わりの始まり」だということです。コロナ一色になっている今はそんな話は忘れられたみたいになっていますが、上のような話の他にも、南海トラフ大地震をはじめとする大地震が近い将来、日本を襲う可能性は大いにあるわけでしょう? いっぺんに来られたらひとたまりもありません(それと関連してまた原発事故など起きれば最悪)が、小出しに来られてもその打撃にははかり知れないものがあるのです。

 何にしても、早く終息の見通しが立たないと困りますが、長引いている間に、僕らは「ポスト資本主義」について真面目に考えてみた方がいいかもしれません。というのも、すでに見た気候変動や自然災害の他に、そういった外的な問題が何もなくても、今の資本主義システムは深刻な内部矛盾をはらんだものになっているからです。

 これは前にも一度どこかに書いたことがあるような気がするのですが、学生時代、僕は心理学者ユングの「ヨーロッパの女性」と題された講演録を読んでいて、ショックを受けたことがあります。それは日本教文社から出ていたユング著作集第四巻『人間心理と宗教』に収録されているので、ヒマがある人は図書館ででも借りて読んでみられるといいと思いますが、そこには時代相応の彼の人種的その他の偏見もかなり混じっているとしても、ユングらしい鋭い洞察が入っていて、これは女性の社会進出と意識変化に伴って生じるであろう伝統的な結婚制度の崩壊または変容について述べているのですが、二十代初めの僕にショックだったのはそのメインの話ではなく、ローマ帝国の崩壊について述べた彼の意見でした。

「キリスト紀元がはじまる前後のイタリアで総人口の五分の三を占めていたのは、人間の形体をもっているものの市民権をもたず、物品同様売買の対象にもなった奴隷たちでした。すべてのローマ人は奴隷に囲まれて生活していました。そしてその結果、奴隷とその心理とが古代イタリアの全土に氾濫し、ローマ人たちは一人の例外もなく、無意識のうちに、精神的には奴隷にひとしい者になり下がってしまいました。つまり、奴隷の雰囲気の中で暮らしていた彼らは、無意識裡の影響を受けて、奴隷の心理に感染してしまったのです。…(中略)…ウェルギリウスの牧歌第四には、ローマ帝国の中に瀰漫(びまん)していたいちじるしいまでの憂愁と救済への憧れが感動的な筆致で描き出されていますが、かかる風潮は奴隷の影響の直接的な結果と見てよいのです」(p.274~5 濱川祥枝訳 一部訳語改変)

 ローマ帝国が分裂、崩壊へと至ったプロセスは単純ではありませんが、学校の教科書では、今でもそうかどうかは知りませんが、「ゲルマン人の大移動」とセットになっていて、それが崩壊の引き金を引いたことになっていました。ユングの見立てでは、しかし、「奴隷的心情」の伝染・蔓延で市民が無気力化し、内面的にすでに崩壊していたから、そうした外圧にもちこたえられなかった、ということになるのです。

 これも前に書いたことがありますが、今のこのグローバル文明とやらでは、古代の奴隷制が不気味に装いを変えただけで復活しつつあるように見えます。今は若者でも、いや、むしろ若者ほど、自由感は乏しくなっているでしょう。既成のシステムの中に何とかして自分のポストを見つけないと人生終わりになってしまうみたいに感じて、座席が減るばかりの椅子取りゲームに勝ち残るのに必死で、「このインチキなシステムそのものをぶち壊して、新しいものを作るのが自分たちの仕事だ」なんて思っている若者はごくごく少数でしょう。やはり手堅いのは公務員か、いや、人手不足の今は民間の大企業の方が給料も福利厚生もいい、なんて話になって、その“外側 ”に出て考えることはあまりしないのです。とにかく非正規になるのだけは避けたい、云々。

 これにはむろん、慢性不況の「失われた30年」が関係していて、昔より生活レベルはずっと上がっていると、貧乏だった昔を知っている僕などは思いますが、広々とした将来見通しのようなものは何もないのです。日本の一人当たりGDPが世界26位になってしまったなんてニュースがあって、その後それは韓国にも抜かれてしまったと報じられました。国全体のGDPは依然として世界第3位ではあるものの、いつまでその座にいられるかはわからず、労働生産性の低さはさらに有名で、イタリアより下になっているという話で、その“斜陽度”は際立っているから、なおさらそうなるのでしょう。

