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韓国の人たちは『帝国の慰安婦』の何に怒っているのか?

2015.12.10.22:00

 延岡の本屋には見当たらなかったので、日本語版をネットで取り寄せて読みました。

 僕には予想したとおり、よく目配りの利いた良書と感じられましたが、この本を読了するには(斜め読みやつまみ食いなら別として)、けっこうパワーがいります。引用された多くの慰安婦の証言など、心が痛まずにはすまないし、問題の性質上、議論はかなり入り組んだものになっているからです。

 最近になって韓国マスコミは相次いで検察批判を始めたようですが、それは「司法ではなく、学界の批判に委ねるべし」というもので、本の内容に関しては「あまり感心できない」というニュアンスのものが多いようです。

 昨日は同書に批判的な韓国の学者たちが記者会見し、「今回の起訴は学問の自由への弾圧には当たらない」と述べたという、次のような共同通信の記事もありました。

【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」の著者、朴裕河・世宗大教授が名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴されたことをめぐり、同書を批判する学者らが9日、ソウルで記者会見した。学者らは「原則として法的に刑事責任を問うのは適切でない」としつつも、今回の起訴が学問の自由への弾圧だという批判は当たらないという考えを示した。
 金昌禄慶北大教授は、起訴は国家権力が直接特定の人物を狙い撃ちしたのではなく、元慰安婦の告訴に基づくものだと強調。李信※(※=サンズイに徹のツクリ)成均館大教授は「なぜ起訴するに至ったのか十分に理解し、共感している」と語った。
 会見場には告訴した元慰安婦の柳喜男さん(87)が訪れ、「韓国は法治国家なのに、知識(学問)の自由があるからと勝手なことを言っていいのか。公正に法により審判すべきだ」と訴える一幕もあった。(2015/12/09-17:58)


 どうもよくわからないなと、僕はこの本を読んだ上で思うのですが、それは大方の日本人も同じでしょう。「法的に刑事責任を問うのは適切でない」のであれば、それはやるべきではないので、にもかかわらず今回の場合は「学問の自由への弾圧」でないというのはどういう意味なのか、「韓国独特の論理」だと言われても仕方はないように思います。

 要するに、それだけこの本には韓国内での感情的反発が強く、日本では賞讃の声が多い(左右両極端の人たちからは、それぞれの思惑には合致しないというので非難されていますが)からなおさら腹立たしく感じられるということなのでしょう。しかし、真面目な研究書の内容に関して著者を刑事告訴するというのは、「それでも近代国家か!」という海外からの非難を招く恐れがあって、外聞が悪いから「適切でない」と言わざるを得ないが、感情的にはそれを支持したくなるから、こういう摩訶不思議な言い方になるのかもしれません。

 しかし、この本がどうして「慰安婦の名誉を傷つけた」ことになるのか、多くの書評にもあるように、これは「日本の責任を明確に認めた」ものでもあるし、僕らふつうの日本人にはそうした反応は理解しがたいところがあります。この本を読んで朝鮮人慰安婦の人たちに侮蔑心をもったというような人は、少なくともまともな読解力をもつ人であるかぎり、一人もいないでしょう。むしろそれは読む側をして厳粛な気分にさせるものなのです。

 なのに、一体どうして…と僕には不可解そのものでしたが、どういうところが韓国ではそんなにけしからんと思われているのか、それを知りたいと思って、日本語のものしか読めませんが、インターネットであれこれ批判したものを読んでいたら、拒否感情に理屈がついた感じのもの(そういうものほど過度なまでに「論理的」な外観を装っているのは興味深い)が多かったのですが、ある方のブログに次のような韓国学者たちの声明文が紹介されているのを見つけました。これは僕が読んだ中では一番理性的で、落ち着いた、読むに値するものでしたが、日本のマスコミには出ていないようなので、ここに引用させていただきます。「おきく’s第3波フェミニズム」と題された菊地夏野さんという方のブログで、紹介文からして只者とは思えなかったので、調べてみると名古屋市立大学の先生でした。


『帝国の慰安婦』事態に対する立場

 日本軍「慰安婦」問題について深く考えこの問題の正当な解決のために努力してきた私たちは、朴裕河教授の『帝国の慰安婦』に関連する一連の事態に対して実に遺憾に思っています。

