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人間を変えるもの/神について

2011.01.07.18:07

 インターネットの便利なところは、膨大な量のtextが無料で閲覧できるところで、場合によっては本が丸ごと一冊収められていたりするので、驚きます。そういうのは本を買った方が読むのには便利ですが、絶版の場合は助かります。
 クリシュナムルティの場合も、今は多くの講話が居ながらにして読めるので、以下にご紹介するものは、J.Krishnamurti ON LINEというサイトで読めるものの抄訳です。グーグルで、krishnamurti on god と打ち込めば、一番上にここに載せたものの原文サイトが出てくるので、原文に当たってみたいという方は、そちらをご参照下さい。
 これは1948年2月8日のボンベイでの四回目のトークだそうです。彼は1895年5月の生まれなので、満52歳のときの講話だということになります。すでに翻訳されている本のどれかに入っているのかも知れませんが、面白いと思ったので、楽しみがてら、正月休みに訳を作ってみました。途中の質疑応答の箇所を、最後のものを除き省いていますが、他はそのままです。適宜意訳をまじえていますが、内容を変えたつもりはないので、上のタイトルに関心のある方はお読み下さい。「存在の状態」という言葉がキー・ワードのように繰り返し出てくるので、その言葉に注意してお読みになるとよろしいでしょう。
 訳の後ろに、少し注釈めいたものをつけておきます。


●思想(ideas観念)は世界に変容をもたらすことはできません。それは賛否両論をひき起こして、別々の集団をつくり出し、必然的に対立と惨めさを生み出します。思想が人を根本的に変えることはないのです。それらは表面的には生活に影響を及ぼし、行動や外的な関係を変えたりはするでしょう。しかし、思想は人のありようを根本的に変えることはありません。人はそれらの思想を敵視したり受け入れたりするだけで、それによって自分自身を孤立させてしまうのです。それは新たな敵対と闘争を生み出すだけに終わります。
 存在の状態(the state of being)だけが、根本的な変化を生み出します。この存在の状態は、思想でも、たんなる説明でもありません。それは観念(思想)としての思考がやむときにのみ、現れるのです。

 精神(the mind)はわれわれ人間の問題を解決することはできません。精神は理論を、システムを、観念を案出することはできます。それは行動の異なったパターンを生み出すことはできます。それは生活を組織立てることはできます。発明し、公式化することはできます。しかし、それは人間の問題を解決することはできません。なぜなら、精神それ自体が問題だからです。真に問題とすべきは、精神が外部に自らを投影してできた問題ではありません。精神それ自体が問題と化しているのであり、それが巧んでつくり出したものが生をややこしくし、葛藤と惨めさを生み出すのです。ある思想を別の思想と置き換えたり、思想を変化させることは、思考者(the thinker)を変容させることにはなりません。

 だから、思考者それ自身が問題になっているのです。思考は修正したり、変えたりできます。しかし、思考者はそれとは別のものとして残っているのです。(本当は)思考者が思考です。それらは別のものではなく、ひとつながりの現象(a joint phenomenon)であって、分離したプロセスではありません。思考者は、状況に応じて思考を操作したり、修正したり、変えたりしますが、この行為によって、自分自身を防護するのです。絵はそのままで、額縁だけが変えられるのです。しかし、問題なのは絵であって、額縁ではありません。思考ではなくて、思考者が問題なのです。自分の思考を修正したり変えたりするこの行為は、思考者の側が行う巧妙なペテン(clever deception)で、それは彼を幻想と終わることのない誤解、葛藤へと導きます。ですから、思考者が終わるときにのみ、存在(being)があり、根源的な変容をもたらすのは、その存在の状態だけなのです。

 このこと、つまり、「思想(ideas)は人を変えることはできない、思考(thought)の修正は根源的な革命をもたらすことはない」ということを理解するのは、重要です。思考者が終わる(=いなくなる)ときにのみ、根源的な革命があるのです。あなたはどんなときに創造的な瞬間を、歓喜や美の感覚をもちますか? 思考者が不在のとき、(それに伴って)思考のプロセスがやむときだけです。そのとき、二つの思考の狭間にある(思考者も思考も存在しない)そのときに、創造的な喜びがあるのです。分離のない全一の存在(being alone)が、変容をもたらすのです。

 どのようにして思考者の終わりをもたらすか、それが私たちの次なる問題です。しかし、その問いかけ自体が間違っているのです。というのも、その問いかけをしているのは依然として思考者だからであり、それによって思考者は自分を存続させようとしているのです。思考者がこの自分の活動を自覚する(それに気づく)とき、そのときにだけ思考者は終わるのです。素晴らしい美に触れたときや、大きな悲しみの瞬間には、思考者は一時的に姿を消し、そのときだけは無限の幸福や祝福の途方もない感覚があります。永続的な革命をもたらすのはこの創造的な瞬間です。それはこの存在の状態で、その中には思考者が不在で、それが新生をもたらしてくれるのです。思考者が不在のこの静寂の中に、リアリティが姿を現します。

【ここから質疑応答になりますが、三つの質問とそれに対する返答はカットして、最後、四つ目の質問と応答だけ訳出】

 質問:あなたは決して神には言及されません。神はあなたの教えの中では場所をもたないのでしょうか?

 クリシュナムルティ:あなた方は神についてたくさん語りますね。あなた方の本はそれでいっぱいだし、教会や寺院を建て、儀式を執り行います。こうした神の追求は、あなた方の探究の浅薄さを示すものです。あなた方は神という言葉を繰り返しますが、あなた方の行いは敬虔なものではないでしょう? 神は崇拝するが、あなた方の生き方は神を恐れぬものです。あなた方は神を口にしながら、他の人々を搾取します。そして金持ちになればなるほど、多くの寺院を建設するのです。ですから、あなた方はただ神という言葉に親しんでいるだけなのです。しかし、言葉は神ではありません。言葉はそれが指す事物ではないのです。

 リアルなもの(the real)を見出すには、精神がするあれこれのおしゃべりをすべてやめねばなりません。リアリティについてのイメージは、リアリティが出現するには消えなければならないのです。未知のものが存在するには、精神はその中身、既知のものを脇にどけねばなりません。神を追求するためには、あなたは神を知らねばなりませんが、あなたが追い求めているものを知ることは、神を知ることではありません。あなたを神の追求へとつき動かしている反応は、記憶から生まれたもので、だからあなたが探し求めるものは、すでに作られたものなのです。作られたものは永遠ではありません。それは精神が作ったものです。

 書物が何もなければ、グルが一人もいなければ、儀式や他の逃避手段が何もなければ、あなた方が知るすべては、悲しみであり、ときたまの僅かな幸福にすぎません。そのときあなたは何が悲しみの原因であるかを知りたいと思うでしょう。そのときは非現実的な幻想を通じて逃避しようとは思わないでしょう。あなたは神その他を発明するかも知れませんが、もしも本当に苦しみのプロセス全体を明らかにしたいと願うなら、あなたは逃避しようとはしないでしょう。そのときあなたは何かに惑溺しようとはせず、現実にあるものに面と向き合うでしょう。そのときにだけ、あなたはリアリティがどんなものであるかを見出すのです。

 悲しみの中にある人はリアリティを見出すことはできません。それを見出すには、悲しみから自由でなければならないのです。未知であるものは、考える対象にはなりえません。あなたが考える対象は、すでに知られたものです。思考は既知のものから既知のものへと動きます。安全なものから安全なものへと、動くのです。しかし、既知のものはリアルなものではありません。

 だから、あなたが神について考えるとき、あなたは既知のものについて考えているのであって、既知のものは時間の罠の中にあるのです。リアルなものは、精神がつくり出すことをやめたときにのみ、精神が静まっているときにのみ、姿を現します。この静けさは強いてつくり出すもの、訓練や自己催眠の結果もたらされるものではありません。あらゆる問題がやんだときにのみ、静寂があります。それはそよ風がやんで静かになったプールのようなものです。ですから、精神は扇動者、思考者が終わったときに静かになるのです。思考者が終わりを迎えるためには、思考者が操る全思考が考え抜かれねばなりません〔思考を操る思考者を含めた思考の全体が徹底的に吟味されねばならないということ〕。思考に対して防壁を立てるのは無益なことです。あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければなりません。(そのようにして)精神が静まったとき、リアリティ、描写しえないものが、姿を現すのです。あなたはそれを招いて得ることはできません。それを招くことは、それを知ることです。そしてすでに知られていることは、リアルなものではないのです。精神はシンプルでなければなりません。理屈をこねたり、信念にこだわったりする重圧から解放されていなければならないのです。リアリティが出現するためには、それを探し求めてはなりません。精神とハートをかき乱す、その原因となるものを理解しなければならないのです。問題をつくり出す者が終わるとき、そのとき、静穏さがあります。その静穏さの中で、リアルなものの祝福がやってくるのです。(1948.2.8)


 以上ですが、先に申し上げたように、前半のポイントは「存在の状態」という言葉です。精神がどういう状態にあるかが問題なので、話の全体に即して理解すれば、それは「思考者のいない状態」だということは明らかです。思想が人を変えることがないと言われるのも、それは思考者(いわゆる「自己」)がそれらをつくり出しているからであり、精神には問題が解決できないというのも、思考者が精神の中心となり、それを主宰しているからです。その「状態」が変わらなければならない。
 これは、後半の「神」についての質問への応答にも、そのままつながっています。クリシュナムルティがここで reality とか、the real(リアルなもの)と言っているものが、つまりは「神」と呼ばれるものですが、それは「神とはこういうものだ」というイメージや期待とは全く別のもので、それは心理学でいう「投影」ですが、そうした投影が完全にやまないかぎり、それが姿を現すことはないということです。そして、その投影を行うものが、思考者=自己なのだから、前半で強調されていることが、そのままここにも当てはまるわけです。「精神とハートをかき乱す、その原因となるもの」とは、この「思考者」に他なりません。
 僕は前に知人(その人はクリシュナムルティとは無関係ですが)を介して、クリシュナムルティの新米読者(?)だという人に面接を求められ、仏教関係の本も読んでいるらしいその人に「思考を止める」というのはどういうことですか、という質問をされて返答に窮したことがあるのですが、無理に何も考えまいとしても、それはできない相談です。僕らの思考習慣では、あたりまえのように精神には「思考主体としての自己」がいて…ということになっています。「心を空っぽにする」と言っても、それが「雑念のない透明な自己をもつ」というイメージだと、その前提は何も変わっていないわけで、その「よい自己」を防衛するために「雑念」とたえず格闘しなければならなくなってしまうでしょう。それでは自意識と緊張をかえって強化してしまうことになるので、必要なのは「自己」対「雑念」という図式の外側に精神が出ることです。この場合も、そこにhigher self(高次の自己)という観念を新たに持ち込んで、「雑念と戦っているのは低い自己、つまり自我で、座をその自我からハイヤー・セルフにシフトしなければならない」と考え、そうできたつもりでも、それはたんなる自己欺瞞にすぎません。精神のもつれがいよいよ複雑になっただけの話で、そのハイヤー・セルフなるものはたんなる自我の“変装”にすぎないからです。
 クリシュナムルティが「idea は変化を起こすことができない」と言うのには、そのあたりのことも含まれていると思いますが、「思考者も思考の産物の一つであり、実体としてのそのようなものはない」ということがじかに感じ取られるという経験が、やはり必要なのではないかと思われるのです。
 それがあって初めて、「思考者も含めた思考の全プロセスを考え抜く(think out)」ということも可能になるわけで、この講話でも述べられているように、彼は「思考に対して防壁を立てるのは無益なこと」で、「あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければな」らないと言っているわけです。これはむろん、通常の「思考者が思考に執着する」という意味ではありません。それでは神経症かうつになってしまう。しかし、思考者ぬきでそうするなら、執着なく、それを眺め、感じ取り、必要な場合は分析する(彼はその種の分析まで否定しているわけではありません)ことはできるはずで、そのとき人はいわば「安心して」それができるのです。そうすれば「正しく考える」こともそれだけ容易になるはずです。
 なぜ「安心」できるのかと言えば、それは彼がここで言うリアリティ、「リアルなもの」への絶対的な信頼が存在するからです。人がそこから切り離されてしまったのは、「思考者」のせいです。それを“実在”視するからです。他に理由はない。
 生真面目で強迫的な人は、「あらゆる思考は感じ取られ、理解されなければならない」などと言われると、どうでもいいことにまで細かくこだわって吟味しなければならないと考えるかも知れませんが、大方のことは気づくまま、取り合わずほうっておけば、そのまま消えてしまいます。実際、クリシュナムルティはそう教えている場合もあるので、その判断も自然につくようになるということです。
 「思考を止める」必要は、だからありません。いちいち「思考者」をそこに介在させなければいいだけです。そして思考者が不在のその状態が、彼の言う変容に必要な「存在の状態」です。
 エラそうにおまえが説教するなと怒る人がいるかも知れませんが、これは別に高度な悟りがどうのといった話ではないので、それ自体シンプルなことです。それでもこれが難しく感じられるのは、「思考者としての私」は少なくとも数千年の歴史をもち、人間を支配し続けてきたからです。それが文明が進んで物質的な生活条件はずっとよくなったのに、人間が変わらず不幸である、あるいはいよいよ不幸になってしまう、最大の原因です。今の時代ほど、分離的な「自己」の観念が強固なものとなり、それが大事で仕方がなくなった時代はないように思えるからです。見栄もプライドも、過剰な自己防衛心理も、全部そこから出ています。そこでは「神」崇拝も「自己」崇拝の延長として出てきます。「神を知っている」ことが、だから自慢になるのです。“謙譲の美徳”を示すためにはそのようなそぶりを見せてはいけませんが、クリシュナムルティが指摘するように、そうしたそぶりも自慢の一部なのです。あれこれ知識が増えれば増えるほど、理論が複雑になればなるほど、それだけ精神はややこしく、入り組んだものになります。それは蜘蛛が自分の巣の精緻さを競うようなものですが、蜘蛛(思考者である私)とそれが紡ぎ出す糸が増えれば増えるほど、視界は悪くなってしまうのです。しまいには蜘蛛自身が自分の吐き出す糸で混乱に陥り、身動きが取れなくなってしまうでしょう。
 蜘蛛もろとも、その巣を払ってしまえば、そこにリアルなものがあり、期せずしてその祝福(blessing)がやってくるのだ、というのが、この講話の眼目かと思います。それにどんな名前を付けて説明しても、その説明が「観念」として受け取られ、新たな投影の対象になるだけなら、かえって妨げになるだけなので、彼はそれを云々したがらなかったのではないかと思います。

(クリシュナムルティについて直接書くのはおしまい、と前に書いておきながら、しつこいようですが、僕は彼の本の出版をめぐるゴタゴタに食傷したというだけなので、今後も面白いと感じたものはこだわらず載せてゆくことにします。ちなみに、ここでは being alone を「独り在ること」ではなく、「分離のない全一の存在」と訳してみました。alone は all oneのことだとも言われているからです。「思考者」がいなくなったとき、その all one の自然な直接感受がある。ついでに、さらによけいなことを書いておくと、僕は昔、大の勉強嫌いで、ことに暗記が極端なまでに苦手だったので、英語がとりわけできませんでした。模試などでは、かぎりなく零点に近い。それで仕方なく、ふつうのやり方では憶えられそうもないので、語呂合わせの単語集の世話になったのですが、その中に absolute の面白い語呂合わせがあって、それは「虻(アブ)去ると“絶対の”安心」というものでした。「思考者」というアブが去ると「絶対の安心」が得られるかも知れません。この場合も「思考者が思考者を消す」というのはできない相談なので、それの正体を見極めることです。それが実は「ない」ものだということがわかれば、もう思考者は問題ではなくなるだろうと思うのです。)
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