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富岡八幡宮殺人事件の教訓

2017.12.10.23:11

「うーん。絵に描いたようなアホだな…」

 事件報道に接してそう呟いた人は少なくないと思いますが、金持ち神社のボンボンで、世間を知らず、人並の苦労は何もしたことがないジコチュー男の末路としては、殺人事件までは余計として、十分ありうることです。別に金持ちではなくとも、甘やかして「バカ殿教育」をしてしまうと、大人になっても幼児人格そのままで、その並外れたジコチューぶりに家族が頭を抱えてしまうというような話は世間に珍しくないので、その意味では教訓的です。

 この手の「世界は自分に奉仕するために存在する」と思い込んでいる人間の特徴は次のようなものです。

・極度に他罰的である。自分の思うようにいかないと、その原因を考えるが、病的な自己愛ゆえに「悪いのは他人か環境である」ということになって、自己反省に導かれることは決してない。彼または彼女にとっては自己が「神」であり、それを疑うことは禁忌なのです。

・従って、こういう人間とふつうにコミュニケーションを取ることは極度に困難です。自分に気に入ることしか受けつけず、人の言葉は何でも自分に好都合に解釈する(遠回しのサジェスチョンのようなものは全く通じない)。正面から叱責されるようなことがあると、ただちに逆上し、相手に対する激しい憎悪を示す。

・その論理は一方的で、すべて自己正当化のために用いられる。自分のことはきれいに棚上げして、周囲の人間の些細な落ち度を鵜の目鷹の目で探し出し、それを誇張して言い立てる。一見すると理路整然としているので、事情を知らない人は騙されることがあるが、後で詳しい事情を知ると唖然とさせられる。超主観的で身勝手な言い分に終始することが特徴で、自分に不都合なことには全く言及しないか、「やむを得ないこと」だったのだという言い訳で無理に正当化し、他を激しく非難中傷することによって責任転嫁する。

・他者への思いやりや愛情というものがカケラもない(妻子やペットなど、自己の延長と本人に感じられているものに対しては過剰かつ盲目的な「愛情」を示すことがある)。当然、人にしてもらったことへの自然な感謝の念はゼロである。反対に自分の「功績」と本人が考えるものや、「人にしてやったこと」は細大漏らさず記憶し、それを誇張して言い立てる。その百倍ほどはある「人にしてもらったこと」や周りにかけた迷惑に関しては、完全に忘れ去っている(極度の自己欺瞞ゆえにそうなる)。

・周囲から孤立することが多く(それはあたりまえですが)、そうなると被害妄想と憎悪をさらに募らせる。酒好きだと、明るく陽気な酒とは無縁で、飲酒するたびその妄想と他者憎悪が募って、偏執狂的な性格を強める。人を陥れるような讒言(ざんげん)も平気で行う。

・ユーモアの根本は、「自分を笑うこと」ですが、そういうゆとりが全くなく、気位のみ無駄に高く、しんから人と打ち解けたり、屈託のない笑いを見せることができない。目つきに和らいだところがなく、たまに見せる笑顔には自己中心的な人間特有の酷薄さが漂っている。要するに、その「人間的な部分」は全部つくり物である。

・最後には悪霊に憑依されて、殺人など、とんでもない事件を起こすことがある。


 大体、以上ですが、これは病的なジコチュー人間にはたいてい当てはまるので、周囲にこの通りか、それに似た人がいるという場合には、要注意です。このブログの読者にはあまりそういう人はいないと思いますが、自分がこれに該当するという場合には、早く「改心」しないと、周りに迷惑なだけでなく、自身がいずれ地獄を見る羽目になるでしょう。

 こういう手合いは、今は数が急増しているという印象がありますが、そこらにゴロゴロいるというわけではありません。僕はこれを「悪性自己愛症候群」と名づけていますが、仮に全人口の一割を占めるような事態になれば、この社会は間違いなく崩壊するでしょう。それほど危険な存在であることはたしかです。

 まともな人たちはこの手の人間にぞっとさせられますが、その精神構造はいたって単純です。その反応パターンは機械的で、犬も食わない自分の虚栄心やプライド、利益を守るためにはどんな卑劣なことでもやらかすというところに人は戦慄させられるのですが、その心理メカニズムそのものは単純で、良心や常識があるように偽装しているが、事実としてはそんなものはないので、悪知恵の働く猿と同じだと思って見ていれば、何ら驚くようなものはないのです。人間だと思うから驚くので、妖怪の類だと思っていれば、かんたんにやることは読める。彼らの得意技は「話のすり替え」ですが、それもそれしか手がないから行うので、いちいちまともに取り合うから面倒なことになるのです(そういうときはきっちり「元の問題」に話を戻してやればいい)。

 その本来の知能とは関係なく、彼らは愚かです。その病的なナルシシズムゆえの勝手なふるまいのために、彼らは周囲の信頼や愛情を失うのですが、仕事でも私生活でも、その結果彼らは孤立して、何よりも可愛い自己の利益に反する結果を生み出してしまうわけですから。それで窮地に立たされると、自分を反省するどころか、他者を非難中傷したり、周囲に対立を意図的に作り出したりして、自分の立場を守ろうとするのですが、一時的に功を奏することはあっても、いずれ事は露見して、それが成功することはなく、逆にいっそう自分の立場を悪くしてしまうのです。頭が悪いとしか言いようがありませんが、ジコチューだから他に考えが思い及ばないのです。

 今回の事件の犯人の富岡茂永にもそれは当てはまることですが、もう一つ付け加えておくべき彼らの特性は、次のようなものです。

・自分が孤立しかけていると知ると、必死に自分の仲間、支持者をつくり出そうとする。例によって自分に好都合な一方的、一面的な話をして、自分への同情や支持を集め、やれ「誰々さんもこう言っている」などと言って、トラブルになった相手方を弱らせようとするのです。彼らには良心はないが、心の深い部分に疚しさはあって、自信がなく不安だから「仲間集め」をするのです。事情を知らない人たちは、いくらかの真実はちりばめられているが勝手に文脈を移し替えたりした、本質は虚偽であるその話に騙されて、トラブルに巻き込まれてしまうことがある。彼らはトラブル・メーカーなので、それを知らないと厄介なことになってしまう。

 富岡茂永などはそれで怪文書をあちこちに送りつけて、それで騒擾をひき起こそうとしたわけです。氏子たちだけでなく、「(茂永容疑者の妻)富岡真里子名義の“告発状"が神社本庁に送られていた」こともあったというし、この「三度目の女房」は事件の際、自らも日本刀で運転手に斬りつけたともいうから、同じジコチューの「似た者夫婦」だった(それでなおさら彼の妄想も募った?)ようですが、「仲間集め」も一向功を奏さないとわかって、二人は恨み重なる姉の殺害を計画するにいたったのでしょう。

 僕はときたま、塾の善良な女子高校生たちから、「先生、女の子の世界って、こわいんですよ」といって、男の子たちの前ではぶりっ子をしているが、半端でなく性格の悪い同級生の話を聞かされることがあって、「そういうのはずうっとそのままで、大人になっても同じことをするだろうね」と苦笑させられることがあるのですが、この富永も「類は友を呼ぶ」の法則で、そういうのと一緒になったものかも知れません。まともな男なら、そういうのを間違って嫁にもらうと災難ですが、彼の場合は「引き寄せの法則」が働いたもので、自業自得と呼ぶべきでしょう。

 ちなみに、この報道では、富永は宮司解任後も「経済援助」を受けていたとあります。次はAERA dot からの引用です。

「茂永氏には退職金が支払われ、退任後も富岡家が経済支援をすることになった。茂永氏は神社、富岡家、責任役員、総代に迷惑を掛けたことを詫び、今後、一切迷惑を掛けないことを約束した。万一、約束に違反した場合は、経済的援助をストップされても止むを得ないこととされた」(佐藤弁護士)

