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シャンカラのBrahmanとクリシュナムルティのthe ground

2011.02.23.18:49

 以下は、シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(前田専学訳 岩波文庫)と、クリシュナムルティの『時間の終焉』(渡辺充訳 コスモス・ライブラリー)の読後感想文を一つにしたようなものなので、そのようなものとしてお読み下さい。学者的な論述をする能力は僕にはありませんので(事柄の性質上、一部議論がかなり難解になりますが、それは我慢して下さい)。

 シャンカラは、生没年さえ不明ですが、八世紀の人と推定され、三十代の若さで世を去ったと伝えられますが、後世に大きな影響を残し、「インド哲学の主流を形成するヴェーダーンタ学派の中の不二(ふに)一元論派の創始者とされ、しばしばインド最大の哲学者であるといわれている」(上掲書「訳者まえがき」)人です。ナーガルジュナ(龍樹)などと同じく、強力な論争家でもあったようですが、その教説の仏教説との類似から「仮面の仏教徒」という非難を浴びることもあったとのこと(むろん、ご本人には仏教徒のつもりなど少しもありませんでした)。

 この「不二一元論」というのは一般に、いわゆる「梵我一如」、「(個に宿る真実の自己である)アートマンと(宇宙の根本原理である)ブラフマンは同一である」という主張を指すものとされていますが、流派によって「アートマン」とは何か、「ブラフマン」とは何か、その捉え方、解釈には様々あって、そういうことに首を突っ込むとキリのないことになりかねないので、ここではそのようなことはスルーして、根本的に僕に重要だと感じられること、シャンカラの教えの中でとくに僕の関心を引くことについてのみ触れたいと思います。

 シャンカラの場合、通常のこれらの言葉の受け取られ方とは違い、アートマンとブラフマンは完全にイコールです。アートマンはブラフマンの別名なので、これが意味するのは、彼は個別化された「純粋自己」など認めないということです。アートマンがブラフマンに由来するとか、その純粋性、絶対性を分有しているとかいう話ではないので、「私」とか「私の…」という思いがなくならないと、ブラフマンは認識できず、「無明(無知)」が晴らされることはないのです。

 結論から先に言うと、クリシュナムルティがこのボームとの対談集(ときに鼎談になっている箇所もありますが)で言及しているthe ground(訳書では「基底」。尚、これはボームが持ち出した言葉です)とか、the source of all energy(同「あらゆるエネルギーの根源」)というのは、シャンカラのこの「アートマン=ブラフマン」と同一のものと思われます。

 こう言えば、この本の中でもクリシュナムルティは「ヒンズー教徒もまた、この種の観念、ブラフマンが万物である、という観念をもっている」とか、「(人は)『ブラフマンあるいは最高原理は常にあるのだから、あなたがしなければならないことのすべては、自己を浄化し、それに至ることだけだ』と言ってきた」が、「これもまた非常に危険な言明です」などと明確な警戒心を示しているので、よけいな比較を持ち込むなと言う人がいるかも知れません。が、シャンカラのそれは通俗化されたその種の観念とはずいぶん違うので、そもそも彼は、理論のための理論を構築した人ではなく、現実に輪廻(その意味については後述)の中で苦悩する人々を救済しようと、無明ゆえに理解が困難になった「真理」を示そうとしてあれこれ語ったので、元々はすこぶる実践的な意味をもつ教えだったわけです。それをたんなる「観念」にしてしまったのは、後世の人間の責任なので、クリシュナムルティのこうした言葉にしても、そこからクリシュナムルティ神学みたいなものを構想して、無意味な観念体系が作られてしまうこともありうるわけです。クリシュナムルティとボームはこの本の中で、実験室で二人の科学者がある現象なり事実なりを前にして、「こういうことだろうか?」と仮説、説明をあれこれ試し、それはあくまで「試行」なので、必ずしも全部が整合的だとは言えないものになっている(言葉だけを取ると、前後矛盾する場合すらある)のですが、崇拝心からそこで語られている言葉それ自体を絶対的なものみたいにして捉え、かんじんのその現象または事実はそっちのけに、それを細かく理論化して、「信者」にそのたんなる理屈にすぎないものの受容を強制する、みたいなことにもなりかねないのです。

 「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と言ったのは弘法大師空海だそうですが、僕らもそういう態度を失わないようにしたいものです。理論や説明が重要なのではない、それが意味をもつのは、そこで語られている対象が何で、どういう意味をもつか、ということなのです。後者を離れて、前者に意味はない。後者抜きの理論や知識は、むしろ人を真実から遠ざけ、災いをもたらすことになるでしょう。そのようなものは「思考の自動的・機械的な運動」になるより他はないからです。

 クリシュナムルティのそれと同じように、シャンカラのブラフマンについての説明も錯綜をきわめています。それは万物の基底にあって、万物に浸透し、万物に力と動きを与えるものでありながら、自らは不動であり、万物から完全に自由で、全知であり、すべての目撃者、観察者、「主体」でありながら、通常の「主体」意識を全く免れたものであるからです。それは時間・空間を超越したものでありながら、同時に時間・空間の中で働くのです。それは物質宇宙以前に存在し、不生不滅で、かたちをもたないので「客体」としては認識し得ぬものです。

 だから、理論上は「主体」として認識される他はないが、先にも述べたように、通常の主体意識、自己意識をもっていたのでは、これまた絶対に認識できない。限定されたものに無限定なものがわかるはずはないからです。「個別の自己」としてのアートマンがこれを認識するのではない。厳密にはそのようなものは存在しないのであり、そのような「思い違い」そのものがこの認識を妨げるのです。

 この「思い違い」をシャンカラはどう説明するか。岩波文庫本の「訳註」にわかりやすい前田専学氏の説明があるので、少し長くなるのは承知でそれを引用させてもらうと、

「シャンカラは、みずから輝くアートマン、その映像、およびその映像の拠り所としての統覚機能の三者を想定し、その三者の関係を、顔、顔の映像、およびその映像の拠り所である鏡の関係に比している。顔の映像は、顔の形相をしているから、人は鏡に映っている顔の映像は顔と同一であると考えるのと同様に、統覚機能の諸観念は、アートマンの映像によって輝かされているので、いわば知覚主体のように見えるという。換言すれば、縄に付託された蛇のように、アートマンの本性である純粋精神性あるいは知が、物質的にして活動・作用を本性とする統覚機能に付託されるとき、統覚機能は『アートマンに似たもの』になる。そのアートマンに類似した統覚機能は、アートマンのアーバーサ(映像)を宿すものであると同時に、今度はみずから照らすものとなり、あたかも意識と作用とをあわせもつ知覚主体であるかのようにアーバーサ(顕現)する。シャンカラは、アートマンが知覚主体であると説明することがあるが、それはアートマンが知覚活動の主体であるということを意味しているのではない。じつは知覚を本性とするみずから輝くアートマンの映像が、統覚機能の観念に宿っているということを意味しているにすぎない。アートマンはなんら活動・変化するわけではなく、単にありのままに存在しているにすぎないのである」

 この「統覚機能」というのは何かと言えば、シャンカラは場合によって異なる意味で用いることがあるようですが、ここでは一応「その人に生じた知覚や記憶、観念などを一つに束ねる機能」「主体というものを仮想して、それらをそれに帰属させる働き」としておきましょう(仏教の唯識説における「識」をシャンカラはこの「統覚機能」に相当するものと見做していると推定される、とも前田専学氏はコメントしています)。人間の脳にそのような機能があることは明らかだと思われるからです。その中心となっているのが思考の働きです。

 それで「一般世人」は誤ってこの「アートマンに似たものである統覚機能」を「アートマンそのもの」だと思い込んでしまう、とシャンカラは言うのです。「機能」にすぎないものを「実体」視してしまう。「鏡の上の顔の映像」を「顔そのもの」だと思ってしまうのです。その区別がつかない。この同じ箇所の訳註のうしろの方に、「私」のうまい説明が出てくるので、それも引用させてもらいます。

「アートマンの本性である純粋精神が、意識をもたない物質的な、動作を本性とする統覚機能に付託されるとき、統覚機能はアートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。このとき『私はアートマンである』という観念が統覚機能に起こる。この観念が『私』という観念(自我意識)である」

 ついでに、今見たことの補足を兼ねて、本文から少々。

「人は、光に照らされている身体を、誤って発光体である、と見做すように、見者(=アートマン)であるかのように現われている心(=統覚機能)を、『私である』、『見者である』と考える」
「鏡の中にある映像のように、見(=アートマン)の映像を宿している〔統覚機能の〕観念を見て、ヨーガ行者は、『アートマンを見た』と考える」

 むろん、これらはいずれも「錯誤」(シャンカラは「統覚機能の錯乱」「混迷」といった言葉も使っている)だというのです。

 スタンリー・キューブリック監督の有名な映画『2001年宇宙の旅』をご覧になったことがある人は、あの中に出てくる。宇宙船を管理する、ハルという名で呼ばれている高性能コンピューターが自意識を獲得し、強いプライドと自尊心をもつにいたって、みずからのミスを隠蔽するために嘘をつき、乗員を殺してしまう、という話を覚えておられるでしょう。人間の場合も、このハルと似たようなものだということです。機械が自意識をもって「私がある」と考えるのは笑止なことだ、なぜならそれはオレたちがつくったものだからだ、と人間は言います。しかし、人間も自然が生み出したもので、自分がつくったものではないのだから、それが「固有の自己」をもつと自惚れるのは、よくよく考えてみれば実に馬鹿げた話なのです。コンピューターの「知」が人間によって付与されたものであるのと同じく、人間の「知」も、自然によって、シャンカラの言う「ブラフマン」によって貸与されたものにすぎないのです。

 コンピューターは電源がなければ作動しません。人間も生命というエネルギーの供給がストップすれば、死にます。そのあたりも同じですが、コンピューターが電源を自分のものだと思ったり、人間が生命を自分のものだと考えたりするのはこっけいです。

 コンピューターはまた、適切なソフトウェアがなければ機能できませんが、脳も同じで、予めインプットされた基本となる思考ソフトがあるから機能できるのですが、人間のこの「思考ソフト」は主人顔して次々新しいソフトを作り出し、脳を混乱に陥れたり、動作を遅くさせてしまったのです。そうした原因を作った元凶は「私という観念」で、これはその思考ソフトが大昔に作って、哲学・宗教・心理学・オカルト等々の諸理論によって“ヴァージョンアップ”しながら代々引き継がれているのですが、いくら「改訂」してもそれは有益なものにはなりえないので、この「有害ソフト」を除去するのが先決だと、シャンカラもクリシュナムルティも一生懸命説いているのです。

 人間の脳はもとよりたんなる機械、コンピューターではありません。それは洞察力、創造力をもちます。脳の機能の仕方は、そもそもコンピューターとは全く違う。そのことも科学的に解明されつつあります。しかし、そうした洞察や創造は、脳自身や、その中に仮定されている「私」が起こしているものではない。重要なのはそのことです。それは、(ここでは空間的な意味でこの言葉を使うのではありませんが)その“外から”やってくるのです。それは全く非個人的なもので、何らかの“共通の源泉”のようなものがあるのです。それがこのボームとの対談で言われている「基底」であり、シャンカラの言う「ブラフマン」であると、僕は解釈しています。

 精妙で、かたちをもたない、完全無欠なあるものがそこに存在する。それをクリシュナムルティもシャンカラも言葉を尽くして摘示していたのだと思います(ついでながら、僕は“異端の禅僧”と呼ばれる江戸時代の禅僧、盤珪禅師の語録を長く愛読してきた者ですが、盤珪が「不生の仏心〔「霊明な」という形容がしばしば付けられる〕」と呼んでいたものも同じだと考えています)。

 しかし、どうやったらこのことが、つまり、シャンカラの言う「統覚機能」が生きた実体ではなく、たんなる機能にすぎず、思考が生み出した「私観念」に固執しているかぎり、この事実は理解できないということを、人々にわかってもらうことができるのでしょう。科学や技術に関するものは別として、世の常識は挙げてこの「私観念」に基づき、それを自明の前提としているからです。

