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「読解力不足」の原因とその深刻な影響

2018.06.06.14:18

 ネットのニュースサイトに、加谷珪一氏の次のような興味深い記事が出ていました。

日本の生産性を引き下げている「文章を読めない人」

 これを読んで、「たしかにその問題はあるよな」と共感する人は少なくないだろうと思います。僕自身は、「いちいちご尤も」という感じで読んだので、日米の経済統計でも、「米国のサイトの方が英語という外国語であるにもかかわらず、内容が直感的に理解できる」という箇所など、僕はその方面のことは知りませんが、政治や社会問題の記事などにも概して同じことが言えそうに思われるので、「そうなんだろうな」と思いました。

 この記事に誘発されて思い出したのでついでに書いておくと、昔、三十代の頃ですが、一時期、資格試験予備校で某国家試験の時事小論文の講師をやったことがあります。その際、トピックをいくつか選び出して、それをレクチャーし、その後で受講者にそれをテーマに書いてもらうということをしていたのですが、その一つとして当時話題になっていた輸入米のミニマムアクセスの問題を取り上げることにして、各種の新聞・雑誌記事やら、「現代用語の基礎知識」の類やら、目につくものには全部当たってみたのですが、どれも文章までほとんど同じで、しかし、意味がどうしてもわからないところがあるのです。「解説」なるものも、言葉が少し多いだけでかんじんな点がわからないのは同じ。それでやむを得ず農水省に電話をして訊くことにしたのですが、相手が何度か変わった後、直接担当したという人が相手をしてくれました。それで、その疑問点をたずねたのですが、その担当者はお役人らしからぬさばけた人で、笑って「よくそれに気づきましたね」と言うのです。そういう質問をしてきたのはあなたが初めてですよと前置きして、「あれは実は、意味不明なようにできているのだ」と語るのです。交渉の当事国がそれぞれの国内向けに適当なことが言えるように「玉虫色」になったので、「意味がわからない」のが正解なのだというのです。要するに、マスコミの記者たちは渡されたペーパーをそのまま写して記事にしただけで、自分の理解というフィルターを通していない。だからみんな同じになって、「意味不明」が放置されたのです。意味不明の理由が説明されていればいいが、そうはなっていないから困るのです。

 こういうことが日本の新聞記事などにはかなり多くあるので、自分の頭で考えて、情報を自ら咀嚼した上で伝達することを怠るというのも、「わかりにくい」原因の一つなのではないかと思います。やることが機械的すぎるのです。筆者が指摘する理由の他にも、そういうことがありそうなので、書いているご本人が実はわかっていなかったりする。お勉強といえば暗記という中で育ってきた弊害がモロに出てしまうわけで、自分がよく理解していないものを人にわかるように説明できる道理はないのです(仮に「説明」したとしても、それはステレオタイプになることが多い。たとえば、今その弊害が指摘されている小選挙区制にしても、導入前は「死票が増えるが二大政党制になって政治が安定する」というような安易な説明が判で押したように行われていたのです。「そんな単純な話かな?」と僕は疑問に思いましたが、かつて教科書の説明を鵜呑みにしたのと同じで、誰か有名な政治学者がそう言ったとなると、それを受け売りするだけになって、実際にどういう結果になるか、自分でシュミレーションしながら考えてみることはしないのです)。

 ふだんこういうのに慣れすぎているから、今の日本人はおしなべて理解が表面的なものになりやすい。しかし、この記事で取り上げられている最近のお粗末な「読解力不足」には、こういったこととは別の心理学的要因もからんでいると思われるので、ここから先はそのことについて書かせてもらいたいと思います。

「文字は分かるが文章を理解できない」というのは、要するに「文脈が読めない」ということでしょう。だから、ツイッターなどでも、「一体どういう読み方をしたわけ?」というような悪意に満ちたリスポンスが返ってきて、背筋が寒くなるようなことになるのです。

 昔からそういう人は一定数いたわけで、再び脱線させてもらうと、四月頃、僕は翻訳の件で編集者とやりとりしていて、「めくらめっぽう」「びっこをひく」「ハゲ」などの言葉にいちいち「訳語再考」指示がでているのに苦笑させられました。他にれっきとした日本語の「つんぼ桟敷」なども、今は「不適切な差別表現」として書き換えを命じられるのです。しかし、文脈上必然性があってそういう言葉は出てくるので、そういう表現それ自体が「差別的」だというのは僕には理解しがたいのですが、こういうアホな(これもNGです)「言葉狩り」も、文脈を無視して単語それ自体に反応して「けしからん」と騒ぐ人たちや団体の圧力があって進められてきたものでしょう(それでヘイト・スピーチの類が減るよりむしろ増えているのは皮肉なことです)。英語のchairman をchairperson に書き換えるのなどは、議長は今は男女どちらの場合もあるので、その修正には一定の合理性がありますが、無邪気な子供が「ハゲのおじさん」と言ったという箇所を、「髪の毛のない中年の男性」に変えたとすれば、現実にはあり得ない表現をしたことになってしまうのです(ハゲという言葉それ自体に傷つくナイーブな男性がそんなにいるとは僕には思えないし、そういうことにいちいち反応する方もどうかしていると思われるのですが)。

 だから、僕としてはそういうのはほんとは変えたくないので、一番いいのは、最後に「編集部注」として、「内容に一部不適切な表現が含まれていますが、これは編集者の指摘にもかかわらず、訳者がそのままにすることを主張してこうなったものなので、当社に責任はないことをご理解の上、抗議は直接訳者宛にお願いします」とでもして、メールアドレスでもくっつけておくことかも知れません。その程度の抵抗はしたいのが本心です。

 話を戻して、文章では全体の趣旨が理解できない(理解する努力もしない)が、会話ではそれがわかるということは、そういう人にはおそらくないので、文の脈絡を理解せずに反応する人は、会話でも同じことになる可能性が高いでしょう。そういう人はそれという自覚はないまま、「自己文脈」だけで外界に反応しているのだろうと見られるからです。アスペルガーなどの発達障害がそれにからんでいることは少なくありませんが、それだけではこんなに多くならないので、今のいわゆる「ジコチュー」の風潮が関係しているのです。

 最近は人間関係に悩んでいる人が非常に多いという印象を僕は受けているのですが、その場合、悩んでいるのはたいてい「まともな」人の方なのです。「自己文脈人間」は、悪いのは相手の方だと決めつけていて、自己本位に情報や人の話を曲解してしまうのですが、その自覚はない。それを指摘するといわゆる「逆ギレ」するので、まともな人はそういう人相手の対応に苦慮する羽目になるのです。

 元々人間はコミュニケーション能力が高い生きものではありません。知能が高く、言語をもっているからそう錯覚してしまうだけで、むしろそれゆえに深いコミュニケーションが阻害されてしまうという側面もあるのです。人間関係が希薄化し、やたらと観念的になった今の日本人にとって、かつての「以心伝心」は、それは言語に頼るものよりある意味ずっと高級なものだと僕は思いますが、今では未熟で自己中心的な「勝手な忖度」としてトラブルの原因になることの方が多くなっているのです。

 しかし、「以心伝心」的なものに頼ることが多かった日本人は説明のスキルを育ててこなかった。それは冒頭記事の指摘にもあるとおりです。先に述べた、「自分の頭で考える」ことをせず、他人の文章を引き写ししてそれで事足れりとするジャーナリズムの安易さなどもそれを助長しているでしょう。逆説的に、だから虚偽の論理や説明に騙されやすい人が多くなってしまうとも言えるので、上に見た「自己文脈人間」は、しばしば口だけは達者で、自己正当化の能力には長けており、人は後でそれがどんなに事実と違っていたかを知って驚くのですが、表面的に話を聞くだけの人は最低限の裏取りもしないまま、安易にそれを真実と信じ込んでしまうのです。

 これと反対の、口下手だが正直で誠実な人の場合、話が断片的で、ときに混乱しているように見えることがあります。それであれこれ質問しているうちにだんだん「そういうことなのか」というのがわかってくるのですが、今の時代にはこういう善良な人は不利です。立て板に水式に、嘘もまじえて自分に好都合なことだけ一方的に並べ立てる「自己文脈人間」には対抗できない。彼らは人の揚げ足取りも巧みなので、なおさらです。見かねた詳しい事情を知る第三者が、代わって「おかしいのはあんたの方だろうが」と一喝してやるしかなくなるのです。

 こういう問題は、だから、「ビジネスで行き違いが起き、生産性が下がる」というだけにとどまらない。社会全体に暗い影を落としているのです。僕の見るところ、病的な「自己文脈人間」には二つのタイプがあります。一つは、この前のセクハラ問題の財務省の福田事務次官みたいなタイプで、彼は音声まで公開されたあの女性記者相手のひどすぎる発言の数々がセクハラではないと言い張り、最初は「あれを週刊誌に流した本人は名乗り出ろ」という脅しまでかけたのですが、彼の「自己文脈」ではあの程度のことは問題にもならないと本気で思っていたフシがあるので、自分の能力、経歴、権力におごって、「自己文脈しかない」人間になり下がったのです。たぶん、彼の自己イメージは「能力が高く、豪放磊落で、突破力のある人間」というようなものだったでしょう。傲慢で無神経な破廉恥漢ではないかという健康な自己疑惑は、彼の意識に浮かぶことはなかった。それは彼の「自己文脈」には不都合な負のイメージだからです。

 もう一つは、これとは逆の、自己愛と虚栄心は人一倍強いが、さしたる成功も得られず、つねに「自分は正当な評価を受けていない」と不満を感じている屈折したタイプです。こういう人には、失敗して恥をかくのを恐れて勝負や責任を避け、何かや誰かにもたれかかってイージーな人生を歩んできた人が多く、客観的に見ると世間的な苦労をほとんど知らないのですが、ご本人は自分だけ苦労させられているような顔をして世の無理解を嘆くのです。こういう人の「自己文脈」では、外界は自分に奉仕すべく存在しているので、何か商売をするのでも、それは相手とギブ・アンド・テイクの関係が成立しないと話にならないのですが、テイク・アンド・テイクしか考えていないのでうまくいかず、それでは駄目だと助言してくれるような人とは口も利かなくなるので、「もたれかかり」生活を続けるしかなくなるのです。サラリーマンなら、言うことだけは一人前だが、社業への貢献度は低く、会社のお荷物になっているが、ご本人は正当な評価が行われず、出世できないのはそのせいだと思い込むタイプです。それでは自信がもてるようになるはずはありませんが、無理な自己正当化・美化欲求は募る一方なので、周囲の誰それを悪者に仕立てて非難するといったことを繰り返してトラブルメーカーになるのです。SNS好きなら、そちらにうっぷん晴らしの無理解な「自己文脈」投稿を繰り返す。こういう人の特徴は、並外れた自尊感情ゆえに些細なことにも「きわめて傷つきやすい」が、公正の感覚はなく、不当に他者を傷つけることには全く無神経だということです。万事において「自己文脈」だから、そういう意識は働かないのです。

 こういうのは全部メンタルな要因によるので、別に元々の頭が悪いというわけではない。ちなみに、この「頭が悪い」にも怒ってくる人がいて、「自分は頭がいいという書き手のうぬぼれに思わず胸が悪くなった」なんて下らないことを迷惑顔で書き立てたりするのですが、僕らは学生の頃、仲間内で「あいつは頭が悪い」なんてよく有名文化人をこきおろしたりしていたものですが、それは知的・人間的な不誠実さを言ったもので、一種の道徳的批判だったのです。だから、元はたいへんお勉強ができたらしい先の福田事務次官なども、知能指数は高いのだろうが、「頭が悪い」に該当するのです。

 今は子供だけでなく、日本人全般の「国語力の低下」が言われますが、スマホばかり見ていたのではそれも無理はないかなと思いますが、それだけでなく、原因はこの自閉的な「自己文脈」人間が増えすぎたことにもあるということです。僕は塾で高校生を相手にしていて、時々彼らの英文の珍解釈に爆笑させられるのですが、読んでいるうちに語彙力不足も手伝って話がわからなくなると、「自分の妄想の世界に入ってしまう」ことがある(国語の試験でも時々それをやらかす)のだそうで、彼らの場合には自覚があって、それも笑えるものだからいい(採点官も笑って点数をおまけしてくれるかもしれない)のですが、冒頭の記事に出てくる、「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤もOKだった」という何の罪もなさそうなツイッターのつぶやきに対して、「何故今週だけはOKなんだ?」「サンダル無い人は来るなって?」「暑いならともかく基本はNGだろ」といった反応を返すなんてのは、読解力の欠如を示すだけでなく、おかしな悪感情から人に難癖つけずにはいられないというところがありありで、そこが異常なのです。「私は祖母がつくってくれたワラジで通ってます」なんてのなら、ユーモアもあっていいが、そうではないのです。

