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岡本行夫の登場でますます怪しくなった安保法制

2015.07.18(16:49) 333

 例の強行採決に先立って、衆院平和安全法制特別委員会は13日、「安全保障関連法案の中央公聴会」なるものを開催しました。その中で「自民党推薦で外交評論家の岡本行夫氏は一部野党のレッテル貼りを念頭に『立派な責任政党が集団的自衛権は他国の戦争に参加するとの誤ったキャンペーンを国民にしていることは残念だ』と批判した」(産経新聞)とのこと。

 これは安倍一派からはよく聞くセリフですが、僕はかねてこの岡本行夫なる人物に深い疑念を抱いています。竹中平蔵並に厚かましい男で、その浅薄さとご都合主義的な精神構造には非常によく似たものがあると思われるのです。

 ところが、これが今やたらとテレビに出ているようで、先日夜遅く、たまたまテレビをつけたら、ちょうどニュース23をやっているところで、この岡本氏が登場し、2003年11月にイラクで二人の外交官、奥克彦氏と井ノ上正盛書記官が車で移動中、何者かに銃撃を受けて殺害された事例を取り上げ、「安保法案があればこのようなことは防げた」と、したり顔で言っているところを目撃して、何とも言えず不快な気分になりました。

 どうしてか? 当時岡本行夫は小泉政権の内閣総理大臣補佐官(イラク担当)で、奥克彦氏の派遣も、自衛隊の派遣も、この人の提言によるものだったろうと思われるからです。さらにいえば、小泉が愚劣なイラク戦争支持を早々と打ち出した背景にも、ブレーンとしての岡本氏がいたことでしょう。

 僕のような素人ですら、あのイラク戦争には呆れ、腹を立てたのに、そして大量破壊兵器云々も、自己正当化のための口実に過ぎないと見ていたのに、明白な国際法違反のあの戦争(仮に大量破壊兵器云々が真実だったとしても、合法にはならない。それなら世界最大の「大量破壊兵器」所持国のアメリカは何なのだということになるからです)を支持するよう総理大臣に進言し、その「大義なき戦争」の危険きわまりない現場に、護衛もなしに外交官を送り込んだのは他でもない彼なのです。奥大使は「狙いは石油だな」とすぐに思ったと、NHKの番組で語っていました。つまり、彼はそこには「正義」はないことを、すぐに見て取ったのです。そこで、イラクで医療や教育などの民生支援をして、イラクの人々の日本に対する心証を少しでもよくすることが国益にもかなうと、連日危険な中を飛び回っていた。その途中で命を落とすことになったのです(ウィキペディアの奥克彦の項に、「米英などのイラク侵略戦争を『テロとの戦い』として正当化し」とあるのは間違いでしょう)。

 要するに、岡本の外交判断とアドバイスは、初めから間違っていたわけです。日本が率先、あの戦争への支持を表明したことは、世界のもの笑いでした。まともな人は、「いくら何でも…」とブッシュのあの暴挙に呆れたからです。さらに、そこに大使を送って死なせ(行くのなら自分で行くがいい)、いりもしない自衛隊のイラク派兵をした。その責任を、この男は何も取っていないのです。少しは恥じるかと思いきや、デカい面してあちこちに出張り、挙句は愚劣な法案に肩入れして、「立派な責任政党が集団的自衛権は他国の戦争に参加するとの誤ったキャンペーンを国民にしていることは残念だ」などとエラそうなお説教垂れるとは、一体何様なのでしょう。

 一つだけよいと思われる点は、他でもないこのような無責任な対米追従オヤジが賞讃し、擁護することによって、この安全保障法案の“正体”があからさまになることです。

 僕は三日ほど前、あるニュースサイトで、安倍政権が「集団的自衛権を使える具体的な状況」について「新3要件」なるものを示している、という箇所を読んで、あらためてその「新3要件」を確認してみました。「基本的なこと」を、この際だからよく見直しておこうと思ったのです。防衛省のホームページには次のように明記されています(当局の説明だから、これなら「偏った解釈」だの何だのと難癖つけられることもないでしょう)。

■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件
◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと


 問題視されているのは新たに追加された「またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」というところで、「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」というような事態は、一体どのようなものであるのかということです。これが一向はっきりしない。

 それで次に、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」と題された、「平成26年7月1日 国家安全保障会議決定 閣議決定」なる文書も見てみました。以下、少々長いが、関連個所の引用です。

3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
(1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。
 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。


 ふむふむ。「これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがある」というもって回った言い方が何を意味するのか不明ですが、他はよしとしましょう。問題となるのはここから先です。

(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
(4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
(5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。
4 今後の国内法整備の進め方
 これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。


 うーむ。どなたか「よくわかった」という人はおられますか? 昔、自民党のある総理大臣は「言語明瞭、意味不明」と評されたものですが、僕は曲がりなりにも「法学士」で、この手の文章にはふつうの人よりは耐性があるはずですが、やはり何を言いたいのか、よく理解できないのです。「玉虫色文書」の作成を得意とする官僚が書いたのだろうということだけはわかりますが。

 問題点は(3)の、「しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」(だから集団的自衛権容認が必要)の説明で、「現実に起こり得る」というが、それがどういう場合なのかは、一向明確ではない点です。

 これは先の「新3要件」の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」と直接リンクします。

 これを、安倍政権は説明できないわけです。だから答弁はしどろもどろになり、そこが不明確だからしつこく訊かれるのに、「同じことを繰り返しきいてくる。いつまでたっても同じなので、審議は打ち切る」と、あたかも非は相手側にあるかのようなことを言って、強行採決に踏み切ったのです。

 このあたりを、僕はご立派なことをのたまう岡本行夫氏にきいてみたいのです。具体的に、それはどういう場合なんですかと。安倍は勝手にアメリカに「8月までに」と約束し、それで焦って強引なことをやらかしたわけですが、自らスポークスマンを買って出て、あちこちでエラそうなことを言っているくらいなのだから、当然答えられるわけでしょうね?

 かつて岡本氏は、愚かなイラク戦争(上記文中に「国際法を遵守」「国際法上の根拠」だけでは足りないとされる、それにすら反した戦争ですよ)に肩入れして、危険は承知でそこに送り込んだ外交官を死なせてしまったわけですが、「アメリカの機嫌を損ねてはまずい!」と「同盟強化」のためにそのような恥ずべきことをして、自衛隊のイラク派兵も是非にと進言したわけでしょう? 今度の法案が成立すれば、そのようなことももっと気軽に、かつスピーディに行えるようになって、大変便利だ、というのがホンネのところではないのですか? 他でもないそのような運用の仕方を、国民は一番心配しているわけなのですが。

 こういう御仁が嬉々として後押ししているのを見ると、なおさら危ないなと、僕は思うのです。上記の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の文章には、僕は文章の嘘を見抜くことに関しては素人ではないつもりなのでわかるのですが、「切れ目」があるのです。それは、文脈に適合しないものを無理やり入れ込もうとするときにできる「切れ目」なのです。

 要するに、こういうことなのです。「他国に対する武力攻撃」を「自国への攻撃」と同じとみなして、その「他国」に戦力を送り込み、一緒になって「防衛戦」をやらせたいが、それはどうあがいたところで「自衛のための戦争」とみなすことはできないので、無理なこじつけをする必要が生じたのです。その「無理なこじつけ」が、「その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」であり、「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」なのです

 真面目にそのような「事態」があると考えて、言っているわけではない。所詮は「こじつけ」なので、「では、その事態がどのようなものなのか、説明してくれ」と言われると、とたんに返答に窮するのです。現実にはそのような「事態」はほとんど存在しない。「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が生じるのは従来の「個別的自衛権」で法理論的にも対処できる場合に限られるのです。

 安倍は、「ええい、畜生! 憲法9条があるからだ!」と思っているでしょう。たしかに、その縛りのない「ふつうの国」なら、他国と同盟し、その同盟国に自国の軍隊を送り込んで、一緒に戦争できるのです。国連軍に兵を送って、戦闘に参加させることもできる。アフガン戦争も、イラク戦争も、アメリカと一緒に戦えた。どちらも「間違った戦争」ですが、「同盟国のよしみ」でそのような戦争にもおつきあいすることになるのです。

 そこまでは“現段階では”できかねる。だからせめて燃料補給や武器弾薬の供与、後方支援で、「現場参加」の体裁は整えたいと、そういうことなのです。前線での戦闘にも加われるようにしたいが、“現段階では”無理なので、こういう形で「誠意」を示すことによって、アメリカさんも認めてくれるだろう。国連も姿勢を評価してくれるだろう

 アホかいなというのは、まさにこのことです。主体性ゼロ。安倍と、岡本なんかがOBとしていまだに威張っているところを見ると外務省も、なのかも知れませんが、コンプレックスのかたまりです。そういうのは自分個人の領域で始末してもらわないと困る。

 かねて安倍晋三のオツムの程度はブッシュ・ジュニアにほぼ等しいと僕は思っていますが、彼の頭の中には「正義の戦争」というものがあり、「テロとの戦い」なんかも正義だと、無邪気に信じ込んでいるのです。僕はむろん、テロリストの味方ではありません。伝え聞くIS(イスラム国)の蛮行には顔をしかめる。しかし、アメリカの過去の愚行なくしてはあのオサマ・ビンラディンもなかったのだし、ブッシュのイラク戦争がなければ、ISの派手な登場と躍進もなかったのです。アメリカの「テロとの戦い」がマッチポンプだというのはそのことで、その尻馬に乗っかって「テロとの戦いを推し進めるのが国際正義にかなう」なんてことは思わないのです。思う方がどうかしている。

 アメリカの「正義」はアメリカが、というより、アメリカの軍と政府が信じている(より正確には「そのフリをしている」)だけのものにすぎません。それと「思いを同じく」し、「積極的平和主義」と称してそれに追随し、「テロとの戦い」を後方支援するなんてことは、わが国がテロの標的に加わるだけでなく、真の正義にも合致しないのです。

 暴力が暴力の連鎖反応を引き起こしている、というのが今の世界状況です。アメリカはイスラエルにも肩入れしていて、そのイスラエルのパレスチナにおける暴虐は目に余り、それが中東諸国の強い怒りを買っているが、よりにもよって安倍はノコノコ極右のネタニヤフに会いに行き、その後イスラエル国旗と日の丸をバックにスピーチまでやってのけ、さらに「テロとの戦い」のために2億ドル(日本国民の税金だろうに、もっとマシなことに使え!)寄付しますなどとぶち上げたために、ISの手に落ちていた日本人人質2人が殺害される羽目になったのはまだ記憶に新しいところです。

 いかにノーテンキな安倍でも、「いや、この安保法制があればあの人質も救出できた」なんてことは言わないだろうと思いますが、彼のお好きな言葉を使うなら、その思考の「レジーム」はあまりにも古く、かつ平板なのです。旧態依然たる「抑止力」説も同様、宮崎駿監督は安倍政権の思惑を批判して、「軍事力で中国の膨張を止めようとするのは不可能だ。もっと違う方法を考えなければいけない」と記者会見で述べましたが、それは正しいのです。南シナ海における日米の軍事プレゼンスを高める、なんてことは、中国国内の「軍拡派」を勢いづかせるにすぎないでしょう。それが行き着く先は?

 在外邦人の保護がこれで容易になるということもまずないでしょう。今回の安保法制はわが国が「アメリカの走狗」たることを海外に強く印象づける結果となり、かえってテロリストに狙われる可能性が高くなるだけです。武力を決して用いない国、というよき評判を、それは台無しにするのです。

 今の世界にはわかりやすい「国際秩序」などというものはありません。善悪についても同様、甲にとっての善が、乙にとっての悪なのです。利害、善悪が複雑に入り込んだこの世界で、「正しく身を処する」というのは容易なことではありません。そこに一面的な、単純な価値尺度を持ち込んで、揺らいでいる「体制」側に一方的に肩入れし、「後方支援」というかたちで武力行使にも加わる、ということのどこが「国際協調」なのでしょう。「そうしないと世界から認められず、信用されない」というのは、岡本や安倍のような古臭い思考回路しか持ち合わせない単細胞人間が勝手に思い込んでいるだけの話なので、そこには主体性と呼べるようなものはカケラもないのです。

 こういう世界状況の中で、断じて戦争に、武力に訴えることはしないという日本の「非常識な平和主義」は、かえって世界にとっての希望となるものです。それは暴力の連鎖反応を止める唯一の方法であり、「力による解決」を放棄する方向へと人々を誘(いざな)うものだからです。

 実際それによってしか平和は、相互理解の土台は築けない。その証拠に、世界最大の軍事国家アメリカは、武力によってテロを根絶するどころか、かえってそれを強大化し、拡散する結果を招いただけにすぎなかったのです。アメリカとその「同志軍」は今もISに対する空爆を繰り返していますが、ビンラディン同様、アル・バクダディを殺害したところで、テロ組織が消滅することはあり得ない。そういうやり方では解決がつかないのだということを、どうして学ばないのでしょう。

 先に、このような世界で正しく身を処するのは困難だと書きましたが、武力に訴えず、力による解決を放棄する「憲法9条的行き方」は、最良のものだと言えるだろうと僕は思います。それを「空虚な理想論にすぎない」と嘲る人たちは逆に、戦争というものを兵士やその家族、巻き添えになって死ぬ一般市民の側に立っては考えず、不毛な暴力の応酬が何ら幸福な結果を生み出さないことを理解しようとせず、観念的な戦争観しか持ち合わせていないのです。それこそが「幼稚」というものではありませんか。

 安倍や岡本のように類の人間は、やたら勇ましいことを言いたがるが、わが身はつねに安全地帯に置いているのであり、彼らの進める安保法制によって強いられることになるであろう自衛隊員の身の危険について、真に案じるなどということはしたことがないでしょう。安倍は答弁で「自衛隊」と言うべきところをネトウヨらしく「わが軍」と言って失笑を買いましたが、かつての「わが軍」は侵略された国々の人々の生命と暮らしを蹂躙したのみならず、自国民のそれをも破壊したのです。僕には戦死した伯父が二人いますが、彼らは1945年になってから、つまり敗北が明々白々たるものになってから、南方に送られて戦死または餓死したのです。一人は幼い子供二人と妻を残して戻らず、もうひとりはまだはたちにもならない若者だった。当時の軍部の、とても「戦争のプロ」とは思えぬ無能さと無責任さには言葉もないほどで、ふつうの「やめどき」を知る軍人なら避けたであろう「無意味な犠牲」を、彼らは自分たちの愚かしい保身と体面のために自国民に強いたのです。僕にはそれは許せない。靖国に行って彼らの霊たちを呼び出して、ボクシングの試合でも挑んで、残らずボコボコにしてやりたいと思うほどです。あの世に行ったら、それができるでしょう(A級戦犯たちは、すでに靖国の霊空間で、無用な死を強いられた多数の無名兵士たちから同じ扱いを受け、「合祀なんかするからこうなったのだ!」とぼやいているかも知れませんが)。

 最後にもう一つ、時代遅れの思考回路しかもたない安倍・岡本の類の人たちに言っておきたいのは、“現実的に考えて”、もはや「自衛のための戦争」すらほとんど不可能になっているということです。

 愚かな安倍は、この前の福島原発の大惨事などなかったかのように原発再稼働を勧める気でいるようですが、原発は国防上、致命的な弱点になるので、核を搭載していないただのミサイルを2、3発、稼働中の原発めがけて打ち込むだけで、わが国は壊滅するでしょう。第二次大戦以前と以後とでは、そこが全く違う。かつては原発なんてものは地球上のどこにも存在しなかったからです。太平洋戦争末期のB29の大群による空襲は有名ですが、今はそのような面倒な手間も原爆も必要とせず、日本のような原発の巣みたいな国(「世界の原発分布図」でネット検索してみなさい。日本は狭い国土が原発で埋まっているのです)の場合、いともかんたんに地獄絵図をつくりだすことができるのです。「わが軍」の優秀な迎撃ミサイル(ずいぶんと高いものにつきそうですが)がそれを完全阻止するから大丈夫だって? 僕はそのようなハリウッド的おとぎ話は信じません。そういう話は軍事オタクの石破あたりとして下さい。「理論上は完璧だったのだが、コンピューターへの僅かな入力ミス、あるいは不具合が原因で、迎撃に失敗しただけです」というような説明を、後でして下さることでしょう。

 要するに、「戦争はもうできない」ということです。日本はこれまで、「戦争を放棄した国」として世界に知られ、どこにも軍事的ちょっかいを出さなかったから、テロの標的にされる心配もなかった。安保法制はその在り方を変えようとするもので、今後じっさいに変わってゆくだろうから、もはや安閑としていられなくなるが、安倍は空想的だから、それによって危険を呼び込む可能性などは、まるで考えていないのです。いや、そのへんは入国監視を強化するとあわてて付け足すかも知れませんが、よけいなことをして、よけいな危険を招き寄せ、だから監視を強化するなんてことは、初めからよけいな話なのです。原発も、「テロへの備え」なんてことは何も考えずにつくられてきたのです。今回の安保関連法案系11本の多数の条文、それが必要だという多数の能書きにも、「原発防護」に触れたものなんか一つもないでしょう。まことにもって上出来な、これは安全保障政策なわけです。

 以上です。「60日ルール」というやつで、参院の決議がどうでも、衆院で再決議されれば成立するから、この「新安保法制」はすでに成立したも同然です。だから次の衆・参院戦で自民党をボロ負けさせ、その後で廃案にするしか、現実的には手がない。あるいは国民・メディア双方が徹底的な政府への監視体制を敷いて、おかしな真似は絶対にさせないようにするかです。

 それにしても、戦後70年という節目の年に、このような度の過ぎた劣悪な政権が国の未来を危うくするような悪法を成立させたというのは、わが国の戦後民主主義と議会政治の終わりを象徴するかような出来事で、安倍の「戦後レジームからの脱却」は、皮肉な意味で実現したと言えそうです。これから始まるのは、先祖返りの「戦前レジーム」でしょうか。その可能性はかなり高いと、僕は思います。われらが日本国憲法は、ヒトラーに蹂躙されたあのワイマール憲法と似た運命を辿ったと、後世の歴史家は評するかもしれません(弁護士や憲法学者を中心に、安保法制に対する違憲訴訟の動きが始まっているようです。最高裁で違憲判決が出れば、それは自動的に失効するわけですが、三権分立とはいうものの、つねに最高裁はこの種の訴訟では権力の側に立ってきたので、下級審ではともかく、最高裁で違憲判決が出るのは望み薄でしょう。卑怯な安倍は例によって例のごとく、最高裁の「お友達人事」を画策しているでしょうし…)。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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