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オーストラリア人交換留学生が感じた日本の高校への違和感

2016.10.13(17:01) 411

 次のビジネス・ジャーナルの記事を面白く読みました。

放課後も夏休みも部活…日本の学校教育は絶望的?貴重な10代の全生活が拘束される危険さ

 出て三日目の時点で、ツイートが220、いいね!が1604に達していたところを見ると、「そうなんだよなあ」と思った人が多かったのでしょう。地域にもよるとして、昔はここまでひどくはなかったはずですが、日本の学校というところはいつのまにかこうなってしまったのです。生徒たちは他のあり方を知らず、学校の先生たちにはそれを異常と認識する感性すらなくなっているので、それが「あたりまえ」として通ってしまうのでしょう。

 最初の「学校以外の生活がない」というのは、今どきの中高生の子供をもつ親なら誰しも感じていることで、休みの日も部活はあるし、文化祭だの体育祭だの、行事ごとの練習が年中何かしらあって、延岡の県立高校と来た日には、これに朝夕課外なんてものまで加わるので、高1・2の場合には、部活をやっていれば朝は7時25分から、夜は7時か7時半まで、実に12時間も学校に拘束されるのです。休みの日も午前か午後半日部活をやる(連休になるとしばしば合宿が入る!)ので、「学校以外の生活」がないの極端型です。高3は6月に部活を引退すると、代わりに夕課外が入って、授業終了は午後6時になる。それで学年を問わず、宿題はたくさんということになると、そんなのが人間の生活なのかと疑問を抱かざるを得なくなるのです。

 これで塾に通うとどうなるかというと、三年生が部活引退後は午後6時半から、1・2年は8時開始となって、終わるのはそれぞれ8時と9時半です。これはうちの塾の場合で、中には10時を過ぎてもまだ授業をしていたり、日曜に授業をやっている塾もある。休みの日に「丸一日勉強大会」みたいなものを催してひとり悦に入っている元公立学校講師が経営する塾まであるそうで、僕のような人間は「アホかいな…」と呆れてしまうのですが、それを有難がる保護者や生徒もいるというのだから、驚いてしまう。テレビCMをもじれば、「毎日24時間、1年365日、戦えますか?」みたいなもんです。

 うちの息子は中学のとき野球をやっていたのですが、顧問の先生が絵にかいたような熱血教師で、休みなんて、お盆に3、4日、正月は2日ぐらいしかなかったように記憶しています。休日にはきまって練習試合が組まれ、親たちが車を出し合って会場まで送迎するのです。わが子の場合には、それでもまだ足りないと、母親に車でバッティングセンターに連れて行ってもらったり、帰宅後に自主練と称してランニングに出たり、新聞紙を丸めたものを母親に次々投げさせてバッティング練習に励む(母親の方はそれで腱鞘炎になってしまった)など、半端でない身の入れよう(嫌いなお勉強は二の次三の次で、宿題は「高速」で処理される)で、試合の際は綿密なスコアブックを作り、分析が見事だと、熱血先生に絶賛されたりしていたので、貢献度ゼロの父親はそれを遠くから眺めて、「ようやるな」と半分感心、半分呆れていたのですが、3年の引退間際には自分の才能のなさを痛感したらしく、「将来はホークスに入って四番を打つ」という夢はうたかたのごとく消え、早くこの状態から解放されたいと願うようになったようでした。おかげで小学生の頃はあちこち遊びに連れて回っていたのに、中学の頃はその僅かなお盆休みぐらいしか一緒に過ごせず、そのときは連日川に鮎とりに行ったのですが、日本の一部にしか伝わらない貴重な「幻の漁法」(一定の経験値が不可欠)を伝授しようとしていた父親としては大いに不満でした。

 こういうのは「無心に何かに打ち込む」ことが尊いとする日本人の美徳観、また、例の聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の“集団の和”讃美の伝統が関係しているのかも知れませんが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉も一方にあるので、常軌を逸しているのは明らかです。前に塾でハードな部活の話になって、「今どきの高校生はみんなオリンピックの強化選手かね?」と言うと、たいへんお勉強のよくできるある生徒が、「うちの部は大丈夫です」と笑って言うから、「何で?」ときくと、「ボクがキャプテンだからです」という話で、割と強い部だったのですが、頭脳派らしく、メニューを合理的に考え、できるだけ練習時間は短くして、休みもきっちり設けているという話でした。しかし、大方はそうではないから、慢性疲労状態に陥ってしまうのです。とくに過度に熱心な外部コーチなんてものがいると、他の生活面のことは何も考えていなかったりするので、「センセー、助けて!」ということになるのです(塾教師の僕に言われても、どうしようもないのですが)。

 この教師の部活指導に関しては、学校の先生たちの中にも「過度の負担」(実際、中学など、あれでは先生自身が「家庭崩壊」するでしょう)だとして声を上げる人たちが全国的に出始めたようですが、それは依然少数派のようで、「重要な人間教育の一環」だと主張する先生たちの方が多いようです。しかし、学校以外の生活が何もないような状態に生徒を追い込むことのどこが「人間教育」なのか? 将来「社畜」として、会社で朝から晩まで休日も与えられずこき使われる「適性」を身につけさせるためだと言うのかもしれず、過労死・過労自殺が相次ぐ今の日本の社会状況を見ると、それには大いに「成功」しているようですが、全体に今の学校教師や保護者の視野狭窄には驚くべきものがあって、上の記事にある、

…日本の中高生は学校が生活のほとんどすべてになっている。学校に拘束されていると言ってもいい。結果的に、子供は狭いコミュニティの中だけで貴重な年代を過ごすことになり、人間関係も視野も広がらない。
 村社会の発想がいまだに脈々と流れているのか、日本人は狭いコミュニティに帰属し、帰属させるのが好きなようだ。社会に出てからも、朝から晩まで会社で過ごし、夜は会社の上司や同僚と飲んで帰り、帰るところは会社が用意した社宅だ。下手をすると、休日も上司とのゴルフということになる。
 狭い世界でしか生きていないから、ビジネスパーソンとしての市場価値も上がらない。定年になった途端にやることがなくなり、会社以外の交友関係がまったくないことに気づいて愕然とするのである。


 という批判は的を射たものと思われます(この記事の筆者は公認会計士で、コンサルティング会社の社長)。僕はたまに頼まれて小論文指導や推薦などの面接練習のお相手をすることもあるのですが、概して今の高校生の「ものの知らなさ」加減には驚かされるので、部活で諦めずに頑張った話とか、チームメートへの感謝とか、その手の型にはまりすぎた「感動話」以外にはほとんど語るべきことがないのです。それもこういう生活を強いられていれば無理はないなと同情してしまうのですが、率直に言えば幼稚すぎる。僕が高校生の頃は、僕の場合は親元を離れて下宿していたからなおさらですが、社会人の知り合いが何人もいて、その人たちと話をするときは、当時高校生は子供扱いされていなかったので、かなり生意気な口も利いていたし、本もかなり読んでいた(たぶん今の平均的高校生の十倍程度は)ので、話の引き出しも割とたくさんあった。今はインターネットが発達しているおかげで、その気になれば社会問題でも国際問題でも、情報はたくさん得られるはずですが、見ているのは芸能ネタだけということになると、宝の持ち腐れです。

 しかし、部活と学校のお勉強でクタクタということになれば、それも無理はないので、集中力や「考える力」を要求されるそのようなものは、自然に敬遠したくなるのでしょう。疲れていると、知的好奇心の類は減退して、テレビのお笑いバラエティの類でアハハと気晴らしするだけになって、そこらの程度の低い(失礼!)オッサン、オバサンと同じになってしまうのです。

 学校でも軽い、当たり障りのない話が好まれるようで、しち難しい議論なんかする生徒は浮いてしまうのです。頭脳優秀な生徒ばかり集まる有名進学校などではそこらへん事情が異なるかもしれませんが、ふつうの公立高校ではそうなっているのです。まあ、軍事おたくとか、アニメおたくの類は結構いるようですが、そういうのも妙に関心の幅が狭いので、他のことは並以下だったりするのです。

 そのオーストラリア留学生が日本の学校の授業やテストについて言ったという言葉も面白い。

 もうひとつ考えさせられたのが、留学生の彼女が「日本の授業はオモシロイ」と言ったことだ。この「オモシロイ」は「変だ」という意味である。彼女が学校の先生の口調をまねして見せた。
「ハイ、ここ覚えて。ハイ、ここも覚えて。テストに出まーす」
彼女は笑いながらおどけて見せたが、こちらは笑えなかった。
彼女はこうも言った。
「日本のテストは簡単ね。全部、空欄に言葉を入れるだけか、選択肢を選ぶ問題ばかり。日本の高校生は論文は書かないの? オーストラリアではテストは論文ばかり。本を何冊も読まないとできない宿題も毎日のように出される。日本のように部活、部活の生活なんかしてたら寝る時間なくなるね」


 これを受けて筆者は「要するに、日本の教育は、言われたことを忠実に再現するよう徹底的にトレーニングする教育なのだ。これではワーカーとしては優秀な人材が輩出できても、優秀なリーダーを生み出すことはできない。イノベーションを起こす人材の育成など絶望的だ」と嘆くのですが、ご尤もです(「本を何冊も読まないとできない宿題も毎日のように出される」というのはおそらく誇張で、もしほんとなら、それはそれで問題ですが)。

 うちの息子は高3の頃、「学校の授業で意味があるのは体育だけ」と言っていたことがあります。これはむろん、体育の授業が素晴らしいという意味ではないので、受験生は運動不足になることから、体育はその運動不足解消に役立つ、ということだったので、「なるほど」と聞いて苦笑したのですが、生徒にそう言われてしまうほど、学校の授業は面白くないのです(先生方の名誉のために付け加えておけば、これは何も今に始まったことではなく、昔も面白い学校の授業なんてめったになかったのですが)。

 そうして試験はただの丸暗記試験。僕はかねてそれでは試験をする意味がそもそもないので、理解度、応用力を見る試験にする工夫ぐらいはしろ、と言っているのですが、先生たちもその方が楽なのでしょう。そうやって機械的丸暗記の訓練だけしていれば、センター試験ぐらいは何とかなる、ということなのかも知れませんが、そういうので「考える力」だの「豊かな発想力」だのがつくはずはないのです(この点は昔の学校の方がだいぶマシでした。僕個人が経験した話をさせてもらうと、物理の試験で、何かの気体を風船に入れて放したらどうなるか、考えて書け、とあるから、思いつくかぎりの出鱈目を書き並べて出したら、全部にマルがついていたので、「何でこれが合ってるんですか?」ときくと、「まあ、そういうことも可能性としてはありえるからねえ」と澄まして答える先生がいたし、現国の試験で、「問題が下らないので回答しない」と書いて大問一つを丸ごと無視して出したら、そのことを授業で取りあげて、わざわざ発言の機会を与えてくれる先生もいました。そこに「問題意識」を見ようとしてくれたわけで、こういうのは不良としてはかえってやりにくく、相手の先生の方が役者が一枚上だったと認めざるを得ませんでした)。

