個よ、もっと強くなれ~アッキード事件ともからめて

2017.03.21.11:26

 実に四半世紀ぶりに、河合隼雄の本を読みました。『私が語り伝えたかったこと』(河出文庫)。僕は三十七、八までユングの本をかなり読んでいて、「どうもちがうな…」と思って、あるときからぷっつり読まなくなってしまったのですが、その関係で河合隼雄の本も、「消毒の効きすぎたユング」なんて失礼なことを言いながら読んでいたのですが、自分が生来の理屈屋であるせいか、理論的な本は食い足りない気がして、『カウンセリングの実際』のような本の方が陰影があって面白く読めました。

 僕がユングその人に関心を失ったのは、彼の理論体系それ自体が「壮大なフィクション」に他ならないのではないかという気がしてしまったためで、こんなことを言うとユング派の先生やその信奉者の人たちを怒らせてしまいそうですが、それは僕の独断なので、別に論争しようという気などはないのです。しようにも、大方のことを忘れてしまった。

 それでも、これを本屋の棚でたまたま見つけたときは懐かしい感じがして、買って読んでみようという気になったので、ざっと目を通したのですが、その中にこういう箇所があって、あらためて面白く思いました。

 それは「父性」に関するところで、二か所ほど出てくるのですが、日本では元々父性的なものは弱かった、という話です。「最近よく言われる父親の復権は打開策にならないんでしょうか?」というインタビュアーの問いかけに対して、河合氏はこう答える。

 日本の昔の父親は怖かったけれども、世間に恥ずかしいということで怒っていた。個性なんか全然考えていないんです。ところがヨーロッパでは、世間が何であろうと、わが家の考えを通すんだと頑張るのが父親なんですよ。自分の子供のために世間と戦う、これが父親なんですよ。
 極端な例をあげれば、国中が戦争しようというときに、うちの子は戦争に行かせない、おれは戦争反対だということを叫ぶことができるのが父親なんです。ところが日本の父親は、右へならえで「もう今は戦争の時代だ、行け!」でしょう。
 つまり、怖い父親が強い父親とはかぎらないんです。要するに、弱いから世間の言うとおりやっているんだから。日本にあるのは、父性の強さではなく、母性社会の中の強い父親なんです。
 だから、日本では父親の復権なんて言えない。そんな父親はいなかったんだから、父性の創造というべきです。みんなで創り出していこうじゃないかというぐらいの気持ちにならないといけないですね。(p.70)


 もう一ヵ所引用させてもらうと、

 …怖いのと強いのは違うんですよ。日本の軍人を見たらよくわかります。部下を叱りつけたりする怖さはあったけど、敵が攻めてきたときにきちんと判断して勝つ術なんていうのはあまり考えられない。それは上に言われたとおり、決まりきったことばかりしていたから。日本の軍隊は、一人ひとりの兵隊は強かったけれども上のほうがボケててね。
 つまり、この場合はこれでいくのだという判断、それが父性なんです。よし、おれはこれだ、というのはちゃんと言えるというのがね。判断して決断して実行する、これ、日本人は一番下手なんじゃないでしょうか。たとえば、赤か黒かを決めるときに、おれは黒だと決めて、子どもが「なんでお父さん赤にしないの」と言えないとダメなんです。そのときに「おれが黒だと言ったらそうなんだ、みんなやかましい」と言うのではなくて、これこれこういうことだから黒なんだと説明しないといけないのですよ。論戦を許容して勝ってしまうというのが父性なんです。日本のはやたら頭ごなしですよね。

 ――それと世間をいつも気にしている。

 そう、後ろ指をさされないようにと。西洋の父親というのは、世間はそうかもしれない、でも自分はこうなんだ、と言う。それが父の強さ。そのときに怖いとか怖くないとかは問題外です。僕はよく言うんですが、僕らの父親はみんな弱かった、だからばかな戦争したんだ、と。戦争だって突撃するのが強いと思ったら大間違い。突撃と言われたときに、なぜ突撃しなければいけないのかと言えることが、強いということなんです。日本人は自分で決めたら非民主的、とよく言うでしょう。それは違うんです。西洋のリーダーはパチッと決める。だってみんなでそのリーダーを選んだのだから。ところが日本では〔誰もが〕世間のあり方で言っているわけです。そこでうろちょろやっている。これからは変わらなければなりません。だからこれからの父親は大変なのです。でも、子どもが鍛えてくれます。(p.88~90)


 この最後の「子供が鍛えてくれる」というのは、この後説明が出てくるのですが、子どもが何か買ってくれと言ったとき、買わないと答えると、必ず何で買ってくれないのかと突っ込まれる。そこで理由を説明して子供を納得させねばならないからです。ごまかすのではなくて、きちんと正面から対応する。すると子どもは、自分を一人前に扱ってくれたという嬉しさを感じる。親の本気さ、誠実さも感じ取るわけです。