 ウパニシャッドの「それではない、それではない」という章句は有名で、シャンカラも「人は『これではない、これではない』というような仕方で(アートマンに)到達する」と述べていますが、人間の頭の中に居座った「“私”ソフト」は頑固で、みずからを生き延びさせるために「高次の自己」とか「純粋な自己」「真の私」といった観念を立てて、これに抵抗し、そうした教えを歪めてしまいます。「完全な自己」というイメージをそこに投影してしまうのです。シャンカラ流に言えば、「統覚機能に映った映像(別に像が見えるわけではないので、それはイメージ、観念にすぎませんが)」を「自己」視して、それを「アートマン」だと思ってしまう。そしてそれが「ブラフマン」に由来するものだという理屈を立てて、二つのものを作ってしまう。つまりはどちらもただの観念です。それではいつまでたっても埒が明かないので、そうした「誤った認識(「無明」の同義語として彼はこの言葉を用いていると前田専学氏は注釈しています)」を打ち破れと、彼は教えるのです。

 こういうことは禅の場合などでも起こるので、たとえば『臨済録』の中に「赤肉団上有一無位真人」という有名な言葉があります(赤肉団上に一無位の真人有って、と読む由)。岩波文庫本の訳者の入矢義高氏は、不幸にして、この「無位の真人」という言葉は「臨済禅のトレードマーク」のような受け取り方をされてしまった、と言います。それでほぼ同時代の玄沙師備から激しい批判を浴びることになったそうですが、それはこの言葉が勝手に一人歩きを始め、「観念」化してしまったからです。それは臨済が意図したことではなかった。『臨済録』の「解説」から引用させてもらうと、

「しかし実は本文で読まれるとおり、臨済自身はこれを直ちに『什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ』と、一撃で叩きこわしている(引用者注―乾屎橛というのは「乾いた棒状の糞」のことだという)。彼は決して『無位の真人』を内在の主体者として措定したのでもなく、上述の玄沙が批判するような『主宰』者に仕立てたわけでもなかった。『自信不及』の修行僧たちに活を入れるための便法として、これを仮設したにすぎない。彼自らも言う。『わしが外に法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする』、『外にも法はない、内にも得られはせぬ』と。『仏もなく、法もなく、証することもなし』とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主宰者を己れの内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち『仏魔』と化して、こちらを金縛りにするであろう。『仏を求め法を求むるは,即ち是れ地獄を造る業なり』。〈無位の真人〉を臨済禅の代名詞とすることは、たれよりも臨済その人の最も忌むところであろう」

 だからこれは、別に「無位の真人」という「真の私」を自覚せよとか、そういう意味では全くないということです。「一種の善巧方便から来た用語」(『自己と超越』の中の入矢氏の言葉)が、紙の上に定着されて流布するうちに、観念的な投影を受けてそのように解釈されてしまった。語り手の真意からすれば、「偽りの私」「真の私」などという区別をいちいち立てて、後者の「超越的な自己」に至ろうとすること自体が、「地獄を造る業(実際、辻褄合わせの理屈をえんえんとこね回し続けねばならないのは苦しいことでしょう)」なので、「“私”という観念」から自由になることが、最初の一歩なのです。

 それでこのこと、「“私”という観念」が虚構、シャンカラの言う「認識上の錯誤」だということが本当に理解、洞察されたとしましょう。そうすると、どうなるでしょう? この『時間の終焉』の中でも述べられているように、「死はなくなる」ということです。

 これはむろん、「不滅の霊魂」という観念を立て、肉体が滅びてのちも魂は生き続けるとか、そういった話では全くありません。仏教やヒンズー教には輪廻説があり、その輪廻の担い手が何であるかというのはやかましい議論をひき起こしてきた問題ですが、西洋的なスピリチュアリズム(それはわが国でも多くの信奉者を獲得しているようですが)における捉え方のように、それは望ましいものとは全く思われていなかったのです。そのようなもの(魂であれ念であれ)を「後に残さない」ようにするために、各種の教えが立てられ、修行が行われてきたといってよいので、シャンカラの教えは明確にそれを目的としたものであるし、クリシュナムルティも実質的にそこは同じだと言ってよいでしょう(だから彼は「日々死になさい」と言うのです)。

 それにどんな呼称を与えるにせよ、「自己という中心(マトリックスとしての自己観念)」がなくなれば、魂も「真の私」もなくなる道理です。「無である私」が存在するなどというのは、たんなる形容矛盾であって、屁理屈の最たるものです。「無」にも「空」にも「仏」にも、「ブラフマン」にも、「私」性は全く存在しません。自己観念が粉砕されないと、そうしたものは姿を現さないのです。