 しかし、問題はそれだけではない。キーワードは「格差」で、GDP世界第一位のアメリカがその典型ですが、一部の富裕層に資産が集中し、経済成長の果実もすべてそこに吸収されて、中間層は没落し、労働者は賃金奴隷に等しいものになって、貧富の差がひたすら拡大するというようなあり方が「世界標準」になりつつあるからです。都市部と、製造業が衰退して荒廃の一途を辿る地方とのコントラストも鮮明になっている。生産にも文化にも何ら貢献することがない「金融マフィア」と呼んでいい連中がマネー・ゲームに興じて、それが経済を操り、翻弄し、やり損なって損失が出た場合は税金で補填させ、というような勝手放題をやっているのも問題です。庶民層はそうした利己的・無責任な行動のあおりを食っていっそう貧困化が進むということになる。これはどう見てもまともではありません。中国のような一党独裁国家は例外として、資本主義と民主主義政体はセットになっていますが、後者は機能せず、アメリカなど、共和党と同じく民主党も大企業や投資会社、産業団体などから献金を受けて、その利害に合わせて政策決定が行われ、法律の改悪も進むので、実質的には民主主義でも何でもない。Change!を合言葉に大統領に当選したオバマなども、「相も変わらぬウォールストリート政権」と揶揄されたように、何の変化も生み出せず、一般有権者の政治への絶望感は深まっていたから、それが横紙破りのトランプ選出につながったのです。オバマもクリントンも、「リベラル」はたんなる商標にすぎず、既成システムに取り込まれて「うまい汁を吸う」エリートにすぎないことが見透かされてしまった。

 程度の差こそあれ、こういうのは世界的な問題でしょう。日本の大企業も、「国際競争力をつけるため」と称して、賃上げを抑えて、内部留保を増やし、収益の労働分配率は下がり続けている。正社員(学生時代読んだ民法のテキストには、「法律上、社員とは株主のことであって、いわゆる正社員なるものは、法律上はたんなる労務者にすぎない」とあられもないことが書かれていましたが)はまだいいとして、派遣やアルバイトなどの非正規が増え続けているので、同じ労働者の中でも格差が大きくなりすぎている。そうした中、いつ非正規と取り替えられるかわからないということになると、正社員の側としても、それがこわくて職場がブラック化しても文句が言えないわけです。むろん、大企業は全体のごく一部で、日本の場合、全雇用者の7割は中小零細企業の従業員です。毎年出るボーナス情報は、大企業と親方日の丸の公務員のそれにすぎないので、ああいうのは中小零細企業に勤める人にとっては目の毒であり、「別世界の話」なのです。

 労働者はすべて「賃金奴隷」であるとしても、賃金が低くて憲法に言うところの「文化的な最低限度の生活」もままならない人が激増しているとなれば、本物の奴隷と大して変わるところがない。年収が600万もあれば、今の日本では明らかにいい方(平均が420万で、実質的な平均と言える中央値は360万)ですが、それでも長時間労働を強いられ、家のローンに生活費と子供の教育費で大半が消えるとなると、心の余裕もなくなって、「賃金奴隷」的な性質は免れなくなる。大企業を外して、中小零細企業の社員と、派遣やパート・アルバイトの平均年収を出せば、それは悲惨なものとなるでしょう。しかし、人数的には後者の方が多いのです。

 それで、今後もこういう傾向がずっと続いたとしましょう。この文明世界には怨嗟の声が満ち満ちることになる。先のユングの引用にあった「総人口の五分の三(60%)」という奴隷の数は、今現在と較べても決して多いものではないということになるでしょう。法律的には奴隷ではないが、何の余裕もない低賃金労働者は実質的に奴隷と同じなのです。それがこのままだと先進国でも8割近くに達する可能性がある。若者はそのとき、何としてもその2割の中に入らねばと必死になるのでしょうか? 一部の財閥企業に若者が殺到する韓国なんかはすでにそうなっているように見えますが、読んでいてお気づきになったかどうか、これ自体が奴隷特有の心理なのです。

 安倍政権への追従と忖度に懸命な霞が関の高級官僚たちも完全に「奴隷の心理」になっていると言えるでしょう。彼らは下の者には威張り散らすが、これも奴隷根性のなせるわざなのです。自由な人間は他者を尊重するすべを知っているが、それを知らないわけですから。

