FC2ブログ

見ることと考えること

2010.12.24.17:58

 昔、小林秀雄が本居宣長の「考える」という言葉の説明について書いた文章を読んだことがあって、「なるほど」と強く印象に残ったのですが、それがどこだったか忘れてしまいました。有名な『本居宣長』ではなかったように思うので、書棚から小林秀雄関係の本を引っ張り出して探すことにしたら、幸い二冊目でそれに行き当たりました。それは『白鳥・宣長・言葉』(文藝春秋刊)で、亡くなった年の一九八三年の九月に出された遺作集です。その中に収められた「感想」と題された文の中に、それは出てくるのです。
 小林秀雄には「感想」と題した文はいくつもあるので、一体どの「感想」なのだと聞かれるかも知れません。それは一九七八(昭和五十三)年の一月に発表された「感想」です。
 まず、そこから該当箇所を引用してみます。

●「玉勝間」に、「かむがへといふ詞」といふ一文がある。「考へる」は「むかへる」の意味だと解されてゐる。「かはいかならむ、いまだ思ひえざれども、むかへは、かれとこれとを比校(アヒムカ)へて、思ひめぐらす意」であると説かれてゐる。「か」を発語と見ていいなら、「むかふ」の「む」は「身(ミ)」の古い形だし、「かふ」は「交ふ」である。従つて、物を考へるとは、宣長によれば、「我」と「物」とが深い交はりを結ぶといふ事である。知らうとする「物」が、「人の心ばへ」とか「世の有様」とかいふ「物」であれば、人生は生きて知らねばならぬ事で充満してゐる以上、自分の言ふ「考へる」といふ働きによつて、人生と結合する道を行く他はない、と宣長は言ふわけです。(漢字は現代のものに改めた)

 要するに、「考える」は「か・むかえる」で、その「むかえる」は「身を交(まじ)える」意味だというのです。それはたんに対象を外から観察するというのとは違う。これに続けて(改行の上)、「今日の学問は、宣長の解した意味での『考へ方』から離れてゐる。いや、正しく考へる為に、対象との交はりを断つてゐる」と書かれていますが、いかにも小林秀雄の文章らしいのは、これが別に「対象の客観的観察を軽んじた」ものではないことが念押しされていることです。

 ここからは自分の解釈をまじえて勝手に書かせてもらいますが(「自由に考へる事」の大切さも強調されているので)、主観的、感傷的になるのは、「身を交える」ことではありません。それが可能になるには、小林秀雄の愛用語を使わせてもらうなら、一種の「無私」を要する。「私」がそこにいたのでは、本当に「交わる」ことはできないからです。真剣に、全身全霊をあげて「交わる」なら、「私」は逆に消えてしまう。これは真剣に何かに取り組むときのことを考えてみるなら、容易にわかることです。
 そのときには、もちろん、彼の言う「情(ココロ)」がこめられている。知情意が分裂なく、一つのものとしてそこに働いているはずだからです。そのことが「理」を厚みのある、生きたものにする。頭の先で理屈をこね回すだけで事足れりとするような安易さはなくなっている。
 この場合、「理」を放棄して「没論理」に落ち込むのも、たんなる知的怠惰または精神の弛緩にすぎないので、この先に荻生徂徠の文を引用して、「『理』を頼んで『理』を運ぶ易きにつかず、『実』を思つて、『理を精しくする難きにつくべし』」という言葉が出てきますが、「人生に於いて、豊かな『実』が『理』を凌駕するのは常だから、この、理を精しくせんとする努力の道は、極まるところがない」ということになるのです。そこに「考えること」のダイナミズムが生まれる。小林秀雄の文章の魅力は挙げてそこにあると言っていいので、そこにはたんなるレトリックにとどまらない厚みと力があるのです。

 こうした論述に従って「考えること」を再定義するなら、それは「対象と直接身を交わらせることを通じて言葉を紡ぎ出すこと」ということになるでしょう。そこにはつねに「豊かな『実』」があって、それは一面的、公式的な「理」では掬い取れないものをもっている。その困難を直接じかに感じ取りながら、なおかつ言葉にし、論理を形成して表現しようとするとき、そこに生きた言葉、論理が生まれる。
 このとき、「見る」こと、「観察」することと、「感じる」こと、「考える」ことは分離しがたい一つながりのものになっている。「見る」ことは自然に感動(センセーショナルなものではなく)をひき起こし、それが言葉を生み出すことを、表現を要請する。言葉をもつ動物である人間にとって、それは自然なことであり、そうしないと「経験」のプロセスは完了しないのです。
 しかし、僕ら現代人は、この「経験(体験)」そのものをそもそもしているのか、それが疑わしい。「『我(自己の全体)』と『物』とが深い交はりを結ぶといふ事」をせず、万事にお座なりな対応をして、「考える」と称して行うことは、空虚な現実逃避の観念論であったり、アリバイ工作に類したことであったり、卑怯な自分を防衛、合理化するための辻褄合わせの屁理屈にすぎなかったりするからです。「見る」「感じる」ことなしに、思考を機械的に操るだけだから、そうなってしまう。
 問題は、むろん、そういうことでは解決しない。そこにどうしようもない「空虚さ」があるのは、「『物』と深い交はりを結ぶといふ事」をしていないからです。理由はそれ以外にない。

 僕が小林秀雄のこの文章を思い出したのは、クリシュナムルティの「観察者のいない観察」について書いてみようとして、通常の「観察(“私”がする観察)」ではどうしてそこにある「あるがままの物の姿」が見えないのか、実際それではそれは見えないのですが、それはどうしてなのかということを考えているうちに、どういうわけだかそれが記憶の底から浮かび上がってきたのです。結論だけを言うなら、クリシュナムルティのこの言葉と、小林秀雄、宣長の言う「考へる事」について述べられたことは、別のことではありません。クリシュナムルティの語る言葉はいつも「『物』と深い交はりを結ぶ」ところから、何とかしてそれを言語化しようとするところから生まれている。彼の言葉が独特の緊張を孕み、空虚さを免れ、生きた力をもっているのはそのためです。
 「『我(自己の全体)』と『物』とが深い交はりを結ぶといふ事」をしているとき、期せずして「観察者のいない観察」は成立している。それが本当の「考えること」でもある。この二つは分離できないと、そう思ったのです。これがたんなるこじつけにすぎないかどうかは、読まれた人各自でよくお考え下さい。
スポンサーサイト



プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR