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何が問題なのか?~日本社会に忍び寄る「人間崩壊」の足音

2019.06.02.20:03

 昨年の内閣府の調査では、中高年(40~64歳)の引きこもり(定職・収入がなく、夜間コンビニに行くなどの他はほとんど外出しない状態の人たち)が全国で推計61万3000人存在し、15~39歳の引きこもり数(約54万人)を上回っていることが判明して、社会にショックを与えました。

 もうだいぶ前の話ですが、精神科医の斉藤環氏が、「自分の体感としては、引きこもりは百万人はいる」と言っていたので、それが正しかったことがあらためて裏付けられたわけです。若い世代の引きこもりだけ調べていたから実態がわからなかっただけの話。

 むろん、これは深刻な問題です。彼らの多くは生活を親に頼っているので、中高年の引きこもりの場合には、親が資産家で遺産をたくさん残せば大丈夫としても、そうでなければ親が死に、年金収入がなくなってしまえば、たちまち生活に行き詰まる。生活保護しか手はないが、国家財政が逼迫する中、それは容易ではないし、そもそも「本来病気でもないものを何で税金で助けなければならないのか?」という市民レベルの反発が強くなる。

 そういうような「経済レベル」の問題として語られることが多いようですが、もっと深刻なのは、何でそんなに引きこもりが増えてしまったのかということと、それが日本人の精神情況のいかなる反映であるかという、そのあたりのことでしょう。

 先日の川崎市多摩区の登戸駅周辺で子供たちを襲った無差別殺傷事件の犯人、岩崎隆一(51歳)も、この「中高年引きこもり」に含まれますが、僕は次の記事を読んでかなりのショックを受けました。

岩崎容疑者、社会から孤立した姿浮かぶ 携帯も持たず

「携帯も持たず」というのは僕も同じで、「今どきそんな人いますか?」などとよく皮肉を言われますが、僕は24時間追い回されているようで、ああいうのが嫌いなので、固定電話とパソコンのメールだけで足りさせているのですが、この記事の中で驚いたのは、

 捜査関係者によると、事件後、県警が夫婦に岩崎容疑者の身元を確認しようとした際、接点が薄いため、岩崎容疑者の顔だけでは判断ができなかった。県警は最終的に、自宅などに残された指紋で本人確認をしたという

 というところです。一つ屋根の下で暮らしていながら、「顔だけでは判断できなかった」というのはかなりすさまじい。何十年も一緒に暮らしていて、顔もロクに知らなかったということになるからです。

 彼の場合は、小さいころ両親が離婚し、どちらにも引き取られることなく、父方の伯父の家に預けられて、そこで育てられ、学校にも行き、引きこもってからはずっとその家にいて、食事を与えられ、こづかいももらっていたという話で、父方の伯父の家に預けたということなら、実父との関係はどうなっていたのかと思いますが、母親も含め、そちらの情報は皆無です。事実上はその伯父夫婦が親代わりだったのでしょうが、生活を全面的に依存していても、顔もわからないというほど、人間関係は希薄になっていたわけです。

 離婚や経済事情の関係で、子供がどちらの親でもなく、父方の祖父母に育てられたというケースを、僕は個人的に二例知っています。祖父母が親代わりで、どちらも愛情を傾けて子育てならぬ“孫育て”をして、学校も出し、立派に育った。実の父親と祖父母(父親からは親)との関係も悪くなくて、当然その子供たちは実の父親(離婚していない場合は両親)とも十分な接触をもっていたのです。その祖父母はどちらも僕の親の世代ですが、第二の子育てに奮闘し、わが子を預けた子(その子たちにとっては父親)を「おまえの子だからお前が育てるのが当然」と言って拒絶するようなことはせず、必死に働いて育てて、その子たちも当然深い感謝の思いを抱くので、一人前になって結婚してからも足しげく祖父母の元を訪ね、それにまた子供ができると、今度はそのひ孫の成長を楽しみにするようになったのです。

 この祖父母たちはいずれも義務教育の学歴しかない人たちで、だからおかしな理屈はこねず、「こうなったからには仕方がない」とわが子を責めるのでもなく引き取って、徒手空拳、懸命に働いて、第二の子育てに奮闘したのです。僕の親の世代だと、そういう「強力な庶民」はいくらもいる。他人の子でも、おなかをすかせているような子を見ると、連れて帰って食事をさせずにはいられないような人たちです。素朴で、愛情のかたまりみたいなところがある。僕が自分の親の世代には偉い人が多いなと思うのは、そういうわけです。

 岩崎隆一の生い立ちには、しかし、孤立と孤独の影が早くからつきまとっている。両親との縁は完全に切れていたのでしょう。引きこもりになったとき、実の父親と伯父夫婦が相談したというようなことも当然なさそうです。情報がないのでわかりませんが、親がどういうかたちであれコミットしたことがあるという情報は絶無です。

 子供の頃、彼が情緒不安定だったというのはそういう環境からして当然です。学校の成績も芳しくなかったようで、どこにも自己肯定感の拠り所を見つけられないまま成長した。一時は仕事にも就いていたようですが、辞めてからは自らコミュニケーションの回路を断ち切るようになり、伯父夫婦と顔すら合わせなくなっていたから、上の記事のようなことになったのでしょう。同じ屋根の下に住み、おこづかいはもらっていても、心理的には「赤の他人」だったのです。心がつながった相手はこの世に一人もおらず、自分が何かの役に立っていると思えることも一つもなかった。思えば、これは恐ろしいことです。

 ただ、引きこもりそのものが親や、親代わりの人の「愛情不足」によるとは必ずしも言えないので、僕の知り合いには、両親がこの上なく善良で、愛情に富む人たちなのに、子供が大学を中退してから二十年以上引きこもっているケースもあります。それは怠惰とか利己的だというのとは違うので、最初の頃、誰か仕事を紹介してくれる人がいても、それで失敗して辞めたりすると紹介してくれた人に迷惑をかけてしまうとか、そういうことをむしろ気にしすぎたのです。もっとテキトーで無責任なら、そうはならない。

 最初の頃、僕などは人に迷惑のかけ通しで、勝手なことをやりすぎると親に怒鳴られたり、非難されることは無数にあってもほめられたためしは一度もないので、もっと気楽になるよう本人に言ったらどうですかと親に言ったことがあるのですが、生真面目すぎるとなかなかそうは行かず、長引くと周りも遠慮してその話題を避けるようになり、家庭自体がその面では社会から孤立するようになるのです。「心配でしょう」とも言えない。親が年老いていく中、心配なのは当然で、それは周りの忖度を超えたレベルのものだろうと思われるからです。子供は子供で、親に申し訳ない、どんなに情けなく思っているだろうと自責感を強める一方だろうから、なおさら社会復帰は困難になる。

 そんな中、親が思い余って子供を殺してしまう事件も起こる。

元農水次官、自宅で長男刺す 東京・練馬、容疑で逮捕 搬送先で死亡

 これなどはその典型例の一つでしょう。「近所の男性は妻と出掛ける姿をよく見掛けたといい、『10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない』と驚いていた」というのは、その長男が世間とは隔絶した暮らしをしていて、父親は元高位高官であっただけになおさら、世間体の悪いそのことを気にしていたことが窺えます。

 にしても、どうしてこうまで引きこもりは増えてしまったのか? 冒頭の統計で見ても、それは115万人を超えているのです。引きこもりになった原因や経緯は人それぞれでしょうが、いくらなんでも多すぎる。僕はこれは社会全体の人間関係の稀薄化と、心の通じ合いが減っていることが遠因しているのではないかと思っています。別に引きこもってはいなくても、個人は心理的な孤立を深めていて、人のつきあいは表面的になる一方です。人間の社会というのは本来持ちつ持たれつの、迷惑の掛け合いの世界のはずですが、誰もが自己防衛に多忙で、それは裏側から見ると他人の粗探しに鵜の目鷹の目になっているということで、こういうありよう自体が人の心を凍りつかせ、積極的な心のつながりを回避させる方向に働くのです。それでは人が元気になるはずはない。

 僕は子供の頃、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉を母親から教わりました。個人的な利害がなくても、不正なことで人が苦しんでいるのを見れば、その人のために戦ってこれを助けるのが人間というものだ、というふうに僕は解釈しました。彼女は子供の時から、娘らしくなく、友達がいじめられると悪ガキどものところにかたき討ちに行って、「この子に謝れ!」と迫り、目が青光りして不気味だったので、悪童どもも恐れをなして「もうしません」と約束させられたという話でしたが、母は元悪ガキの父ともども、立場の弱い人たちにはほんとに親切でした(むろん、それは「上から目線」のものではなかった)。その割にわが子に優しくないのは閉口でしたが、「人には親切にするものだ」ということを、昔の子供は大方親から教わったはずです。ところが今は、こういうのはたんなる「物好き」としか解釈されなくなって、「傍観」がスタンダードになったのです。僕は何かで人から相談を受けたとき、「そんな馬鹿な話があるか!」と本人以上に腹を立ててしまうことがよくあるのですが、他の人に言ったら「それほどのことかな?」と妙に“客観的”でクールな反応しか返ってこなかったという話で、たしかに、「善良な市民」でありながら、生きた感情があるのかなという感じの人が今は多い。自分が当事者になったときだけ大騒ぎするのはご愛嬌ですが、そういう人間に囲まれて生活していると、時々どうしようもない脱力感に見舞われることがあるのです。一口に言えば、今はハートのない人間がいくらか多すぎるのです。他者の境遇や運命にこれほど無関心になった時代もない。

 これは社会の「空気」で、人間はその「空気」から、食べ物からからだの栄養を取るのと同じように心の栄養をもらっていたのです。そちらの養分が乏しくなっているから、引きこもりもこんなに増えたのではないか? そんな気がするのです。

 昔、高校を卒業して上京した時、僕は新聞配達をしながら浪人していたという話は前にも書きましたが、着いて二、三日後に、こういうこことがありました。店であてがわれたアパートにいたところ、一つ年上の、宇都宮出身の、専門学校生の先輩がコカ・コーラのホームサイズとコップを二つ持ち、ギターを抱えてやってきて、コーラをコップに注ぐとそれを差し出して「飲め!」と言い、続けて吉田拓郎のフォークを歌い出したのです。二、三曲歌って、僕はそれを黙って聞いていましたが、突然やってきて、何でこの人は歌なんか歌っているのだろうと不思議でした(タオルで鉢巻をしているのも不思議だった)。そしたら、「おまえも知らない東京にいきなり出てきて、一人では淋しいだろうと思って」わざわざ来てくれたのだということがわかったのです。僕は高校の時から親元を離れていたので平気だったのですが、その優しい心根は十分伝わって、親切な人だなと思ったもので、その後もこの人と同じ専門学校生の人二人にはとくにお世話になったので、この人の将来の夢は「土建屋の親方」になることでしたが、めっぽう喧嘩も強い男気のある人だったので、面倒見のいい「親方」になったことでしょう。

 これを読んでいる皆さんも、自分の人生を振り返ったとき、「あそこであの人の親切に助けられたな」ということがいくつもあるでしょう。それは大きなことでなくても、そのときの思いやりや優しさがどれほど大きな助けになっていたか、後になるとわかるのです。もしもそういうことが何もなくて、いきなり顔に冷たい水を浴びせられるようなことばかりだと、人は生きられないのです。外部的な条件より、そちらの方が大きい。

 これと反対のこういうこともありました。今から三十年ほど前、関東のある塾の個別部門の教室の管理者をやっていたときのことですが、事務の子が学生講師の一人と連絡が取れなくなった、いくら電話しても出ないというのです。その教室の登録講師は四十人ほどいたから、代わりを見つけるのは別に難しくないが、本人がどうなったのか心配です。最初の採用面接のとき、喘息の持病があると言っていたので、ひょっとしたらと気になったので、同じ大学の仲間が二、三人いたので、あいつは大学に来ているのかと聞きました。ここしばらく全然見ていないという話です。ふだん仲良くつるんでいる割にえらく冷淡だなと少し驚きましたが、あいつのアパートがわかるかときくと、それはわかるというので、周辺地図を書かせました。その翌日、本部で幹部会議があるので、その帰りに寄ってみようと思ったのです。

