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今年のオリンピック

2016.08.23(13:34) 401

「今頃…」と言われるかもしれませんが、記憶に残ったことどもを少々。

 ブラジルは国家破産して、リオ五輪はIMFの管理下で開催される初のオリンピックになるのではないかという予想すら一部にありましたが、治安や衛生面の懸念から、海外からの観客数は伸びなかったのでしょうが、内容的には非常に密度の高いものになったようです。最初、ブラジルはお家芸のサッカーが振るわず、元々が「熱狂」の国だけにケチョンケチョンに言われたようですが、途中から立て直して、見事決勝に進出、ドイツとの死闘の果て、PK戦にまでもつれこんで、5-4でこれを制して、悲願のオリンピック金メダルを手にした。ブラジルのためにも喜びたいと思います。

 テレビ観戦する日本人にとっても、今回の五輪はかつてないほどの興奮を呼び起こすものでした。僕もおかげで完全な寝不足になってしまって、ブログなんか更新するひまはまるでなかったのですが、こんなに熱心にオリンピックを見たのは久しぶりだという気がします。

 ゲームというのは予想通りの展開になると面白くないもので、まずあの男子体操団体の金メダルが光りました。事前の計画では予選一位で勝ち上がって、有利な競技順に持ち込んで…ということだったようですが、四位通過でその目論見が崩れた。ところが決勝ではその不利をものともしないパフォーマンスを見せてひっくり返したわけで、こういうのは大学受験にたとえると、センターで失敗して、CかD判定になり、二次で逆転するというようなものです。商売柄、僕はそういう例はたくさん見てきました。こういうとき、二次学力がある生徒なら、僕は迷わずゴー・サインを出しますが、ある意味でこういうのはA判定よりもいいのです。生徒個人の性格にもよりますが、センターの判定が悪いと、攻める姿勢で合格を勝ち取るしかなくなる。それがいい結果につながるのです。Aだと逆に意識が守りに入って、二次で得点が伸ばせなくなることがあるので、難関大の場合などはとくに、二次の比重が高いだけでなく、学力の高い子がひしめき合っているので、そのあたりのメンタルが合否を左右することが多いのです(Eだと、失敗というより学力が足りていないことが大方なので、やめた方がいい。こちらは「予選落ち」に相当するでしょう)。

 卓球女子の銅メダルも、ドラマチックでした。福原愛選手は、個人では健闘したものの、団体の準決勝ではよいところが出せず、ドイツに敗退して自分を責めたようですが、三位決定戦では、最初自分が敗れたものの、伊藤美誠選手とのダブルスでは伊藤選手を励まし、うまくリードする姿が感動的でした。最後の伊藤選手のシングルでも、福原選手の心理的なサポートは大きな力になったでしょう。石川佳純は個人シングルでの「予想外」の初戦敗退の雪辱を、団体戦全勝で見事に果たした。三位決定戦での、最初のゲームの土壇場からの逆転は驚くべきもので、前に福原選手が負けていただけに、「ああ、これはそのままズルズル行ってしまうな…」という懸念を見事に振り払った。あれで全体の流れが変わったのです。十五歳の伊藤選手は、「先輩二人を手ぶらで帰すわけにはいかない」なんて、どこかで聞いたことのあるセリフを記者会見で言って笑わせていましたが、表情といい、身ぶりといい、実に可愛らしいので、僕はいっぺんにファンになってしまいました(試合後のインタビューで、お母さんの姿が「ちっちゃいので見えなかった」と言っていたのも笑えた)。二人の先輩にとっても可愛い後輩で、そこらへんの息がぴったり合っていたから、メダルが勝ち取れたのでしょう。