 自己という観念が虚構だという洞察が生じて、代わりにそこに「ブラフマン」とか、「あらゆるエネルギーの源泉」とか呼ばれているものがありありと姿を現わしたとしましょう(それは“誰”が知覚するのでも、「経験」するのでもありませんが)。そのものは時間にも、通常の空間にも所属しません。それはこの世界の、三十数億年の生物進化の背後にあるものです。あえてそういう表現をするなら、それは「現象」としての万物の背後にある唯一の「実在」(そういう“観念”ではない!)です。それには始まりも終わりもない。

 先に言及した盤珪は、みずからこういうエピソードを紹介しています。

 江戸のある儒者が次のように質問した。「不生不滅の仏心」が存在する、と仰るのはなるほど尤もなことと存じます。たしかによけいな意識的はからいをしなくても、人間の耳は自然に色々な音を聞き分けるし、目は物を見分け、鼻は匂いをかぎ分け、口は五味の味わいを知り、言葉を語ることができる。しかし、肉体が死んでからは仰るような「仏心」なるものの霊妙な働きは失われて、呼びかけても答えず、そのようなものの痕跡はすべてなくなってしまう。これでは不生とも不滅とも言えないのではありませんか、と。

 これに対して、彼はこう答える。このからだというのは、地水火風(物質的な諸元素)を借り集めた一時的な存在で、だから生滅がある。しかし、(盤珪の説く)一心というものは物質ではなく、一時的にこの肉体を家として宿ったものにすぎないから、肉体がなくなれば、そうした働きも消えるというだけで、そのものが消えてなくなるわけではない。「一心(英語で言うなら大文字のMindまたはthe absolute mindということになるでしょう)は元よりの一心でござるによって、不生不滅」であると。

 論理としては単純そのものですが、この「一心の覚悟(その直接的な感受と体得)」がありさえすれば、何も恐れるものはなくなる、ということです。生滅、すなわち生死は現象の中にだけある、そのものそれ自体には生成も消滅もないということです。

 この場合も、困難は、無意識に「私」がそのものに同一化するというパターンでそれを理解しようとしてしまうことです。「私は自我でもセルフでも、魂でもない、その不生不滅の一心である」というふうに。それではたんなる観念の投影、妄想になってしまう。これはいくら強調してもしすぎることはない点なので、そこから脱け出さなければならない。クリシュナムルティがしばしば「“誰が”そうするのですか?」という反問をするのも、同じ理由によります(この点、『時間の終焉』に付せられた大野純一氏の「解説」は甚だ不可解な印象を与えるもので、「解説」に名を借りたパーソナルな「演説」としか思われません。とりわけp.488以下の説明は本文を読んだ上でのそれとは到底思えないもので、「『個人』などない」と述べられているのに「真の個人」を云々してみたり、「『真の私』の実現」だの、「『私』と感情・情動との分離による『気づき』」だの、まさにその反応パターンこそが問題なのだと、再三にわたって「非理性的」なこととして本文中で指摘されていることを「観察に役立つやり方」だと推奨してみたり、ぜんたい無茶苦茶です。そういうことはトランスパーソナル心理学やユング心理学の理論には「適合」するのかも知れないが、クリシュナムルティの説くところには全く反していると言う他ないので、彼の語るところをそのまま素直に読めば誰にでもわかるはずです。氏がどうしてそういう誤解に落ち込んだまま下手な強弁を重ねるのかという理由は、以前すでに指摘したので、ここでは繰り返しません。それにしても、周到明快な申し分のない「訳者あとがき」がすでにあるのに、何用あってこのような雑駁で混乱した議論を付加しなければならなかったのか、僕には理解できないことです。これこそご本人言われるところの「『私が』『私が』と言ってきた自己主張的な騒がしい『私』」の表われなのではありませんか? いちいち「気づく主体である真の私」などというものを立ててそれに固執するから、本当の「自己への気づき」が生まれないのです。ついでに付け加えると、この本では訳註にも「大野純一註」が勝手に混入されているようで、こういうのも「出すぎた真似」としか僕には思えません)。

 話を両者の類似に戻して、『時間の終焉』で僕が面白いと思ったことの一つは、「時間(心理的時間)」が本当は存在しないと述べられているところです。「時間」と「私」は切っても切れない関係にあります。「私」があるところには必ず「時間」がある。平たく言えば「私」とは「時間」です。自己観念そのものが「時間である思考」の産物です(大野純一氏流の「『私』が『偽りの私』を脱して『真の私』になる」といった図式がクリシュナムルティの説くところに反するのも、それは「なること[becoming]」の一つのヴァリエーションにすぎず、「時間の内部にある」からです)。通常の場合、人生とはこの「成るプロセス」です。今はこれ、次はあれ、というふうに、たえず人は何かになろうとする。somebody(ひとかどの人間)になろうとすることだけでなく、自分を浄化し、nobodyになろうとすることも同じなのです。そこを履き違えてもらっては困る。たとえば、禅の修行者は「無」に到達しようと悪戦苦闘します。そのプロセスで、その「到達しようとする」ことそれ自体が含みもつ矛盾に直面し、行き詰まり、そこにある“何ものか”(悟ろうとする「私」とそれが投影する理想)が瓦解したとき、そのときにのみ、洞察が起こるのです。

 これとシャンカラの教えがどう関係するのか? それはシャンカラの「輪廻」の理解が、これと非常によく似ているからです。

 前田専学著『ヴェーダーンタの哲学』の中の解説を参考にさせてもらって、そのあたりを説明すると、通常理解されている輪廻は、「生・死を特徴とする輪廻」で、「時間的・空間的に、現在と現世に限ることなく、過去・現在・未来の三世にわたって、神・人間・畜生・餓鬼の各世界を、つぎつぎと経巡る輪廻」です。

 ところが、シャンカラはそうしたものをほとんど問題にしていない。彼が問題視するのは、「専らこの現在の生存を場とする、現在の生存の中で経験される輪廻」なのです。それはクリシュナムルティとボームが話し合っている、「時間に囚われた、縛られた生」と同じものを指しているのだと言って差し支えない。それも「輪廻」なのです。

「一般に、『輪廻』と言う場合には、前者が意味されている。しかし、『ウパデーシャ・サーハスリー』の作者の関心は、ほとんど全く後者の内在的輪廻に向けられ、『ブラフマ・スートラ』およびその注釈に見られる死後の運命などは全く無視されている。シャンカラの真の関心は、人間の過去や未来(引用者注―前世・来世のこと)ではなく、現実に苦しみ悩んでいる人間の救済にあったと見ることが出来るであろう」(同書p.222)

 用語や論理の組み立ては、むろん異なります。この「現世における輪廻」は、「覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻」「行為の主体であることと、経験の主体であることを特徴とする輪廻」などと表現されます(話がややこしくなりすぎるので説明は省きますが、ここで「覚醒状態」と呼ばれているものは眠っていないときの、通常の意識状態を指すものにすぎません)。

 要するに、「私という主体」が存在すると思い込んで、この「主体」が「行為(=業)」し、それに対する他からの反応にさらに反応し、好悪様々な感情を生起させ、そこからさらに行為し、それに対するリアクションに「私」がまた反応する…という葛藤と混乱に彩られた絶えまない循環が「輪廻」なのです。そこにはつねに「行為主体」「経験主体」である「私」が存在する。それはクリシュナムルティとボームが述べている「時間の中の運動」そのものなのです。

 その“根”がどこにあるかをよく自覚していなければ、「悟った私」はそういうものから自由である、などと言っても無駄です。実際にはそのような人は反応し続けているのであり、そうした自己の反応に無自覚・鈍感になり、自己欺瞞が深刻化し、「暗黒」がさらに深まったにすぎないのです。愚劣な自惚れだけよけいだと言わねばならないでしょう。シャンカラが言うように、「アートマンを、『私』という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である」からです。

 類似の言及は、この『時間の終焉』のあちこちにも見られます。「『私は到達した』という意味での自惚れ」「『永遠なるものが自分の内にある』と思い込む」危険、「自分の中に神がいる、何か超人間的なものがある、つまり、中身を超越しているので、中身に働きかけたり、中味とは関係なく機能することができる、何かがあると認める」危険等々。「真の私」などというものを妄想(失礼!)し続ける人は、こういう言葉を“重く受け止め”ねばならないのです。そういう“生悟り”ぐらい危険で有害なものはないからです。