 2013年に出版された『帝国の慰安婦』に関連して、2014年6月に日本軍「慰安婦」被害者9 名が朴裕河教授を名誉毀損の疑いで韓国検察に告訴し、去る11月18日に朴裕河教授が在宅起訴されました。これに対し、韓国の一部の学界や言論界から学問と表現の自由に対する抑圧であるという憂慮の声が出ており、日本では11月26日に日本とアメリカの知識人54名が抗議声明を発表しました。

 私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、私たちは学問の自由と表現の自由という観点からのみ『帝国の慰安婦』に関する一連の事態にアプローチする態度については深く憂慮せざるをえません。日本軍「慰安婦」問題が日本の国家機関の関与のもと本人の意思に反して連行された女性たちに「性奴隷」になることを強いた、極めて反人道的かつ醜悪な犯罪行為に関するものであるという事実、その犯罪行為によって実に深刻な人権侵害を受けた被害者たちが今この瞬間にも終わることのない苦痛に耐えながら生きているという事実こそが、何よりも深刻に認識されなければなりません。

 その犯罪行為について日本は今、国家的次元で謝罪と賠償をし歴史教育をしなければならないということが国際社会の法的常識です。しかし、日本政府は1965年にはその存在自体を認めなかったため議論さえ行われなかった問題について1965年に解決されたと強弁する不条理に固執しています。日本軍「慰安婦」被害者たちはその不条理に対し毎週水曜日にすでに1200回以上も「水曜デモ」を開催しており、高齢の身をおして全世界を回りながら「正義の解決」を切実に訴えています。私たちは、これらの重い事実を度外視した研究は決して学問的でありえないと考えます。

 私たちは、『帝国の慰安婦』が事実関係、論点の理解、論拠の提示、叙述の均衡、論理の一貫性などさまざまな面において多くの問題を孕んだ本であると思います。既存の研究成果や国際社会の法的常識によって確認されたように、日本軍「慰安婦」問題の核心は日本という国家の責任です。それにもかかわらず『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいています。法的な争点に対する理解の水準はきわめて低いのに比べて、主張の水位はあまりにも高いものです。充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません。このように、私たちは『帝国の慰安婦』が充分な学問的裏付けのない叙述によって被害者たちに苦痛を与える本であると判断します。ゆえに、私たちは日本の知識社会が「多様性」を全面に押し出して『帝国の慰安婦』を積極的に評価しているという事実に接して、果たしてその評価が厳密な学問的検討を経たものなのかについて実に多くの疑問を持たざるをえません。

 私たちは、この事態を何よりも学問的な議論の中で解決しなければならないと考えます。韓国と日本と世界の研究者たちが問題について議論し、その議論の中で問題の実態を確認し解決方法を見つけるために、ともに知恵を出し合うことが必要であると思います。そこで、私たちは研究者たちが主体になる長期的かつ持続的な議論の場を作ることを提案します。また、その一環として、まず朴裕河教授や『帝国の慰安婦』を支持する研究者たちに、可能な限り近いうちに公開討論を開催することを提案します。

 最後に、私たちは名誉棄損に対する損害賠償請求と告訴という法的な手段に訴えねばならなかった日本軍「慰安婦」被害者らの痛みを深く反芻し、日本軍「慰安婦」被害者たちにさらなる苦痛を与えるこのような事態に陥るまで私たちの思考と努力が果たして十分であったのかどうか深く反省します。また、外交的・政治的・社会的な現実によってではなく、正義の女神の秤が正に水平になるような方法で日本軍「慰安婦」問題が解決されるよう、更なる努力を重ねていくことを誓います。

2015.12.2.

日本軍「慰安婦」被害者たちの痛みに深く共感し
「慰安婦」問題の正当な解決のために活動する研究者・活動家一同

(1次署名者71名)
ユン・ジョンオク(元梨花女子大学)、チョン・ジンソン(ソウル大学)、ヤン・ヒョナ(ソウル大学)、キム・チャンロク(慶北大学校)、イ・ジェスン(建国大学校)、ジョ・シヨン(建国大学校)、イ・ナヨン(中央大学校)、イ・シンチョル(成均館大学校東アジア歴史研究所)、カン・ソクチュ(ソウル大学校)、カン・ソンヒョン(聖公会大学校)、カン・ジョンスク(成均館大学校)、コン・ジュンファン(ソウル大学校)、クァク・キビョン(ソウル大学校)、クォン・ウネ(東国大学校)、キム・キョソン(中央大学校)、キム・ギオク(漢城大学校)、キン・ミョンヒ(聖公会大学校)、キム・ミラン(聖公会大学校)、キム・ミンファン(聖公会大学校)、金富子(東京外国語大学)、キム・ウンギョン(放送通信大学校)、キム・ユンジョン(歴史学研究所)、キム・ジナ(ソウル大学校)、キム・ヘジョン(全北大学校)、ド・ジンスン(昌原大学校)、パク・ノジャ(Vladimir Tikhonov, Oslo University)、パク・ジョンエ(東国大学校)、パク・ジンギョン(仁川大学校)、パク・ヘスン((社)韓国軍事問題)、ペ・ギョンシク(歴史問題研究所)、ペ・ウンギョン(ソウル大学校)、ペク・シジン(中央大学校)、ペク・ジェエ(ソウル大学校)、ペク・ジョヨン(中央大学校)、ソン・チャンソプ(放送通信大学校)、シン・グリナ(ソウル大学校)、シン・ヘス(梨花女子大学校)、シン・ヘスク(ソウル大学校)、オ・ドンソク(亞洲大学校)、オ・スンウン(漢陽大学校)、ユン・ギョンウォン(東アジア社会文化フォーラム)、ユン・テウォン(ソウル大学校奎章閣韓国学研究院)、ユン・ミョンスク(忠南大学校)、イ・キョンス(中央大学校)、イ・キョンジュ(仁荷大学校)、イ・ミナ(中央大学校)、イ・ドンキ(江陵原州大学校)、イ・ミョンウォン(慶熙大学校)、イ・ヨンスク(一橋大学)、イ・ジョンウォン(聖公会大学校)、イ・ジウォン(大林大学校)、イトー・ターリ(パフォーマンス・アーティスト)、板垣竜太(同志社大学)、イ・ハヨン(中央大学校)、イム・ギョンファ(延世大学校)、イム・ジョンミョン(全南大学校)、イム・ジヒョン(西江大学校)、ジョン・ガプセン(ソウル大学校アジア研究所)、ジョン・ミョンヒョク(東国大学校)、ジョン・ミレ(性売買問題解決のための全国連帯)、ジョン・イリョン(西江大学校)、ジョン・スルギ(中央大学校)、ジョン・ヒョンジュ(梨花女子大学校)、ジョン・ヒョンヒ(ソウル大学校)、チ・ナオミ(北海道大学)、チェ・ジョンギル(高麗大学校グローバル日本研究院)、ハン・ボンソク(歴史問題研究所)、ハン・スンミ(延世大学校)、ハン・ヘイン(韓国女性人権振興院)、ホン・スンクォン(東亜大学校)、古橋綾(中央大学校)


 いかがですか? ヒステリックなところは全く感じられない、いい文章だと読んで思いました(訳されたのは菊池さん?)が、韓国版と日本版の違いが相当あるのかもしれませんが、僕はここに述べられているようには『帝国の慰安婦』という本を読まなかったので、彼我の認識の差に、あらためて驚くのです。

 たとえば「『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいてい」ると言いますが、著者は責任の根源は「日本による植民地支配」にあるとはっきり書いているので、そこに「業者(朝鮮人・日本人両方)」が直接の責任者として存在していたことは明確に認めつつも、だからといって「悪いのは業者であって、日本ではない」などとは言っていないのです(そんなアホなこと言ってるのは日本の一部右翼だけです)。

「充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません」という箇所も、この「自発的な売春婦」というところは韓国の人たちを憤激させたようですが、少なくとも日本語版を読むかぎり、そういうニュアンスは感じられない。植民地化された特殊な状況に加え、当時の朝鮮の末端家庭の貧困、家父長制的な女性軽視のあり方、そういった諸々の条件の中でそれを選択せざるを得なかった女性もいれば、業者に騙して連れて行かれた娘もいたというような話なので、日本軍による直接連行によるものではなかった(この声明文では「本人の意思に反して連行された女性たち」とあって、「強制連行」を支持する以上、それはありえないという理屈になるのでしょうが)、という意味での「自発性」にすぎないので、それはそもそも「自発性」ではないのです。