 金メダルが期待されていた女子バドミントンのダブルスでは、決勝までは順当に勝ち進んだものの、いきなりゲームを落として、二ゲーム目は圧勝したものの、三ゲーム目はせった展開から16-19に追い込まれてしまい、見ている方は、「いや、銀メダルでも上等だ。流れでどう転ぶかわからないのがオリンピックだから、これは仕方がない」と自分に言い聞かせて、完全に敗戦ムードになったところで、一挙に連続5ポイントで逆転した。ほとんど神業で、相手に途中で1ポイントでも許せばマッチポイントになっていたのだから、そこからミスを一つもしなかったというのがすごい。ポイントが並んだところで、相手は完全な劣勢に立たされ、勝てる気がしなくなっていたでしょう。2対1と3連続ポイントでは全然違うので、前者なら相手の方が「行ける!」と思ったはずです。驚くべき精神力、集中力で、表彰式で、高橋・松友両選手の振り向いたり、涙を拭く動作が完全にシンクロしていたというのは話題になりましたが、その阿吽の呼吸が最後のあの土壇場では完全なものになり、相手にとってはどこに打ち込んでも守りが崩せず、こちらがミスするまで続いてしまうという恐怖感を覚えたことでしょう。二人は完全に一つの運動体になっていたのであり、それがあの奇跡的な逆転勝利を呼び込んだのです。

 と、まあ、こういふうに書いていくとキリがありませんが、他にも裏方であるコーチや家族・友人の支えとか、五輪選手には様々なドラマがあって、そこで発揮される技術もすごいが、「なるほどねえ」と感心させられることがたくさんありました。これは日本のみならず中国、韓国などでも同じのようですが、「東アジア的集団主義」の国では、オリンピックの選手たちは「国旗を背負って立つ」プレッシャーが他の国々よりずっと大きくて、そのあたりかわいそうだなと僕はいつも思うのですが、その中で戦って、これだけの成果を出すというのは並々ならぬ精神力で、それには素直に脱帽させられます(集団主義丸出しの、NHKのあの「全力応援」なんて押しつけがましいキャッチフレーズを見ると、「そうしないのは非国民なのか?」と皮肉を言いたくなるのですが)。

 笑ったのは、銅メダルがかかったテニスの錦織選手の対ナダル戦の「トイレットブレイクが長すぎた」という話で、ナダルはそのことでイライラして、審判に何度も文句を言っていましたが、それを「巌流島作戦」と命名した記事があって、思わず「うまい!」と唸ってしまいました。たぶん錦織選手にはそこまでの計算はなかったのでしょうが、期せずして宮本武蔵直伝の戦法を活用したことになって、勢いを盛り返してナダルペースになりかけたあの試合を、心理戦で再逆転することができたのです。その前のマレー戦はいいとこなしだったのが、この試合では途中まで別人のようで、「これはそのまま勝てるな」と思ったところで、まさかの大逆転を許してしまい、ナダルは土壇場からの逆転の名人なので、「またやられてしまうか…」と憂鬱になりかけたところを、「巌流島作戦」でストップをかけた。そうしてここぞというところで決めきったのですが、ハラハラ度では、これも大変な試合でした(対マレー戦では、かんじんなところで相手を助けるミスを連発したので、でなければあの試合も一方的にならず、せった展開に持ち込めたでしょう)。

「歴史的」と言えば、何といってもあの男子400メートルリレーでしょう。100メートルでは誰も決勝に進めず、なかでも桐生選手は一人だけ予選敗退で口惜しかったでしょうが、リレーではその分頑張った。ボルトさえいなければ金メダルで、アメリカ(結局失格の扱いを受けましたが)まで退けたのはすごい。メダルは確実だろうなと予選の走りで思いましたが、銀を獲得するというのは、まさに歴史的快挙です(個人には出場できなかった飯塚選手もいい働きをした)。

 女子のバドミントン決勝の後、興奮が収まらなかったので、僕は女子の高飛び込み決勝 までついでに見てしまったのですが、あの高さで端っこギリギリのところに手をついて逆立ちからパフォーマンスに入る技を見て、選手たちにとって別にそういうのは何でもないことなのでしょうが、それ自体に驚き呆れたので、恐ろしいバランス感覚だなと思いました(二人の中国人選手の圧勝でしたが、高校生の板橋美波選手は見事8位入賞)。シンクロナイズドスイミングでも日本は銅メダルを二つ獲得しましたが、素人には採点基準がよくわからないものの、よくもあんなことができるなと、いくら考えても不思議に思われました。あれは各種競技の中でも最も過酷で困難な種目の一つでしょう。大半は苦しい潜水状態で演技を続けながら、顔を出した時は笑顔を見せなければならないのです。人間業とは思えない。彼女たちは皆、前世でイルカだったことがあるのでしょうか?

 今のオリンピックは、選手が国籍を変えたり、コーチや監督が外国人だったりと、国別とは言っても国家や民族を超えた融合が進んでいて、日本代表選手にも混血の人や帰化選手が何人もいる。オリンピックの種目にはありませんが、わが国の国技の大相撲だって、今は国際色豊かです。また、卓球の福原愛選手は、「反日」の中国でも大人気だそうですが、彼女の恋人は台湾のイケメン卓球選手で、その交際が彼女にプラスの影響を及ぼしているのは今回の彼女の活躍ぶりからもよくわかりましたが、病的な国粋主義者でもないかぎり、そういったことを悪く言う人はいないでしょう。

 戦争は国家エゴ、厳密に言えば、それ自体一個の抽象観念にすぎない国家に自己同一化する排外主義的な心理を濃厚にもつ政治家や民衆によって起こされます。ときには時の権力者の愚かしい個人的な自尊心や自己防衛心理から戦争に突き進んでしまうこともある。本来国家に「人格」なんてものはありませんが、オリンピック開催中に尖閣周辺で不穏な動きを見せた中国に腹を立てて、「中国はけしからん!」と言うとき、僕らは中国という国が一個の人格であるかのように感じるのです。それは習近平という権力者の求心力を強めるためのパフォーマンスなのか、軍幹部に自我肥大の勘違い軍人が増えてきて、それを抑えられなくなってきたせいなのか知りませんが、そこにいるのは実際は権力をもつ個人や集団で、そういう連中が火種を作るのです。そこに働いているのは権力者の自尊心と自己防衛心理で、国家それ自体に人格があるわけではない。

 オリンピックで自国選手に感情的な投影を行い、一喜一憂するのは基本的に無害で、対抗心や競争心の賢明な昇華の方法だと言えると思いますが、最終日のブラジルとイタリアの男子バレーの決勝戦を見ていて、イタリアの選手がサーブを打つときの客席からの激しいブーイングと、イタリア側が失点した際の喜びぶりは、見ていてかなり不愉快なものでした。おそらく、四年後の東京五輪では、日本人は慎みがあるのでここまでひどくはならないだろうと思いましたが、相手国側のプレーを妨げるようなあの種の「応援」は、いくらか度が過ぎている。卓球の水谷選手のガッツポーズを批判した、元プロ野球選手のコメンテーター(自分もエグい走塁なんかしてたくせに)の言い分は、彼は素直に強敵に勝った喜びを表現しただけなので、妙な「気配り」はかえって相手に失礼なだけなのではないかと僕は思うので、承服できませんが、観客まで一緒になって相手チームを攻撃するかのごときあのような「応援」は、見苦しいものです。

 僕もプロ野球で嫌いな読売ジャイアンツが負けると大喜びする(ひいきのスワローズが負けて、ジャイアンツが勝った日は、絶対にスポーツニュースは見ない)ので、あまりエラそうなことは言えないのですが、この種の劣情が国家間対立に投影されると、危険なことになるわけです。その憎しみの相互投影が戦争を生み、その結果戦場に送られた多数の兵士と巻き添えになった民間人が死ぬことになる。おかしな「愛国心教育」は、裏に独善性と仮想敵国憎悪を含んでいるので、非常に危険なものとなる。僕はオリンピックで北朝鮮の選手たちを見て、一様に貧相で暗いその表情から、それが今の北朝鮮国民を象徴しているような気がして同情しましたが、国家と国民は違うのです。しかし、戦争になると、苦しむのは抽象的な国家でも、戦争へと導いた権力者でもなく、そこの国民になる。