 文明世界全体がそうなっているところに、これから各種のウイルスや天変地異、大災害が次々襲ってくると予測されるのです。当然経済情勢も悪化するが、権力と結んだ富裕層は自分の取り分を減らすまいとするから、下の層はより貧困化が進む。それではもつはずがない。ゆるぎない公正の観念をもつ、誇り高い自由人、時と場合に応じて拒絶も協力も自由にできるシチズンがいなければ、そうした難局に立ち向かい、それを克服することはできないでしょう。僕は大統領就任後、見るたびに顔つきが卑しくなっていくオバマを見ていてよく思ったのですが、あの手のエリートがいくらいても役には立たないのです。かえってこの腐ったシステムの闇を深くするだけ。独立自尊の気概をもつ誇り高い庶民がいなくなったのと同じく、権力の乱用を自制しつつ、それをよいことに使えるエリートもいなくなった。「ぼくの契約相手は国民」と言っていた正統派の公務員、赤木俊夫さんのような人は、不正を強要された挙句、ああいうことになったのです。

 形骸化の度合いがどんどん強まっているとはいえ、今の世界の多くの国は成人にはすべて選挙権を認める民主主義国家です。マスコミも発達しているし、今なら個人がネットで直接声を上げることもできる。理論上は、おかしなことをやらかす政治家は選挙で落とせるわけです。また、政策や立法化のプロセスは不透明ですが、これもおかしなところが見えれば、マスコミはちゃんとそれを調べて報道する義務がありますが、反対して潰すことができる。そうすれば、この社会システムとその運用の仕方を変えてゆくことは十分できるということになります。

 去年、大学を出て新聞記者になった元塾生と話をしていて、新聞も今は部数の落ち込みで深刻な危機に陥っていますが、むしろ若手の方が危機感があって、旧態依然たる上層部は使いものにならなかったりするようですが、今の若い人の欠点の一つは無茶ができないことで、無茶ができないから突破力もないのではないかという話になったことがあります(彼自身は、一見地味だがよい記事を書く、調査報道の重要さを認識するすぐれた記者です)。

 たとえば、と言って、僕は高校の話をしました。最近はかなり改善してきましたが、ここの「延岡の高校」コーナーの記事にあるように、「それは何なの?」ということが多くて、僕は見ていてイライラさせられたのですが、生徒たちが話し合って団結すれば、学校と正面から渡り合って解決できるはずのことがいくつもあるように見え、自分が高校生のときなら、そうしたのではないかと思うことが多かったのです。とくにあの朝課外なんて、全員でボイコットしてしまえばいっぺんに解決がつく。それで教師側がとやかく言ってくれば、切り返して論破して、それでおしまいです。いっとき波風は立つが、その程度のことは大したことではない。ところが、不満はあって陰でボソボソ言うだけで、それができないというのは何なのか? パワハラ・暴言教師の類にしても、正面からクレームをつければ、相手は引き下がらざるを得ないのです。但し、生徒が一人孤立したかたちでやっても相手は学校という権力を背景にしているのだから負けてしまう。そういうので、僕は負けたことがありませんが、言い合っているのは僕と教師でも、当時は背後にクラスメートたちの暗黙の支持があったので、教師は聞き入れざるを得なかったので、せいぜいが職員室に帰ってから、担任に「あの生意気な生徒は何だ!」と当たり散らすのが関の山だったのです。朝課外なんて非常識なものはその高校にはありませんでしたが、仮に導入しようとしても、生徒側が一致団結して阻止したにきまっているので、僕は下の学年の左翼政治思想にかぶれた「運動(その背後に日教組の問題教師がいた)」には共感できなかったので、そういうのには賛同しかねましたが、常識や合理的思考に基づいて「これはおかしいのではないか」ということには声を上げて、それは通るのが当たり前だと思っていました。

 そういう感覚が今の高校生には乏しい。それは君らのときからそうだったよねと言ったのですが、考えてみれば、これは今の社会全体について言えることで、若者だけの問題ではありません。なぜだかわからないが、既成のシステムなり決まりには、抵抗しても無駄で、馬鹿を見るだけだという諦めというか、無力感が先立つのです。権力者が専横なふるまいを見せても事なかれ主義的に受け入れる。

