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何のための教育?

2019.10.20.17:10

 タイトルを見て神戸市須磨区の公立小学校の「教師間いじめ」の話だと思った人がいるかもしれませんが、ああいうのは程度が低すぎて論外です。幼稚で品性下劣な、あの四人のクズどもは刑法の規定に即して法廷で裁き、「初犯」として執行猶予が付くでしょうが、有罪は認定されると思うので、懲戒免職にして、二度と教育に携わることがないようにすればいい。一罰百戒で、似たようなレベルの教師たちも「明日はわが身」と自然に行いを慎むようになるでしょう。その程度のけじめもつけられないようなら、教育委員会はない方がいい。

 今回論じるのは別の話で、先日こういう記事が出ていました。

中国人が「日本人のノーベル賞受賞」に大騒ぎする理由

 韓国も毎年大騒ぎしますが、国民性が違うせいか、その「騒ぎ方」の性質も微妙に違っていて、こちらの方が「ゆとり」があるようです。そこには素直な賞讃の気持ちがまずあって、日本に対する批判は批判として別に行う。「畜生、今に見てろ!」みたいなせせこましい悪感情が先行しているわけではない。共産党一党独裁の中国がいい国かどうかは問題で、今の「香港騒乱」でも、世界が注目しているから、いきなり戦車を出して制圧なんてことはできないが、本来は平気でそんなこともやりかねない国で、だから恐ろしいのですが、国民の全般的な気風としては大陸的なおおらかさのようなものがまだ残っていて、それがこういうところに表われるのかもしれません。

 これに先立って、次のような記事もありました。こちらでは「日本に代わって中国が台頭し、日本は五年に一度に対し、中国は毎年受賞者を出す」ようになるだろうという見通しが示されています。科学界でも今度は中国が存在感を示すようになるだろうというのです。これはデータに基づいた議論なので、かなりの信憑性がある。中国では、しかし、それをそのまま引用して舞い上がるというようなことはなくて(韓国ならそうなるでしょうが)、ああいうのは日本人の「低姿勢な」国民性によるものなので、額面通り受け取ってはならない、という捉え方をするのです。

日本人のノーベル賞が「急減する」絶対的理由

 それはともかく、今の日本で「今後受賞者が減る、またはいなくなる」理由として、多くの識者が指摘しているのは、研究費(とくに息の長い基礎研究に対するそれ)の減少と、研究者のポストの不足と身分の不安定化です。理系の場合、少なくとも有名大では企業に就職する場合でも、修士まで了えるのがふつうですが、優秀な学生が学者としての将来を悲観して博士課程には進まず、就職を選ぶケースが増えてきていると言われています。今回の吉野さんの場合は、修士終了後民間企業に就職した人ですが、企業も今は目先の利益を負うのに多忙で、先の長い、海のものとも山のものとも知れない研究にカネを出すことは少なくなっているでしょう。内部留保(いわば企業のヘソクリ)は増え続けているそうですが、貯めるばかりで使い方を知らないのです。経営者の質も昔とは違ってきて、懐の深さも、いい意味でのアニマル・スピリットもなくなっているのかもしれません。

 今回の吉野さんも京大の出身ですが、予算が多い東大より京大の方が強いのは、たぶんあの「自由の学風」と「放し飼い教育」が関係しているのでしょう。「変人比率」が高く、変人は世間的な栄達などには無関心なことが多いので、リスクはあっても面白そうだと思えば研究者の道に進む確率が高そうだから、研究環境の悪化にもかかわらず、今後も飛び抜けた研究者を京大は輩出し続けるかもしれない。尤も、安全志向の今の若者気質からしてそれも減っているかもしれませんが。

 ちなみに、吉野さんが就職したのは旭化成で、僕が今住んでいる延岡市は旭化成の企業城下町です。それと関連して、こんな新聞記事もありました。

吉野彰氏ノーベル化学賞「1歩も2歩も先を見ている」長年の交流の九大・岡田教授「講義に学生も刺激」

 一方、吉野氏が所属する旭化成は、宮崎県延岡市が創業の地だ。
 同市の読谷山洋司市長は祝福のコメントで、吉野氏がリチウムイオン電池の開発を進める過程で延岡市が関わっていたとして「いわば『メイド・イン・延岡』のリチウムイオン電池が誕生したことは延岡市民にとって大きな誇り。延岡の子供から化学者が多く生まれ、『第二の吉野博士』が誕生することを期待している」とした。


 記事の最後はそう締めくくられているのですが、僕は(最近はあまり書いていませんが)このブログで延岡の県立普通科高校の課外をはじめとする過剰な管理教育を批判してきました。これは延岡だけの問題ではなく、宮崎県、ひいては九州地区全体の問題で、最近は朝課外を廃止する学校が増えました(宮崎県でも延岡星雲高校は廃止した)が、非科学的で、慢性睡眠不足と健康問題を作り出すだけのアホなゼロ時限授業を、「前からやっているから」という理由だけで道理にかなった批判は全部無視していまだに続けているようなところから、自発性と創造力に富む天才が育つわけはないでしょう。むしろその芽を摘んでいる。

 考えてもごらんなさい。朝の7時半から退屈な授業が始まって、それが夕方4時か5時まで続き、1・2年はそれから部活で、下校時間は季節によって違うが、夜の7時か8時なのです。しかも、いりもしない宿題がどっさりあって、食事と風呂を終えてそれをやっていると夜中の1時になることも珍しくない。それでギリギリまで寝たとしても、6時半には起きるから、睡眠時間は5時間台になる(前に生徒に聞いたら、もっと少ないという生徒も何人かいた)。3年になって部活を引退すると、今度は夕課外というのが始まって、これが終わるのが夕方6時。そうすると、部活がなくなっても、学校に10時間半拘束されることになるのです。ブラック企業の社員さながらです。他に何をするゆとりもない。

 さらにこれに季節課外というのが加わって、本来四十日あるはずの夏休みなども十日あればいい方で、むろん夏休み課題という名の宿題が各教科たっぷり出ているのだから、まとまった休みなんてないに等しいのです。部活であちこち遠征や練習試合に飛び回っている生徒はなおさら。

 授業が啓発的な、素晴らしいものだというのならまだ許せます。しかし、大方は退屈極まりないものなので、この点は全国どこの公立でも大体同じでしょう。今の先生たちの名誉のために付け加えておくと、学校の授業というのは概して昔から面白くなかったのです。僕は高2のとき、これに対する名案を思いつきました(むろん、課外なんて余計なものはなかった学校です)。北杜夫の自伝小説だったか、菊池寛のそれだったか忘れましたが、昔の旧制高校生の中には「出席日数3分の2」を満たせば進級はできるというので3分の1サボることにしたが、計算を間違えて足りなくなって落第した生徒がいたという話を読んだのです。「これは使える!」と僕は膝を叩きました。要は計算を間違えなければいいのです。それで3年になったらそれを実行することにしたが、当時、遅刻・早退は3回で1日の欠席にカウントされていました(今は知りません)。その遅刻・欠席も、午前中全部サボって午後からだけ出ても一回の遅刻、逆に午前中だけ出て、午後は全部サボっても1回の早退なのです。これをうまく組み合わせれば、大学生並の時間割が可能になる! それでその通りやって、ギリギリ「3分の1以下の欠席日数」にまとめて落第を免れたのですが、そういうことをしたのも、退屈な授業を聞いているより、自分で好き勝手本を読んだり、当時は詩人志望だったので、ヘタクソな詩作に苦吟する方がよほど有意義に思われたからです(学校の定期試験は、クラス一の秀才に試験直前にノートを見せてもらい、レクチャーを受けながら各教科のヤマまで教えてもらったおかげで、難なく切り抜けた。総合点で負けた方がお好み焼きをおごるという賭けを毎回していて、当然ながら毎回僕が負けたので、イカ、ブタなど具が全部入ったミックスというやつを毎回おごらされたのですが)。

 高校生はこういう不良の真似をしてはいけませんが、昔からふつうの学校の授業は面白くなかったということです。僕では説得力がないが、もっと真面目な秀才が次のようなことを書いていたとなれば、話はまた違ってくるでしょう。次は東大名誉教授の上野千鶴子氏が高校生の時に書いたという文章です。

