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宗教と悪

2016.06.19.14:36

 時々、妙な偶然が起きるものです。前回書いた『偉大なる異端』の校正作業をしている最中、週刊朝日で『スポットライト~世紀のスクープ』という映画についての記事を読みました。見たかったのですが、予期した通り、宮崎県内の映画館で上映しているところはない。それで仕方なく、関連する本(末尾註)を読むにとどまったのですが、この映画は、ボストン・グローブという地方新聞が特集記事で、ボストンのキリスト教カトリック教会の多くの神父が常習的に信者の子供たちを性的に虐待(というよりレイプ)していて、教会上層部はそれを知りながら転勤などの措置でお茶を濁し(ということは、新教区でまた新たな被害者が出ることを意味した)、告訴になったものについては和解に持ち込んで被害者とその家族に守秘義務を課して、何十年にもわたって事件を隠蔽していたことを暴いた、その記者チームの活躍を描いたものです。その衝撃はボストンから全米、ひいては全世界に広がり、告発が相次いで、ついにはバチカンを揺るがせるまでになった。ボストンの教区を管理していたロー枢機卿は、「アメリカ出身の初のローマ法王」になるのも夢ではないと目されていた人物だったが、しぶとい抵抗空しく、最後には辞任を余儀なくされたのです。

『スポットライト 世紀のスクープ』公式サイト

「妙な偶然」と言ったわけは、『偉大なる異端』という本は、中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と信仰をテーマとした本ですが、こちらは過去の「カトリックの大罪」を明らかにしたものだからです。当時、カタリ派は人気を集め、ヨーロッパを席捲しかねない勢いになったので、ローマ・カトリックはこれを脅威と見て、十字軍を差し向け、さらには宗教裁判所を設けて(その後もこれは長く存続して人々を苦しめたが、元はカタリ派を標的として設けられたものです)、言語を絶するすさまじい弾圧を加えた。それは「ローマ・カトリックの恥部」として、西洋裏面史の中では有名なものです。その組織性と執拗さ、陰湿さにおいて、ナチスが行ったユダヤ人ホロコーストよりもある意味悪質で、それは神の名において、「イエス・キリストの教えを歪曲から守るため」と称して、行われたのです。世界の宗教で、ここまで組織的かつ大規模な、長期にわたる悪辣な弾圧を行ったものは他に存在しない。子供も含めた大虐殺も各地で幾度となく繰り返されたので、これと較べれば、今のタリバンやIS(イスラム国)なんて可愛いもので、マフィアとそこらのヤンキーぐらいの差は十分あるのです。

 だから僕は、ニュースでローマ法王が「愛と平和」について説教したというような話を聞くと、「極悪非道の宗教マフィアの末裔がよく言うよ…」と、どうしてもそれを思い出して、素直に話を受け取る気にはなれないのですが、こういう過去の話は隠蔽されたり、美化されたりしているために、カトリック信者の人たちはご存じないのです。というより、大方の人が知らない。歴史の教科書には「十字軍」とか「異端審問」とかいう言葉は出てきても、その内実がどのような浅ましいものだったかは書かれていないからです。カトリックはその名の通りキリスト教の「正統」だと思われているから、それがまさかそんなえげつないことを実際にやったとは誰も思わないのです。事実それは行われたので、『偉大なる異端』に描かれているそれは、信頼しうる歴史文献に基づくものなのです。

 しかし、それは昔のことで、今はずっと「まとも」になっているのだろうと、僕は思っていました。時々、カトリックの神父が信者の子供を性的に虐待したというニュースはあっても、それはあくまで「ごく一部」のことで、カトリックの聖職者は今でも独身を義務として課されているので、ホモセクシュアルが他より比率的に多く、そういう者の中には男の子相手にその種の変態性欲を満たそうとして逮捕される者もいるとか、その程度のことなのだろうと思っていたのです。そして教会当局は当然、そうした犯罪に対しては厳罰をもって臨んでいるはずだと。

 ところが、事実は全然そうではなかった。異常と言う他ない数の「変態神父」がいて、公にすると教会の「権威」に傷がつくというので処罰もされずに、場合によっては「昇進」すらしている。被害者に同情して謝罪するどころか、家庭に問題(つけ込みやすい母子家庭などが狙われやすいという)があって、虚偽の申し立てをしていると逆に被害者側を非難して、苦痛を倍加させることすらある(教区の信者の中には「神父様を告発するとは何事か!」と、これに加勢する向きもある)など、低劣の極みです。そして被害者がたくさんいて、事実関係も明白で、どうにも取り繕えなくなると弁護士を仲介させて賠償金を支払って和解し、その代わり絶対に口外しないという誓約書にサインさせ、それが公にならないように組織的な隠蔽工作を行い、それを何十年も続けていたなんて、言語道断です。カトリック教会が「厳しい」のは、たとえば貧困地区で奉仕活動をする老いた修道女が、頼まれて何人かの子供に洗礼を施したとかいう場合で、カトリックは今でも女性聖職者を認めていませんが、無資格でそんなことを行うとは許しがたいと、ただちにクビを言い渡し、着の身着のままでその老女を路頭に放り出すのです。要するに、身内にだけは「優しい」が、レイプされたり性的虐待を受けたりした何千人という子供たちとその家族や、配下の修道女などには平気でそういう冷酷な仕打ちをするわけで、一体それが「イエス・キリストの愛の教え」とどういう関係になるのか知りませんが、カトリック教会の「悪しきDNA」は連綿として受け継がれていると、判断せざるを得ないのです。

 ローマ・カトリックはいまだに「妊娠中絶反対」を唱えていますが、かつてナチスも顔負けの組織的な大量殺人を指揮・監督していたことからすれば、こういうのも僕には馬鹿げ切ったことと思われます。厚顔無恥と硬直した無益な形式主義は、この宗派の変わらぬ特性なのかも知れません。わが国にはキリスト教徒自体が少ないので、こうしてカトリックの悪口を書いても無事ですが、元がアイルランド系移民の町で、カトリック信者が大半を占めるボストンなどでは、その風圧はすさまじいものだったでしょう。裁判所、警察、学校、そしてビジネス界の有力者まで、カトリック信者が多く、そうした「カトリック教会の犯罪」の暴露は、「信仰の敵」「裏切り」「意図的な中傷」とみなされるおそれがあったからです。

 わが国の場合、檀家の数からいえば仏教徒が大半ということになりますが、「葬式仏教」とか「坊主丸儲け」とかいった言葉に象徴されるように、とくに坊さんを仰ぎ見るような態度は一般にはありません。法事で訪れた坊さんが、今日はやけに長居するなと不思議に思っていたら、うっかりしてお布施を渡すのを忘れていた、などという笑い話がよく語られるので、お寺はたいていが世襲で、僧侶は葬式ビジネスの担い手としか見られていないのです。

 ふつうの人は、自分の家が何宗かも知らないことも珍しくない。僕は学生の頃、夏休みに帰省して、寝転がって文庫の『臨済録』を読んでいたとき、母親から「おまえは何でうちの宗派の“お経”を読んでいるのだ?」と訊かれたことがあります。それでわが家が臨済宗だということを初めて知ったというお粗末なので、僕はその後も仏教関係の文献は割と多く読みましたが、それは信仰とはほとんど無関係なので、思想書の一つとして仏教書も読んできたというにすぎないのです。

 しかし、他では事情が違う。哲学者のニーチェが「神は死んだ」と言ってからもうずいぶんたつとしても、今でもキリスト教文化圏における神父の権威と社会的ステータスは、わが国の仏教僧のそれとは異なり、非常に高いのです。それが悪く作用して、この種の犯罪の温床ともなってきたわけで、その意味ではどちらが健全なのかわかりません。仮にわが国の仏教僧で周囲の尊敬を集めている人がいたとすれば、それはそのお坊さん個人の資質、人柄によるので、僧侶だからではない。お坊さんだから偉いとは、別に誰も思っていないのです。お寺は宗教法人として税制面では優遇されているとしても、他の特権はもっていない。だから坊さんが犯罪を犯せば、一般人と同じくすぐに逮捕されるわけで、その際、警察や検察が遠慮するようなことはない。それは健全なことです。