 こういうのも「奴隷心理」の一つと言えるので、初めから抵抗は無駄だと思っていたら、変えたりはねのけたり、できるわけがありません。選挙のたび、「清き死票」を入れに行くことが続いているので、僕もいい加減イヤになることがあるのですが、投票率が5割を切ることは珍しくとも何ともなくなっているので、これは半分以上の人が参政権を放棄していることになります。これは組織票が多い自民・公明の連立政権にとっては甚だ好都合なことですが、魅力のある野党候補がいないこともさることながら、投票率が上がること自体が政権政党にとっては大きなプレッシャーになることを考えると、やはりまずいでしょう。それは「政治不信を象徴している」なんて言っても、彼らには痛くもかゆくもないのです。前に、今は「オリンピックじいさん」になっている森喜朗が総理大臣だった時、「無党派層は(投票日に)家で寝ててくれ」と言ったというので、非難にさらされたことがありましたが、それが彼らのホンネなのです。

 政策についてはどうか? このうち新法について言うと、国会が立法府で、法律はそこで作られるのですが、その法案は官僚たちによって作文され、内容決定のプロセスにはしばしば利害関係者の「魔の手」も入り込んでいます。最もそれが露骨なのはアメリカで、例の「オバマ・ケア」なども、保険会社、製薬会社の回し者がその法案作成に関与して、すっかり骨抜きにされてしまったのだと伝えられますが、議員たちも専門用語たくさんの法案の中身をほとんど理解しないまま、それを通してしまうのです。国会での「審議」なるものは形骸化していることが多い。

 日本の例を一つ挙げましょうか。昨年10月1日、「改正水道法」なるものが施行されました(成立・公布はその前年12月)。国会に提出されたその「改正案」なるものは次のとおりです。

水道法の一部を改正する法律案

 皆目意味がわかりませんが、国会議員の先生たちにもわからないでしょう。ところがこれが大問題で、政策コンサルタントの室伏謙一氏が次のような批判を書いています。

水道法改正が「民営化」でないばかりかタチが悪い理由

「水道民営化」と誤解する人も多いが、これはいわゆる「民営化」ではない。しかし、実態は「民営化」よりもタチが悪いものだ。

 として、その説明をしてくれているのですが、その説明自体がわかりやすいとは言えない。しかし、そのポイントは次のようなところでしょう。

 民間企業が「オイシイ」ところだけもっていき、尻拭いは住民の負担や税金。これが水道コンセッション問題の本質というところであろう。
 要するに、民営化ではないが、「困ったときの公的資金」とばかりにリスクを極力地方公共団体に寄せることができる分、民営化よりタチが悪いということだろう(むろん、インフラごと民間に売り渡す民営化など論外であるが…)。

 要するに、それはたんなる「業務の民間委託」とは違うので、(金融資本とグルになった「水メジャーと呼ばれるグローバル企業」が入り込んで)国民の生命に関わる大事なインフラを金融投機の対象にしようという話であり、言ってみれば「インフラの金融化」である。


 僕がこれで「ついに日本もアメリカに追いついたな」と笑ったのは、「水道などの公共部門で民営化を推進している内閣府民間資金等活用事業推進室で、水道サービス大手仏ヴェオリア社日本法人からの出向職員が勤務していることが29日、わかった」(朝日 2018.11.29)と報じられたことです。「この日の参院厚生労働委員会で、社民党の福島瑞穂氏が指摘し、推進室が認めた」ということだったのですが、「同室は『浜松市なら問題だが、内閣府はヴェオリア社と利害関係はない。この職員は政策立案に関与しておらず、守秘義務なども守っている』として」それを斥けたとのこと。アメリカあたりでは全くありふれたことなので、「だから日本は遅れているのだ。サヨクは黙れ!」で片づけられたのです。

 この件で思い出されるのは、南米のボリビアで、水道民営化による値上げに抗議して住民が暴動を起こし、それを撤回に追い込んだという有名な事件です(それに関するドキュメンタリーを僕は見たことがあります。ウィキペディアにも「コチャバンバ水紛争」としてそれについての詳しい記事が出ている)。他の国でも、いったん民営化したものの、水道料金の暴騰や不祥事で、公営に戻されたものが多い。つまり、水まで食い物にする「グローバル企業」の悪だくみはすでに十分明らかになっているのに、何でそんな売国奴的なことを今頃あえてするのか、ということです。

