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大学入試新テスト「記述」推進者に見る“東大話法”

2019.12.21.16:15

 新しい「大学入学共通テスト」なるものは“挫折”が続いていて、英語の民間試験導入の見送りに続いて、国語と数学の記述式も見送られ、「ゼロから見直す」方針が萩生田文科相から示されたそうです。まずはよかった、受験生、という感じですが、文科省やこれを推進してきた学者先生たちの面目は丸潰れで、マスコミ報道が間違っていたからこうなったというような責任転嫁発言をしている先生もいます。以下は、「この大学入試改革を構想し、陣頭指揮を執ってきた…東京大と慶應大SFC(湘南藤沢キャンパス)の教授を務める鈴木寛氏」へのインタビュー記事です。

大学入試のマークシート偏重に識者「将来の失業者量産」危惧

 突っ込みどころ満載の記事で、ふつうの「読解力」と「リテラシー」さえあれば、高校生でもこの先生が論理の詐術にふけっているだけなのはわかるのではないかと思います。「考える力」がなくても、詐欺的なロジックを操る力さえあれば、今の東大や慶応の教授(ほんとに両方を兼務しているらしい)は務まるのかと、皮肉の一つも言いたくなります。学生がかわいそうなので、もっとマシな学者を雇った方がいいのではありませんか?(東大はこの前も、特任教授だか何だかが「不適切発言」をして騒ぎになったばかりです。)

 引用しつつ、順にコメントしていきましょう。

 マークシート試験というのは、「人から与えられた選択肢の中から、一つ一つ重箱の隅をつつくように間違いを探して、消去法で正解を選ぶ」という試験です。だから、マークシート試験の訓練をしていると、ミスや欠陥を見つけるのが速くなる。解答が1段ズレたら0点になるから正確さも求められる。これまでの工業社会では、マークシートで測れるような能力が必要とされていました。工場の生産ラインでは機械が製造をしても、製品の欠陥を見つけるのは人間の仕事だったのです。今まではそういった仕事が他にもたくさんありましたが、シンギュラリティの時代にはAIに取って代わられるのです。

 ややこじつけ気味ながら、一般論としてはそうも言えるかなという感じで、このあたりはまあいいとして、問題はここからです。

 だから、新しい学習指導要領や大学入試改革は、AIを使いこなし、AIにはできない、人間にしかできない能力をいかに身につけさせるかを主眼に置いています。また、学習指導要領でも「言語活動の充実」を掲げ、「書くこと」「読むこと」を重視してきました。にもかかわらず、“入試に関係ない”多くの高校の現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした。もちろん、東大や京大、一橋大など国立のトップ校の二次試験や、私立でも慶應大の入試では以前から記述式を導入しています。こうした大学を狙う受験生は“入試に関係ある”ので、思考力や判断力、表現力などを伸ばす勉強を熱心にしてきました。しかし、これまで国立大の約半分と慶應大以外の私大はマークシート試験のみだったのです。

 揚げ足を取るようですが、「国立大の約半分と慶應大以外の私大はマークシート試験のみ」というのは嘘で、国立で二次の学科試験があるところはふつう記述式が入っているでしょう(昔から)。私立も、今は英作文だけ記述式にしたり、下線部訳を書かせる問題を含めるなど、可能な範囲で対処している。

「“入試に関係ない”多くの高校の現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした」というのも意味が不明確で、入試に「記述式を導入して」いる「東大や京大、一橋大など国立のトップ校」や「私立でも慶應大」などを受ける生徒は、「“入試に関係ある”ので、思考力や判断力、表現力などを伸ばす勉強を熱心にしてきました」ということになっているので、文脈から判断して、それ以外のいわゆるフツーの大学を受験する生徒は「“入試に関係ない”」方にカウントされているようです。

 意地が悪いと言われるかもしれませんが、こういうふうに、東大と慶大の両方の教授を務めるというこの大先生の仰ることには、何となく論理の体裁は取っているものの、何を言っているのかをあらためて考えると、著しく明確さに欠けるところがあるのです。

 それで、“非名門”大学への進学者が多いフツーの地方の県立高校などは「“入試に関係ない”多くの高校」に入り、そうした高校の教育「現場では記述・論述に力が入れられてきませんでした」という意味なのだと解釈してみましょう。この「記述・論述に力が入れられて」こなかったという言葉も、それは具体的にどういう意味なのかは不明で、どこの高校でも、教材はマーク式問題集ばかりで、定期試験もマーク式だけ、というような話は聞いたことがありません。げんに僕が塾で相手にしている高校生たちが通う学校では、ふつうに定期試験は記述式です。授業でも、マーク式の問題ばかり解いているわけではない。

 問題点は別のところにあって、試験の形式は「記述式」でも、しばしばそれが「暗記したことを書く」だけになっているのが問題なのです。塾の生徒に、英語の定期試験の範囲で疑問点があったら質問していいよと言うと、彼らは「ただの暗記ですから」と笑って言います。応用力を問うのではなく、ただ暗記したことを書かせる。そういうつまらない試験を作るのは大学入試とは無関係で、多忙なせいかどうか知りませんが、今の先生たちにはそういう工夫がないのです。

 僕の塾の授業は長文読解がメインですが、英文法や語法が弱い生徒相手に、市販テキストを教材に使って教えることがあります。それで単元ごとに確認テストを作ったから復習しておいでと言うと、彼らは学校の定期テストのときと同じ要領で丸暗記だけしてくるのです。ところが、そのテストプリントを見ると、同じ問題ではない。前にそれを見て「エグい!」と叫んだ生徒がいて、笑ったのですが、僕が見ようとしているのはやったことをただ暗記しているかどうかではなく、それを理解しているかどうかなのです。同じ問題でなくても、説明をちゃんと聞いて、それを理解し、応用できるようになっていれば解ける、そういう問題を作っているのです。そういうふうにするのが勉強というものなので、理解なしの機械的な丸暗記なんて、何の役にも立ちません。そういう勉強の仕方では駄目なのだということを、頭を使うとはどういうことなのかをおわかりいただくために試験はあるのです。今の学校は、名門高校などでは違うのでしょうが、そうはなっていないことが多い。それは大学入試のありようとは無関係です。また、記述になっていればいいというものではないので、僕が作るそれにはむろん四択問題も、並べ替えも、空所補充もあります。暗記したことを書くだけなら、記述には記述の意味がなく、逆にマークだからといって考える力が問われないということもない。形式だけ見てとやかく言うのはナンセンスに近いのです。

 とりあえず、次に進みましょう。

 そこで、記述式導入について大学入試改革では3本の柱を立てました。1本目は、国立大はすべて二次試験を記述式にする。これで国立大学はこれまで4割だった記述式試験の割合が9割にまで上がった。2本目は、私学の雄である早稲田大学が記述式に変える。そういう改革を強くお願いし、早稲田は自発的な判断で、記述式導入に留まらず、文系でも数学を必須にし、英語も4技能(読む、書く、聞く、話す)を問う試験に変えるなど、入試の大改革をしました。予備校の私大受験指導は早慶受験が基準になるので、早稲田も記述式になると予備校の指導はガラリと変わります。最後の3本目が、共通テストでの記述式導入です。

 この3本柱の内、国立大と早稲田大学の2つについてはほぼ達成できました。都市圏では早慶、地方では国立大の影響が大きいので、そうした大学に生徒を送り出す高校の学びは大きく変わるでしょう。しかし、問題はやはり早慶以外の私大です。早慶は独自に記述式試験を実施する体制も能力もありますが、他は難しい。このままだと他の私大を受ける受験生は、相変わらずマークシート向けの受験勉強をすることになる。だから、3本目の柱として、私大も利用する共通テストに記述式を導入しようとしたのです。


 おやおや。今度は自分の働きかけのおかげで、「国立大学はこれまで4割だった記述式試験の割合が9割にまで上がった」とのたまうのです(ほんまかいな)。それなら、センターに記述式を導入する必要はもうなくなったわけです。違いますか? 次も笑えます。

「2本目は、私学の雄である早稲田大学が記述式に変える。そういう改革を強くお願いし、早稲田は自発的な判断で、記述式導入に留まらず、文系でも数学を必須にし、英語も4技能(読む、書く、聞く、話す)を問う試験に変えるなど、入試の大改革をしました」

 今年の段階ではまだそうはなっていませんが、早稲田は政経で2021年度から数学を必須にすると発表しています。それのことなのでしょう。しかし、それはこれからの話だし、今のところそれは政経だけで、数学能力が必要な商学部あたりならまだしも、たとえば文学部が数学を必須にするなんてことはまずないでしょう。また、早稲田が入試を全面的に記述式にするなんて話、聞いたこともありません。受験人数の多さからして、それはまず不可能でしょう。言うことがいくらか出鱈目すぎるのではありませんか?

 ついでだから訊きますが、早稲田は条件英作文など、ごく一部に書かせる問題はあったものの、昔から記号選択方式です。低級知能パズルじみたそれを、僕の時代もウンザリしながら解かされたのです。僕は法学部でしたが、難解として悪名高かった国語の問題など、予備校によって記号問題なのに、正解とされるものがマチマチになっているケースも珍しくなくて、しばらく前の入試問題にも問題文に面白いのがあったので、ついでだから難関国立文系志望の生徒に解かせたのですが、三つの大手予備校の答が全部違う設問があって、「そんなことってあるんですか?」と生徒は驚いていましたが、どれが大学側によって正解とされているのかは謎なので、最低点スレスレの受験生だと、純然たる運が合否を分けることになるわけです(大方の設問は正解の判断も一致するので、実力のある生徒ならその程度で合否が左右されることはないでしょう。僕がやらせた生徒もよくできていました)。

 話を戻して、何を言いたいのかと言うと、僕らの世代も記述式の試験を受けていないわけですが、だからといって当時は記述能力に乏しくて、文章を書くのが苦手だなんて学生はめったにいなかったので、早稲田のOB、OGは物書きやジャーナリストがやたらと多いことからしても、「マーク式の試験で入ったから、記述能力が低い」なんて因果関係は成立していなかったわけです。いや、早稲田の学生は昔は東大落ちが多かったから、そのおかげで記述力があったのだ、なんてのは嘘で、そうでない学生も試験とは無関係に記述能力はもっていた。げんに僕は文章能力がないなんて、子供の頃から一度も言われたことがありません(だから英語や国語の場合、東大京大の記述問題にも対応できた。マーク式だからではなく、数学が苦手だからとか、科目が少なくて済むから私立にしたという学生が、今は知りませんが、昔は多かったのです)。今の受験生の記述能力が低下しているとすれば、それは別の要因によるのです。

 続けましょう。「早慶は独自に記述式試験を実施する体制も能力もありますが」と持ち上げておいた後で、「このままだと他の私大を受ける受験生は、相変わらずマークシート向けの受験勉強をすることになる。だから、3本目の柱として、私大も利用する共通テストに記述式を導入しようとしたのです」というのも論理のペテンで、それは国立受験生がスベリ止め用に受ける「センター利用」のことを言っているのでしょうが、それで入る生徒はごく僅かで、主力は大学別の個別試験(センター利用はハードルが高いので、国立の併願組でもこちらを受けることが多い)なので、新テストに記述式を入れたからといって、私立第一志望の受験生には関係がないのです。

 ここまでで、すでにして彼の論理はすべて破綻している。国立は二次に記述があるから、共通テストに記述式を入れる必要はない。私大だけ受ける生徒は、共通テストは関係ないから、それに記述を入れようがいれまいが、影響はないわけです。

 大体、前に筑駒生の記述式批判の記事を引用しておきましたが、新テストご自慢の記述式自体が、体裁が記述式になっているだけで、機械的な「当てはめ」能力を問うものでしかないのです。まさにそれこそが「AIにとって代わられる能力」なので、意味はない。記述式=考える力が問われるという図式自体が、安直かつ機械的すぎるのです。

 僕が問題だと思うのは、この程度のオツムの先生たちが入試制度いじりに暗躍しているということです。この人、東大法学部を出ているそうですが、中学レベルの数学もおぼつかないらしいのは、次の文を見てもわかります。

 大学への進学率は現在5割ですが、2割がトップとして、トップ校だけでいいとなれば(AI時代は)8割が失業することになる。しかし、共通テストに記述式を導入すれば、高校の校長たちが強くその重要性を意識し、大学受験生が学ぶすべての高校の教育が変わり、進学せずに高卒で就職する人たちも含めて恩恵を受けられる。すべてとは言いませんが、全体の8割くらいに影響が及ぶはずです。

