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事実と解釈~「もり・かけ」「日馬富士」問題に寄せて

2017.12.05.12:43

 これは難しい問題です。もうだいぶ前ですが、僕は今どきはやらない西洋古代史を専攻している息子といわゆる「歴史的ソクラテス問題」についてスカイプで議論したことがあります(彼は留学先のドイツの大学のゼミで、自分の発表の際、それをテーマにえらんだ)。プラトンの『ソクラテスの弁明』は有名ですが、クセノフォンにも同じタイトルの著作(『ソクラテスの思い出』とは別)があって、両者が描くソクラテス像はかなり違っているというのです。後期のプラトンの対話篇に出てくるソクラテスはプラトンの創作の主人公という趣が強いが、初期のものは比較的実在した人物像に忠実と言われていて、にもかかわらず、クセノフォンのそれとは大きく異なるのです。

 プラトンはイギリスの哲学者ホワイトヘッドが「哲学の歴史はプラトンのフットノート(脚注)である」と言ったぐらいで、わが国ではとくに権威視され、クセノフォンはただの軍人だったから(軍人でもトゥキディデスなんかは並外れた知性・洞察力の持主でしたが)、プラトン大先生の言うことが正しくて、クセノフォンは間違っているということになるのかどうか…。そこらへんは難しいところで、プラトン描く『弁明』のソクラテスも、理想化または潤色されているかも知れない。「粗野な軍人」であったクセノフォンは、自分に見えたソクラテスを描き、そこにはむろん無意識の彼の「解釈」が入っているはずですが、技巧的なところはないから、かえって真実を伝えている部分があるかもしれない。では、単純に両者を足して二で割れば「歴史的ソクラテス」を浮かび上がらせることができるかといえば、これもそれほど単純ではない。やはり見る人が見なければ人はわからないということがあって、これはふつうの人同士の会話を考えてもわかることですが、狭い考えの人や幼稚な人は自分に見合ったものしか相手との会話から引き出せないから、それに基づいて「あれはこういう人だ」と言う場合、その対話の中身そのものは真実でも、大きく人を見誤っている可能性があるのです。

 だから、ある人物についての人の証言を集めても、それで自動的に真相が明らかになるわけではない。十人の証言を集めて、そのうち九人がこう言っているからと言っても、それらの人の目がみんな節穴で、違うことを言う残る一人の見立てが実は一番信用に値するということだってあるわけです。その人の言うことも、むろん、全面的に正しいとは限らない。

 これは歴史全般について言えることで、昔の歴史書なんかはいわゆる「勝者の歴史」であることが多く、自分たちに都合のいい資料だけを集めて、かつそれはしばしば潤色されているから、事実とはかけ離れていることが珍しくありません。捏造にしても、それは意図的なものと、無意識に行われたものとが入り混じっていてややこしいのですが、これに加えて人間には「合理化」思考が強力に作用するから、大方の場合、ストーリーに当てはめて事象を解釈することになり、それに適合しないものは排除してしまったり、そこまでは行かない場合でも、事件や出来事の見方、解釈が当を失したものになることがある。それによって、そこに出てくる人物像も全く違ったものになってしまうことがあるわけです。

 だから結局、と僕は言いました。本当のところはどうだったかはわからない。歴史の研究者にとってたぶん一番大事なのはそれを忘れないことで、自分の頭の中にある出来合いのイメージやストーリーに過去の出来事や事件を無理に流し込むのではなく、「本当のところはわからないが、資料を精査するとどうもこういうことではないか…」というところを示すことにあるので、それは価値相対主義に落ち込むことではない。解明を待つ真実はあるが、可能なのはできるだけ周到な情報収集と熟考に基づいて、それに迫ろうとすることである、云々。歴史修正主義者がよくやるような歴史文献のつまみ食い、ご都合主義的な切り貼りによる単純化は俗受けするが、そういうのは歴史ではない。それは歴史に名を借りたファンタジーにすぎないので、それは書き手の幼稚さを証明するだけである。彼が言うには、それはよくわかるが、でも、よっぽど精神的に強くないと、そういう「ほんとのところはわからない」という一種の自己断念に基づいて、しかし歴史の真相に迫ろうという努力を続けるのは難しいね、ということでした。たしかにそのとおりで、言うは易し行うは難しの典型ですが、少なくとも姿勢としてはそういうのが望ましい。これはむろん、いかなる解釈も示してはならないということではないので、ときには大胆な解釈を打ち出すことも必要でしょう。要はこれは一つの解釈だという自覚を忘れなければいいので、そういうところに緊張と自制、歴史研究者に不可欠な謙虚さというものも出てくるようになるのではないかと。