 今の習近平共産党政権と、安倍自民は、その自己愛的な自我肥大の愚劣さにおいてはどっこいどっこいだと僕は思っていますが、危険は危険です。「毒を以て毒を制する」結果になるよりも、それぞれのおかしな取り巻きの加勢も相まって、対立のエスカレートを止められなくなる可能性の方が高い。恫喝の応酬を繰り返しているうちに、観客(自国民)がエキサイトして、コントロール不能になり、それに引きずられてしまうのです。

 幸い、今は民間・個人レベルの国際交流が昔よりもずっと進んでいる。それがあるから「鬼畜米英」的なスローガンは成立しにくくなっているので、スポーツ選手もそうですが、文化や学問、ビジネスレベルでも、外国人が鬼でも蛇でもないことは、個人同士の交流で実感としてわかっているのです。どこの国にも、善良な人もいれば、箸にも棒にもかからない腐れはいる。それは何国人だからどう、という性質のものではないのです。それが肌でわかる人が増えれば、人為的な上からのおかしなイデオロギー教育、愛国心教育はそれだけ支配力をもちにくくなるでしょう。

 競争するなら、スポーツや学問、芸術の分野で平和的にやればよいので、民間レベルでの交流がどんどん進んで、相互の国民が為政者や軍人のプロパガンダに踊らされないようになれば、それだけ戦争の危険は減るでしょう。そうして途中生じたトラブルには、正面切った議論で決着をつける。今回のオリンピックでも、競歩の荒井選手が途中カナダ選手と接触したのを理由に、カナダ側の抗議でいったん失格を宣告されましたが、日本陸連からの猛抗議で、これが覆り、めでたく銅メダルを獲得しました。荒井選手の話によれば、ああいう接触は競歩では珍しくないことで、相手の選手もそれが問題だとは何ら思っていなかったようですが、カナダ側としては、抗議がうまく行けばメダルが一つ増えるぐらいの計算だったのでしょう。日本陸連が事なかれ主義に逃げて明確な対応を取らなければ、そのまま失格判定が確定して、荒井選手を見殺しにすることになった。「何なんだあれは!」ということで、禍根を残すことになり、小さなことでもカナダへの悪感情と陸連に対する不信が残ることになったでしょう。そこは日本陸連、対応が立派でした。

「和を以て貴しとなす」日本人は、一般に対立や争いを避けようとする心理が強く、『怒らない方法』なんてつまらない(失礼!)坊さんや心理学者のお説教本がやたら多かったりしますが、たんに波風が立つのがこわくて怒れないとか、他者への同情心に乏しいから、周囲の理不尽や不正を見ても平気でいられるなんてのは、「人間ができている」からではなくて、自己保身と利己性の産物にすぎないので、自慢にも何にもならないのだということぐらいは承知しておいた方がいい。とくに責任ある立場の人間がそれだと、下にいる人間は苦労させられることになる。不正があっても抗議してくれないだけでなく、自分が抗議すると言えば、そんなことをされると自分の立場が悪くなるというので意味不明の理屈を並べ立てて、これを押さえ込もうとするのです。会社なんかにはこういうお粗末上司はいくらもいるでしょう? こういうのにかぎって、部下の手柄を自分の手柄として吹聴し、旗色が悪くなると、手のひら返しでそれは部下の責任にするのです。無能なので毎回その尻拭いに追われていた上にこれでは、馬鹿馬鹿しくてやってられるかということになりますが、こういう人物にかぎって高潔ぶりたがるのは心理学的に面白い現象です。

 しかし、国際的な交渉の場ではとくに、こういうのは最悪なので、オープンな論争で決着をつけようとしないと、事態はいっそうこじれてしまうことになります。相手が西洋人でも中国人でも、手ごわい論争相手だとわかればかえって敬意と親近感を抱くようになる。同じ日本人同士でも、激しい言い合いになって、仮に互いに譲らず議論は平行線をたどったとしても、「こいつはやるなあ」と相手に友情のようなものを感じるようになるものなので、そうすると人間的な相互信頼ができるから、それが破局的な事態につながることはまずないのです。衝突を回避して、身内相手に人の悪口をグチグチ言っている(口に出さなくても心の中でグチグチやってれば同じです)卑怯な人間が信用されないのは、個人の場合でも、国の政治の場合でも同じでしょう。

 だから「外交をしっかりやって下さい」ということなのですが、国家間の戦争でなくても、国内に深刻な内部対立を抱えて、オリンピックの場で命がけでそのアピールをした選手もいる。それは男子マラソンで銀メダルを獲得したエチオピアのフェイサ・リレサ選手で、彼がゴール前、両手を上げてそれを交差させるポーズで走っていたのを、「あれは一体何なのだろう?」と不思議に思った人は多かったと思いますが、テレビの実況で触れられることはなく、僕は後で次のような記事(これはCNNのものです)を読んで初めてその意味を知りました。

 リオデジャネイロ五輪最終日の21日に行われた男子マラソンで、エチオピアのフェイサ・リレサ選手が民族弾圧に抗議するポーズでゴールインして銀メダルを獲得し、これで帰国できなくなったとして政治亡命の意向を示した。
 リレサ選手はエチオピアの最大民族オロモ族の出身。この日はオロモ族の団結を象徴する両腕を交差させたポーズでゴールインした。
 競技後のインタビューでもこのポーズを繰り返し、オロモ族に対するエチオピア政府の弾圧に注目を集めたかったと説明。公の場でこの問題について発言したことで「私は殺されると思う」と話し、殺害や投獄の危険があるため帰国はできなくなったと語った。
 既に投獄された親族もいるといい、妻と2人の子どもの身の安全が心配だと話している。
 亡命先については、ビザが発給されるかどうかによって、このままブラジルにとどまるか、ケニアまたは米国へ行く可能性があるとした。
 過去の五輪では1968年の大会で米陸上短距離のトミー・スミス、ジョン・カーロスの両選手が、表彰台で黒人差別に抗議するパフォーマンスを行ってメダルを剥奪(はくだつ)されたこともある。リレサ選手のメダルがどうなるかは不明だ。
 オロモ族はエチオピアの人口約1億人の3分の1以上を占めていながら、長年にわたって冷遇され、最近では政府がオロモ族の農地を接収して開発を進めたことから緊張が高まっていた。
 ヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体によると、全土で大規模な抗議運動を展開するオロモ族を治安部隊が武力で制圧。昨年11月以来、400人以上が殺害され、数万人が逮捕されたり投獄されたりしているという。
 リレサ選手は「9カ月で1000人以上が殺害された」と訴えている。


 これはおおごとです。勇気あるリレサ選手からメダルを剥奪するようなことはせず、国際社会がうまくこの問題にコミットするきっかけになってくれればいいと思いますが、僕はこの問題を全く知りませんでした。大方の人も同様でしょう。エチオピアというと、僕は1970年の大阪万博の時、当時高1で、知らない土地の高校に行って、入学後まもなくバスの二泊ぐらいの日程で万博に学校で連れて行かれたのですが、できて間もない友達と、エチオピア館でコーヒーを飲みました。紙コップで飲んだそれは、僕がこれまで飲んだ中で最もうまいコーヒーの一杯でした。それでいっぺんにコーヒー好きになってしまったのですが、その香ばしさの強烈な印象と共に、エチオピアの名前も頭にしっかり刻印された。粉を買ってくる時もモカが一番多いのですが、そのエチオピアで今そういう弾圧が起きているのです。記事から判断する限り、これは部族闘争というより国家権力による不正な搾取・弾圧で、国際社会がこれに見て見ぬふりをするのは社会正義にもとることと思われます。あそこは石油・天然ガスがあるから、というような利己的な動機に尤もらしい理屈をつけて大国が内政干渉したり、しなかったりするようなレベルを、人類はもう卒業してよい頃です。

 以上、遅まきながらのリオ五輪観戦記でした。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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