FC2ブログ

優しいシリアルキラーと今の日本社会

2017.11.08.17:22

 何でもアメリカの後追いをしてきたわが国は、いずれ異常殺人者の比率でもアメリカに接近することになるかも知れません。もうだいぶ前のデータですが、米国では逮捕されていないシリアルキラー(連続殺人鬼)が全体で数百人はいるだろうという話で、あの国は銃社会ゆえの殺人事件の多さとはまた別に、そういう「病気」のプレデター(捕食者)と化した人間もどきも大量に生み出しているのです。

 今回の座間市の九人殺害の犯人、白石隆浩は、発覚しなければ犯行をさらに重ねていたであろうと見られています。彼の「狩場」はネットの自殺サイトの類に助けを求める自殺志願の若い娘たち(被害者には15歳の少女も含まれていた)で、ツイッターで「首吊り士」と名乗って「獲物」を引き寄せていたのだという。最初の被害者の女性からは50万を巻き上げ、それをアパート契約の見せ金に使ったが、カネをもっている相手からはそれを取り上げ、ない相手も快楽殺人の対象にはなるから、解体した前の被害者たちの遺体を置いたままのアパートに次々呼び寄せて殺していたわけです。この世の沙汰とは思えないが、この世にも「魔界」は出現しうるわけで、彼は見た目は人間の姿をしているが、実際はあのハリウッド映画の『プレデター』そのものになっていたわけです。頭蓋骨のコレクションが、実際そこにはあった。

 東名高速のあの事件の犯人の土木作業員は見るからに「凶悪顔」で、その短絡的で身勝手な反応パターンも外見と一致していて、ある意味わかりやすいが、このプレデターは気の弱そうな優男で、そこらへん、イメージとはだいぶギャップがあります。子供時代の彼を知る人たちは一様に「おとなしい」「影が薄かった」と言っているようですが、大人になってからも「凶暴」な印象は与えることがなく、おそらく派手な喧嘩なんかは一度もしたことがない(というより、できない)若者だったのでしょう。

 それでも、彼が餌食にしたのは非力な自殺志願の若い娘たちだから、殺すのは造作なかったわけです。子供の頃から存在感が希薄で、とくに秀でた面は見当たらず、外面(そとつら)だけは妙によかったといった話からして、彼は喜怒哀楽に乏しい、「偽りの感情」を演出しながらかろうじて生きてきた人間だったのではないかという疑いがもたれます。一種の情性麻痺です。だとすれば、元々問題を抱えていたわけで、それが仕事も長続きせず、違法スカウトの仕事で逮捕され、執行猶予判決を受けてからは新しい仕事を探す気も失せて、元々抱えていた強い自己不全感が前面に出て、人を殺すことのスリルに束の間の「リアルな実感」を見出し、それに中毒してしまった。そう想像されます。警察での供述は二転三転して、何が真実なのかよくわからないという話ですが、元々「真実がない」というのがこうしたシリアルキラーの特徴の一つで、「本物の感情」の欠落に、彼らは一番苦しんでいるのです。だから「自分も死にたいと思った」というのもおそらく嘘ではないので、彼らの犯行は通常、自己破滅衝動と表裏一体をなしているとされます。この世界は「リアルさ」をもてない彼らにはモノトーンの堪えがたい世界でしかない。瞬時の「殺人の快楽」以外、生を確認する手立てがなくなったのです。

 これは完全な「病気」ですが、自然から遊離し、周囲の人間にさえ基本的に無関心で、心の自然な通じ合いというものが乏しくなって家族間ですらそれがないのが珍しくないという今の文明社会では、「感情の稀薄化」は程度の差こそあれ共通の病理で、互いをモノ扱いすることからなおさらそれは募ります。自殺志願の若い娘たちにしても、半ば嘘と知りつつ、白石のような男の「優しい言葉」にだから魅かれてしまうのでしょう。防衛の鎧をつけた人々の間で、マニュアル化された言葉、対応に囲まれて生きるというのは辛いことです。だから感情を殺すようになって、そうするとそれによる「生の実感」の欠落が何とも言えない閉塞感、空虚感を生み出すのです。

