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クリシュナムルティの説く「革命」

2016.12.15.16:13

 僕は寝るときナイト・キャップ、または催眠薬代わりに本を読むのをつねとしますが、先日候補の本を書棚から物色していたら、もう何年も読んだことのないクリシュナムルティのWhere Can Peace Be Found? という薄い本(本文109ページ)に目が留まり、この本はもっていた記憶自体がなくて、未読のように思われたので、ためしにこれを使ってみることにしました。亡くなる三年前、1983年の講話を集めた本です。

 久しぶりに読んでみると、まずその英文の平易さに驚かされる。こんなことを言うと、「いや、クリシュナムルティは見た目は平易でも、深遠きわまりないので、理解はとてつもなく困難なのだ!」なんて怒り出す人もいそうですが、高校生でも基本的な英語力さえあれば、十分理解できるレベルの英文なので、ほんとに読み易いのです。これは彼がインド人で、英語は元々外国語であるということと、彼は学者ではないので、引用の類がほとんどなく、使われる語彙も限定されていることから来るものでしょう(晩年のものだということもおそらく関係する)。複雑な構文も出てこないから、わかりやすいのです。

 内容は、いつもと同じ話です。私たちの脳は深く条件づけられている。その産物である記憶と思考は災いである。それが内外に分裂と対立を生み出し、世界は悲惨な状態になる。解決策はそうした条件づけから脳を解放し、脳細胞の変異(mutation)を生み出すことである。そのとき初めて真の叡知(intelligence)と慈愛(compassion)が生まれる。

 要約してしまえば、そういう話なのですが、今回あらためて彼の本を読んで驚いたのは、話に繰り返しがむやみと多く、なかなか議論が前に進まないことです。そしてこの議論自体、毎回のように蒸し返されている同じ話なので、正直、僕は途中で退屈してしまいました。

 こう言うと、「いや、おまえのそういう安易な態度こそが問題なのだ!」と、クリシュナムルティ読者には叱られてしまいそうですが、にしても、その話の回りくどさは半端ではないので、「インド人にはおしゃべりが多い」という養老孟司氏の話を思い出してしまったくらいで、かんじんなポイントの説明はほとんどないくせに、途中の反復が多すぎるのです。

 僕はかつてクリシュナムルティを「特別視」していました。だから気にならなかったが、そういう気持ちがなくなった今、こうしてあらためて読み返してみると、「むやみと話が長い」ところばかりが強く印象づけられて、それには辟易させられたのです。

 それで、じれったくなって要約してみたくなったので、それをここにお目にかけたいと思うのですが、それは僕に意味があると思われる点についてだけです。さらに、これを僕は自分の言葉で書き、説明が不足していると思うところは勝手に補うので、それは当然「解釈」の入ったものとなります。そのあたりは承知してお読みください。

 まず、彼は人間精神の自己中心的(egocentric, self-centered)な性質について述べます。これはエゴ、ミー、セルフ、呼び方はどうあれ、「自分」というものが何より大事だからで、その自分の体面と地位を守り、財産を増やし、権力を増大させることは何より重要なのです。自分の家族や、自分の会社、自分の国、民族を守ることも重要です。なぜなら、それらは自分に付属するもの、または自分がその一部だからです。中国や韓国が歴史問題で日本を非難するたび、僕ら日本人は傷つきます。先祖や国家も、「私」の一部だからです。

 こうした「私」は伸縮自在です。仮に宇宙人が攻めてきたら、人類は一時的に仲良くなり、大同団結するでしょう。その場合は、「私」が「地球人」に自己同一化するからで、それまでは国家間、民族間、または宗教の違いでいがみ合い、戦争してきたが、宇宙人という「共通の敵」が出現した今は、「身内」になるのです。

 収縮の場合は、たとえば自分の所属する会社や学校が批判されれば、それに対して一様に気を悪くするとはいえ、内部では同僚、級友相手に熾烈な競争が繰り広げられ、その場合の「私」は、会社でポストを争う、成績の優劣を競う「個人」意識になっているのです。

 要するに、「私」というのは無数の括(くく)りをもっていて、場面場面でその「括り」は変化する。人類→民族・国籍→所属する集団→個人というふうに、一人の人間の中にある記憶や知識はカテゴリー分けされて、その都度表面に現れ出たものに「私」は自己同一化するのです。

 いや、私は会社で、学校で、人を押しのけてなんて気はありませんという人も、同期入社組はみんな順調に出世したのに自分は平のままだったり、友達が上の学校に合格して自分だけ不合格になったりすると、みじめな感情になって落ち込むのです。

 これはいいとか悪いとかいう話ではないので、こういう型にはまった心理反応は人類に共通のもので、ディティールこそ違え、僕らは同じように条件づけられていて、同じように反応しているので、だからあなたの意識(=意識の中身)は他の人類のそれと同じなのだと、クリシュナムルティは言うのです。同じように陳腐で、混乱している。

 にしても、こうなってしまうそもそもの原因はどこにあるかというと、「私という観念」そのものにあると言わざるを得ないでしょう。それも脳のプログラミング、条件づけの一部なのですが、この「私という観念」が何をするにも僕らにはつきまとうのです。私の顔、私のからだ、私の性格、私の仕事、私の成績、私のパソコン、私の恋人・妻、私の家、私の車、私の学校・会社、私の国…というふうに、全部に「私」がつく。この世界にあるものは「私のもの」とそうでないものとに分かれ、人間同士、「私のもの」が全部一致することはありえないので、国家間、民族間、宗教宗派間、会社・学校間、家族間、さらにはそれらの内部でも無数の対立が発生するのです。

 要するに、諸悪の根源はこの「私という観念」にある。同じ個人の内部ですら、「私」は互いに対立して、戦争状態にあります。こうしたい私と、そうはすべきでないと思う私がいて、理想の私と、現実の私のありようもつねに一致しないからです。

 その対立、混乱が激しすぎると、人は神経症になったりうつになったりするのですが、多くの人は、それとは気づかないまま、自己虐待に励んでいます。これは家庭や学校、社会によって一面的な価値尺度を植えつけられ、いわゆるwhat I should be と what I amの齟齬(そご)が発生し、「かくあるべし」が「げんにある自分」を責め立て、虐待する結果になるからです。

 たとえば僕が、愚図でのろまな、ぼーっとした子供だったとします(げんにそうでしたが)。他の子供が10分ですませることにも、30分かかってしまうのです。学校の宿題も、母親か誰かが横にいて、「はい、やりなさい」と言わないとやらない。それ以前に、宿題が出ていることそれ自体をしばしば忘れているので、ランドセルを見て確認させないといけないのですが、始めても一問解き終えるたびにぼーっとしているので、「はい、次やって」と言わないと先に進まず、たった一枚のプリントをやり終えるのにも恐ろしく時間がかかってしまう。服のボタンをかけさせても、えらく時間がかかっているのに、いつも一列ずつずれていて、またやり直さないといけない。昔はよく物を包むのに風呂敷を使いましたが、一人だけ、いつまでたってもそれがちゃんと結べないのです。これは本物の馬鹿ではないかと、見ている人はたいてい思うので、僕の場合は、根拠なく「世界一の孫」だと思い込んでいる祖母がいてくれたおかげで自己肯定感を破壊されずにすんだのですが、「人並」「かくあるべし」の基準を大きく下回るこういう子供は、「ダメな自分」という思いをもたされやすいのです。

 子供の頃は親が自慢の優等生、「よい子」だった場合でも、油断はできない。突如として、何もかもがうまくできなくなってしまう日が訪れるのです。なぜこの子は突然駄目になってしまったのかと親も教師も訝りますが、本人にもそれはわからない。知らないうちに「かくあるべし」の重圧が強くなりすぎて、力尽き、混乱に陥ってしまったのです。

 こういうことは大人になってからも起きうるので、前は有能だった人が突然のように無能になってミスを連発する。自責の念が強ければ強いほど、それは加速する。そうしてついには立ち直れないほど自信を失ってしまうのです。

 こういうのも全部、「私という観念」が引き起こす病理です。そういう人の内面は「あるべき私」と「その要請が満たせない現実のダメな私」に引き裂かれている。二つの「私」の葛藤の中でエネルギーは浪費され、その混乱のなかで無能化するのです。

 そこでセラピストたちは、「あるがままの私の受容」を説きます。そうして、こう教える。その「あるべき私」というのは何なのか? それはあなたの親が、学校の教師が、社会が、あなたに植えつけた一面的な価値尺度にすぎない。あなたはそれを無意識のうちに内部に取り込んで、その価値尺度に自己同一化し、内部に自己分裂をつくり出すようになってしまったのだと。その結果、あなたの中には「あるべき私」と「その期待に応えられない現実のみじめな私」という「二つの私」ができてしまい、前者が後者を虐待するという不幸な結果が生まれてしまったのだと。

 しかし、さらに言うなら、「あるべき私」も「あるがままの私」も、「私という観念」に基づいて作られた区分けでしかないのです。それを理解することは重要です。「私」観念それ自体が、身体的個別性と脳の統括機能に準じて思考が作り出した虚構にすぎません。脳には統括機能が備わっています。記憶(知識や経験のそれ)が一つのまとまりを形成しなければ、僕らは一つの生命体として機能できません。その統括機能が思考作用と結びつくとき、「私」という虚構は生まれるので、それは「このユニット」と言い換えた方が適切なものです。しかし、僕らはどうしてもそこにパーソナルな感情をまといつかせてしまうので、だから「私」と強固な「私感情」が生じてしまうのです。

「私」という言葉を廃して、代わりに「このユニット」と呼ぶとしましょう。そうしてそれにいちいち自己同一化することなく、その中にある記憶や知識、感情と思考の動きを観察するとしてみましょう。いちいち評価したり、非難したりすることなく観察するのです(それが「私」だと思わなければ、これはそう難しくない)。そうすると、そこにはだんだん秩序が生まれてくる。おぞましい感情も崇高な感情も、そこにはあるでしょうが、いずれにせよそれは「このユニット」の中に観察されるもので、それらに「私」という観念をもっていちいち自己同一化しなければ、別に恥ずべき感情も、誇らしい感情も生じないのです。卑下も高慢もなく、それは目に映じてくる。そうすると内部の混乱もだんだん沈静化して、見るに堪えないようなものも減ってくる。責め立てる自分と、責められる自分の分裂が、グロテスクなものを生み出していたことがわかるのです。

 クリシュナムルティはよく、観察者と観察されるもの、分析者と分析されるもの、探求者と探求されるもの等々、それらは同一であると言いますが、それは「私」内部の自己分裂を言ったものです。それは「あるべき私」が「あってはならないダメな私」を非難、批判するのと同じで、そういうやり方では混乱を増幅させるだけで、本当の観察はできない。真の観察は「観察者のいない観察」だけだというのはそのことを言ったものです。ありもしない「高次の自己」が、「下位の自己」を観察するというのではない(クリシュナムルティ風に言うなら、そういうのは「同じ機械的な思考の運動」にすぎません)。そのとき、観察する主体、観察する「私」は存在しないのです。たんなる観察だけが、知覚だけがある。

 デカルトのコギト・エルゴ・スム、「私は考える、ゆえに私は存在する」は有名です。考えるためには、その前提として、「考える私」が存在しなければならない、というのですが、それは後からつけた理屈で、犬は別に「私は走る、ゆえに私は存在する」なんて考えながら走っているわけではないでしょう。そんな自意識過剰の犬は何かにけつまずいて転倒するのがオチです。考える場合も同じで、僕は今、一応考えながらこれを書いていますが、脳の思考機能を使っているのは確実ですが、何者が考えているかなど、僕の知ったことではありません。その背後に、ケチな私がいたとすれば、そこから紡ぎ出されるものもロクなものにはならないだろうから、そこから逆に「誰が考えているのか?」を推認することは可能になるとは言えますが。「高次の自己」が背後にいるわけでもない。そんな薄気味悪いものは見たことがないので、僕は今、ただ考えているのです。

 それは別に高尚なことでも何でもない。クリシュナムルティの「観察者のいない観察」というのも同じです。現代人は皆、自意識の病にかかっているからそれがわからないので、何をするにもいちいち「私」というものを持ち込まなければ気がすまないから、そのかんたんなことができなくなっているのです。高尚な私も、下等な私もない。全体として人間の意識の中身はおぞましいものですが、それは「私という観念」の肥大と、それに対する執着がもたらしたものです。そして(先に使った言葉を用いれば)、どのユニットの中身も似通っている。僕はあなたであり、あなたは人類なのです。そして等しく愚劣です。「私」観念による汚染が、そうした結果を招いたのです。「高尚な私」「素晴らしい私」などというものは、世界のどこにも存在しない。それを見切ることが正気をもたらすのです。

 クリシュナムルティが言っているのは、要するにそういうことです。今の世界は崩壊寸前です。来年になるとその兆しはさらにはっきりしてくるだろうと僕は見ていますが、個人のレベルから、国家社会レベル、世界のレベルに至るまで、「私という病気」がその分裂と破壊の元凶として作用しているのです。「私」という、文字どおり犬も食わない病的な観念にとりつかれた人類はいずれ自滅する。それはペストのような伝染病よりはるかに強力な破壊力をもつのです。

 僕は彼の「脳細胞の変異」説には懐疑的です。ほんとに彼にそんなものが生じていたという証拠はないし、それもまた人間特有の「自己神話化」の産物でしかないように思える。学習や年齢によって脳のシナプスの連結が変わることは知られています。その程度の話ではないかといえば、クリシュナムルティ信奉者には叱られるでしょうが、上に述べたことは重要性をもつと思われるので、書いてみたくなったのです。

 クリシュナムルティの執拗なまでの「思考の排撃」にも同意しかねる。「思考は記憶の反応である」と彼は言いますが、そういう機械的な反応でない思考も存在するはずで、でないと創造的な思想などは生まれません。知恵の伝達もできない。「観察者のいない観察」があるなら、「思考者のいない思考」もある道理です。しかし、それは限定されている。それは尤もですが、「無限の叡知」なるものは、観念上は存在するとしても、現実にそれを備えた人間はいません。人間の脳は、条件づけを外された脳は、その媒体として機能しうるでしょうが、それは個々の脳の個性に応じた限定的な表われをするしかないでしょう。仏陀はあらゆる超常的な能力を備えており、寿命ですら自在にコントロールできた、なんてのは、後世の人間の願望の投影から生まれた神話でしかありません。そういう幻想によりかかりたがるということ自体、人間の幼稚さ、未熟さを示すものでしょう。ソクラテスの「無知の知」ではないが、自分の考えることは限定されているという自覚をもたらすものがその無限定のもので、そういうかたちでしか僕らは無限には触れえないが、それは別に嘆くべきことではなく、嘆くべきはその自覚がないことです。

「絶対的自由を達成した超人的宗教家」というクリシュナムルティにまつわる神話も、おそらくはそうした人間共通の「超人願望」投影の結果でしょう(オウムの麻原ですら、信者たちにとっては空前絶後の「覚者」だったのです)。僕は前にここに、「クリシュナムルティと二重人格」と題した文を書いたことがあります。彼は仕事でも右腕と頼む親友の妻相手に間男を働き、口の堅い女性だったので、複数回の妊娠中絶などもあったにもかかわらず、長くバレなかったが、その女性がクリシュナムルティの「新愛人」に嫉妬したことから、夫に長年の秘められた関係を告白してしまい、夫の方は仰天して、何ともはやの泥沼に落ち込んでしまったという話(他に学校運営上の彼の無責任から、古くからの協力者が離れてしまったという話などもある)を、この夫婦の一人娘が暴露していて、その本を紹介したのですが、他を顧みない「絶対的自由」の結果、そのようなお粗末な事態を招来し、嘘と言い逃れに終始して、関係者をいっそう傷つける羽目になったのだとすれば、それはどう見ても上等とは言いかねるのです。「葛藤」なく、彼がそうした嘘と言い訳を並べていたのだとすれば、サイコパス的な意味での「超人」だということになり、なおさら感心できない。

 だから妙な言い方をすれば、葛藤も悩みも、ほどほどにはあった方が健康なのです。それがその人の人間性を担保してくれる。問題はその性質と度合いで、彼が言う「私」観念の呪縛に深く囚われたままでは、人は病気になり、無能化する他なくなる。日常生活においては、僕らは「私」としての責任を負わされ、人間世界における「私」の共同幻想の中に住まわざるを得ない。問題は、それを一つの「約束事」と見て、そこからの内面的自由をどの程度得られるかにかかっています。「私」の呪縛が内面においても、社会レベル、国家レベル、世界レベルでも深刻な破壊をもたらしているという彼の指摘は事実なのですから。

 そうした自覚を持てば、脳細胞に突然変異が生じるかどうかはともかく、人間はこの世界で平和に暮らすことができ、必要な問題解決能力を備えたものになるでしょう。それが極度に困難になってしまうのは、彼が言うように、人間が、人間の脳が「私」という狭い輪に囚われ、その閉鎖空間の中で思考が機械的な自動運動をするようになり、同時に、すでに見てきたように、その観念でしかない「私」が内外にたえず分離と対立を生み出す発生源になってしまっているからです。陳腐で機械的な思考と感情的混乱、それらが結果として生み出す知覚と感情の鈍麻しかないのだとすれば、その中でどうあがいたところでまともな世界、まともな社会は作れない。その「基本的事実」を見なければ何も始まらないというのは、たしかに聴くべき価値のある話なのです。
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