 これ、どういう計算になっているのでしょうか? 5割のうちの2割(そう解釈しないとトップが多すぎることになる)ということは、残り5割は大学進学しないのだから、全体から見れば1割でしょう。そうすると9割は失業するということになります。次の、「大学受験生が学ぶすべての高校の教育が変わり、進学せずに高卒で就職する人たちも含めて恩恵を受けられる」というのも意味不明です。商業、工業など、大学進学者が少なく、大学受験を前提にした指導をしていない学校が、どうして大学進学共通テストの記述式の恩恵を受けるのでしょう? 公立の場合は、普通科、職業科の学校を教師が行き来するから、校長や教員の側の「意識改革」が起きて、それが全体に波及するとでも言いたいのでしょうか?

 大体、あの程度の「記述式」が何かを大きく変えることはないわけで、よくもこんな誇大妄想的なことが言えるなと感心します。その後、「採点のブレ」批判に反論を試みた箇所で、フランスのバカロレアの話が出てきますが、新テストのつまらない添え物の「記述式」と、あれは全然異質のものです(説明はネットにも出ているでしょうから、各自お調べください)。こういう緻密さゼロのお粗末な議論を得意げにしている鈴木教授があれを受験すれば、悲惨な点数になってしまうのではないでしょうか。フランスのリセには授業に哲学があって、バカロレアにも含まれているようですが、とくにそれで目も当てられないことになってしまうでしょう。

 次のこれも、感心しかねる議論です。

 それと、面白い話を聞きました。私も、最初、「バイト?」と思ったときがありました。担当者に聞いてみると、民間の模擬試験会社は何十年も模試をやってきて、様々なノウハウを持っています。これまでも、教員OBや現役の教員、大学院生、大学生のバイトを雇って長年にわたり採点をしてきたわけですが、実は、もっとも採点のブレが小さいのは、「優秀な大学の大学生」だそうです。高校の時から記述式試験のための勉強をしっかりやって難易度の高い入試を突破してきた学生ですし、教員と違って指導経験がない分、採点基準を忠実に守るそうです。高校教師は、自分が教えてきた生徒のレベルに引っ張られてしまい、採点基準で示しても、独自の基準で採点してしまう人も多いそうです。なので、バイト云々よりも選抜と研修が重要だそうです。なるほどな、と思いました。

 僕はかねて生徒たちに、「模試の採点と二次本番の採点はかなり違うよ」と言っています。記述式模試の採点基準なるものはかなり機械的です。バイトを使うとなるとマニュアル化しないといけないからで、要素としてこれとこれとこれが入っているか、とか、部分をチェックして、文章が全体としては成立していないようなものでも、そういうのが入っていればかなりの高得点がもらえるようですが、本番ではそうはいかないだろうと見ているからです。そのあたりはよくわかりませんが、「予備校の解答と全然違うんですけど」と入試後生徒が言ってくるとき、どんなふうに書いたのときいて、「君ので大丈夫だよ」とか、「それはちょっとズレすぎだね」「日本語として成立していないからまずいね」と答えたりするのですが、後で得点開示で知らせてもらった点数を聞いて、自分の見積もりに近かったということが多いので、ある程度読みは正しいかなと思っています(難易度がそう高くない大学だと、採点が甘くなって、僕の採点より得点が高く出ることが多い)。そういう意味で、僕は模試の採点を全面的には信用していないので、「この子はいい日本語書くなあ」とか、「頭が緻密で、まとめるのがうまい」とか思う生徒は、たいてい二次の成績もいいので、本番の採点の方が全体をよく見ている印象を受けるのです。

 二次の記述式の場合は、その大学の先生たちがそれぞれ心血を注いで採点業務に当たり、いわゆる「筋のいい答案」とそうでないものとを見分けて、それにふさわしい点数を与えるようかなりきめ細かく対応しているでしょう。僕自身はそういうマニュアル化が難しい点に記述問題採点の命が宿っているように思うので、マニュアル化された模試の採点を基準にしてどうのこうの言うのは説得力に乏しいと感じられるのです(50万人分の答案を相手に、高度なことは初めからできない)。

