今日は卒業式

2017.03.01.18:39

 今日3月1日は、全国の多くの高校で卒業式が行われたことでしょう。

 僕も先日、延岡高校の三年生たちから、「先生も来てくださいよ」と言われました。わが子の卒業式にすら出たことがないのに、どういう資格で?ときくと、「来賓で」と言うので、「じゃあ、それで行って、祝辞にかこつけて、『愚かな虐待教育に耐えて、君らはよく頑張りました』って、長々学校への皮肉を並べることにしようか」と言うと、「それがいい!」と爆笑になったのですが、森友学園ではないが、あとで学校のホームページに、「意図的に学校の名誉を傷つけようとした反日左翼の陰謀」云々と書かれるかもしれません。

 それでも延岡高校は、ここ数年は革新的な校長先生のおかげで、無駄な拘束が減り、以前よりずっとマシにはなっていました。しかし、生徒たちに慕われたその先生もこの三月で三年生と一緒に「卒業」だというので、「そのあとは保守反動の校長が来て、再び暗黒時代に戻ってしまうかもね」と僕は冗談を言って生徒たちを脅しているのですが、県教委もそこらへんは考えているだろうから、たぶんその路線を引き継いでくれる人が来るでしょう。

 いつものとおり、今年もネットで有名大の英語の入試問題速報を見ながらあらためて思ったのですが、もっと生徒たちに余裕があれば、こういう話もしとけばよかったなと思うことがたくさんあって、入試の観点から見た場合でも、今の学校教育は(少なくとも当地の学校のそれは)ズレ過ぎているのです。こうした入試英文のおかげで僕は使用教材には困らず、楽しみながらそれを使った授業ができるのですが、現代社会・文明のタイムリーかつ多様な問題がほとんどすべて網羅されていると言っていいくらいで、陳腐・平板なセンター英文と違って、二次英語は内容的にも深みのある、刺激に満ちた話の宝庫です。ステレオタイプ的な思考に異論をさしはさむものも多いから、とくに面白い(小論文でも、僕は見てちょっと驚いたのですが、慶応法の今年のそれは、安保法制の騒ぎの時によく話題になった「立憲主義」の問題でした)。

 しかし、死ぬほど退屈な学校授業の予習と宿題に終われている生徒たちには、そんなものを面白がる余裕はあまりないわけで、余裕が十分あるのは学校の宿題を手早く片付けてしまえる一部のとくに優秀な生徒だけでしょう。そんなつまらないものに時間を潰されるくらいなら、今はネットで無料で見られる面白い英文記事(それがそのまま入試に出ることもある)や英語のドキュメンタリー(日本語字幕の他、英語字幕のものもある)なんかがたくさんあるから、学校をさぼってそういうのを見ていた方がずっと勉強になるし、文法も、僕がかねて「最悪教材」と呼んでいるあの無駄に量だけ多い『ベーシック・グラマー』なんてわけのわからないもの(この前、その間違いも指摘しておきました)につきあわされるより、自分で薄手の問題集でもやってマスターした方がよっぽど時間の節約になるし、効果的なのですが、内申の問題があるから、そうもいかないのです(ついでに言うと、今年の延岡高校は推薦での大学進学者が異様に多く、全体のほぼ三分の一を占めました。塾の方も、どういうわけだかその比率が今年はそれに輪をかけて高かったのですが、感心なことに大方は二月いっぱい、塾の授業につきあってくれました)。

 もう一つ、僕がかねて疑問に思っているのは「何でこんなに今の高校生は英作文が苦手なのか?」という問題です。応用が利かない。毎年、秋ぐらいからはその添削をしているのですが、個人差はむろん大きいとしても、「まあ、これぐらいになれば本番でも六割以上はとれるかな」というところまでもって行くのにはかなりの時間がかかる。延岡高校なんかは、毎回の定期テストの最後に自由英作があるのですが、あれはとにかく字数だけ書いとけば点がもらえるシロモノで、かえってそういう教育が災いしている。文法的に出鱈目でも、論理をなさず、内容がほとんどなくても、点数が与えられるからで、「考えずに書く」悪い癖がついてしまうのです。とにかく学校は「考えずにやる」悪い癖を生徒につけさせる名人です。それが後で生徒にとってはアダになることがどうしてわからないのでしょう?

 今の入試の英作文は、意見作文というのが主流になりつつあります。特定の問題を提示、あるいは参考文や図表など資料を示した上で、その問題についての自分の意見を英語で書かせるのですが、こういうのはそんな問題、あることすら知りませんでしたでは、別に高度なことは書く必要はないとしても、読むに値するものを書けるはずがなく、基本的な理解がないのでまるっきりピントの外れた意味不明文を書いたり、小学生にも劣るような無内容なことを並べる羽目になりかねません。それに加えて、文法ミスのオンパレードで、そもそも英文の体をなしていないということになると、思考力も社会的基礎知識も、学力も全部ありませんと、自己宣伝しているようなものなので、ほとんど零点でしょう。とにかく書くのは書いたから点がもらえるだろうと思うのは、あの定期試験の悪しき条件づけによるので、それならあんなものはなくした方が親切なのです(英文の添削というのは手間ひまが一番かかるもので、分量が多くミスも多いと、「ここをどう直して何を補えばまともな展開の文になるか?」なんて考え出すとキリがなく、一人分手直しするのでも一時間、二時間、平気でかかってしまうことがある。だからそれを全生徒に直接やるのはほぼ不可能でしょう)。

 今の企業は就職面接の際、「社会人基礎力」というのを見ようとするのだそうですが、大学入試でもそのあたりは同じで、ろくすっぽその意味を考えもせず、教科書知識の機械的丸暗記だけしてきたような受験生はほしくないわけです。それを材料に考える力があって初めて、知識は意味をなす。ところが、物量作戦で量だけ多く押しつけられると、その「考える力」が犠牲になるのです。その結果、学力も伸びず、入試でもはかばかしい点が取れないことになる。英作文は俗に英借文と言われるように、お手本になるような英文を一定数、その構造を理解しながら頭に入れて、それらを応用して英文を作ってみるというプロセスを経て進歩するものなのですが、基本的にこういうのは自分で意識してやっていないと駄目なものです(だから学校で例文暗記テストを繰り返せばいいという問題ではなく、自律的な姿勢の問題)。また、英文を一定量以上読めば、感覚として“文の据わり”のよしあしもわかってくるのですが、こうしたことにはすべてそれ相応の時間がかかり、精神的・時間的な余裕も必要になる。忙しいからと雑なことばかりやっていたのでは、学力は向上しないが、今の学校というところは生徒にそういうふうに仕向けているのです。問題はそこにある。

 一日は誰でも24時間で、限られているのだから、生徒たちに「考えたり、自分で調べたりするゆとり」をもたせるには無駄なものは極力省いて、時間の拘束も減らし、自分の時間を多く与える必要がある。塾のある生徒が学校で先生に、「どうして課外は必要なんですか?」ときくと、その先生は「課外がないと、おまえら勉強しないだろう」と答えたそうです。僕はそれこそ「自己責任」だと思うので、管理強制して、それに受け身で従っていたところで、どうせ高い学力なんか身につくわけはないのです。上に見たとおり、多忙に紛れてやることが雑になり、考えることをしなくなるだけ。そうなるといくら学校が鞭を振るっても、成績は頭打ちになり、やがて下降線を辿るのです。学校が平常授業でできるだけ質の高い授業を提供すべく努め、その上で生徒にゆとりを与えて自学自習を促すなら、結果はその反対の望ましいものになるでしょう。その方向への改革が続くことを僕は願っています。

 それでは、卒業生諸君、これまでご苦労様。大学に入ったら自由度が一気に増すので、それを善用し、よく学び、よく遊べを実践して、将来有為の人材となって下さい。国立の結果はまだ出ていませんが、残念ながら浪人となった人は、心機一転、勉強の仕方も変えて、もう一頑張りです。
スポンサーサイト
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR