教育と洗脳

2017.03.05.13:38

 森友学園騒動は終息の兆しを見せず、国有地不正譲渡に対する疑惑は増し、理事長夫妻の異常さと児童虐待に関する報道も増える一方です。安倍首相が「たまたま悪いのに引っかかった」と言えるかどうかは疑わしいので、「しつけ等をしっかりしているところに共鳴した」「その時は妻から聞いた情熱的な教育をされるということ以上は情報がなかった」(先月28日の参院予算委員会での首相答弁)と言い訳していますが、戦前回帰の“ネトウヨ思想”を地で行けば必然、こういう虐待・洗脳教育にもなってしまうわけで、今さら「まさか実態がこうとは夢にも思いませんでした」という話は通用しないでしょう。これで政権が倒れる可能性も出てきたわけで、「安倍政権はネトウヨに始まり、ネトウヨに終わった」と、後世の歴史家たちに評されるかもしれません(安倍夫妻の教育観に関しては、幼稚・愚昧の一語に尽きます)。

 最新号の週刊文春・新潮はどちらもこの問題に関する記事をトップにもってきていて、一昨日、僕は仕事帰りにそこを本屋で立ち読みしましたが、どちらも相当に痛烈で、新潮は森友学園のこのボス夫妻がわが子の教育に「大失敗」していることまで取り上げて皮肉っていて、よそ様の子供の教育をとやかく言えるレベルの人たちではないのです。

 しかし、こういうネトウヨ学園にかぎらず、教育者という人種はなぜか「統制」「洗脳」好きな人が多いようです。それは学校の「文化」になっていると言ってもいい。僕は昔、小学校に上がったときのショックを今でも憶えているのですが、朝礼で校庭に生徒を並ばせて、気をつけ、礼! 前へならえ、右向け右!なんて軍隊みたいなことをやらせるわけで、いきなりこれでは生きた心地がしませんでした。僕などはものすごい山奥で育ったので、幼稚園も保育園も当時はまだなくて、それまで野山と川を友として呑気に遊んでいたのが、いきなりこれなのです。いや、子供集団を統率するのは大変で、大人数ともなればそうした軍隊式規律を仕込まなければ秩序は保てないのだ、と言われるかも知れませんが、僕が入学したのは同級生が十何人しかいない山の分校(過疎でとうの昔に廃校になりましたが)で、その地域の子供たちは三年間そこにいて、それから、体力的にもう大丈夫だろうというので、本校に移るのです。少人数だから、別に軍隊式にやらないと秩序が保てないというわけではないはずなのですが、そうしないと気がすまない。それが学校というところで、基本的にそれは今も変わっていないのです。

 いや、むしろ「悪化」している。当地の高校には、「おまえはヒトラーか?」と言いたくなるようなクソ教師がいて、いちいち授業が始まるたびに「お願いします!」と叫ばせるらしいのですが、その教師は声が小さいといきなりブチ切れて、教卓を蹴飛ばし、あとはずっと意味不明のお説教なんて羽目になるのだとのこと。僕自身は少なくとも高校段階でそんな異常な教師に出くわした記憶はないので、「そんな対応に正当性は何もないから、逆ねじを食らわして黙らせてやりな」と呆れて生徒たちに言うのですが、今は各種の式典で君が代日の丸は必須になっている(「日本会議」が背後でそうした法制定の旗振りをしていた)し、学校だけは時代に逆行しているのです。そういうヒトラー教師が「厳しくて素晴らしい」なんてたわけたことを言う困った親まで中にはいる(幸い、うちの塾の生徒の親にはそんな人はいませんが)という話で、何を考えて生きているのかと思うのですが、思わない人がいるからこそ、森友学園みたいなところに間違ってわが子を入れてしまう人も出てくるわけでしょう。

