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「校則を守るのは当然」87.9%?

2018.10.09.14:15

 まずは、次の内田良氏のブログ記事をお読み下さい(こちらは図が省かれていますが、一ページで読めるので便利だと思ってえらびました。図も見たい方は記事の一番下の「この記事を筆者のサイトで読む」をクリックしてください)。

校門圧死事件から30年――理不尽すぎる「ブラック校則」の闇が深くなっている

 あの1990年7月の不幸な事件のとき、僕は勤務していた関東の某塾の月刊通信にコラムを連載していて、それについて「鉄製門扉の恐怖」と題して書いた記憶があるのですが、今考えると当時僕は35歳だったわけで、まだ若かったわけです。詳しい記事の内容は憶えていないのですが、そのクレイジーな校則と運営のあり方に驚き、事件以前にそのようなことが行われていたこと自体が異常であり、問題だと書いたのはたしかだと思われます。その点、今と考えはほとんど違っていないわけです。

 このブログには裁判で有罪判決を受けた教師の手記の一節が紹介されています。

「私ははっきり言って校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。(略)当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。(略)私は決められたことを忠実に実行しただけであった。」――『校門の時計だけが知っている』(草思社、1993年、240-241頁)

 何かナチスの裁判で、強制収容所の運営に当たっていた職員の釈明を読まされているかのようです。実際、彼らも同じようなことを言ったのです。自分はきまりに、上からの命令に忠実に従っていただけで、私自身に判断が委ねられていたわけではない、従って、私に責任はない、というアレです。

 今でも大学生の就職面接などでは、「あなたは理不尽なことにも耐えられますか?」なんて訊かれることがあるそうで、そういう場合は「はい、大丈夫です」が“正解”のようですが、そこで「『理不尽』って、それはどういう種類のものを指して仰ってるんですか?」と面接官に逆質問して、議論になって相手をやり込めたりすると、落とされるのでしょう。稀にジャーナリズム関係では、それが評価され、「君は面白い」と内定がもらえることもあるかもしれませんが、それは相手が相当懐の深い人物の場合にかぎられるので、あくまで例外でしょう。

 校則に話を戻して、その規定と運用はあくまで「合理性」のあるものでなければなりません。上の事件の場合、「登校時の遅刻取り締まりのために、校門付近で教師3名が指導をおこなっていた。『○秒前!』とハンドマイクでカウントダウンしながら、午前8時30分のチャイムとともに、1人の教師が鉄製の門扉をスライドさせて閉めようとした。そこに、女子生徒1人が駆け込んでいった。教師は気づかずに門扉を押していったため、女子生徒は頭部を挟まれ、死亡する結果となった」わけですが、「間に合わなければグラウンド2周のペナルティが科せられる」ことになっていたので、その女子生徒は必死だったのです。

 そもそも何でそんな奇怪な「指導」が行われていたのか、当時僕はそのこと自体に驚いたのですが、「鉄製の門扉」を閉めるようなことこそしていないものの、今でも高校では教師たちが校門付近で遅刻の見張り番をしている光景は珍しくないようです。当地の普通科高校の場合だと、朝課外というのがあるので、それは7時半かそこいらでもっと時間が早いのですが、遅刻すると教師に問責され、嫌味を言われたりするのです。そういう過剰な管理は、僕の世代だと経験した人は稀だと思います。小中高通じてです。

 今では小学校などでも、登校すると校長先生が校門の前に立っていて、「おはよう」と生徒一人一人に声かけをするなんてことがあるそうで、そういう場合、その校長先生は「教育熱心な、優しい先生」だと保護者からも高い評価を受けるのです。いちいちそんな面倒なことまでやる必要はないだろうと薄気味悪く感じるのは、年配のオヤジにかぎられるということなのかも知れません。僕が校長なら老子風の「無為にして化す」をモットーに、ふだんいるのかいないのかわからないようにしておいて、問題が起きた非常事態にだけ登場し、迅速果敢な行動によって速やかに問題を解決に導くよう努めるでしょう。教師全般に言えることですが、今はその逆の、ふだんはあれこれ口やかましいが、問題が起きるとそれから逃げて、隠蔽しか能がなく、かんじんなときは何の役にも立たない、という学校管理者がいくらか多すぎやしませんか。力の置き所がずれているのです。