 これにはあの麻生、副総理の麻生がからんでいて、「麻生 水道」で検索すると、「怒りの告発」みたいな記事(中にはいくらか怪しげなものもある)がたくさん出てきますが、もう一人、揺るぎない民営化推進論者で、非正規雇用の激増にも大貢献した、「アメリカ資本の使い走り」として有名なあの竹中平蔵(派遣会社パソナ取締役会長)あたりも一枚噛んでいることがわかって興味深いのです。とにかく、こういう連中が水道法の改悪に邁進して、新法ができ、去年10月、正式に施行されたのです。日本も素敵な国になった。

 しかし、今のところ日本の自治体で公営水道をやめるというところはほとんどないので、これにはネットのそうした多くの記事も関係しているだろうと思います。多くの住民が「コンセッションだか何だか知らないが、それはとんでもなさそう」だと思って、大反対が起きるだろうことを自治体は察しているからです。だからおかしなものが成立しても、騒ぎ立てることによって、その実施を思いとどまらせることはできる。「草の根民主主義」もまんざら捨てたものではないことがわかるのです。

 要するに、何を言いたいのかと言えば、投票行動によって「おかしなことをすると落とすぞ」と政治家に脅しをかけ、今のマスコミのていたらくは嘆かわしいものですが、ネットを通じて個人でマスコミがあまり取り上げないことでも発信して、行政・立法について物申して、それで賛同者が増えれば、それは無視できないものになるので、かなりのプレッシャーを与えることができるということです。

 それには諦めや無力感という「内なる奴隷心理」と戦わねばならない。誰か強力な、「おまえらは何も考えなくていい、黙ってオレについてこい」と言ってくれるようなリーダーが出現して、導いてくれればいいのにと思うことは、「奴隷メンタリティ」そのもので、それはヒトラーの再来を願望するのと同じです。その結果、どうなるかと言うと、僕らは前よりもっとひどい「奴隷状態」に落ち込むことになってしまうでしょう。

 それには国民の方も勉強しなければならない。枝葉末節的なことに目を奪われ、「木を見て森を見ず」の衆愚政治に落ち込まないようにするにはそれしかありません。僕はときたま塾の生徒たちに、「今の君らは幸せだよ」と冗談めかして言うことがあるのですが、それは他の貧しい国々や、政情不安でいつ命を失うかもしれない国の人々よりは問題があってもマシだという意味ではなく、今の社会、この文明は崩壊しかけているからです。若い頃、僕は「このインチキな社会は変えないと駄目だな」と思いましたが、一体どうしたものか方法がわからなかった。僕は左翼でも右翼でもなく、そもそも政治イデオロギーというものを信じませんでしたが、ああでもないこうでもないと考え続けているうちに無駄に年だけ食ってしまった。そもそも相手が強大過ぎて、太刀打ちできるはずもなかったのですが、今は完全な行き詰まりに達していることが誰の目にも明らかになりかけているので、その分、変化への抵抗も少なくなっているはずです。最大の困難は、「では、どう変えるか?」ということで、その方向性、ヴィジョンですが、「完全崩壊」までにはまだ少し時間がありそうなので、今のうちにしっかり勉強して、たんに後ろ向きに沈みかけた泥船に適応するのではなく、その代わりになるものを模索してもらいたいのです。全体的なヴィジョンは天才でも無理でしょうが、「ここはこう変える必要がある」という意見を持ち寄ってその実現の方途を考えれば、いい青写真ができるかも知れない。

 コロナで活動の自粛を強いられている今は、それを考え始めるきっかけにできるのではないかと思うので、大学生なんかはとくにそうでしょう。問題山積の今、考える材料はそこらじゅうにあって、今ここに書いたことにも「今の文明や社会の何が問題か?」ということの一端は示されているはずです。今の若い子たちの悪い癖として、自分ではろくすっぽ考えないまま、「じゃあ、どうすればいいんですか?」と安易かつ反射的に訊く点が挙げられます。それも奴隷化への傾斜を示すもので、かつて哲学者の田中美知太郎は、人生いかに生くべきかという問いに対する答えは、自動販売機にコインを入れれば商品が出てくるようなものではないと言いましたが、それにかぎらず、問題という名に値する問題はすべて、かんたんに答が出ないからこそ問題なのです。こういうのは「センター試験病」みたいなもので、人間は悩むべきときには悩まねばならない。それが自由な人間の特性でもあるのです。
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