 話を戻して、問題は、こういう学校批判に共感・同意する人たちはかなりいるとして、現実に「どうすればこういうあり方は変えられるか?」です。長く塾教師の立場から学校を眺めてきた僕から見ると、それはかなり難しそうに思える。なかには話の分かる先生もいて、うちの息子などは割とそのあたり先生運がよくて、おかげで助かったなということが小学校以来いくつもあったのですが、そういう先生たちはむしろ例外に属する。大学を出てすぐ軍隊的規律に範をとる学校文化に染まり、世間を知らないということも大いに関係しているのでしょうが、戦後70年の歩みはなかったかのごとき、「意識は戦前戦中」みたいな旧弊な人も少なくないのです。僕が高校生の頃(1971-73年)は、学生運動の影響もあってか、生徒は管理というものに敏感で、学校側の権力的強制には授業ボイコットで応戦し、気に食わないものは潰してしまえばいいという考えがあったので、軍隊式のやり方は緩んでいたのですが、その後校内暴力が吹き荒れた頃から学校というところは全体に管理強化に舵を切ったようで、実際にこれは25年ほど前に現職の公立中学の先生から聞いた話ですが、部活強化には表向きは認めないとしても、「放課後の非行防止の意図」が明確にあるという話でした。(「容儀検査」なんて妙なものも、皇族方が通うお上品な学校ではあるまいし、昔はなかったのです。国旗を仰ぎながらの君が代斉唱儀式も、僕自身は経験したことがない)。

「意識は戦前戦中」なんて大げさだという人もいるかもしれませんが、当地の県立高校など、授業の最初と終わりに「お願いします」「ありがとうございました」と生徒に声を揃えて言わせるしきたりで、中にはその「お願い」の声が小さいと言って怒り出し、授業時間を意味不明のお説教で潰してしまう先生までいるのです。僕だと生徒にいきなり大声で「お願いします!」なんて叫ばれると引いてしまって、勘弁してくれよと言いたくなると思いますが、軍隊よろしく背筋をピンと伸ばして、「お願いします!」と大声で叫ばせないと承知しないのです。このセンセ、前世は大日本帝国陸軍の軍曹だったのかと言いたくなりますが、それだけではない、宿題を忘れた生徒が一人いたとか、居眠りをしたのが一人いたとかいうだけでも、ブチ切れる原因になるので、なぜだかそれは生徒全員の連帯責任(今も生きる「隣組」思想!)みたいにされて、罵声を浴びせられる羽目になるのです。それで拗ねて職員室に帰ってしまったりすることもあって、しかし、そういう場合はクラスの正副委員長とその教科係の生徒が、「反省していますので、どうか私たちを見捨てないでください」なんて謝罪に行くというクサい芝居までしないといけないのだという話で、めんどくさいことこの上なしです。そのくせ生徒に対する暴言はお構いなしで、前に福島原発事故の後で気に入らない生徒たちを「放射能」呼ばわりしたり、「放課後校外でデートをしていたけしからん生徒がいる!」などと、「ほっといてんか」と言いたくなるようなことにまで口を出してお説教垂れるイカれた教師がいるという話を書いたことがありますが、これは全部同一人物なので、こういうのが転勤もせず長く居座って、「重きをなして」いたりするのだから、今の学校というところは一体どうなっているのだと呆れるのです(昔なら、生徒のつるし上げを食らってエラい目に遭わされてますよ)。

 最近はだいぶ“温厚”になったらしく、意味もなくにこやかな笑みを浮かべたりして生徒に気味悪がられているそうですが、ときどき「怒りの発作」はまだ出るようで、「学業成績と人格的価値は比例する(従って、お勉強のできない生徒は人格的にも無価値)」なんて、信じられないような暴言もまだ健在なようです。この先生、かねてから勉強のよくできる生徒にだけは態度が丁重だったりするようなので、なるほど、それはそういうトンデモ学説に基づいていたのかと、生徒から話を聞いて笑ったのですが、言うこと為すことお世辞にも「勉強のできる」人間のそれとは思えないので、自身はどうなのだと、僕が生徒なら突っ込みを入れずにはいられなくなってしまうでしょう(前に「放射能」発言があった際には、「おまえたち真面目な生徒がビフィズス菌になって、こいつらを退治しろ!」と叫び、「おなかに優しい」ビフィズス菌は放射能にも卓効を示すのかと、その珍奇な「科学的知識」によって、並居る生徒たちを感嘆させたこともあったくらいです)。

 再び話を戻して、これで「意識は戦前戦中」が必ずしも誇張ではないことがおわかりになったでしょう。学校は軍隊で、授業は軍事教練だと勘違いしているような時代錯誤教師がまだ存在するのです。こういう先生たちの「意識改革」をどうやって行うのか? こういうのと、記事にもあったような「ハイ、ここ覚えて。ハイ、ここも覚えて。テストに出まーす」みたいな授業が大半だと、「こんなのだったら自習していた方が百はマシ」ということにならざるを得ないので、「自分で考える力」だの「創造的発想」などは育つはずがないので、むしろ逆にそれを潰してしまうことになるのです。

 だからそういう学校に通う生徒たちは「自己防衛策」を講じる他ない。そのやり方を僕はここの「延岡の高校」コーナーであれこれ語ってきましたが、部活はできるだけ負担が少ないものをえらぶ(あるいは初めから入らない)とか、多すぎる宿題はうまく手抜きするとか、その勇気があるなら課外をサボるとか、何とか工夫して十分な睡眠時間(これは大脳生理学の見地からも非常に重要)と自由時間を確保して、自分で見聞・教養を広め、学校には頼らず自分で勉強するというふうにしないと、大学受験もうまくいかないということになってしまうのです。

 昔、大学進学率が今よりずっと低かった頃は、一部の進学校は除き、大学受験のための勉強は生徒が各自勝手にやるものでした。大学受験を考える生徒は参考書などで自分で勉強し、どの学校にも各教科一人ぐらいは優秀な先生がいたので、疑問点は放課後その先生に聞きに行くなどしていたので、学校は大学受験に責任を負わなかったのです。だから全体にのんびりしていた。「ゆとり」がその分あったのです。今の学校は、とくに地方の場合、その能力もないのに、大学受験に対する指導責任を負わなければならないと思い込み、それで生徒を疲労憊させるだけの見当外れな長時間拘束・管理教育に走るということになっているのではないかと思われるので、それがそもそもの間違いなのです。

 仮に学校のその管理的指導が戦略的に効果的なもので、それに従っていさえすればいい大学に入れるものだったとしても、そういうのは「受験ブロイラー」(この言葉はずいぶん前からある)にすぎないので、長い目で見てよいものだとは僕は思いません。自分で工夫してやることを知らないそうした受験秀才は、大学入学後、あるいは大学卒業後、駄目になってしまうことが多いでしょう。知的好奇心旺盛で、受験の見地からすれば「無駄なこと」もやっている生徒の方が伸びしろが大きくて、のちに社会的に活躍する人が多いのではないかと思います。受験ブロイラーのそれは「上げ底学力」なのです。主体性にも乏しい。

 僕はわが子の教育を、母親とも相談してかなり徹底した「放牧主義」でやってきました。中学では先にも書いたように「部活漬け」だったのですが、小学生の頃は「勉強は取り返せても、子供時代の遊び体験は取り返せない」と、腹いっぱい自由に遊ばせた(教育熱心な先生に当たって、宿題が増えて機嫌が悪くなり、母親に当たって困ると言われた時は、「宿題を減らしていただけませんか?」と学校にお願いに行った)。勉強方面のことは、落ちこぼれたのならともかく、そうでなければ何も言う必要はないと、一切言わないままで来ましたが、事実上他に選択肢はなかったので、地元の県立高校に行かせる他なく、家庭の教育方針とは正反対の過剰管理教育の中に放り込んで大丈夫かなと、そのときはかなり心配しました。だから、「イヤになったらいつでも学校をやめていい」と最初に言い含めた。「睡眠時間最低7時間確保」も申し渡して、わざわざそんなことまで言わなければならないというのは悲しいことですが、そう言わざるを得ないような現実がそこにあったのです。

 幸いにというべきか、彼は中学時、過度に部活に励みすぎたことから引退後まもなく、微熱が取れないというので医者に行ったら、腰椎の疲労骨折が判明し、高校入学時はまだコルセットをつけていて、体育もしばらく禁止されていたので、部活に入りそびれ、そのまま「帰宅部」になったから時間的余裕が他の子たちよりあって、学校の宿題も手抜きしながら適当に片づけていたようなので、寝不足にも過労にもならずに済んだ(一度だけ徹夜したようですが、それは文化祭の喜劇の脚本を書いていたときです)。受験学年時には、理解ある担任にも恵まれ、二学期以降は夕課外を免除されたから、その分自分で必要な勉強ができて、おかげで受験も乗り切れた。そうして中退することなく無事卒業し、高校とは正反対の「自由の学風」を売りにする、今では珍しくなったほったらかし主義の大学に入り、再び「放牧生活」に戻れたのです(入学当初は高校とのあまりの落差に唖然とさせられたという)。

 要するに、あれやこれや、学校の管理主義の弊害を最小限に抑えることができたからこそ何とかなったと言えるので、学校の指導に忠実な「よい子」たらんとしていれば、疲労困憊して受験にも失敗していただろうと思われるのです(英語などは、あんなことやっていたのではお話にならないと思ったから、「高校に入ったら英語を教える」と約束していたので、塾に最初は週一で通わせて教え始めたのですが、初めから学校の授業は完全無視で臨みました。それが昔から教科書勉強の嫌いな彼には合っていたので、こちらは教材の内容が面白いから、面倒な単語調べもいとわずやってきて、ついでの雑談も楽しめたから長続きし、結果として学力も伸びたのです。小さい頃から父親に魚とりのコツを教わって、それでうまく行っていたから、勉強も同じだと思えたのでしょう。笑う人もいるでしょうが、案外そういう自己暗示みたいなものは重要なのです)。

 これはしかし、わが子にかぎった話ではないので、ここのブログ記事が役立ちましたとわざわざ塾(看板も出ていないので探すのが大変ですが)に言いにきたり、メールをくれたりする生徒(卒業生)はかなりの数にのぼるのです。延岡高校の場合には、今の開明的な校長先生のおかげで事態はかなり改善したと言えるとしても、その意図を先生たちがよく理解していなかったり、「抵抗勢力」も依然かなりいるようなので、改革は中途半端なものにならざるを得ないのです。来春で校長も交代だということになれば、後任者次第では状況が逆戻りしてしまうおそれもあって、僕はそれを心配しています。

 保護者の中には管理強制を有難がる困った人たちも一定数いるようで、こういう人たちは子供の置かれた状況が把握できず、見てもそれが何を意味するかを理解できない人たちです。何事も全体を見てバランスをとるということが大切で、部活指導の体育教師や外部コーチは部活の強化しか考えておらず、各教科坦は自分の教科のことしか考えず宿題をどっさり出すというようなことになると、一人でそれを全部こなさなければならない生徒の方はロクに寝る時間もなくなってしまうでしょう。それで成果が出ないと「おまえが怠けたせいだ!」と叱られるというのでは、踏んだり蹴ったりです。「おまえが自分でやってみろ!」と言ってやれと、僕はよく生徒たちに言うのですが、そんなことはふつうは言えないわけで、言われないとわからないという方が馬鹿なのです。そんな視野狭窄の「木を見て森を見ない」連中が教師をやっているのでは、生徒は浮かばれない。そして視野の狭い人間が広い人間など育てられないのは、わかりきったことなのです。

「延岡の高校」寄りの記事になったので、これもそちらに分類しておきますが、冒頭の記事など読むと、学校の「行き過ぎた管理」と「意図不明の授業・テスト」は今や全国レベルの問題と化しているようなので、「他でもやっているからいい」ではなく、「これを何とかしないとわが国の明るい未来はない」という真剣な問題意識を学校や保護者は共有すべきでしょう。今の学校教育は進歩するどころか、むしろ昔より退歩しているのです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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