 韓国の人たちがそういう受け止め方をするのは、日本の一部右翼が主張する「自発的な売春婦」という表現をそのままこちらに移し替えて解釈するから、ではないでしょうか。たとえば今の日本で非正規労働者になる若者は、一応「自発的」にコンビニなり、工場なりで働いているわけです。朴さんのいう「自発」はそうしたものの極端なかたちの、「強いられた自発」なのです。

「軍人と『同志』的な関係にあった」という話にしても、それは戦場で生死を共にするところから生まれた自然な感情で、赤紙一枚で戦地へと送られた日本兵は、別に「帝国主義の権化」でも何でもなくて、彼ら自身が「戦争のための国家動員という国家システムの中で動かされた将棋の駒」にすぎなかったのです(同じ箇所に作家・古山高麗雄の「虫けら」「蟻」といった表現も出てきます。これは慰安婦を指しての言葉ではなく、日本軍兵士たる自分が、なのです。日本の観念右翼にはこうした表現を不快に思う人はいるかもしれませんが)。

 慰安婦は性的な「慰安」だけでなく、ときに心情的な「慰安」の対象ともなりえたのだというのは、慰安婦と立場こそちがえ、同じ寄るべなき心情を抱えていた兵士たちの姿を思えば、何の不思議もないように思われます。そうした中で生じた「同志的関係」なのです。妻や恋人代わりに思う兵士もいたことでしょう。その心情に慰安婦の側が応えることがあったとしても、それは人間として自然なことで、何ら非難や嫌悪には値しないはずです。

 いや、そうではない、日本人と「愛国」イデオロギーを共にしたとも書かれている、それがけしからんのだと言われるかもしれませんが、朝鮮は当時日本に併合され、そこの人々は「準国民」とみなされ、たとえ強いられたものであっても日本への「愛国」心をもつことがあったとしても、そんなに不思議ではありません。業者にだって、それは深刻な自己欺瞞を含むものだったとしても、「愛国」ゆえに慰安婦を提供しているつもりの人もいたかもしれません。慰安婦の場合、その屈辱を「愛国の誇り」で埋め合わせようという心理も働いたかもしれない(こういう言い方も「許しがたい」ものと受け取られるおそれがありますが)。

 日本人そのものが当時は「愛国」を強要されていたのであり、ほとんどの日本人はそうした「洗脳」下にいたのです。「非国民」のそしりを受けながら、国家に正面から抵抗した人はごくごく一部にすぎない。しかし、悲惨な戦場にあって、自分が「蟻」であり「虫けら」に等しい存在になっていると感じる兵士は少なくなかった。僕はそう思います。朴さんの言われる「帝国」というのは、そういうものなのです。今のアフガンやイラクに送られているアメリカの兵士にしても、戦死者より帰国後の自殺者の方が多くなったと、もうずいぶん前にニュースになっていましたが、同じ「帝国」の恐ろしさを経験させられているのです。「愛国」によって生きた個人が「虫けら」の地位に落とされる皮肉。戦争にはそうしたことがつきものです。

「法的な争点に対する理解の水準はきわめて低い」云々は、『帝国の慰安婦』第4章の「韓国憲法裁判所の判決を読む」あたりを念頭に置いて書かれているのだと思いますが、朴教授は法律学の専門家ではないので、ここはかなり無理して書いたな、という印象を僕も受けました。この「個人の賠償請求権」が消滅したか否かについては、法理論的には大いに議論の余地があるでしょう。しかし、著者が言おうとしているのは、日本の右翼が「1965年の日韓協定で戦後補償はすんだ」と主張し、従来の自民党政府の公式見解もそれに則るものであった中で、「アジア女性基金」が日本の政治状況の中で政府がやろうとしたせいいっぱいの努力の産物であったことを、韓国側がほとんど評価しようとしないのはおかしいのではないかということを言わんとするためなのです。そこには明確に謝罪の意思が認められた。日本政府は全面的にコミットしていた。にもかかわらず、それは国家としての責任を回避して、民間のかたちをとったものなので評価できないというのでは、日本国内にも対立があるのだから、それを無視した「理想」に偏しすぎた対応ではないか、というのです。

 そもそもの話、本書でも批判されているように、「二十万人の少女・女性が日本軍に強制連行されて慰安婦にされた」という韓国の慰安婦支援団体によって流布された話は、「事実」としての裏付けは乏しいものでしょう。率直に言えば、それは「虚偽」なのです(大体、慰安婦に十代の娘は少なかった)。最初「挺身隊」と「慰安婦」が誤って同一視されたことからそういう誤解が生じたそうですが、いまだに韓国の一般国民の間ではそれが「真実」だと思われているという。日本の右翼も都合のいい話だけ切り取って過去の侵略の歴史を美化しようとするが、韓国もそこは同じで、「被害と蹂躙の過去」を強調するあまり、そうした視点からするなら「売国奴」でしかなかった日本軍への協力者(多数いたはずで、その一つが慰安婦業者)などは存在しなかったごとく、「日本の責任」ばかりを言い立てるのです。

 それでは日本の国民感情は悪化する。韓国挺身隊問題対策協議会(略して「挺対協」)を中心とする慰安婦支援団体は近年、慰安婦像設置と海外でのロビー活動に精力的に乗り出し、「二十万にのぼる無垢でけがれのない十代の少女たちが日本軍に強制連行され、性奴隷にされた」というような話を世界中に広めました。国連やアメリカ議会まで味方につけて、「報告書」や「非難決議」を次々出させ、慰安婦像を2010年以降、アメリカに九か所、韓国内に二か所(一つは日本大使館前)に矢継ぎ早に設立しましたが、朴槿恵大統領の執拗なほどの「反日」言動、「告げ口外交」とも相まって、日本人の「嫌韓」感情はピークに達したのです(僕は愚かにも朴大統領に日韓関係の改善を期待した者の一人でした)。

 前にも書いたことがありますが、こうした韓国による「行き過ぎた日本非難(その主張に虚偽が含まれていることは他国の学者や専門家にも次第に認められるようになってきたそうですが)」は、日本の「右傾化」に大いに貢献しました。左派は弱くなったので、象徴的なのは朝日新聞の例の「誤報」をめぐる謝罪です。一個の虚言症患者、吉田清治の「日本軍による慰安婦の強制徴用」のつくり話を真に受けてしまったこのリベラルの代表紙は、吉田証言が虚偽であることが判明するや、激しいバッシングにさらされ、とうとう謝罪するにいたったのですが、「軍による強制連行はなかった」→「軍の直接関与はなく、業者と慰安婦が金儲け目的でやっただけ」というふうにいわば悪用されて、「日本無罪」の補強証拠のように使われたのです。韓国が日本非難でヒートアップすればするほど、その反動で、逆に「日本は悪くない」という主張が支持を集めるようになった。

 朴裕河さんはこうした状況を何とかしたいとねがって、一連の著作活動を続けておられるのでしょう。この声明文だけからでは、そのあたりはわかりませんが、上に見ただけでも「曲解」と思われる点は少なくないので、やはり冷静さを欠いた批判が韓国では多いのではないかという気がします。どこがどう間違っているのか、それを具体的に明示した批判本でも書いて、日本語版も出してくれるといいと思いますが、その場合は「事実解明」を何より優先すべきで、「自国民に不利な話は許されない」という前提のそれでは、日本の一部右翼と同じになってしまうでしょう。

 思うに、「民族としての誇り」ぐらい有害なものはありません。それで日本人は「穏健な統治をした正義の支配者」だったと言い張り、韓国人は「圧政に苦しんだ純粋な被害者」だったと言うのでは、和解の手立てなど見つかるはずはありません。日本人は「善良な統治者」ではなかったし、朝鮮人慰安婦も「聖女」ではなかった。人間は元々そんなピュアな存在ではないので、それはよほど自己欺瞞の強い人でないかぎり、自分の内面を見れば誰にでもわかることでしょう。それを認めれば自己肯定感が失われるというのはよほど人間的に未熟な人にかぎられます。

