FC2ブログ

「霊言」について

2011.02.03.03:39

 過ぐる二、三日、僕は最近には珍しく集中的な読書をしました。蟻塚みたいにあちこちに積み上げられた本の山が時々雪崩を起こすことがあって、それを直しているうちに『古代インドの神秘思想』(服部正明訳 講談社現代新書)という、四半世紀も前に買った小さな本が目にとまり、それを読み返しているうちにシャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(前田専学訳 岩波文庫)を再読したくなって、どこに隠れているかわからないのでまた苦労してそれを探し出し、読み直したのです。

 シャンカラのこの本は僕の最も好きな本の一つで、何度か読んだことはあったのですが、今度は訳註まで全部細かく読んでみました。するとこの本の訳註は、思想的なすぐれた懇切な解説にもなっていることがわかり、非常に面白かったので、ついでに訳者の前田専学氏の著書も読んでみたくなり、「訳者まえがき」に出てくる『ヴェーダーンタの哲学―シャンカラを中心として』(平楽寺書店)をネットで注文しました。それは明日届くのですが、後で見てみると、たまたま僕が注文したところにだけそれが在庫としてあったらしく、他のサイトでは「入手不可」になっているので、本読みのつねとして、何か非常にトクをしたような気分になって、喜びました。

 たぶん、その本も面白いでしょう。僕はこういう本の買い方をよくする人間なので、以前も岩波文庫の『臨済録』を読んで、これは学生時代、最初読んだのは朝比奈宗源訳だったのですが、それが入矢義高訳になって、格段に明快かつ読みやすくなり、訳者その人にも強い魅力を感じたので、著書を探し求め、『自己と超越』『求道と悦楽』(共に岩波)を買って読み、それは今でも僕の大事な本になっています。残念ながら、今はどちらも絶版になっているようですが、禅関係の本で、僕にはこんなに勉強になったものはないと言えるほどなので、その方面に関心のある方にはこの二冊はお勧めです。古本屋でなら、たぶん見つかるでしょう。今の日本の仏教界や、一部の「悟り」愛好者たちには相当耳に痛いことも書かれているので、そのせいで入矢先生は敬遠された面があったのかなと思いますが。

 それで、シャンカラについて書いてみようと思ったのですが、それはまた『ヴェーダーンタの哲学』を読んでからにするとして、今回は前回に続いて、あまり“高尚”とは言えないことを書かせてもらいます。

 昼間(これをアップする時点ではもう三日ほど前のことになりますが)グーグルのニュースサイトを見ていたら、「ピックアップ」のところに、「大川きょう子氏、文春・新潮で大川隆法総裁の私生活を暴露!」という記事が出ていて、そこをクリックしたら、『やや日刊カルト新聞』という変わったサイトのものでした。Almost Daily Cult News という英語表記も付けられていて、「やや、というのはそういう意味か…」と思わず笑ってしまったのですが、いたって正常な文章だったので安心しました。サブとして「カルト集団・宗教・スピリチュアル産業の社会問題をいじる専門紙」とあって、「いじる」という表現が何とも言えない感じですが、バックナンバーを見てもたんなる悪意に基づく冷やかしではなさそうなので、早速「お気に入り」に登録させてもらいました。今の日本では、暴力団よりカルト信者の方がこわいくらいなので、こういうのはなかなか勇気がいることでしょう。

 僕も書店で立ち読みして週刊誌のその記事のことは知っていましたが、それにしても「お布施だけで年収300億」というのはすごいなと、あらためて驚きます。全員落選が確実視されていた先の衆院選など、国政選挙はたしか一人300万の供託金を納めないと立候補できず、そしてそれは法定得票数に達しないと没収されてしまうので、よくそんなことができるなと余所事ながら心配(?)していたのですが、計11億パーになってもびくともしないというのは、なるほどと思わされます。信者一人平均十万のお布施なら、信者は30万人、百万ずつなら3万人か、とつい算盤をはじいてしまいましたが、ふつうの商売ではなかなかそうかんたんに財布の紐を緩めさせることはできないから、やはり宗教というのは儲かる商売(と言えば叱られるでしょうが)なのです。おまけに宗教法人だと周知の免税特典がある。

 こういう話を読むと、自分も一つ『霊言集』でも出して教団を立ち上げようかな、などと考えてしまいます。前回ここに書いた「トキとカラスの会話」なんかも、あれは見方によっては一種の「霊言」だと言えるので、結構その方面の才能はあるかも知れないのです。古今東西のオカルト、宗教の該博(?)な知識もあるわけだから、「わしはイエスやで、みなよう聞いてや」なんて、関西弁で語るというような初歩的なミスさえしなければ(尤も、古代アラム語のニュアンスを伝えるのに最も適した日本語は関西弁である、などと強弁もできそうですが)、大成功するかも知れない。あるいは、誰か鹿爪らしい、あごひげを長く伸ばした、見た目にいかにも教祖的な人物を表に立てて、たんまり分け前をもらってそのゴーストライターとして暗躍するとか、色々考えられるのです。

 この点、クリシュナムルティなんかは利用しやすそうです。「無益な思考はやめて、私にお布施しなさい」とか、「ロード・マイトレーヤは新たな器を見つけた」とか、つまり自分がその「新たな器」だということにして、大々的に売り出すのです。これは解脱して二度と生まれ変わらないはずのお釈迦様の生まれ変わりだなどと称するよりはずっと不自然ではない、道理にかなった話に思われるのです。

 前に今は亡き高橋重敏さんにお目にかかった際、クリシュナムルティ・センターにも時々おかしな電話がかかってくることがあるという話を伺いました。“クリシュナムルティの霊”が現われて、「おまえがセンターの理事長になれ」というお告げがあったので、自分を理事長にしろ、などと言って寄越す人がいるというのです。あれは高橋さんが全部自腹でやっておられたので、当然無給だったのですが、お金がもらえる地位だと思って、その人はそんなことを言って寄越したのでしょう。高橋さんは可笑しそうにその話をしておられましたが、いわゆる「精神世界」関係の読者にはその手の人もいるのです。

 教祖その人が正気とは思われない場合も、もちろんある。なまじ「精神世界」関連本の翻訳などしたおかげで、僕はその手の人に何度か会った(というか、会わされた)ことがありますが、僕に何より不気味だったのは、ご本人もさることながら、教育もあるはずのふつうの人たちが、その支離滅裂な馬鹿げたたわごと(何の関係もない迷信話を「量子力学」と称する御仁までいるので、多少はその方面のこともかじったことのある僕はすっかりたまげてしまいました)を熱っぽい顔をして大真面目に聴いているということでした。その異常さがどうしてわからないのかが、わからない。これは非常に不気味なことです。僕は宗教家を全否定するものではないので、たとえば天理教の教祖の中山ミキさんなんかは、生きたその人に会ったわけではないので断定はできませんが、伝えられるその行跡から、人格的に非常に立派な人だったと思っています(今の天理教のことは知りませんが)。しかし、大方は精神病か神経症と中途半端でいびつな霊的能力が合体したような、不幸な人たちなのです。最初はそれほどでなくても、だんだんおかしくなってしまうケースもあるのでしょう。あるいは、確信犯的な詐欺師か、です。

 別に“伝統的な”宗教ならまともで、信用できるというわけでもない。その方面で歴史上一番有名なのは、「愛の神」の名において残虐非道のかぎりを尽くしたキリスト教のローマ・カトリックだと思いますが、わが国の仏教界なども、先の大戦の際は、「非殺生」の教えなどどこへやら、軍部に迎合して“戦意高揚に挺身”し、若者を死地に赴かせる後押しをして恥じることがなかったのです。そんなもの、信用できるはずがない。平時においても、まことに卑俗かつ利己的な宗門内の権力闘争に明け暮れて、神も仏もあったものではないというのがしばしばでしょう。体制化された組織宗教は腐敗を宿命づけられているのです(宗門に属していても、すぐれた過去の宗教家たちの多くはアウトサイダーでした)。一方、カウンター・カルチャーとして出てくる新興宗教は、しばしば信者の社会体制へのルサンチマン(怨恨)を燃料とし、最悪の場合にはオウムのような結末を迎える。なまじ「神の正義」というフィクションが与えられているがために、自己内部の社会憎悪や恐怖・不安には目くらましを食わされて、見えなくなっているのです。しかし、本当の動因は後者にある。

 宗教は人間社会の不幸が生み出したものの一つであり、同時に、この社会に新たな争いと不幸を生み出す原因の一つでもあった、と僕は思いますが、そうでない宗教というものはないのでしょうか? 神でも、真理でも、名称は何でもいいとして、それは教わるものでも、信じ込むものでも、崇拝すべきものでもなく、自ら発見すべきものではないかと、僕個人は考えています。一人ひとりがそれをする他ないのです。それは組織・団体や教祖の「仲介」を要しない。それはそこに「在る」ものであって、神学・教学を長年月かけて学ばなければ行き着けないというものではないはずです。大体、そんな知識を得たからと言って、そこに行き着ける保証は何もない。

 しかし、自ら発見したその「神」ないし「真理」がその名に値するものだと、人はどうして知るのでしょう? それはたんなる独りよがりの病的な妄想または幻覚かも知れないのです。それをどうやって弁別するのでしょう?

 それはその人の足が地に着いた生活ぶりや、接してわかるその人の意識の平明さによってかなりの程度、判断はつくと思います。無責任な受け売りは並べても、自分が何を言っているか、しているかもわかっていないような混乱した人に、そのようなことがわかる道理がありません。

 尤も、先にちょっと触れた『臨済録』には、普化なんて行状のふつうでない、とんでもなく人を食った坊さんが出てきます。この本の「勘弁」の章は、臨済に僧衣の代わりに棺桶をプレゼントされた普化が、「自分はこれに入って死ぬぞ」と呼ばわって、好奇心に駆られた町の人々をぞろぞろ引き連れて歩き、「今日はやめた、明日にする」と皆を振り回し、誰も信じなくなってついて来なくなった四日目に、町の外に出て、自分が中に入って通りがかりの人に釘を打たせた、という話で終わっています。噂を聞きつけた町の人々が先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、中はもぬけのから、「ただ空中に鈴の響きの隠隠として去るを聞くのみ」という、不可解な言葉で終わっているのです。禅版「樽のディオゲネス」なのか、臨済を補佐すべく送り込まれていた神霊の類だったのか、それは謎ですが、その間然するところのない応接の自由闊達さは、彼が病的な狂人とは異質の存在であったことを裏書しています。世の中にはニセ臨済もニセ普化もいるでしょうが、この硬直した病的な世界にあっては、正気の人間が道化の衣装を着なければならないこともあるでしょう。そこらへんが、いくらかややこしいところです。

 ここでやっと、話を「霊言」に戻します。クリシュナムルティが少年時代、知恵遅れと見まがうほどの薄ぼんやりした子供だったというのは有名な話で、大人になってもその内気で無邪気な、お人好しそのものの頼りなげな風情は残っていました。伝記作者のメアリー・ルティエンスは、率直に、「日常のKとしてのあなたを知っている者としては、あなたが教えthe teachings をつくり出しているとは信じがたい」と彼に言いました。クリシュナムルティはこれに対して、次のように答えました。

 「私が何か書こうとして座るとき、自分にはそれが生み出せるかどうか、覚束なく思うのです。…空っぽの感覚があって、それから何かがやってくるのです。…もしもそれがKだけなら―彼は無教養で、おとなしい人間です― どこから、それはやってくるのでしょう? この人物(K)がその教えを考え出したのではありません。それは―聖書にある言葉でしたか?―“revelation(天啓・神の啓示)”のようなものなのです。それが、私が講話をしている間中、起きるのです」(The Open Door邦訳『開いた扉』)

 気難しいクリシュナムルティ読者や研究者には叱られるかも知れませんが、要するにそれは「霊言」みたいなものだったということです。「空っぽの感覚a sense of vacancy」があるとき、それはどこからともなくやってくるのです。

 しかし、これもそれ自体としては別に特別なことではない。話をしたり、文章を書いたりするとき、予め何を話すか書くか、わからないで始めるというのがむしろふつうだろうからです。げんに僕自身、こうして文章を書くとき、それがどういう展開になるか、知っていたためしはありません。何か書いてみたくなるから書くのですが、それがどういうものになるかは知らないのです。わかっていれば、書く必要はない。わからないから、書く楽しみがあるのです。

 言葉はつねに「降りてくる」ものです。僕は僕なりにその「降ろす」側(と言っても、それを「実体」視しているわけではないのですが)に絶対の信頼を寄せています。自分の側が混乱していたり、おかしな具合にそれを歪めるのでなければ、直観は正しく機能してくれる。そう信じているのです。

 「降ろす」そのものが何であるかは、僕は知りません。根本的にはそれは一つだろうと思いますが、二次的三次的には複数の媒介のようなものがあるのかも知れません。しかし、僕は霊媒の類ではなく、明確な意識をもって書いているので、それが現われた段階でおかしなものはカットします。でなければ自分の書くことに責任はもてないからです。しかし、ときたま洞察めいたことが起き、何か気が利いたことが書けたとしても、それは自分の手柄ではない。それだけははっきりわかるのです。

 このメカニズムは、基本的に誰にとっても同じだろうと思います。多くの人はそれを個人に帰しますが、僕はそのようにはみなさないということです(シャンカラなら、それは「誤った付託」によると言うでしょう)。言葉やインスピレーションは、その人の内面に見合ったものしかやってこない。それはたしかでしょうが…。

 してみれば、事はクリシュナムルティにはかぎらないということです。彼にあのような言葉や教えが「やってきた」のは、彼のvacancyのおかげなので、彼の場合にはその「空っぽ」ぶりが並外れて顕著なものだったので、傍目にはそれが奇異な印象を与えた、というだけの話です。

 世の中にはいわゆる「チャネラー」と呼ばれる人たちがいて、宇宙人だの「高級霊」だのと“交信”していると主張する人たちがいますが、いくらシヴァ神だの、何とか星人だのが「語って」いると称しても、それがつまらない支離滅裂なものなら無意味だし、また、ご本人はそう称していても、潜在意識がこまぎれの知識を元に「作文」しているにすぎないとはっきり分析して指摘できる場合も、少なくはないでしょう。

 要するに、「霊言」なるものは、その中身を吟味すれば、掲げた看板にかかわらず、正体はおのずと知れるということです。いちいちそんなことを指摘して回って、「営業妨害」をしていた日には、恨みを買って命がいくつあっても足りなくなると思うので、僕自身は自重していますが、世の中が不安定になって、人心も不安になると、そういうものは増える傾向にあるので、そうしたことには気をつけられるとよろしいかと思います。

 先に述べたことが正しいとすれば、いちいち「霊言」を外に探し求めなくても、誰しも適切なそれを与えられる。それには自分の余計な問題を片付けて、クリアな意識をもてばいいだけだということになります。むろん、それがどの程度のものであるかは、僕ら個人の資質や心の状態にもよるでしょう。昔、「この程度の国民なら、この程度の政治家」と言って、世の顰蹙を買った法務大臣がいましたが、あれは正しいと思われるので、内面においても、「この程度の人物ならこの程度の理解や洞察」ということにならざるを得ないのだから、自分の分際を超えたものを望むのは初めから無理だということになりそうです。

 それでも、神(僕はむろん、あごひげをはやした神なんてものを考えているわけではありませんが)はずいぶんと思いやり深くて、気前がよさそうに、思われるのです。
スポンサーサイト



プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR