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地震と日本人の無常観

2018.09.09.16:09

 北海道は元々地震が少なくないところだという話ですが、南海トラフ大地震だの、首都圏直下型地震だのと較べて注目度が低かったので、大方の人はあの地震には驚きました。衝撃的だったのは次の映像です。記者の耳障りな上ずった声(ああいうのはどういう種類の興奮なのか、リポーターたちは少し自省してみた方がよいのではないかと思います)など余計なものが入っていないこれは、読売新聞のヘリからのもののようです。

北海道で震度7の地震 厚真町で大規模な土砂崩れ

 専門家の間では、しかし、あそこは危険とみなされていた地域の一つだったようです。次も読売の記事。

震源域「ひずみ」蓄積しやすく…関東地方にも

 東京とその周辺や、京都、大阪も危ないということになりますが、これに南海トラフ地震での想定被害区域を重ねると、無事なところはどこにもないということになりそうです。

 次は気象庁のホームページに出ている地図です。

南海トラフ地震で想定される震度や津波の高さ

 むろん、同時に全部が起きるということはないわけですが、地震はそのときそのとき「危ない」と言われているところではなく、別のところで起きることが多いので、活断層マップ(ついでにそれも示しておきます)というのが公開されていますが、それらとは違うところで起きて、「未知の活断層が動いた」なんて説明される場合もありうるわけです。

日本全国の活断層マップ・情報

 しかし、人間のつねとして、「自分が住んでいるところは大丈夫だろう」と考える。そのあたり、人間はいつ死ぬかわからないのですが、自分は死なないだろうと何となく思って生きているのと同じです。「つねに死を想え」と昔の哲人たちは言いましたが、ふつうの人間にはそれはできず、したとしてもそれは神経症的な取り越し苦労みたいにしかならないので、死の忘却によって安逸を得ようとするのです。

 南海トラフ地震など、可能性は70~80%あるという話ですが、それも何十年、百年単位の予測なので、いつ起きるかはわからない。首都圏直下型の地震など、僕が高校を卒業して上京したのは昭和48年(1973年)でしたが、当時から言われていて、それから45年たちますが、まだ起きていないのです。それは当時の予測がデマだったからではなく、明日起きるのか50年たってから起きるのかはわからないからです。地震予知ではそのあたりは「誤差」の範囲に入ってしまう。

 場所を特定するのが難しいのも、プレートと呼ばれる割れた板をくっつけ合わせたようなものの上に僕らは住んでいるわけですが、その端っこ同士は重なり合っていて、それが押し合うのでひずみがたまるとその反作用で地震が起こるとされていますが、その板そのものにあちこち無数のひび割れがあって、それのどれがそのとき割れるかはわからないからです。完全なシミュレーションはできず、今度はここら辺に地震が起きそう、ぐらいのことしか言えない。あくまで確率論的な話なのです。

 しかし、それは確率論的には正しいわけで、南海トラフ地震も首都圏直下型地震も、遠くない将来、いずれ起きることは起きるのでしょう。起きたときのディティールも予想とは違う可能性が相当あるが、それはシミュレーションの限界です。

 僕自身は政治や行政の担当者ではなく、たんなる一個人で、もう若くもないので、「人間、死ぬときは死ぬ」と考えて、別に備えなどというものは何もしていないのですが、政治や行政に携わる人たちはそうはいかないでしょう。被害を最小限に食い止めるためにはどうすべきか、日夜頭をひねって、それに備えた体制の構築に苦慮する。

 唐突なようですが、ここで僕が思い出すのは、あの『平家物語』の冒頭の一節です。

 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 ここに出ている日本人独特の無常観は、地震列島の住民ならではというところもありそうで、げんに平家物語のこれは、地震と無関係ではなかったのです。「文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生し、『平家物語』や『方丈記』にその記述が見られ」(ウィキペディア)るからで、『平家物語』には「大地震」の章まで設けられているのです。ネットにその原文・現代語訳両方が出ていますが、現代語訳の方をご紹介します。その地震の描写はすさまじいものです。

日本古典文学摘集 平家物語 巻第十二の二 大地震 現代語訳

 昔のことなので、この文治地震については正確なことはわかりませんが、そのために改元が行われたほどの広域にわたる大地震で、ウィキペディアの同じ記事には「内陸地震にとどまらない津波を伴った南海地震の可能性が指摘される」と記されています。上の平家物語の記事からしてもそれは頷ける。この地震は1185年8月のことであったというから、それから833年たっているわけです。

「諸行無常」「盛者必衰」の受け止め方は人それぞれでしょうが、それを念頭に置けば、この世界の見方、自分の生き方、価値の優先順序も、おのずと変わってきそうです。心映えのすぐれた人なら、「いつ死んでも悔いのないように自分の時間とエネルギーを有益に使おう」となり、そうでない人でも、物質至上主義的な、あるいは利己的な価値観にいくらか変化が生じるでしょう。刹那主義に流れるという人はまずいない。いたとすれば、それは「いつ死ぬかわからない」ということの本当の意味がわからない人だけです。

 別に地震が来なくても、基本的に僕ら人間が置かれた状況は同じです。病気や事故の類は、つねに危険として日常に潜んでいるからです。いつ何が起こるかわからないということは、人を不安にさせるより、むしろ失われている生の切実感を高めてくれるものでしょう。頭ではわかっても、それが心の部分では実感できないというのが人間の弱点ですが、その分裂が解消されれば、それだけで、この人間世界はもっとまともな場所に変わるかもしれません。その意味では、地震列島に暮らす日本人は、より多くの気づきの機会を与えられていると考えることもできるでしょう。

 かつて小林秀雄は、一言芳談集に触れ、「現代人は、中世のなま女房ほどにも、無常といふことがわかつてゐない。常なるものを見失つたからである」と書きました。無常が実感されてこそ、「つねなるもの」への希求も生まれるので、それは人間をより精神的にしてくれるのです。無常を恒常視して、それにしか拠り所をもたない人間は不安で弱い。またそれゆえに僕らは愚かになるのだと思います。
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