 こんなことを言うとまた叱られるかもしれませんが、韓国の人たちは「白か黒か」思考がとくに強い人たちなのではないかという印象を僕は受けています。それで自分たちは真っ白、日本人は真っ黒みたいになるので、この「慰安婦」問題に関してもそうです。日本人は謝罪しない、悪いと思っていないと非難しますが、植民地支配も、慰安婦も、そのディティールはどうあれ、こんにちの基準からすれば悪かったにきまっているのです。日本人でそう思わないのはおかしな「愛国心」「民族としての誇り」とやらに盲いている人たちだけです。しかし、そういう人たちは一定数存在するので、彼ら(困ったことに、それは政治家にも少なくない)の言動を見て、日本人は全然反省していない、悪のかたまりみたいな連中だと言い、全員がこぞって謝罪するまで許さない、というのでは、朴大統領のセリフではないが、「千年たっても変わらない」ということにならざるを得ないでしょう。

 日本の右翼たちは最近よく、在韓米軍のためにかつて韓国政府が設けていた「慰安婦」の問題や、ベトナム戦争当時、韓国軍兵士が現地の人たち相手に行った暴行、強姦、殺人のことを言い立てます。「エラそうに人を非難するが、自分たちがやったことについてはどうなのだ?」というわけです。こういう論理は、泥棒が他の泥棒のことを言い立てて責任逃れをするのと似たような話ですが、「あいつらは一方的に被害者面して、人のことばかり責め立てる」という反発があるからこそ出てくるのです。加えて韓国は1965年の日韓協定に従って行われた戦後補償(名目はどうあれ)や、アジア女性基金による賠償はなかったかのごとく、しつこく謝罪と賠償を要求する。日本の占領地になった他の東南アジア諸国ではそうではないのに、なぜ韓国だけがこうもしつこいのかと、日本人は思うようになったのです。これが韓国ご自慢の「恨(ハン)の文化」というものなのかと。

 かつての帝国主義の時代、西洋列強は植民地の拡大を競いました。第二次世界大戦後、ほとんどは独立を果たしましたが、いつまでも「植民地時代の恨み」を言い立てる国は少ない。例のIS(イスラム国)は第一次大戦中のサイクス・ピコ協定を問題にしていますが、それ以外にはあまり聞かないのです。かつての宗主国がよく謝罪行脚に元植民地に出かけるというような話はない。ひとり韓国だけが、「ひざまずいて赦しを乞え!」と日本に向かって言い続け、それを拒否する日本の右翼を活気づけているのです。

 かつても無神経な差別的暴言を吐いて得意がっている石原慎太郎のような困った右翼老人はいましたが、最近は若い世代がそれに染まり始めた。それには韓国の日本非難があずかって力あったので、逆に「謝罪の気持ち」は薄れるばかりなのです。いっときのテレビドラマや芸能人などの「韓流ブーム」も、今や跡形もない。レンタルビデオ店で「韓流コーナー」をうろついているのは、「純愛もの」が好きな中高年の少数のおばさんだけなのです。

 朴教授のこの本は、少なくとも日本ではそうした風潮に歯止めをかける働きをしてくれるはずですが、当の韓国では刑事罰の対象にまでされたわけで、「もうつきあいきれん」と、リベラルな日本人ですら思うきっかけになりかねません。「今の韓国は異常だよ。話し合いなんてできるわけがない」という言葉を、僕は善良な知り合いの日本人から何度聞かされたことでしょう。今やそれがふつうの日本人の間では「共通認識」になりかけているのです。

 ですから、韓国の学者たちには、この本を日本の右翼の言辞と一緒くたにするのではなく、たんなる片言隻句や一部の表現にこだわるのでもなく、全体の文脈を見た上で、どこがどう間違っているのか、説得的な批判を行っていただきたいと思います。そしてその日本語版を出してくれれば、僕は必ずやそれを読むでしょう。というのも、ふつうの日本の読書人である僕には、これが「慰安婦の人格を傷つけ、冒涜するもの」とはどうしても思えないからです。むしろ敬意と思いやりに満ちたものと見えるので、一面的な「聖女」扱いより、それはずっと人間的な深みをもつものと感じられたのです。
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