一炊の夢

2017.06.08.12:27

 最近このブログは安倍政権の低劣さを難じるのに多忙で、おかげですっかり「品格」を下げてしまったので、今回は口直しのつもりで、もっと中身のある話を書かせてもらいます。塾で生徒たちの相手をしていても、今は「国語力不足」が少々目立ちすぎるように思われるので、高校生の国語の勉強にも役立つよう、読みを誤りやすい漢字にはマメにルビを振ることにして(このブログを読んで無茶苦茶なオッサンだと誤解する人もいるようですが、僕は元来“教育的配慮”に満ちた人間なのです)。

「人生の儚(はかな)さのたとえ」などと言われるこの「一炊(いっすい)の夢」、別名「邯鄲(かんたん)の夢」とも言いますが、僕は『荘子』の中にある話だと思っていたら、それは「胡蝶の夢」の方で、こちらは「唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ」だとウィキペディア(「邯鄲の枕」の項)の説明には出ています。

 僕は、しかし、『枕中記』というのは読んだ記憶がないので、若い頃、それを紹介している何かの本で読んだのでしょう。二十代三十代の頃は、食うために働くのが億劫(おっくう)で仕方がなく、霞(かすみ)を食って生きられる仙人になれば衣食に心を労する必要がなくなると、仙術関係の本にまで手を伸ばしていたので、その中のどれかに出てきた話だったのでしょう。ともかくそれは非常にimpressiveだったので、脳中に強く刻印されたのです。

 上記ウィキペディアの紹介文はいくらか簡潔すぎるので、次の親切なサイトの記述(詳しく知りたい方は、クリックして読んで下さい)なども参照して補足すると、それは概略、次のような話です(この話、冒頭部の設定に関しては各サイトの説明に相当違いがあって、どれが正しいのか僕にはわからないのですが、それは本質的なことではないので、適当にミックスします)。

中国故事街

 昔、呂翁(りょおう)という神仙の術を会得した道士がいて、趙の都、邯鄲(かんたん)への道中、ある宿屋に投宿した際、たまたま一人の貧しい青年(二十代半ば?)と出会った。彼は名を盧生(ろせい)と言い、人生の目標も定まらぬまま故郷を離れようとしているところだった。青年は僅かな田畑しかもたないわが身の貧しさを嘆いて、こう言った。
「男子として生まれたからには、出世栄達(しゅっせえいたつ)して権力や名声の快を味わい、富を積んで美しい妻をめとり、子宝にも恵まれて、華美で充実した私生活も経験するのが本懐(ほんかい)というものでしょう。私は、しかし、かつて学問を志した身であるにもかかわらず、世に出る機会に恵まれず、辺鄙(へんぴ)な田舎で、百姓仕事をしながら貧しいその日暮らしをしている有様です。未来に希望もない。何たることでしょう!」
 そんな愚痴を並べているうちに、何だか急に眠くなってきた。宿の主人は黍(きび)を蒸していて、その匂いがする。そのとき道士は、「これを使うといい」と言って、変わった青磁の枕を差し出した。それを使うと夢が叶うという。早速その枕に頭を載せると、端に円い穴が開いており、それに目をやると中に吸い込まれそうになって、次の瞬間、気づくと盧生は自分の家の前にいた。それから彼の人生は一変した。まもなく豊かな家の出の美しい娘を嫁にもらって、派手な生活ができるようになると、進士に推挙されて合格し、都に出てとんとん拍子で出世した。ところがその声望が高く、大臣を脅かすほどになると、これが災いして、あらぬ噂をまき散らされ、辺境に左遷される憂(う)き目にあった。
 しかし、数年して中央に呼び戻されると、いかんなくその実力を発揮し、大臣の地位にまでのぼりつめた。実務能力に識見・人格を兼ね備えた大人物との評価は、しかし、同じ大臣仲間の嫉妬を買い、皇帝に対して謀反(むほん)を画策(かくさく)していると誣告(ぶこく)する者があり、追いつめられた彼は自殺を考えるほどであったが、妻と献身的な宦官(かんがん)に助けられ、流罪(るざい)だけで済んだ。
 数年後、それが冤罪(えんざい)であったことが判明すると、再び呼び戻され、王様の覚えもめでたく、五人の息子たちも次々出世して、いずれも名家の娘を妻にもらい、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)、内も外も申し分のない状態となった。孫の数も十指に余るまでになった。
 しかし、やがて老いが迫ってきた。病気がちになり、何度も辞職を申し出たが、愛顧ゆえに皇帝はなかなかこれを許さず、最後に上奏文を出したときには、よく養生するようにと懇切なお達しがあったが、ほどなく死がやってきた。