 要するに、自分の保身のために無責任な思いつきを並べ立てているだけ、というのがこの先生の言い分を読んだ僕の印象です。僕自身は、前からここでも言っているように、よけいな代わりの新テストを作るのではなく、センター試験そのものを廃止してしまえばいいと思っています。国公立も共通一次以前の大学別の個別試験だけにすればいいのです(当時は東大だけ独自の一次試験をやっていて、それは今のセンターよりずっとマシなものだった)。そうすれば、センター対策、二次対策と分けて、受験生が無駄に多忙になることも少なくて済むわけで、そちらの方がよほど合理的です。その場合、国立でも文系は理科なし、理系は社会なしという大学があってもいい。あるいはICUみたいな教科横断的な総合基礎学力テストに、重要教科だけ本格的な試験を課す、というのでもいいわけです。大学院の試験のような英語と目方のある小論文による入試も可。そこらへんは大学に大幅な裁量権を与えるのです。

 しかし、そこまでは今の状況を見るとなかなか踏み込めないでしょう。だったら、これまでのセンター試験で何が悪いのかということになるので、中途半端なおかしなことをやるより、そのままにした方がずっとマシなわけです。

 私大はマークだから駄目(私立のみ受験する生徒は将来AIにとって代わられて確実に職なしになる?)という議論についても、ものは考えようなので、彼らは受験科目が少ないから、国立受験組が多科目の勉強に追われる中、好き勝手本を読んだり、考えごとをしたり、ネットで調べ物をしたりといったこともできやすいわけです。それをすれば問題ないので、他科目の受験勉強で手いっぱいの国立受験生より、そうした活動を通じて読解力、記述力をつける機会はむしろ多くなると言えるかもしれない。

 全般に、今の高校生の読書量の少なさにはかなり驚くべきものがあるので、だから大学生も本を読まなくなっているわけです。こういう傾向はすでに90年代には歴然としていましたが、今はそれがもっとひどくなっている。それで記述力、文章力がつくわけはないので、原因は試験がマーク式だからではなく、本を読まないからです。昔の受験生は、少なくとも一定レベル以上の大学を受験する生徒は、受験とは別個にかなりの量の本を読んでいた。背伸びをして、かなり難しいものも読んでいたのです。だから試験がマークであろうと何だろうと、そんなこととは関係なく、読解力、記述力があった。

 英語に関しても、ある程度基礎ができれば、興味のある分野のペーパーバックを読んだり、対訳本を読んだりしていたので、そういうことが学力の底上げにつながった。今の時代だと、洋書は安くなっているし、インターネットで外国の新聞も読めるし、ニュース映像も見られる。Youtube で英語字幕、日本語字幕付きの良質なドキュメンタリーを視聴することもできるし、DVDでもネット配信の映画・ドラマのサイトでも、自在に字幕の切り替えが可能で、どこかのサイトに英文でメールを書けば、返事が返ってくるのです。その気になれば、スカイプ(無料)で外国人と直接会話もできる。そういうのとうまく付き合うことができれば、いわゆる「四技能」も自然に向上するでしょう。非常に恵まれた環境の中に今の子供たちはいるのに、それがほとんど活用できていないのです。

 大きな原因の一つは、今の過剰管理の学校にあります。最近は廃止するところが増えていますが、九州地区の公立普通科高校には、朝課外なんて傍迷惑なものまであって、生徒を寝不足にして学習効果を下げるだけだからやめろと言っても、まだしつこくやっているところがあるのです(九大はこれを問題視しているらしく、2009年、2018年と、二度にわたって「睡眠不足の深刻な害」を説く英文を出題した)。これに「君らはオリンピックの強化選手か?」と言いたくなるような長時間部活が加わり、宿題もどっさりということになると、他に何をする時間もなくなってしまう。夏休みなんかも、夏課外なんて有難くないものがあって、半分か、ひどい場合は三分の一に削られるのです。

 それで、学校の授業が退屈極まりないものだということになれば、生徒を無駄に疲弊させ、学力の伸長を妨げているだけということになる。最近は減っているようですが、これに教師のパワハラまで加わると最悪で、そんな学校ならない方がマシだということになってしまうのです。こういうの、センターに記述があるかないかとは何の関係もない。

 だから、鈴木教授のような、学校が大学受験指導を丸抱えするのが当然みたいな前提の議論は、それ自体が問題含みと僕には思えるのです。生徒たちにもっと自由な時間を与えるべきで、そうすれば彼らはもっと自分で工夫して勉強するすべを身につけるでしょう。今の子供たちは自由な野遊びが足りなかったことや早い時期からの塾や習い事が災いしているのか、自分で工夫するすべを知らず、何でもすぐに「どうすればいいですか?」とききます。これに加えて、学校の方は聞かれてもいないのに、ああしろ、これをやれと先走って指図するのです。しかも、しばしばそれが一貫性のない、混乱したものでしかない。それでは「自分で考える力」などつくはずがない。むしろひたすら低下するのです。今の学校は「AIにとって代わられる人材」の量産に一路邁進しているわけです。これはその下の中学、小学校も基本的に同じです。僕はわが子が小学校低学年の頃に、母親がうるさく言うので仕方なく参観授業というのに出たことがあって、そのとき見た光景から、これは「悪しき家畜化教育」以外の何物でもないなと思い、危機感を覚えたので、その影響力を殺いでわが子の「家畜化」を防ぐことにひそかに意を用いてきました。学校も親も権威視せず、野生動物らしい自由に感じ、考える能力を維持し、育てるようにしたつもりですが、概してそれは成功したように思われるのです(その結果、ものおじせず単身どこにでも出かけていく人間になったのはいいが、西洋古代史なんて、「AIにとって代わられる」以前に、この実用重視の時代にはそれ自体が消滅しかねない分野を研究する“絶滅危惧種”になってしまったのですが)。

 昔も学校は退屈なところでしたが、今ほど余計なお世話はしなかったので、そこに大きな取柄があった。「学校教員のブラック職場化」が話題になる昨今、むしろ活動を縮小するのが望ましいと言えるでしょう。学校に子供を長時間縛りつけることをやめ、基礎だけしっかり教えることに注力し、あとは聞かれた時には適切なアドバイスができるだけの情報と教養をもち、生徒に勝手に勉強させた方がいいのです。とくに英語の勉強など、先に述べたように、今のネット環境では豊富な教材があるのです。学校の刺激に乏しい下手クソな授業(失礼!)と長時間拘束のせいで、そういうことが何もできなくなってしまうというのでは本末転倒で、生徒の足を引っ張っているのと同じなのです。

 生徒や保護者も、学校に過度な期待をもちすぎるのが悪いので、勉強も自分で工夫してやるすべを学ばなければならない。それこそが「将来AIにとって代わられない」人間になる方法なのです。むやみと権威に弱くて、鈴木教授のような人の議論のインチキ性も見抜けないようでは、見通しは暗いでしょう。

 そろそろ終わりにしようかと思ったら、上のインタビューの第二弾が出ていて、これもかなり笑えたので、それに触れて終わりにします。

大学入試改革が頓挫か キーマンが明かす「抵抗勢力の正体」

 詐術的な論理がここでも全開ですが、次の箇所を見て、僕は思わず失笑しました。

 だからもう、全国規模の改革は諦めて、全国一律のセンター試験を廃止し、各大学が独自に入試を実施する方式にすればいいのではないかと思います。学習指導要領を大括り化し、センター試験をやめるという案はありました。これにも、全高長は反対。大学ごとの入試になれば生徒の個別指導をどうしていいかわからず不安だからではないでしょうか。とにかく現状からビタ一文変えさせないのです。

 前の部分は、僕がかねて言っていることと一致します。新テストの添え物「記述」に意味がないことはすでに述べたので繰り返しませんが、それなら初めから廃止に舵を切って、愚劣な折衷案など出さなければよかったわけです。適当な思いつきをベラベラしゃべる御仁(ついでですが、「ビタ一文負けない」という表現はあっても、「ビタ一文変えさせない」なんて日本語はありませんよ)なので、こういうのも「都合が悪くなったからこう言う」みたいな感じで、信用はしかねますが、彼の語り口は福島原発事故のとき安冨歩・東大教授(出身は京大ですが)が指摘された「東大話法」を改めて思い起こさせます。次のウィキペディアの記事の「東大話法規則一覧」をご覧になって、この鈴木大先生の論法がいかにそれによく一致するかをご確認ください。知的誠実さも頭脳の緻密さも持ち合わせない、この程度のセンセイたちを入試改革や教育問題に関与させるのは、もういい加減にしなければなりません。かかる無責任な制度改悪は、原発事故に劣らないほどの「教育大惨事」かもしれないのです。

東大話法

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