 僕はYoutubeで昔のフォークやロックを聴くことがよくあるのですが、下のコメント欄にたまに笑えるものがあって、以前、谷山浩子の『カントリーガール』を聴いていて、ふと下を見ると次のような文があって、思わずふき出しました。

こういう素朴な少女が好きだと思い結婚しました。
 思い切り失敗しましたが。


 笑ったのは僕だけではなかったようで、今確認すると三年前のものですが、それは「評価順」の堂々トップに輝いているのです。本当なら、ご本人には笑いごとではなかったかもしれませんが、それでもやっぱり可笑しいのです。こういうのは一種の「普遍性」をもつので、ディティールや程度の違いこそあれ、大方の人が似たような幻滅経験をする。幻想が永遠の生命を保てるのは、記憶の中のあの実らなかった純愛の美しい異性の姿のみ。男女双方がそうなので、だからこういうのは他者の失敗や不幸を嘲るといったものとは性質が違うのです。書き手にも自分を眺めて笑う乾いたユーモアがある。

「自己文脈人間」の場合は、しかし、他でもないそういう共感がこもった笑いが笑えない人たちなのです(自分を突き放して眺めることも当然できない)。彼らには他者への冷たい嘲笑か、さもなければ自己文脈に基づく一方的な感情的同調(それは理解を意味しません)しかない。こういう人相手には冗談も通じないので、からかい混じりにその非を指摘するようなことだけでも激しい怒りを買うのです。

 要するに、問題は知能や読み書き能力のよしあしではないということです。ジコチューな精神構造ゆえにそうならざるを得ないので、そこを治さないとどうにもならない。そこに発達障害の類がからんでいても、だから必然的にそうなってしまうというわけではないので、自己認識、世界認識のあり方自体に問題があるのです。そして今の文明社会それ自体にそういう人間を大量生産してしまう素地がある。僕はこの前、そのあたりのことも含めて『〈私〉からの自由』としてまとめたものを書いたのですが、それが仮に日の目を見たとしても、一番読んでくれそうもないのがその手の人たちなので、そういうのも無駄かも知れません。しかし、考え方の柔軟な若い世代には、多少の影響はあるでしょう。

 最後に、文章の読み方について言うと、文というのはたんなる情報ではありません。昔は「眼光紙背に徹す」なんて言葉があり、英語にも read between the lines(行間を読む)という表現がありますが、何を書き、何を書かないかといったことも含め、その「書きぶり」それ自体に意味があって、すぐれた書き手の場合、たんなる思いつきを書き並べているのではないのです。今は物書きも量産しないと食えなくなって、だから雑駁なものが増えていますが、少なくとも昔はそうではなかったので、そういうよいものをじっくり読み込むことによって読解力や考える力も鍛えられるのです。そうするとインチキな底の浅い議論はすぐ見抜けるようになる。僕は若い頃、本を読んでいて、これは偉い人だなと思ったら、わからないのは自分が悪いのだと考えて、自分に合わせてそれを解釈するのではなくて、わからないものはわからないと率直に認めた上で、必死に考えてわかろうとする努力をしました。民主主義の世の中だから、みんな対等で、勝手な誤読は当然の権利だと思うのはただの馬鹿なのです。賢愚の差はそこに歴然としてあって、愚はそういう努力をしなければ賢には辿り着けないと考えるのが正しいので、そうでなければ人は向上しません。今はそういう努力をする人は少なくなって、愚かしい自尊感情丸出しで「オレ様に誤解させる方が悪い」というのでは、レベルがただ下がるだけの話です。むろん、難しいことをわかりやすく説明する努力は必要ですが、理解できるかどうかはたんなる言葉の問題ではないので、読む側の「理解の境位」が上がらないことにはどうにもならない。思想信条など重要なことに関してはほとんどがそうです。それがわかって、その努力をするのでなければ、人に進歩はないわけで、これはツイッターレベルの話ではありませんが、ふだんそういう努力を怠っている人が多いからこそ、低レベルの「誤読」もこんなにも増えたのでしょう。それは一種の公害で、傍迷惑なだけでなく、自分自身を害する結果にもなっているのだということを理解する必要があるのです。

 むろん、そういう人たちはこういう文章は腹が立つだけだから決して読まないので、そこにこの種の問題の一番の難しさがあるのですが…。

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