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嘘つきほど「道徳」を説きたがる

2018.10.07.13:08

 英語にモラライザー(moralizer)という言葉があります。文字どおりには「道徳を説く人」で、英和辞典には「道学者」という訳語が添えられていることが多いのですが、要は「お説教屋」です。政治家にはstatesman と politician の使い分けがあって、後者には侮蔑的なニュアンスがある(だから「政治屋」と訳したりする)が、この moralizer にも同種の響きがあります。試しにこれをネットで検索してみると、moralize の説明として、

to tell other people your ideas about right and wrong behavior, especially when they have not asked for your opinion(他人に、特にそれを求められてもいないときに、行動の善悪についての自分の考えを説くこと)

 というのがあって、when 以下がゴチックで表示されていて、この言葉はnegative connotation をもつと書かれているので、僕だけの主観ではないことがわかります。

「教育勅語には普遍的な価値がある」なんてことを言い、学校の道徳授業で使わせたいという保守政治家の先生たちはこの典型です。別に教育勅語を持ち出さなくても、正規に道徳という科目まで設けて、子供たちに道徳についての能書きを垂れないと気がすまないというのは全部この類でしょう。「いや、今の子供たちは、家庭の教育力が落ちていて、ほんとにひどいのがいるんですよ」と反論する先生たちもいるかも知れませんが、学校の教師というのは他方で平気で嘘をついたり、自己欺瞞が甚だしかったりするので、結局のところは、「道徳というのは、自分のことは棚に上げて偉ぶって見せたり、他人を非難するために使うものだ」ということを実物教育する結果にしかならないのです。それで世の中がよくなったら、そちらの方がよっぽど不思議です。

 実際、サイコパスや自己愛性人格障害の人間は、しばしばこの通りのことをします。他者をそれで非難し、弱らせ、支配するための道具として使うのです。僕はそういう人間を何人も知っています。彼らは超がつくほど利己的で、ハートが全くない(病的な自己愛の延長としてペットを溺愛したりはする)ので、言葉の真の意味で「不道徳」なのですが、そんな自覚はまるでない。彼らは自分を「道徳的」に見せることには熱心なので、ご本人が言うことだけ聞いていると立派な人に見える。しばらく前に足立朱美の事件がありましたが、実の父親と弟を謀殺しながら、彼女は「親孝行娘」「弟思いの優しい姉」を熱心に演じ、自作の怪文書(結局それで墓穴を掘ることになった)でそれを強調したのです(一方で、自分の犯行を疑った弟の妻の「不道徳性」を激しく罵りながら)。

 今の自民党や日本会議に連なる文化人先生方が推奨する「道徳」に、最も敏感に反応し、肯定するだろうと思われるのは、足立朱美のような人間です。彼らは知識的にはそうした「道徳」に欠けるところはない。むしろ熱心なその提唱者でもあるのですが、中身はそれとは全く別なのです。ネットで他者の揚げ足取りに熱心になり、「正義」を装って「道徳的弾劾」にふけるのも、足立朱美のように殺人まで犯すことはないでしょうが、精神構造的には似たタイプの人たちでしょう。

 しばらく前に、僕はある人が歴史的人物を引き合いに出し、「正直」や「胆力」等々の精神的美徳について能書きを垂れているのを見て呆れたことがあります。僕はその人物の内実をよく知っているので、「それって、あなたに欠けているものばかりでしょ?」と思わず突っ込みを入れたくなったのですが、何らかの権威を引き合いに出して、その尻馬に乗って無用なお説教を垂れるのはその人の得意技なのです(そういうふうにしておくと、それは間違いだと指摘された時でも、「いや、あれは紹介しただけで、私が言っていることではありません」と言い訳できる)。僕はそれを一種の病気とみなしていますが、世間の評価や名声がほしくて、虎の威を借りて無責任な能書きを垂れたがる悪癖は治らないようです。

 この前、ここにソギャル・リンポチェのスキャンダルについてのかなり長い英文記事を翻訳紹介しましたが、彼などもそのひどい内実が知られていないうちは、「悟ったチベット仏教のグル」、いわゆる spiritual teacher として西洋で大きな尊敬を集めていたのです。わが国でも彼の『チベットの生と死の書』はベストセラーになっていたので、それを読んでこれは偉い人だと思っていた人たちは「そんなのありですか?」と唖然とさせられたでしょうが、あの本は、直接の引用はありませんが、僕が今度出す訳本(こちらの作業は完了したので、年内には出ると思いますが)の参考文献一覧にも書名が出ていて、担当編集者の女性に、そのスキャンダル記事をブログに紹介したので読んでみて下さいと言ったら、読んでやはり唖然とさせられたようでした。彼の破廉恥漢ぶりには本に序文を寄せたダライ・ラマも閉口させられたようですが、全く、紛らわしいことこの上ない時代です。