 白石のような、おそらくは子供の頃から「感情の稀薄さ」という病理を抱えていたのであろう人間は、その本来の傾向に拍車がかかってしまう。それは十分考えられることです。豊かな感情の持主に囲まれていれば、生来の感情的な稀薄さもそれに刺激を受けて改善の方向に向かったかもしれないが、こういう社会下ではそれが逆に作用して、どんどん情性麻痺の症状が進んでしまうのです。

 それで行き着いたところが連続殺人というのでは洒落にはなりませんが、そういうところがあるのではないでしょうか。話はいくらか横道にそれますが、僕はかねて、昔はあちこちにたくさんいた「笑える変人」が今はいないのはなぜだろうと思うことがあるのです。今の変人というのはたんなる「異常者」で、背筋が寒くなるような連中ばかりだからです。

 先日も郷里の母親と電話で話していて笑ったのですが、昔電話がまだ普及していなかった頃は、地区に一本の電話しかなくて、何か緊急の用があるときは、そこに電話をして、マイクで呼び出してもらっていたものです。ある地区ではその呼び出しを担当している家のおばあちゃんが、「○○家の△△さん、電話やで。早う来い!」と言った後、「ついでやから、浪花節を一つやったろか」と言って、誰も頼んでいないのに浪花節を長々と披露し始め、それが地区全体にマイクの大音量で流れるのです。おばあちゃんが電話を取ったときはほとんど毎回のように昔の浪花節を聞かされるというので、地区の人たちは閉口したようですが、ご本人は気にした風もなく、平気で浪花節を歌い続けたという話で、このおばあちゃんには他にも数々の笑えるエピソードがあったのですが、その変人ぶりはその息子にも受け継がれ、民生委員をその人がやっていたとき、地区の若者のために「婚活パーティ」を開き、仲をとりもつ役を任されたのだという。ご本人を知る人は皆笑って「それはアカンわ」と言ったそうですが、果たしてその予想は的中し、パーティの後、女性の側に「どうや?」と聞いて、ちょっと口ごもるようなことがあると、そのまま男性の家に行って「おまえ、相手は全然その気がない。男らしゅうさっさと諦めや」なんてことを言うので、成婚率はいつまでたってもゼロのままで、耐えかねた役所の職員が「人選の誤り」を認めて、その役回りから手を引いてもらったとか。

 こういうのは土地柄にもよりますが、僕が子供の頃はそういう個性豊かな「ヘンなオトナ」がたくさんいたもので、ヘンでない大人の方がむしろ少なかったような気がするのです。それはむろん、不気味な感じの「ヘンさ」ではなかったので、互いに譲らぬ変人のAさんとBさんが道で会って、こういうことになったというような話が尾ひれをつけて語られ、皆はそれを面白がっていたので、そういう話がほとんど無数にあったのです。

 僕の父親なども偏屈で有名で、上の浪花節語りのおばあちゃんの息子と同世代ですが、同時期に民生委員をしていて、二人ともそれは長かったのですが、どちらも口が悪い割には老人などの面倒見はよかったので、適任と言えば適任でしたが、その独断と無遠慮さではいい勝負だと言われていて、にもかかわらず、互いに「自分はあいつと違って常識がある」と思っているらしいのは笑えたのです。父に関しては、昔、こういうことがありました。あるとき、息子の他、従兄たちも集まった席で、若者向けの訓戒を垂れたことがあったのです。「言いたいことが十あったら、言うのは半分にしなければならない」と言った後で、ちょっと考えるふうを見せ、「いや、それでもまだ多すぎる。一つか、多くても二つにしないといかん」と訂正しました。いつも自分が言いたいことだけ言うと、相手の反応などにはお構いなしでさっさと去ってしまう人間だったので、そのときも通りかかったついでに訓戒を垂れたという感じで、そのまま盆栽いじりか何かをしに行ってしまいました。それは正月で、ミカンを持ってきた母に、従兄の一人が笑いをこらえて「○兄はあれでも言いたいことを我慢しとるのやろか? 百パーセント、全部言うとるような気がするけどな」と言うと、母は澄ました顔で、「さあ、あれは本人の『努力目標』みたいなものと違うか」と答えたので、爆笑になったのです。誰がどう見ても、「言いたいことを一つか二つにとどめている」人間には見えなかった。目上の人にでも、「そんな馬鹿なことがあるか」などと平気で言うので、母はハラハラしっぱなしだということを、僕は子供の頃から見てよく知っていたのです(フヌケはイヤだが、父さんみたいな人も恐ろしいので、世の中にはなかなかちょうどいい人はいないものだというのが母の嘆きでした)。

 こういうのは、昔は全体に精神的なゆとりがあって、そういう変人に対する社会の許容度が高かったからだと思うのですが、今はその種の許容度が低下して、その分楽に生きることができなくなり、互いに「正常」を装い合う努力の中で感情の抑圧が進んで、かえって異常になってしまう人間が増えたのでしょう。日頃ホンネで交流することが少ないから、喧嘩も含む自然なやりとりの中で人間的に成熟してゆくということも難しくなった。僕自身は長男のつねとしてそういう変人の父親としょっちゅう衝突していましたが(ワンマン的な人は意外にそうですが、父も権威主義的でなく、不思議な柔軟性があった)、家父長的な父親がまだいた時代には、子供や若者は父親という「権力」に対抗して人格形成をはかり、その過程で「体力」も養われたので、並大抵のことでは潰れないだけのタフネスがそれで身についたような気もします。僕はそういう封建制を懐かしがる者ではなく、家庭が「民主的」になったのは進歩だと思うのですが、子供や若者はその分、自分で「壁」を見つけないと成長の機縁がないまま大人になってしまうという危険も生じたのです。また、「民主的」な家庭は、悪くすると当たり障りのない関係になりかねないので、ホンネのやりとりが不足して、外から見ると仲はよそさそうだが、実は風通しが悪く、互いの間に大きな壁ができてしまうということもありうるのです。互いに気をつかって、精神的な負担になりそうなことは隠して言わなくなり、問題が大事に発展して初めてそれがわかるようなこともある。互いに「優し」すぎるから、それが裏目に出てしまうのです。

 そういうふうに、あれやこれや、別に意図したものではないにもかかわらず、「感情の抑圧」システムが社会のあちこちにできてしまい、それが笑えない変人=異常者を生み出す土壌になってしまっているような気がするのですが、いかがなものでしょう?

 一般に、正気を担保するのは理性だと思われていますが、これは間違いで、感情の豊かさと安定なのです。前に愛知県の高3生だったか、「人を殺す経験がしてみたかった」と言って、見ず知らずの中年主婦を金槌でボコボコにした上で、包丁で刺して殺すという事件がありました。彼は模試の成績が偏差値70を楽に超える成績優秀な生徒でしたが、なぜ主婦を襲ったかときかれて、「未来のある若い人はよくないと思ったから」と答えました。中年のおばさんならもう大した未来もないからいいだろうと考えたということになりますが、その是非はともかく、彼は「合理的に」考えてはいたのです。頭はすこぶるよかったことからして、理性能力はあったが、感情的に異常に未熟だった。この場合も情性麻痺の症状は明確に認められるので、犯行の原因はそこにあったのです。裁判の精神鑑定では「犯行時はアスペルガー症候群が原因の心神耗弱状態であった」とされ、医療少年院に送致されたそうですが、理性能力というのは安定した豊かな感情の支えなしでは何の役にも立たないのです。ナチス流の優生学思想なども「合理的」ではあるので、それが「狂気の沙汰」であると判断できるのは人間らしい、生きた感情があるときだけなのです。