 実際の議論はもっと入り組んでいたのですが、骨子はそういう話で、こういうのは別に歴史研究者にかぎらない、ジャーナリストでも、一般の人でも、必要な心がけではないかと思います。ところが今の日本社会を見ると、そこらへんの慎重さは薄れる一方に見えるので、おかしな派閥に分かれて、それぞれが恣意的な事実解釈に基づき、全然かみ合わない論争というよりは、喧嘩をしている印象です。そういうのは「真相究明」が目的ではなく、互いに自分の主張を押しつけ、相手をやっつけようというのが目的なので、何の役にも立たない。公的なメディアでそれをやるというのは、一般人にとってはたんなる迷惑でしかありませんが、野次馬根性にはアピールできるというので、それをやっているのでしょうか?

 例の安倍の「もり・かけ問題」でも、森友の申請書に書かれていた小学校名は、「安倍晋三記念小学校」ではなく、「開成小学校」だった。当初、文書のその部分は黒塗りになっていたので、朝日は籠池前理事長への取材に基づいて「安倍晋三記念小学校」であるとしていたのだと釈明していますが、またもや朝日は「意図的な誤報」をやったので、全くタチが悪い(全体から見ればそれは些細な問題でしかないはずですが)、という論難に始まって、加計学園の件でも、あれは全体が朝日の陰謀である、というようなことを書いている本が出ているそうですが、僕はここにあの問題で何本も安倍批判を書いていますが、別にそうした「朝日の誤れるリード」に乗っかったつもりはなく、総合的な判断に基づくので、「だから安倍は無罪」みたいな論調には大いに疑問を感じます。そんなに「心正しい」のなら、安倍はもっとまともな説明ができるだろうし、アッキーの証人喚問にも応じられるはずなのに、彼は故意に話をはぐらかしたり、頑なに女房の喚問を拒んだりしているからです。だからいつまでたっても話が進まない。この二つは「クソみたいな問題」だという見解には僕も同意しますが、それは安倍が「クソみたいな不正直な対応」しかしていないということを、むろん含んでいるのです。

 朝日批判に関しては、別に僕は「朝日ファン」でも何でもありませんが、話を別にしてもらいたいなと思うこともある。それは例の従軍慰安婦問題で、朝日は吉田清治という一個の虚言症患者の話を真に受けて、「日本軍による強制連行」記事を書き、長くそれを放置して、右翼の非難に堪えかねてしばらく前にやっと「訂正」したのですが、韓国で誤解に基づく慰安婦問題に関する日本非難が始まったのは朝日報道のせいだという、検証も何もないままの論難(それは韓国世論にはごく限定的な影響しか及ぼさなかったという指摘がいくつもあるにもかかわらず)が激しくなり、「訂正」された今も、あの「慰安婦少女像」のしつこい製造・設置が続いているのは、他でもないあの朝日のせいだ、みたいな感情的な非難が続いているのです。僕もそのあたりの韓国世論の偏りとしつこさには呆れている人間の一人ですが、それはかつての民主化運動出身の「愛国左翼」たちが1990年、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)なるものを設立し、その後この問題にスポットを当てるようになって、その独善的な主張が韓国世論を引っ張るようになったためなのでしょう。彼らが慰安婦を政治利用しているのは明らかですが、それは別に朝日新聞のせいでそうなったわけではないので、彼ら自身の異様なメンタリティと、それになびく国民を量産する妥当性を欠く韓国の歴史教育(それと「恨の文化」)の産物と見るのが正しいのではないかと思います(何せ、『帝国の慰安婦』のような良心的な本ですら、その著者が刑事告発されて有罪判決を受けるような国なのです)。

 日本の右翼たちも、「韓国は日本に併合されてよかったのだ」「むしろ感謝すべき」なんてことを折に触れ言って、向こうの人たちの神経を逆なでする(ついでに付言すれば、かの国の支配層、両班が「最低の貴族」だったことと、植民地化の話はまた別です)から、いっそう頑なになって、事態は一段と悪化する。朝日の誤報よりもそちらの悪影響の方が確実に大きいと思われますが、彼らはそうは考えないのです。韓国の左翼と日本の右翼が、同じ「愛国」の名のもと、両国の関係をさらなる敵対に導いている。それが「事実に即したより公正な解釈」というものではないでしょうか?

 朝日も、揚げ足を取られるような失点がいくらか多すぎると感じられるので、もっとそこらへん裏取りを厳密にやったらどうなのかと思いますが、産経や読売なんかも、似たような憶測記事、偏った記事は書いているわけです。安倍ネトウヨ政権のもと、今は雑誌の類も右が多いから、妙にカサにかかっていて、なおさら始末が悪いと言えますが、社会の政治的中心軸が大きく右に動いているから、そちらは朝日が浴びるようなバッシングは受けないわけです。やるなら、右も左も公平に叩いてくれ。

 全体、今のメディアは「程度低すぎ」だとは言えます。テレビがとくにそのようですが、しばらく前から世間を騒がせている日馬富士の暴行事件にしても、真相がわからないまま、憶測報道が次から次へと出て、悪者が日馬富士になったり、貴ノ岩になったり、貴乃花親方になったり、日本相撲協会になったり、白鵬になったり、忙しいことです。あれはたぶん、永遠に「真相解明」には辿り着かないでしょう。出席者に聞き取り調査を行っても、舞台がモンゴル力士の集まりだったので、内輪の力関係などもあって、彼らがどの程度ほんとの話をするかは疑問だからです。

 そもそもの話、「モンゴル相撲・日本場所」みたいになってしまっている今の大相撲にふだん関心をもつ人はあまり多くないでしょう。今の「豊かになった」日本の子供や若者の間ではああいうのは不人気で、入門者ががた減りして、それでハングリー精神旺盛な貧しいモンゴル人の若者を呼んで育てたら、強くなった。そのうち横綱の大方はモンゴル人力士ということになって、相撲協会はそれに依存するようになった。白鵬なんかも、あそこまで態度がデカくなったのはそのせいで、モンゴル人力士同士の星の貸し借りなんかもあるのではないかと疑われています。NHKはあれを「国技」扱い(別に法規定があるわけではない)にして、相変わらず毎回放映していますが、とうの昔に「国民的スポーツ」ではなくなっているわけです。親方衆はじめ、それに寄生して生計を立てている人が多いので、無理にでも盛り立てなければならず、それに日本社会は協力させられているというだけの話でしょう。

 なのに、この騒ぎは何か。要は日馬富士は暴力を振るった。しかもふつう人なら大怪我をしかねないほどの暴力で、それも相撲の世界の「伝統」の一つだと言うのなら、時代錯誤なので、やめてもらわないと困る性質のものです。いや、お偉い白鵬さまが説教しているところで貴乃岩がスマホをいじるなどの非礼を働いたのがけしかんのだという説もありますが、白鵬が人に偉そうに説教できるほど立派な人物かどうかは疑問で、大体、酒の席で説教を始める奴にはロクな奴がいないというのが通り相場です(僕ならそういう場合、そっぽを向いてしまうと思います)。しかも彼は、日馬富士の暴力を黙認した疑いが濃いので、なおさらです。

 事実を知って激怒した貴乃花親方はそれを警察に届け出た。それは世間ではふつうのことです。相撲協会に届けなかったのはけしからんというのは筋違いで、その「調査」と「処罰」の妥当性に疑いを抱いていたとすれば、なおさらでしょう。その背後には八角理事長との確執やモンゴル人力士の集まりを快く思っていなかったことがあるのだと「解説」されていますが、何でも内輪で処理しようとするのが日本的組織・団体の一番好ましくないところなので、別にそういうことは持ち出さなくても、警察に届けて悪いことは本来何もないのです。むしろそういうことはオープンにしてもらわないと困る。事は暴行事件なのです。

 先にも触れたように、それでも正確に何があったのかはわからないでしょうが、暴行への経緯とその度合いは大体わかり、それが判明したのち、相撲協会は処分を決めればよかったわけで、日馬富士は日本ふうに「忖度」して、事前に引退届を出しましたが、そちらはもう少し待てばよかったのです。悪しき伝統の中での仲間内で起きた暴力沙汰だったということで、「深い反省」を表明すれば、数場所の出場停止ぐらいで済んだかもしれません。

 今は「調子に乗りすぎ白鵬」に非難の重点が移り始めているようですが、言っては悪いがたかが相撲取りです。自分の存在感が大きくなったと思えば増長もする。相撲ファンというのは日本国民のごく一部にすぎませんが、彼はそのあたりカン違いして、天下でも取った気になっているのでしょう。例のあの自分が負けた取組みでの呆れた「勝手に物言い」事件(それを僕はYoutubeで見ました)にしても、優勝インタビューでの「場所中に水を差すようになったことを、相撲ファンに力士代表としておわびしたい」「場所後は真実を話し、膿を出し切り、日馬富士関と貴ノ岩関を再びこの土俵に上げたいと思います」発言、その後の「万歳三唱」の呼びかけにしても、「おまえもそこにいて、おまえのヘンな説教が原因でああなり、しかもおまえはその暴力を止めなかったんだろうが」とツッ込まれていますが、それが「意味不明のたわごと」だという自覚はまるでないのです。

 八角理事長は大相撲の興業成績を上げた功労者だそうで、それは要するに、今の相撲協会が「人気取り第一主義」になっているということです。「前人未踏」の四十回の優勝を果たした白鵬は、年を重ねるにつれあの朝青龍以下の尊大な態度が目立つようになっているが、立役者の彼が機嫌を損ねるようなことがあっては困ると、周囲は「おもてなし」にこれ努め、色々問題はあっても、「気をつけてね」みたいな体裁だけの軽い注意になっていて、彼に文字どおり「足元を見られる」結果になってしまっているのでしょう。「オレがおまえらを食わせてやっているのだ」心理が強くなっているのです。世界帝国を作ったチンギス・ハーンみたいなものだと、狭い相撲の世界しか見えない彼は思っているのかもしれません。横綱がそれでは、他の力士にもロクな影響は与えない。

 このあたり、それは「安倍一強」と言われた自民党政治とよく似ている。安倍の元で自民党政治家のネトウヨ化(日本会議や神道政治連盟の会員は一体どれほどいるのか?)は進み、「忖度」が横行して、安倍に物申す人間は周囲に誰もいなくなった。森友問題で、安倍は「もしも私や妻が関係していたなら、総理も議員も辞める」と言い放ったのに、妻のアッキーの露骨な関与(学園でのあの愚劣な講演会の中身を見よ!)が明らかになっても、彼はアッキーの証人喚問を頑なに拒み続け、「些細な問題で騒ぎ立てるのはけしからん」なんて、取り巻きや右派メディアは声を揃えて言う始末です。逮捕された籠池理事長は日馬富士みたいなもので、それで手打ちにしようと目論んだのです。野党や左派マスコミにはさんざん脅しをかける一方、ヨイショする奴への保護は手厚く、安倍絶賛本を二冊も書いたヘンタイ、山口某などは、婦女暴行容疑で逮捕される直前、刑事部長の鶴の一声でそれを止めて、救う始末です。レイプ犯でも、安倍の味方なら保護されるというのは何なのか。森友問題で例の嘘八百答弁を繰り返した佐川前財務省理財局長は褒賞人事で国税庁長官に「出世」したのですが、安倍によればそれは「すべての人事と同じく、それぞれのポストにふさわしい人材を適材適所で配置するという考え方に基づき行った」ものだというから笑えるのです。加計問題では、「腹心の友」に一肌脱いだのは明らかなのに、「朝日の陰謀で事件に仕立てられた」なんて言い出す人間が出てきて、「そうだ、そうだ!」とタニマチがはやし立てる。安倍には「神風」になった北朝鮮ミサイル問題でも、彼がやっていることはトランプへの露骨なゴマスリ以外、何もないのです。別にアベノミクスで日本経済は救われたわけでも何でもないのに、私のおかげだと思い込みたがるのは、白鵬と同じです。カン違いはとどまるところを知らず、安倍は白鵬と同じ「前人未踏」の総裁三選九年(そのために内規まで変えた)に邁進しようとしているわけですが、白鵬と同じで、有力な対抗馬がいないから、自分の天下はまだまだ続くと思っているのです。相撲協会が興業成績第一なら、自民は議席数第一で、そのためには表看板のお粗末には目をつぶって、それをとやかく言う奴は孤立させてしまえばいいというので、貴乃花親方は石破か野党か知りませんが、冷や飯を食わせるのです。「横綱の品格」が白鵬にないのは、安倍に「総理の品格」がないのと同じで、しかし、これまで誰もそれを深く咎めることはなかったのです(いても、「盛り上がりに水を差す」というので無視された)。

 要するに、白鵬のお手本は安倍首相だったと言えるので、安倍が今後も健在なら、白鵬も同様でしょう(彼にはモンゴル人という不利な点がありますが)。それでどちらも、自分の不始末はきれいに棚に上げて、「膿を出し切る(これは安倍に当てはめると、真相解明ではなく、「些細な落ち度を“印象操作”で責め立てる野党とマスコミの非を明らかにする」という意味になりますが)」と言い、「万歳三唱(安倍も一部のネトウヨ文化人の支持が「国民の声」だとカン違いしている)」を求める。自分が社会にモラルハザードをひき起こす「諸悪の根源」であることはまるで自覚せず、前者は「国民の安全・安心」のために、後者は「日本大相撲の振興」のために、邁進しているのだと思い込むのです。どちらもその度の過ぎたジコチューぶりで多くの人を呆れさせているのですが、少なくともこれまでは「軽い注意」だけですんできたのです。実に、素晴らしく「美しい国」になったものです。