 僕がなぜこれを長々引用したのかと言うと、むろん共感したからですが、最近の森友事件をはじめとするドタバタを見ていて、このことの重要さをあらためて痛感したからです。

 周りをつねにお友達や子分で固めないと安心できない――これはそれ自体が不正の温床になる――「幼稚なガキ」としか言いようのないネトウヨ総理と、軽薄な思いつき、思い込みだけで「職権乱用」して憚らないKY女房はもとより困ったものですが、彼らの暴走がどうして可能になったのかといえば、その周辺が全部、ジャーナリストの菅野完氏がいみじくも命名したような「全自動忖度(そんたく)機」になっていて、「そんな馬鹿な話、聞くわけにはいきませんな」と突っぱねる見識と度胸のある人間がまるっきりいなかったからです。突っぱねるどころか、勝手に忖度して、進んでその意を迎えようとする。だからこういう「不透明」なことだらけになってしまうわけで、相手が北朝鮮の金正恩ならすぐ殺されてしまうから、傍からなぜそんなことをするんだとはかんたんには言えませんが、殺される気遣いはないのだから、官僚であれ、側近であれ、良識に基づいてまともに職務を果たせ、と言えるわけです。それで税金から給料をもらっているのだから。クビになるとか左遷がこわいなんてのは言い訳にならない。その程度の覚悟はもって仕事に臨むのがまともな職業人というものだからです。一体どこにキ●タ●をぶら下げているのかわからない。

 これはマスコミについてもいえることで、情報はつかんでいながら、調べもせずそのまま放置して、「書いても安全」という事態にならないと書かない。お偉方は首相との「お食事会」に嬉々としてはせ参じて、そのご機嫌を取り結ぶ。それで下に向かっては、陰に陽に「批判自粛」を促すのです。「今は政治の安定が何より重要な時期だから」などと、尤もらしい能書きを垂れて。権力の腰巾着が「社会の木鐸」とは笑わせるので、ネットのせいだけでなく、だから新聞も売れなくなるのです。

 先の引用にからめて言えば、今の父親たちは「ほんとは弱かった昔の父親」よりもっと弱くなっているということです。これでは子供たちにしめしがつかないとは、彼らは考えない。アホな戦前教育の復活などで世の中がよくなるのなら、誰も苦労はしないわけで、そういうのは「浦島太郎の経済学」と揶揄されたアベノミクスよりさらに悪いわけです。

 あるいは、こういうことも考えられます。貧弱な個しかもちえない人間にとって、「権威の枠組み」としての教育勅語的な道徳は好都合なものなのだと。それは子供たちに対しても、個人の資格で対応することを免除してくれるからです。そういうものがなくなって個人は大変になった。ロクな社会常識を持ち合わせない人間(これは年配の人にもいる)が増殖し続けたこともそれと関係するでしょう。その外枠のおかげで昔は明確な個などなくても何とかやっていけたのが、そうはいかなくなったからです。弱い個人は外部的な参照枠が何かないと自らを省みることすらできない。

 しかし、あの戦争で特徴的だったのは、どこを探しても明確な責任者がいなかったということです。「空気の忖度」があるばかりで、「おれが決めた」という人がどこにもいない。制度上の責任者も、制度からすればそうなるが、実は自分で決断していないのです。

 それがあの戦争の最大の教訓だったと思うのですが、「あの方がよかった」と言う人たちがこんなに増えたのは、人は誰でもそれなりの自己格闘の上に個というものを獲得するのですが、そういう面倒なことはやりたくないから、無意識にそっちに戻りたがっているということなのではないのでしょうか。

 僕は自分の人生は自分で完結しなければならないと考えています。自己内面の問題にも、自分でそれなりの決着をつけねばならない。そう思っています。だから、親の夢や願望の実現を子供に託すとか、そういうことが全く理解できないので、わが子であれ、塾の生徒であれ、子供たちには自分を「独立した人格」として育て、確立できる人間になってもらいたいと思っているのですが、これはべつだんきれいごとではなく、それが個人の幸福に益するだけでなく、世の中をよくする一番の近道でもあると思っているからです。

 先の引用文に照らせば、どうしてそうなるかということはおわかりいただけるでしょう。明確な個というものがなければ、組織や社会の健全性は保てない。それがないとどうなるかということを、先の悲惨な大戦や、今回の一連の馬鹿げた騒動はよく物語っているのです。

 河合隼雄はもちろん、単純な西洋的個人主義の崇拝者ではありません。彼は神話や伝統の重要性についてもどこかで語っていたと思うのですが、それは「強い個人」と相反するものではなく、あくまで主体的・内面的につかみとられたそれなのです。ステレオタイプの教義・信条をそのまま取り込んで、それに自己同一化して、支配されるというのとは違う。教育勅語を暗記させるなんてこととは、次元の違う話なのです。

 やっぱり、「強い個」をもつ人間を育てないと駄目だなと、僕はあらためて思ったのですが、いかがですか? それなくしては、この国はもう立ち行かなくなる。おかしな滅私奉公教育ではなく、その逆の柔軟で強靭な個を、です。こう言えば、エゴイズムの奨励だとすぐ受け取るような人間理解の底の浅さこそ、実は一番の問題なのかも知れないのですが。

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