 わが子が小学生の頃、「父親もたまには参観授業に行くべきだ。大体、あんたは昼間はヒマなんだし」と言われて、僕も一度仕方なくそれに出たことがあるのですが、行ってみると、その日に備えて「練習」してきたのが歴然としていて、その「活発さ」も全部演出で、「北朝鮮のマスゲームではあるまいし、誰が子供を調教しろと頼んだ?」とすっかり不快になってしまったのですが、隣に立っていたどこかのお母さんが「素晴らしいですわね」と言うので、二重に驚いてしまいました。あとで先生との個別面談になったとき、「お父さんが私の授業をよく思われなかったことはお顔を見てわかりました」と先手を取られてしまったので、弱ったのですが、子供の頃は学校で家畜化教育を行って、会社に入るときは首尾よく「社畜」になれるよう準備して下さるとは親切も度が過ぎてませんか?

 だから、森友学園のそれは異常の度合いが少々きつすぎるとしても、ふつうの学校でもマイルドな「洗脳」は行われているわけです。日本人の集団主義は学校で形成されると言っても過言ではないほどで、私立には自由と自主自律をモットーとするところが少なくないようですが、話をよく聞いてみると、やはり妙に権威主義的な教師がそこにはいたりする。

 それをよしとしない親は、家庭で「脱洗脳」教育をしなければならないわけで、よけいな手間ですが、親が権威主義的でなく、そうした学校の権威も権威とみなしていなければ、子供はそれにつきあいながらも、相対化して見ることができるので、そうした洗脳教育は不成功に終わるでしょう。北朝鮮の中にいても、外部の事情をよく知っていれば、アホな「将軍様信仰」の馬鹿馬鹿しさがわかるのと同じです。それで子供が不良化することはない。理不尽を理不尽と見ることができ、自分の正直な感性を肯定することができれば、おかしな抑圧が働くことはないから、自然な自己肯定感がもてるのです。

 子供が健康な自己肯定感がもてているかどうかを示すバロメーターの一つは、友達の長所や才能を素直に認められるかどうか、弱い子にも優しくできるかどうかです。そのあたり、親御さんたちはわが子をよく観察してごらんなさい。不安が強く、人を優劣の関係でしか見られず、だから他者の優れた点を認められず、自分より弱い者をあえて作り出そうとする心理は、自己肯定感の欠如の裏返しなのです。僕が道徳教育をいらざるものと考えるのは、自然な自己肯定感のある人は不道徳な人間にはならないと見ているからです。一方でそれを破壊するような教育を行っておいて、他方で道徳教育を行うというのは、二重の抑圧を加えているのと同じになる。最近の科学研究で、赤ちゃんには弱い側を助けようとする生まれつきの正義感のようなものがあることが明らかになったそうですが、僕はそれは正しいだろうと思います。それを損ねるようなことを「しつけ」「教育」の名で大人は行っていることが多いのです。おかしなことをやって生得の道徳的直観を破壊してしまうから、尤もらしいことを並べる自称道徳家の反道徳性も見抜けなくなるわけでしょう。エラそうなお説教を並べ立てる奴にロクなのはいない。自身、自然な自己肯定感に乏しくて、おかしな権威・権力をふるって他者を直接間接支配し、それによってその内部の欠落を埋め合わせようとしている連中ばかりです。むろん、ご本人たちにその自覚はないわけですが、学校の教師や政治家には、そういう理由で権力に魅せられたという人間が、ことのほか多いのではないでしょうか。つまり、「病人比率」が高いということです。

 自由主義教育は昨今不評です。勝手気ままな人間が増えたのは「個性の尊重」なんて西洋かぶれのたわごとのせいだと言うのですが、社会性や公徳心の欠如は端的に言ってそれのない親が増えたからで、それとはほとんど関係がない。家庭でも、別に厳しいしつけなどしなくとも、子供は親の日常のふるまいを見てそれを身につけるものです。だから今の親に良識のない人が増えたのだとすれば、それはその親、祖父母の世代にそれがない人が増えたからでしょう。つまり、道徳教育がどうたら言う、保守的教育者や政治家センセイ自身にそれがないのです。その人たちは「学校の誤った個性尊重主義教育」のせいでそうなったのか?

 これは強調しておくだけの価値があると思うのですが、体面を取り繕うことと、本当に道徳的であることとは違います。妙な形式主義でとかく人を裁くが、ハートがなくて恐ろしく利己的で冷たい人間というのはいるもので、そういうのはたんに底意地が悪いだけなのです。そして、何より大事なそのハートは、型にはまった道徳教育で培われるようなものでは全然ない。もしも個の人格が本当に尊重されるような教育が行われていれば、柔らかなハートが損なわれることはないでしょう。

 むろん、ベタベタして子供を甘やかすことと、子供を一個の人格として尊重することとは違います。僕はそれを「バカ殿教育」と呼んでいるのですが、口うるさいのは勉強のことだけで、後は勝手気ままを容認し、他人に対して無神経かつ非道なことをしても、叱りもしないしそれに気づきもしないという馬鹿な親はたしかにいます。それでいて自分の権利主張だけはやたら強いので、こういう人がモンスター・ペアレントになるのですが、そういう親に育てられた子供は高校生、大学生になっても小学生か幼稚園児並の偏頗な幼児人格しか持たず、後で苦労する羽目になるわけですが、こういうのは学校の道徳教育でどうにかできるというような性質のものではないのです。

 案外とこういう親にかぎって、「厳しいしつけ」を受けて育ったという人が多いものです。虐待に等しい扱いを受けたり、親にハードルを課されていて、「これをクリアできなければわが子ではない」みたいな脅しを受けて、そのためにありのままの自分というものを肯定できなくなり、常に自分が脅かされているように感じるので、なおさら利己的になり、自己防衛的、攻撃的になるのです。こういう人の場合、わが子にも同じようなことをしたり、逆に極端な甘やかしになったりする。自然な対応ができないからそうなるので、しばしば両方が混在していたりするのです。これは観察しているとよくわかるので、特定のことでは異常に厳しいかと思えば、別のことでは異様に甘かったりする。当然子供は混乱するので、それではバランスの取れた健康な人格的成長というものは期待できません。“自然な”対応というものが何なのか、親自身が混乱していてよくわからなくなっているのです。

 昔も、判で捺したような「厳しい軍人」がわが子を台無しにしてしまうというような例は珍しくなかったようですが、昔の庶民層が比較的健全だったのは、「教育勅語」的教育のおかげではなく、義務教育だけで終わるのがふつうで、学校教育の影響がそれだけ小さかったことと、国家主義的教育の支配が及ばない生きた地域共同体というものがまだあって、それによる見えない社会化・人間教育というものの効果が大きかったからでしょう。

 今はそれがない。子育ては「孤育て」になり、困った時に親切に助けてくれる近所のおじさん、おばさんもいなければ、非常識なことをしていても、そんなことやっちゃ駄目だよと親身に教えてくれる人もいないのです(後でいきなり非難だけが来る)。地域共同体の自然な生きた教育能力がなくなって、社会全体の教育能力が低下した。学校で「道徳教育」を行えばどうにかなるといった問題では、本来ないのです。

 先にも述べたように、それはむしろなくもがなのものです。「自己肯定感を二重に損ねる」可能性の方が高いので、その程度のこともわからない人たちが教育に嘴をはさみ、それによって教育が変えられるなら、お先真っ暗と言わねばならないでしょう。森友学園は「神道に基づいたわが国初の小学校」という触れ込みだったようですが、それはかつてわが国を愚かな戦争へと導いた人為的かつ硬直した「国家神道」によるもので、そんなもので「愛国少年少女」を養成しても災いにしかならないということは、僕らは日本人としてこの際はっきり認識しておくべきでしょう。

 日本会議やそれと結びついた政治家たちは、「森友学園は特殊な例で、自分たちとは関係がない」としきりに煙幕を張っているようですが、彼らが提唱する「教育改革」なるものは、五十歩百歩のロクでもない洗脳と教育統制に向けたものであることも、同じく忘れるべきではないでしょう。いくら何でも露骨すぎてあれはまずいと、理事長が「日本会議」に名を連ねていたからなおさら、彼らはあわてているのです。
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