 話を「事実と解釈」に戻して、今現在、目の前で進行中のことですら、「もり・かけ問題」でも、「日馬富士暴行事件」でも、これほど多数の「解釈」が入り混じって、紛糾するのです。いや、目前のことだからかえってそうなりやすいので、事実認定以前に感情的な決めつけが先行してしまうからそうなるのだし、また、事実隠蔽に必死になる勢力がいて、それが意図的な情報操作をするから、よけいに話が見えにくくなるのだとも言えます。そこらへん、今はいい意味での自制・慎みというものが全く働かなくなっている。

 いくらかこっけいなのは、安倍本人まで「ファクト(事実)」がどうのと言い出していることで、自民は衆院選での大勝を受けて、夜郎自大にも野党の質問時間を減らすと言い出し、それは「総理の指示」だったと例の安倍の腰巾着の荻生田が言ったと新聞各紙は報じたのですが、それは「誤報」で、「私はファクトを申し上げます」と前置きして、「私は指示をしておりません。第三者がいないのですから、一方の当事者の私が指示をしていないとはっきり申し上げておきます」と言ったというのです。

 この場合、「第三者がいない」というのは、安倍が荻生田に直接指示を出したと荻生田が言ったとされ、その際、周りには他に誰もいなかったという意味なのでしょうが、加計学園の件でも同じ構図があったので、文科省の内部文書に出てきた「総理のご意向」という言葉を、二人は揃って「事実無根」と打ち消したのです。自分たちが否定しているのだから、そんなことはあったはずがないのだと、毎度のように都合のいいことを言う。しかし、この件では安倍一派が目の敵にする朝日だけでなく、身内の産経や読売、日経や時事通信までそう報じたのだから、記者たちは揃って捏造したか、空耳だったかのどちらかになるわけです。「第三者がいないのですから、一方の当事者の私が指示をしていないとはっきり申し上げておきます」という言い方も「安倍語」としか言いようのない奇妙なもので、「皆さんは、証人がいないのだから信じないかもしれませんが、私は言ったつもりはありません」と答えるのがふつうでしょう。他に誰も証人がいないところで、嘘つきで有名な安倍が「これがファクトだ」と言ったところで、説得力は皆無だと思われますが、荻生田を後で「言わなかったことにしろ」と叱って、荻生田がそう言えば、あら不思議「なかったこと」になるのです。ここらへんはトランプの真似をしているのかも知れず、かの大統領にかかると自分に不都合なニュースは全部「フェイク(虚偽)」なのですが、安倍にとってもそれは同じなのです。

 こうなってくると、「事実(ファクト)」という言葉も、空虚この上ないものになってくるわけで、事実が権力者によって後でどうとでも作り替えられるものなら、そもそもそれを明らかにしようとする努力それ自体が虚しいものになるでしょう。事実があってその解釈があるのではなく、反対に、デマゴーグの思惑に沿った好都合な「事実」がその都度事後的につくり出されることになるのですから。そしてそのような「事実」に照らして、報道は「誤報」であったとされるのですが、こういうことが度重なると、国民には事の真偽を何に基づいて判断すればいいのかわからなくなる。結局のところ、国民は対立する陣営から流される相反する大量の情報の中から、自分の気に入る「事実」とされるものをえらんで、それと真っ向から対立する「事実」の支持者を互いに非難し合うという結果にしかならないでしょう。そして、どちらか勢力の強い方が勝つ。それはその「事実」が言葉の真の意味での「事実」かどうかとはほとんど関係がなくなってしまうのです。

 常習的な虚言者を政治リーダーにもつ国家は、そういう悪習を社会に蔓延させて、混乱した、異様な社会をつくり出す。今の日本社会のこの奇怪なありようは、安倍長期政権と無縁ではないはずです。彼の三選が実現すれば、事態はさらに悪化を続けて、日本人には何が真実で嘘なのかもはや誰にもわからなくなり、集団神経症を発症したのと同様の混乱に陥るでしょう。北朝鮮問題よりそちらの方がもっとこわいと、皆さんは思われませんか?

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