大阪桐蔭vs仙台育英

2017.08.20.13:28

 あの試合を見ていて、大方の人は唖然としたでしょう。僕もテレビのスイッチをあやうく切ってしまうところでした。終わったはずが終わっていなくて、勝ったはずがその後でまさかの逆転サヨナラ負けを喫したのです。

 一塁手が実はベースを踏んでおらず、あわててベースに足をつけるより早く、ヘットスライディングした打者の手がベースに届いていたので、あれは誤審ではなかったようですが、こういうのは緊張した場面の高校野球では必ずしも珍しくないことです。昔、やはり夏の甲子園で、延長何回だったかは忘れましたが、表で1点入れて、その裏ツーアウトで打者が平凡な外野ファウルフライを打ち上げ、それで試合終了のはずが落としてしまって、ピッチャーが次に投げた球がホームランされてしまい、振出しに戻ってしまった、なんてのもありました。それで結局、そのチームは負けてしまった。勝ったのは和歌山の簑島高校で、その年優勝したように記憶しています(地元なので、僕は簑島を応援していました。安倍ごときに「郷土を愛する心」をもてと言われるまでもない。今は宮崎県選出の高校と、両方応援するのです)。

 だから一塁手の子を責めるのは酷なので、甲子園というのはそういうところなのです。そもそもの話、大阪桐蔭はほんとは2回戦で智辯和歌山に負けていた(安打数も7対12で、明らかに力負けしていた)。あれは4回表チャンス時の三塁塁審の“タイムリー誤審”や、その後の智辯側の急ぎ過ぎの相次ぐ走塁ミスで勝てたので、そうしたまずい攻めも元々はあのミスジャッジで入るべき点が入らなかった焦りに由来すると思われるので、あの誤審のおかげで勝たせてもらったようなものだったのです。

 その智辯にしても、1回戦の沖縄興南戦で0-6から大逆転したので、その段階で運を相当使ってしまったのかも知れず、それが2回戦の不運につながったのです。大阪桐蔭は、その智辯相手の2回戦のラッキーな勝利で、3回戦分の“運の貯金”がなくなっていた、ということなのかも知れません。

 こういうふうに何でもかんでも「運」で説明してしまうのはやりすぎですが、そういうところが高校野球にはあるので、大逆転や接戦の末、最後まで勝ち上がるチームというのは、よほど強い運をもっていた、ということなのでしょう。より正確に言えば、運を味方につけられるだけのしぶとさ、粘りをもつチームということになりますが。

 にしても、ああいうのは教訓的です。最後の最後まで勝負事というのはわからない。運頼みでは勝てず、歴然たる実力差があれば必敗します(だから努力して実力をつけるのが先決)が、負けている側は最後まで諦めてはいけないし、勝っている側も、ほんのちょっとした油断やミスから目の前の勝ちを逃してしまうことがあるのです。

 繰り返しますが、高校生ぐらいだと、緊張してかんじんなところでミスをしてしまうのは無理からぬところがある。だから誰も責めないだろうし、本人も気に病まない方がいいのですが、勝負事というのはこれだからこわいなと思うのです。

 思えば、人生というのも先が読めない高校野球みたいなもので、よく「人生の達人」なんて言いますが、そんな人はほとんどいないので、僕らは皆人生のアマチュアです。僕のような無計画が服を着たような人間は人生の生活設計なんて考えたこともありませんが、そういうことを怠りない堅実で計画的な人でも、「こんなはずではなかった」ということは少なからず経験するでしょう。幸いにそれはスコアを競うゲームではない(成功崇拝の人にとってはそうかも知れませんが)ので、単純な勝ち負けがつくものではないのですが、十歳の子供に三十になった自分はわからないし、三十歳の人間に、その倍の年になった自分がどうなっているのかはわからないのです。いや、一年先のことすらわからないので、今元気な人が死んでいることもあるし、何をどう考えても絶望的な状況で、自殺でもするしかないなと思い詰めた人が、思いもよらぬかたちで危地を脱していることもある。何がどうなるかは実際に生きてみないとわからないので、「人間万事塞翁が馬」と心得ておいた方がいいわけです。