「高校教育は学問ではない」上野千鶴子が17歳の時に訴えたこと 寄稿文を発見

 うーん。やはり勉強嫌いの不良とは言うことが違うなという感じで、「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ということわざを思い出させる文章ですが、学校の授業の何がどういうふうに面白くないかを、これは端的に語っています。上野氏と僕では世代がまた少し違いますが、高校生のとき会っていれば意気投合したかもしれない。うちの塾にも前に、思想濃厚少女(その子は中高一貫私立に通っていた)が来たことがあって、そちらの話で盛り上がってしまうので困ったのですが、途中で、受験勉強は自分でやるからテツガクだの心理学だのの話し相手をしてほしいと言い出し、しかし、親の手前そうは行かないだろうと思ったのですが、そのうちお母さんがやって来て、そうして下さい、回数も週2回から3回に増やして下さい、あの子は塾に行った後は元気になって、翌日は学校にも行くのですが、その後また休みがちになる。週3回にすると間がうまく埋まって休まなくなるので、ぜひそうして下さいということになって、たしかに受験勉強は勝手にやったらしく、ちゃんとしかるべき大学に合格したのですが、今の学校の授業というものには「学ぶ意味感」に応えてくれるものがないから、こういうことになってしまうのです。

「知識偏重」の入試があるからこれは仕方ないのだと言う人もいるでしょうが、あの眠たいだけのセンター試験は別として、英語などは、二次の個別試験となると内容的に非常に面白い英文が出ることが多いのですが、たまに学校の授業でそういう英文を取り上げても、その内容についての議論などは全く出ないらしいので、学校というところは、面白いものでも面白くなくしてしまう名人なのです。僕は文系ですが、大学生のとき理系の本をかなり読んで、高度な数式など出てくるとたちまちお手上げになったのですが、物理学にしても生物学にしても、これほど意味深い、面白いものだったのかと、そのとき驚いたのです。歴史もそうで、固有名詞と年号の暗記ばかりで、皆目面白くなかったが、詳しい歴史書を読むと人間の生きたドラマがあって非常に面白い(僕は受験では、年号は1929年の世界大恐慌だけ憶えていればいいというので、政治経済を選択したくらいです)。途中で、自分には通史の知識が欠けているというので、本屋に行って大学受験生用の詳しい世界史の通史を買って読んだりもしたのですが、要するに、どの科目もその本来の意義、面白さを伝えていないのです。僕は今でこそ、塾で英語を教えたり、翻訳したりしていますが、最大の苦手科目が英語だったので、これも独学なのです。高3になってから英語の勉強を始めたときも、学校の授業は完全に無視した。それくらい退屈なものだったので、あんなものなら授業を免除して、生徒に勝手にやらせた方がずっといいと思うくらいです。文法それ自体、あんなヘタクソな授業ではわかるようにならない。

 ノーベル賞の科学関係の受賞者だけでなく、過去の日本にはすぐれた文系の研究者も多くいたのですが、考えてみれば、そういう人たちは子供時代、学校がそんなに大きな生活の比重を占めていなかった時代の人たちです。放課後は腹いっぱい戸外で遊べただろうし(今と違ってサラリーマン家庭はそう多くなかったので、家の手伝いなどもさせられたでしょうが)、ある程度の年齢になって読書や調べものをするようになったときも、かなり自由にそれができた。要するに、管理されずに自由にやれる余地が大きく、そういうところから感性や行動力、「自分で考える力」も育ったと解釈できるのです。それが後の研究でも役立つ。金魚鉢の金魚みたいに、四六時中監視されていたのでは人間は成長できないのです。

 これは子供や若者だけではなく、今のオトナがすでにそうなっていますが、ロクに自分で考えもせず質問する人が多い。考えることが非常に安易で、すぐにハウ・ツー的な答を求めるのです。有名な論語に、「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」というのがありますが、日頃考えるべきことを考えず、悩むべきことを悩んでいないから、一度切り返されたらそれで終わりになってしまうような「自分の考え」(実際は何かの受け売り)なるものを口にしたり、「そういうことはある程度自分で考えてから質問しろよ」というようなことを訊いたりするのです。相手に答えてもらっても、よく考えていないからその意味がわからず、アドバイスとしての効力も乏しい。相手としては時間を無駄にされただけなのです。

