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英語「民間試験導入」をめぐるこの喧嘩、明らかに東大が正しい

2018.09.21.15:54

 次の記事を読んで、東大を見直しました。同時に、KO元塾長の「見識」のお粗末さに慄然としました。

東大vs慶應 偉い教授たちが罵り合いの大ゲンカ勃発

 2020年度、つまり今の高1が大学入試に臨むときから、現行センター試験は「廃止」されて、英語は「民間試験」を代わりに使う、ということになっているのですが、これは安倍政権下で進行しつつある「教育破壊」(学歴コンプレックスが裏目に出て、とにかく彼はいらんことをしたがる)の代表例のようなもので、入試現場は大混乱に陥るだろうと、かねて僕は予言しています。そういうアホな答申をした連中の顔が見たいと思っていたのですが、この「元慶應義塾塾長・安西祐一郎氏」は、「2014~2015年に中央教育審議会(中教審)の会長を務め、『民間試験導入』の制度設計責任者だった」そうで、そのアホ答申のいわば「元締め」だったわけです。

 僕は今年の三月、進学大学が決まった生徒たち用にTOEICやTOEFL向け教材を使った授業をしたのですが、あらためて「こんなもの、大学入試に使えるわけない」と思いました。前者はビジネス英語、後者は留学の際必要になる試験です。用途が違う上に、要求される語彙量も多すぎる(とくにTOEFLは)。これに英検(これは「実用英語」検定試験)など加えて、そのどれかから選べと言っても、そこに統一的基準を設けるのはほぼ不可能です。

 だから、「現在、提案されているやり方だと、英語の試験を複数の民間業者に丸投げするようなかたちにもなりかねないが、それぞれビジネスや教養など目的も違い、設問の仕方も違う。それなのに無理にセンター試験のように共通の基準に換算しようとしている。それでは受験生のスコアを正確に比較することは簡単ではありません。走り幅跳びと棒高跳びを比べるようなものです」という阿部公彦・東大教授の指摘は正しい。

 安西氏によれば、「英語力というのは、しっかりした構文規則と豊富な語彙を使いこなし、相手の立場や文脈を考慮して、論旨明快に英語で表現する力のことだ」そうで、それには僕も賛成しますが、勉強には順序というものがあって、今の高校生にいきなりTOEICやTOEFLなんて、そもそも無理なのです。無理にそれをやろうとすれば、基礎がおろそかになって、かえって学力がつかなくなる。

 僕は高校レベル、大学入試レベルの土台ができた生徒相手にTOEICやTOEFL用の授業をしたのであって、その前段階を飛ばすことはできない。それはむろん、大学のレベルにもよりますが、そこをちゃんとクリアしたうえで、大学生になってから、その種の試験は受ければいいのです。「いや、今の大学入試用の勉強はその役にも立たないのだ」なんて安西氏は言うかもしれませんが、それは嘘なので、げんにうちの息子は初めから留学を考えていたので、大学に入ってからTOEFL用の勉強を始めて、受験しましたが、ibtで100点をクリアした。120点満点だから悪くはないわけで、「今の大学入試用の勉強は役に立たない」なんて大嘘なわけです。

 もう一つ、ああいう試験は半分は要領で、それがいいから申し分のない英語力があるという保証にもならない。「表面的」なのはセンター英語と同じなので、今の国立二次で問われるような抽象度の高い英文の精確な読解能力や、日本語に移し替える能力は、学問には不可欠なのです。

 同じ東大生と言ってもピンからキリまであるでしょうから、「東大生がすべてこの力をもっているとはとても言えない」とは言えるでしょうが、無責任な「民間試験導入」でそれが果たされるだろうとは「とても言えない」わけで、「何をとち狂ったこと言ってるんだ、このオッサンは…」ということにならざるを得ないのです。大体、こんなこと言っては叱られるでしょうが、中教審のセンセ方の語学力それ自体が大したことないのではありませんか? 緻密な思考能力が欠落していることは言うに及ばず。率直に言えば、頭が悪すぎるから、あんな無責任な答申を出すのです。

 僕は現行のセンター試験に関しては、単純に全廃して、各大学の個別試験に委ねるべしという考えですが、民間試験導入よりは今のシステムの方がまだマシだと考えています。東大はおそらく独自の一次試験を、英語に関しては課すつもりなのでしょう。元々東大は、共通一次導入以前にも、独自の一次試験をやっていました。そちらに戻せばいいのです。

 共通一次(センター試験の前身)導入の際は、僕の記憶が正しければ、東大の法学部と医学部が「参加しない」と表明して、文部省(当時)を激怒させ、仕方なくそれにおつきあいすることになりました。ついでにいえば、京大は「全面協力」を表明して、当初は「共通一次重視」の配点をしたのですが、しばらくするとキャンパスの雰囲気が変わってしまい、「何じゃ、これは?」という感じの薄っぺらな学生が増えてしまって、危機感を抱いた大学当局は一転、「二次重視」に配点を変えた。それでやっと「元通り」になったというような話を、僕は当時の文学部長だった藤沢令夫氏のエッセイで読んだ記憶があります。学問というのはヘンにものわかりのいい、表面的な理解しかもたない人間には不向きなので、大方の人が「あたりまえ」だと思うことがどうして「あたりまえ」なのかわからないと、そういうところにひっかかりをもつある意味馬鹿な人間が必要なのだと、このプラトンの研究者は言っていたので、そのままセンター重視でやっていれば、深みのない平面ガエル的秀才(そういうのはAIの発達でもう用済みになっている)に侵略されて、京大の良き伝統は失われる羽目になっていたでしょう。

 共通一次の時みたいに圧力に屈することなく、東大は「誤った政策に対する『最後の防波堤』」になれるかどうか、真価が試されていると言えそうです。「官の圧力に弱い」のは東大の宿痾(しゅくあ)のようなものなので、土壇場で腰砕けになって「やっぱり…」と言われないようにしていただきたいものです。

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