 話を少し戻して、僕は毎年大学受験生を相手にしていて、これは受かるか落ちるかしかないので、その意味では「勝負の世界」です。塾教師としては、むろん、全員第一志望に合格してくれるのが願いなのですが、そうは問屋が卸さないのがこの世界で、合格率は高い方だろうと思うのですが、そうそう思い通りにはいきません。長いこと同じ仕事をしていると自然に勝負勘のようなものは働くようになるので、模試などのデータには表われない部分のことで、これは行けそうだとか危ないなとか、そうした予感はよく当たるようになります。もちろん、偏差値50の子が70の大学を受けても受かるはずがないので、そこは大体データ通りなのですが、似たような成績でも、こちらは大丈夫な感じがするが、これは心配だなとか、そういうのがあるのです。センターの判定が同じCやDでも、これは突っ込ませても大丈夫とか、これは無理そうだなとか、割とはっきりした勘が働く。そのファクターには性格的なものはもとより、模試の点数にはダイレクトに反映していないと感じられる学力の質の差異、勢いのあるなしなどもある。説明が難しいそのあたりのことが結果を大きく左右するのです。

 難しいのは、教師の側のその反応が、生徒に影響を及ぼしてしまう可能性も否定できないということです。先生のあの顔を見ると自分は大丈夫だなとか、駄目かもしれないなとか生徒が思ってしまって、それが生徒の当日のパフォーマンスに小さくない影響を及ぼし、それで結果がこちらの予想通りになってしまう、という可能性です。それでも、センターがかなり悲惨な結果になり、本人もこちらも「まあ、無理だろうな」と思ったが、他に選択肢がないので受けたらなぜか受かっていた、ということも一年か二年に一回ぐらいはあるので、こういう場合はどうなのかと思いますが、それは本人に通常の緊張がなく、火事場の馬鹿力みたいなもので、直前に必死に勉強し、当日も居直って試験に臨むしかなかったので、予想外にいい点が取れてしまった、ということなのかも知れません。

 どういう場合にも言えることは、「守りに入ってしまったら負ける」ということです。大阪桐蔭のあのサヨナラヒットを打たれてしまった気の毒なピッチャーの子にしても、勝ったと思ったのが一転それが消えて、逆にツーアウト満塁のピンチになってしまった。こうなるとメンタルは最悪なので、命拾いをした相手の打者は九回裏ツーアウトで、負けているのだから失うものは何もないという構えでバッタへボックスに入れるが、それに対して虎の子の1点を守ろうと、逃げの、守りの投球になってしまうのは避けがたいことです。果たしてそれを痛打された。

 入試でも、センターは予想以上に取れたというので、その“貯金”を守りたいという感じになると、二次で意識が守りに入って失敗するということがあるのです。あんまりビハインドが大きすぎると気力が萎えたり、あるいは二次で何としても逆転しなければならないと肩の力が入り過ぎたりしてしまうが、適度なビハインドだと、さしたる葛藤もなく、積極的な攻めの構えに入れる。それが思いきりのよさを生んで、よいパフォーマンスができるということがあるので、そこらへんふつうの勝負事と同じなのです。

 あと、勝負事には「希望的観測」は禁物です。それがいわゆる「プラス思考」だと思っている人がいるようですが、さにあらずで、そういう人は何をやっても成功するのが難しいでしょう。それは現実逃避の一形態でしかないからです。おそらく一番いいのは、「成るものは成る、成らないものは成らない」と考えて、結果は運命の手に委ね、自分はやりたいこと、やるべきことをするだけだと思って、落ち着いて目の前のことに集中することでしょう。そうすると能力も上がるし、中身のあるいい仕事(勉強)もできるようになるので、結果も自然よくなることが多いのです。イメージトレーニングなるものをやるスポーツ選手が今は多いそうですが、そういうのが意味をもってくるのも、コツコツやるべきことをやっている人にとってだけでしょう。

 高校野球の話から脱線しましたが、若い球児たちの熱戦は、見ていて手に汗握るだけでなく、人生を考えるよすがを与えてくれる、貴重な体験ともなりえるということです。
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