 仏教関係者の側からすれば、権威を失ったのは嘆かわしいことかもしれませんが、僕は特定の宗教団体が大きな権力をもつのは危険なことだと思っているので、これはむしろ喜ばしいことだと考えています。尊敬されたいと思うならそれに見合ったことをすればいいわけで、その場合もおかしな権力を握ってそれを行使することには、僕は断固として反対します。過去の歴史を見ればわかるとおり、宗教と政治権力の一体化が社会に益をもたらしたためしはないからです(例外は、軍隊ももたない平和な仏教国だったために、中国に侵略されてしまったチベットぐらいのものでしょう)。

 どこかに崇拝の対象を見つけて、それに寄りかかりたいというのは人間心理のありふれた特性ですが、そういう心理から脱して、かつ妙な独善性、唯我独尊の思い上がりに落ち込まないことこそ、人類の今後の最大の心理的課題かもしれません。宗教的修行の目標も、そういうところに置かれるべきでしょう。神または真理が普遍的なものであるなら、それは特定の宗教・宗派の専売特許にはなりえないし、そのことを真に理解するなら、自分だけがそれを知っているというような愚劣な増上慢にも陥るはずがないので、それは各宗教の壁をぶち破り、権威や権力を振りかざすことなく、深いレベルでの対話とコミュニケーションを可能にする手立てとなるはずです。そのことを本当に理解するなら、それは権力欲とも結びつかない。そういうものが自分のどこから出ているかを洞察すれば、おのずとそんなものは萎えしぼむのです。

 宗教またはそれに準じるものの信奉者が最も警戒すべきなのは、自己欺瞞です。各宗教はそれ自身の「神学」をもち、カトリックのそれなどは壮大をきわめていますが、直接的なロクな宗教体験もなく、大学受験生のお勉強よろしくそういうものを知的にいじくり回しているうちに、思い上がりだけよけいなハートのない人間になり下がるのです。「神の代理人」という観念自体が愚劣きわまりないものだと僕には思われますが、そういう妙な特権意識が神学校以来の「ホモ文化」に浸されて、おかしな仲間意識、性的嗜好、官僚主義と結びついたとなると、最悪です。

 仏教僧の場合は、この種の己惚れと無縁かというと、必ずしもそうでもない。先頃、僕は父の法事の際、住職が恒例の「道徳訓話」のようなものをするのを聞き、それは実は宗派の何百周年行事とかで寄付金集めをしたいという下心があってのようでしたが、わが宗派は浄土宗などのような他力本願の宗教ではなくて、“高級”な自力本願の宗教なのだと自慢げに言うのを聞いて、そもそも仏教というものが根本からわかっていないなと呆れた(それは「謙譲の美徳」に欠けるという意味ではありません)のですが、こういうのも表面的な教理の半端な理解に基づくので、この程度の坊主にお経を上げてもらっても功徳なるものは期待できないなと苦笑せざるを得ませんでした(僕がそれで別に憤慨もしなかったのは、父は生前の行いに見合ったところに行っただろうと思っているので、基本的に坊主は関係ないと考えているからです。こういうのはあくまでも慣例行事にすぎず、あえて反対するほどのものではないと思っているから、それにおつき合いしているだけです)。

 しかし、先にも見たように、わが国では特定の宗教、宗派が大きな権力をもっていないからまだいい。宗教家のおかしな特権意識や悪徳が増長するのを、それが防いでくれているのです。日本人はソクラテスの言う「魂の世話」を外部の権威に依存しなくなっていると言えるので、やるならそれは自分でやるしかないと思っているのだとすれば、西洋社会よりいくらか「進歩」していると言えるのかもしれません。いや、ただ宗教に無関心なだけだ、と言ってしまえばそれまでですが、偏狭な宗教教育(戦前の国家神道によるそれもその一つです)を受けて、それがおかしな方向に水路づけられてしまうよりはずっとマシなのです。

 僕自身は実家が臨済宗で、『臨在録』は最も好きな禅語録の一つだとはいえ、別にそれに帰依しているわけではありません。カタリ派の本を訳し、その思想と哲学には大いに共感する者だとはいえ、「カタリ派復興運動」なんてものを組織するつもりもない。仮に僕が元カタリ派であったとしても、それは七百年も昔のことなのだから、このガーダムの『偉大なる異端』を日本語に訳し、出版できたことで、「カタリ派ミッション」は終わったのです(そのことには、夏休みの課題を期限遅れでやっと提出した子供のような安堵を感じているのですが)。

 仏教だけでなく、今は他の宗教団体、創価学会や天理教、PL教団、霊友会等々の宗教も、信者が高齢化して、入信者は減り続けているようです。あの、死者のみならず生者の「霊」にまで自分に都合のいいことを語らせるので有名な「霊言教祖」の幸福の科学なども同様でしょう。このまま貧富の差が拡大を続けて、生活苦にあえぐ人がさらに増加すれば、慰めと励ましを求める人々が増え、宗教団体は再び勢いを盛り返すのかもしれませんが、組織宗教の衰えは、宗教のエッセンスは組織や団体によって伝達されるものではないと考える人々が増えてきたこともその一因なのかもしれません。

 とくに階層性の強い、男尊女卑丸出しの、官僚的な組織であるローマ・カトリックのような組織は、西洋世界においてすら、その硬直性を嫌う人々にそっぽを向かれることが増えると思われるので、今回映画の題材となったこの「現代カトリックの犯罪」も、相も変らぬカトリック教会のそうした独善的かつ硬直した体質が災いしたものと言えます。それはなかば以上、必然的なことだったのです。

 滅びるべきはカタリ派ではなく、むしろカトリックの方だったのではないかと、僕は今でも考えていますが、今さら言っても詮ないことながら、そうすればその後のヨーロッパの文明と社会の性質は今とは相当異なったものになっていたでしょう。カタリ派は権力志向的な性質をもたず、その組織はシンプルで、出自によって差別せず、男女が平等に扱われる、民主的な宗教であったからです。

 先にも言ったように、僕はカタリ派を再興することなど毛頭考えていませんが、それは「新しい宗教」のモデルになる性質をもっているという気はするので、それとよく似た宗教が、いつの日か現われて、人々の支持を集めるようになるかもしれません。そこには指導者はいても、派閥や権力的な上下関係などはなく、民主的な「学びと癒しの場」となるのです。当然、それは世俗の権力と結託して人々を支配しようとしたり、他の宗教を弾圧するようなことは決してしないでしょう。おかしなものを介入させないだけの明晰な知性と、澄んだ心を、それはもっているのです。それが腐敗・堕落を防ぐ。

 こう書いたからといって、「うちこそそういう宗教だ!」と、僕のところに勧誘に来ないでくださいね。僕は一人で足りている人間なので、何とか教の教祖になるつもりも、その信者になるつもりも全くないからです。個人としてのおつき合いはしますが、組織や団体とは関わらない。それが、ソクラテス流に言えば、「わがダイモンの命ずるところ」なのです。


※ 僕が読んだのは、ボストン・グローブ紙『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(有澤真庭訳 竹書房)という本です。原題を忠実に訳すと、ボストン・グローブ調査スタッフ著『裏切り—カトリック教会の危機』となりますが、映画に合わせて同じタイトルにしたのでしょう。引用もして、もっと詳しい話を書くつもりでいたのですが、よく物を忘れる人間で、塾に置き忘れてきたのでこうなりました。
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