 保守派の皆さんのお好きな孔子によれば、名実が一致しないのは世が乱れる元です。そうなると名分は空虚な美辞麗句にすぎなくなって、道徳はたんなる形式と化して、信用を失い、世は乱れ放題になるのです。今はまさにそういう時代で、不道徳な人間が道徳をやたら口にし、子供たちにそれを教えるべきだと主張するのは、その乱れをいっそうエスカレートさせることにしかならないでしょう。安倍なんて、「もり・かけ問題」でどれだけ嘘をついたか、あの恥さらしの下村博文なんかも同様です。そういう連中が愛国だの道徳だのを説くというのは、子供たちに「口でだけエラそうなことを言ってれば、あとは何をしてもいい」と教えるのと同じです。つかまりそうになったら権力を悪用して関係方面に圧力を加え、それを阻止すればいいので、それができるのが「成功者」というものだと。

 昔の自民党の政治家たちは、そこらへんは今と較べてずっと“謙虚”だったように思います。つまり、自分が道徳的でないことはよく承知していたので、人にエラそうに道徳を説くようなことはなかったのです。某法務大臣など、「政治家に倫理を求めるのは、八百屋で魚をもとめるのと同じ」だと語って、マスコミに叩かれましたが、言い得て妙だと、僕はむしろそれを評価していました。同じく「この程度の国民ならこの程度の政治家」だと言ったのも、たしかに言えてると笑ったので、彼は「真実を愛する」政治家ではあったのです。

 僕が奇怪に思うのは、今はつまらないことにはえらく厳格だということです。前にもちょっと書きましたが、昨今は「差別語」への検閲が異常に厳しくて、僕のこのブログなんかはそんなことはおかまいなしに書いていますが、ごく自然な日本語でも、「差別だ!」と弾劾されるのです。だから「めくら滅法」「つんぼ桟敷」「びっこを引く」なんて昔からある言葉(言うまでもなく、それらは差別を意図したものではありません)も本にするときにはご法度なのだと言いましたが、「はげ頭」や「未亡人」も駄目だということになると、首を傾げざるを得ない。

「そんなもの、ギャアギャア言う方がどうかしているので無視できませんか?」と編集者に言うと、やはり社にクレームが来ることが予想されるのだという。本の最後に、「本文中、一部不適切な訳語がありますが、これは訳者が編集者の言うことを聞かずに勝手に使用したもので、社に責任はありません。抗議は直接訳者宛にお願いします」と、メールアドレス添付の断り書きをつけるなんてのはどうですか、と言うと、微笑されるのみ(ついでにお断りしておくと、ナチュラルスピリット社長のブログに出てくる「厄介な訳者」は僕のことではありません)。仕方がないので、訳文を工夫して、別の表現に変えましたが、「ハゲ頭」と言っても、例の豊田元議員の「このハゲェー!」というのとは違い、それは文中では無邪気な子供の言葉で、ここはそれでないとユーモラスな持ち味が出せない。未亡人まで差別語だというのは理解し難いが、「未来をうしなった人」と読めるのでけしからん、ということなのでしょうか? 通常そんな穿った意味で使う人はいないので、傷つく人がいるとすれば、それは被害妄想としか思えないのですが…。

 仮に僕がハゲだったとして、僕はハゲと言われてもべつだん傷つかないと思いますが、いちいちそういうことに敏感に反応して「深く傷つく」人に配慮すべきだというのは「道徳的」なことなのか? 今はそういうことにやたらやかましいくせに、ヘイトスピーチの類は逆に増えているので、問題をはき違えているとしか思えないのです。文章には文脈や全体の印象というものがあって、差別かどうかはそれを見て判断すべきだと思うのですが、それは無視して、部分に、言葉だけに反応する。全くもってやりにくい時代です。そういうつまらない言葉狩りでこの社会がより「道徳的」になることはありえないと思いますが、事実そうなってはいないのです。同じ伝で人や会社に些細なことで難癖つけるモンスター・クレイマーの類や、差別語満載のヘイトスピーチにふける腐れが増えただけ。

 結局、学校の道徳教育やら、重箱の隅をつつき回るような書籍の「差別語」検閲では、この社会の道徳性が上がることはないのです。むしろ逆効果になるので、そういうことはやめた方がいい。保守派の政治家先生や文化人の皆さんが“実質的”に道徳的なら、残念ながらそうは思えませんが、子供たちはそこから自然に学ぶでしょう。そうでないから言葉で無理じい徳目を教えてカバーしようとしても、それは孔子大先生も言ったように世の乱れを拡大することにしかならないのです。

 そのわかりきったことがどうしてわからないのか、僕には不思議でならないのですが、今の保守派たちのそれは、国民をかつてのように権力に従順なタブーまみれの“臣民”にして、自分たちの勝手放題に文句が出ないようにしたいと、そういうことなのでしょうか? たぶんそうなのでしょうね。
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