 話を戻して、僕がこの内田氏のブログを読んで一番ショックだったのは、後半部分です。

 興味深いデータを一つ紹介したい。
 福岡県の高校2年生を対象に、2001年、2007年、2013年と3時点にわたって実施された調査の結果である。「学校で集団生活をおくる以上、校則を守るのは当然のことだ」という質問への回答は、3時点で大きく変化している【図2】。
 全体(男子・女子)の傾向として、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という肯定的な傾向が、2013年では87.9%に達している。大多数の生徒が校則を守ることは当然と考えている。しかもそれは2001年の68.3%から、約20%もの大幅な増加である。さらには「どちらかといえばそう思う」はほとんど変化がなく、「そう思う」というより積極的な回答が増えている。
 この結果を踏まえて今日の中高生における校則への感受性を想像すると、複雑な思いになる。なぜなら、非合理または理不尽な校則が今日も通用している一方で、生徒らはそれらの校則を守るべきと考えている可能性が見えてくるからである。


 どうしてそうなるのか、その「理由」についての考察は見当たりませんが、小中学生ならともかく、調査対象になっているのは、自主的な判断能力がもてるようになっているはずの年齢に達した高2の生徒たちです。これは管理する学校の側から見れば、「望ましい」ことでしょう。それは内容についての是非を問わず、「規則だから受け入れる」という態度の伸長を示すものだからです。

 少なくとも当地の高校の先生たちを見ているかぎり、システムに埋没して旧習墨守に陥り、常識的な個人としての判断力に基づいてそれを再検討し、改めるべきは改めようという姿勢をもつ人は非常に少ないように思われます(これは校則ではないが、課外制度などもその一つです)。僕はそれを、元々学校の先生になりたがるような人は個が貧弱で、それを組織にもたれたかかることによってカバーしようとする(従って「集団統制」的なものに初めから親近性がある)心性の持主が多いからなのではないかと疑っている(塾の生徒を見ていても、思考の自由度の高い生徒が教員を志望することはめったにない)のですが、学校の管理強化が進む中、中は典型的な「タコツボ社会」になっていて、こんなことを言うと「失礼な!」と叱られそうですが、ナチズム的順応性が高い世界になっているのです。

 昔は、ことに高校レベルになると、個性的な面白い先生がかなりいました。そういう人には「なり損ね」が多くて、パイロットになり損ねて仕方なく物理の先生になったとか、作家になり損ねて現国の先生になったとか、そういう先生たちは頭もよくてゆとりがあり、悪ガキの突っ込みにも柔軟な臨機応変の対応ができて、「これは相手の方が一枚上だわ」ということで、かえって生徒を承服させることが多かったものです。

 上記の「校則は守るのが当然」という回答の増加は、早い段階から管理統制が進む中、生徒もそれに取り込まれて、管理への順応が進んだ、ということなのかも知れません(「管理」と「保護」は違いますが、そこらへんの区別もついていない)。僕は学校の入学式や卒業式で君が代を歌わされたという経験は一度もなく育った人間ですが、今はそれが当たり前で、「何で君が代を歌わされるのが問題なんですか? あれは国歌ですよ」なんて言う生徒もいますが、僕らのときは学校の校歌だったので、それすら僕はロクに憶えていませんでしたが、国歌であれ、校歌であれ、全員起立して斉唱するなんてのは僕の趣味には合わないので、そういうのに「感動」したためしはないのです。むしろそういうありようには居心地の悪さしか感じず、「早く終わってくれ」としか思わなかった。これは生まれつきの感受性のようなもので、集団の名において何か統制的な行動を強いるとか強いられるとかするのが嫌いなのです(北朝鮮のマスゲームのようなものは見ただけで寒気がする)。当然ながら、集団で行う大がかりな宗教的な儀式の類も好まない。その「神聖な荘厳さ」に感動するというようなことはないので、それはバッハのミサ曲を好むというようなこととは別に矛盾しないので、そちらは大丈夫なのです。あれはもって回った仕掛けによる統制とは何ら関係がない。

 そういう個人的な好みで他を断罪するな、と言われるかもしれませんが、今の日本人は今少し集団というものに用心した方がいい。人間は群れる動物、社会的動物なので、組織や集団なしに社会生活は成り立ちません。だから僕はそういうものを否定する者では決してないのですが、集団というのはその性質上、個を無化したがる強い傾性をもっています。だから統制を強めすぎると、健康な個が育たなくなり、それが集団の暴走や圧政に結びつきやすくなるのです(そういうものにブレーキをかけるのはつねに健康な個人だということは説明せずともおわかりでしょう)。かつての「愛国」は「鬼畜米英」とセットになっていたし、今のネトウヨの「愛国」は「中韓敵視」とセットになっている。大きな戦争が起きればジ・エンドの、またボーダーレスになっている今のこの時代、どうせ教えるなら「愛地球」を教えればいいので、よきコスモポリタン(地球市民)を増やすことこそ望ましいことでしょう。今さら学校で君が代や日の丸を強制するというのは何のためなのか? 問題は、教師も生徒もそういうことは何も考えずにそうしていることで、無考えにそういうものを受け入れることと、理不尽な校則にも無感覚になって、「とにかくきまりは守らなきゃ」ですませてしまう安易さは根本で通底しているように思われるのです(冒頭の記事では「下着の色が決められている」なんてものまであるとされていますが、そういうのはヘンタイが作った校則としか思えないので、完全なビョーキです。「私は白しかはかないからかまわない」と言う生徒は、問題の所在がどこにあるのかわかっていないのです)。

 今の子供には反抗期がない、とよく言われます。そのこともこれには関係しているかもしれないので、オウムの幹部たちの多くはこの「反抗期のない子供」でした。反抗期がないと手がかからず、従順で、親や学校の教師には好都合ですが、オウムの幹部たちは麻原に逆らえなかっただけではなく、麻原の烈しい社会憎悪と無意識で共振する部分を内部にもっていて、無自覚なだけにそれがいっそう危険なものになったと見ることができます。今のブラック企業の社員たちも、会社には逆らえず、その理不尽に耐えながら、ネットに中傷の投稿をしてうさ晴らしするしか能がないという人がかなりいそうです。

 むろん、これは昔と比べて子供に理解のある親が増えたということもあるかも知れません。僕自身は型のごとく、自分の父親と対立し、顔を合わせるたびに喧嘩になっていたのですが、高校を卒業して上京する前夜、「人に逆らうな。とくに目上の人に」という訓戒を与えられ、それにカチンと来て、「別に好きで逆らっているんじゃない。下らんことを言う奴がいるからだ」と答えて、「それが悪い!」とまた叱られたのですが、自分の息子とは幸いそういう関係にはなりませんでした。彼は母親とは小学生の頃から派手な口喧嘩をよくやっていて、「お母さんは意味わからん!」で始まるそのやりとりは見ていて面白く、この前はこう言っていた。その前はこう言った。今度はまた別のことを言っていて、その間の連絡が何もなく、相互に矛盾しているということをロジカルに指摘するのです。痛いところを衝かれた母親は、「まあ、この子は何て性格の悪い、恐ろしい子なんでしょう。そんな大昔のことまで憶えているなんて!」と憤慨し(「大昔」といっても、僅か数ヵ月前のことでしかないが、子育てに多忙な母親はそんなことは忘れているのです)、そのへんまではいいとして、「あんたのそういう素直でない、邪悪な性格はお父さんに似たのよ!」と突然火の粉が降りかかって来たりするから困るのです。息子は物忘れが激しく、どこかに出かけて忘れ物をせずに帰るということの方が稀だったので、母親としては心労が絶えなかったのですが、それは明らかに父親からの遺伝なので、そのあたりは一緒に謝罪するしかありませんでした。そういう役回りで、父親から「勉強しろ」と言われることもない(彼は祖母から自分の父親がどんなに「勉強しないダメな子」だったかを詳しく聞いていたので、言っても説得力がなかった)し、父子の対立は少なくてすんだのです。

 大体が、今の父親というのは昔と違って家父長的な権威はもっていないので、それだけ子供としては反抗する理由も乏しくなっているわけです。それも反抗と言えるほどの反抗を子供が見せなくなった理由の一つかも知れず、それなら「進歩」と言えるが、それ以上のものがそこにはあって、波風が立つことに子供が本能的な強い恐怖を抱くとか、親の反応が暖簾に腕押しで、「言っても無駄」だと思うから子供が何も言わなくなったということになると、明らかにそれはよくない兆候です。学校の校則の類も、生徒から話を聞いていると、「たしかにそういう教師が相手だと言うのもアホくさくなるだろうな…」という印象を受けることが多いので、習い性となって、とにかく現にあるものは受け入れた方がエネルギーのロスがなくていい、という心理になり、それでは仕方なく諦めているということになって、それを認めるのは嫌なので、心理学でいう合理化機制が働いて、「積極的に受け入れている」と思いたがるようになり、それがそうした調査結果にも反映している、ということなのかも知れません。

 何にしても、それは好ましい兆候ではないという点で、内田氏と僕の見解は一致します。以前内田氏は誰かとの対談で、今のブラック企業の増加は、それに抗えない若者の増加とも関係しているので、そうなってしまう大きな理由の一つはあの学校の部活(今のそれはブラック度が高くなっている)にあるのではないか、ということを話していたように記憶しています。僕もそういう因果関係はありそうに思うので、今の子供たちのこういう「長い物には巻かれろ」式メンタリティが強化されると、それはブラック企業の支えとなるだけでなく、先々危険な国家統制にも唯々諾々と従い、そうしない人間を「非国民」呼ばわりして攻撃するようなことにもなりかねないと危惧するのです。彼らはそれを「集団の和」という言葉で正当化し、それを一種の「道徳的罪悪」として弾劾するようになる。頭からの校則肯定と同じで、その内容の是非は問わない。それを無視したり、逆らったりすること自体が罪悪視されるのです。

 むろん、僕はそれが杞憂であってほしいと願います。しかし、国家主義丸出しの統制好きで、イエスマンばかり集めたがり、批判する人間には権力を乱用して容赦のない圧迫や嫌がらせを加える安倍政権がこれほどまでに“肯定的”に扱われて(若い世代の支持が最も高い)、最長不倒内閣になるというのは、そういう不幸な未来を暗示するものであるかのように感じられるのです。

そういうことに無感覚であることは、いずれ自分の身に跳ね返ってくる。「こういうきまりになっているから」と、その「きまり」それ自体が何のためにあるのかには頑なに答えようとせず(そもそもちゃんと考えたことがないので、明確な答となるものをもっていない)、それが不当なことであるという自覚もなく、反対は組織権力で抑え込もうとする学校の教師を、子供たちは絶対に見習ってはいけません。それは個としての自殺であり、そういうことの果てにやってくるのは、詩人ポール・ヴァレリィの予言した「巨大な蟻塚」に似た非人間的な統制社会でしかないのです。そのときに「しまった!」と思っても、もう遅い。それだけは忘れないようにしてもらいたいと思います。


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