 こういうのは、いちいちああしなさい、こうしろ、これはこんなやり方でしなさいと管理づくめで育ったことの弊害でしょう。規則や禁止事項も増える一方で、自分で判断して行動するということがなければ何をしでかすかわからない手合いも多くなって、自然にそういうふうになるのです。程度の低い人間に合わせて、規制もどんどん細かくなる。それを不自由だと不快に感じる感性もない。遊ぶ場合ですら、今の子供は戸外や自然相手の遊び方を知らないというので、オトナがわざわざそういう企画をして、子供たちはボランティアの人たちに道具を作ってもらった上に、それを使った遊び方まで教えてもらうのです。それで自分でもそれを作るようになるのならまだしも、これはもう飽きたから、何か他のものを作ってくれと言う。自分で工夫して何かするということがないのです。ふだん学校と部活、塾や習い事でスケジュールが埋まっていれば、そんなことしているヒマもないので、いつもは出来合いのゲーム機で遊ぶというより、「遊ばされて」いるだけなのです。

 教育ママパパたちも、「スマホや電子機器のゲームの使用時間は学力と反比例する」といったニュースを見ると、これは大変だとその使用を制限するが、大枠の「子供に対する過剰管理」は問題視しない。それで、東大生には小学生の頃から公文をやっていた子が多いと聞くと、新たにそこに入会を申し込むのです。ピアノがいいと聞くと、それも習わせなければならない。そうやって、子供の「自由な放課後」はどんどん失われてゆくのです。今はほとんど絶滅状態かもしれない。

 子供の遊びはむろん、時代によって変わります。僕は息子が小学生の頃、「全クリした!」と嬉しげに言っているのを聞いて、その言葉が可笑しかったので、それは何なのかときいたことがあります。「全部クリア」の意味らしく、ファミコンか何かで、モンスターを全部撃退すると、ヒーロー役のアバターがパワーアップし、それに伴ってゲーム自体がヴァージョンアップするとか、何かそういうことのようで、「うまくできてるな」と笑ったのですが、今の子供にはそういう遊びもあるわけで、一律にそういうのを禁止したのでは仲間づきあいもできず、時代にも適応できなくなってしまうでしょう。問題はバランスなので、近くの団地の階段の下か何かに秘密基地を作って、そこでダンゴムシを飼育しているとか、木登りをしていて誰かが枝ごと転落したとか、そういうのは昔風です。他に親が山菜取りや魚とりに連れて行くなどのこともありました。彼は山菜取りにはあまり興味を示しませんでしたが、魚とりには熱中して、日が暮れても帰りたがらないのには閉口したほどでした(あれも初めはつかまえやすいハゼなどから、だんだん対象がグレードアップしてゆくのです)。こういうのは、親がある程度遊べる環境を用意してやらないと今の子供には無理ですが、僕は今の学校の「家畜化」教育には反対だったので、「野生」を身につけさせるためにもそういうことは必要だと考えていました(中学になると野球の部活に熱中して、それ一色になってしまいましたが)。「文化的な」習い事などは何もさせなかった。学校のお勉強も、あんなものは落ちこぼれさえしなければいいのだということで、「家庭学習30分」が中学になっても変わらないというので母親はいくらか心配したようですが、一度も勉強しろなどとは言わなかったのです。

 むろん、わが子が将来ノーベル賞を受賞するなんてことはありえません。文系だし、小説家になることもないだろうし、経済学をやっているわけでもないからです。しかし、理系の子供でも、子供のときはしっかり遊ばせておいた方が、「ノーベル賞確率」は高まるのではありませんかね。ノーベル賞は稀な例としても、創意工夫の能力はその方が上がって、有能になるのではないかと思うのです。どんな分野でも「勝手に考える・やる」能力は大事だと思いますが、それは管理が行き届きすぎた今の教育空間では身につかないのです。

 だから、今の「日本からノーベル賞受賞者が出なくなる」という議論は、もっぱら大学から上の問題に集中していますが、その下の教育(家庭でのそれも含めて)がより心配な材料になるのではないかということです。

「学校化社会」という言葉があって、これはイヴァン・イリッチが指摘したことだったと記憶していますが、それで検索すると、ウィキペディアの「脱学校論」という項目が出てきて、

 脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチの造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。つまり、教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びすなわち独学を取り戻すことである。

 と書かれています。これに関する彼の訳本は今でも出ていて、アマゾンの『脱学校の社会』の内容紹介文には、

 現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書

 とあります。「いまや社会全体が学校化されるに至っている」というのは本当で、自分で考え、その考えを行動に移して、社会にダイナミズムを作り出してゆく、という能力が失われつつあるのです。管理され、指示されるのが当然と思い、それを不快には感じず、むしろそうしてくれないと不安になる、というような社会になりつつある。ヒトラーみたいな全体主義の政治家にはもってこいの土壌が作られているのです。

 今では大学でも、「面倒見のいい大学ランキング」なんてものまでできていて、昔は四年間ほっといてくれるのが大学の最大の取柄だったのに、今は手取り足取り「指導」してもらうことを親や学生が大学側に求めるのです。大学の先生たちはシラバスなるものを作って、その通り授業をしなければならない。休講にしたらその分、補講をしなければならない。昔の学生の感覚からすれば全部「余計なお世話」に見えますが、今は大学も「高校化」したのです。中には「有意義な自由時間の使い方」を先生に質問する学生もいるかもしれない。

 もう今から三十年近くも前の話ですが、関西の某有名私大のOBから、最近うちの大学でこういうことがあったらしいという話を聞きました。ある教授が、今年はやけに学生の数が多いなと思いながら授業をしていた。この「多い」というのは、授業に出てくる学生の数です。登録している学生はたくさんいても、授業に出る学生は少ないのがふつう(昔は)なので、そう思ったのです(その先生は出欠を取っていなかった)。しかし、まあ、そのうち減るだろうと思ってやっていて、ゴールデンウイークになった。ここでガタッと減るだろうと思ったら、予期に反して、休みが明けてもあまり減った様子がない。それでその先生は板書している途中、不審に耐えかねてうしろを振り返り、学生たちに向かって「おまえら、他に行くとこがないのか?」とたずねたというのです。

 その教授の「不審」はその話をしたOBや僕にはよくわかった。どちらも大方の単位は試験だけ受けに行ってかすめ取った口だったからです。その教授も、学生時代にマメに授業に出た方ではなかったのでしょう。昔になるともっとひどいのがいたりするので、たとえば『日本のアウトサイダー』などの著作があった批評家の河上徹太郎は、東大経済学部の出身ですが、僅か四日しか大学に行かなかったという。盟友の小林秀雄との対談で出てくる話で、それを聞いた小林は「そんなにひどいのか!」と呆れていましたが、こちらもたまに行くときは大方、辰野隆教授にカネを借りに行くときぐらいだったので、その回数がいくらか多かったという程度にすぎない。昔はそれでも卒業できたが、今はそうは行かなくなったのです。それが喜ばしいことなのか、どうか。

 日本の大学は「入るのは大変だが、出るのはかんたん」だと言われていました。そのため、入ったときより出たときの方が馬鹿になっていて、こういうのではよろしくないから、アメリカ並に単位認定の厳格化をはかるべきだというので、変わってきたのでしょう。しかし、不良どももバイトや遊びに明け暮れていただけではなく、それなりに勝手に勉強もしていたから、皆が皆、馬鹿になっていたわけではないのです(読書量などは、昔の不良の方が今の真面目学生よりはるかに多かったでしょう)。とくに文系学生は、いかによけいなことをやるかにかかっていると言えるので、つまらない授業(失礼!)に出てそれをぼんやり聞いているより、勝手なことをやったり、仲間と議論を戦わせたりする方が勉強になるということもある。理系でも、アインシュタインなどは、実験の指示が書かれたメモをゴミ箱に捨てて、喫茶店に行って「思考実験」と称するものに耽っていて、そういうことが重なったから先生たちの覚えが悪く、就職も世話してもらえず、友人の親の伝手で特許局にやっとこさ就職でき、そこで仕事を手早く片付けてあの相対性理論のアイディアを練り、論文を書いたのだと言われています。権威が嫌いで、言われたことに忠実に従う真面目な秀才ではなかったから、当時の物理学常識からすれば「非常識」な発想も持ちえ、環境がどうでも、これと思ったことは徹底的に追求する執念をもっていたからこそ、それを結実させることができたのです(よく言われることですが、天才の特質はたんなる知能の高さにはない)。

 昔と違って今は大学の授業も素晴らしいのが多くなっているのかもしれませんが、劇的にそういうのが増えたということはなさそうだし、仮にそうであったとしても、それを本当に生かせるのは独学精神の旺盛な学生にかぎるでしょう。そしてそうなるには、あてがわれた栄養食だけで育つのではなく、「自分で餌を探す」楽しみと苦労を知っていなければならない。そういう人間はハウ・ツーも自分で工夫できるが、そうした野生の能力は学校及び学校的なものの外部で身につくので、十分な「自由時間と空間」を奪われた子供にそれを期待するのは難しいでしょう。

 今の時代は問題山積で、多方面で創造力と行動力が必要な時代になっているのに、むしろそうした能力を低下させるような教育システムになり、管理を強化しているのです。社会全体がイリッチの言う「学校化」に陥っている。文科省のいわゆる「考える力」というのは、そもそも「考える力」などではない。マーク方式を記述に変える程度では何も変わらないので、今度のセンター試験に代わる新たな統一試験にしてもそうですが、平板で眠たいだけの試験の本質は何も変わらないのです(英語の民間試験の活用など、ただ混乱の材料を増やしただけに終わっています)。

 要するに、創造力(想像力)も考える力もない、早く引退した方が世のため人のためというオッサン・オバハンが寄り集まって事態の悪化に手を貸しているだけの話で、賢いオトナなら、「余計なお世話をいかにして差し控えるか」を考えるでしょう。無能なオトナの特徴は「教えすぎないことの重要性」を理解しないことなのです。そして彼らは立身出世と社会適応に必要だからというのでシステムに従ってお勉強した人たちにすぎないので、十七歳の上野千鶴子が問うた「学問研究の意味」など考えたことすらない。だから教科指導を通じて「学ぶ意味」を生徒に実感させる能力も欠落しているのです。それがありさえすれば、子供は勝手に勉強し始めるのだということを彼らは知らない。

 僕が言いたいことは、要するにこういうことです。子供には、とくに小さい頃は腹いっぱい遊ぶ楽しさを体験させた方がいい。彼らはそれを通じて多くのことを学ぶので、それは学校の教科書勉強よりずっと大事なことです。次に、管理や指示が多すぎてはならない。そういうものやシステムに依存しすぎること自体が、自分で考え、判断し、行動する主体的な能力を減退させるのです。いわゆる「自明を疑う」能力は理系・文系を問わず、学問研究でも、社会改革でも何より重要なものであるとされています。それが新しい次元を切り開くからです。しかし、管理づめにされて育ったのでは、それは極度に困難なものになるでしょう。それがノーベル賞の対象であろうとなかろうと、感性のレベルで大きな発見への扉が閉ざされる結果になるのです。「社会全体の学校化」が進むと、どの分野でも革新的なブレイクスルーは起きなくなって、その社会は衰退し、やがて破滅してゆくしかなくなる。

 今の日本人はもっとそういうことを心配した方がいい。どんな分野であろうと、過去の偉人の伝記を調べてみれば、そこには彼らの「野生」を担保する要素が必ず発見されるはずです。そしてその野生が彼らの業績の中で重要な役割を果たした。ただの家畜ではなかったからこそ、彼らは偉人たりえたのです。これは、もしも文化や文明が完全に自然から切り離されてしまえば、それはインスピレーションや力の源泉を失って自動的・機械的な運動の中に閉じ込められ、暴走したり無力化したりして崩壊するしかなくなってしまうということを意味します。「内輪でうまくやる」ことしか考えられない小利口な人間ばかりになってはノーベル賞から遠ざかるのはもとより、社会そのものが立ち枯れの樹木のようになってしまうということです。

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