 幹部連中は大体僕と同じ三十代が多かったので、その話をすると、三人ほどそれは大変だ、一緒に付き合うというので、その一人の車に乗ってアパートを探し当て、それぞれが外から窓を見たり、アパート名の下に出ている不動産屋の電話番号を控えたり、色々する中、僕はもう一人と一緒に二階に上って、部屋のドアをノックしました。いくらノックしても反応がない。外から窓を見ていた仲間が、豆電球はついているからいるのではないかと言いました。もう一人は郵便受けから必死に中を覗き込んでいる。仕方がない、こうなったら不動産屋に電話をして鍵を開けてもらうしかないという話になったとき、中で何かが動く気配がありました。「いるのか?」と呼ばわると、ゴソゴソ音がして、やっと彼が出てきました。一体何があったのか、喘息で倒れていたのでなかったとすれば、僕の世代の感覚では、大失恋をして部屋に引きこもってしまったか、ギャンブルにでも狂ってサラ金から大きな借金を作ってしまって取り立てから逃げているか、そんなところです。

 本人の話ではそのいずれでもない。出席日数が足りず、単位を落として留年するおそれが出てきて、それで引きこもってしまったというのです。拍子抜けした僕は、おまえはアホかと言いました。たかがその程度のことで引きこもる馬鹿がいるか。でも、と彼は言いました。バレたら親に怒られます。あたりまえだろうがそんなことは。そういうときは黙って怒鳴られ放題怒鳴られて、嵐が過ぎ去るのを待つしかないので、優しくいたわってくれる親がいたとすれば、そちらの方が病気です(また怒鳴った末に許してくれるのも親なのです)。とにかくつまらないことで引きこもるなと言い置いて帰り、翌日、塾に来ていた彼の仲間に一度あいつのところに行って、引っ張り出して酒でも飲みに行けと言ってお金を渡したのですが、こういうのでもほうっておけば、本物の引きこもりになりかねないのです。

 こういう「今どきの学生」(彼らももう五十前後になっているはずです)の仲間付き合いの淡泊さに僕は違和感を覚えたので、ついでに恥をさらすと、僕は学生の頃、女友達の一人に「月のものが来ない」と言われて、二ヶ月もそれがないというので、これはもう中退して結婚するしかないなと思ったことがあります。あるとき仲間二人にそれを話すと、数日後、その一人から下宿に電話が来て、中退しなくていいぞ、中絶費用は用意したと言われて、驚いたことがあります。彼らは中絶にかかる費用を調べ、「おまえ、いくらまで出せる?」と、仲間内で連絡を取り合って、必要な金額を集めたのです。僕には中絶などさせる気は毛頭なかったので、別に大学にも未練はないし、それでいいと思って話したのですが、彼らの気持ちは胸に応えた。ちょうどその翌日、今度は彼女から「来た!」という連絡が入って事なきを得たのですが、昔の学生の仲間付き合いというのはそういうものだったのです。

 人間関係からそういう要素がなくなったら、どうなるか。ちょっと足を踏み外せば、そのまま崖下まで真っ逆さま、ということになりかねないでしょう。だから人間のハートというのは、何よりの「安全装置」なのです。そういうのは周りに負担がかかるから、全部公的なセーフティ・ネットでカバーしろというのでは「人生意気に感ず」というところもなくなってしまうでしょう。そこには物質的な支援だけではない、「心の栄養」というものがあって、それが弱っている人には何よりの力づけになるのです。

 こういうのは「正当な理由」もクソもないので、ちょっと話はズレますが、前に僕は高校生の母親から、自分の息子の不行跡について長い話を聞かされているうちにだんだん不愉快になってしまったことがあります。その話には、自分がそのときどう対処したかという親側の話が入っていて、それは社会的地位の高い親らしい非の打ちどころのないものでしたが、「にもかかわらずあの子はまた」というわけです。僕は一通り話を聞いた後、「言いにくいのですが」と前置きして、「お母さんが、お父さんも正しいのはよくわかりましたが、子育てというのは、親が正しいことをいくら証明しても意味はないので、大事なのは子供がよくなることで、そうなれば、他のことはどうでもいいんじゃありませんか?」と言ってしまいました。親の失敗も、子供の失敗や逸脱も、共に許されるのです。要は子供が元気になり、自己肯定感がもてるようになり、成長してくれればそれでいいので、「正しい」と言えるのはそのことだけです。親が完璧でも、それで子供が潰れてしまっては意味はないので、親の仕事は教育評論家になることではないのです。これは元が賢いそのお母さんにはよく通じたようで、その後は対応が変わったのですが、おそらくこの母親には「世間」というものが前に立ちはだかっているように見えて、それに対して弁明しなければならないという感じで、僕にもそういう話し方になったのでしょう。しかし、下衆な世間はどうでもいいので、それで親子が共に不幸になったのでは、何にもならないわけです。