 要するに、変化・生成する「私」、時間の中にあり、「時間」そのものである「私」、そうした「私」の担う生のありようが即「輪廻」だというのが、シャンカラの教えだということです。当て推量の「死後の運命」のことではない。それは「暗黒」であるとクリシュナムルティは言いますが、シャンカラも同じ言葉をそれに与えるのです。それが「無知」であり「無明」です。そして彼らはどちらも、そうした生存のありようからの「出口」を指し示そうとしていた。でなければ「正気の人生」はありえないと確信していたからです。

 『時間の終焉』の中でも、「ヴェーダーンタ」という言葉は元来「知識の終わり」を意味すると、何度か触れられています。「知識の終わり」とは「『私』の終わり」でもあり、「時間の終わり」でもあります。「私」とは畢竟、「知識(記憶・観念の堆積物)」に他ならないからです。それは終わらねばならない。終わるべき必然性を、シャンカラもクリシュナムルティも、様々な角度から説いています。それが人から生きた感受性、ヴァイタリティを奪い、「あのもの」の認識と、そこから来る洞察を妨げているのだと。が、私たちの「私」にとってそれは脅威であり、恐怖なので、何とかそれを「私」と共存させようとして、そうした教えまでをも「心理的知識」(クリシュナムルティ自身が使っている言葉)に貶めて、“不能化”してしまうのです。「真の私」などというものを、あたかもそれだけは別であるかのように立てるなどして。

 しかし、本当に聞く耳をもつ人は、言葉の真の意味で正直で、全身で傾聴するすべを知っている人は、何か全く違ったことがわが身に起き始めるのをどこかで経験(他に適切な言葉が見当たらないので、この言葉を使う他ありませんが)するのではないでしょうか。それは何かの反応の悪い機械をいじっていて、ある拍子にカチッと音がして、スイッチが入り、起動し始めるのと似たようなところがあるかも知れません。それは人生の一大事に遭遇し、それに対応するのに必死で、自分のことなどすっかり忘れ去っていたある日に、青天の霹靂のごとく、突然どこからか降ってくるような、あるいは、苦悩の果てに重いうつ状態に陥り、自己が膿み破れるかのようにして生じる“突破”体験のようなものとして訪れるかも知れません。いずれにせよ、それは類型化も公式化もできないもので、また「期待」しているときには、決してそのようなことは起きないでしょう。

 そして、そのようなことが何か起きたとしても、それは事の始まり、端緒でしかないと僕は思いますが、驚くべきことは、それは誰にでも起きうるということです。それがシャンカラやクリシュナムルティのような宗教的天才(あるいは生物学的変種)にしか起きないことなら、彼らの言うことには何の意味もないが、そうではないと信じられる理由はいくつもあるのです。

 その理由の一つは、彼らの本がそこにあって、たんなる知的アクセサリーや、スノビズムのためでも、自己の権威付けのためでも、評論家気取りになって能書きを垂れるためでもなく、虚心・真剣に読んで理解しようとする、それを「鏡」として自己を深く吟味し、「根底的変容」の必要性とその深い意義を感得する人が、少数でもつねに存在するということです。そのような人たちが、それでどうして何も変わらないということがあるでしょう。それが心からのものなら、あの「それ」(そういう言葉がボームの言葉として出てきますが、ウパニシャッドの「汝はそれなり」という章句は有名です)との感応は必ずどこかで起きるはずです。

 長くなりましたが、僕が書いておきたいと思ったことは、以上です。

 どうすれば「『私』の瓦解」「時間からの自由」が生じるのか、最大の“懸案”だといえるその問題については直接の言及を避けましたが、僕はそれを知りません。それは「方法」を云々できるようなものではないし、起きるときはそのようなものとは関係なしに起こるだろうと思うからです。それは「私」が無用の長物であると知る、その理解の深さ・度合いにもよるのではないでしょうか。

 『時間の終焉』は、クリシュナムルティの次の言葉で終わっています。

「私たちはこれまで長い間話し合い、そして今、どこかに到達したのではないかと思います」

 どこに「到達」するかは、読者のこの本との付き合い方、読み込み方次第でずいぶん違ってくるのではないかと思います。ここで触れたのは、むろん、その中でも議論に関連する範囲でのことにすぎませんが、こういう内容的に目方のある本が日本語で読めるようになったというのは、本当に嬉しいことで、訳者・出版社にお礼を言いたいと思います。
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