 その「中身」はどういうものだったのか? 「デイリー新潮」に昔の記事が紹介されていて、それを見ると、その内容は驚くべきものです。

 茂永氏は1億2000万円もの退職金を手中にしたばかりか、毎月30万円の年金が支給され、約十数万円の不動産収入も約束されているというから羨ましい限り。

 彼が解任されたのは、元はといえば、その素行の悪さに加え、金銭トラブルが相次いだためだそうで、父親存命の頃に、父親によって解任されたのです。なのに、この厚遇には驚くので、「泥棒に追い銭」とはまさにこのことです。「吸血ダニ」としか言いようのない苦労知らずのボンボンであるこの男は、しかし、その「情け」にも感謝するどころか、実現するはずのない宮司職復帰に執着したのです。そうした「経済援助」など何もなければ、世間並の生活の苦労を余儀なくされ、少しはマシになったかもしれませんが、ヒマをもて余して、妄想にふけり放題だったので、そうした情けもアダになったのです。この手の手合いにつける薬はないと感じられます。

 世間的に言えば甘やかされて育った良家のボンボンにも、温厚で優しい人はいくらもいるものなので、育て方だけの問題ではない。あえて言えば、それは「劣った魂」の持主だからなのでしょう。これはあくまで「理想を言えば」の話ですが、宗教家は高い精神的資質を求められます。彼が神主の家に生まれてきたのは、劣った未熟な魂に成長の機縁を与えるためだったのだろうと思われますが、金満神社だったのが災いして、かえって「退化」する羽目に陥ったのです。身勝手な願望が満たされないのを恨んだ彼は、「死後においてもこの世に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」とする手紙を神社関係者に送りつけていたそうですが、死後は地獄に直行となり、そこで閻魔大王の監督のもと、青鬼赤鬼にこづき回されながら、長い懲役の日々を送ることになり、怨霊となることすら許されないでしょう。そちらの「願望」も果たされないわけです。

 にしても、ジコチュー人間はなぜ愛も知恵もない人間となり果てるのか? 理由は単純であるように思われます。人間が豊かな愛情や同情などの共感能力をもち、知恵や洞察力をもち得るのは、宇宙の究極の源泉たるそれにアクセスし、そこからそれらのエネルギーが流れ込んでくるときだけです。自分がそれをつくり出すのではない。キリスト教流に言えば、それは「神の恩寵」ですが、病的なナルシシストは自分を「神」としてしまうために、それへの通路を自ら塞いでしまう。それが強烈な自己不全感をもたらし、心の中に得体の知れない空虚感と憎悪を抱え込む羽目になり、それには気づかないまま、自己執着をさらに強める悪循環に陥るのです。権力も地位も財力もそれを補償するものとはならない。なのにその根本的錯誤には気づかないのです。

 これは人間にとっては最も不幸な状態で、だからしまいには悪霊の類にとりつかれてしまう羽目に陥るのですが、言葉の真の意味での「正直さ」があれば、その間違いに気づく機縁はそこらじゅうに転がっている。ナルシシストは、しかし、その現実に直面することは巧妙に避けて、虚偽の神=自己にしがみつき続けるのです。誰が悪くてそうなるわけでもなく、そこにあるものを見ようとせず、愚かな自己正当化に明け暮れる方を選択するのだから、自分が悪いのです。

「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言いますが、それこそ自己責任でそうなっているわけで、人として生まれて妖怪になり果てるとは、生を無益化すること、これより甚だしいものはありません。この事件の場合には、神職を引き継ぐ立場に生まれてそうなったのだから、皮肉この上ない話で、僕らはせめてそこに教訓を見て自己反省のよすがとする他ないと言うべきでしょう。人は人として生まれたから自動的に人間になれるわけではない。人間らしい心もちを失えば、悪鬼としてこの世界に害毒を振りまくしかなくなるのです。八幡様にもそれを止めることはできなかった。それができるのはその人だけなのです。「神への通路」を自ら塞いでしまった人間に近しいのは悪霊の類だけになるのだという恐ろしい真実を、この事件は教えてくれるのです。

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