 老子に「大道廃れて仁義あり」という言葉がありますが、「大道」とはハートです。僕の見るところ、硬直した、また古くさい世間的な形式道徳を振りかざして他人のことをとやかく言いたがる人間にロクな奴はいません。自分がどんな立派なことをしているのかというと、自己防衛のためにアリバイ工作めいたことをしているだけで、人の助けになるようなことは何もしていない。逆に、その心ない底意地の悪さで人を苦しめているだけなのです。ハートがなければ何が正しいかもわからないので、形式的な教条主義にしがみつくしかなくなってそうなるのでしょうが、今はそういう人が増えていて、論理の飛躍を承知でいえば、だから孤立感を深めて、何かあると引きこもりになってしまう人もこんなに増えたのではありませんか。「心の栄養」を与えてくれるどころか、「吸血鬼」的な人が増えて、元気を奪われるのです。

 今の人間は概して表面的には「優しく」なっていますが、心は冷たいのです。心が冷たいから、表面上の「優しさ」でそれを取り繕おうとするのかもしれませんが、昔は見た目は乱暴で不愛想だが、何とも言えない優しさを内にもった人が少なくなかった気がするので、僕が助けてもらった、今でも記憶に残っている人たちの多くは、そういう人たちでした(先のコーラと吉田拓郎の先輩も、高校時代は「ヤンキーの頭目」だったのです)。彼らは人工甘味料みたいな笑顔は浮かべていなかった。今の乱暴な人たちというのはただただ粗暴でエゴイスティックなだけだったりするので、だからパワハラが問題になるのでしょうが。

 こういうのは、引きこもりが長引いて“重症化”している人の助けにはならないかも知れませんが、今少し親切な人が増えれば、引きこもりの予防効果はもつでしょう。善良な人、ハートのある人、勇気のある人の存在は、それ自体が励ましとなり、人の助けになるのです。自分の過去を顧みて、引きこもりになる危険性がなかった人はほとんどいないでしょう。あのとき、ああいう人がいてくれたおかげで潰れずに済んだ、と思うことはいくらもあるはずで、自分はそれほど弱くないのでそうはならないと言う人もいるかもしれませんが、その場合、その「強さ」というのがどこから出てくるかというと、やはりあなたに愛情や配慮を振り向けてくれる人に人生の節目節目で出会えたからこそ、なのです。

 それが欠けていると、最悪の場合、陰惨な無差別殺人や親子殺人となるわけで、回り回っていずれ社会に返ってくる。「情けは人の為ならず」という言葉も僕は子供の頃親からよく聞かされましたが、それは「情けをかけると人を甘やかすことになるので、ほっとけ」というやたら「自己責任」を言いたがる現代風の誤釈ではなく、「それは回り回って自分のところにもやって来るから、結局は自分のためにもなるのだ」という本来の意味でした。

 よく「日本人の劣化」が言われますが、最大の劣化点はそのあたりなのではないでしょうか? 「道徳」を他者の断罪に使うことしか知らない、ジコチューでハートのない人間が増えすぎたのです。助けられる側も、助けてもらってるのにそれにすら気づかず、挙句はおかしな「権利主張」と文句だけ言って寄越すので気が萎えた、というような話も耳にすることが昨今は少なくありませんが、あれやこれやで「人のことなど知ったことか」という態度が社会のベースとなったのでは、もはや人間の住む世界ではなくなる。根本原因はそのあたりにあるような気がするのですが、いかがなものでしょう?

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