 …というところで、気づいてみると、そこは元の宿で、枕元には道士の呂翁が座っていた。さっき主人が蒸していた黍はまだ蒸し上がっていなかった。ごくわずかな間に、波乱万丈の長い一代の人生を夢に見たのだと知り、廬生は驚いたが、それは道士のしわざであると思われた。廬生は呂翁に「人生の栄枯盛衰(えいこせいすい)すべてを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。


 というようなお話なのですが、いかがですか? これはたんなる夢というより、廬生の「ありうる人生」だったのかも知れません。彼にとってそれは十分にリアルで、強い実感を伴っていた。彼はたしかに、自分の願望に沿った一つの長い、明確な人生を生きたのです。違いは、ふつうは死んで目覚めたときはあの世だが、これはこの世にいるままで、一つの人生がつかの間の夢として、フルバージョンで経験された。それだけです。

 これはそんなに突飛な話ではありません。死者の、「あの世」の側から見れば、僕らのこの世界はおそらく一つの「夢」なのです(たしか心理学者のユングも、この世界は「死者の夢の投影」だというようなことを言っていたように思います)。生まれるということは一つの夢の中に入ることであり、死とは、それから覚めることだと考えても別におかしくはない(後で述べるように、その「死後の世界」もまた一つの夢なのですが)。

 これは人にもよるようですが、夜中に夢を見ているとき、意識が二重になっていて、これは夢だと知りながら夢を見ていることがあるでしょう? 少なくとも僕はそういうことをよく経験するのですが、それでも夢は十分にリアルなのです。面白い夢だと、途中で目が覚めても、もう一度続きを見ようとして眠ると、それが続くことがある。夢もある程度はコントロールが利くのです。

 僕が見た夢の中で最も強烈だったのは、二つあるのですが、一つは人を殺してしまった夢です。どういうわけでそうなったのか、部屋で揉み合ううちに誤って相手の男を殺してしまったのですが、慌てて死体を押し入れに隠したあと、大変なことになってしまった、これをどうやってバレないようにするかと考えているうちに、心臓がバクバクし、そこで目覚めたのですが、目覚めてからもしばらくはそれが夢だとは思えず、夢だったとわかったときは心底安堵して、珍しく神に感謝する気になったものです。これは乱暴な自分に対する一種の警告のように感じられたので、以後いくらかは行いを慎むようになりました(いくら夢の中の出来事とはいえ、自首するという“正しい”考えがそのとき思い浮かばなかったのは、僕の遺憾とするところです)。

 もう一つは、冬、こたつに足を突っ込んで寝てしまった後、途中で目が覚めたのですが、見えている部屋が微妙にいつもと違うのです。カーテンの色や柄も割と洒落(しゃれ)ているし、置いている物もいつもと少し違う。これは夢だなと思ったので、僕はそれが夢であることを証明してやろうと思いました。何か書かれた紙片がすぐそばの畳の上にありましたが、手に取って見ると文字は美しいが書かれていることは支離滅裂で、「無意識というやつは審美的には意識よりずっとすぐれているが、知能はかなり低いな」なんて思ったものです。ふと見ると近くの壁際に、昔もっていたが、今はないはずの、貝みたいに蓋ができて、使うときはパカッと開いて、横から見ると三角形になるようなかたちで立てる目覚まし時計がありました。僕は手を伸ばして、それをつかもうとしました。これは夢なのだから、実体はなく、つかめばグシャッといくはずだ、それでこれが夢であることを証明できる、そう思ったのです。そしてつかんだのですが、見える形どおりのはっきりとした硬質の感覚が手のひらにあったので、「夢なのに、これは何だ!」とひどくびっくりして、そのまま意識を失いました。そうして、次に目が覚めたときは、今度は間違いなく元の部屋で、ほんとに目が覚めたのだなとわかったのですが、手のひらのその感覚はまだ残っていました。もちろん、その時計はそこにはなく、つかんだとき似たような感触を残すものも存在しなかったのです。

 それで僕は、夢だということに夢の中で気づいて、それが夢だと自分に証明するつもりでああやったのに、あんなにはっきりした感覚があるなんてどういうことだ、この世界も実は似たようなものかも知れないと考えたのです。

 この世界というのは、僕らの五官と脳の働きによって、こういうものとして感じ取られ、認識されているもので、哲学者のカントではないが、「物自体」は認識できません。周囲にある硬い物も、原子レベルでいえば運動体です(ミクロレベルからすれば、この世界全体が量子の飛び交う相互融通の不思議な世界なのです)。歯医者に行って、麻酔を打たれた後、まだその効き目が残っているときに、うっかりジュースなど飲むと、こぼしてしまいます。浪人時代、新聞配達をしていて、代わりがいないので四十度近い熱の下、無理して配達していたら、途中でそこらのビルが皆大きく曲がって波打っているのが見えて驚いたことがあるのですが、そのときはいくら目を凝らしても曲がって見えた(ちなみに、その当時の僕の視力は両眼2.0でした)。身体条件が変われば周囲のものも変わって見えるのです。そうして、意識を失うと、世界は消滅する。後でその間何があったか、周りの人が説明してくれて、へえ、そうだったんですかということになってそれが記憶に取り込まれて連続した経験として再構成されるのですが、端的に言えば、その間、自分と共に世界も消えていたのです。ということは、毎晩僕らは眠るたびに「世界を消滅させている」のです。目が覚めると意識も戻って、再びこの世界体験が再開される。連続したものだと、いわば「脳に思い込まされている」だけなのです。

 だからこれも一種の夢には違いない。ふつうの夢よりは安定していて、かつ、ふつうの夢よりは意志による明確なコントロールを及ぼしやすいというだけの話です(註:理屈っぽくなるのでそのへんの詳しい議論は割愛しますが、脳の働きの結果意識または心が生まれるのではなくて、意識が先にあって、それが脳に一時的に宿ると言った方が正確でしょう。その場合、意識は脳の規制を受けるので、この世が「実在」に見えるわけです)。

 人生はままならないというのが大方の人の実感なので、仮にこれが夢の一種だとしても、どうしてもう少しマシな夢が見られないんだ、と皮肉を言う人がいるかもしれません。人類の歴史は戦乱続きで、今も世界中でテロだの内紛だのが頻発しています。一見平和な日本でさえ、自殺率は先進国の中ではトップ、アジアでも韓国に次ぐ高さです。僕らはこの夢をいわば「シェア」しているわけですが、この世に生まれるということは「地獄の共同夢」の中に生まれ落ちるというのと同じです。

 僕は安倍政権に腹を立てていますが、一体何だってあんな低レベルの総理とさもしい取り巻きが自国の政治を壟断(ろうだん)するという悪夢を見なければならないのか? 隣国にはあの見苦しい刈り上げデブが独裁する北朝鮮(大金使って花火みたいにミサイルばかり打ち上げやがって、自国の民の困窮を思え!)なんていう、サイアク国家がどうして存在するのか? この夢にはなにゆえもっと聡明で公正な政治家が出てこないのだ? これが自分に見合った夢だとでも言うのか?

 残念ながら、おそらくはそうなのでしょう。今は多元宇宙論というのがあって、それでは無数の宇宙が存在することになっていますが、その宇宙とは夢のことであり、僕らはそれぞれの意識(これはむろん無意識と呼ばれる領域も全部含みます)に見合った宇宙に生まれ出るのです。あの世や天国、地獄といっても、それもまたもう一つの宇宙=夢であり、生死のサイクルの中で僕らは無数の夢の中を行き来しているのです。仏教の「六道輪廻(りくどうりんね。ロクドウという読みもあります)」という考えは、それを言い表したものだと考えてもよい。人の意識はそうした「夢のサイクル」の中を経巡(へめぐ)っているのです。

「こういうのはもうたくさんだ。そんな夢なんかもう一切見たくない!」とお釈迦さんは考えたとも解釈できる。そこで彼は意識の中身を、その痕跡(こんせき)、残滓(ざんし)がゼロになるまで抹消し、「夢を見る余地がない」状態にすればよいと考えた(それがいわゆる「涅槃(ねはん)」です)。古代ギリシャの哲人にも「存在しないことは存在することに優る」と言った人がいましたが、似たようなことを考えた人はたくさんいるのです。冒頭の「廬生の夢」は、世間的な見地からすれば、色々あったにせよ「成功例」に入るでしょうが、彼はその有為転変(ういてんぺん)を夢を通じて存分に味わって、「経験してみれば、うらやましがるほどのものではない」と悟ったのです。三島由紀夫がその小説のタイトルにも使った「天人五衰」という言葉は、「天人(てんにん)」というのは天上に生まれ変わって神々となった存在ですが、そこで清らかな生活を送り、驚くべき長寿を保つが、それでも老衰は避けられず、そのときの苦しみは筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい、ということを言ったものです。要するに、いいことづくめの「夢」なんてものはない。それはこの世の基準からすればうらやましいものだが、貧しい農夫の廬生が位人臣(くらいじんしん)を極める夢を見て、「大したことない。別の煩わしさと苦労があるだけだ」と思ったのと同じで、バージョンアップした夢も、たかが夢なのです。

 幼児の中には、生まれてくる前にいた場所の話をする子もいます。そこにはこの世みたいな生活の苦労はなく、思うだけで行きたいところにも行けるが、いかにも天国らしい単調な音楽が流れている全体にかなり退屈なところで、そこでは人の個体の大きさがてんでマチマチなのだという話なんかは面白いが、「大きな岩みたいな神様」がいて、その神様と話をしてから、宇宙を猛スピードで下って、気がついたらお母さんのおなかの中に入っていた、なんて言うのです。そうすると、あんたは志願してこの世界に来たのかときくと、「たぶんそうだと思う」なんて、淡々とした口調で言う。保育園だか幼稚園だかの友達の○○君もそこにいたので、ボクよりちょっと早くこの世に来たのだという。

 してみれば彼らは、いわば「ボランティア志願」してこの世に来たのです。その「あの世」描写からして、彼らは「天使」の一種だったと思われるので、一番道理にかなった解釈は、この地獄にも似た世界の夢を、もう少しマシな夢に変えるためにやってきたのだということになるでしょう。そのために彼らはあえて「夢のグレード」を下げる決断をしたのです。その際には「神様」のアドバイスも、むろんあったのでしょうが。

 お母さんたちはわが子からそういう話を聞くと、けっこう厳粛(げんしゅく)な気分になって、大切に育てなければならないと思うのですが、かんじんのその「元天使」がだんだんこの世の悪風に染まって堕落し、天使の面影を失ってしまうのは遺憾(いかん)なことで、その「自覚」を呼び起こそうと、昔あんたはこういう話をしていたのだと言っても、本人はすっかり忘れていて、「そんなの、知らんわ」なんて言われてしまうのです。かくして「天上界から来たボランティア要員」たちも、この悪夢の世界の一部となってしまう。

 そういう“高尚”な意図からこの世に生まれてくるのか、それともそれが意識の中身に見合っていたからそうなったのか、たぶん両方あるのでしょうが、いずれにせよ僕らは悪夢の部類に属するこの世界という夢の中にいて、右往左往させられているわけです。

 夜間夢を見ていて、その最中に「これは夢だ」と意識できるのと同じく、この世界も一種の夢なのだと自覚することはできます。そう思えば、この世界もいくらか耐えやすいものになるのはたしかでしょう(自殺が問題の解決にならないのは、これまでの記述からもおわかりかと思います)。そうして、先にも言ったように、ふつうの夢と違って、この世界はかなりの程度コントロールが可能です。心の持ち方や意志、努力次第で変えられる部分もかなりある。今の状況を見るかぎり、このままだとこの地球世界は本格的な「地獄の夢」になる可能性が高いが、避けられる可能性もあるのです。

 冒頭の「廬生の夢」に話を戻すと、今の物欲まみれの中国人たちは先人が残したこういう教訓をすっかり忘れ去っているように見えますが、僕がこの話を面白いと思うのは、廬生はこの夢の中の人生で、別に悪事を働いたわけではないということです。彼は有能な人間がさらされがちな周囲の嫉妬や怨嗟(えんさ)によって危地に追いやられただけで、それは世間によくある自業自得の苦難ではない。そうしていずれも誤解は解けて、権力に返り咲き、最後には世間的には幸福な境遇の中で死を迎えるのです。

 なのに、廬生はもうそれを魅力的なものだとは思わなくなった。悪事は働かなくとも、彼には出世栄達の強い野心がありました。それが苦難を引き寄せる誘因になったというだけでなく、そうした出世栄達の野心それ自体が虚しいものだと理解したのです。

 若いときは誰でも多かれ少なかれ野心的なものです。今はそういうものが全くない「草食系」の若者もけっこういるのかも知れませんが、そういう若者はエネルギーの総量自体が乏しいということもあるでしょう。あるいは廬生みたいに、そういうことは前世(それも一つの夢です)で十分経験したので、その手の野心はもう卒業したのかも知れません。

 何にせよ、そういう野心がなくなったとき、人には何が残るのでしょう? 権力や名誉心から自由な探求心や、芸術衝動、苦しむ人たちへの同情、自分のもてる能力を使ってこの悪夢のような世界をもう少しよいものにしたいという願いは残るでしょう。田舎に戻った廬生はもはや貧しさを嘆くこともなく、日々の畑仕事に勤(いそ)しみながら、それまで気づくことのなかった自然との交感や、他者との何げない心のふれあいに大きな喜びを感じるようになったかもしれません。

 いずれにせよ、世間的な野心や権勢欲が人から大事なものを奪い去り、人々の間のそのぶつかり合い、せめぎ合いがこの世界の夢を地獄じみたものにしていることはたしかです。芸術や文化、科学の領域ですら、おかしな虚栄心、名誉欲が災いして、その正常な営みを害しているケースはよく見られるので、これは外見だけではわからない。逆に巨万の富を築きながらも、物欲から自由な、無私の心をもつ実業家というのも存在するでしょう(このことはあまり理解されていないようですが、野心というものは、成功という結果にこだわりすぎるがために、逆に情熱や果敢な行動力の発露を妨げてしまうこともあるのです)。

 今のやることなすことロクでもない卑しい安倍政権なんてのは論外ですが、政治家にもおかしな能書きは垂れず、本当に世のため人のためを思って冷静な判断をしつつ、面倒な実務や交渉事を辛抱強くやろうとする、statesmanの名に値するすぐれた人は存在しうるでしょう。個人的なコンプレックスの補償を権力や名声、財力に求めたりせず、低級な野心から自由に仕事をする人は、分野を問わず今でもいるはずで、またいてくれないと困ります。

 そういう廬生的な悟りを得た人こそ、今のこの世界には必要です。どうせ死ぬまでは、僕らはこの世界という「迷夢」からは逃れられない。ならば、せめてこの夢をもう少しマシな夢にできるよう共に協力して努める他はないので、世間的な栄枯盛衰の夢を見させて、人々にその虚しさを悟らせる「呂翁の枕」が仮に商品化できるなら、それは真に有益なことでしょう。

 何? おまえはそういう枕を開発して一儲けしたいのではないかって? たしかにそれは魅力的な話ですが、その場合はその儲けをちゃんと社会還元して、いいことに使いますよ。まずもってそれを塾商売や翻訳仕事の赤字補填(ほてん)に流用することだけは、大目に見てもらわねばなりませんが…。

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