 だから感情の抑圧ほど有害な、恐ろしいものはないと言えるので、硬直した政治的・宗教的イデオロギーや道徳的タテマエなどはそれをもたらすからこそ危険なのです。文明化、社会の組織化が進んで、機械に似せて作ったシステムに人間が適応を強いられるときも、同じ弊害が生じる。昔、心理学者のユングが何かに書いていましたが、文明化が進むにつれて、戦争は長期化し、犠牲者の数も格段に増えるようになった。抑圧された感情は無意識の中でネガティブな化学反応を起こし、それが憎悪や怒りなどの感情を生み出すのですが、文明化された社会ではその蓄積量がかつてないほど多くなり、それが「消費」されるのに時間がかかってしまうのです。昔の未開部族社会の戦争などはごく短期間しか続かなかった。争いにエネルギーを供給する敵意や憎悪の蓄積量が少ないからで、それが尽きてしまうとアホらしくなって戦いを続けることができなくなり、自然「もうやめようや」ということになってしまうのです。

 地下のマグマが一定量蓄積すれば、時間の問題で火山は噴火します。戦争なども政治経済的要因の分析だけでは説明できなくて、文明化された社会では感情が抑圧されやすいから、上記の「化学反応」でどんどんネガティブなどす黒い感情が蓄積されていくと、それははけ口をどこかに見出さずにはいられなくなり、病的な犯罪や戦争というかたちで噴出せずにはすまなくなるのです。

 こういうことからすると、いわば「心の政治学」というものが必要なのがわかるので、今の日本社会は相当焼きが回っているなと感じられます。自民党の政治家たちや日本会議などの右翼団体は「愛国心」や「道徳教育」を学校でもっと行うべきだと言いますが、そんなものは必要ではない。健康な成熟した市民をつくり出したいのなら、家庭でも学校でも、子供が自分の正直な感情や思い(それが「前向き」なものでなければならないというのは、それ自体が抑圧です)を口にでき、オトナがそれと正面から向き合って、感情を抑圧することなく、対話を通じて子供のホンネの成熟がはかれるような教育を行うべきなのです。ところが、今のオトナは全般にロボットのできそこないみたいな人が多く、ことに学校の教師には空虚なタテマエ以外には何も持ち合わせていないような人が多すぎるのです。家庭でも企業がどんどんブラック化する中、オトーサンたちは疲れ果ててしまって、子供の教育の責任は全部母親になすりつけておしまい、という人が増えている。子供はその成長のプロセスで親や学校の教師に対して「挑戦」を試みることが何度もあるものですが、頭ごなしの否定やタテマエを振りかざすだけでそれにまともに対応しないというのでは、「言っても無駄」ということで、子供は何も言わなくなります。そしてそういう子供たちは、いわゆる「よい子」であればあるほど、自分のホンネに向き合うことを、葛藤が増えるのを恐れて避けるようになって、そのうち自分の正直な感情が何なのかもわからなくなり、出来合いのタテマエに振り回される中、強い自己不全感に悩まされるようになるのです。自分の深い感情がキャッチできなくなっているので、そこにどんなものが蓄積されているのかもわからなくなる。そうして非常に危険な状態に導かれてしまうのです。

 今は各種のマニュアルやハウツー本の花盛りですが、機械の使用マニュアルならともかく、いちいち接客や仕事の手順、クレーム対応、勉強の仕方まで細かく型通りの指示を押しつけ、押しつけられる方もそれを有難がるなんてのは管理社会の末期症状で、病気だと僕は思います。セールスの電話などでも、録音テープを向こうで回しているのかと不気味になってくることがあるのですが、ロボットが人間に近い能力を示すようになるのに歩調を合わせて、人間がロボットに近づいているのです。いずれはどちらなのか区別がつかなくなってしまいそうですが、人間はロボットにはなりえず、それには必ず無理が伴うから、感情が抑圧されて、その部分が成熟しないまま大人になり、それが異常な犯罪や愚行としか言いようのない政治行動などにつながって、この世界に破壊的な作用を及ぼすようになるでしょう。

 シリアルキラーの話からは脱線しましたが、こういうのも大きな文脈に置いてみれば、そうした社会病理の一面を示すものではないかと、僕は申し上げたかったのです。風通しの悪い管理社会化の中で進行する、生きた人間としての感情の稀薄化やその抑圧がどれほど危険なものであるか、僕らはもう少しそれを認識すべきではありませんか? 健全なモラルも、豊かな生きた感情があればこそ、なのです。

スポンサーサイト
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR